意富多多泥古の系譜の系譜




 序文

 意富多多泥古の系譜には、いくつもの異伝が見られる。
 これを大物主神との続柄に注目しながら、ざっくりと二つの類型に分けて整理してみると、 次のようになるであろう。(本稿で取り上げた史料等は、 文末の参考文献に一括して掲げておいた。 なお、引用にあたっては、字体を再現できず、別の字体に置き換えるなどしたものがある。)

 (ア)大物主神の子とするもの

 [ア-1] 日本書紀 崇神天皇七年八月条
 天皇、即親臨于神淺茅原、 會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。對曰、父曰大物主大神。 母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方天日方武茅渟祇之女也。

 [ア-2] 新撰姓氏録逸文(鴨脚家本、新撰姓氏録抄録)
 賀茂朝臣本系
 大神朝臣同祖、大國主神之後也。子、 大田々禰古命孫、大賀茂都美命一名、大賀茂足尼。奉齋賀茂神社。仍負姓賀茂。

 ※ ここでは、大物主神と大国主神は、同一神として、話を進めることとする。

 (イ)大物主神の何世かの孫とするもの

 [イ-1] 古事記 崇神天皇段(神々の祭祀)
 爾天皇問賜之汝者誰子也、答曰、 僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣、生子、 名櫛御方命之子、飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古白。

 [イ-2] 新撰姓氏録(摂津国神別)神人条
 大國主命五世孫、 大田々根子命之後也。

 [イ-3] 新撰姓氏録(未定雑姓大和国)三歳祝条
 大物主神五世孫、 意富太多根子命之後也。

 ※ 計世法には、始祖を一世として数える方法と、その子を一世として数える方法が存在している。 日本の律令期の計世法については、両者が併用されていたとする説と、 子を一世として数える方法のみが存在したとする説があって、対立しているようである。 焦点は、始祖を一世とする場合が存在したか否かというところにあるのだが、 いずれにしても、子を一世とする考え方の存在を認めるという点では、両者共通しており、 ここでも、ひとまず、子を一世として数える方法に従っておくこととする。→補注1。

 [イ-4] 先代旧事本紀(地祇本紀)
 素戔烏尊
  此尊。與天照太神共誓約。 則所生三女。・・・
 兒 大己貴神 亦名大國主神。亦云大物主神。亦云國造大穴牟遲命。亦云大國玉神。亦云顯見國玉神。 亦云葦原醜雄命。亦云八千矛神。並有八名乎。其子凡有百八十一神也。
  先娶坐宗像奧都嶋神田心姫命。 生一男一女。・・・
  次娶坐邊都宮高降姫神。 生一男一女。・・・
  次娶稻羽八上姫。生一兒。・・・
  次娶高志沼河姫。生一男。・・・
 孫 都味齒八重事代主神
  化爲八尋熊鰐 通三嶋溝杭女活玉依姫。生一男一女。・・・
 三世孫 天日方奇日方命。亦名阿田都久志尼命。此命。娶日向賀牟度美良姫。生一男一女。・・・
 四世孫 健飯勝命 此命。娶出雲臣女子沙麻奈姫。生一男。
 五世孫 健甕尻命。亦名健甕槌命。亦云健甕之尾命。此命。伊勢幡主女賀貝呂姫爲妻。生一男。
 六世孫 豐御氣主命。亦名健甕依命。此命。紀伊名草姫爲妻。生一男。
 七世孫 大御氣主命 此命。大倭國民磯姫爲妻。生二男。
 八世孫 阿田賀田須命。和邇君等祖。次 健飯賀田須命 此命。鴨部美良姫爲妻。生一男。
 九世孫 大田々禰古命。亦名大直禰古命。此命。出雲神門臣女美氣姫爲妻。生一男。
 十世孫 大御氣持命 此命。出雲鞍山祇姫爲妻。生三男。
 十一世孫 大鴨積命 此命。磯城瑞籬朝御世。賜賀茂君姓。次大友主命 此命。同朝御世賜大神君姓。 次田々彦命 此命。同朝御世賜神部直。大神部直姓。

 [イ-5] 粟鹿大神元記
 神祖伊佐那伎命与妹伊佐那美命 二神相生之児、
  合参神、
   大日神。
   次月神。
   次素佐乃乎命。
 此素佐乃乎命登天、 従天降来於出雲樋川上鳥上山、娶伊那多美夜奴斯、名須佐能夜都美弥之女、久斯伊那多比弥生児、 蘇我能由夜麻奴斯、弥那佐牟留比古、夜斯麻斯奴娶大山都美之女、木花知利比売生児、 布波能母知汙那須奴、娶淤迦美之女、日河比売生児、深淵之水夜礼花、娶阿麻乃都刀閇乃知尼生児、 意弥都奴、娶布努都弥美之女、布弖弥美生児、天布由伎奴、娶佐志久斯布刀比売之女、 佐志久斯和可比奴売生児、大国主命、一名、大物主命、亦名、意富阿那母知命、亦名、葦原色袁命、 亦名、八千桙命、亦名、宇都志国玉命、亦名、幸術魂辞代主命、亦名、八嶋男命、 娶天止牟移比売生児、阿米弥佐利命。坐粟鹿太社。 又娶三嶋溝杭耳之女、玉櫛姫生児、溝杭矢瀬姫蹈韛五十鈴姫命、・・・ 次五十鈴依姫命、・・・又娶溝杭耳之孫女、活玉依姫生児、久斯比賀多命、 大神朝臣祖也。・・・此久斯比賀多命、娶宇治夜須姫命生児、阿麻能比賀太命、 妹渟中底仲姫命、・・・
 阿麻能比賀太命娶意富多弊良姫命生児 櫛瓺戸忍速栖浦浦稚日命、児櫛瓺戸忍勝速日命。・・・
 櫛瓺戸忍勝速日命児、 多祁伊比賀都命、亦名、武瓺曽々利命。母曰日向賀牟度美良姫命。・・・
 次伊比加多須命。
 多祁伊比賀都命児、耶美賀乃許理命、 亦名、武瓺折命。母曰出雲臣上祖、沙麻奈姫命。
 耶美賀乃許理命児、宇麻志毛呂尼命、 亦名、櫛瓺凝命。母曰丹波道主王女子、夜加知姫大知姫命。
 宇麻志毛呂尼命児、刀余美気主命、 亦名、云飯片隅命。母曰伊勢幡主命女子、賀具侶姫命。
 刀余美気主命児、意保美気主命、 亦名、云神田々根子命。母曰木国奈具佐彦命女子、大姫命。
 意保美気主命児、大田々祢古命。 母曰賀毛都美良姫命。此大神朝臣等上祖矣。 右大田々祢古命、磯城瑞籬宮御宇初国所知御間城入彦五十瓊殖 天皇御世、所求出来。 乃鎮祭大物主神之祖也矣。一書云、・・・天皇親問曰、汝誰子者乎。 対言、大国主神児、久斯比方命九継之孫、己意富太々祢古、是矣。・・・
 一、大鴨積命。 此賀茂朝臣等祖。
 二、大友主命。 此大神朝臣等祖。
 三、大多彦命。・・・
  右大多彦命、 磯城瑞籬宮御宇初国所知御間城入彦五十瓊殖天皇御世、・・・ 即但馬国朝来郡粟鹿村宿住矣也。
 四、意富弥希毛知命。・・・
  以上四人者、大田々祢古命之児也。

 [イ-6] 三輪宮家系

 ※ 鈴木正信『日本古代氏族系譜の基礎的研究』によると、 三輪宮家系よりも先に大神朝臣本系牒略という系図が作成されていたようである。 ただ、当該部分の世系については、殆ど変わるところがない。 ここでは、比較的名の知られた三輪宮家系の方を掲出しておく。

 本稿では、両者をそれぞれ次のように呼んでおくこととする。

 (ア)大物主神の子とするもの=“親子型系譜”

 (イ)大物主神の何世かの孫とするもの=“子孫型系譜”

 これらの異伝は、ある時期、一斉に作成されたものではあるまい。
 原形が形成されて以降、口承や書写が繰り返される中で、分岐・生成されてきたものであろう。
 しからば、その原形は、どのような形をしていたのか、あるいは、その後、いかなる経過を辿って異伝が出現してきたのか。
 系譜生成の系統図、謂わば“系譜の系譜”を推理してみることにしたい。



 第1章 系譜の書法 

 第1節 大物主神の世系

 意富多多泥古系譜の始祖に位置付けられる大物主神(大国主神)についてであるが、 その世系にも次のような異伝がある。

 (ウ)素戔嗚尊の子とするもの

 [ウ-1] 日本書紀 神代上(第八段本文)
 故素戔嗚尊、立化奇稻田姫、爲湯津爪 櫛、・・・然後、行覓將婚之處。遂到出雲之C地焉。・・・乃相與遘合、而生兒大己貴神。

 (エ)素戔嗚尊の六世孫とするもの

 [エ-1] 古事記 上巻(須佐之男命の大蛇退治)
 故是以其速須佐之男命、・・・ 故、其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。・・・ 兄八嶋士奴美神、娶 大山津見神之女、名木花知流此二字以音。 比賣、生子、布波能母遲久奴須奴神。此神、娶 淤迦美神之女、名日河比賣、 生子、深淵之水夜禮花神。夜禮二字以音。此神、 娶 天之都度閇知泥神、自都下五字以音。 生子、淤美豆奴神。此神名以音。此神、娶 布怒豆怒神此 神名以音。 之女、名布帝耳神、布帝二字以音。 生子、天之冬衣神。此神、娶 刺國大神之女、名刺國若比賣、 生子、大國主神。亦名謂大穴牟遲神、牟遲二字以音。亦名謂葦原色許男神、 色許二字以音。亦名謂八千矛神、 亦名謂宇都志國玉神、宇都志三字以音。并有五名。

 [エ-2] 日本書紀 神代上(第八段一書第一)
 素戔嗚尊、 自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛、乃於奇御戸爲起而生兒、 號C之湯山主三名狹漏彦八嶋篠。・・・此神五世孫、即大國主神。

 [エ-3] 日本書紀 神代上(第八段一書第二)
 是後、以稻田宮主簀狹之八箇耳生兒 眞髪觸奇稻田媛、遷置於出雲國簸川上、而長養焉。 然後、素戔嗚尊、以爲妃而所生兒之六世孫、是曰大己貴命。

 [エ-4] 新撰姓氏録(大和国神別)大神朝臣条
 素佐能雄命六世孫、 大國主之後也。・・・

 また、既出の[イ-4] 先代旧事本紀では“児”、[イ-5] 粟鹿大神元記では“六世孫”となっている。
 このうち、[イ-5] 粟鹿大神元記の該当する部分を、適宜、文字を強調するなどして書き出してみると、次のようになっている。

  此素佐乃乎命・・・ 伊那多美夜奴斯名須佐能夜都美弥之女、 久斯伊那多比弥 生児、 蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴、大山都美之女、 木花知利比売 生児、 布波能母知汙那須奴、 淤迦美之女、日河比売 生児、 深淵之水夜礼花、 阿麻乃都刀閇乃知尼 生児、 意弥都奴、 布努都弥美之女、布弖弥美 生児、 天布由伎奴、 佐志久斯布刀比売之女、佐志久斯和可比奴売 生児、 大国主命、一名、大物主命、・・・

