続日本紀の記事の信頼度と日本書紀の記事の取り扱いについて
第1章 続日本紀
第1節 続日本紀の記事の取り扱いについての印象
これは、主観的な感想であるが、続日本紀の記事は、基本的に信頼できるという認識が研究者の間で一般化しているように思われる。
その様子は、古事記や日本書紀に向けられる懐疑的な態度とは対照的であり、あまりの落差に違和感を覚える人もいるほどである。
もちろん、続日本紀の記事の中でも、何らかの理由があって偽と判断される部分は排除されているが、その他の、特に問題のない記述は史実として取り扱われて
いるのである。
奈良朝にもなれば、多数の木簡や正倉院文書なども残されており、それらによって断片的な史実を確認できることは確かである。
しかし、続日本紀以外に言及のない記述も、決して少なくないのである。
当時の歴史を物語るためには、このような続日本紀のみが伝える記事を利用せざるを得ないのが現状であろう。
そして、その記事は、基本的に信頼されているのである。
第2節 信頼の源泉
続日本紀の記事に対する信頼は、どこから来ているのであろうか。
この点を考えてみると、正史の記述を信頼するという慣行に行き当たるように思われてならない。
それは、日本の正史について生じた現象というよりも、中国の正史に対する態度が起源であるように思われる。
中国正史が信頼されている様子は、これまた続日本紀以上と言って良い。
その正史がどのような手順で作成されたのか、日本律令の手本となった隋・唐の頃の規定を概念的にまとめると、まず皇帝の日々の動静を記録した起居注が作成
され、一代ごとに起居注をまとめた実録が編修され、さらに王朝ごとに実録を編修して正史が作成されるという段階を経て行われたようである。
もちろん、正史や実録の編修にあたっては、起居注のほかにも各種政府記録等が利用されたようである。
中国正史に対する信頼は、このような政府による公的な記録の作成と編修の仕組みが出来上がっていたことへの信頼が基になっているのであろう。
むろん、起居注の記述に誤りがないという保証はないし、実録や正史を編修する段階での故意や過失による錯誤の可能性も簡単には否定できない。
実際に、不正確な記述があることは、正史の倭国伝などを見れば明らかであろう。
しかし、特に問題がある部分以外は、政府の公的な記録を編修するという仕組みを信頼して、その記事を信用するというのが慣例になっているように思われるの
である。
第3節 現実的な選択
このような態度は、一見、厳密さを欠いた印象を与えるが、よく考えれば、史料の残存状況を見据えた賢明な態度と言うべきである。
というのも、ことさらに厳密さだけを追求すると、過去の事実を証明することが不可能になってくるからである。
およそ、近代においても、人によって証言の異なることは稀でないし、故意や過失による錯誤の可能性も絶えず存在している。
まして、時代を遡った証言については、なおさらである。
全くの妥協なしに、100%間違いのない史実を求めることは、タイムマシーンでも開発しない限り不可能なことであろう。
この点については、以前「日本古代史の方法について」という文章の中でも述べたことがあるが、我々
は、100%の確からしさを求めると史実が取出せなくな
り、逆に多くの史実を取出そうとすると確からしさが小さくなるという反比例の状態に置かれている。
その中で、史実の信頼度と情報量の両面から、自分なりに満足できる判断基準を設定する工夫が求められているのである。
前節のような正史を基本的に信頼するという判断基準を採用するのも、一つの現実的な選択であろう。
第4節 続日本紀の記事の場合
ところで、続日本紀の作成も、中国正史と同様の手順を経て行われたのであろうか。
そもそも、そのような記録を作成する部署や官吏が存在したのであろうか。
日本の職員令(養老令)を見ると、次のような三つの官職がある。
1.内記: その職掌に「凡御所記録事」がある。(この記録が中国の起居注に相当するか否かは研究者によって判断が分かれている。)
2.図書頭: その職掌の中に「修撰国史」とある。
