記紀天皇名と通称をめぐって




 序文

 日本書紀の内題に掲出されている天皇名と古事記各天皇段の冒頭に使用されている天皇名は、ほぼ、同じ形をしている。 (用字は、それぞれであるが、読みは、ほぼ、同じである。)
 違いが大きい清寧天皇の場合でも、

 日本書紀 = 「白髮 武廣國押稚 日本 根子」
 古事記 = 「白髮 大○○○○ 根子」

といった具合であり、共通部分がしっかりとあって、全く異なった形となっているものはない。
 このような天皇名を“正式名”と呼ぶことにすると、その“正式名”の多くは、ある一定の形をしていることに気づかされる。
 筆者は、以前、「記紀天皇名の注釈的研究」 という小論の中で、 その類型を“前補後元名”と名付けてみたことがある。
 この類型の名前は、実名(出生直後の命名)に美称・地名が増補された形をしており、 増補部分は、 実名の前方に付加されるという特徴を持っている。
 数式風に表現すると、

 (美称・地名)+ 実名

ということになる。
 最も分かりやすいのは、雄略天皇の「大泊P幼武」であろう。
 この名前は、

 ( 美称・地名 = 大泊P ) + ( 実名 = 幼武 )

という具合に分解することができる。
 他の“前補後元名”も同様に分解すると、次のようになる。(日本書紀内題の“正式名”を抜き出してみた。初期の天皇名は、 中間に「彦」という称号が入っているが、類型としては、“前補後元名”の中に含めることができる。)

 ・安寧 「磯城津 + 彦 + 玉手看」
 ・懿徳 「大日本 + 彦 + 耜友」
 ・孝昭 「觀松 + 彦 + 香殖稻」
 ・孝安 「日本足 + 彦 + 國押人」 (古事記には、「大倭帶 + 日子 + 國押人」とある。)
 ・孝霊 「大日本根子 + 彦 + 太瓊」
 ・孝元 「大日本根子 + 彦 + 國牽」
 ・開化 「稚日本根子 + 彦 + 大日日」
 ・崇神 「御間城入 + 彦 + 五十瓊殖」
 ・垂仁 「活目入 + 彦 + 五十狹茅」
 ・景行 「大足 + 彦 + 忍代別」
 ・允恭 「雄朝津間 + 稚子宿禰」
 ・雄略 「大泊P + 幼武」
 ・清寧 「白髮武廣國押稚 + 日本根子」 (古事記には、「白髮大 + 倭根子」とある。)
 ・武烈 「小泊P + 稚鷦鷯」
 ・安閑 「廣國押武 + 金日」 (安閑紀には、「勾大兄廣國押武 + 金日」という形も見える。)
 ・宣化 「武小廣國 + 押盾」 (旧事紀帝皇本紀には、「檜隈高田武小廣國 + 押盾」という形も見える。)
 ・欽明 「天國排開 + 廣庭」
 ・敏達 「渟中倉 + 太珠敷」 (欽明紀には、「譯語田渟中倉 + 太珠敷」という形も見える。)
 ・用明 「橘 + 豐日」
 ・推古 「豐御食 + 炊屋姫」
 ・舒明 「息長足日 + 廣額」
 ・孝徳 「天萬 + 豐日」
 ・天智 「天命 + 開別」
 ・天武 「天渟中原 + 瀛眞人」
 ・持統 「高天原 + 廣野姫」

 これに対して、実名のみを“正式名”に採用している例も見られる。

 ・仁徳 「大鷦鷯」
 ・履中 「去來穗別」 (仁徳紀などに「大兄去來穗別」という“前補後元名”が見える。)
 ・反正 「瑞齒別」 (反正紀に「多遅比瑞歯別」という“前補後元名”が見える。)

 また、“前補後元名”のうち、美称・地名部分だけが“正式名”となっている場合もある。

 ・神武 「神日本磐余彦」 (神代紀等に「神日本磐余彦火火出見」という“前補後元名”が見える。)
 ・顕宗 「弘計」 (顕宗記に「袁祁之石巣別」という“前補後元名”が見える。)
 ・仁賢 「億計」 (顕宗天皇のような“前補後元名”は伝わらないが、「弘計」と同様に考えられる。)

 このような“前補後元名”から、美称・地名部分だけを取り出した形を、特に、“前方略称”と呼ぶことにしたい。
 ※ “前補後元名”における美称・地名は、実名を装飾するために付加されたものと考えるのが自然であろう。それゆえ、 生成の順序としては、“実名”→“前補後元名”→“前方略称”という経過を辿ったのではないかと想定される。
 また、これとは別に“宮地名”によったと思われる“正式名”も存在する。

 ・安康 「穴穗」 (安康紀に「則ち都を石上に遷す。是を穴穗宮と謂す。」とある。)

 その他、類型のはっきりしない“正式名”をまとめておくと次のとおりである。

 ・綏靖 「神渟名川耳」 (不詳。)
 ・成務 「稚足彦」 (景行天皇の「大足彦忍代別」と比較すれば、“前方略称”のようにも見えるが不詳。)
 ・仲哀 「足仲彦」 (不詳。)
 ・応神 「譽田」 (雄略紀に「譽田陵」という陵墓名が見えることからすると、これに由来するのかも知れない。)
 ・継体 「男大迹」 (不詳。)
 ・崇峻 「泊P部」 (推古天皇の「額田部皇女」などと比較すれば、即位前の通称のように思われるが不詳。)
 ・皇極=斉明 「天豐財重日足姫」 (崩後の追尊か。)

 こうして日本書紀全体を見渡してみると、“正式名”の多くが“前補後元名”であることが分かる。(判断の詳細については、前稿参照。)
 以上のような、“前補後元名”、あるいは、“前方略称”などの概念を導入した上で、記紀等の史料に見える天皇の通称について、 その類型、および、生成の過程などを推理してみることにしたい。 (なお、本稿における記紀の引用は、日本古典文学大系本に拠った。その他、史料の引用元については、 文末の参考文献に掲出しておいた。また、引用にあたっては、字体を再現できず、別の字体に置き換えるなどしたものがある。)



 第1節

 古事記各天皇段の冒頭は、おおよそ「○○命、坐△△宮、治天下也。」という定型句で始まっている。

 ア01 神武記 「神倭伊波禮毘古命・・・(東遷説話)・・・坐畝火之白檮原宮、治天下也。」
 ア02 綏靖記 「神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。」
 ア03 安寧記 「師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。」
 ア04 懿徳記 「大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。」
 ア05 孝昭記 「御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。」
 ア06 孝安記 「大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。」
 ア07 孝霊記 「大倭根子日子賦斗邇命、坐K田廬戸宮、治天下也。」
 ア08 孝元記 「大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。」
 ア09 開化記 「若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。」
 ア10 崇神記 「御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。」
 ア11 垂仁記 「伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。」
 ア12 景行記 「大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。」
 ア13 成務記 「若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。」
 ア14 仲哀記 「帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也。」
 ア15 応神記 「品陀和氣命、坐輕嶋之明宮、治天下也。」
 ア16 仁徳記 「大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。」
 ア17 履中記 「子、伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也。」
 ア18 反正記 「弟、水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。」
 ア19 允恭記 「弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。」
 ア20 安康記 「御子、穴穗御子、坐石上之穴穗宮、治天下也。」
 ア21 雄略記 「大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。」
 ア22 清寧記 「御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。」
 ア23 顕宗記 「伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子、袁祁之石巣別命、坐近飛鳥宮、治天下捌歳也。」
 ア24 仁賢記 「袁祁王兄、意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。」
 ア25 武烈記 「小長谷若雀命、坐長谷之列木宮、治天下捌歳也。」
 ア26 継体記 「品太王五世孫、袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。」
 ア27 安閑記 「御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。」
 ア28 宣化記 「弟、建小廣國押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也。」
 ア29 欽明記 「弟、天國押波流岐廣庭天皇、坐師木嶋大宮、治天下也。」
 ア30 敏達記 「御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歳也。」
 ア31 用明記 「弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參歳。」
 ア32 崇峻記 「弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歳。」
 ア33 推古記 「妹、豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆歳。」

 時に、続柄や治世年数が付加されたり、称号が変わるなど、いくつかの変化形が存在するが、“天皇名”、“宮号”、“治天下” という三つの要素が一貫して認められる。
 本稿では、このような定型句を“宮号統治定型句”と呼んでおくことにする。
 一方、敏達記の系譜では、舒明天皇を「岡本宮治天下之天皇」と表記している。
 古事記では、この一例のみであるが、日本書紀やその他の史料を一瞥すると、「△△宮治天下天皇」、 あるいは、「△△宮御宇天皇」など、宮号と統治を意味する用語を組み合わせた通称が少なからず見受けられる。
 ※ 以下、統治を意味する用語は、「治天下」や「御宇」といった用字の変化には拘泥せず、 いずれも同じ役割を果たす同一の要素として認識し、 「命」や「天皇」についても、“称号”という同じ枠内に納まる用語として取り扱うこととする。