 この系譜について、田中卓「一古代氏族の系譜 ―ミワ支族の移住と降替―」は、

 正格な訓法によると、 大国主命は要するに素佐乃乎命の“御子”に当り、之は奇しくも日本紀の本文の説と一致する。 しかるに日本紀の第一・第二の一書では、古事記と同じく、 大国主命は素戔嗚尊の“六世孫”とするのであつて、かやうに両説の生じた理由は、 この系譜の訓み方の混乱に基くものであらうと考へられる。

と指摘している。
 すなわち、

 A 娶B1 生児C1、娶B2 生児C2、娶B3 生児C3、娶B4 生児C4、娶B5 生児C5、娶B6 生児C6

という記載様式は、通常、主語をAと解して、C1〜C6の六柱は、いずれもAの児と読み取られるのであるが、 粟鹿大神元記の場合は、Aの児はC1、C1の児はC2、C2の児はC3・・・ という具合に主語を遷移させて読まざるを得ないというのである。
 そうして、田中論文は、

 かかる古式書法の存在が、結局、 世代数の理解に二種の解釈を導き、大国主命を素戔嗚尊の子としたり、 或いは六世孫とみなす説を生ぜしめる結果となったのであらう。 この異説発生の理由を推察することのできたのは、実に本書の賜物であつた。

と述べている。
 首肯すべき見解であろう。
 このような「古式書法」の曖昧さを緩和するために、[エ-1] 古事記などでは、「娶」の前に「此神」という代名詞を置いて、主格が直前の神名であることを示している。
さらに徹底しているのは、日本書紀 ~代下第九段(本文)に見える

 時有天石窟所住~、 稜威雄走神之子甕速日~、甕速日神之子熯速日~、熯速日神之子武甕槌~。

という一文で、繁を厭わず、同じ神名を繰り返している。
 また、記紀の主語を固定して解釈しなければならない場面では、 「娶」の前に「又」や「次」などの接続詞を置いて明確化を図っている。
 例えば、孝霊記を見ると、

 此天皇、娶 十市縣主之祖、大目之女、名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。 一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。 一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命。 次日子刺肩別命。次比古伊佐勢理毘古命、亦名大吉備津日子命。次倭飛羽矢若屋比賣。 四柱又娶 其阿禮比賣命之弟、蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命。 次若日子建吉備津日子命。二柱

と記されている。
 それはともかく、意富多多泥古系譜の原型も、この「古式書法」で書かれた系譜であったに違いない。
 その系譜に対する解釈の違いから、“親子型系譜”と“子孫型系譜”が発生したもののように推測されるのである。

 第2節 二種類の解釈

 系譜の「古式書法」=(A 娶B1 生児C1、娶B2 生児C2・・・) という様式に対して発生したと思われる二種類の解釈を、それぞれ、次のように呼んでおくこととする。

 ・主語固定型の解釈 = Aが主語として、すべての「娶○○生児」に係るとする解釈

 ・主語遷移型の解釈 = 「Aの子はC1、C1の子はC2・・・」という具合に主語を遷移させる解釈

 このような二種類の解釈が同時に発生したとは想定し難い。
 どちらかの解釈が先にあって、その後、相当の期間が経過した後に、もう一方の解釈が発生したと考えるのが自然であろう。
 しからば、いずれの解釈が本来のものであったのか。
 漢文としては、主語固定型の解釈をするのが“正格な訓法”であろうから、こちらが先のようにも思えるのだが、 実際に、日本の古い系譜を一瞥してみると、それに反して、多くの場合、主語遷移型の解釈が要請されているように見える。
 例えば、釈日本紀が引く上宮記一云には、

 凡牟都和希王 娶 洷俣那加都比古女子 名弟比賣麻和加 生児 若野毛二俣王 娶 母々思己麻和加中比賣 生児 大郎子 一名意富々等王 妹践坂大中比弥王 弟田宮中比弥 弟布遅波良己等布斯郎女 四人也 此意富々等王 娶 中斯知命 生児 乎非王 娶 牟義都国造名伊自牟良君女子 名久留比賣命 生児 汙斯王 娶伊久牟尼利比古大王児伊波都久和希児伊波智和希児伊波己里和気児麻和加介児阿加波智君 児乎波智君娶余奴臣祖名阿那尓比弥生児都奴牟斯君妹 布利比弥命也 汙斯王 坐弥乎国高嶋宮時 聞此布利比賣命甚美女 遣人召上自三国坂井縣而娶所生 伊波礼宮治天下乎富等大公王也

とあって、記紀のいう“応神天皇五世の孫”と平仄を合わせるためには、 「娶○○生児」の主格を遷移させて読解しなければならないのである。
 また、天寿国繍帳銘を見ても、

 多至波奈等已比乃彌己等 娶 庶妹名孔部間人公主 爲大后坐瀆邊宮治天下 生 名等已刀彌彌乃彌己等 娶 尾治大王之女名多至波奈大女郎 爲后

という同型の文章があって、同様の解釈が必要である。
 そもそも、太田亮『系圖と系譜』が、

 系統に關する談話 ── 上宮記風系譜 ── 豎系圖 ── 横系圖

という展開を想定し、佐伯有清「古代氏族の系譜」も、

 「文章系図」を さらにさかのぼらせると、「口承系譜」の段階があったと考えられる。

と述べているように文字化される以前の系譜は、口承されていたと考えられる。
 さすれば、その頃の様式が文章系譜にも影響を与えたであろうことは、容易に想像されるところである。
 漢文としては異例の主語遷移型の解釈を要する文章は、口承系譜の名残りをとどめたものではないだろうか。
 ところで、上宮記一云の中でも、

 伊久牟尼利比古大王 児 伊波都久和希 児 伊波智和希 児 伊波己里和気 児 麻和加介 児 阿加波智君 児 乎波智君

という部分は、「娶○○生」が抜けて、「児」だけで繋がっている。
 このように、部分的に「娶○○生」が存在しない系譜は、他にも見られる。
 前掲[イ-1] 古事記の場合は、「櫛御方命」以降の世系が「之子」だけで結ばれているし、 応神記(天之日矛)にも、

 於是天之日矛、・・・ 更還泊多遲摩國。即留其國而、娶多遲摩之俣尾之女、名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。 此之子、多遲摩斐泥。此之子、多遲摩比那良岐。此之子、多遲麻毛理。次多遲摩比多訶、次C日子。 三柱此C日子、娶 當摩之灯縺A生子、酢鹿之諸男。 次妹菅竈由良度美。此四字以音。 故、上云多遲摩比多訶、娶 其姪、由良度美、生子、葛城之高額比賣命。 此者息長帶比賣命之御祖。

という類例が見られる。
 さらに、稲荷山鉄剣銘の場合は、

 上祖 名意富比垝 其児 多加利足尼 其児 名弖已加利獲居 其児 名多加披次獲居 其児 名多沙鬼獲居 其児 名半弖比 其児 名加差披余 其児 名乎獲居臣

とあって、「娶○○生」が完全に脱落した形をしている。
 これらの系譜は、系線で繋げば、

 A ─ B ─ C ─ ・・・

という直線的な姿をしており、見た目には、別の形式となるが、その読解には、 依然として「Aの子はB、Bの子はC、・・・」 という遷移的な解釈をしなければならず、基本的に「娶○○生」が存在する場合と変わるところがない。
 この直線的な系譜と「娶○○生」を含む「古式書法」の系譜との関係をどのように捉えるべきか。
 この点については、第3章で、あらためて、考えてみることにしたい。
 ところで、記紀、金石文等に見える下記の文例も、主語遷移型の系譜の範疇に含めて良いように思われる。

 ○安寧記
 師木津日子玉手見命、・・・此天皇、 娶 河俣毘賣之兄、縣主波延之女、阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命。自伊下三字以音。 次大倭日子鉏友命。次師木津日子命。

 ○履中記(后妃皇子女)
 子、伊邪本和氣命、・・・ 此天皇、娶葛城之曾都毘古之子、葦田宿禰之女、名K比賣命、生御子、市邊之忍齒王。 次御馬王。次妹青海郎女、亦名飯豐郎女。三柱。

 ○顕宗記(冒頭)
 伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子、 袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下捌歳也。

 ○雄略紀七年是歳条(分注)
 別本云、田狹臣婦名毛媛者。 葛城襲津彦子、玉田宿禰之女也。

 ○船王後墓誌
 惟船氏 王後首者是船氏中祖  王智仁首児 那沛故首之子也・・・

 ○山ノ上碑
 辛己歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫 黒賣刀自 此 新川臣児 斯多々弥足尼孫 大児臣娶生児 長利僧 母為記定文也 放光寺僧

 ※ さらに付け加えれば、古事記上巻(禊祓と神々の化成)の「故、阿曇連等者、 其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。」 という一文も、系譜に近い主語遷移型の文章である。 また、『和気系図』や『海部系図』などの竪系図も、 同じ続柄(「子」または「児」)を繰り返す文章系譜から発展したものであることが指摘されている。 (例えば、佐伯有清「古代氏族の系譜」など参照。)

 それぞれの該当部分に系線を引いてみると、

 〔安寧記〕
 ┬ 縣主波延 ─ 阿久斗比賣
 │
 └ 河俣毘賣

 〔履中記〕
 ・葛城之曾都毘古 ─ 葦田宿禰 ─ K比賣命

 〔顕宗記〕
 ・伊弉本別王 ─ 市邊忍齒王 ─ 袁祁之石巣別命

 〔雄略紀〕
 ・葛城襲津彦 ─ 玉田宿禰 ─ 毛媛

 〔船王後墓誌〕
 ・王智仁首 ─ 那沛故首 ─ 王後首

 〔山ノ上碑〕
 ・新川臣 ─ 斯多々弥足尼 ─ ○ ─ 大児臣

ということであり、遷移的に読むことが求められている。 (例えば、安寧記の場合でいえば、「河俣毘賣の兄が波延、 波延の娘が阿久斗比賣」という具合に解釈しなければならず、 「河俣毘賣の兄(姉)にして、波延の女(娘)たる阿久斗比賣」と読んでは、間違いとなる。)
 これらの文例も、主語遷移型の文章が、古くから広く用いられていたことを示す痕跡ではなかろうか。
 なお、上記文例の中で注意を惹くのは、船王後墓誌である。
 これによると、帰化系の人々の間でも主語遷移型の文章が作成されていたことが分かる。
 それを口承系譜の伝統に連なるものと見るべきか、はたまた、朝鮮半島の影響を考えるべきか、 現時点では、俄かに判断することはできない。
 この点、やや問題は残るものの、現存する史料を見る限り、 主語遷移型の解釈の方が古くから存在していたように思われる。

 第3節 正格な訓法

 もし、上記のとおりであったとすれば、一方の主語固定型の解釈は、いかなる経緯で発生したのか。
 それは、やはり、漢文の“正格な訓法”がそうさせたのであろう。
 具体的には、中国正史の影響が大きかったように思われる。
 例えば、漢書には、次のような文例がある。

 ・宣帝紀冒頭 「孝宣皇帝,武帝曾孫,戾太子孫也。」
 ・哀帝紀冒頭 「孝哀皇帝,元帝庶孫,定陶恭王子也。」
 ・平帝紀冒頭 「孝平皇帝,元帝庶孫,中山孝王子也。」

