六国史等に見える字(あざな)についての覚え書き




 緒言

 字(あざな)については、以前、「記紀天皇名の注釈的研究」という小稿の中でも、ごく簡単に触れてみたことがある。
 漢語としての“字”は、実名(諱)を敬避するために使用された通称であり、元服の際に附されるものであった。
 この点、日本の場合は、中国のような実名敬避の習俗が存在したようには見えない。
 日本書紀における用例を検討してみると、当時は、成人後に命名された「な」に対して「字」という文字を当てたもののようであった。
 それらは、記紀においては、「亦名」あるいは「更名」などとも表記され得るものであった。
 前稿では、おおよそ、以上のように想定してみたのであるが、“字”に主眼があったわけではないので、考えの及ばないところも少なからずあった。
 そのひとつが、成人後の命名とは考えられない「字」の用例である。
 日本書紀 顕宗天皇即位前紀を見ると、

 天皇父市邊辺押磐皇子及帳内佐伯部仲子、於蚊屋野、爲大泊瀨天皇見殺。因埋同穴。於是、天皇與億計王、聞父見射、恐懼皆逃亡自匿。帳内日下部連使主使主日下部連之名也。 使主、此云於瀰。與吾田彦吾田彦、使主之子也。窃奉天皇與億計王、避難於丹波國余社郡。 使主遂改名字、曰田疾來。尚恐見誅、從茲遁入播磨縮見山石室、而自經死。天皇尚不識使主所之。勸兄億計王、向播磨國赤石郡、倶改字曰丹波小子。就仕於縮見屯倉首。縮見屯倉首、忍海部造細目也。

という一文がある。
 億計王と弘計王の兄弟が難を逃れて身を隠したという記事であるが、「倶改字曰丹波小子」という場合の「字」は、「小子」の字義からして、未成年の時の命名と考えられる。
 これは、成人後の命名と想定された“字”とは、一線を画するものである。
 実際、日本古典文学大系『日本書紀』でも、これを「あざな」とは訓まず、「な」(敬称を添えて「みな」)と訓んでいる。
 この用例で注意すべきは、その前段にある「使主遂改名字、曰田疾來。」という部分である。
 この「名字」は、“名前”というのと同じであり、二文字で一語となっている。(“名”と“字”という二つの概念を併記しているわけではない。)
 続日本紀以降の五国史にも、次のような用例が見受けられる。

 ○続日本紀 天平宝字二年八月朔条
 又勅曰、内相於国、功勲已高。然猶報効未行、名字未加。宜下参議・八省卿・博士等、准古正議奏聞。不得空言所。無濫汚聴覧。

 ○類聚国史 巻六十六(薨卒)天長九年七月(廿八)
 從四位下林朝臣山主卒。正六位上海主之男也。弘仁元年叙外從五位下。十三年入内。任諸陵頭。遷縫殿頭。兼但馬權介。天長六年至正五位下。八年授從四位下。 性平直無愛憎。家之舊臣。國之元老。其先別自八多朝臣之氏。十年有勅追除名字。卒時年八十四。

 ○文徳実録 嘉祥三年五月(五日)
 故老相傳。伊豫國神野郡。昔有高僧名灼然。稱爲聖人。有弟子名上仙。・・・我今出家。常治禪病。雖遣餘習。氣分猶殘。我如爲天子。必以郡名。 爲名字。其年上仙命終。

 ○三代実録 元慶二年九月廿二日条
 但馬國美含郡人從七位上若倭部氏世。貞氏。貞道等三人。賜姓楓朝臣。氏世等。楓朝臣廣永男。文林之兄弟也。 廣永改姓之日。漏脱名字今追而賜之。

 ○三代実録 元慶六年正月十二日条
 是日。右大臣從二位源朝臣多上表曰。臣多言。伏奉今月十日 詔旨。授臣右大臣。處身無地。穹谷万尋。危歩底背。冶氷三寸中謝臣政多擁咽。久偸喉舌之官。 材長輪囷。幸全葭莩之質。豈圖鳳衘乍翥。臣之名字載其先鳴。龍渙周流。臣之斗筲承其渥澤。叩心而畏。刻骨以慙。慙不足萬死而已。

 これらの文中に見られる「名字」は、いずれも“名前”の意味に読み取られる。
 顕宗即位前紀の「倶改字曰丹波小子。」の場合も、前文の「名字」に引きずられる形で、それと同じ意味で「字」を使用したように思われる。
 また、続日本紀 神護景雲二年五月(三日)条には、

 勅、入国問諱、先聞有之。況従令、何曾無避。頃見諸司入奏名籍、或以国主・国継、向朝奏。可不寒心。 或取真人・朝臣立、以氏作。是近冒姓。復用仏・菩薩及聖賢之。毎経聞見、不安于懐。 自今以後、宜勿更然。昔里名勝母曾子不入。其如此等類、有先著者、亦即改換、務従礼典。

という記事がある。
 ここに見られる「字」も、「あざな」と限定するよりは、広く「な」と解した方が自然である。
 直前の文で「名」を取り上げていることからすると、再度、「名」を使用することを嫌って、「字」を採用したようにも思われる。(なお、直後には、「号」も使用している。)
 この記事に見える「名」と「字」について、新日本古典文学大系『続日本紀』の補注29-21では、

 中国では実名を避けるために字(あざな)を使用した。礼記、典礼上には「男子二十、冠而字」とあり、成人の時に字をつける慣習があった。 日本では中国的な意味では必ずしも厳格に使用されていない。書紀允恭七年十二月条では、「姓字」を問うて「名」を答えている用法もある。本条(神護景雲二年五月丙午条)の場合も、「名」と「字」とは明確に区別せずに用いられている。

という解説をしている。
 この補注で取り上げられた允恭紀七年十二月条の記事は、

 讌于新室。天皇親之撫琴。皇后起儛。々既終而、不言禮事。當時風俗、於宴會、儛者儛終、則自對座長曰、奉娘子也。時天皇謂皇后曰、何失常禮也。皇后惶之、復起儛。々竟言、奉娘子。 天皇即問皇后曰、所奉娘子者誰也。欲知姓字。皇后不獲已而奏言、妾弟、弟姫焉。弟姫容姿絶妙無比。其艶色徹衣而晃之。 是以、時人曰衣通郎姫也。天皇之志、存于衣通郎姫。故強皇后而令進。皇后知之、不輙言禮事。

というものであり、名前を意味する用字として、「姓字」、「名」、「号」が使用されている。
 以上のように、やや変則的な事例として、前後の用字に影響される形で、本来、「名」とすべきところに「字」を当てる場合があったと考えておきたい。
 ところで、大和言葉の「あざな」は、いつ頃から使用され始めたものであろうか。
 例えば、本居宣長『古事記伝』(四十之巻)は、仁賢紀に「億計天皇、諱大脚。(注略)字嶋郎。」とあるのを取り上げて、

 さて大脚も嶋郎も共にたゞ亦名なるを、諱と云字と云るは、漢ざまに書るのみなり、古になきことぞ、

と述べているが、それ以上の言及はしていない。
 この点については、手掛かりに乏しく、誰も明確なことは言えないであろう。
 ただ、日本書紀において、命名の時期を考慮して、「諱」や「字」を書き分ける試みが行なわれたことは確かであろう。
 本稿では、訓みは、ともかく、漢語の「字」の意味を意識して使用されたと見られる用例を“字”(あざな)として、話を進めることにしたい。