 イ01-1 神武 「橿原宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ01-2 神武 「可志原宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ01-3 神武 「宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇」 (摂津風土記逸文)
 イ02-1 綏靖 「葛城高丘宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ03-1 安寧 「片鹽浮穴宮御宇天皇」 (旧事紀地祇本紀、天孫本紀)
 イ04-1 懿徳 「輕地曲峽宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ05-1 孝昭 「掖上池心宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ05-2 孝昭 「掖上池心大宮治天下天皇」 (和珥部氏系図)
 イ06-1 孝安 「秋津嶋宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ07-1 孝霊 「廬戸宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ08-1 孝元 「輕境原宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ08-2 孝元 「軽堺原大宮御宇天皇」 (続紀天平八年十一月)
 イ09-1 開化 「春日宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ09-2 開化 「春日率川宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ10-1 崇神 「磯城瑞籬宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀、姓氏録河内皇別)
 イ10-2 崇神 「志歸御豆垣宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ10-3 崇神 「師木水垣宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ10-4 崇神 「斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇」 (常陸風土記行方郡)
 イ10-5 崇神 「大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知天皇」 (阿波風土記逸文)
 イ11-1 垂仁 「巻向珠城宮御宇天皇」 (陸奥風土記逸文、尾張風土記逸文)
 イ11-2 垂仁 「巻向玉木宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ11-3 垂仁 「巻向玉城宮御宇天皇」 (止由気宮儀式帳)
 イ11-4 垂仁 「巻向玉城宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ11-5 垂仁 「纏向珠城宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀、神皇本紀、禰宜譜図帳)
 イ11-6 垂仁 「纏向玉城宮御宇天皇」 (仁徳即位前紀)
 イ12-1 景行 「纏向日代宮御宇天皇」 (豊後風土記日田郡、直入郡、大野郡、海部郡、大分郡、速見郡、國埼郡、肥前風土記基肄郡、 養父郡、三根郡、神埼郡、松浦郡、杵嶋郡、藤津郡、彼杵郡、高來郡、肥後風土記逸文、旧事紀天孫本紀)
 イ12-2 景行 「纏向檜代宮御宇天皇」 (出雲風土記逸文、禰宜譜図帳)
 イ12-3 景行 「巻向日代宮御宇天皇」 (陸奥風土記逸文)
 イ12-4 景行 「巻向日代宮御宇大八洲照臨天皇」 (常陸風土記逸文)
 イ13-1 成務 「志我高穴穗宮御宇天皇」 (播磨風土記印南郡)
 イ13-2 成務 「志賀高穴穗宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ13-3 成務 「斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇」 (常陸風土記多珂郡)
 イ14-1 仲哀 「穴門豐浦宮御宇天皇」 (播磨風土記印南郡、住吉大社神代記)
 イ14-2 仲哀 「橿日宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ14-3 仲哀 「筑紫加志日宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ14+1 神功 「橿日宮御宇皇后」 (住吉大社神代記)
 イ15-1 応神 「軽嶋豊明宮馭宇天皇」 (続紀宝亀三年四月)
 イ15-2 応神 「輕嶋豐明宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ15-3 応神 「輕島豐阿伎羅宮御宇天皇」 (摂津風土記逸文)
 イ16-1 仁徳 「難波高津宮御宇天皇」 (万葉集巻二、伊予風土記逸文、続紀天平宝字二年六月、延暦十年十二月、 住吉大社神代記、旧事紀天孫本紀)
 イ16-2 仁徳 「難破高津宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ16-3 仁徳 「難波高津宮大八島國所知天皇」 (阿波風土記逸文)
 イ17-1 履中 「岩村若桜宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ17a 履中/反正 「稚櫻柴垣二宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ19-1 允恭 「遠飛鳥宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ20-1 安康 「石上穴穗宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ21-1 雄略 「泊P朝倉宮御宇天皇」 (万葉集巻一)
 イ21-2 雄略 「長谷朝倉宮御宇天皇」 (丹後風土記逸文)
 イ21-3 雄略 「長谷朝倉宮治天下天皇」 (六人部連本系帳) 
 イ22-1 清寧 「磐余甕栗宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ22-2 清寧 「石余瓺栗宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ23-1 顕宗 「近飛鳥八釣宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ23-2 顕宗 「近津明日香宮治天下天皇」 (六人部連本系帳) 
 イ24-1 仁賢 「石上廣高宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ25-1 武烈 「泊瀬列城宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ26-1 継体 「石村玉穗宮大八洲所馭天皇」 (常陸風土記行方郡)
 イ26-2 継体 「岩村玉穂宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ26a 継体/安閑 「磐余玉穂宮勾金椅宮御宇天皇」 (続紀天平勝宝三年二月)
 イ27-1 安閑 「勾金橋宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ28-1 宣化 「檜隈廬入野宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ28-2 宣化 「檜隈宮御寓天皇」 (敏達紀十二年是歳)
 イ28-3 宣化 「檜前五百野宮御宇天皇」 (威奈大村骨蔵器銘)
 イ28-4 宣化 「檜前伊富利野乃宮大八島國所知天皇」 (阿波風土記逸文)
 イ28-5 宣化 「檜前五百入野宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ29-1 欽明 「斯歸嶋宮治天下天皇」 (元興寺伽藍縁起)
 イ29-2 欽明 「磯城島宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ29-3 欽明 「磯城嶋宮御宇天皇」 (舒明即位前紀、孝徳紀大化元年八月)
 イ29-4 欽明 「志紀嶋宮御宇天皇」 (出雲風土記神門郡)
 イ29-5 欽明 「志貴島宮御宇天皇」 (出雲風土記意宇郡、山城風土記逸文)
 イ29-6 欽明 「(志貴)嶋宮御宇天皇」 (播磨風土記餝磨郡)
 イ29-7 欽明 「磯城嶋金刺宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ30-1 敏達 「譯語田宮御宇天皇」 (孝徳紀大化元年八月、旧事紀天孫本紀)
 イ30-2 敏達 「乎娑陁宮治天下天皇」 (船王後墓誌)
 イ30-3 敏達 「他田宮治天下大王」 (上宮記下巻注云)
 イ30-4 敏達 「他田宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ31-1 用明 「池邊大宮御宇天皇」 (法隆寺伽藍縁起)
 イ31-2 用明 「池邊大宮治天下天皇」 (法隆寺金堂薬師如来坐像光背銘)
 イ31-3 用明 「池邊雙槻宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ31-4 用明 「池邊烈槻宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ31-5 用明 「石余池邊宮御宇天皇」 (太子伝補闕記)
 イ32-1 崇峻 「倉梯宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ33-1 推古 「等由羅宮治天下天皇」 (船王後墓誌)
 イ33-2 推古 「小治田大宮治天下大王天皇」 (法隆寺金堂薬師如来坐像光背銘)
 イ33-3 推古 「小墾田宮御宇天皇」 (孝徳紀大化元年八月、万葉集巻三、霊異記上第四縁、上第八縁、中第十七縁)
 イ33-4 推古 「少治田宮御宇天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 イ33-5 推古 「小治田宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ33-6 推古 「小治田宮御宇太帝天皇」 (大安寺伽藍縁起、霊異記上第六縁)
 イ33-7 推古 「小治田大宮御宇天皇」 (法隆寺伽藍縁起)
 イ33-8 推古 「小治田大宮御宇天王」 (太子伝補闕記)
 イ33-9 推古 「小治田豐浦宮御宇天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 イ34-1 舒明 「岡本宮治天下之天皇」 (敏達記)
 イ34-2 舒明 「阿須迦宮治天下天皇」 (船王後墓誌)
 イ34-3 舒明 「崗本宮御宇天皇」 (万葉集巻九)
 イ34-4 舒明 「高市岡本宮御宇天皇」 (万葉集巻一)
 イ34-5 舒明 「高市岡本宮馭宇天皇」 (続紀天平神護二年六月)
 イ34-6 舒明 「前岡本宮御宇天皇」 (大安寺伽藍縁起)
 イ34-7 舒明 「飛鳥岡本宮御宇天皇」 (万葉集巻一類聚歌林曰)
 イ34-8 舒明 「飛鳥岡基宮御宇天皇」 (大安寺伽藍縁起)
 イ34-9 舒明 「明日香岳本宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ35-1 皇極=斉明 「飛鳥板盖宮御宇天皇」 (住吉大社神代記)
 イ35-2 皇極=斉明 「明日香板葺宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ35-3 皇極=斉明 「明日香川原宮御宇天皇」 (万葉集巻一)
 イ35-4 皇極=斉明 「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」 (霊異記上第九縁)
 イ35-5 皇極=斉明 「後岡本宮御宇天皇」 (万葉集巻一、巻二、続紀和銅二年二月、霊異記上第十四縁)
 イ35-6 皇極=斉明 「後岡本宮馭宇天皇」 (万葉集巻一類聚歌林曰)
 イ35-7 皇極=斉明 「後岡基宮御宇天皇」 (大安寺伽藍縁起)
 イ36-1 孝徳 「難波宮治天下天皇」 (持統紀三年五月)
 イ36-2 孝徳 「難破宮御宇天皇」 (霊異記上第廿三縁)
 イ36-3 孝徳 「難波大宮御宇掛母畏支天皇命」 (続紀慶雲四年四月)
 イ36-4 孝徳 「難波長柄豐前宮御宇天皇」 (常陸風土記逸文、三代格巻五)
 イ36-5 孝徳 「難波長樂豐前宮御宇天皇」 (摂津風土記逸文)
 イ36-6 孝徳 「難波長柄豐碕宮御宇天皇」 (上宮聖徳法王帝説裏書)
 イ36-7 孝徳 「難破長柄豊前宮御宇天皇」 (霊異記上第九縁)
 イ36-8 孝徳 「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」 (常陸風土記総記、行方郡、多珂郡)
 イ36-9 孝徳 「難波長柄豐前大宮馭宇天皇」 (常陸風土記行方郡)
 イ36-10 孝徳 「難波長柄豐前大朝馭宇天皇」 (常陸風土記香島郡)
 イ36-11 孝徳 「難波長柄豐前大朝大八洲撫馭天皇」 (常陸風土記逸文)
 ※ 上記二例は、「宮」の代わりに「大朝」という文字が使用されているが、日本古典文学大系本『風土記』では、「おほみや」 というルビが振られている。 (補注1)
 イ36-12 孝徳 「難波那我良豐前宮治天下天皇」 (薬師寺縁起流記云)
 イ36-13 孝徳 「難波那我良豐前宮御宇天皇」 (薬師寺縁起旧流記云)
 イ38-1 天智 「近江宮治天下天皇」 (持統紀三年五月)
 イ38-2 天智 「近江宮御宇天皇」 (万葉集巻一、大安寺伽藍縁起)
 イ38-3 天智 「御近江大津宮天皇」 (持統紀六年閏五月)
 イ38-4 天智 「近江大津宮御宇天皇」 (舒明紀二年正月、万葉集巻一、巻二、伊予風土記逸文、続紀宝亀二年二月)
 イ38-5 天智 「近江大津 御宇 天皇」 (続紀天平勝宝元年七月、天応元年四月、続後紀天長十年三月、文実嘉祥三年四月、三実天安二年十一月、元慶元年正月、元慶八年二月)
 イ38-6 天智 「近江大津宮御宇大倭根子天皇」 (続紀慶雲四年七月)
 イ38-7 天智 「近江大津宮大八嶋国所知 天皇」 (続紀天平勝宝元年四月)
 イ38-8 天智 「近淡海 大津宮 天下所知行 天皇」 (続紀天平神護二年正月)
 イ38-9 天智 「石走淡海國乃樂浪乃大津宮尓天下所知食兼天皇」 (万葉集巻一)
 イ38-10 天智 「淡海大津宮御宇天皇」 (大安寺伽藍縁起、弘福寺三綱牒、続紀和銅二年二月)
 イ38-11 天智 「淡海大津宮御宇皇帝」 (続紀天平宝字元年閏八月)
 イ38-12 天智 「淡海大津宮御宇倭根子天皇」 (続紀神亀元年二月)
 イ38-13 天智 「淡海大津大朝光宅天皇」 (常陸風土記久慈郡)
 イ38-14 天智 「近江志賀宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ38-15 天智 「近江國大津宮御宇天皇」 (東大寺要録雑事章十実忠二十九箇条事)
 イ40-1 天武 「飛鳥浄御原宮治天下天皇」 (小野毛人墓誌)
 イ40-2 天武 「飛鳥清御原大宮治天下天皇」 (法華説相図)
 イ40-3 天武 「飛鳥C原大宮御大八州天皇」 (記序文)
 イ40-4 天武 「C原宮馭宇天皇」 (薬師寺東塔檫銘)
 イ40-5 天武 「淨御原宮御宇天皇」 (舒明紀二年正月、伊予風土記逸文、万葉集巻二十、法隆寺伽藍縁起、 大安寺伽藍縁起、続紀養老六年十二月)
 ※ 法隆寺伽藍縁起の「淨御原宮御宇天皇」については、 東野治之「天皇号の成立年代について」のように持統天皇に当てる説もある。
 イ40-6 天武 「飛鳥淨御原宮御宇天皇」 (出雲風土記意宇郡、豊後風土記日田郡、大安寺伽藍縁起、東大寺献物帳、 旧事紀天孫本紀)
 イ40-7 天武 「飛鳥C御原宮御宇天皇」 (薬師寺縁起流記帳云)
 イ40-8 天武 「飛鳥浄御原大宮御宇大八州天皇」 (続紀天平八年十一月)
 イ40-9 天武 「飛鳥浄御原大宮臨軒天皇」 (常陸風土記行方郡)
 イ40-10 天武 「明日香宮御宇天皇」 (万葉集巻一)
 イ40-11 天武 「明日香清御原宮御宇天皇」 (万葉集巻二、巻八)
 イ40-12 天武 「明日香清見原宮治天下天皇」 (六人部連本系帳)
 イ40-13 天武 「明日香能清御原乃宮尓天下所知食之八隅知之吾大王」 (万葉集巻二)
 イ40-14 天武 「大倭國淨美原宮治天下天皇」 (栗原寺鑢盤銘)
 イ41-1 持統 「飛鳥宮御宇天皇」 (法隆寺伽藍縁起、大安寺伽藍縁起)
 イ41-2 持統 「飛鳥淨御原宮御宇天皇」 (法隆寺伽藍縁起、大安寺伽藍縁起)
 イ41-3 持統 「藤原宮御宇天皇」 (万葉集巻一、巻二、大安寺伽藍縁起、薬師寺縁起流記帳云)
 イ41-4 持統 「藤原宮御宇倭根子天皇」 (続紀慶雲四年七月)
 イ41-5 持統 「藤原宮御宇太上天皇」 (東大寺献物帳、続紀養老六年十二月、三代格巻八)
 イ41a 持統/文武 「藤原宮御宇天皇」 (続紀宝亀二年二月)

 このような通称を“宮号統治通称”と呼んでおくことにしたい。
 こうして見比べてみると、“宮号統治定型句”と“宮号統治通称”は、共通の構成要素を内包しており、両者が独自に、 全く無関係のまま成立したようには思えない。
 しからば、どのような関係にあって、いかなる過程を経て生成されたのか。
 まずは、その淵源に遡って考えてみることにしたい。

 第2節

 古事記の“宮号統治定型句”と同じ要素(“天皇名”、“宮号”、“治天下”) を持った古い文章として、すぐに思い浮かぶのは、稲荷山古墳出土鉄剣銘であろう。
 該当部分を含む裏面の銘文だけを取り出すと、次のとおりである。

 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為 杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』の釈読に従うと、上記文中から「獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下」という文言を抽出できる。
 この場合の「吾」とは、「乎獲居臣」であり、その「奉事」を記述した独自の文章となっているが、 上記、三つの要素を漏れなく組み込んでいることが分かる。
 この点、ほぼ、同じ頃に製作されたと思われる江田船山古墳出土大刀銘にも、

 治天下獲□□□鹵大王世

と判読可能な文字があり、“天皇名”および“治天下”の要素が認められる。
 さらに、製作年代に諸説のある隅田八幡宮人物画像鏡銘にも、

 在意柴沙加宮時

と読める部分があり、“宮号”の要素が入っている。(鏡銘の「日十大王年男弟王」の部分は、文字の判読の是非も含めて、 今のところ、よく分からないというのが正直なところである。)
 こうして見ると、“宮号統治定型句”そのものは見当たらないが、銘文それぞれに、三つの要素が、適宜、使用されており、 「世」や「時」という語を伴って、ある一定の時間を指示していることが分かる。
 これらの用例は、定型句が成立する一歩手前の状況を映し出しているのではないだろうか。
 はじめは、さまざまな形の文章の中に近接して出現するだけの言葉であった三つの要素が、 やがて、特定の順番で結びつき、“宮号統治定型句”に固定したと思われるのである。
 ところで、“天皇”を説明するときに、“治天下”は、不可欠の要素であろうが、“宮号”は、それほどの必要性があるようには思えない。
 この“宮号”が他の二つの要素と結合して定型句を構成するきっかけは、どこにあったのだろうか。
 そう考えた時に、ひとつ思い浮かぶのは、宮殿称賛の慣用句である。

 ○神武紀(元年正月)
 故に古語に稱して曰さく、 「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて、 始馭天下之天皇を、號けたてまつりて神日本磐余彦火々出見天皇と曰す」。

 ここに見える「宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて」という慣用句は、若干、形を変えながらも古事記、万葉集、祝詞などに、 数多く見られる表現である。

 ○記上巻(根国訪問)
 宇迦能山三字は音を以ゐよ。の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、此の四字は音を以ゐよ。高天の原に氷椽多迦斯理此の四字は音を以ゐよ。て居れ。

 ○記上巻(大国主神の国譲り)
 唯僕が住所をば、 天つ神の御子の天津日繼知らしめす登陀流 此の三字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。天の御巣如して、底津石根に宮柱布刀斯理、此の 四字は音を以ゐよ。 高天の原に氷椽多迦斯理 多迦斯理の四字は音を以ゐよ。 て治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍ひなむ。

 ○記上巻(天孫降臨)
 「此地は、韓國に向ひ、 笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。 故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、 底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て坐しき。

 ○万葉集(巻第一、36)
 山川の 清き河内と 御心を  吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太しきませば ももしきの 大宮人は 舟並めて  朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る・・・

 ○万葉集(巻第二、167)
 いかさまに 思ほしめせか つれもな き 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさず 日月の  まねくなりぬれ・・・

 ○万葉集(巻第六、928)
 続麻なす 長柄の宮に 真木柱  太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の緒は  いほりして 都なしたり 旅にはあれども

 ○万葉集(巻第六、1050)
 山並みの 宜しき国と 川なみの  立ち合ふ里と 山背の 鹿脊山のまに 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み  鳥が音とよむ・・・

 ○万葉集(巻第二十、4465)
 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍の 宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ  赤き心を 皇辺に 極め尽くして 仕へ来る 祖の職と 言立てて・・・

 ○止由気宮儀式帳
 度會山田原。下石根 宮柱太知立。 高天原知疑高知。 宮定齋仕奉始。・・・

 ○古語拾遺
 所謂底都磐根に宮柱ふとしり立てて、 高天原に搏風高しり、皇孫命の美豆の御殿を排、造り奉仕也。

 ○祝詞(祈年祭)
 皇神の敷きます、 下つ磐ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎を仕へまつりて、 天の御蔭・日の御蔭と隠りまして、 四方の國を安國と平らけく知ろしめすが故に・・・

 ○祝詞(春日祭)
 大神等の乞はしたまひのまにまに、 春日の三笠の山の下つ石ねに宮柱廣知り立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と定めまつりて・・・

 ○祝詞(平野祭)
 皇大御神の乞はしたまひのまにまに、 この所の底つ石ねに宮柱廣敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と定めまつりて・・・

 ○祝詞(久度・古関)
 皇御神の乞ひたまひしのまにまに、 この所の底つ石ねに宮柱廣敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と定めまつりて・・・

 ○祝詞(六月月次)
 皇神の敷きます、 下つ磐ねに宮柱太知り立て、 高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎を仕へまつりて、天の御蔭・日の御蔭と隠りまして、 四方の國を安國と平らけく知ろしめすが故に・・・

 ○祝詞(六月晦大祓)
 大倭日高見の國を安國と定めまつり て、 下つ磐ねに宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎仕へまつりて、 天の御蔭・日の御蔭と隠りまして、安國と平らけく知ろしめさむ國中に・・・

 ○祝詞(鎮御魂斎戸祭)
 皇孫の命は、 豐葦原の水穗の國を安國と定めまつりて、 下つ磐ねに宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と稱辭竟へまつりて・・・

 ○祝詞(伊勢大神宮、四月神衣祭)
  度會の宇治の五十鈴の川上に大宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて稱辭竟へまつる、 天照らします皇大神の大前に申さく・・・

 ○祝詞(伊勢大神宮、六月月次祭)
  度會の宇治の五十鈴の川上に大宮柱太敷き立て、高天の原にひ木高知りて稱辭竟へまつる、 天照らします皇大神の大前に申し進る・・・

 ○祝詞(伊勢大神宮、同神嘗祭)
  度會の宇治の五十鈴の川上に大宮柱太敷き立て、高天の原にひ木高知りて稱辭竟へまつる、 天照らします皇大神の大前に申し進る・・・

 ○祝詞(遷却祟神)
  かく天降し寄さしまつりし四方の國中と、 大倭日高見の國を安國と定めまつりて、下つ磐ねに宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、 天の御蔭・日の御蔭と仕へまつりて、安國と平らけく知ろしめさむ皇御孫の尊の、天の御舎の内に坐す皇神等は・・・

 ○祝詞(出雲国造神賀詞)
 出雲の國の青垣山の内に、 下つ石ねに宮柱太知り立て、 高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、くしみけのの命、 國作りましし大なもちの命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を・・・

 「宮柱」云々の慣用句の意味するところは、宮柱を深く掘り立て、千木を高く上げるということである。
 本居宣長『古事記伝』(十之巻) には、

 凡て上代には、神宮も人の舎宅も、 伊勢神宮などの製の如く、地を堀て柱を立てる故に、【今世にも、賤が家には是あり、堀立と云なり、 地上に石居をして、 柱を立てるは、後のことなり、】 此稱辭あるなり、石根は、故に礎をするには非ず。

とあって、掘立柱の建物を対象とした賛辞であることを指摘している。
 おそらく、宮殿を称賛することによって、 その宮殿に居住する人(神)を間接的に称揚する目的があったのであろう。
 このような慣用句が古くから成立して、広く通用していたために、 “天皇名”と“治天下”の組み合わせの中に “宮号”が自然と挿入されることになったものと想像されるのである。
 ※ 上記金石文の中にも、すでに“宮号”が見られることからすると、この慣用句の成立は、雄略朝以前に遡るものと思われる。
 用例の多くが歌謡や祝詞であることからしても、この慣用句は、元来、口誦されたものであろうことが推定できる。
 日本で漢字を導入し始めた頃、口語(大和言葉)を漢文で表記することは、 困難であったに違いない。
 上記のような慣用句を漢文の中に移植すると、「坐△△宮、治天下也。」などといった表現に落ち着かざるを得なかったのではないだろうか。

 第3節

 稲荷山鉄剣銘のような不定型の文章の段階があって、 その後、“宮号統治定型句”が成立したものとすると、 内容的に、ほぼ同じ要素を持つ“宮号統治通称”は、 どのように成立したのであろうか。
 この点、“宮号統治定型句”と“宮号統治通称”を繋ぐ、中間型とでも言うべき形態が存在する。

 ウ29-1 欽明 「斯歸斯麻宮治天下天皇 名 阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等」 (天寿国繍帳)
 ウ29-2 欽明 「大倭国天皇斯帰斯麻宮治天下 名 阿米久爾意斯波羅岐比里爾波弥己等」 (元興寺塔露盤銘)
 ウ30-1 敏達 「乎佐太宮治天下 名 奴那久良布等多麻志支命」 (天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文或書曰)
 ウ33-1 推古 「佐久羅韋等由良宮治天下 名 等已弥居加斯支夜比弥乃弥己等」 (元興寺塔露盤銘)

 この四例は、おおよそ、「△△宮に“治天下”、名は、○○“称号”」という形をしており、主語と述語を倒置した体言止めの文とでも言うべきものである。
 “宮号統治定型句”の語順を並べ替えた変化形と言って間違いあるまい。
 特に、天寿国繍帳の用例の前半は、“宮号統治通称”そのものの形をしている。
 この段階では、まだ、「○○“称号”」を修飾しているだけのように見えるが、これが独立すると“宮号統治通称”ということになる。
 次に、上記の“体言止め”から「名は」を抜いた形も存在する。

 エ01-1 神武 「畝傍樫原宮御宇神倭磐余彦天皇」 (伊勢風土記逸文)
 エ03-1 安寧 「片塩浮穴宮御宇磯城津彦玉手看天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ05-1 孝昭 「腋上池心宮御宇觀松彦香殖稻天皇」 (旧事紀天孫本紀)
 エ08-1 孝元 「軽堺原宮御宇大日本根古彦国牽天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ10-1 崇神 「磯城瑞籬宮御宇御間城天皇」 (肥前風土記総記)
 エ10-2 崇神 「礒城嶋瑞籬宮御宇御間城天皇」 (皇太神宮儀式帳)
 エ10-3 崇神 「磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇」 (姓氏録左京皇別下)
 エ10-4 崇神 「磯城瑞籬宮御宇初国所知御間城入彦五十瓊殖天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ11-1 垂仁 「纏向珠城宮御宇活目天皇」 (皇太神宮儀式帳)
 エ11-2 垂仁 「巻向玉木宮大八嶋國所知食活目天皇」 (住吉大社神代記)
 エ11-3 垂仁 「纏向珠城宮御宇活目入彦五十狭茅天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ11-4 垂仁 「卷向玉城宮御宇伊久米入日子伊佐知天皇」 (琴歌譜)
 エ11-5 垂仁 「纏向珠機宮御宇活目入彦五十狭茅天皇」 (荒木田氏古系図)
 エ12-1 景行 「纏向日代宮御宇大足彦天皇」 (豊後風土記総記、日田郡、肥前風土記総記、日向風土記逸文)
 エ12-2 景行 「坐纏向之日代宮所知大八嶋國大帶日子淤斯呂和氣天皇」 (景行記)
 エ12-3 景行 「巻向日代宮御宇大足彦忍代別天皇」 (高橋氏文)
 エ12-4 景行 「巻向日代宮御宇大帯彦忍代別天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ12-5 景行 「纏向日代宮御宇大足彦忍代別天皇」 (伊福部臣古志)
 エ12-6 景行 「卷向日代宮 御宇大帶日天皇」 (琴歌譜)
 エ13-1 成務 「志賀高穴太宮御宇若帶天皇」 (政事要略巻廿六多米宿祢系図云)
 エ13-2 成務 「磯香高穴穂宮御宇稚足彦天皇」 (粟鹿大神元記、伊福部臣古志)
 エ14-1 仲哀 「穴戸豐浦宮御宇足仲彦天皇」 (筑前風土記逸文)
 エ14+1 神功 「磐余稚桜宮御宇息長大足姫天皇」 (粟鹿大神元記)
 エ14+2 神功 「磐余稚櫻宮 御宇息長足日涛V皇」 (琴歌譜)
 エ15-1 応神 「輕嶋明宮御宇譽田天皇」 (肥前風土記養父郡)
 エ15-2 応神 「輕島明宮御宇譽田天皇」 (高橋氏文)
 エ15-3 応神 「軽嶋豊明宮御宇誉田天皇」 (霊異記上巻序)
 エ16-1 仁徳 「難波高津宮御宇大鷦鷯天皇」 (万葉集巻二、続紀天平元年八月、琴歌譜)
 エ19-1 允恭 「遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇」 (万葉集巻二)
 エ19-2 允恭 「遠飛鳥宮御宇雄朝津間若子宿祢天皇」 (伊福部臣古志)
 エ19-3 允恭 「遠明日香宮 御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇」 (琴歌譜)
 エ21-1 雄略 「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇」 (万葉集巻九)
 エ26-1 継体 「伊波礼宮治天下乎富等大公王」 (上宮記一云)
 エ28-1 宣化 「檜隈盧入野宮御宇武少廣國押楯天皇」 (肥前風土記松浦郡)
 エ29-1 欽明 「斯貴嶋宮治天下阿米久爾於志波留支廣庭天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ29-2 欽明 「斯帰嶋宮治天下天国押波流岐廣庭命」 (天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文或書曰)
 エ29-3 欽明 「斯帰嶋宮治天下天国案春岐廣庭天皇」 (元興寺伽藍縁起)
 エ29-4 欽明 「磯城嶋宮御宇天國排開廣庭天皇」 (豊後風土記日田郡)
 エ29-5 欽明 「磯城嶋宮御宇天國押開廣庭天皇」 (中臣氏系図延喜本系云)
 エ29-6 欽明 「磯城嶋金刺宮食国天皇天国押開広庭命」 (霊異記上第二縁)
 エ29-7 欽明 「磯機嶋金刺宮御宇天國排開廣庭天皇」 (東大寺要録諸院章四八幡宮)
 エ30-1 敏達 「他田宮御宇渟中倉太玉敷天皇」 (中臣氏系図延喜本系云)
 エ30-2 敏達 「他田宮治天下怒那久良布刀多麻斯支天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ30-3 敏達 「磐余訳語田宮食国渟中倉太玉敷命」 (霊異記上第三縁)
 エ31-1 用明 「伊波礼池邊雙欟宮治天下橘豐日天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ31-2 用明 「磐余池辺双欟宮御宇橘豊日天皇」 (霊異記上第四縁)
 エ31-3 用明 「伊波禮池邊宮治天下橘豐日天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ31-4 用明 「池辺列槻宮治天下橘豊日命」 (元興寺伽藍縁起)
 エ31-5 用明 「池辺双槻宮御宇橘豊日天皇」 (続紀神護景雲元年十一月)
 エ32-1 崇峻 「倉橋宮治天下長谷部天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ33-1 推古 「少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 エ33-2 推古 「楷井等由羅宮治天下等與弥気賀斯岐夜比売命」 (元興寺伽藍縁起)
 エ33-3 推古 「桜井等由良宮治天下豊弥気賀斯岐夜比売命」 (元興寺伽藍縁起)
 エ33-4 推古 「小墾田宮御宇豐御食炊屋姫天皇」 (肥前風土記三根郡)
 エ33-5 推古 「少治田宮御宇豊御食炊屋姫天皇」 (伊福部臣古志)
 エ33-6 推古 「少治田豐浦宮御宇豐御食炊屋姫天皇」 (旧事紀序)
 エ35-1 皇極=斉明 「飛鳥宮御宇伊賀志比足姫天皇」 (中臣氏系図延喜本系云)
 エ35-2 皇極=斉明 「後岡本朝庭御宇天豊財重日足姫天皇」 (粟鹿大神元記)
 ※ 「宮」の代わりに「朝庭」という文字が使用されているが、訓みとしては「みや」となるのであろう。(補注1)
 エ36-1 孝徳 「難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇」 (皇太神宮儀式帳、粟鹿大神元記)
 エ36-2 孝徳 「難破長柄豊前宮御宇天萬豊日天皇」 (伊福部臣古志)
 エ38-1 天智 「近江大津宮御宇天命開別天皇」 (続紀光仁即位前紀、粟鹿大神元記)