 宣帝の場合で言えば、「宣帝は、武帝の曾孫にして、戾太子の孫」ということになる。
 決して、「武帝の曾孫が戾太子であり、戾太子の孫が宣帝である」と言っているわけではない。
 主語は、あくまでも宣帝で固定して解釈しなければならないのである。
 これと同様の文例が日本書紀にも見られる。

 ・顕宗紀冒頭 「弘計天皇更名來目稚子。大兄去來穗別天皇孫也。市邊押磐皇子子也。」
 ・継体紀冒頭 「男大迹天皇更名彦太尊。譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。」
 ・舒明紀冒頭 「息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。」
 ・皇極紀冒頭 「天豐財重日重日、此云伊柯之比。足姫天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、 押坂彦人大兄皇子孫、茅渟王女也。」

 系線を引くと、それぞれ、

 ・大兄去來穗別天皇 ─ 市邊押磐皇子 ─ 弘計天皇
 ・譽田天皇 ─ ○ ─ ○ ─ ○ ─ 彦主人王 ─ 男大迹天皇
 ・渟中倉太珠敷天皇 ─ 押坂彦人大兄皇子 ─ 息長足日廣額天皇
 ・渟中倉太珠敷天皇 ─ 押坂彦人大兄皇子 ─ 茅渟王 ─ 天豐財重日足姫天皇

ということであり、文章としては、主語固定型で解釈しなければ、世系を間違えることとなる。 (継体紀の例については、黛弘道「継体天皇の系譜について ─『釈日本紀』所引上宮記逸文の研究 ─」の中に、「なお、 『古事記』には継体が応神の五世孫とあるが、『日本書紀』には応神五世孫、 彦主人王の子とあるので、継体を記は五世孫、紀は六世孫としたものと考え、 これを慶雲三年の改制と関連させ、記は令制により、紀は格制により造作したものとする説もあるが、 紀は継体が応神の五世孫で、かつ彦主人王の子だといっているのであり、 応神五世孫である彦主人王の子といっているのではないから、 これは紀の文を誤解したものというべきである。」という論述がある。)
 日本書紀には、同様の文例が、さらに、二つほど見られる。

 ・懿徳紀冒頭 「大日本彦耜友天皇、・・・母曰渟名底仲媛命。事代主神孫、鴨王女也。」(鴨王→補注2)
 ・神功紀冒頭 「氣長足姫尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。」

 これらの文章は、各天皇紀の冒頭にあるという共通点からしても、いずれも、主語固定型の解釈をすべきであろう。 (神功紀の文例については、第3章でも触れる。)
 なお、各天皇紀冒頭以外の位置にも、

 ○垂仁紀 五年十月朔条(分注)
 道主王者、 稚日本根子大日々天皇子孫、彦坐王子也。一云、彦湯産隅王之子也。

 ○顕宗紀 元年正月是月条(分注)
 難波小野王、 雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫、磐城王孫、丘稚子王之女也。

といった文例が存在している。
 その他、威奈大村骨蔵器には、

  小納言正五位下威奈卿墓誌銘 并序 卿諱大村檜前五百野宮御宇 天皇之四世後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也

とあって、大村は、宣化天皇四世の孫にして、鏡公の第三子と解されている。 (例えば、『日本古代人名辭典』など参照。)
 また、古事記にも、

 ○景行記(后妃皇子女)
 大帶日子淤斯呂和氣天皇、・・・ 又娶倭建命之曾孫、名須賣伊呂大中日子王自須至呂四字以音。之女、 訶具漏比賣、生御子、大枝王。

という文章があり、文中の「訶具漏比賣」は、同段(倭建命の子孫)に見える

 倭建命 ─ 若建王 ─ 須賣伊呂大中日子王 ─ 迦具漏比賣命

という系譜と照らし合わせると、主語固定型の解釈が必要である。
 ただ、「訶具漏比賣」の場合は、高祖父に当たる景行天皇の妃となったというのであるから、 伝承そのものに何らかの混乱があることは確実である。
 その点で、景行記の文例は、当初から、主語固定型の解釈を意図して書かれたものかどうか判然としない。
 いずれにしても、日本書紀の各天皇紀冒頭の文章が漢書本紀冒頭の影響を受けていることは確かであろう。 (それは、続日本紀においても同様である。→補注3)
 ※ 漢書の影響については、坂本太郎『六国史』などにも言及があり、 以前、「記紀天皇名と通称をめぐって」という小論の中でも、 最後に軽く触れてみたことがある。
 日本において、“正格な訓法”が広まるきっかけは、日本書紀の編纂開始にあったのではないだろうか。
 それは、「古式書法」の系譜の読み方にも影響を与え、主語固定型の解釈が出現するきっかけにもなったと考えられる。
 推測ばかりで、あまり強く主張できるものではないが、そう考えておくことにしたい。
 ここで、これまでに述べてきたことを図式化しておくと以下のようになる。

 (口承系譜)
   ↓
  文章系譜(古式書法)= 主語遷移型の解釈・・・・・・・“子孫型系譜”
   │ 
   │←(正格な訓法の影響)
   │
   └→主語固定型の解釈・・・・・・・・・・・・・・・“親子型系譜”



 第2章  系譜と伝承

 第1節 事代主神の有無

 ここまで、“子孫型系譜”については、これを、ひとまとめにして考えて来たわけであるが、 実際には、それぞれ、異なった世系を伝えている。
 個々の内容を系図風に簡略化してみると、次のようになる。

 [イ-1] 古事記
 ・大物主大神 ─ 櫛御方命 ─ 飯肩巣見命 ─ 建甕槌命 ─ 意富多多泥古

 [イ-2] 新撰姓氏録
 ・大國主命 ─ ○ ─ ○ ─ ○ ─ ○ ─ 大田々根子命

 [イ-3] 新撰姓氏録
 ・大物主神 ─ ○ ─ ○ ─ ○ ─ ○ ─ 意富太多根子命

 [イ-4] 先代旧事本紀
 ・素戔烏尊 ─ 大己貴神 ─ 都味齒八重事代主神 ─ 天日方奇日方命 ─ 健飯勝命 ─ 健甕尻命─ 豐御氣主命 ─ 大御氣主命 ─ 健飯賀田須命 ─ 大田々禰古命

 [イ-5] 粟鹿大神元記
 ・伊佐那伎命 ─ 素佐乃乎命 ─ 蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴 ─ 布波能母知汙那須奴 ─ 深淵之水夜礼花 ─ 意弥都奴 ─ 天布由伎奴 ─ 大国主命 ─ 久斯比賀多命 ─ 阿麻能比賀太命 ─ 櫛瓺戸忍速栖浦浦稚日命 ─ 櫛瓺戸忍勝速日命 ─ 多祁伊比賀都命 ─ 耶美賀乃許理命 ─ 宇麻志毛呂尼命 ─ 刀余美気主命 ─ 意保美気主命 ─ 大田々祢古命

 [イ-6] 三輪宮家系
 ・建速素戔烏命 ─ 大國主命 ─ 都美波八重事代主命 ─ 天事代主籤入彦命 ─ 天日方奇日方命 ─ 飯肩巣見命 ─ 建甕尻命 ─ 豊御氣主命 ─ 大御氣主命 ─ 建飯賀田須命 ─ 大田田根子命

 これらの異伝の発生にも、やはり、時間差があったと考えるのが自然であろう。
 しからば、その生成の順番は、いかなるものであったのか。
 そう考えた時に注目されるのが事代主神の存在である。
 その有無を一覧にすると、

 [イ-1] 古事記 = 無
 [イ-2] 新撰姓氏録 = 不明(ただし、大國主命を始祖としており、事代主神は不在と推定される。)
 [イ-3] 新撰姓氏録 = 不明(ただし、大物主神を始祖としており、事代主神は不在と推定される。)
 [イ-4] 先代旧事本紀 = 有
 [イ-5] 粟鹿大神元記 = 無(ただし、「大国主命」の亦名として、「幸術魂辞代主命」が見える。)
 [イ-6] 三輪宮家系 = 有

という具合になる。(さらに補足しておくと、新撰姓氏録では、左京神別下 石邊公条に「大國主古記 一云、大物主命男、久斯比賀多命之後也。」とあり、山城国神別 石邊公条に「大物主命子、久斯比賀多命之後也。」とあり、それに続く狛人野条に「同命兒、櫛日方命之後也。」 と記されているように、大物主神の子を久斯比賀多命とする所伝が存在しており、 [イ-2]や[イ-3]についても、事代主神不在の系譜であった可能性が大きいと考えられる。)
 ここでは、

 ・事代主神が存在する系譜 =“事代主組込型系譜”

 ・事代主神が存在しない系譜 =“大物主子孫型系譜”

と呼んでおくこととする。
 そのうえで、意富多多泥古が見出される顛末を崇神記で確認しておくと以下のとおりである。

 此の天皇の御世に、疫病多起りて、 人民死にて盡きむと爲き。爾に天皇愁ひ歎きたまひて、神牀に坐しし夜、大物主大神、 御夢に顯れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以ちて、 我が御前を祭らしめたまはば、神の氣起らず、國安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。 是を以ちて驛使を四方に班ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、 河内の美努村に其の人を見得て貢進りき。爾に天皇、「汝は誰が子ぞ。」と問ひ賜へば、 答へて曰ししく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、 名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ。」と白しき。 是に天皇大く歡びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民榮えなむ。」とのりたまひて、 即ち意富多多泥古命を以ちて神主と爲て、御諸山に意富美和の大神の前を拜き祭りたまひき。

 ※ 崇神紀にも、ほぼ同じ内容の記事がある。ただし、大田田根子に大物主神を祭らせると同時に、 市磯長尾市に倭大國魂神を祭らせたことになっている。

 要するに、意富多多泥古は、大物主神の子孫であり、三輪山で大物主神の祭祀を行ったのであった。
 ここに、事代主神の姿は見えないのであり、説話の流れの中にも、入り込む余地がない。
 物語において、此のごとくであったとすれば、その系譜においても、 事代主神が存在しない形の“大物主子孫型系譜”の方が本来の姿ではないかと推測されてくる。
 もちろん、古事記上巻(大国主の神裔)に、

 大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、 事代主神。

とあるように、日本神話において、事代主神が大国主神の子とされていたことは間違いない。
 ただし、「神屋楯比賣命を娶して生める子」であって、 「活玉依毘賣を娶して生める子」の子孫である意富多多泥古とは、系統を異にしていたのである。
 もし、はじめから意富多多泥古の直系の祖先神であったとすれば、 物語中に何かしらの役割をもって登場してくるところであろう。
 ※ 大国主神と大物主神を、本来、別神と考えて、大国主神の子が事代主神であり、 大物主神の子が櫛御方命であったとすることも可能かも知れないが、 確かなことは何も言えない。ここでは、これ以上、詮索しないこととする。

 第2節 神武天皇の皇后

 さて、上記のとおり、事代主神不在の“大物主子孫型系譜”の方が古形であったとすれば、 その後、事代主神は、なぜ挿入されることとなったのか。
 それには、おそらく、神武天皇の皇后、伊須氣余理比賣の出自に関する伝承が影響を与えていたのであろう。
 こちらの伝承についても、いくつかの異伝が存在している。