 第1節

 『国史大辞典』の「あざな」の項を見てみると、

 人名称呼法の一種。もと中国の士大夫の慣俗。男子は二十歳にして、また女子は許嫁すると、いずれも実名(諱、出生直後に命名される名、いわゆる「本名」)のほかに、字(あざな)を称した。 諱も字(あざな)も当初は一字で、実名(諱)と字(あざな)とは、字義上の関連があることを要請された。たとえば孟子は実名は軻、字(あざな)は輿といい、ともに「車」に関係する字(じ)である。 この字(あざな)の制が日本に受け容れられ、平安時代の公家は、大学に入学すると字(あざな)を持つ慣習があった。橘広相(ひろみ)は字(あざな)を朝綾といい、藤原菅根は右生、藤原守義は会山(かいざん)と称した。 これらは二字の字(あざな)であるが、このころ中国では、諱(実名)も字(あざな)も一字から二字へ移行する時期であったので、公家の字(あざな)にも一字のものがあり、その際には苗字の一字と連称して二字とするのが通例で、 紀長谷雄は字(あざな)を紀寛(かん)といい、三善清行は三輝(さんき)、藤原当幹は藤与(とうよ)、源扶義(すけよし)は源叔(げんしゅく)、橘澄清は橘上と称するがごときがこれである。 のちになるほどこの傾向は強く、当然苗字の一字を加えるべきものと思われるようになったらしい。しかし、中国のように、諱との間に(二字の諱の時はその下字との間に)、字義上の関連のある字を字(あざな)として撰ぶ方式は、平安貴族には受け容れられていない。 そして、平安貴族の字(あざな)は、儀礼的なもので、実生活には用いられることもなく、鎌倉時代ころには、自然消滅の有様となった。

という説明が加えられている。
 こうしてみると、日本書紀編纂の頃の“字”と平安朝の“字”とでは、その意味合いに変化が生じているような印象を受ける。
 この点を確かめるために、六国史に見える“字”の用例を抜き出してみると、以下のとおりである。

 [ア-1] 日本書紀 仁賢天皇即位前紀
 億計天皇、諱大脚。更名大爲。自餘諸天皇、不言諱字。而至此天皇、獨自書者、據舊本耳。字嶋郎。弘計天皇同母兄也。

 [ア-2] 日本書紀 孝徳天皇即位前紀
 于時、大伴長德字馬飼。連、帶金靫、立於壇右。

 [ア-3] 日本書紀 孝徳天皇大化五年三月(二十四日)
 蘇我臣日向、日向、字身刺。譖倉山田大臣於皇太子曰、・・・

 [ア-4] 日本書紀 孝徳天皇大化五年四月(二十日)
 於小紫大伴長德連、字馬飼。授大紫、爲右大臣。

 [ア-5] 日本書紀 天智天皇七年二月(二十三日)
 又有伊賀釆女宅子娘、生伊賀皇子。後字曰大友皇子。

 [ア-6] 続日本紀 天平宝字二年八月(二十五日)
 因此論之、准古無匹、汎恵之美、莫美於斯。自今以後、宜姓中加恵美二字。禁暴勝強、止戈静乱。故名曰押勝。朕舅之中、汝卿良尚。故字称尚舅。

 [ア-7] 文徳実録 仁寿三年四月(十四日)
 大内記從五位下和氣朝臣貞臣卒。貞臣字和仁。播磨守從四位上仲世第三子也。

 [ア-8] 文徳実録 斉衡三年四月(廿六日)
 散位外從五位下氷宿禰繼麻呂卒。繼麻呂。字宿榮。右京人。

 [ア-9] 文徳実録 天安二年三月(十四日)
 丹波守從五位上文室朝臣助雄卒。助雄者。中納言從三位直世王之第二子也。字王明。

 [ア-10] 文徳実録 天安二年六月(廿日)
 大學助從五位下山田連春城卒。春城。字連城。右京人也。

 [ア-11] 三代実録 貞観十年二月十八日条
 參議正四位下行右衛門督兼太皇太后宮大夫藤原朝臣良繩卒。良繩。字朝台。左大臣内麿朝臣孫。而正五位下備前守大津之子也。

 [ア-12] 三代実録 貞観十二年二月十九日条
 參議從三位春澄朝臣善繩薨。善繩字名達。左京人也。本姓猪名部造。爲伊勢國員弁郡人。達宦之後。移隷京兆。

 [ア-13] 三代実録 元慶七年六月十日条
 從五位下行丹波介淸内宿祢雄行卒。雄行字淸圖。河内國志紀郡人也。

 ついでに触れておくと、古今和歌集目録には、

 安倍朝臣仲麿一首。旅。
 中務大輔正五位上船守男。靈龜二年八月廿二日乙丑。爲遣唐學生留學生。従四位上安倍朝臣仲麿。大唐光祿大夫散騎常侍。兼御史中丞。北海郡開國公。贈潞州大都督朝衡。 國史云。本名仲麿。唐朝賜姓朝氏名衡字仲滿。性聰敏。好讀書。靈龜二年以選爲入唐留學問生。時年十有六。十九年京兆尹崔日知薦之。下詔褒賞。超拜左補闕。廿一年以親老上請歸。不許。 賦詩曰。慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。皈國定何年。至于天寶十二載。與我朝使參議藤原淸河同船溥歸。任風掣曳。漂泊安南。屬祿山構逆羣盗蜂起。而夷撩放横。劫殺衆類。 同舟遇害者。一百七十餘人。僅遣十餘人。以大暦五年正月薨。時年七十三。贈潞洲大都管。


という記述がある。
 文中、「國史云」として、「字仲滿」とある。
 日本後紀などの逸文である可能性もないわけではない。
 ただ、もしそうだとしても、「唐朝」が賜ったというのであるから、日本における用例とは言い難いであろう。
 それはともかく、こうして、六国史の用例を一瞥してみると、“字”とされる名前の読み方に変化が生じていることに気づかされる。

 ・[ア- 1] 日本書紀 = 「嶋郎」(しまのいらつこ)
 ・[ア- 2] 日本書紀 = 「馬飼」(うまかひ)
 ・[ア- 3] 日本書紀 = 「身刺」(むざし)
 ・[ア- 4] 日本書紀 = ([ア-2]に同じ)
 ・[ア- 5] 日本書紀 = 「大友皇子」(おほとものみこ)
 ・[ア- 6] 続日本紀 = 「尚舅」(しやうきう)
 ・[ア- 7] 文徳実録 = 「和仁」(わに)
 ・[ア- 8] 文徳実録 = 「宿榮」(すくえい)
 ・[ア- 9] 文徳実録 = 「王明」(わうめい)
 ・[ア-10] 文徳実録 = 「連城」(れんじやう)
 ・[ア-11] 三代実録 = 「朝台」(てうだい)
 ・[ア-12] 三代実録 = 「名達」(めいたつ)
 ・[ア-13] 三代実録 = 「淸圖」(せいと)

 ※ 日本書紀の読みは日本古典文学大系本による。続日本紀は新日本古典文学大系本。文徳実録・三代実録の例は、おおよその感覚で読んでみた。

 日本書紀の5例(実質4例)は、いずれも訓読みであり、続日本紀以降の8例は、いずれも音読みである。(大和言葉の音写というわけではなく、純粋に漢字の音読みである。)
 ※ [ア-7] 文徳実録「和仁」は音仮名のようにも見えるが、そうではあるまい。
 仮に、訓読みのもの(あるいは大和言葉によるもの)を“和風通称”、音読みのものを“漢風通称”と呼んでおくことにすると、“和風”から“漢風”へという変化が見られることになる。
 しかも、漢風通称のうち、文徳実録・三代実録の7例については、命名の仕方にも一定の規則性が認められる。

 ・[ア- 7] 文徳実録「和仁」 = 1字目、「和氣朝臣」から「和」を取る。
 ・[ア- 8] 文徳実録「宿榮」 = 1字目、「氷宿禰」から「宿」を取る。
 ・[ア- 9] 文徳実録「王明」 = 1字目、臣籍降下前の「助雄王」から「王」を取る。(続日本後紀承和元年正月〈七日〉条に「正六位上助雄王從五位下。」とある。)
 ・[ア-10] 文徳実録「連城」 = 1字目、「山田連」から「連」を取る。
 ・[ア-11] 三代実録「朝台」 = 1字目、「藤原朝臣」から「朝」を取る。
 ・[ア-12] 三代実録「名達」 = 1字目、本姓「猪名部造」から「名」を取る。
 ・[ア-13] 三代実録「淸圖」 = 1字目、「淸内宿禰」から「淸」を取る。

 すなわち、1字目を氏(うじ)、または、姓(かばね)の中から取ったものと考えられ、『国史大辞典』で言うところの「苗字の一字と連称して二字とすること」に相当する命名法が行われていたように見える。
 なお、[ア-10] 文徳実録「連城」の場合は、実名が「春城」であるから、実名に使用されている「城」が“字”にも使用されていることになる。
 これは、一見、避諱の礼に反しているようにも思えるが、中国には、古くから「二名不偏諱」という考え方があったようである。
 例えば、穂積陳重『忌み名の研究』(147頁)を見ると、