 オ001 参考 「巻向日代宮大八嶋食知氣[帶]長足姫比古」 (住吉大社神代記)
 オ002 参考 「穴戸豐浦宮大八嶋所知食氣長足帶比古皇后」 (住吉大社神代記)
 オ003 参考 「於市邊宮治天下天萬國萬押磐尊」 (顕宗即位前紀)
 オ004 参考 「志貴嶋大宮御宇天忍羽廣庭天皇」 (西琳寺縁起)
 オ005 参考 「石寸池辺宮治天下等与比橘太子王」 (天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文或書曰)
 オ006 参考 「坐伊加留我宮共治天下等已刀弥ゝ法大王」 (天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文或書曰)
 オ007 参考 「近江大津朝庭天命開別天皇」 (皇太神宮儀式帳)
 オ008 参考 「淡海天朝馭宇昊天寶開闢天皇」 (大安寺碑)

 わずか一語を抜いただけであるが、ここまで来ると、文章というよりは、名詞として捉えたほうが良さそうである。
 基本的には、「△△宮“治天下”○○“称号”」という形をしており、○○の部分については、 “前補後元名”、“前方略称”、“実名”など、さまざまな形の“天皇名”が採用されている。
 この呼称は、“宮号統治修飾付天皇名”と呼ぶことが可能であろう。
 ※ なお、類似の用例として、崇神記に見える「所知初國之御眞木天皇」や、常陸国風土記香島郡に見える 「初國所知美麻貴天皇」があげられる。こちらの形は、 宮号が入っていないので、あえて名づければ“統治修飾付天皇名”ということになろう。
 ※ また、本稿では、「軽嶋豊明朝御宇応神天皇」(続紀延暦九年七月)など、漢風諡号と組み合わせた用例は掲出しなかった。 ただ、その中で一点、日本霊異記(上巻第一縁)に見える「泊瀬朝倉宮廿三年治天下雄略天皇」という形は、治世年数の入った珍しい形である。 同(上巻第五縁)には、推古天皇について述べた「皇后癸丑年春正月即位、小墾田宮卅六年御宇矣、」という一文があるが、 これと同じような文章を名詞化したもののように見える。ついでながら、東大寺要録(諸宗章六、三論宗)に見える 「磯嶋金刺宮欽明天皇。治天下天國押開廣庭天皇」、および、「難波長浦豐前宮孝コ天皇。治天下天萬豐日天皇。」 という用例は、傍注の漢風諡号が誤って本文に混入したもののように思われる。
 これまで述べてきた各型式を類似度順に並べてみると次のようになる。

 不定型の文章 = (“天皇名○○”、“宮号△△”、“治天下”を含む)
    │
 ア “宮号統治定型句” = 「○○“称号”、坐△△宮、治天下也。」
    │
 ウ “体言止め” = 「△△宮に“治天下”、名は、○○“称号”」
    │
 エ “宮号統治修飾付天皇名” = 「△△宮“治天下”○○“称号”」
    │
 イ “宮号統治通称” = 「△△宮“治天下”“称号”」

 これらの型式が類似度順に直線的に出現したものとすれば、分かり易い説明になるのだが、確たる証拠はない。
 ただ、不定型文から定型句へ、そこから更に名詞化するという流れは、ごく自然に感じられる。
 実際には、並列的に生成された型式があったにしても、おおよその流れは、この類似度順に発生したと考えておきたい。

 第4節

 “天皇名”を使用せずに特定の天皇を指示する“宮号統治通称”は、その用例も多く、一種の完成形であったと思われる。
 しかし、文章によっては、これよりも短い呼称が必要とされたようで、“治天下”等の統治句を省いた形も存在している。

 カ06-1 孝安 「葛木之室秋津島大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ07-1 孝霊 「黒田廬戸大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ09-1 開化 「春日率川大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ15-1 応神 「軽島豊明宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ15-2 応神 「豊明大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ16-1 仁徳 「難波高津宮天皇」 (播磨風土記揖保郡、讚容郡、逸文)
 カ16-2 仁徳 「難波高津御宮天皇」 (播磨風土記印南郡)
 カ16-3 仁徳 「難波高津大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ18-1 反正 「丹治比柴垣宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ21-1 雄略 「長谷朝倉大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ24-1 仁賢 「石上広高大宮天皇」 (古屋家家譜、和珥部氏系図)
 カ25-1 武烈 「泊瀬列樹大宮天皇」 (古屋家家譜)
 カ26-1 継体 「山背樟葉大宮天皇」 (古屋家家譜)
 ※ 樟葉宮の所在地については、一般に河内国交野郡葛葉郷に比定されているが、溝口睦子『古代氏族の系譜』では、 武埴安彦叛乱伝承に見える地名起源説話や継体天皇の遷宮の動きから推測して、 「むしろ樟葉は、河内よりは山城の方が自然なように思える。」と述べている。
 カ26-2 継体 「筒城大宮天皇」 (和珥部氏系図)
 カ27-1 安閑 「勾宮天皇」 (播磨風土記揖保郡)
 カ29-1 欽明 「磯城島金刺大宮天皇」 (古屋家家譜)
 カ32-1 崇峻 「倉梯宮天皇」 (古屋家家譜)
 カ40-1 天武 「明日香清御原宮天皇」 (万葉集巻一)

 名前の構成としては、「△△宮“称号”」という形になっており、“宮号通称”とでも言うべきものである。
 次に、ここから、さらに「宮」を抜いた省略形も存在する。

 キ20-1 安康 「穴穗命」 (允恭記)
 キ20-2 安康 「穴穗御子」 (允恭記、安康記)
 キ20-3 安康 「穴穗天皇」 (允恭紀二年二月、安康紀内題、安康即位前紀、雄略即位前紀、十四年四月、顕宗即位前紀、仁賢即位前紀、 続紀霊亀元年四月、姓氏録未定雑姓、旧事紀神皇本紀)
 キ20-4 安康 「穴穗皇子」 (安康即位前紀、旧事紀神皇本紀)
 キ20-5 安康 「穴穗皇子尊」 (旧事紀神皇本紀)
 キ28-1 宣化 「檜坰天皇」 (欽明記)
 キ28-2 宣化 「檜隈天皇」 (崇峻即位前紀)
 キ28-3 宣化 「檜前天皇」 (上宮聖徳法王帝説、肥前風土記逸文)
 キ28-4 宣化 「檜隈高田皇子」 (継体紀元年三月、旧事紀帝皇本紀)
 キ28-5 宣化 「檜隈高田天皇」 (欽明紀二年三月)
 キ29-1 欽明 「磯城嶋天皇」 (敏達紀元年六月)
 キ29-2 欽明 「礒城嶋天皇」 (三実貞観三年八月)
 キ29-3 欽明 「志癸嶋天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 キ29-4 欽明 「志歸嶋天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 キ29-5 欽明 「志貴嶋天皇」 (西琳寺縁起)
 キ29-6 欽明 「斯歸斯麻天皇」 (天寿国繍帳)
 キ30-1 敏達 「他田皇子」 (元興寺伽藍縁起)
 キ30-2 敏達 「他田天皇」 (上宮聖徳法王帝説、元興寺伽藍縁起)
 キ30-3 敏達 「他田天王」 (元興寺伽藍縁起)
 キ30-4 敏達 「譯語田天皇」 (用明紀元年五月、崇峻紀四年四月、旧事紀帝皇本紀)
 キ31-1 用明 「池辺皇子」 (元興寺伽藍縁起)
 ※ 敏達紀七年三月(五日)条に「池邊皇子」が見えるが、日本古典文学大系本『日本書紀』の頭注などでは、 別人として扱っている。
 キ31-2 用明 「池邊天皇」 (上宮聖徳法王帝説、元興寺伽藍縁起)
 キ31-3 用明 「瀆邊天皇」 (元興寺丈六光銘)
 キ32-1 崇峻 「倉橋天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 キ32-2 崇峻 「椋橋天皇」 (元興寺伽藍縁起)
 キ33-1 推古 「少治田天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 キ33-2 推古 「小治田天皇」 (法隆寺伽藍縁起)
 キ33-3 推古 「小墾田天皇」 (聖徳太子伝暦巻下)
 キ34-1 舒明 「高市天皇」 (皇極紀二年九月)
 キ34-2 舒明 「岡本天皇」 (伊予風土記逸文)
 キ34-3 舒明 「崗本天皇」 (万葉集巻四、巻八、巻九、家伝上、政事要略巻廿五興福寺縁起云)
 キ34-4 舒明 「阿須迦天皇」 (船王後墓誌)
 キ34-5 舒明 「飛鳥岡本天皇」 (三実元慶四年十月)
 キ35-1 皇極=斉明 「小治田河原天皇」 (播磨風土記揖保郡)
 ※ 「小治田河原天皇」については、これを推古天皇にあてる説、斉明天皇にあてる説の両説が提出されている。(補注2)
 キ35-2 皇極=斉明 「後岡本天皇」 (天武紀八年三月、九年十一月、伊予風土記逸文)
 キ35-3 皇極=斉明 「後崗本天皇」 (家伝上、弘仁私記序)
 キ35-4 皇極=斉明 「飛鳥天皇」 (上宮聖徳法王帝説)
 キ36-1 孝徳 「難波天皇」 (元興寺伽藍縁起、万葉集巻四)
 キ36-2 孝徳 「難波長柄豐前天皇」 (播磨風土記揖保郡、宍禾郡)
 キ38-1 天智 「近江天皇」 (上宮聖徳法王帝説、播磨風土記讚容郡、万葉集巻二、巻四、巻八、延暦僧録第五、 弘仁私記序)
 キ38-2 天智 「淡海帝」 (懐風藻)
 キ38-3 天智 「淡海聖帝」 (大安寺碑文)
 キ40-1 天武 「C御原天皇」 (持統紀七年九月、三代格巻一)
 キ40-2 天武 「浄御原天皇」 (弘仁私記序、三実元慶元年十二月、仁和三年三月、古屋家家譜、和珥部氏系図、歌経標 式、家伝下
 キ40-3 天武 「浄御原帝」 (懐風藻)
 キ40-4 天武 「浄三原天皇」 (延暦僧録第二)
 キ40-5 天武 「飛鳥浄御原天皇」 (美努岡万墓誌、常陸風土記行方郡、三実貞観八年二月)
 キ41-1 持統 「浄御原天皇」 (天平十八年具注暦)
 ※ 天武・持統天皇の「浄御原」が地名かどうかは、微妙なところである。 ただ、「原」という地形を意味する言葉が含まれていることからすると、 地名との親和性が高いと言うことは可能であろう。(補注3)

 ク001 参考 「勾大兄皇子」 (継体紀元年三月、七年九月、旧事紀帝皇本紀)
 ク002 参考 「勾大兄」 (継体紀七年十二月)
 ※ 「勾」は宮殿の所在地名であるが、「勾大兄廣國押武金日」という形の“前補後元名”が存在することからすると、 “前方略称”と言えなくもない。
 ク003 参考 「池田天皇」 (上宮太子拾遺記明一伝云)
 ※ 飯田瑞穗「明一撰『聖徳太子伝』(明一伝)の逸文 ─奈良時代末期の一太子伝の検討─」では、これを「おそらく池は他の誤りで、「他田天皇」を正しとすべきであらう。」と述べている。

 これらの用例は、「△△“称号”」という形をしており、“宮地名通称”と呼ぶことが許されるであろう。
 そして、ここでも、通称を類似度順に並べてみると、次のとおりである。

 イ “宮号統治通称” = 「△△宮“治天下”“称号”」
    │
 カ “宮号通称” = 「△△宮“称号”」
    │
 キ “宮地名通称” = 「△△“称号”」

 生成の順番としては、やはり、“宮号統治通称”が最初にあって、そこから省略形が発生したと考えるのが自然である。

 第5節

 ところで、<キ>の“宮地名通称”の用例を眺めていると、新しい時代の天皇に偏っていることに気づく。
 安康天皇が、若干、離れているものの、それ以外の天皇は、宣化天皇以降に集中している。
 このことは、元となった“宮号統治通称”が比較的新しい時代に成立したことを示唆しているのではないだろうか。
 というのも、省略形が通用するためには、その元となる形が広く一般に流通していることが前提になると考えられるからである。
 「△△宮」とあれば、宮号であることが分かるが、△△だけでは、単なる地名となってしまう。
 地名 + “称号”で、天皇が特定されるためには、「△△宮“治天下”“称号”」という通称が、広く一般化していることが必要であろう。
 この点、古い時代の天皇は、宮号の記憶が薄らいで来ている場合も少なくなかったと考えられる。
 例えば、雄略記を見てみると「三重婇」の歌として、

 纏向の 日代の宮は 朝日の  日照る宮  夕日の 日がける宮 竹の根の 根垂る宮 木の根の 根蔓ふ宮 八百土よし い築きの宮  眞木さく 檜の御門・・・

という歌謡が載せられている。
 「纒向之日代宮」は、景行天皇の宮殿のはずである。
 その宮殿を詠んだ歌が、なぜか雄略天皇の物語の中に掲出されているのである。
 このことは、当時の人々の印象の中で、この宮号と景行天皇との結び付きがそれほど強固でなかったことを示唆しているように思われる。
 もちろん、景行天皇の宮殿が「纏向之日代宮」であるという伝承自体は、確かに存在していたのであろう。
 それゆえ、「纏向日代宮御宇天皇」などといった“宮号統治通称”が遡って付与されたのであろうが、そこから、さらに、“宮地名通称”を発生させるほど、 広く一般に流通してはいなかったと解されるのである。
 その一方で、景行天皇など古い時代の天皇には、“前方略称”が多く見られる。