 (オ)大物主神の子とするもの

 [オ-1] 古事記 神武天皇段(皇后選定)
 然れども 更に大后と爲む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、 「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、 三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比賣、其の容姿麗美しかりき。 故、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便爲れる時、丹塗矢に化りて、 其の大便爲れる溝より流れ下りて、其の美人の富登此の二字は音を以ゐよ。 下は此れに效へ。を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。 此の五字は音を以ゐよ。乃ち其の矢を將ち來て、床の邊に置けば、 忽ちに麗しき壯夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、 名は富登多多良伊須須岐比賣命と謂ひ、亦の名は比賣多多良伊須氣余理比賣 是は其の富登と云ふ事を惡みて、後に名を改めつるぞ。 と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。

 [オ-2] 日本書紀 神代上(第八段一書第六)
 時に、神しき光海に照して、 忽然に浮び來る者有り。・・・是の時に、大己貴神問ひて曰はく、 「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。對へて曰はく、「吾は是汝が幸魂奇魂なり。」といふ。 大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。 今何處にか住まむと欲ふ。」とのたまふ。對へて曰はく、 「吾は日本國の三諸山に住まむと欲ふ。」といふ。故、即ち宮を彼處に營りて、 就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。 此の神の子は、即ち甘茂君等・大三輪君等、又姫蹈韛五十鈴姫命なり。

 [オ-3] 粟鹿大神元記
 ・・・大国主命、 一名、大物主命、・・・又娶三嶋溝杭耳之女、玉櫛姫生児、溝杭矢瀬姫蹈韛五十鈴姫命、 嫁神倭伊波礼毘古天皇生神沼河耳天皇并皇子。次五十鈴依姫命、嫁神沼河耳天皇、 生磯城津彦玉看天皇。又娶溝杭耳之孫女、活玉依姫生児、久斯比賀多命、大神朝臣祖也。・・・

 (カ)事代主神の子とするもの

 [カ-1] 日本書紀 神代上(第八段一書第六)
 又曰はく、事代主神、 八尋熊鰐に化爲りて、三嶋の溝樴姫、或は云はく、玉櫛姫といふに通ひたまふ。 而して兒姫蹈韛五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彥火火出見天皇の后とす。

 [カ-2] 日本書紀 神武天皇即位前紀
 庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、 天皇、正妃を立てむとす。改めて廣く華胄を求めたまふ。時に、人ありて奏して曰さく、 「事代主神、三嶋溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める兒を、 號けて媛蹈韛五十鈴媛命と曰す。是、國色秀れたる者なり」とまうす。天皇スびたまふ。 九月の壬午の朔乙巳に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。

 [カ-3] 先代旧事本紀(地祇本紀)
 孫 都味齒八重事代主神
  化爲八尋熊鰐 通三嶋溝杭女活玉依姫。生一男一女。
  兒 天日方奇日方命 此命。橿原朝御世。勅爲食國政申大夫供奉。
  妹 韛五十鈴姫命 此命。橿原朝立爲皇后誕生二兒。即神渟名河耳天皇。次彦八井耳命是也。
  次妹 五十鈴依姫命 此命。葛城高丘朝立爲皇后誕生一兒。即磯城津彦玉手看天皇也。

 (キ)天事代主籤入彦命の子とするもの

 [キ-1] 三輪宮家系

 このように、伊須氣余理比賣をめぐっては、当人の名前も父母の名前も錯綜しているのであるが、 とにかく出生の経緯と立后のことが語られている。
 ここでは、(オ)の大物主神の子とするものを“大物主外戚型伝承”と呼び、 (カ)および(キ)の事代主神の子とするものを“事代主外戚型伝承”と呼んでおくこととする。 (「外戚」というのは、神武天皇から見た場合の続柄である。)
 いくつかの異伝の中で、意富多多泥古の一族が、本来、伝えていたのは、 恐らく“大物主外戚型伝承”の方であろう。
 “大物主子孫型系譜”と“大物主外戚型伝承”は、早くから結合していたと想定される。 (すなわち、櫛御方命と伊須氣余理比賣が兄妹、または、姉弟となる。)
 さりながら、“事代主外戚型伝承”も、かなり有力であったようで、[カ-2] 日本書紀には、こちらの方が採用されている。
 特に、正式な歴史書である日本書紀の影響力は、大きかったであろうから、 その後、こちらの記述に合わせた系譜が出現してくるのも不思議ではない。
 “大物主子孫型系譜”に事代主神が組み込まれる契機は、この辺に求められるのではないだろうか。
 もともと、日本神話の中に、事代主神を大国主神の子とする伝承も存在していたのだとすれば、 それは、ある意味、自然な流れでもあろう。

 第3節 事代主神の伝承

 ところで、“事代主外戚型伝承”は、当初、何氏が伝えたものであったのか。
 三輪氏の場合、大物主神の子孫として、三輪山で大物主神を奉斎していたことからすれば、 事代主神の場合も、事代主神を祖先とし、奉斎した氏族が一番の候補になるものと思われる。
 この点、日本書紀 天武天皇元年七月条には、

 是より先に、金綱井に軍せし時に、 高市郡大領高市縣主許梅、儵忽に口閉びて、言ふこと能はず。三日の後に、方に神に着りて言はく、 「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。又、身狹社に居る、名は生靈神なり」といふ。 乃ち顯して曰はく、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及種種の兵器を奉れ」といふ。 便ち亦言はく、「吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて環る。 今も且官軍の中に立ちて守護りまつる」といふ。且言はく、「西道より軍衆至らむとす。愼むべし」といふ。 言ひ訖りて醒めぬ。故是を以て、便に許梅を遣して、御陵を祭り拜ましめて、因りて馬及び兵器を奉る。 又幣を捧げて、高市・身狹、二社の神を禮ひ祭る。

とあって、高市県主が事代主神を奉斎していたようにも見える。
 延喜式神名帳にも、

 ○大和國高市郡
 高市御縣坐鴨事代主神社大。 月次新甞。

とあり、古くから高市郡に事代主神を祭神とする神社が存在していたことを窺わせる。
 ただし、高市県主が事代主神の子孫とされていたかどうかは、はっきりとしない。
 次に注目されるのは、三輪氏の同族、賀茂氏である。
 前掲[ア-2] 新撰姓氏録逸文を見ると、

 大田々禰古命孫、 大賀茂都美命一名、大賀茂足尼。奉齋賀茂神社。仍負姓賀茂。

と記されており、賀茂氏が賀茂神社を奉斎していたことが知られる。
 しからば、その賀茂神社の祭神は、何という神であったのか。
 この点、本居宣長『古事記伝』(二十三之巻)は、 賀茂神社を阿遲鉏高日子根神を祭った高鴨社であろうとしながらも、

 此賀茂神社は、 右の高鴨社のみを云か、又式に、同郡鴨都波八重事代主命神社もあり、 此をも合せて云にもあるべし、

と述べている。
 引用文中、「又式に、・・・」というのは、延喜式神名帳に、

 ○大和國葛上郡
 鴨都波八重事代主命神社二座 並名神大。月次相甞新甞。

とあるのを指している。
 本居宣長の言うとおりとすれば、新撰姓氏録編纂の頃には、 賀茂氏が阿遲鉏高日子根神や事代主神を奉斎していたことになる。 (なお、大三輪神三社鎮座次第には、「瑞籬宮御宇天皇御世、大田田根子命孫大賀茂祇命、 承勅立社於葛城邑賀茂地、奉齋事代主命、仍賜加茂君氏、」という一文が見えて、 明確に事代主奉斎のことが述べられている。ただし、『群書解題』によると、 本書は、「一般に鎌倉時代中期の述作にかかる大和国一宮大神神社の古縁起と考えられ、 三輪叢書にもこれを巻頭に掲げているが、紛れもなく後世の偽書である。」とされている。)
 とはいえ、先ほどの[ア-2] 新撰姓氏録逸文には、

 ・大国主神 ─ 大田々禰古命 ─ ○ ─ 大賀茂都美命(賀茂氏の祖)

という世系が記されており、賀茂氏が事代主神の後裔であるとは書かれていない。
 一方で、新撰姓氏録には、

 ・大和国神別 飛鳥直条 「天事代主命後也。」
 ・大和国神別 長柄首条 「天乃八重事代主神之後也。」
 ・和泉国神別 長公条 「大奈牟智神兒、積羽八重事代主命之後也。」

とあって、事代主神の後裔氏族が掲載されている。
 このうち、長柄首と長公については、大和国五郡神社神名帳略解の中に下記のような記述が見える。

 和州五郡 十市・高市・宇智・吉野・宇陀 神社神名帳大略註解巻四補闕上
 十市郡・・・
  押紙十市縣主系圖 希有系圖也、書添此所
 
 ・・・
  雲梯神社
 神名帳云、 大和國高市郡高市御縣坐鴨事代主神社、 在雲梯村神森、
 社家者 長柄首曰、・・・出雲國造神賀詞所謂、 事代主命御魂宇奈提神奈備坐是也、又天武天皇紀所謂、吾者高市社、 或作社、所居、名事代主神、即當社也、

 ここの記述からすると、長柄首は、事代主神の後裔氏族であり、かつ、事代主神を奉斎していたことになる。
 ただ、大和国五郡神社神名帳略解は、文安三年(1446)に製作された旨の奥書を有しており、 その内容の新旧については、何とも判断がつきかねるところである。 (日本古典文学大系本『日本書紀』補注3−21では、 「十市県主系図などの記載をそのまま信ずるわけにはいかないが、 なんらかの古い伝承が系図に残されていると思われる。」と述べている。)
 特に、十市県主系図の鴨主命と大日諸命を父子で繋ぐ部分は、疑問なしとしない。 (大日諸命の女、糸織姫は、綏靖天皇の妾妃とされているが、 同じく綏靖天皇の皇后とされる五十鈴依媛命との世代差があり過ぎるようにも見える。)
 以上、各氏の所伝は、それぞれ、決め手を欠いており、古い時代の“事代主外戚伝承”の担い手は、 はっきりしないのである。
 いずれにせよ、“事代主外戚型伝承”は、日本書紀に採用され、 意富多多泥古の系譜の中に事代主神を組み込ませる原因になったと考えられる。
 ここで、これまでに述べてきたことをまとめてみると、次のようになる。

 “大物主子孫型系譜”・・・・・・・・・(事代主神不在)
   │    +
   │ “大物主外戚型伝承”
   │
   │←(“事代主外戚型伝承”の影響)
   ↓
 “事代主組込型系譜”

 ※ 事代主神を大国主神の子とする神話は、早くから形成されていたと思われる。 ただし、それは、意富多多泥古の直系の祖先ではなく、 傍系に位置づけられるものであったと考えられる。



 第3章 系譜の比較

 第1節 記紀皇統譜

 “子孫型系譜”の中でも、比較的古形をとどめていると思われたのは、“大物主子孫型系譜”であった。
 これについては、

 [イ-1] 古事記
 *大物主大神 ─ 1.櫛御方命 ─ 2.飯肩巣見命 ─ 3.建甕槌命 ─ 4.意富多多泥古

 [イ-5] 粟鹿大神元記(櫛御方命の世代を1世に補正して表示。)
 *大国主命 ─ 1.久斯比賀多命 ─ 2.阿麻能比賀太命 ─ 3.櫛瓺戸忍速栖浦浦稚日命 ─ 4.櫛瓺戸忍勝速日命 ─ 5.多祁伊比賀都命 ─ 6.耶美賀乃許理命 ─ 7.宇麻志毛呂尼命 ─ 8.刀余美気主命 ─ 9.意保美気主命 ─ 10.大田々祢古命