 そもそも名の一部を呼ぶことは必ずしもその名を呼ぶものと考えてはならない。「曲礼」[「礼記」の篇名。こまかい礼儀作法を記したもの]に「二名不偏諱」といい、 その名が二字からなる場合、その名の全部を呼ぶことは避けるべきであるが、その一部はこれを避ける必要はないとしている。

という解説がなされている。
 この考え方に従えば、「春城」そのものは“不可”であるが、「城」一字であれば“可”ということになる。
 また、文字よりも“音”を重視する考え方が存在していたかも知れない。
 続日本紀を見ると、光仁天皇の諱は、その即位前紀などで「白壁」とされているが、延暦四年五月(三日)条には、

 此者、先帝御名及朕之諱、公私触犯。猶不忍聞。自今以後、宜並改避。於是、改姓白髪部為真髪部。山部為山。

という記事があって、こちらでは、「白髪部」が問題とされている。
 この場合、重要なのは、「しらかべ」という“音”であって、「白壁」や「白髪部」という表記の違いは、関係がなかったように見える。
 「春城」の場合も、「はるき」と読むのであろうから、「連城」の「じやう」とは“音”が違ってくる。
 いずれにしても、「城」の共用は、許容される範囲にあったのであろう。
 やや、話が逸れてしまったが、“字”について、六国史全体を俯瞰してみると、

 和風通称  →  漢風通称

という変化が現われており、ここだけを見ると、時代とともに“字”の意味内容にも変遷があったように見える。

 第2節

 六国史の用例は、上述のとおりであるが、それ以外の史料にも目を向けてみると、若干、様相が異なってくる。

 [イ-1] 家伝(上)
 内大臣、諱鎌足、字仲郎、大倭國高市郡人也、

 [イ-2] 行基骨蔵器(大僧正舎利瓶記)
 和上法諱法行、一号行基、薬師寺沙門也、俗姓高志氏、厥考諱才智、字智法君之長子也、本出於百済王子王尓之後焉、

 [イ-3] 万葉集 巻第二(110番歌題詞)
 日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首 女郎字曰大名兒也

 [イ-4] 万葉集 巻第二(126番歌左注)
 大伴田主字曰仲郎 容姿佳艶風流秀絶 見人聞者靡不歎息也

 [イ-5] 万葉集 巻第二(128番歌題詞)
 同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首  ※ 「中郎」は、[イ-4]の「仲郎」と同じ“字”と判断される。

 [イ-6] 万葉集 巻第二(128番歌左注)
 右依中郎足疾贈此歌問訊也  ※ 「中郎」は、[イ-4]の「仲郎」と同じ“字”と判断される。

 [イ-7] 万葉集 巻第二(129番歌題詞)
 大津皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂歌一首 女郎字曰山田郎女也宿奈麻呂宿祢者大納言兼大将軍卿之第三子也

 [イ-8] 万葉集 巻第三(381番歌題詞)
 筑紫娘子贈行旅歌一首 娘子字曰兒嶋

 [イ-9] 万葉集 巻第五(896番歌と897番歌の間「沈痾自哀文」分注)
 扁鵲姓秦字越人 渤海郡人也

 [イ-10] 万葉集 巻第六(966番歌左注)
 右大宰帥大伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也

 [イ-11] 万葉集 巻第六(984番歌題詞)
 豊前國娘子月歌一首 娘子字曰大宅姓氏未詳也

 [イ-12] 万葉集 巻第八(1465番歌題詞)
 藤原夫人歌一首 明日香清御原宮御宇天皇之夫人也 字曰大原大刀自 即新田部皇子之母也

 [イ-13] 万葉集 巻第十六(3786番歌題詞)
 昔者有娘子 字曰櫻兒也

 [イ-14] 万葉集 巻第十六(3788番歌題詞下注)
 娘子字曰縵兒也

 [イ-15] 万葉集 巻第十六(3845番歌左注)
 右歌者傳云 有大舎人土師宿祢水通字曰志婢麻呂也 於時大舎人巨勢朝臣豊人字曰正月麻呂 与巨勢斐太朝臣 名字忘之也嶋村大夫之男也  兩人並此彼皃黒色焉

 [イ-16] 万葉集 巻第十六(3854番歌左注)
 右有吉田連老字曰石麻呂 所謂仁敬之子也

 [イ-17] 万葉集 巻第二十(4479番歌題詞)
 藤原夫人歌一首 浄御原宮御宇天皇之夫人也 字曰氷上大刀自也

 [イ-18] 日本霊異記 上巻二十三縁
 大和国添上郡、有一凶也、其名未詳、字曰瞻保、是難破宮御宇天皇之代、預学生之人也、

 [イ-19] 日本霊異記 中巻十一縁
 聖武天皇御世、紀伊国伊刀郡桑原之狭屋寺、尼等発願、於彼寺備法事、請奈良右京薬師寺僧題恵禅師字曰依網禅師、俗姓依網連、故以為字、奉仕十一面観音悔過、 時彼里有一凶人、姓文忌寸也字云上田三郎矣、天骨邪見、不信三宝、

 [イ-20] 日本霊異記 中巻十九縁
 利苅優婆夷者、河内国人也、姓利苅村主、故以為字、

 [イ-21] 日本霊異記 中巻三十二縁
 我者有桜村物部麿也字号塩舂也、是人存時、不中矢猪、念我当射、舂塩往荷、見之無猪、但矢立於地、里人見咲、号曰塩舂、故以為字也、

 [イ-22] 日本霊異記 下巻十縁
 牟婁沙弥者、榎本氏也、自度無名、紀伊国牟婁郡人故、字号牟婁、

 [イ-23] 日本霊異記 下巻十八縁
 丹治比経師者、河内国丹治比郡人、姓丹治比、故以為字、

 [イ-24] 日本霊異記 下巻二十縁
 粟国名方郡埴村、在一女人、忌部首字曰多夜須子、白壁天皇代、是女奉写法花経於麻殖郡菀山寺、

 [イ-25] 日本霊異記 下巻三十三縁
 有一自度、字曰伊勢沙弥、

 [イ-26] 先代旧事本記 天孫本紀
 妹物部連公布都姫夫人。字御井夫人。亦云石上夫人。此夫人倉梯宮御宇天皇御世。立夫人。亦參朝政奉齋神宮。

 [イ-27] 上宮聖徳法王帝説 裏書
 曾我日向子臣、字無耶志臣、難波長柄豐碕宮御宇天皇之世、任筑紫大宰帥也。

 例えば、[イ-1] 家伝(上)によると、中臣鎌足の“字”が「仲郎」であり、[イ-24]日本霊異記によれば、光仁朝の「女人」の“字”が「多夜須子」であった。
 これをそのままに受け取れば、日本書紀の時代にも漢風通称の使用例があり、続日本紀の時代であっても、和風通称の用例が存在したことになる。
 もちろん、それぞれの云うところが、実際にその通りであったか否かは、別途、考えてみる必要があろう。
 中臣鎌足が生前、本当に「仲郎」と呼ばれていたかどうかは判然としない。
 さりながら、日本霊異記の編纂された頃になっても、和風通称を“字”とする考え方が存在したことは確かであろう。
 その時点では、和風通称、漢風通称の両者ともに“字”と認識されていたことになる。
 こうしてみると、日本における“字”は、時代とともに意味が変遷したと言うよりは、その意味する範囲が広がったと考えた方が良さそうである。
 なお、日本霊異記には、次のような用例も見られる。