 ケ01-1 神武 「神日本磐余彦尊」 (神代紀第十一段)
 ケ01-2 神武 「神日本磐余彦天皇」 (神武紀内題、即位前紀、綏靖即位前紀、天武紀元年七月、姓氏録山城神別、 大和神別、阿蘇氏系図)
 ケ01-3 神武 「神倭伊波禮毘古命」 (記上巻、神武記)
 ケ01-4 神武 「神倭伊波禮毘古天皇」 (神武記、粟鹿大神元記)
 ケ01-5 神武 「神倭磐余彦天皇」 (伊勢風土記逸文、山城風土記逸文、旧事紀天皇本紀、続後紀承和八年四月、 革命勘文)
 ケ01-6 神武 「磐余彦尊」 (紀神代下、旧事紀皇孫本紀)
 ケ01-7 神武 「磐余彦之帝」 (継体紀二十四年二月)
 ケ01-8 神武 「神倭天皇」 (記序文、弘仁私記序)
 ケ01-9 神武 「神日本」 (継体紀二十四年二月)
 ケ05-1 孝昭 「大三間津日子命」 (播磨風土記餝磨郡)
 ケ05-2 孝昭 「彌麻都比古命」 (播磨風土記讚容郡)
 ※ 日本古典文学大系『風土記』の頭注には、「孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ命)とする説があるが確かでない。」とある。
 ケ10-1 崇神 「美麻紀伊理毘古」 (崇神記)
 ケ10-2 崇神 「御間城入彦尊」 (開化紀二十八年正月)
 ケ10-3 崇神 「御間城入彦天皇」 (姓氏録未定雑姓)
 ケ10-4 崇神 「瀰磨紀異利寐胡」 (崇神紀十年九月)
 ケ10-5 崇神 「御間城天皇」 (垂仁即位前紀、元年十月、二年是歳、二十五年三月)
 ケ10-6 崇神 「水間城之王」 (継体紀二十四年二月)
 ケ10-7 崇神 「美麻貴天皇」 (常陸風土記香島郡、久慈郡、新治郡、丹生祝氏本系帳)
 ケ10-8 崇神 「美麻紀天皇」 (越後風土記逸文)
 ケ10-9 崇神 「彌麻歸天皇」 (住吉大社神代記)
 ケ10-10 崇神 「彌麻歸入[日]子之命」 (住吉大社神代記)
 ケ10-11 崇神 「弥麻貴入日子天皇」 (琴歌譜)
 ケ11-1 垂仁 「伊久米天皇」 (開化記、常陸風土記香島郡)
 ケ11-2 垂仁 「伊玖米天皇」 (景行記)
 ケ11-3 垂仁 「活目尊」 (崇神紀四十八年正月、四月、旧事紀天皇本紀)
 ケ11-4 垂仁 「活目天皇」 (垂仁紀二年是歳、継体即位前紀、旧事紀帝皇本紀、歌経標式)
 ケ11-5 垂仁 「活目入彦命」 (住吉大社神代記)
 ケ11-6 垂仁 「伊久牟尼利比古大王」 (上宮記一云)
 ケ12-1 景行 「大帶日子天皇」 (景行記、播磨風土記賀古郡、印南郡、伊予風土記逸文、琴歌譜)
 ケ12-2 景行 「大帶日子命」 (播磨風土記賀古郡、印南郡)
 ケ12-3 景行 「大帶比古天皇」 (播磨風土記揖保郡)
 ケ12-4 景行 「大足彦尊」 (垂仁紀三十七年正月、旧事紀天皇本紀)
 ケ12-5 景行 「大足彦天皇」 (景行紀二十七年十二月、成務即位前紀、二年正月、敏達紀十年潤二月、肥前風土記神埼郡、肥後風土記逸文、旧事紀天皇本紀、神皇本紀、聖徳太子伝暦上)
 ケ12-6 景行 「大足日子天皇」 (常陸風土記信太郡、行方郡、逸文)
 ケ21-1 雄略 「大長谷命」 (允恭記)
 ケ21-2 雄略 「大長谷王子」 (安康記)
 ケ21-3 雄略 「大長谷王」 (安康記)
 ケ21-4 雄略 「大長谷天皇」 (顕宗記、播磨風土記餝磨郡、皇太神宮儀式帳、止由気宮儀式帳、琴歌譜)
 ケ21-5 雄略 「大泊P天皇」 (允恭紀七年十二月、四十二年十一月、安康紀三年八月、雄略即位前紀、清寧即位前紀、顕宗即位前紀、二年八月、仁賢紀元年二月、続紀天平宝字八年十一月、 旧事紀神皇本紀)
 ケ21-6 雄略 「大泊P皇子」 (安康即位前紀、元年二月、三年八月)
 ケ21-7 雄略 「天皇大泊P」 (欽明紀十六年二月)
 ※ 「大泊P」は、「長谷朝倉宮」に基づく“宮地名通称”のようにも見えるが、「大」という美称が付き、 “前補後元名”の中に組み込まれていることを勘案して、 ここでは、“前方略称”の方に分類しておく。これは、武烈天皇の「小泊P」も同様である。
 ケ22-1 清寧 「白髪命」 (雄略記)
 ケ22-2 清寧 「白髪太子」 (雄略記)
 ケ22-3 清寧 「白髪天皇」 (顕宗即位前紀、二年八月、仁賢即位前紀、継体紀元年二月、旧事紀神皇本紀、帝皇本紀、 政事要略巻廿六)
 ※ 「白髪」については、前稿でも触れたとおり地名とする説に従っておく。
 ケ23-1 顕宗 「弘計」 (清寧紀二年二月、三年正月)
 ケ23-2 顕宗 「弘計王」 (清寧紀三年四月、顕宗即位前紀)
 ケ23-3 顕宗 「弘計天皇」 (顕宗紀内題、即位前紀、仁賢即位前紀、元年十月、二年九月、五年二月)
 ケ23-4 顕宗 「袁祁王」 (安康記、仁賢記)
 ケ23-5 顕宗 「袁祁命」 (清寧記)
 ケ23-6 顕宗 「雄計」 (旧事紀神皇本紀)
 ケ23-7 顕宗 「雄計王」 (旧事紀神皇本紀)
 ケ23-8 顕宗 「雄計皇子尊」 (旧事紀神皇本紀)
 ケ23-9 顕宗 「雄計天皇」 (旧事紀神皇本紀、政事要略巻五十五日本決釋記云)
 ケ23a 顕宗/仁賢 「意奚袁奚二皇子」 (播磨風土記賀毛郡)
 ケ23b 顕宗/仁賢 「於奚袁奚天皇」 (播磨風土記美囊郡)
 ケ24-1 仁賢 「億計」 (清寧紀二年二月、三年正月、旧事紀神皇本紀)
 ケ24-2 仁賢 「億計王」 (清寧紀三年四月、顕宗即位前紀、旧事紀神皇本紀、政事要略巻廿六)
 ケ24-3 仁賢 「皇太子億計」 (顕宗即位前紀、元年正月、二月、二年八月、仁賢紀二年九月、旧事紀神皇本紀)
 ケ24-4 仁賢 「億計天皇」 (仁賢紀内題、即位前紀、元年正月、武烈即位前紀、安閑紀元年三月、 宣化紀元年三月、旧事紀神皇本紀、帝皇本紀)
 ケ24-5 仁賢 「意祁王」 (安康記)
 ケ24-6 仁賢 「意祁命」 (清寧記、顕宗記、仁賢記)
 ケ24-7 仁賢 「意祁天皇」 (継体記、宣化記)
 ケ25-1 武烈 「小泊P天皇」 (継体即位前紀、二十四年二月、旧事紀帝皇本紀)
 ケ29-1 欽明 「天国排開天皇」 (弘仁私記序)
 ケ33-1 推古 「等與彌氣能命」 (元興寺伽藍縁起)
 ケ34-1 舒明 「氣長帶日天皇」 (弘仁私記序)

 コ001 参考 「宇治天皇」 (播磨風土記揖保郡)
 コ002 参考 「市邊天皇」 (播磨風土記美囊郡)

 こうして見ると、武烈天皇までの用例が多く、それ以降の“前方略称”は、数件にとどまっている。
 先ほどの“宮地名通称”が新しい時代の天皇に集中して見られるのと比較して、正反対の傾向が読み取れるであろう。
 このことは、“前補後元名”が比較的早くから使用されて、一般化していたことを物語っているように思われる。
 雄略天皇の場合、金石文では、実名(獲加多支鹵) を刻まれていたわけであるが、<ケ>の用例のように“前方略称” (大泊P)で呼ばれている場合も 少なくなかった。
 これは、漢文で書く場合には、実名が採用され、大和言葉で語る場合には、 “前補後元名”(大泊P幼武)が使用されたためではないだろうか。
 殯などの儀式で朗詠される荘重な語りには、“前補後元名”の方が相応しい。
 さまざまな文言の使途に合わせて、名前の型式も使い分けられていたと考えておきたい。
 それはともかく、“宮号統治通称”が本格的に使用され始めたのは、宣化天皇以降のことであったと推測される。 (安康天皇の場合は、「穴穗」が“正式名” となっており、他の天皇と同様の省略形とは言い切れない部分がある。)
 この想定を先ほどの図式の中に書き加えると、

 不定型の文章 = (“天皇名○○”、“宮号△△”、“治天下”を含む)・・・雄略天皇の頃
    │
 ア “宮号統治定型句” = 「○○“称号”、坐△△宮、治天下也。」
    │
 ウ “体言止め” = 「△△宮に“治天下”、名は、○○“称号”」
    │
 エ “宮号統治修飾付天皇名” = 「△△宮“治天下”○○“称号”」
    │
 イ “宮号統治通称” = 「△△宮“治天下”“称号”」・・・・・・・・・・宣化天皇以降

という具合になる。
 時系列的な視点から見ても、さほど、不自然な想定ではあるまい。
 最後に、これまで述べてきたことを、ざっくりとした概念図にまとめておくと次のようになる。

 ※ 平安朝以降、漢風諡号の使用が一般化してくると、それにつれて、“宮号統治通称” などを使用する機会も減少していったと考えられる。上述のように、 “宮地名通称”=“新しい時代”という傾向が見られることについても、“宮地名通称”が古い時代の天皇に遡及適用される以前に、 漢風諡号が一般化して、通称の使用が廃れていったのだという説明が成り立つかも知れない。



 後記

 本稿で掲出した<イ>以降の用例は、思い当たる史料をざっと見て転記しただけのものであり、 見落としや間違いがないとは言えない。(補注1でも、若干、触れたが、 「△△朝庭」などと表記されたものの中にも、天皇の通称として取り扱うべきものが含まれているかも知れない。)
 あくまでも、おおよその傾向を捉えるためのものとして見ていただければ幸いである。
 また、本稿では、用字・用語の変遷について、私見を述べるまでには至らなかった。
 同義語・用字が複数ある場合、史料の編纂、写本の作成など、さまざまな機会に文字が変換されている可能性があり、判定が難しいのである。
 例えば、「天皇」号の使用開始時期など、周知のとおり、推古朝説、天武朝説、その他諸説があって、議論百出の状態になっている。
 この問題について、あえて感想を述べてみると、注目されるのは、隋の煬帝を怒らせた「日出ずる処の天子」の国書である。
 対外的に「天子」を主張した人々が、国内的に「大王」でお茶を濁していたとは想定しづらい。
 そういう点で、推古朝に「天皇」号が採用されたとしても、さほど不思議なことではないと考えている。
 ところで、第1節でも触れたとおり、古事記各天皇段の冒頭は、“宮号統治定型句”で始まっている。
 これと同様に、日本書紀各天皇紀の書き出しにも一定の様式が認められる。
 内容としては、

 “天皇名”、 “父の名および続柄”、 “母の名”

という三点が基本的な要素となって文章が構成されている。(先代の同母弟の場合など、いくつかの例外はある。)