という二つの異伝があった。([イ-2]・[イ-3] 新撰姓氏録も含まれる可能性は大きいが、省略のため、はっきりしない。)
 このうち、より原形に近いのは、どちらであろうか。
 この点を考える上でも、注目されるのが、伊須氣余理比賣の伝承である。
 すなわち、伊須氣余理比賣を接点として、意富多多泥古の系譜と記紀皇統譜との比較が可能となっている。

という図式になるのであるが、意富多多泥古が崇神朝に見出されたとする物語からすれば、 「X=10」とする粟鹿大神元記の方が整合的である。
 別の言い方をすれば、[イ-1] 古事記が、あくまでも独自の伝承であるのに対して、[イ-5] 粟鹿大神元記の方は、記紀皇統譜に世代数を合わせた系譜であると言うことができる。
 その新旧を考えた場合、

 記紀皇統譜に整合的な系譜 → 独自の(不整合な)系譜

という推移よりは、

 独自の(不整合な)系譜 → 記紀皇統譜に整合的な系譜

と考えた方が自然である。
 おそらく、[イ-5] 粟鹿大神元記の原形となった系譜も、[イ-1] 古事記の系譜に近いものであったのだろう。
 それは、記紀皇統譜と比較して、世代数が半分程度のものであったに違いない。
 これに“不満”を持った人々の手によって、増補・伸長が行われたと考えられる。
 ちなみに、“事代主組込型系譜”の世代数は、次のようになっている。(櫛御方命の世代を1世に補正して表示。)

 [イ-4] 先代旧事本紀
 *都味齒八重事代主神 ─ 1.天日方奇日方命 ─ 2.健飯勝命 ─ 3.健甕尻命 ─ 4.豐御氣主命 ─ 5.大御氣主命 ─ 6.健飯賀田須命 ─ 7.大田々禰古命。

 [イ-6] 三輪宮家系
 *天事代主籤入彦命 ─ 1.天日方奇日方命 ─ 2.飯肩巣見命 ─ 3.建甕尻命 ─ 4.豊御氣主命 ─ 5.大御氣主命 ─ 6.建飯賀田須命 ─ 7.大田田根子命

 こちらも、やはり、世代数の増加が見られる。
 ただし、7世代という微妙な世代数である。
 これは、[イ-4] 先代旧事本紀の場合で言えば、

 大鴨積命 此命。磯城瑞籬朝御世。 賜賀茂君姓。次大友主命 此命。同朝御世賜大神君姓。 次田々彦命 此命。同朝御世賜神部直。大神部直姓。

とあるように、大田々禰古命の孫に当たる大鴨積命の世代(補正9世)が 同じく崇神朝の人物とされたことと関係しているように思われる。
 それでも、若干、短めの系譜となるが、10世代も経過すれば、 その間に、数世代のズレが生じたとしても不自然ではない。
 世代数を完全に一致させるまでもなかったのであろう。
 なお、“大物主子孫型系譜”の場合、1世の名前は、「櫛御方」、 あるいは「久斯比賀多」であるが、“事代主組込型系譜”の場合は、 「天日方奇日方」となっていて、「天日方」を結合した形となっている。
 依拠した原系譜の違いが1世の名前の形にも表れていると言うことができるかも知れない。

 第2節 記紀以前の皇統譜

 “大物主子孫型系譜”の中でも、記紀皇統譜の影響を受けて成立したのが[イ-5] 粟鹿大神元記の系譜であったとすると、 [イ-1] 古事記の場合は、何の影響を受けたのであろうか。
 そもそも、古事記自体が10世代の皇統譜を伝える中で、なぜ、4世代の意富多多泥古系譜が採用されたのか。
 そう考えた時に思い浮かぶのは、記紀以前の皇統譜の世代数にも混乱があったのではないかということである。
 古事記序文(第二段)に、

 諸家の賷る帝紀及び本辭、 既に正實に違い、多く虚僞を加ふ

とされていたり、欽明紀二年三月条の分注に、

 帝王本紀に、多に古き字ども有りて、 撰集むる人、屢遷り易はることを經たり。後人習ひ讀むとき、意を以て刊り改む。 傳へ寫すこと既に多にして、遂に舛雜を致す。前後次を失ひて、 兄弟參差なり。

と記されていることは有名であるが、皇統譜の世系にも混乱があったことが想定される。
 先ほど触れた神功皇后の世系についても、神功紀冒頭では、

 氣長足姫尊、 稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。

とあり、主語固定型の解釈の下では、

 *稚日本根子彦大日々天皇 ─ ○ ─ 2.氣長宿禰王 ─ 3.氣長足姫尊

という系譜になる。
 また、仮に、主語遷移型の解釈が正しかったとしても、

 *稚日本根子彦大日々天皇 ─ ○ ─ ○ ─ 3.氣長宿禰王 ─ 4.氣長足姫尊

という世系である。
 これらは、いずれにしても、古事記に見える

 *若倭根子日子大毘毘命 ─ 1.日子坐王 ─ 2.山代之大筒木眞若王 ─ 3.迦邇米雷王 ─ 4.息長宿禰王 ─ 5.息長帶比賣命

という系譜とは一致せず、世系に異伝が発生していたことを示唆するものであろう。
 その他にも、崇神記では、崇神天皇が建波邇安王を

 山代國に在る我が庶兄建波邇安王

と呼んでいるが、孝元記では、

 大倭根子日子國玖琉命、・・・ 又娶河内玉之女、名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。

とあって、建波邇安王は、孝元天皇の子とされている。 (庶兄であれば、建波邇安王は、開化天皇の子でなければならないところである。)
 また、崇神紀十年九月(二十七日)条には、

 天皇の姑倭迹迹日百襲姫命

とあるが、孝霊紀二年二月(十一日)条には、

 妃倭國香媛、 亦名絚某姉。生倭迹々日百襲姫命・・・

とあって、倭迹迹日百襲姫命は、孝霊天皇の子とされている。 (崇神天皇の姑〔ヲバ〕であれば、孝元天皇の子でなければならないところである。)
 さらに言えば、記紀には、次のような記載がある。

 ・綏靖記 「此天皇、娶師木縣主之祖、河俣毘賣、生御子、・・・」
 ・安寧記 「此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女、阿久斗比賣、生御子、・・・」

 ・綏靖紀 「立五十鈴依媛爲皇后。一書云、磯城縣主女川派媛。一書云、春日縣主大日諸女糸織媛也。
 ・安寧紀 「立渟名底仲媛命、亦曰渟名襲媛。爲皇后。 一書云、磯城縣主葉江女川津媛。一書云、大間宿禰女糸井媛。
 ・懿徳紀 「立天豐津媛命爲皇后。一云、磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛。一云、磯城縣主太眞稚彥女飯日媛也。
 ・孝昭紀 「立世襲足媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女渟名城津媛。一云、倭國豐秋狹太媛女大井媛也。
 ・孝安紀 「立姪押媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女長媛。一云、十市縣主五十坂彥女五十坂媛也。

 日本書紀の場合は、それぞれ異伝として採録されているが、磯城県主葉江に注目してまとめると、次のようになる。

 ┬葉江(波延)─┬川津媛(阿久斗比賣) ………… 3.安寧皇后
 │○○(○○)
 │○○(○○)├ 渟名城津媛 ………………… 5.孝昭皇后
 │○○(○○)
 │○○(○○)└ 長媛 ………………………… 6.孝安皇后
 │
 ├川派媛(河俣毘賣)………………………………2.綏靖皇后
 │
 └猪手 ──── 泉媛 ………………………… 4.懿徳皇后

 綏靖天皇〜孝安天皇の5代は、いずれも磯城県主葉江の妹・娘・姪を皇后としたことになる。
 これらの婚姻伝承は、記紀皇統譜の直線的父子相続を前提としていては、発生し得ない伝承であろう。
 かといって、皇統譜を全く無視した伝承というのも考え難い。
 可能性としては、おのずと、兄弟などの傍系相続を含む皇統譜の存在が浮かび上がってくる。
 4世代の意富多多泥古系譜も、このような傍系相続を含む皇統譜の異伝と整合性を持っていたのであろう。

 第3節 日嗣 (皇祖等之騰極次第)

 記紀成立以前、神武天皇〜成務天皇の続柄については、いくつもの異伝が存在していたと想像される。
 その後、記紀の編纂に際して、一貫した父子相続が採用された背景には、いったい何があったのか。
 そう考えた時に思い当たるのが、日嗣、あるいは、皇祖等之騰極次第と呼ばれた簡略系譜の存在である。 (この点については、「皇祖等之騰極次第の注釈的研究」 という小論の中でも考察してみたことがある。)
 日本書紀には、次のような記事が見える。

 ○皇極紀元年十二月(十四日)
 息長山田公、日嗣を誄び奉る。

 ○持統紀二年十一月(十一日)
 直廣肆當摩眞人智コ、 皇祖等の騰極の次第を誄奉る。禮なり。古には日嗣と云す。

 これらの記事から想定される日嗣(皇祖等之騰極次第)とは、 おおよそ以下のようなものであった。

 (1) 「皇祖等之騰極次第」という語義に照らして、歴代天皇名を構成要素とする系譜の類であったと考えられる。
 (2) 殯(モガリ)の場で奉呈された誄 (シノビゴト)であり、おそらく暗誦されたものと考えられる。
 (3) 従って、その内容も、長大で複雑なものには、なり得なかったと考えられる。
 (4) 続柄についても、煩雑を避け、一律に“子”(子孫・一族といった意味も含めた広義の「子」) を使用した定型的な文言を繰り返すものであったと考えられる。

 つまるところ、日嗣(皇祖等之騰極次第)は、血縁を明らかにするというよりは、“騰極の次第” を明らかにしようとするものであって、通常の系譜とは、やや、性質を異にするものであったと考えられたのである。
 このような日嗣(皇祖等之騰極次第)の存在を前提として、記紀編纂時の様子を想像してみると、 父子相続が連続することとなった原因にも、おおよその見当がついてくる。
 神武天皇〜成務天皇の辺りの続柄が錯綜している中で、古事記序文にいう「削僞定實」を行うことは、困難であったに違いない。
 その際、日嗣(皇祖等之騰極次第)の“子”を親子の子と解して収拾を図ったのが、 現在見る記紀皇統譜ではないかと推測されるのである。
 そもそも、歴代天皇の名前の記憶は、比較的強固なものであったに違いない。
 それは、日嗣(皇祖等之騰極次第)や、その他の系譜・物語の中で語られると同時に、 陵墓や宮居などの物理的な構築物とも結び付いて記憶されていたと考えられる。
 陵墓においては、祭祀や管理が行われていたことであろうし、宮居についても、 何らかの用途で使用されている限り、維持管理が行われたはずである。 (また、放棄したにしても、遺構が残ったはずである。)
 いずれの場合も、その陵墓が誰を埋葬したものであったのか、あるいは、 その宮殿が誰の所有であったのか、語り伝えられていたことであろう。 (先に触れた、高市県主許梅の神武天皇陵奉祭記事は、これを裏付けるものとなろう。)
 この点、続柄については、名前ほどに結び付く対象がなく、早くから異伝が生じることになったものと思われる。