 [ウ-1] 日本霊異記 中巻二十一縁
 諾楽京東山、有一寺、号曰金鷲、々々優婆塞、住斯山寺、故以為字、今成東大寺、

 [ウ-2] 日本霊異記 下巻十七縁
 沙弥信行者、紀伊国那賀郡弥気里人、・・・其里有一道場、号曰弥気山室堂、其村人等、造私之堂、故以為字法名曰慈氏禅定堂者

 [ウ-3] 日本霊異記 下巻二十八縁
 紀伊国名草郡貴志里、有一道場、号曰貴志寺、其村人等、造私之寺、故以為字也、

 [ウ-4] 日本霊異記 下巻三十縁
 老僧観規者、俗姓三間名干岐也、紀伊国名草郡人也、・・・先祖造寺、有名草郡能応村、名曰弥勒寺、字曰能応寺也、

 人だけではなく、寺の通称も、また、“字”と呼ばれている。
 ただ、これは、日本霊異記に特有の用法と思われ、その後、一般に普及することはなかったようである。

 第3節

 [イ-1] 家伝(上)や[イ-4] 万葉集に見える「仲郎」は、おそらく、音読して「ちうらう」と呼ばれていたのであろう。
 ただ、[ア-1] 仁賢即位前紀にある「嶋郎」を「しまのいらつこ」と訓んでいることからすると、「なかのいらつこ」と訓んでも一向に差し支えないところである。
 さらに言えば、日本書紀 継体天皇元年三月(十四日)条には、

 「大郎皇子」(おほいらつこのみこ)

という名前も見える。(「いらつこ」は、多くの場合、「郎子」と書かれているのであるが、「郎」一字でも「いらつこ」と訓み得るのである。)
 それでも、なお、「仲郎」を音読したくなるのは、太郎、次郎、三郎・・・といった排行風の通称が奈良朝の半ば以降には、一般化していたように見えるからである。
 正倉院文書(『大日本古文書』編年文書)には、次のような用例が見られる。

 [エ-1] 出銭官人交名(天平勝宝2.1.23)=「次郎掃守」・「大伴次郎

 [エ-2] 借用銭録帳(天平勝宝2.10.22)=「大郎用錢百文」

 [エ-3] 丹裏古文書〈第23号〉(天平勝宝5.6.15)=「謹上六郎・・・」

 [エ-4] 藤原豊成糸進状(天平勝宝年中類収)=「謹狀 三郎侍者

 [エ-5] 雑用銭并丹直銭等注文(天平宝字6.2.4)=「自大郎所受六百文」・「亦請自大郎所錢□□貫」

 [エ-6] 経所食物下帳(天平宝字6.8.12)=「借奉充主典大郎所付乙成

 [エ-7] 安都雄足用銭注文(天平宝字6.12.14)=「右、杉榑二百村作運功食料、遣安都四郎所、杉附勝屋主、遣保良大師殿、給于四郎所、」

 [エ-8] 売料綿下帳(天平宝字6.12.20)=「一百屯附飯高二郎」

 [エ-9] 売料綿并用度銭下帳(天平宝字6.12.20類収)=「屯別六十文少領三郎

 [エ-10] 写経料雑物収納并下用帳(天平宝字6.12.21)=「一百屯付飯高二郎」

 [エ-11] 三島安倍麻呂解(宝亀3.10.23)=「三郎尊侍者邊

 ※ ついでながら、「○郎」以外の排行風通称としては、『楽毅論』(伝光明皇后直筆)に「藤三娘」という署名があり、「光明皇后超日明三昧経卷上奥書御願文」(天平15.5.11)にも、「佛弟子藤三女」という呼称が見える。→補注1

 また、前掲、[イ-19] 日本霊異記には、「聖武天皇御世」として、「字云上田三郎矣」という用例があったし、万葉集には、

 [エ-12] 万葉集 巻第十九(4216番歌左注)
 右大伴宿祢家持弔聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患也

という用例もある。
 これらの「○郎」部分は、音読みに違いなく、中国の“字”を継受したものと想定されるのである。
 彼の地での使用例としては、後漢書 和帝紀十年八月条に、

 太常太山巢堪為司空。

 ※ 「太常」は官名、「太山」は地名、「巢堪」が人名である。

という一文があり、その李賢注に、

 堪字次郎、太山南城人。

と記されている。
 この注記を信用すると、後漢の頃には、「次郎」という“字”があったことになる。
 慎重を期して、注を別個に考えても、李賢注が附された七世紀後半の頃には、そのような理解があったことが確実である。
 奈良朝の用例は、このような中国の“字”に習ったものであろう。
 ところで、“字”とは明記されていないものの、蘇我入鹿が下記のとおり「大郎」・「太郎」と呼ばれている。

 [エ-13] 日本書紀 皇極天皇四年六月(十二日)
 於是、高向臣國押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、應當被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則爲誰空戰、盡被刑乎、言畢解劔投弓、捨此而去。

 [エ-14] 上宮法王帝説
 飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日、蘇我豐浦毛人大臣兒入鹿臣□□林太郎、坐於伊加留加宮山代大兄及其昆弟等合十五王子等悉滅之也。
 飛鳥天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇生廿一年殺於林太郎□□。以明日其父豐浦大臣子孫等皆滅之。

 [エ-15] 家伝(上)
 旻法師撃目留矣、因語大臣云、入吾堂者、无如宗我大郎、・・・然後大臣徐説山田臣曰、大郎暴逆、人神成怨、若同惡相濟者、必有夷宗之禍、公愼察之、・・・賊黨高向國押謂漢直等曰、 吾君大郎已被誅戮、大臣徒然待其誅決耳、爲誰空戰、盡被刑乎、言畢奔走、

 読みとしては、諸書にあるとおり「たいらう」と読むのであろう。
 ただ、継体紀の「大郎皇子」と蘇我入鹿の「大郎」の表記は同じである。
 違う読み方をした根拠を問われた時に何と答えるべきか。
 それは、やはり、中国の影響の有無ということで説明するほかあるまい。
 継体紀の場合は、「いらつこ」という大和言葉に「郎」という漢字を当てていたのに対して、入鹿の場合は、中国で行われていた排行風の通称をそのまま取り入れたということであろう。
 このことは、仏教の受容にも積極的であった蘇我氏の総領という立場を考慮に入れれば、いかにも、あり得そうな話ではある。
 なお、日本書紀以外の五国史における「○郎」の用例としては、次のようなものがある。

 [エ-16] 文徳実録 斉衡元年六月(十三日)
 左大臣正二位源朝臣常薨。大臣。是嵯峨太上天皇子。源氏第三郎。

 [エ-17] 三代実録 貞観五年正月三日条
 大納言正三位兼行右近衞大將源朝臣定薨。・・・定者。嵯峨太上天皇之子也。母百濟王氏。其名慶命。・・・弘仁五年。特蒙明詔。諸皇子未爲親王者。皆賜姓源朝臣。 定是源氏之第六郎也。其源之命氏始於此矣。太上天皇以定。奉淳和天皇爲子。淳和天皇愛之。過所生之子。更賜寵姫永原氏。令爲之母。故世稱定有二父二母焉。

 [エ-18] 三代実録 貞観五年正月廿五日条
 大納言正三位源朝臣弘薨。弘者。嵯峨太上天皇之子也。・・・太上天皇在祚。弘仁五年賜姓源朝臣。弘是源氏之第二郎也。

 [エ-19] 三代実録 貞観八年九月廿二日条
 從五位上行肥後守紀朝臣夏井配土左國。・・・承和初。以善隷書。侍詔於授文堂。就參議小野朝臣篁。受用筆之法。篁歎曰。紀三郎可謂眞書之聖也。

 [エ-20] 三代実録 貞観十年閏十二月廿八日条
 左大臣正二位源朝臣信薨。信朝臣者。嵯峨太上天皇之子。源氏第一郎也。

 ただし、「源氏第○郎」というのは、“字”というよりも、続柄と言った方がしっくり来る用例である。→補注2
 類例としては、中臣氏系図が引用する「延喜本系解状」に、

 [エ-21] 中臣氏系図(延喜本系解状)
 御食子大連公生八男。其第一男内大臣鎌足。初爲藤原朝臣。同大臣舎弟八郎垂目連。是散位大中臣氏彛等之祖。

という用例を見ることができる。
 いずれにせよ、排行風通称「○郎」は、蘇我入鹿の頃から行われ、後漢書〔李賢注〕の用例からすると、当初から“字”と認識されていた可能性も考えられる。
 とはいえ、蘇我入鹿の「大郎」は“字”と明記されていないのであり、正倉院文書などの用例も含めて、確実なことは何も言えない。