 ・神武紀 「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姫。海童之少女也。」
 ・綏靖紀 「神渟名川耳天皇、神日本磐余彦天皇第三子也。母曰媛蹈鞴五十鈴媛命。事代主神之大女也。」
 ・安寧紀 「磯城津彦玉手看天皇、神渟名川耳天皇太子也。母曰五十鈴依媛命。事代主神之少女也。」
 ・懿徳紀 「大日本彦耜友天皇、磯城津彦玉手看天皇第二子也。母曰渟名底仲媛命。事代主神孫、鴨王女也。」
 ・孝昭紀 「觀松彦香殖稻天皇、大日本彦耜友天皇太子也。母皇后天豐津媛命、息石耳命之女也。」
 ・孝安紀 「日本足彦國押人天皇、觀松彦香殖稻天皇第二子也。母曰世襲足媛。尾張連遠祖瀛津世襲之妹也。」
 ・孝霊紀 「大日本根子彦太瓊天皇、日本足彦國押人天皇太子也。母曰押媛。蓋天足彦國押人命之女乎。」
 ・孝元紀 「大日本根子彦國牽天皇、大日本根子彦太瓊天皇太子也。母曰細媛。磯城縣主大目之女也。」
 ・開化紀 「稚日本根子彦大日日天皇、大日本根子彦國牽天皇第二子也。母曰欝色謎命。穗積臣遠祖欝色雄命之妹也。」
 ・崇神紀 「御間城入彦五十瓊殖天皇、稚日本根子彦大日々天皇第二子也。母曰伊香色謎命。物部氏遠祖大綜麻杵之女也。」
 ・垂仁紀 「活目入彦五十狹茅天皇、御間城入彦五十瓊殖天皇第三子也。母皇后曰御間城姫。大彦命之女也。」
 ・景行紀 「大足彦忍代別天皇、活目入彦五十狹茅天皇第三子也。母皇后曰日葉洲媛命。丹波道主王之女也。」
 ・成務紀 「稚足彦天皇、大足彦忍代別天皇第四子也。母皇后曰八坂入姫命。八坂入彦皇子之女也。」
 ・仲哀紀 「足仲彦天皇、日本武尊第二子也。母皇后曰兩道入姫命。活目入彦五十狹茅天皇之女也。」
 ・神功紀 「氣長足姫尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。」
 ・応神紀 「譽田天皇、足仲彦天皇第四子也。母曰氣長足姫尊。」
 ・仁徳紀 「大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也。」
 ・履中紀 「去來穗別天皇、大鷦鷯天皇太子也。(注略)母曰磐之媛命。葛城襲津彦女也。」
 ・反正紀 「瑞齒別天皇、去來穗別天皇同母弟也。」
 ・允恭紀 「雄朝津間稚子宿禰天皇、瑞齒別天皇同母弟也。」
 ・安康紀 「穴穗天皇、雄朝津間稚子宿禰天皇第二子也。(注略)母曰忍坂大中姫命。 稚渟毛二岐皇子之女也。」
 ・雄略紀 「大泊P幼武天皇、雄朝嬬稚子宿禰天皇第五子也。」
 ・清寧紀 「白髮武廣國押稚日本根子天皇、大泊P幼武天皇第三子也。母曰葛城韓媛。」
 ・顕宗紀 「弘計天皇(注略)大兄去來穗別天皇孫也。市邊押磐皇子子也。母曰荑媛。 (注略)
 ・仁賢紀 「億計天皇、諱大脚。(注略)字嶋郎。弘計天皇同母兄也。」
 ・武烈紀 「小泊P稚鷦鷯天皇、億計天皇太子也。母曰春日大娘皇后。」
 ・継体紀 「男大迹天皇(注略)譽田天皇五世孫、彦主人王之子也。母曰振媛。 振媛、活目天皇七世之孫也。」
 ・安閑紀 「勾大兄廣國押武金日天皇、男大迹天皇長子也。母曰目子媛。」
 ・宣化紀 「武小廣國押盾天皇、男大迹天皇第二子也。勾大兄廣國押武金日天皇之同母弟也。」
 ・欽明紀 「天國排開廣庭天皇、男大迹天皇嫡子也。母曰手白香皇后。」
 ・敏達紀 「渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也。母曰石姫皇后。石姫皇后、武小廣國押盾天皇女也。
 ・用明紀 「橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也。母曰堅鹽媛。」
 ・崇峻紀 「泊P部天皇、天國排開廣庭天皇第十二子也。母曰小姉君。稻目宿禰女也。
 ・推古紀 「豐御食炊屋姫天皇、天國排開廣庭天皇中女也。橘豐日天皇同母妹也。」
 ・舒明紀 「息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」
 ・皇極紀 「天豐財重日(注略)足姫天皇、 渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彦人大兄皇子孫、茅渟王女也。母曰吉備姫王。」
 ・孝徳紀 「天萬豐日天皇、天豐財重日足姫天皇同母弟也。」
 ・斉明紀 「天豐財重日足姫天皇、初適於橘豐日天皇之孫高向王、而生漢皇子。後適於息長足日廣額天皇、而生二男一女。」
 ・天智紀 「天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰天豐財重日足姫天皇。」
 ・天武紀 「天渟中(注略)原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。」
 ・持統紀 「高天原廣野姫天皇、少名鸕野讚良皇女。天命開別天皇第二女也。母曰遠智娘。(注略)

 この形は、中国正史の様式に倣ったもののようであり、坂本太郎『六国史』の「総説」 を見ると、漢書や後漢書の本紀の体裁と同じであることが指摘されている。
 参考までに、漢書の中から、典型的な文例を三例、引用しておくと、次のとおりである。(顔師古注等は引用しない。)

 ・惠帝紀 「孝惠皇帝、高祖太子也、母曰呂皇后。」
 ・文帝紀 「孝文皇帝、高祖中子也、母曰薄姫。」
 ・景帝紀 「孝景皇帝、文帝太子也。母曰竇皇后。」

 見比べてみれば、確かに同じ形をしている。
 このように、中国正史の体裁を採用した日本書紀に対して、古事記の定型句は孤立している。
 “宮号統治定型句”は、日本独自の様式ということになるのであろう。



 補注 1   朝・朝庭の意味と訓み

 日本書紀を見ると、宮地名を冠した「△△朝」や「△△朝庭」といった表記が六件ほど見受けられる。
 その意味するところは、おおよそ“宮殿”、“政府”、“時代”の三つに振り分けることができそうである。

 (1)宮殿

 ○斉明紀元年七月(十一日)
 難波の朝にして、北北は越ぞ。の 蝦夷九十九人、東東は陸奧ぞ。の蝦夷九十五人に饗たまふ。

 ○斉明紀七年五月(九日)(伊吉連博得書云)
 僅に耽羅之嶋に到る。 便即ち嶋人王子阿波伎等九人を招き慰へて、同じく客の船に載せて、帝朝に獻らむとす。 五月二十三日に、朝倉の朝に奉進る。耽羅の入朝此時に始れり。

 (2)政府

 ○天武紀元年六月(二十二日)
 今聞く、近江朝庭の臣等、 朕が爲に害はむことを謀る。

 ○天武紀元年六月(二十六日)
 是の時に、近江朝、 大皇弟東國に入りたまふことを聞きて、其の群臣悉に愕ぢて、京の內震動く。

 ○天武紀元年六月(二十七日)
 昨夜、 近江朝より驛使馳せ至りぬ。・・・其れ近江朝には、左右大臣、及び智謀き群臣、共に議を定む。

 (3)時代

 ○天武紀六年六月是月条
 是を以て、小墾田の御世より、 近江の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以て事とす。 今朕が世に當りて汝等の不可しき状を將責めて、犯の隨に罪すべし。

 諸橋『大漢和辞典』を見ると、

  朝 ┬ ・・・
  │ ├ まつりのには。政事する處。
  │ ├ まつりごと。
  │ ├ まつりごとをとる。
  │ ├ つかさ。官廳。
  │ ├ 當代の天子の治下。
  │ ├ 一人の天子の在位する期閨B
  │ ├ 一系の天子が統治する期閨B
  │ └ ・・・
  │
  ├ 朝廷 ┬ 群臣が天子に謁見し、天子が萬機を聽くところ。朝庭。朝堂。廟堂。
  │ ○○ └ 天子をいふ。
  │
  ├ 朝庭 ─ 朝廷に同じ。

という説明がなされており、「朝」と「朝庭」とでは、意味合いに微妙な相違があるようにも読み取れるが、 日本書紀の場合、用語による意味の使い分けが行われているようには見えない。
 また、続日本紀においても、いわゆる薨卒伝などに「△△朝」や「△△朝庭」の用例が少なからず見られるが、 その多くが“時代”の意味で使われており、 「朝」・「朝庭」を区別なく使用している。
 例えば、

 ○大宝元年正月(十五日)
  大納言正広参大伴宿禰御行薨しぬ。・・・ 御行は、難破朝の右大臣大紫長徳が子なり。

 ○和銅元年閏八月(八日)
 摂津大夫従三位高向朝臣麻呂薨しぬ。 難波朝廷の刑部尚書大花上国忍が子なり。

といった具合である。
 ところで、続日本紀には、もうひとつ、“天皇”を意味すると解される用例もある。

 (4)天皇

 ○天平宝字元年十二月(九日)
 淡海朝庭の諒陰の際、 義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出でたまふ。

 この場合の「淡海朝庭」は、やはり、天智天皇と解するのが良かろう。
 それから、下記の用例も気にかかるところである。

 ○天平宝字二年四月(二十八日)
 昔、泊瀬朝倉朝廷、百済国に詔して、 才人を訪ね求めたまふ。爰に徳来を聖朝に貢進りき。徳来が五世の孫恵日は、 小治田朝廷の御世に、大唐に遣されて、医術を学び得たり。

 ○延暦十年九月(十八日)
 千継らが先は、皇直なり。 訳語田朝庭の御世に、国造の葉を継ぎて所部の堺を管れり。

 ○延暦十年十二月(八日)
 広川らが七世の祖紀博世は、 小治田朝庭の御世に伊豫国に遣さる。

 このうち、「△△朝庭の御世」とある場合は、それ全体で“時代”を意味することになるが、 その中の「△△朝庭」に限っていえば、“天皇”を意味しているようにも解釈できる。
 ただ、“宮殿”や“政府”などと解しても、一向に差し支えない。
 そもそも、「△△朝」や「△△朝庭」は、多義的な言葉であり、文章に採用した人々も、その点を承知のうえで、 一語に複数の意味を込めて使用していたのかも知れない。
 いずれにせよ、意味合いとしては、“宮殿”、“政府”、“時代”、“天皇”という四つの範疇の中に収まるものと考えられる。
 ※ 大宝元年八月<三日>条の「律令を撰ひ定めしむること、是に始めて成る。 大略、浄御原朝庭を以て准正とす。」という記事に見える「浄御原朝庭」は、 後に続くべき“律令”を省略したものか、または、書き漏らしたものであろう。
 さて、日本古典文学大系本『日本書紀』、新日本古典文学大系本 『続日本紀』においては、上記の用例すべてに「みかど」というルビが振られている。
 そう訓むのが普通ではあるが、“宮殿”を意味する場合は、日本古典文学大系本 『風土記』のように「みや」と訓むことも許されるであろう。(第1節 <イ>の用例の注記を参照。)

 補注 2   小治田河原天皇について

 「小治田河原天皇」が出現するのは、わずかに一例、播磨国風土記(揖保郡)

 今、勝部と號くる所以は、 小治田の河原の天皇のみ世、大倭の千代の勝部等を遣りて、田を墾らしむるに、即ち、此の山の邊に居りき。 故、勝部岡と號く。

という文章の中においてである。
 この通称について、井上通泰『播磨國風土記新考』は、

 小治田と飛鳥とは異名同地 (又は小治田は飛鳥の内) なれば小治田 河原宮は即飛鳥河原宮にて小治田河原天皇は皇極(齊明)の御事なり

と解しているが、日本古典文学大系本『風土記』の頭注では、

 推古天皇の宮号小治田宮と斉明天皇の 初期の宮号飛鳥河原宮とを併せた如き宮号で他に見えない。推古天皇の宮号とすべきであろう。

と解説している。
 ここで問題となっている「小治田」と「飛鳥」の関係については、本居宣長 『古事記伝』(四十四之巻)に、

 小治田は、即飛鳥と同地にて、 飛鳥を此御世のころ、小治田と云しなるべし、【其故は、右に引る續紀に、小治田岡本宮とあるは、 即飛鳥岡本宮と聞え、靈異記に雷岡とあるは、 即今も雷土村と云て、飛鳥の神奈備山と云處なり、又萬葉に小墾田乃坂田橋とあると、 用明紀推古紀に、南淵坂田寺とあると同地にて、今飛鳥の東南の方近く南淵村坂田村などあり、 これらを思ふに、飛鳥の地を廣く小治田と云しなるべし、・・・

という解釈が見える。
 一方で、岸俊男「飛鳥と方格地割」は、

 今日の飛鳥の地域概念からすれば 明らかに飛鳥に含まれて然るべきであると思われる豊浦宮・小墾田宮・嶋宮が「飛鳥」を冠して呼称されず、 また新益京と称された藤原京も飛鳥藤原京とは呼ばれていない。

と指摘して、「小墾田」が「飛鳥」と区別されていたであろうことを想定している。
 いずれを是とすべきか、判断に迷うところであるが、議論の焦点となるのは、続日本紀 (天平宝字五年正月<七日>条)

 詔して曰はく 「大史局事を奏すること有るに依りて、 暫く移りて小治田岡本宮に御します。是を以て、 大和の国司の史生已上の恪勤みて供奉る者に爵一階を賜ふ。 郡司には物を賜ひ、百姓には今年の調を免す」とのたまふ。

という記事であろう。
 この「小治田岡本宮」が「飛鳥岡本宮」と同じ場所に建っていたとすれば、「小治田河原天皇」も、 「明日香川原宮御宇天皇」と同義と類推され、斉明天皇に落ち着くこととなろう。
 この点をもう少し考えるための手がかりとして、同じ小地名を持ちながら、大地名に異同がある宮号を取り上げてみることにしたい。

 ┌ 穴門之豐浦宮 (仲哀記)
 ├ 佐久羅韋等由良宮 (元興寺塔露盤銘)
 └ 小治田豐浦宮 (旧事紀天孫本紀)

 ┌ 高市岡本宮 (万葉集巻一)
 ├ 飛鳥岡本宮 (万葉集巻一類聚歌林曰)
 └ 小治田岡本宮 (続紀天平宝字五年正月)

 ┌ 明日香川原宮 (万葉集巻一)
 └ 小治田河原天皇 (播磨風土記揖保郡)