3.中務卿: その職掌の中に「監修国史」とある。
さらに令集解の「監修国史」の説明には、新令私記という逸書を引用して「弁官并諸司等、国内行事、皆注可送寮也。然後寮修選其文。中務押監耳。」とある。
この説明どおりに処理されたとすると、各官司で作成された記録は、図書寮へ送られ、そこで保管されると同時に、それらをまとめた国史が撰修され、中務卿
がそれを監修していたということになる。
ところが、日本後紀の記事(延暦16年2月癸酉[17日]条)などからすると、実際には、“撰日本紀所”という臨時の官司
が設けられ、そこで続日本紀の編
修が
行われたようである。
このような臨時の官司が設置されたことからすると、養老令の規定どおり国史の撰修が行われていたかどうか疑問が残る。
とはいえ、規定どおりに行われなかったという証拠もないので、現時点では不明とするほかない。
ただ、日本の律令国家においては、実際に文書行政が広く行われていたと考えられ、このことは、全国各地で大量に出土している木簡や正倉院文書などから裏付
けられるところである。
その中で、図書寮による国史撰修は留保するとしても、各官司で公的な記録・文書が作成・保管されたらしいことは、容易に想像できるところである。
例えば、続日本紀の慶雲3年2月庚子[26日]条を見ても、祈年祭の幣帛に関する記事に「其神名具神祇官記」といった注記
があり、“神祇官記”という政府
の公的な記録文書が存在したことを物語っている。
その他、続日本紀には、宣命や詔勅、太政官奏等が随所に引用されており、このような記録が保管されていたであろうことは、ほぼ間違いのないところである。
政府による公的な記録が作成され、編修されていたとするならば、続日本紀の場合も、中国正史に準じて、その記事は基本的に信頼できると考えて良さそうであ
る。
第5節 続日本紀に適用される判断基準
以上述べてきたように、研究者の続日本紀に対する信頼は、現実的な選択であり、歴史を物語るために必要なものであると考えられる。
その判断基準をまとめておくと次のようになるであろう。
政府の公的な記録が作成され保管されている場合、その記録を編修した正史の記述は、基本的に信頼できると判断する。
従って、その記事から析出される命題は、他の命題と矛盾する場合を除いて真であると判定する。
この判断基準を便宜上「正史の基準」と呼んでおくこととする。
第2章 日本書紀
第1節 日本書紀の記事について
これまで続日本紀について述べてみたわけであるが、次に一つ前の正史である日本書紀についても触れてみたい。
日本書紀の記事が疑いの目で見られていることは、すでに述べたとおりであるが、それでも天武紀・持統紀の記事については、多くの研究者が信頼しているよう
に見える。
政府記録の保管が続日本紀の時代(文武朝以降)になって突然開始されたわけではなかろうから、その信頼は妥当なもので
あろう。
そもそも記録保管の前提となる文字の使用は、かなり早くから行われていたに相違ない。
漢書地理誌の倭人が文字を使用していたとしても何ら不思議はないのである。
ただ、その広範な利用は、木簡の出土状況を目安にして推測すると、7世紀の中頃からと考えられ、それと平行して政府の記録も本格化したように考えられる。
さらに記録の保管となると壬申の乱による散佚が指摘されており、十分な量の記録が存在したのは、天武朝以降としておいた方が間違いないようである。
日本書紀については、最後の2巻(第39巻「天武天皇下」、および第40巻「持統天皇」)の記事に「正史の基準」が適
用できると考えられるのである。
第2節 天武紀以前の記事
このように天武紀以降の記事には「正史の基準」が適用できるとして、それ以前の記事はどのように取り扱うべきであろうか。
この点については、現在、研究者の間でもこれといった基準がないように見受けられる。
そもそも記事を疑い出せばキリがないし、それを否定したあとの仮説は自由自在である。
それゆえ史実が定まらず、この時代の歴史像については、諸説が乱立して手が付けられない状態にあるというのが筆者の印象である。