 第4節

 公卿補任の六国史と重なる部分にも“字”の用例が少なからず見受けられる。
 やや、範囲を広げて、巻頭から平安朝末期までの用例を抜き出してみると、次のようになろう。

 [オ- 1] 公卿補任 敏達天皇御世 蘇我馬子宿禰 = 「字嶋大臣」
 [オ- 2] 公卿補任 推古天皇御世 蘇我蝦夷臣 = 「字豐浦大臣」
 [オ- 3] 公卿補任 孝德天皇御世 蘇我山田石河麿 = 「字山田大臣」
 [オ- 4] 公卿補任 孝德天皇御世 大伴長德連 = 「字馬養。或鳥養。」
 [オ- 5] 公卿補任 天智天皇御世 蘇我連子臣 = 「字藏大臣」
 [オ- 6] 公卿補任 貞觀二年 春澄善繩 = 「字名達」
 [オ- 7] 公卿補任 元慶八年 橘廣相 = 「字朝綾」
 [オ- 8] 公卿補任 延喜二年 紀長谷雄 = 「字紀寛」
 [オ- 9] 公卿補任 延喜八年 藤菅根 = 「字右生」
 [オ-10] 公卿補任 延喜九年 藤道明 = 「字藤階」
 [オ-11] 公卿補任 延喜十一年 藤興範 = 「字常生」
 [オ-12] 公卿補任 延喜十三年 橘澄淸 = 「字橘上」
 [オ-13] 公卿補任 延喜十七年 三善淸行 = 「字三輝」(「三耀」とする写本あり。)
 [オ-14] 公卿補任 延喜廿一年 藤邦基 = 「字左藤生」
 [オ-15] 公卿補任 延長元年 藤當幹 = 「字藤與」
 [オ-16] 公卿補任 承平四年 紀淑光 = 「字紀三」
 [オ-17] 公卿補任 承平七年 藤顯忠 = 「母大納言湛女(字藏更衣)。」
 [オ-18] 公卿補任 天禄元年 源保光 = 「字王孫」
 [オ-19] 公卿補任 天禄三年 藤守義 = 「字會山」
 [オ-20] 公卿補任 正暦三年 平惟仲 = 「字平昇」
 [オ-21] 公卿補任 正暦五年 源扶義 = 「字源叔」
 [オ-22] 公卿補任 寛仁四年 藤廣業 = 「字藤琳」
 [オ-23] 公卿補任 長元七年 大中臣輔親 = 「字中槐」
 [オ-24] 公卿補任 康平二年 藤隆佐 = 「字藤總」
 [オ-25] 公卿補任 仁平三年 藤朝隆 = 「字藤器」
 [オ-26] 公卿補任 承安元年 平信範 = 「字平能」

 こうして見ると、古い時代に和風通称が集中しており、平安朝に入ると、ほとんどの用例が漢風通称となっていることが分かる。(唯一の例外は、[オ-17] 承平七年条の「藏更衣」である。)
 和風から漢風への交代という点では、六国史の状況に通じるものを感じさせるが、その一方で、和風通称を再確認すると、六国史には見られない独特の形が主流となっている。
 すなわち、「嶋大臣」など、「大臣」という身分呼称を伴った“字”が多くを占めているのである。
 このような形の“字”は、六国史に見ることができない。
 もう少し正確に言うと、「嶋大臣」・「豐浦大臣」といった通称自体は、日本書紀に記載されているが、それを“字”とは呼んでいないのである。
 例えば、「嶋大臣」については、

 [カ-1] 日本書紀 推古天皇二十八年是歳条
 皇太子嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記。

 [カ-2] 日本書紀 推古天皇三十四年五月(二十日)
 大臣薨。仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也。性有武略、亦有辨才。以恭敬三寶、家於飛鳥河之傍。乃庭中開小池。仍興小嶋於池中。故時人曰嶋大臣。

 [カ-3] 日本書紀 舒明天皇即位前紀
 適是時、蘇我氏諸族等悉集、爲嶋大臣造墓、而次于墓所。

 [カ-4] 日本書紀 舒明天皇二年正月(十二日)
 夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子。更名大兄皇子。

 [カ-5] 日本書紀 皇極天皇四年六月(十三日)
 或人説第一謡歌曰、其歌所謂、波魯々々儞、渠騰曾枳擧喩屡、之麻能野父播羅、此即宮殿接起於嶋大臣家、而中大兄、與中臣鎌子連、密圖大義、謀戮入鹿之兆也。

とあり、「豐浦大臣」については、

 [カ-6] 日本書紀 舒明天皇八年七月朔条
 大派王謂豐浦大臣曰、群卿及百寮、朝參巳懈。自今以後、卯始朝之、巳後退之。因以鍾爲節。然大臣不從。

 [カ-7] 日本書紀 皇極天皇三年三月条
 休留、休留茅鴟也。産子於豐浦大臣大津宅倉。

 [カ-8] 日本書紀 皇極天皇三年六月(六日)
 於劒池蓮中、有一莖二萼者。豐浦大臣、妄推曰、是、蘇我臣將榮之瑞也。即以金墨書、而獻大法興寺丈六佛。

とあって、“字”とは記されていない。
 これは、六国史以外の史料をいくつか見てみても同様である。

 [カ-9] 上宮聖徳法王帝説
 少治田宮御宇天皇之世、上宮廐戸豐聰耳命、嶋大臣共輔天下政、而興隆三寶起元興四天皇等寺。
 少治田天皇御世乙丑年五月、聖德王與嶋大臣共謀建立佛法、更興三寶。
 飛鳥天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇生廿一年殺於林太郎□□。以明日其父豐浦大臣子孫等皆滅之。

 [カ-10] 上宮聖徳法王帝説 裏書
 曾我大臣云ハ豐浦大臣云々。
 曾我大臣ハ、推古天皇卅四年秋八月、嶋大臣曾我也。臥病。

 [カ-11] 家伝(上)
 以某月日、遂誅山背大兄於斑鳩之寺、識者傷之、父豊浦大臣慍曰、鞍作如爾癡人、何處有哉、吾宗將滅、憂不自勝、・・・而豊浦大臣猶在、狡賊未平、 即入法興寺爲城、以備非常、公卿大夫悉皆隨焉、使人賜鞍作屍於豊浦大臣、・・・己酉、豊浦大臣蝦夷自盡于其第、

 [カ-12] 紀氏家牒
 馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰豊浦大臣。亦家多貯兵器、俗云武蔵大臣。

 [カ-13] 先代旧事本記 天孫本紀
 妹物部鎌姫大刀自連公。 此連公。小治田豐浦宮御宇天皇御世。爲參政奉齋神宮。 宗我嶋大臣爲妻。生豐浦大臣。名曰入鹿連公。

 また、「藏大臣」については、

 [カ-14] 家伝(下)
 藤原左大臣、諱武智麻呂、左京人也、太政大臣史之長子、其母宗我藏大臣之女也、

という用例があって、やはり“字”とは明記されていない。
 そこで、視点を少しずらして、「○○大臣」という形式の通称の方に注目してみると、公卿補任(平安時代まで)の中にも、下記のような用例が存在している。(実名との組み合わせである「円大臣」や「馬子大臣」は、 通称とも言い難いので掲出しなかった。また、氏との組み合わせである「蘇我大臣」・「惠美大臣」・「吉備大臣」も、一応、除外しておいた。)