 このうち、「穴門之豐浦」という地名は、山口県豊浦郡(現下関市)の地を指すと思われ、 この場合の「豐浦」は、“同名異地”であることが確実である。
 従って、「岡本」や「河原」の場合も、これと同様の可能性がないわけではない。
 しかし、そうだとすると、「飛鳥」と「小治田」という隣接した地域に岡本宮が二ヶ所、河原宮が二ヶ所あったことになる。
 また、「高市」と「飛鳥」については、現代の高市郡明日香村という地名を見ても明らかなように包含関係にあったと想定される。
 それゆえ、「高市岡本宮」と「飛鳥岡本宮」は、表現が違うだけで同じ宮殿を指示していることになる。
 次に「佐久羅韋」であるが、福山敏男「豊浦寺の創立に関する研究」を見ると、

 光仁紀の童謡に「葛城寺前在、豐浦寺西在、・・・櫻井・・・」とある點などから考へると、 櫻井は豐浦よりも廣い地域を指してゐるか、 又は櫻井は豐浦の隣接地であるのか(この場合、櫻井豐浦の宮は兩方に跨つてゐたことにならう)であるらしい。

と推測している。
 その続日本紀(光仁天皇即位前紀)の「童謡」を、もう少し詳しく紹介すると、次のようになる。

 葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや  おしとど としとど 桜井に白壁沈くや 好き壁沈くや おしとど としとど 然しては国ぞ昌ゆるや  吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど

 ここに見える「桜井」を新日本古典文学大系本の脚注では、「井戸の名称」としていて、 その通りに違いないが、それと同時に、 地名でもあった可能性は否定できないように思われる。
 このように見てきたところで、上記地名同士の関係について、

 ・「高市」は、他の地名よりも一段と広い地域の名称である。
 ・他の宮号の省略形ではない小治田宮が独自に存在していた。
 ・「桜井」は、豊浦宮以外の宮号と結び付いた例がない。
 ・豊浦宮、および、小墾田宮は、「飛鳥」を冠して呼称された例がない。

という四つの条件を考慮に入れて、そのすべてを形式的に満たす関係を図式化すると、次のような三つの案が浮んでくる。

 (甲案)
   高市
   ├───┬────────────────┬─
   桜井○○小治田○○○○○○○○○○○○○○飛鳥
   ├─○○├───┬───┬───┬──○○├───┬─
   豊浦○○豊浦○○岡本○○河原○○小治田○○岡本○○河原

 (乙案)
   高市
   ├────────────────┬─
   小治田○○○○○○○○○○○○○○飛 鳥
   ├───┬───┬───┬──○○├───┬─
   桜井○○岡本○○河原○○小治田○○岡本○○河原
   ├─
   豊浦

 (丙案)
   高市
   ├──
   小治田
   ├───┬───────┬──
   桜井○○飛鳥○○○○○○小治田
   ├─○○├───┬─
   豊浦○○岡本○○河原

 いずれの案が正鵠を射ているのか、あるいは、すべて外れているのか、確実なことは何も言えないが、 このとき、できるだけ単純な形が望ましいとすれば、最後に残るのは丙案ということになろう。
 つまるところ、「小治田河原」 = 「飛鳥河原」と考えて、「小治田河原天皇」は、斉明天皇と想定しておくことにしたい。

  <付記>
 「小治田」や「豊浦」という地名が出てきたこともあり、推古天皇の通称についても、若干、触れてみたいと思う。
 推古天皇は、多くの場合、「小墾田宮御宇天皇」など「小墾田宮」をもって呼ばれているが、 少数ながら「豊浦宮」で呼ばれている事例もあった。 (船王後墓誌に「等由羅宮治天下天皇」、 元興寺伽藍縁起に「楷井等由羅宮治天下等與弥気賀斯岐夜比売命」などとある。)
 これは、推古即位前紀に、

 皇后、豐浦宮に即天皇位す。

とあり、同紀十一年十月(四日)条に、

 小墾田宮に遷る。

と記述されていることからすれば、双方の呼称が通用していて何ら不思議はない道理である。
 ただ、治世三十六年のうち、二十六年間を「小墾田宮」で過ごしたとすれば、やはり「小墾田宮」の方が一般的な通称であったに違いない。
 特に、後の時代になって振り返る場合、「小墾田宮」の印象の方が強かったはずである。
 しからば、「豊浦宮」が選択された理由は、どこにあったのか。
 そう考えたときに注目されるのは、元興寺伽藍縁起(丈六光銘曰)

 天皇名廣庭、在斯帰斯麻宮時、・・・

という一節である。
 「在△△宮時」という形は、稲荷山鉄剣銘などにも見られる型式である。
 この形が推古朝以降も使用されていたとすれば、推古天皇に対しても、「在豊浦宮時」という表現がなされていた可能性が考えられる。 (推古天皇の「世」を 「在豊浦宮時」と「在小治田宮時」に分割して記述することができたわけである。)
 船王後墓誌や元興寺伽藍縁起がこのような表現を含む文章を参照して製作されたとすれば、 「等由羅宮治天下天皇」という表記も、ごく自然に了解することができるであろう。

  補注 3  浄御原という名称

 「浄御原」については、これを地名とする説、地名ではなく嘉号とする説の両説が存在している。

 ○地名説(小野勝年「飛鳥浄御原宮御宇天皇の「おくりな」についての疑問 ─長谷寺蔵千仏多宝塔銘文に関連して─」)
  喜田博士によれば浄御原は真神原と同一もしくはその一部といわれているが、 浄御原の地名は元来、飛鳥川に関係をもつものと解される。・・・ むしろ浄御原のキヨミとはキヨミズ(清水)と関係があり、飛鳥川と連繋した名称ではあるまいか。 飛鳥川を一に清の河と称したことは万葉集巻三に、
  妹も吾も清の河の河岸の妹が悔ゆべき心はもたじ
とあるによっても窺うことが出来る。 もっとも飛鳥川全体を清の河と呼んだのではなく、宮都附近を指しているのであろう。 この清の河はキヨミの河と読まれているが、「童蒙抄」ではミソギシ河と読ませている。 しからば浄御原も元来はミソギの場所と連関した名称ではなかったか。 その何れにせよ、これは藤原・寧楽などゝ同じく、旧来から存した地名であったと解したい。


 ○嘉号説(今泉隆雄「「飛鳥浄御原宮」の宮号について」)
 ところで浄御原宮であるが、 ──原宮とあるように一見地名による宮号のようにみえるが、実は浄御原宮の営まれた地は 「飛鳥真神の原」あるいは「飛鳥苫田」という地名でよばれていたのである。 持統十年七月に薨じた高市皇子の殯の時の柿本人麻呂の挽歌に天武天皇が 「明日香乃真神之原」に宮室を定めたとよんでいるのがそれである(万葉集二−一九九)。 また『日本書紀』崇峻元年是歳条によれば、飛鳥寺の所在地も真神の原に含まれ、 この地は別名「飛鳥苫田」ともよばれたとある。『万葉集』の壬申の乱後の浄御原宮造営について歌った二首の歌に、 「赤駒の匍匐ふ田井を」あるいは「水鳥の多集く水沼を」都となしたとあるが(巻十九−四二六〇・四二六一)、 これはこの地が低湿地であったことを示し、 「苫田」という地名は低湿で苫の生える地ということに由来するのであろう。 以上のように、浄御原宮の所在地の地名は、飛鳥真神の原、飛鳥苫田であるから、 その宮号は一般的な宮号の命名法と異なって、地名によったものではないのであって、 その命名には別の意味がこめられていたと考えることができる。・・・ 「浄(清)御原」とは「清浄な(場所としての)原」の意であって、 この宮号は一種の嘉号であろう。

 こうして両者を見較べてみると、名称の意味や由来にも関心が向けられており、 その点については、これといった考えも思い浮かばないのであるが、 論旨の展開を追ってみると、嘉号説の方には、若干の難点があるように見える。
 すなわち、今泉論文の推論は、

 ・宮殿所在地の名称は、「真神の原」、または、「苫田」である。
 ・「浄御原」は、「真神の原」でも「苫田」でもない。
 ・ゆえに、「浄御原」は地名ではない。

という流れになっているように読み取れる。
 しかし、「真神の原でも苫田でもない」ということから、「浄御原は地名ではない」という結論を導き出すのは、性急であるように思われる。
 というのも、地名には、しばしば「異名同地」の現象が見られるからである。
 現に、上記の場合も、「真神原」と「苫田」は、「異名同地」であって、同一地域が「真神原」とも、「苫田」とも呼ばれていたのである。
 それゆえ、「真神原」、「苫田」に加えて、「浄御原」という呼称があったとしても、何ら不都合は生じないのである。
 しかも、「浄御原」には、「原」という地形を意味する言葉が含まれており、地名であることを否定する方が、むしろ、不自然であるように感じられる。
 ごく単純に考えて、「浄御原」は、地名であると考えておきたい。
 なお、「飛鳥浄御原宮」という宮号については、日本書紀に、

 ○天武紀元年是歳条
 宮室を岡本宮の南に營る。 即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。

 ○天武紀朱鳥元年七月(二十日)条 = 天武十五年改元
 元を改めて朱鳥元年と曰ふ。 朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。 仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。

という二つの記事が見える。
 いずれも、宮の名称に言及があり、命名記事としては、重複している。
 どちらを取るべきか、二者択一を迫られた場合には、前者を生かすのが通常の判断であろう。
 造営した新宮に名前をつけるというのは、ごく当たり前の行為であり、むしろ、名づけない方が異常である。
 この点、土橋寛「“飛鳥”という文字」では、

 地名のアスカに 「飛鳥」の文字を用いたのは何時ごろからか、

という問題を提起して、小野毛人墓誌の「飛鳥浄御原宮」や法華説相図の「飛鳥清御原大宮」という用例を取り上げ、銘文の製作年代が、それぞれ、天武六年、 天武十五年七月上旬であることを論じて、

  「飛鳥」の文字が朱鳥改元以前から用いられていたことを示している。

としたうえで、朱鳥元年の記事を

 私はこれを『日本書紀』の撰述者が、 奈良朝の時点において、アスカを「飛鳥」と表記する理由ないし起源を「朱鳥」の改元に付会した、 起源説話的説明であろうと思う。

と解している。
 さすがに、付会とまでは行かないにしても、朱鳥元年の記事に何かしらの問題があることは確かであろう。
 しからば、何があったのか。
 ごく常識的な範囲で想定されるのは、文章の一部が脱落するなどして、舌足らずな表現になっているということである。
 この記事の場合、「朱鳥」を、特に、アカミトリと訓ませていることからすると、「飛鳥」にも同様の訓みが与えられていた可能性が考えられる。
 例えば、本居宣長『古事記伝』(三十八之巻)は、

 此飛鳥は、トブトリノと訓べし、

と注記しているが、訓みとしては、そう訓むのが、最も自然な訓み方であろう。
 吉永登「トブトリノ明日香」も、

 この記事に関するかぎり やはり在来のアスカノキヨミハラノミヤの宮号を改めて トブトリノキヨミハラノミヤといったと解するべきではなかろうか。

と述べて、トブトリノ説を支持すると同時に、その後、再びアスカへ復旧したことを想定し、その復活の時期を万葉集の用例などから、

 持統四年(六九〇)一月一日、 持統天皇即位の際と見るべきではないだろうか。

と推測している。
 この説に従うと、トブトリノと訓まれた期間は、朱鳥元年七月から持統三年十二月まで、わずかに三年半ほどであったことになる。

  <付記>
 天武天皇は、万葉集(巻第一、21番歌題詞の注)において、

 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇

と表示されている。
 また、「飛鳥朝」という表現で天武天皇の時代を指示している場合もある。

 ・天武 「至於飛鳥之朝壬午之秊出家歸道」 (行基骨蔵器)
 ・天武 「中納言従三位巨勢朝臣麻呂薨。・・・飛鳥朝京職直大参志丹之子也。」 (続紀養老元年正月)
 ・天武 「大和守従三位大伴宿禰古慈斐薨。飛鳥朝常道頭贈大錦中少吹負之孫、・・・」 (続紀宝亀八年八月)
 ・天武 「伊豆國造・・・難波朝御世。隷駿河國。飛鳥朝御世分置如故。」 (旧事紀国造本紀)
 ※ 伊豆国分置の時期については、佐伯有清高嶋弘志編『国造・県主関係史料集』の補注に 「『扶桑略記』天武天皇九年七月条に「別駿河二郡。為伊豆国」、『帝王編年記』同月条に 「割駿河国建伊豆国」とある。」という解説がある。

 こうして見ると、偶然「浄御原」が脱落したわけではなく、意図的に「飛鳥」のみが採用される場合もあったようである。
 一方で、「飛鳥」をもって呼ばれるのは、天武天皇だけではなく、舒明、皇極、持統の三代も、それぞれ「飛鳥」で呼ばれる場合があった。

 ・舒明 「至於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 (船王後墓誌)
 ・舒明 「殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (船王後墓誌)
 ・舒明 「己等先高麗人也。小治田。飛鳥二朝庭時節。歸化來朝。」 (後紀延暦十八年十二月)
 ・皇極 「飛鳥以前。未有年號之目。難波御宇。始顯大化之稱。」 (後紀弘仁元年九月)
 ・皇極 「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日、」 (上宮聖徳法王帝説)
 ・持統 「右癸巳年十月廿六日飛鳥宮御宇 天皇爲仁王會納賜者、」 (法隆寺伽藍縁起)
 ・持統 「右癸巳十月廿六日仁王會、納賜飛鳥宮御宇 天皇者、」 (法隆寺伽藍縁起)
 ・持統 「右飛鳥宮御宇 天皇以癸巳年十月廿六日、爲仁王會納賜者、」 (大安寺伽藍縁起)