 第4節 口承系譜

 それはさておき、4世代の意富多多泥古系譜は、記紀以前の皇統譜の異伝とも結び付いて、 早くから存在していたことが想定されたのである。
 その形態は、[イ-1] 古事記を見る限り、直線的な父子相続の系譜 (ただし、大物主神に限り「娶○○生」という文言が見られる。) となるわけであるが、これを最古形として良いものであろうか。
 というのも、第1章で述べたとおり、

 A 娶B1 生児C1、娶B2 生児C2・・・

という形の「娶○○生」を含む「古式書法」の系譜の存在が想定されていたからである。
 この古式書法の系譜と直線的な系譜との関係は、どのように捉えるべきであろうか。
 そう考えた時に避けて通れないのは、口承系譜の段階である。
 とは言っても、口承系譜は、形に残るものではないため、今となっては、想像を巡らすほかない。
 ここで、思い付いたことを箇条書きにすると以下のようになる。

 ・そもそも、系譜の原初的な形態は、父母や祖父母についての実際の記憶であろう。
 ・近親の人に係る直接の体験は、誰もが記憶しており、その血縁関係を整理すれば、それは、すでに系譜である。
 ・さらに、周囲の人から聞いた間接的な知識を加えて体系化すれば、いよいよ、はっきりとした系譜となる。
 ・このように考えてみると、系譜の原形は、父方、母方、双方に繋がる血縁の連鎖であったと思われる。
 ・ただし、祖先の数は、世代を遡るにつれて、倍々で増えて行く。
 ・何代か遡ると、すべての祖先を記憶することは、急激に難しくなるし、 誰かに伝えようとしても、順序立てて物語ることが困難となるであろう。
 ・それは、聞き手にとっても同様で、聞き取り能力には、おのずと限界がある。
 ・そのため、系譜は、適宜、省略されることになったと考えられる。
 ・仮に、父系社会であったとすれば、当然、そちらの血統が優先され、母方が省略されることになろう。
 ・省略を徹底すれば、母方をすべて省略した直線的な系譜が出現するはずである。

 このような抽象的推論が正しいとすれば、口承系譜の段階で、すでに「古式書法」の原形となる系譜も、 直線的な系譜も、同時並行的に存在していたと想定されてくる。
 両者の違いは、つまるところ、省略の度合いである。
 それは、語る場面に応じて使い分けられるものであって、どちらが先という議論には、なじまない性質のものであろう。
 ここで、これまでに述べてきたことを再確認しておくと以下のようになる。

 (口承系譜)
   ├┐ 
 “大物主子孫型系譜”
   ││
   │└→文章系譜(直線的系譜)
   │    ↓ 
   │  4世代の意富多多泥古系譜・・・(傍系相続を含む皇統譜の異伝と整合性を持つ)
   │
   └→文章系譜(古式書法)
      ││ 
      │“事代主組込型系譜”
      │
      │←│←(記紀皇統譜の影響)
      │
      │└→7世代の 意富多多泥古系譜
      │
      └→10世代の意富多多泥古系譜



 跋文

 [イ-6] 三輪宮家系を見ると、事代主神が二柱に分割されている。

 ─ 都美波八重事代主命 ─ 天事代主籤入彦命 ─

 このうち、天事代主籤入彦命については、よく似た神名が日本書紀 神功皇后摂政前紀にも見えている。

 皇后、吉日を選びて、齋宮に入りて、 親ら神主と爲りたまふ。則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主を喚して、審神者にす。 因りて千渚盾以て、琴頭尾に置きて、請して曰さく、「先の日に天皇にヘへたまひしは誰の神ぞ。 願はくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮りて、乃ち答へて曰はく、・・・ 「天事代虚事代玉籤入彦嚴之事代神有り」と。・・・是に審神者の曰さく、 「今答へたまはずして更後に言ふこと有しますや」と。則ち對へて曰はく、・・・ 問ひまうさく、「亦有すや」と。答へて曰はく、「有ることとも無きこととも知らず」と。 遂に且神有すとも言はず。

 これは、神託の場面を物語ったものであり、 巫女等が神懸かり状態となって発した言葉を「審神者」が聞き取る様子を描写したものであろう。
 この一文は、新たな神名が生成される現場を示唆している。
 神託の際に発せられた言葉の中から、名前とおぼしきものを選別し、 既存の神の亦名と解したり、あるいは、独自の神と解釈して、 新たな神名が生成されていったと考えられるのである。 (場合によっては、祖先の人名も同様に生成されたものと想像される。)
 上記の「天事代虚事代玉籤入彦嚴之事代神」の場合も、曖昧な言葉であり、 どこまでが枕で、どこからが神名であるかは、判断の分かれるところであろう。 (引用したのは、日本古典文学大系本の“訓読文”の方であるが、 “原文”の方は、「於天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代神」という表記になっている。)
 三輪宮家系の場合は、ここから、さらに、手を加えて、「天事代主籤入彦」という神名を生成したものと思われる。 (この作業自体が、机上ではなく、神託の場で行われたものであったのかも知れない。)
 ※ ただし、前にも触れた大神朝臣本系牒略には、「天事代玉籤入彦」とあって、 より神功紀の神名に近い形をしている。三輪宮家系は、「玉」と「主」を書き間違えたのではないだろうか。 この点は、補注2の「鴨王」の表記を考える際ににも参考になるかも知れない。
 系譜が延長される際には、このような神託の言葉から発生した名前を利用することも少なくなかったのであろう。
 それはさておき、本稿で述べてきた意富多多泥古の“系譜の系譜”を図にまとめておくと、以下のようになる。

 *印を付した[イ-2]・[イ-3]について、若干、補足しておくと、 新撰姓氏録は、系譜が省略されており、 どこに位置づけて良いのか分からないというのが正直なところである。
 ただ、「大物主神五世孫」という文言からすると、大物主子孫型系譜であることが想定される。
 また、五世という世系からすると、四世孫とする[イ-1] 古事記に近い。(本居宣長『古事記伝』二十三之巻を見ると、 「意富多々泥古命は、大物主大神の四世孫なるを、姓氏録には、五世孫とあるは、 傳の異なるか、又大物主大神より計へて云るか、古世次を然數へて云る例もあればなり、」と述べて、 依拠した計世法の違いである可能性を指摘しているが、 この点は、上述のとおり、はっきりとしていない。←補注1)
 さらに、付け加えれば、記紀皇統譜(10世代)の影響を受けているとも考え難い。
 従って、位置づける場所は、ある程度、限られてくるのであるが、 直線的な系譜か古式書法の系譜かという点については、これといった手掛かりがない。
 ここでは、取り上げた系譜の多くが母親の名前にも言及していることを踏まえて、 暫定的に、古式書法の系譜の並びに記入しておくこととする。

 付記

 ところで、崇神記(三輪山伝説)を見ると、

 此の意富多多泥古と謂ふ人を、 神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘賣、其の容姿端正しかりき。 是に壯夫有りて、其の形姿威儀、時に比無きが、夜半の時に儵忽到來つ。 故、相感でて共婚ひして共住る間に、未だ幾時もあらねば、其の美人妊身みぬ。 爾に父母其の妊身みし事を恠しみて、其の女に問ひて曰ひけらく、「汝は自ら妊みぬ。 夫无きに何由か妊身める。」といへば、答へて曰ひけらく、 「麗美しき壯夫有りて、其の姓名も知らぬが、夕毎に到來て共住める間に、 自然懷妊みぬ。」といひき。是を以ちて其の父母、其の人を知らむと欲ひて、 其の女に誨へて曰ひけらく、「赤土を床の前に散らし、 閇蘇此の二字は音を以ゐよ。紡麻を針に貫きて、其の衣の襴に刺せ。」 といひき。故、教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、 戸の鉤穴より控き通りて出でて、唯遺れる麻は三勾のみなりき。 爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の從に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。 故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の三勾遺りしに因りて、 其地を名づけて美和と謂ふなり。此の意富多多泥古命は、~君、鴨君の祖。

という一文がある。
 この「神の子」について、日本思想大系本『古事記』の補注(中巻)114は、

 ここでいう「神ノ子」は 大物主大神の子孫の意とも解せられるが、下文に「其の神ノ子とは知りぬ」 とあるから大物主大神の子であることを直接語っているとしなければならない。 上文には意富多ゝ泥古を大物主大神の四世孫とする系譜がみえるから「神ノ子」 すなわち大物主大神の子とするこの伝説は上文の系譜と矛盾している。 ここでの伝説は大物主大神の子とする崇神紀七年八月己酉条の「問大田々根子曰、 汝其誰子。対曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女」 なる所伝と一致し、この方が古い伝承と考えられる。

と解説している。
 確かに、古事記の“三輪山伝説”と[ア-1] 日本書紀の世系は、 「神の子」という点で一致しているが、それが「古い」か否かは、別の問題であろう。
 いわゆる“三輪山伝説”や、それに類する伝承にも、さまざまな異伝が存在している。

 ○神武記(皇后選定)= 上記 [オ-1] 古事記

 ○神代紀(第八段一書第六)= 上記 [カ-1] 日本書紀

 ○崇神紀(十年九月条)
 是の後に、倭迹迹日百襲姫命、 大物主神の妻と爲る。然れども其の神常に晝は見えずして、夜のみ來す。 倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に晝は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。 願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎえ美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ」といふ。 大神對へて曰はく、「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。 願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏に密に異ぶ。 明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り。其の長さ大さ衣紐の如し。 則ち驚きて叫啼ぶ。時に大神恥ぢて、忽に人の形と化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、 「汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。 仍りて大虚を践みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居。 急居、此をば菟岐于と云ふ。則ち箸に陰を撞きて薨りましぬ。 乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を號けて、箸墓と謂ふ。 是の墓は、日は人作り、夜は神作る。・・・

 ○常陸風土記(那賀郡)
 茨城の里。此より北に高き丘あり。 名を晡時臥の山といふ。古老のいへらく、兄と妹と二人ありき。 兄の名は努賀毘古、妹の名は努賀毘唐ニいふ。時に、妹、室にありしに、人あり、 姓名を知らず、常に就て求婚ひ、夜來りて晝去りぬ。遂に夫婦と成りて、一夕に懷妊めり。 産むべき月に至りて、終に小さき蛇を生めり。明くれば言とはぬが若く、 闇るれば母と語る。・・・母、子に告げていへらく、「汝が器宇を量るに、 自ら神の子なることを知りぬ。我が屬の勢は、養長すべからず。父の在すところに從きね。 此にあるべからず」といへり。・・・決別るる時に臨みて、怒怨に勝へず、 伯父を震殺して天に昇らむとする時に、母驚動きて、盆を取りて投げ觸てれば、 子え昇らず。因りて、此の峯に留まりき。・・・