 [キ- 1] 公卿補任 孝德天皇御世 阿倍倉橋麿 = 「號大鳥大臣。大鳥大臣子云々」
 [キ- 2] 公卿補任 天武天皇御世 蘇我赤兄臣 = 「號藏大臣」
 [キ- 3] 公卿補任 天平勝寳九(天平寳字元)年 橘朝臣諸兄 = 「號井手左大臣。或西院大臣。」
 [キ- 4] 公卿補任 天平寳字八年 藤原朝臣豊成 = 「號難波大臣」
 [キ- 5] 公卿補任 天平寳字九年 藤原朝臣豊成 = 「號難波大臣」
 [キ- 6] 公卿補任 寳龜二年 藤永手 = 「號長岡大臣」
 [キ- 7] 公卿補任 寳龜八年 藤良繼 = 「號弘福院大臣。或號蜷淵。」
 [キ- 8] 公卿補任 寳龜十二(天應元)年 藤魚名 = 「號川邊大臣」
 [キ- 9] 公卿補任 天應二年 藤魚名 = 「號川邊大臣」
 [キ-10] 公卿補任 天應二年 藤田麿 = 「號蜷淵大臣」
 [キ-11] 公卿補任 延暦八年 藤是公 = 「號牛屋大臣」
 [キ-12] 公卿補任 延暦十五年 藤繼繩 = 「號桃園右大臣」
 [キ-13] 公卿補任 延暦廿五年 神王 = 「號吉野大臣」
 [キ-14] 公卿補任 弘仁三年 藤内麿 = 「號後長岡大臣」
 [キ-15] 公卿補任 弘仁九年 藤園人 = 「號前山科大臣」
 [キ-16] 公卿補任 天長三年 藤冬嗣 = 「號閑院大臣」
 [キ-17] 公卿補任 天長九年 清夏野 = 「號比大臣」
 [キ-18] 公卿補任 承和四年 清夏野 = 「號雙岡大臣」・「號比大臣」
 [キ-19] 公卿補任 承和七年 藤三守 = 「號後山科大臣」
 [キ-20] 公卿補任 承和十年 藤緒嗣 = 「號山本大臣」
 [キ-21] 公卿補任 承和十四年 橘氏公 = 「號井手右大臣」
 [キ-22] 公卿補任 仁壽四年 源常 = 「號東三條左大臣」
 [キ-23] 公卿補任 貞觀九年 藤良相 = 「號西三條大臣」
 [キ-24] 公卿補任 貞觀十年 源信 = 「號北邊大臣」
 [キ-25] 公卿補任 寛平三年 藤基經 = 「號堀川太政大臣」
 [キ-26] 公卿補任 寛平七年 源融 = 「號河原左大臣」
 [キ-27] 公卿補任 寛平八年 藤良世 = 「號致仕大臣」
 [キ-28] 公卿補任 寛平九年 源能有 = 「號近院大臣」
 [キ-29] 公卿補任 昌泰三年 藤高藤 = 「號勸修寺内大臣」
 [キ-30] 公卿補任 昌泰四(延喜元)年 菅道ー = 「奉號菅贈太政大臣」
 [キ-31] 公卿補任 延喜九年 藤時平 = 「號本院大臣(或云中御門左大臣)。」
 [キ-32] 公卿補任 延喜十三年 源光 = 「號西三條右大臣」
 [キ-33] 公卿補任 承平二年 藤定方 = 「號三條右大臣」
 [キ-34] 公卿補任 天慶元年 藤恒佐 = 「號一條右大臣。又號土御門。」
 [キ-35] 公卿補任 天慶八年 藤仲平 = 「號枇杷左大臣」
 [キ-36] 公卿補任 天暦三年 藤忠平 = 「號小一條太政大臣」
 [キ-37] 公卿補任 天德四年 藤師輔 = 「號九條右相府。又號坊城大臣」
 [キ-38] 公卿補任 康保二年 藤顯忠 = 「號富小路右大臣」
 [キ-39] 公卿補任 安和三(天祿元)年 藤在衡 = 「號粟田左大臣」
 [キ-40] 公卿補任 貞元二年 藤兼通 = 「號堀川太政大臣」
 [キ-41] 公卿補任 天元四年 菅文時 = 「菅贈太政大臣孫。故右大辨高視二男。」
 [キ-42] 公卿補任 永延三(永祚元)年 藤賴忠 = 「號三條太政大臣」
 [キ-43] 公卿補任 正暦三年 藤爲光 = 「號後一條太政大臣」
 [キ-44] 公卿補任 正暦四年 源雅信 = 「號一條左大臣」
 [キ-45] 公卿補任 正暦六(長德元)年 源重信 = 「五月八日薨。・・・依葬送以後無警固事。先例云々。富小路右大臣顯忠。一條右大臣恒佐。三條右大臣定方等例也。號六條左大臣。」
 [キ-46] 公卿補任 長德二年 藤道長 = 「○内覧。童随身六人給之九條右大臣例云々。」
 [キ-47] 公卿補任 長德二年 藤伊周 = 「號帥内大臣。又儀同三司。」
 [キ-48] 公卿補任 寛仁五年 藤顯光 = 「號堀川左大臣」
 [キ-49] 公卿補任 保安二年 源俊房 = 「號堀川左大臣」
 [キ-50] 公卿補任 保延二年 藤家忠 = 「號花山院左大臣」
 [キ-51] 公卿補任 保延四年 藤宗忠 = 「號中御門右大臣」
 [キ-52] 公卿補任 仁平四(久壽元)年 源雅定 = 「號中院右大臣」
 [キ-53] 公卿補任 保元二年 藤實能 = 「號德大寺左大臣」
 [キ-54] 公卿補任 平治二(永暦元)年 藤實行 = 「號八條太政大臣」
 [キ-55] 公卿補任 應保二年 藤宗輔 = 「號京極太政大臣。世云蜂飼大臣。」
 [キ-56] 公卿補任 仁安三年 平清盛 = 「號六波羅入道太政大臣」
 [キ-57] 公卿補任 仁安三年 藤宗能 = 「號中御門内大臣」
 [キ-58] 公卿補任 治承三年 平重盛 = 「號小松内大臣」

 孝徳天皇御世条から治承三年条に至まで、数多く存在している。
 つまるところ、「○○大臣」という形の通称は、六国史においては“字”とされず、公卿補任においても、そのほとんどが“字”とされていないのである。
 してみると、この「○○大臣」という形の通称は、もともと、“字”と認識されていなかったのではないかと思えてくる。
 しからば、なぜ、公卿補任において、ごく一部のものだけが“字”とされるに至ったのか。
 そこで、“字”とされている用例を再掲してみると、いずれも、蘇我氏の大臣であることに気づかされる。

 ・[オ-1] 蘇我馬子宿禰 「字嶋大臣」
 ・[オ-2] 蘇我蝦夷臣 「字豐浦大臣」
 ・[オ-3] 蘇我山田石河麿 「字山田大臣」
 ・[オ-5] 蘇我連子臣 「字藏大臣」

 ※ [オ-4] 大伴氏の長徳の場合は、「字馬養。或鳥養。」とあって、「大臣」が伴っていない。

 もしかすると、「○○大臣」という形の通称を“字”としたのは、蘇我氏(石川氏)の関係者であったのかも知れない。
 その場合、公卿補任は、蘇我氏の家牒・本系帳の類を引用し、その用字を忠実に再現したということになろうか。(そういえば、公卿補任 孝徳天皇御世条、蘇我山田石川麿項の「馬子大臣之孫。雄正子臣之子也。」といった続柄は、 日本書紀にも見えない独自の記述であって、やはり、蘇我氏の伝承を参照したかのように見える。)
 ただし、同じ蘇我氏ではあっても、[キ-2] 赤兄臣 の場合は、“字”とされず「號藏大臣」と書かれている。
 この部分に限っては、別の資料から引用したのであろうか。(そもそも、「藏大臣」というのは、[オ-5] 蘇我連子臣の“字”と同じである。このような重複の原因も、引用した資料の違いに求められるかも知れない。)
 ところで、上記のような蘇我氏の家記の存在を示唆するものとして、もうひとつ、聖徳太子伝暦を挙げることができる。
 その下巻には、

 大臣蝦夷臣臥病不朝。私授紫冠於男入鹿。擬大臣位。復呼其弟字。曰物部大臣。々々祖母物部弓削大連之妹。因以爲威也。

という一文が見える。
 ここでも、蘇我入鹿の“弟”が「物部大臣」という通称で呼ばれており、それが“字”とされている。 (この「物部大臣」が何者かという点については、「間接的に天皇号の始用時期とも係わる推論二話」という小稿の中でも取り上げてみたことがある。)
 しかも、日本書紀 皇極天皇二年十月(六日)条には、

 蘇我大臣蝦夷、縁病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。々々之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。

という同様の記事があり、こちらでは、「物部大臣」が“字”と明記されていないのである。
 すなわち、公卿補任における「字○○大臣」と同じ特徴が見て取れる。
 聖徳太子伝暦の成立時期については、

