日本古代史の方法について
第一幕 ある日の午後
ある日の午後、太郎と次郎は温泉の大浴場にいた。浴槽の縁に腰掛けた二人は地獄谷を眺めながら
日本古代史の方法をめぐって問答をはじめる。
太郎1-1 日本古代史は、対象とな
る地域
と時代を限定した歴史であるが、そもそも歴史とは何か。
次郎1-1 私見を述べると、歴史と
は、い
くつかの史実と仮説及び評価を組み合わせて構成された物語のことである。
太郎1-2 史実とは何か。
次郎1-2 史料を分析することに
よって得
られる真と判定された命題のことである。
太郎1-3 分析とは何か。
次郎1-3 史料を個々の命題に分解
し、そ
れぞれの命題について、真偽の判定を下すことをいう。
太郎1-4 真偽の判定はどのように行うのか。
次郎1-4 ある一定の基準を設け
て、それ
に合致する命題を真、または偽と判定する。
太郎1-5 ある一定の基準とは何
か。
次郎1-5 この基準は、史料の残存
状況等
によって適宜設定することになる。この点については明日
詳しく話をしよう。
太郎1-6 取りあえず基準があると
して、
次に仮説とは何か。
次郎1-6 いくつかの史実を基にし
て構築
する実際に生起したと推定される事象や関係である。仮説は史実の足りない部分を埋めるものであり、史実と矛盾するものであっ
て
はならない。作者は、史実と仮説を組み合
わせて歴史像を構成することができる。
太郎1-7 評価とは何か。
次郎1-7 史実または歴史像に対す
る感想
である。作者は、歴史像と評価を組み合わせて物語を構成することができる。
太郎1-8 歴史が物語であるとする
と、歴
史と歴史小説の違いは何か。
次郎1-8 歴史とは史実に基づいて
仮説と
評価を交えた物語であり、歴史小説とは史実を土台としつつも任意の虚構を交えた物語である。
太郎1-9 仮説が正しければそれは
史実で
あり、間違っていれば虚構となる。しかも仮説は新たな史実が発見されて検証されない限り真偽未定のままである。
こうしてみると、仮説と虚構を分けることは不可能ではないか。
次郎1-9 仮説は史実に基づいて構
想しな
ければならないのに対して、虚構は史実と無関係に構想できるという点で異なっている。構想の自由度に差があるというこ
と
である。
それゆえ仮説は、どの史実に基づいて構想されたものかを明示しておく必要がある。
太郎1-10 史料分析の結果得られ
る「史
実」は、あくまでも現代人の推理であり、過去に実際に生起した史実とは必ずしも一致しないのではないか。
次郎1-10 史料分析では、一定の
基準を適
用して命題の真偽を判定するので、基本的には作者の意思に関係なく真偽を決めることができるはずである。
このような史実は、推理というよりは所与のものであり、自然科学でいえばデータと同じようなものとすべきである。
観察や実験に誤りがあると、そこから得られるデータも不正確になるように、史料分析に誤りがあると史実も不正確になる可能性がある。
その意味で史実という名称は、「史実と判定された命題」というのが正確であろうが、判定に誤りはないという前提に立って史実と呼ぶことにする。
太郎1-11 歴史と自然科学を比較
した場
合、史料分析=観察や実験、史実=データという二つの等式が成り立つというのか。
次郎1-11 史実とデータは、所与
であり仮
説ではないという点で似ており、それらを取出す方法という点で史料分析と観察・実験は似ている。
太郎1-12 これまで述べてきた仮
説は一般
的な意味の仮説と少し違うように思われるが。
次郎1-12 仮説には違いないが、
制約され
た仮説である。一般に仮説は観察や実験を繰り返し新たなデータを得ることによって検証が可能であるが、歴史、特に
日本古代史の場合、新たな史料が発見されて新たな史実が判明することは極めて稀であり、仮説の検証は事実上不可能に近い。(考古資料は、発掘により新たな
資料を得ることができるが、歴
史的な関心に直接こたえられるものは極めて少ない。)
検証不能の仮説と虚構との差は極めて小さい。このため歴史の仮説は、史実に基づき、史実を補填するという制約を加えて虚構との区別を明確にしなければな
ら
な
い。
太郎1-13 日本古代史研究の現状
を見る
と、多くの仮説が提出されているが、いずれも検証が不可能なため仮説のままで留まっている。相互に矛盾する仮説があって
も
客観的に優劣
を
つけることができず、むしろ新たな仮説が累積していくばかりである。
ある仮説が真であるとすれば他の仮説は偽となり結果として虚構を語っていることになる。
いわば歴史を語るはずが歴史小説を語っているのであり、混乱した状態にあるといってよい。
このような混乱を収拾する方法はあるのか。
次郎1-13 無原則な仮説の乱立を
防ぐ必要
がある。まず第一に史実と仮説を別のものとして認識することが重要である。手順としても史実を析出した後に仮説を構築
す
ると
いう二つの段階を分けることが重要である。
論者が所与である史実を共有することによって、噛み合った議論ができるようになるはずである、