 ○播磨風土記(託賀郡)
 荒田と號くる所以は、此處に在す神、 名は道主日女命、父なくして、み兒を生みましき。盟酒を釀まむとして、田七町を作るに、 七日七夜の間に、稻、成熟り竟へき。乃ち、酒を釀みて、諸の神たちを集へ、 其の子をして酒を捧げて、養らしめき。ここに、其の子、天目一命に向きて奉りき。 乃ち、その父を知りき。後に其の田荒れき。故、荒田の村と號く。

 ○肥前風土記(松浦郡)
 褶振の峯・・・然して、弟日姫子、 狹手彦の連と相分れて五日を經し後、人あり、夜毎に來て、婦と共に寝ね、曉に至れば早く歸りぬ。 容止形貌は狹手彦に似たりき。婦、其を恠しと抱ひて、忍默えあらず、 竊に續麻を用ちて其の人の襴に繋け、麻の隨に尋め往きしに、此の峯の頭の沼の邊に到りて、 寝たる蛇あり、身は人にして沼の底に沈み、頭は蛇にして沼の脣に臥せりき。・・・ 時に弟日姫子の從女、走りて親族に告げしかば、親族、衆を發して昇りて看るに、 蛇と弟日姫子と、竝びに亡せて存らず。ここに、其の沼の底を見るに、但、人の屍のみあり。・・・

 ○山代風土記逸文
 賀茂建角身命、 丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、 次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川のP見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、 川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。 人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を釀みて、 神集へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、 「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、即て酒坏を擧げて、 天に向きて祭らむと爲ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升りき。 乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號く。・・・

 ○新撰姓氏録(大和国神別 大神朝臣)
 初、 大國主神娶三嶋溝杭耳之女玉櫛姫。夜未曙去。未曽晝到。於是玉櫛姫績苧係衣。 至明隨苧尋覔。經於茅渟縣陶邑。直指大和國眞穗御諸山。還視苧遺。 唯有三縈。因之號姓大三縈。

 ○先代旧事本紀(地祇本紀〔大己貴神〕)
 大己貴神乘天羽車大鷲。 而覔妾覔妻偁下下行於茅渟縣。娶大陶祇女子活玉依姫。爲妻。往來之時人非所知。 而密往來之間。女爲姙身之時。父母疑怪問曰。誰人來耶。女子答曰。神人状來。 自屋上零入來坐。共覆臥耳。爾時父母忽欲察顯。續麻作綜。以針釣係神人短裳。 而明旦隨係尋覔。越自鎰穴。經茅渟山入吉野山。留三諸山。 當知大神。則見其綜遺只有三縈號三輪山。謂大三輪神社矣。

 ○先代旧事本紀(地祇本紀〔都味齒八重事代主神〕)= 上記 [カ-3] 先代旧事本紀

 ○粟鹿大神元記
 大国主命、・・・ 又娶三嶋溝杭耳之女、玉櫛姫生児、溝杭矢瀬姫蹈韛五十鈴姫命、・・・ 次五十鈴依姫命、・・・右、大国主神、既雖生両児、猶未明其貌。夜之曙乃去、 曽晝不往来。於是、玉櫛姫、心中懐疑。績綜絲衣、至明漸尋、随綸追覔之時、 其綸経於茅渟陶村、従彼処直指大倭御諸嶽。玉櫛姫乃知大神。然其綸遺留本所、 唯有三廻。因斯号意富美和君姓也。
 
 ○多氏古事記逸文
 崇神天皇之世、 倭迹々媛皇女為大三輪大神婦、毎夜有一壮士、密来暁去。皇女思奇、 以綜麻貫針、及壮士之暁去也、以針貫襴及旦看之、唯有三輪遺器者。 故時人称為三輪村、社名亦然云々

 ※ 多氏古事記逸文については、 日本思想大系本『古事記』の補注(中巻)113のように 土佐風土記逸文所引として紹介される場合も多いが、 日本古典文学大系『風土記』の頭注では、 「恐らくは風土記の文に附記されてあった風土記以外の記事と認められるからここには掲げない。」 としている。

 その概要を一覧にすれば、次のとおりとなろう。

 こうして見ると、崇神記の場合は、神婚説話に地名起源説話が付加されている印象があり、 その点で、比較的新しい形と言えないこともない。
 伝承の古さを判定するのは難しいというのが現状であろう。 (さらに付言しておくと、崇神記の妊娠が発覚した時点で その父親の素性を探索したという文脈の中では、子が誰かという点については焦点が当たっておらず、 神婚説話と意富多多泥古の結び付きは、二次的なものであるようにも見える。)
 つまるところ、4世孫とする系譜よりも「神の子」とする所伝の方が古いという結論にまでは到達し得ないと考えられる。
 なお、日本思想大系本『古事記』の補注(中巻)109では、意富多多泥古の系譜について、 先代旧事本紀や粟鹿大神元記の世系を例示したうえで、

 記の四世孫とは、いずれも食い違う。 下文の「意富多ゝ泥古ト謂ふ人、神ノ子ト知れる」以下の伝説や紀の「父曰大物主大神」の所伝が最も古く、 記の四世孫という系譜伝承をへて次第に系譜に世代数を加えた伝説が形成されたのであろう。

という見通しを述べている。
 時間の経過に比例して世代数も増加するという図式は、簡潔で魅力的であるが、 他の可能性を否定するほどに確かなものでもあるまい。
 本稿で想定した系統図の成り立つ余地は、十分に残されていると言えよう。



 補注1 計世法について

 黛弘道「律令時代に於ける計世法」を見ると、最初に、三世一身法を取り上げて、

 ここにおいて、 かの三世一身法の三世は子・孫・曾孫の三世代を指すのではないかとの疑いが起る。
 しかし私は律令時代の計世法には、 (一)本人より計え起す場合と、(二)子より計える場合との二通りがあり、 三世一身法の場合にはその前者によるものと考えている。

と述べている。
 そして、新撰姓氏録の事例を取り上げて、

 次に『新撰姓氏録』左京皇別下 吉田連条に、
  観松彦香殖稲天皇皇子。 天帯彦国押人命。四世孫。彦国葺命之後也。
とある彦国葺命が同右京皇別下真野臣・ 和邇部、山代国皇別粟田朝臣等の条に、
  天足彦国押人命。三世孫。 彦国葺命之後也。
とあり、また山代国皇別和邇部条に、
  天足彦国押人命。六世孫。 米餅搗大使主命之後也。
とある米餅搗大使主命が 大和国皇別布留宿禰、河内国皇別物部等の条に、
  天足彦国押人命。七世孫。 米餅搗大使主命之後也。
とあるなどは、 三世孫・六世孫を天足彦国押人命の子より起算したもの。 四世孫・七世孫を天足彦国押人命より計え起したものとして 始めて解し得られることではあるまいか。 そうとすれば平安初期に本人を一世として計え起す計世法の存したことを知り得る (この点に関しては関晃氏より御教示に与った)。
 シナでも『史記』「秦紀」に、
  (始皇)子胡亥立、是為二世皇帝。
というような用例のあることを 参考すべきである。

として、二通りの計世法があることを主張している。
 これに対して、田中卓「三世一身法について」では、

 しかし、これは、残念ながら、 黛氏の誤解である。何故なら、羽束首〔二四六〕の条を見ると、
 「天足彦国押人命男、 彦姥津命之後也。」
とあり、丈部〔九六〕の条には、
 「天足彦国押人命孫、比古意祁豆命之 後也。」
と記されてゐる。「比古意祁豆命」は 「彦姥津命」に同じであるから、この命を、天足彦国押人命の「男」とみるか、 「孫」とみるかによつて、当然、一代の差が生じてくる。 要するに、これは世系所伝の異同に由来するのであつて、計世法の差ではない。・・・ 即ち姓氏録の場合も、その計世法は、本人からではなく、 子より起算してゐることが明らかとなり、令制とも一致する。

として、三世一身法についても、

 以上によつて三世一身の“三世”が、 子・孫・曽孫までを指し、本人・子・孫でないことは明瞭となつたであらう。・・・ 補つて言へば「給其一身、伝三世」のことである。

と述べている。
 日本の古代に限ってみれば、子より起算する計世法で統一されていたようにも見えるのであるが、 国外に目を転じると、始皇帝の場合のように本人から起算する事例があり、 その影響が全く無かったとも言い切れないように感じられる。
 現状では、いずれとも判断がつきかねるというのが正確なところであろう。
 なお、これに関連して思い起こされるのは、因幡国伊福部臣古志である。
 この系譜の序文には、「于時延暦三年歳次甲子也。」という年次が記されており、 これが最初の筆録時期とされている。(古写本の書写年代は、 応仁・文明の頃とされている。田中卓「『因幡国伊福部臣古志』の校訂と系図」など参照。)
 そして、序文に続く系譜部分には、

 第一 大己貴命・・・
 第二 五十研丹穂命・・・
 第三 健耳丹穂命・・・
 第四 伊P丹穂命・・・
 第五 天沼名桙命・・・

といった具合に、名前の上に序数が付されている。
 この序数については、一般に、“代”数のこととされているが、「第○代」と明記されているわけではなく、 [イ-4] 先代旧事本紀の例なども参照して見れば、“世”数と言えないこともない。
 もっとも、この序数が延暦三年の当初から付されていたものであるかどうかも不明であり、 後世の付記である可能性は否定できない。
 つまるところ、不確定要素が多く、判断がつきかねると言うのが現状である。

 補注2 鴨王について

 懿徳紀冒頭に見える「鴨王」の表記については、見解が分かれるところであろう。
 例えば、本居宣長『古事記伝』(二十一之巻) を見ると、

 鴨王と云名、心得ず、其故は、 王とは、必皇胤ならでは申さぬ例なるに、事代主神御子に、此名あるべき由なし、 思ふに是は、大和國葛上郡、鴨都波八重事代主命神社か、 高市郡高市御縣坐鴨事代主命神社かの御靈の、顯男に化て、婦人に娶て、生ませる御子なりし故に、 鴨神御子と云意にて、鴨御子と申せしを、名と心得て、鴨王とは書るなるべし、

と述べている。
 この説に従うと、名前不詳の事代主神の子が存在したことになる。
 一方で、横田健一「神功皇后の系譜について」を見ると、

 『書紀』においては、 開化紀に彦坐王としるしているのは、「王」字の所見としては、二番目にはやい。 初見は、懿徳紀に、天皇の母渟名底仲媛命が「事代主神の孫、鴨王の女なり」 とあるのがそれである。ただし、これは北野本、玉屋本、内閣文庫蔵伊勢本は、 「玉」としるしているので、私は、神の孫を王というのはおかしく、 「玉」の方がよいと思う。「王」は天皇の子孫にしか用いられないからである。

と記されている。
 文字の異同という点では、先代旧事本紀(天皇本紀)においても、写本によって、 「鴨王」とするものや「鴨玉」とするものが存在しているようである。 (ちなみに、群書類従本『本朝皇胤紹運録』にも「鴨玉」とある。)
 このような状況の中で、日本古典文学大系本『日本書紀』では、「鴨王」を採用したわけであるが、 『日本古代人名辞典』では、「鴨玉」で項が立てられており、 最終的な結論が出るまでには至っていないものと思われる。
 さらに付け加えれば、本稿でも取り上げた、三輪高宮家系や十市県主系図には、 「鴨主」という表記が見える。(その他、釈日本紀の「帝皇系図」にも 「鴨主」が見える。)
 用字について、「王」、「玉」、「主」の三つの異伝が発生しているわけである。
 いずれの文字を是とすべきか。
 確かに、「王」という称号を皇族以外に付与するのは、異例のことであろうから、 「玉」か「主」の方が自然であるように感じられる。(「玉」と「主」については、 双方ともに「事代主」や「玉櫛姫」といったゆかりの名前もあって、どちらもあり得る状況である。)
 その中では、日本書紀の写本に「玉」があって、「主」が見えないのであれば、 「玉」の方が、若干、有力ということになるのであろうか。
 何ぶん、各写本を精査したわけでもないので、断定的なことは言えないのであるが、 三者の中では、「鴨玉」に最も魅力を感じているというのが現状である。