 平安中期、十世紀末から十一世紀にかけて成立した『三宝絵詞』『日本往生極楽記』『本朝月令』『政事要略』『本朝法花験記』などに引用された太子伝が、 現伝本『伝暦』にちかい内容をもつことから、おそらく十世紀中期以前の成立とみてよいであろう。(飯田瑞穂「伝記のなかの聖徳太子」参照。)

とされているが、公卿補任についても、

 公卿補任の成立といふことを、今日我々が公卿補任の内容として考へるもの、即ち詳細な尻付を伴つたものの成立と解するならば、 その年代は応和以降長徳前の三十余年の間に在ると考へられるのである。(土田直鎮「公卿補任の成立」参照。)

とされている。(蛇足ながら、公卿補任は、その後も書き継がれて明治元年に至っている。)
 両者は、ほぼ同じ頃に成立したように思われ、その頃に披見可能となっていた蘇我氏の家記を引用した可能性が考えられるのである。
 このように、蘇我氏の家記の存在がおぼろげながら浮かび上がってくるのであるが、その詳細は杳として不明のままである。
 なお、ここで、「○○大臣」に比較的近い形をした“字”をまとめておくと、下記のようになろう。

 ・[ア- 5] 日本書紀  「後字曰大友皇子」
 ・[イ-12] 万葉集  「字曰大原大刀自」
 ・[イ-17] 万葉集  「字曰氷上大刀自也」
 ・[イ-19] 日本霊異記  「字曰依網禅師」
 ・[イ-20] 日本霊異記  「利苅優婆夷」
 ・[イ-22] 日本霊異記  「牟婁沙弥」
 ・[イ-23] 日本霊異記  「丹治比経師」
 ・[イ-25] 日本霊異記  「字曰伊勢沙弥」
 ・[イ-26] 先代旧事本記  「字御井夫人。亦云石上夫人。」
 ・[イ-27] 上宮聖徳法王帝説 裏書  「字無耶志臣」
 ・[オ-17] 公卿補任  「字藏更衣」

 いずれも、「皇子」や「大刀自」などといった身分呼称が付随している。
 用例の分布としては、時間的に“広く”、数量的に“薄く”といった印象を受ける、
 このような形式の通称を“字”と表現することも、時々あったということであろうか。



 後記

 “字”には、おおよそのところ、和風通称と漢風通称の別があった。
 和風通称は、元来、「な」と呼ばれていたものの一部と思われ、「な」の中でも、特に成人後に命名されたものに対して、「字」という漢字を当てたものと考えられた。
 ※ なお、天皇の場合、成人後、即位前に命名された名前に対して、「年少時之号」あるいは、「小名」などという名称が使われることがあった。 (この点については、「記紀天皇名の注釈的研究」という小稿の中でも触れてみたことがある。)これも、概念としては“字”の範疇に収まるものであろうが、 天皇の即位前という限定があるために、特に、このような名称で呼ばれることとなったのであろう。
 日本書紀編纂の頃までは、主に、この和風通称が“字”とされていたようである。
 一方、漢風通称の嚆矢は、「○郎」という排行風通称であったと思われる。
 蘇我入鹿の「大郎」が“字”と呼ばれたかどうかは不明であるが、藤氏家伝では、中臣鎌足が「字仲郎」とされている。
 その家伝(上)の作者、藤原仲麻呂は、「尚舅」という漢字2文字の“字”を賜与されていた。
 さらに平安朝に入ると、和氣朝臣貞臣の「和仁」のような、氏または姓から1字を取る形式の“字”が盛行するようになった。
 ここで、あらためて考えてみると、和風通称や漢風通称というのは、“字”よりも広い概念であろう。
 その包含関係を正確に言うと、和風通称や漢風通称の一部が“字”であったということになる。
 ざっくりとした図にしてみれば、次のとおりである。

 ※ 「○○大臣」という形の通称は、多くの場合、和風通称の範疇に入るであろうが、[キ-7] の「弘福院」などのように音読みと思われるものもあるので、漢風通称の領域にも、はみ出す部分を描いておいた。
 もっとも、[キ-22] の「東三條」など、音訓混用の用例が出現してくる頃には、和風・漢風の別が意識されることも少なくなっていたのであろう。
 また、「○郎」などの排行風通称についても、すべてが“字”として認識されていた確証がないので、?印の部分を加えておいた。




 補注1 光明子の兄弟の通称について

 光明子が「藤三娘」と自署していたとすれば、その兄弟達も排行風の通称を名乗っていた可能性がある。
 時代は、かなり降ってしまうが、今昔物語集には、次のような用例もある。

 ○巻第二十二 淡海公継四家語 第二
 今昔、淡海公ト申ス大臣御ケリ。実ノ御名ハ不比等ト申ス。大織冠ノ御太郎、母ハ天智天皇ノ御后也。 而ルニ、大織冠失給テ後、公ニ仕リ給テ、身ノ才極テ止事無ク御ケレバ、左大臣マデ成上リ給テ、世ヲ政テゾ御ケル。男子四人ゾ御ケル。太郎ハ武智磨ト申シテ、其ノ人モ大臣マデ成上テゾ御ケル。 二郎ハ房前ノ大臣ト申ケリ。三郎ハ式部卿ニテ、宇合トゾ申ケル。四郎ハ左右京ノ大夫ニテ、磨ト申ケリ。此ノ四人ノ御子ヲ、太郎ノ大臣ハ祖ノ御家ヨリハ南ニ住シ給ケレバ南家ト名付タリ。 二郎ノ大臣ハ祖ノ御家ヨリハ北ニ住給ケレバ北家ト名付タリ。三郎ノ式部卿ハ官ノ武部卿ナレバ式家ト名付タリ。四郎ノ左京ノ大夫ハ官ノ左京ノ大夫ナレバ京家ト名付タリ。

 父の淡海公(不比等)が「太郎」とされ、その子の四兄弟も、それぞれ「太郎、二郎、三郎、四郎」で呼ばれている。
 ただし、これらの「○郎」は、いずれの場合も、通称というよりは、長男や二男というのと同じ「続柄」として使用されているように見える。
 この続柄としての用法は、後で触れる「源氏第○郎」というのと同じであり、比較的新しい用法と考えられなくもない。
 それゆえ、確かなことは何も言えないのであるが、それにしても、光明子のみが「藤三娘」と名乗ったというのも、いかがなものであろうか。
 あくまでも推測に過ぎないが、光明子の兄弟達が「○郎」という通称で呼ばれていた可能性は否定できないように思われる。
 なお、上記説話において、不比等が「太郎」とされているのには、若干、言及が必要であろう。
 そもそも、日本書紀 白雉四年五月(十二日)条に、

 發遣大唐大使小山上吉士長丹、・・・ 學問僧・・・定惠定惠内大臣之長子也。・・・

とあり、続日本紀 養老四年八月(三日)条に、

 是日、右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。・・・大臣、近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也。

とあるとおり、鎌足の長男は定恵であり、不比等は二男であった。
 それにもかかわらず、なぜ上記説話において、不比等が「太郎」とされたのか。
 新日本古典文学大系『今昔物語集』では、

 前話によれば、長男は定恵だが、実父は天智であるためか。

という脚注が付与されている。
 その「前話」(巻第二十二〔第一話〕)を見ると、

 天皇偏ニ此ノ内大臣ヲ寵愛シテ、国ノ政ヲ任セ給ヒ、后ヲ譲リ給フ。其ノ后本ヨリ懐任シテ大臣ノ家ニシテ産ル、所謂ル多峰ノ定恵和尚ト申ス、此レ也。 其ノ後、亦、大臣ノ御子ヲ産メリ。所謂ル淡海公、此レ也。

と記されている。(ついでに言えば、不比等の出自についても同様の所伝があって、例えば、公卿補任 大宝元年条、藤原不比等の項には、「實天智天皇々子云々」とある。)
 この説話の真偽は、確かめようもないが、いずれにせよ、定恵が若いうちに出家していることからすると、第二子の不比等が実質的に長男の立場にあったことは確かであろう。
 ところで、今昔物語集 巻第二十二〔第三話〕には、