 これらの天皇は、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥川原宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮に居を構えたわけであるから、 「飛鳥」で呼ばれること自体に問題は起こらない。
 ただ、四代とも同じ呼称となると、区別が付かなくなるのは自然の成り行きである。
 例えば、続日本紀や正倉院文書には、

 ○続日本紀(天平十四年十一月<二日>条)
 参議従三位大野朝臣東人薨。 飛鳥朝庭糺職大夫直広肆果安之子也。

 ○他田日奉部神護解(天平二十年)
 父追廣肆宮麻呂、飛鳥 朝庭少領司仕奉、又外正八位上給藤原朝庭大領司仕奉

といった用例があるが、この場合の「飛鳥朝庭」が天武朝、持統朝のいずれを指しているかは、判別不能である。 (二者択一とは限らず、 両朝を通じて同じ地位を保持していた可能性もある。)
 もっとも、他の用例では、干支や文脈から特定が可能となっており、そのような手がかりがある場合には、省略が可能であったのかも知れない。
 それにしても、やはり、「飛鳥」だけでは、紛らわしい。
 最初の舒明天皇は、ともかく、皇極天皇以降に、重複を承知で“飛鳥のみ”が使用された理由は、どこにあったのだろうか。
 そこで、ひとつ考えられるのは、重複使用の始まった時期が比較的遅かったのではないかということである。
 すなわち、記憶が曖昧になるとともに、表現も曖昧になったと考えるわけである。
 その時期としては、人々の間に飛鳥京の記憶が残る中で、個々の天皇の印象が薄らいできた頃というのは、いかがであろうか。
 干支などを丹念に辿れば正解が得られるものの、すぐには判明しないという時に、 こう書いておけば間違いない便利な呼称として「飛鳥」が重宝されたのではないだろうか。
 なお、“重複”という点では、「浄御原」も、天武天皇に限らず使用されている。

 ・持統 「永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮那須國造追大壹那須直韋提、評督被賜、」 (那須国造碑)
 ・持統 「右甲午年、飛鳥浄御原宮御宇 天皇請坐者、」 (法隆寺伽藍縁起)
 ・持統 「右飛鳥浄御原宮御宇 天皇以甲午年請坐者、」 (大安寺伽藍縁起)
 ・持統 「右飛鳥浄御原宮御宇 天皇以甲午年坐奉者、」 (大安寺伽藍縁起)
 ・持統 「天下仁王経大購會、但金鍾寺者、浄御原天皇御時、九丈潅頂十二丈撞立而大會、」 (天平十八年具注暦)

 上記用例は、文中の干支の年紀などから見て、持統天皇を指すと推定されているものである。
 こちらの場合も、史料の製作自体は、当該年紀よりも後の時代に行われており、 その時点で、天武、持統の区別が、はっきりせず、このような表記になったのかも知れない。 (持統天皇も藤原遷都以前に飛鳥浄御原宮を使用していたことは間違いないが、 威奈大村骨蔵器銘のように「後清原聖朝」 などと書いて区別することは出来たはずである。)
 ただ、それだけでは、説明しきれない用例も存在する。

 ○采女氏塋域碑
 飛鳥浄御原大朝庭大弁官直大貳 采女竹良卿所請造墓所、形浦山地四千代、他人莫上毀木犯穢傍地也、己丑年十二月廿五日
 
 文末の「己丑年十二月廿五日」は、おそらく碑文の製作された日付であり、持統三年に相当すると思われるが、 この場合の「飛鳥浄御原大朝庭」が天武朝、 持統朝のいずれを意味しているかは微妙なところである。 (天武紀朱鳥元年九月<二十七日>条には、 「次に直大肆采女朝臣竺羅、 内命婦の事を誄る。」という一文がある。小野勝年前掲論文では、「大宝令の規定によれば内命婦は中務省に属する。 したがつて竹良がこれに関する誄詞を申したということは中務省関係の職務に関与していたことが推測される。 したがつて彼は未だ大政官に所属してはいなかつたと解される。」と述べて、 大弁官就任を持統称制時代に入ってからと推測している。)
 仮に持統朝を指示しているとすると、当代を先代と全く同じ名称で呼んだことになる。
 持統三年は、称制時代であり、正式に即位していないということもあって、このような曖昧な表現となったのであろうか。 (称制時代の出来事を記述しているという点では、 上記、那須國造碑も同様である。)
 ※ 二つの碑文は、それぞれ、「大朝庭」・「大宮」とあって、「天皇」と表記していないことからすると、 宮殿に主眼を置いて、“浄御原宮の時代” というほどの意味合いで使用したのかも知れない。
 それから、もう一つ、続日本紀 (宝亀二年二月<二十二日>条)には、

 藤原宮に御宇しし天皇が御世には、 祖父太政大臣また明く浄き心を以て天皇が朝を助け奉り仕へ奉りき。

という文言が見られる。
 この場合の「祖父太政大臣」とは、藤原不比等のことであり、「藤原宮御宇天皇御世」とは、持統・文武の二朝を意味しているようである。 (新日本古典文学大系本の脚注参照。)
 厳密に言えば、藤原遷都以前の持統朝を含まず、平城遷都以前の元明朝を含むことになるのだろうが、 そこまで正確さを求めた文章ではなく、 ざっくりと、持統・文武朝の頃を思い浮かべて書き記したものと想定される。
 宮都の固定化に伴い、「藤原宮御宇天皇」という通称が持つことになった曖昧さをそのまま生かした用例と言えるかも知れない。
 この感覚は、「飛鳥宮御宇天皇」という曖昧な通称を採用した感覚とも通じ合うものがあるように思われる。



参考文献

 日本古典文学大系『日本書紀 上・下』(岩波書店、1965〜67年)

 日本古典文学大系『古事記・祝詞』(岩波書店、1958年)

 鎌田純一『先代舊事本紀の研究 挍本の部』(吉川弘文館、昭和35年)

 田中卓「『六人部連本系帳』の出現」(同著『考古学・上代史料の再検討』、国書刊行会、平成24年、所収。)

 古系図研究会(加藤謙吉代表)「『和珥部氏系図』について」(『中央史学』29号、2006年)

 日本古典文学大系『風土記』(岩波書店、1958年)

 新日本古典文学大系『続日本紀 一〜五』(岩波書店、1989〜98年)

 田中卓『新撰姓氏録の研究』(国書刊行会、平成8年)

 田中卓『住吉大社神代記の研究』(国書刊行会、昭和60年)

 「止由氣宮儀式帳」(『群書類従・第一輯 神祇部』、続群書類従完成会、昭和58年、訂正三版五刷、所収。)

 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之『萬葉集 本文編・訳文編』(塙書房、昭和38〜47年)

 「威奈大村骨蔵器」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 田中卓「元興寺伽藍縁起并流記資材帳の校訂と和訓」(同著『古典籍と史料』、国書刊行会、平成5年、所収。)

 「船王後墓誌」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 黛弘道「継体天皇の系譜についての再考」(同著『律令国家成立史の研究』、吉川弘文館、昭和57年、所収。)

 「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」(竹内理三編『寧楽遺文 中巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 「薬師如来坐像銘文(奈良 法隆寺)」(『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 飯田瑞穗「彰考館蔵『上宮聖徳太子傳補闕記』翻印」(同著『聖徳太子伝の研究』、吉川弘文館、2000年、所収。)

 新日本古典文学大系『日本霊異記』(岩波書店、1996年)

 「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(竹内理三編『寧楽遺文 中巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 新訂増補國史大系『類聚三代格 前篇・後篇』(吉川弘文館、昭和37年)

 新訂増補國史大系『續日本後紀』(吉川弘文館、昭和58年、普及版)

 新訂増補國史大系『日本文コ天皇實録』(吉川弘文館、昭和56年、普及版)

 新訂増補國史大系『日本三代實録 前篇・後篇』(吉川弘文館、昭和58年、普及版)

 「藥師寺縁起」(『新校群書類從 第十九巻』、内外書籍、昭和7年、所収。)

 「弘福寺三綱牒」(『大日本古文書』編年文書3−41、東大史料編纂所 奈良時代古文書フルテキストデータベース)

 筒井英俊編『東大寺要録』(全国書房、昭和19年)

 「小野毛人墓誌」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 「法華説相図(奈良 長谷寺)」(『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 「薬師寺東塔檫銘」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 東野治之「天皇号の成立年代について」(同著『正倉院文書と木簡の研究』、塙書房、昭和52年、所収。)

 「東大寺獻物帳」(竹内理三編『寧楽遺文 中巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 埼玉県教育委員会編『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』(県政情報資料室、昭和54年)

 東京国立博物館編『江田船山古墳出土国宝銀象嵌銘大刀』(吉川弘文館、平成5年)

 坂元義種「文字のある考古学史料の諸問題」(『ゼミナール日本古代史 下』、光文社、1980年、所収。)

 『本居宣長全集 第九巻〜第十二巻、古事記伝 一〜四』(筑摩書房、昭和43〜49年)

 飯田瑞穗「天寿国繍帳銘の復元について」(同著『聖徳太子伝の研究』、吉川弘文館、2000年、所収。)

 飯田瑞穗「「天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文」について」(同著『聖徳太子伝の研究』、吉川弘文館、2000年、所収。)

 田中卓「翻刻『粟鹿大神元記』」(同著『日本国家の成立と諸氏族』、国書刊行会、昭和61年、所収。)

 「皇太神宮儀式帳」(『群書類従・第一輯 神祇部』、続群書類従完成会、昭和58年、訂正三版五刷、所収。)

 新撰日本古典文庫『古語拾遺・高橋氏文』(現代思潮社、1976年)

 田中卓「『因幡国伊福部古志』の校訂と系図」(同著『日本国家の成立と諸氏族』、国書刊行会、昭和61年、所収。)

 新訂増補國史大系『政事要略 前篇・中篇・後篇』(吉川弘文館、昭和56年、普及版)

 家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究 増訂版』(三省堂、昭和48年)

 「中臣氏系圖」(『群書類従・第五輯 系譜・伝・官職部』、続群書類従完成会、昭和57年、訂正三版五刷、所収。)

 (荻野三七彦)「河内國西琳寺縁起(公刊)」(『美術研究』79号、昭和13年)

 「大安寺碑」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 溝口睦子「『古屋家家譜』」(同著『古代氏族の系譜』、吉川弘文館、昭和62年、所収。)

 「聖コ太子傳暦」(『聖コ太子御傳叢書』、金尾文淵堂、昭和17年、所収。)

 「家傳 上」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 新訂増補國史大系『日本書紀私記・釋日本紀・日本逸史』(吉川弘文館、昭和40年)

 「日本高僧傳要文抄」(『新訂増補國史大系 第三十一巻』、吉川弘文館、平成12年、新装版、所収。)

 日本古典文学大系『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粹』(岩波書店、昭和39年)

 「美努岡万墓誌」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 「天平十八年具注暦」(『大日本古文書』編年文書2−570、東大史料編纂所 奈良時代古文書フルテキストデータベース)

 「上宮太子拾遺記」(『聖コ太子御傳叢書』、金尾文淵堂、昭和17年、所収。)

 飯田瑞穗「明一撰『聖徳太子伝』(明一伝)の逸文 ─奈良時代末期の一太子伝の検討─」(同著『聖徳太子伝の研究』、吉川弘文館、2000年、所収。)

 田中卓「異本阿蘇氏系図」(同著『日本国家の成立と諸氏族』、国書刊行会、昭和61年、付載別図。)

 「革命勘文」(日本思想大系『古代政治社会思想』、岩波書店、1979年、所収。)

 田中卓「『丹生祝氏本系帳』の校訂と研究」(同著『日本国家の成立と諸氏族』、国書刊行会、昭和61年、所収。)

 和田清石原道博編訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫、1951年)

 『漢書』(“漢籍電子文献資料庫”、台湾中央研究院公開電子テキスト)

 井上通泰『播磨國風土記新考』(大岡山書店、昭和6年)

 岸俊男「飛鳥と方格地割」(同著『日本古代宮都の研究』、岩波書店、1988年、所収。)

 福山敏男「豊浦寺の創立に関する研究」(『史学雑誌』46編12号、1935年)

 小野勝年「飛鳥浄御原宮御宇天皇の「おくりな」についての疑問 ─長谷寺蔵千仏多宝塔銘文に関連して─」(『大和文化研究』2巻1号、1954年)

 今泉隆雄「「飛鳥浄御原宮」の宮号について」(『日本歴史』444号、1985年)

 土橋寛「“飛鳥”という文字」(同著『萬葉集の文学と歴史』、塙書房、1988年、所収。)

 吉永登「トブトリノ明日香」(『橿原考古学研究所論集 創立三十五周年記念』、吉川弘文館、昭和五十年、所収。)

 「行基骨蔵器断片」(『日本古代の墓誌』、同朋舎、昭和54年、所収。)

 佐伯有清 高嶋弘志編『国造・県主関係史料集』(近藤出版社、昭和57年)

 「他田日奉部神護解」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』人々啓状、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 「那須國造碑」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 「采女氏塋域碑」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 「家傳 下」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 「歌經標式」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 『琴歌譜』(古典保存會、昭和2年)

 田中卓「校訂・伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳」(同著『古典籍と史料』、国書刊行会、平成5年、所収。)

 田中卓「荒木田氏古系図の出現」(同著『古典籍と史料』、国書刊行会、平成5年、所収。)


めんめ じろう 平成27年2月11日公開)


戻る

※ 平成29年6月24日 「家伝下」などの用例追加。