このような状況を改善するためには、何らかの判断基準を設定する必要があろう。
第3節 筆者の考える判定基準
筆者は、かつて「古事記・日本書紀の分析と日本古代史像の構築」という文章のなかで、「基準」と「追
加基準」という二つの判断基準を設定してみたことがあ
る。
このうち「基準」とは、複数の証言が一致する場合、その証言を真と判定するものである。(もちろん証言者同士が事前に口裏合わせを行うよ
うなことがあっ
てはならない。)
これは、極めて常識的な判断基準であり、特に異論が出ることもないと思われる。
次に「追加基準」であるが、これは「基準」だけでは取出せる史実の数量が少なく、歴史像の構築に至らないことから追加した基準である。
具体的には、歴史書等で語られている主要な人物・組織・制度・事件の概要を述べた命題は、真であると判定するものである。(ただし、この
判定基準は、神
話と考えられる部分には適用しない。)
その根拠は、他の近似した例(平家物語等)からの類推であり、真であるというよりは、「真である蓋然性が比較的大きい」
というのが正確なところであろ
う。
このように「追加基準」は、かなりゆるい基準であるが、これ以上厳しい基準を設定すると、必要最低限の史実が取り出せなくなるという現実も考慮に入れなく
てはならない。
続日本紀に「正史の基準」を適用したのと同様の現実的な選択が必要になると思われるのである。
第4節 「追加基準」の追加説明
上記「追加基準」については、結局、神話を除いた記紀のあらすじを史実と認定してしまうものであり、身も蓋もない話であるという印象を拭いきれない人は
少なくないであろう。
そこで、その印象を薄めるために史実と史料の関係について少々触れてみることにしたい。
史実と史料の関係をさらに一般化すると、事実とそれを言葉で言い表したものということが可能であろうが、その関係は常に微妙である。
例えば、あるサラリーマンが地下鉄で通勤している様子を文章にしたとして、第三者がその文章を見てどの程度正確に「事実」を再現する(イメージする)こと
ができるであろうか。
おそらく、かなりの長文で表現したとしても、100パーセント正確にイメージすることは不可能なはずである。
そもそもサラリーマンの容貌からして再現が困難なことは容易に了解できることであろう。(早い話が百聞は一見に如かずということである。)
事実とそれを写す言葉の対応は、ある程度曖昧にならざるを得ないのである。
このような状態を言い表す言葉に「中らずと雖も遠からず」という言葉と「似て非なるもの」という言葉がある。
前者は「遠からず」の方に力点があり、後者は「非なるもの」の方に力点が置かれている。
なぜこのような違いが生ずるのかといえば、その原因は、それを見ている人間の視点に違いがあるからであろう。
ものごとの輪郭を大まかに捉えようとすれば「遠からず」という感覚を抱き、細部まで詳細に見極めようとすれば「非なるもの」が目立つようになると思われる
のである。
同じ文章を見ても、その概要を見るのか詳細を見るのかによって評価は分かれるのである。
さらに言えば、視点を大まかな方向へずらして行くと、評価も肯定的な方向へずれて行くという正比例の関係が成立しているようにも考えられる。
それゆえ、場合によっては「遠からず」という以上に「中っている」というレベルに評価を引き上げることも可能になると思われる。
やや乱暴な例かも知れないが、いわゆる邪馬台国問題を取り上げてみよう。
この問題を九州か近畿かという地域レベルで見る限り真偽が争われる状況にあるわけだが、より大きく「日本列島の中にあった」と捉えれば、それは多分「真」
であ
るという
結果に落ち着くはずである。
真偽の曖昧なものを肯定的に捉えようとすれば、より大まかな視点に立ってみることが有効な方法であると思われるのである。
日本古代史のような確証の得られない研究にあっては、詳細の探求を禁欲すればするほど、肯定的な輪郭が見えてくるというわけである。
こう考えた上で、もう一度「追加基準」を眺めてみると、それほど悪い考え方ではないと思えるのだが、いかがであろうか。