 今昔、房前ノ大臣ト申ケル人御ケリ。此ハ淡海公ノ三郎也。

という一文がある。
 しかし、房前が「三郎」であるというのは誤りで、先ほどの巻第二十二〔第二話〕にも、「二郎ハ房前ノ大臣ト申ケリ。」とあるとおり、二男であった。
 念のため、続日本紀を見ても、次のとおりである。

 ・続日本紀 天平9.4.17 「参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。・・・房前、贈太政大臣正一位不比等之第二子也。」
 ・続日本紀 天平9.7.13 「参議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也。」
 ・続日本紀 天平9.7.25 「・・・武智麻呂、贈太政大臣不比等之第一子也。」
 ・続日本紀 天平9.8.5 「参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也。」

 漢字の「二」と「三」を間違えることは、よくあることであって、房前の「三郎」の場合は、単純に筆写の際の書き誤りのように思われる。
 この点、不比等の場合は、「太」と「二」の字形が似ていないし、長男とする所伝は、今昔物語集 巻第十一〔第十四話〕の中にも、

 大織冠、内大臣ニ成上リ給テ失給ヒニケレバ、太郎ニテ淡海公、父ノ御跡継テ、公ニ仕リテ左大臣マデ成給ケリ。

と見え、さらには、政事要略 巻第廿九(荷前)においても、「多武峯墓」の説明の中で、

 淡海公者、内大臣鎌足之長子也。

と記述されている。
 おそらく、単純な書き間違いではなく、不比等を「太郎」とする異伝が発生していたのであろう。

 〈追記〉
 続柄ではなく、“字”としての「○郎」の場合は、実際の続柄と一致しないこともあったようである。
 家伝(上)を見てみると、鎌足は、

 美氣祜卿之長子也、

とされているにも拘わらず、[イ-1]のとおり「字仲郎」と記されている。

 補注2 「源氏第○郎」について

 三代実録には、「源氏第○郎」という表現が4件ほど見られたわけであるが、公卿補任では、これに対応した「嵯峨天皇第○源氏」という表現を見ることができる。

 ・天長八年 源信 「嵯峨天皇第一源氏。母藤井氏(廣井氏)。依弘仁九五八勅書。賜姓貫左京爲戸主。」
 ・天長八年 源常 「嵯峨天皇第三源氏。母更衣飯高氏。弘仁五甲午生。同五五八勅書賜源朝臣姓。貫於右京。」
 ・承和九年 源弘 「嵯峨天皇第二源氏。母上毛野氏。弘仁三壬辰生。」
 ・嘉祥二年 源明 「嵯峨天皇第五源氏。母飯高氏。同常公。」
 ・嘉祥三年 源融 「嵯峨天皇第十二源氏。母大原金子(賜姓貫京職)。弘仁十三年生。淳和帝爲子。棲霞觀大臣之山庄云々。」
 ・貞観五年 源定 「嵯峨第六源氏。淳和八郎。仍世號六八歟。後號四條大納言。號陽院大納言。又賀陽院ーーー。」
 ・貞観六年 源生 「嵯峨天皇第九源氏。母從三位笠繼子。」
 ・貞観十二年 源勤 「嵯峨天皇第十三源氏。融同産弟。」

 こうして見ると、三代実録の「源氏第○郎」が続柄を述べた表現であることは、いよいよ確かなように思われる。
 ところで、公卿補任の用例の中で気になるのは、貞観五年条、源定の「淳和八郎」である。
 嵯峨天皇の皇子が、なぜ、「淳和」であるのか。
 [エ-17] 三代実録、源定の薨伝には、「太上天皇以定。奉淳和天皇爲子。」とあり、淳和天皇の「子」となったことが語られている。
 「淳和」については、これで説明が付くが、しからば、なぜ「八郎」であったのか。
 公卿補任 天長十年条、源定の項には、

 嵯峨第六子(淳和爲八郎)。

という記述が見られる。
 淳和天皇が「八郎」としたというのであるが、それにしても、なぜ8であったのか。
 本朝皇胤紹運録によれば、淳和天皇の皇子は、

 ・恒世親王(母高志内親王)
 ・恒貞親王(母正子内親王)
 ・恒統親王(母正子内親王)
 ・基貞親王(母正子内親王)
 ・良貞親王(母大中臣安子)

の5人で、8とは結び付かない。
 ただ、日本紀略(日本後紀の逸文)、および、続日本後紀には、

 ・日本紀略  天長8.12.10 「是日。皇后誕皇子。」(皇后は、正子内親王。)
 ・日本紀略  天長8.12.29 「新誕皇子於冷泉院殤。」
 ・続日本後紀 承和3.12.13 「淳和院皇太后誕皇子也。」(皇太后は、正子内親王。)
 ・続日本後紀 承和4.1.4   「淳和院皇太后所誕皇子殤焉。」

といった記事があり、淳和天皇(太上天皇)の皇子は、5人だけではなかったようである。
 ※ 続日本後紀 承和二年正月(二十三日)条にも、「是日。後太上天皇幸妃橘氏所誕育皇子爲親王。」という皇子の記事が見えるが、森田悌訳『続日本後紀(上)』では、 これを「本日、淳和太上天皇が寵愛する橘氏(橘船子)の生んだ皇女を内親王(崇子)とした。」と皇女に修正して現代語訳している。同書の「まえがき」によると、「『続日本後紀』は平安時代末期には完本が失われ抄略本が伝わっていたようで、 その後『類聚国史』に由り記事の補充が図られてきたものの、その過程で少なからざる混乱が出来している(遠藤慶太『平安勅撰史書研究』)。重出記事や係年の疑わしい記事が少なくないのはそれに由るが、 先学により校訂や記事の補塡が行われてきている。本書ではその成果に由るとともに、私案により判断を行っているところもある。」ということである。
 この夭逝した2人の皇子を6、7と数えれば、源定を「八郎」と言うことも可能になるが、果たして、いかがであろうか。
 なお、上記、公卿補任 嘉祥三年条では、源融(嵯峨第十二源氏)も、「淳和帝為子。」とされている。
 記録に現われない実子や猶子が別にいた可能性も否定できない。
 ※ 蛇足ながら、続日本後紀承和四年八月(廿六日)条には、「无位正道王於殿上冠焉。即叙從四位下。正道王者。故中務卿三品恒世親王之子。而後太上天皇之孫也。 後太上天皇殊鍾愛。令天皇爲子。毎陪殿上。因有此叙。」という記事があり、淳和太上天皇が早世した恒世親王の子、正道王を鍾愛し、これを仁明天皇の「子」としていたことが知られる。
 また、上記、公卿補任の天長十年条に、源定が「嵯峨第六子」とあるのは、正しくは「嵯峨第六源氏」とすべきところであろう。
 嵯峨天皇の皇子が、すべて源氏となったわけではないので、「第六子」が「第六源氏」とは限らないのである。
 例えば、続日本後紀冒頭(仁明天皇即位前紀)には、

 天皇諱正良。先太上天皇之第二子也。母太皇太后。贈太政大臣正一位橘朝臣淸友之女也。

とあって、仁明天皇が嵯峨天皇の第二子とされている。
 従って、第二子以降、「第○子」と「第○源氏」との間には、ズレが生じているはずである。
 ちなみに、醍醐天皇の皇子、源兼明の場合は、公卿補任 天慶七年条に、

 延木天皇第二源氏(第十六皇子)。母三木贈從三位藤原菅根女(更衣從四位上淑姫)。

とあって、「第十六皇子」が「第二源氏」となっている。



参考文献

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 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之『萬葉集 本文編』(塙書房、昭和38年)

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 飯田瑞穂「伝記のなかの聖徳太子」(同著『聖徳太子伝の研究』、吉川弘文館、2000年、所収。)

 土田直鎮「公卿補任の成立」(同著『奈良平安時代史研究』、吉川弘文館、平成4年、所収。)

 新日本古典文学大系『今昔物語集 三・四』(岩波書店、1993~94年)

 新訂増補國史大系『政事要略 前篇』(吉川弘文館、昭和56年、普及版)

 新訂増補國史大系『日本紀略 前篇』(吉川弘文館、2007年、オンデマンド版)

 全現代語訳森田悌『続日本後紀(上)』(講談社学術文庫、2010年)


めんめ じろう 平成30年1月7日公開)


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