 補注3 続日本紀の文例に ついて

 続日本紀の即位前紀冒頭にも、主語固定型の解釈が必要と考えられる文章が存在している。

 ・文武即位前紀冒頭 「天之真宗豊祖父天皇、天渟中原瀛真人天皇之孫、日並知皇子尊之第二子也。」
 ・元正即位前紀冒頭 「日本根子高瑞浄足姫天皇、天渟中原瀛真人天皇之孫、日並知皇子尊之皇女也。」
 ・淳仁即位前紀冒頭 「廃帝、諱大炊王。天渟中原瀛真人天皇之孫、一品舍人親王之第七子也。」
 ・光仁即位前紀冒頭 「天皇、諱白壁王、近江大津宮御宇天命開別天皇之孫、田原天皇第六之皇子也。」

 これらの文例は、日本書紀の場合と同様に漢書等の書式の影響を受けたものであろう。
 しかも、続日本紀には、これ以外にも、同型の文例が少なからず見受けられる。

 ・大宝 元.7.21 「是日、左大臣正二位多治比真人嶋薨。・・・大臣、宣化天皇之玄孫、多冶比王之子也。」
 ・和銅 7.4.15 「中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨。小治田朝大徳冠妹子之孫、小錦中毛人之子也。」
 ・養老 元.正.18 「中納言従三位巨勢朝臣麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫、飛鳥朝京職直大参志丹之子也。」
 ・養老 元.3.3 「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。・・・大臣、泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後、難波朝衛部大華上宇麻乃子也。」 (「之後」については、主語遷移型の解釈も出来なくはない。)
 ・神亀 元.6.6 「中納言正三位巨勢朝臣邑治薨。難波朝左大臣大繡徳多之孫、中納言小錦中黒麻呂之子也。」
 ・天平 元.2.13 「長屋王、天武天皇之孫、高市親王之子、」
 ・天平 元.8.9 「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫、少納言小花下安麻呂之子也。」
 ・天平 3.7.25 「大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈従二位安麿之第一子也。」
 ・天平 18.正.27 「正三位牟漏女王薨。贈従二位栗隈王之孫、従四位下美努王之女也。」
 ・天平勝宝 元.閏5.29 「中納言正三位大伴宿禰牛養薨。大徳咋子連孫、贈大錦中小吹負之男。」
 ・天平勝宝 5.3.30 「大納言従二位兼神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈氐麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫、淡海朝中納言大雲比登之子也。」
 ・天平宝字 元.正.6 「前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。・・・大臣、贈従二位栗隈王之孫、従四位下美努王之子也。」
 ・天平宝字 4.6.7 「天平応真仁正皇太后崩。姓藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫、平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。」
 ・天平宝字 5.3.10 「参議正四位下安倍朝臣嶋麻呂卒。藤原朝右大臣従二位御主人之孫、奈良朝中納言従三位広庭之子也。」
 ・天平宝字 5.3.24 「葦原王坐以刃殺人、・・・流多褹嶋。・・・葦原王者、三品忍壁親王之孫、従四位下山前王之男。」
 ・天平宝字 5.4.9 「散位従三位巨勢朝臣閞麻呂薨。難破長柄豊埼朝大臣大繡徳太古曾孫、従五位上小邑治之子也。其伯父中納言正三位邑治養之為子。」
 ・天平宝字 6.7.19 「散位従三位紀朝臣飯麻呂薨。淡海朝大納言贈正三位大人之孫、平城朝式部大輔正五位下古麻呂之長子也。」
 ・天平宝字 6.9.30 「御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。・・・ 年足者、後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志曾孫、平城朝左大弁従三位石足之長子也。」
 ・天平宝字 8.9.18 「軍士石村々主石楯斬押勝、伝首京師。押勝者、近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫、 平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。」
 ・天平神護 元.8.朔 「従三位和気王坐謀反乃誅。・・・和気者一品舎人親王之孫、正三位御原王之子也。」
 ・宝亀 8.8.19 「大和守従三位大伴宿禰古慈斐薨。飛鳥朝常道頭贈大錦中少吹負之孫、平城朝越前按察使従四位下祖父麻呂之子也。」
 ・宝亀 11.3.22 「陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆、殺按察使参議従四位下紀朝臣広純於伊治城。 広純、大納言兼中務卿正三位麻呂之孫、左衛士督従四位下宇美之子也。」
 ・天応 元.6.24 「大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。・・・宅嗣、左大臣従一位麻呂之孫、中納言従三位弟麻呂之子也。」
 ・天応 元.7.16 「右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命廿世之孫、意美佐夜麻之子也。」
 ※ 尊卑分脉を見ると、「∴天御中主尊 ― 天八下尊 ― 天三下尊 ― 天合尊 ― 天八百日尊 ― 天八百万魂尊 ― 津速魂命 ― 市千魂命 ― 居々登魂命 ― ∴天兒屋根尊 ― 天押雲命 ― 天多祢伎命 ― 宇佐津臣命 ― 御食津臣命 ― 伊賀津臣命 ― 梨迹臣命 ― 神聞勝命 ― 久志宇賀主命 ― 國摩大鹿嶋命 ― 臣陜山命 ― 跨耳命(雷大臣)」という世系が記されており、天八下尊を1世として数えた場合、 臣陜山命が19世、跨耳命(雷大臣)が20世となる。
 ・延暦 3.4.19 「参議中宮大夫従四位上紀朝臣家守卒。家守、大納言兼中務卿正三位麻呂之孫、大宰大弐正四位下男人之子也。」
 ・延暦 8.12.22 「参議兵部卿従三位多治比真人長野薨。長野、大納言従二位池守之孫、散位従四位下家主之子也。」
 ・延暦 9.2.18 「大宰員外帥従三位藤原朝臣浜成薨。浜成、贈太政大臣正一位不比等之孫、兵部卿従三位麻呂之子也。」

 主に“薨卒伝”において使用されているのであるが、時代とともに、“正格な訓法”への理解が深まったということであろうか。 (懐風藻葛野王伝にも、「王子者。淡海帝之孫。大友太子之長子也。」という文例が見える。 また、石川年足墓誌には、「武内宿祢命子宗我石川宿祢命十世孫 従三位行左大辨石川石足朝臣長子御史大夫正三位兼神祇伯年足朝臣」とあり、蘇我石川両氏系図には、 「― 武内宿禰 ― 蘇我石河 ― 蘇我満智 ― 蘇我韓子 ― 高麗 ― 稲目 ― 馬子 ― 倉摩呂 ― 連子 ― 安丸 ― 石川石足 ― 年足 ―」 という世系が記されている。)
 さらに、同様の文例として、次のような形もある。

 ・神護景雲 2.6.28 「内蔵頭兼大外記遠江守従四位下高丘宿禰比良麿卒。 其祖沙門詠、近江朝歳次癸亥自百済帰化。父楽浪河内、正五位下大学頭。」
 ・延暦 元.2.3 「参議従三位中宮大夫兼衛門督大伴宿禰伯麻呂薨。祖馬来田、贈内大紫、父道足、平城朝参議正四位下。」
 ・延暦 4.7.17 「刑部卿従四位下兼因幡守淡海真人三船卒。三船、大友親王之曾孫也。祖葛野王正四位上式部卿。父池辺王従五位上内匠頭。」
 ・延暦 4.8.28 「中納言従三位大伴宿禰家持死。祖父大納言贈従二位安麿、父大納言従二位旅人。」
 ・延暦 7.7.28 「前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖国子、小治田朝小徳冠。父意美麻呂、中納言正四位上。」

 こちらの文章では、「孫」・「子」の代わりに、「祖」・「父」を使用している。
 こうすることによって、主語遷移型の誤読を防いだのかも知れない。
 以上のように、続日本紀においては、主語固定型の文例が数多く見られるのに対して、主語遷移型の文例が、ほとんど見られなくなる。
 あえて言えば、次の文例が主語遷移型と言い得るであろうか。

 ・天平神護 2.6.28 「刑部卿従三位百済王敬福薨。其先者、出自百済国義慈王。高市岡本宮馭宇天皇御世、 義慈王遣其子豊璋王及禅広王入侍。洎于後岡本朝廷、義慈王兵敗降唐。・・・ 禅広因不帰国。藤原朝廷賜号曰百済王、卒贈正広参。子百済王昌成、幼年随父帰朝、先父而卒。 飛鳥浄御原御世、贈小紫。子郎虞、奈良朝庭従四位下摂津亮。敬福者、即其第三子也。」
 ・延暦 4.6.10 「右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麿等上表言、臣等、本是、後漢霊帝之曾孫阿智王之後也。」
 ・延暦 9.7.17 「難波高津朝御宇仁徳天皇、以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子亥陽君。 亥陽君子午定君。午定君、生三男。長子味沙、仲子辰尓、季子麻呂。従此而別、 始為三姓。各因所職、以命氏焉。葛井・船・津連等即是也。」

 その他、見落としている文例があるにしても、 主語固定型の使用が優勢となっていることは確かであろう。 (なお、これら主語遷移型の文例が、 いずれも帰化系の氏族に係る記事の中に見えているのは、気にかかるところである。 本文第1章の中で触れた船王後墓誌の例も含めて、 何かしらの背景があるのかも知れない。)
 ついでに述べておくと、続日本紀において少数派となった主語遷移型の文章は、 その後も、わずかながら使用されていたように見える。
 例えば、新撰姓氏録には、

 ・左京皇別上 橘朝臣条 「甘南備眞人同祖。敏達天皇□□難波皇子男、贈從二位栗隈王男、治部卿從四位下美努王。・・・」

など、いくつかの文例があり、三代実録 貞観三年十一月十一日条には、

 先是。 正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿祢善男奏言。書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。 先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。 以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。 倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。・・・ 善男等謹檢家記。事不憑虚。從之。

という記事も見える。
 もっとも、これらは、旧記から引用しただけであって、新たな使用例とは言えないのかも知れない。



参考文献

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 鈴木正信「大神氏の系譜とその諸本」(同著『日本古代氏族系譜の基礎的研究』、東京堂出版、2012年、所収。)

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 新日本古典文学大系『続日本紀 一〜五』(岩波書店、1989〜98年)

 新訂増補國史大系『尊卑分脉 第一篇』(吉川弘文館、2001年、新版)

 日本古典文学大系『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粹』(岩波書店、昭和39年)

 「石川年足墓誌」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 星野良作「蘇我石川両氏系図成立の時期について」(『法政史学』17号、1965年)

 新訂増補國史大系『日本三代實録 前篇』(吉川弘文館、昭和58年、普及版)


め んめ じろう 平成29年5月3日公開)


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