第二に仮説の構築にあたっては、史実に基づくという担保を付けることが重要である。
これによって仮説同士が矛盾するような事態は少なくなるはずである。
また仮説の構築は、史実を補填するための必要最小限のものに止め、乱立を防ぐ努力が求められる。
以上のような取り組みが行われれば、日本古代史研究の混沌とした状況は解消に向かうと思われる。
太郎1-14 古事記・日本書紀については、編者の作為が問題に
される場合が多く見受けられる。これを判別する方法はあるのか。
次郎1-14 編者が何らかの意図を以って編集するのは当然であ
り、作為=虚構の混入している可能性は否定できない。そこで編者の意図を推量し、作為を探り出そうという試みが行われるのだが、これは、あくまでも推理で
あり、検証不能の仮説を量産するだけである。
それよりは、あらかじめ虚構が混入している可能性を認めた上で史料分析を行い、史実を取り出すのが建設的な方法であろう。
太郎1-15 史実とはデータ
か・・・。
その後、太郎は打たせ湯へ、次郎は寝湯へ向かった。
第二幕 次の日の朝
次の日の朝、少し早く起きた太郎は大浴場へ行き白濁したぬるめの浴槽に入っていた。遅れて次郎もやってくる。
太郎2-1 昨日保留していた史料を
分析す
る際の一定の基準とは、どのようなものか。
次郎2-1 かつて「古事記・日本書紀の分析と日本古代史像の構築」という文章のなかで、「基準」と「追加基準」の二つを設定
してみたことがある。
このうち「基準」とは、複数の証言が一致する場合、その証言を真と判定するものである。(もちろん証言者同士が事前に口裏合わせを行うようなことがあっ
て
は
な
らな
い。)
これは、極めて常識的な判断基準であり、特に異論が出ることもないと思われる。
次に「追加基準」であるが、これは「基準」だけでは取出せる史実の数量が少なく、歴史像の構築に至らないことから追加した基準である。
具体的には、歴史書等で述べられている主要な人物・組織・制度・事件の概要を述べた命題は、真であると判定するものである。 (ただし、この判定基準
は、神話と考
え
られる部分には適用しない。)
この根拠は、他の近似した例(平家物語等)からの類推であり、真であるというよりは、「真である蓋然性が比較的大きい」というのが正確なところであろ
う。
太郎2-2 史実の判定基準が類推で
あると
すると、その判定は不確実なものであり覆る可能性もある。このような史実は結果的に検証不能の仮説と同じになるのでは
な
いか。
次郎2-2 史実は史料から析出され
た命題
であり、所与のものであるが、仮説は作者の自由な発想が許容されており、この点で異なる。
すなわち判定基準が決まれ
ば、史実も決まり、一つの枠組みが出来上がるのに対して、各人が提出した仮説は検証不能のまま累積して混乱に至るということである。
太郎2-3 史実よりも以前に判定基
準の可
否が問題になるということか。
次郎2-3 可否というよりは、選択
の問題
である。
判定基準は、前提である。どの土俵に上がって相撲を取るかということである。土俵が違えば話も違う
ということである。
作者がどの基準に基づいて作業をするかは、当人の選択に任されることになる。
ただ、全くデタラメな基準を選択するということにはならないであろうから、選択にあたっては、常識的な判断をすることになるであろう。
太郎2-4 判定基準を選択するため
の基準
が必要になるのではないか。
次郎2-4 選択の際に問題になるの
は、判
定基準の厳密さ、あるいは確からしさの程度であり、どの基準を採用するかは、作者の歴史に対する欲求によって変わって
く
ると
思われる。
そもそも歴史の根本的な問題として、過去の事実を100%正確に検証することはタイムマシーンでもない限り不可能であるということがある。
例えば、古事記や日本書紀の記事を疑いの目で見たときに、100%信頼できる記事が一つでもあるだろうか。
この懐疑的な立場に立って歴史を語ろうとすれば、「分からない」という以外に何も言うことができないはずである。
しかし、我々は「分からない」というだけでは満足できない。祖先の物語が欲しいのである。
物語という点では古事記や日本書紀そのものが、すぐれた物語であり、古典なのであるが、これだけでも満足できない。
我々は、祖先が現実に体験した事実とそれに基づいた物語が欲しいのである。
そこで史料の中から史実を取出す工夫が求められるのであるが、このときに100%の確からしさを求めると史実が取出せなくなり、逆に多くの史実を取出そ
う
とすると確からしさが小さくなるという反比例の状態に直面することになる。
このような中で作者が事実として承認できる史実は、どの程度の確からしさが必要なのか、あるいは、歴史像を構築するため
には、どの程度の量の史実が必要なのか、信頼度と情報量の両面から自分なりに納得できる基準を採用することが求められる。
太郎2-5 複数の判定基準を認める
と、そ
の数が際限なく増えて収拾がつかなくなるのではないか。
次郎2-5 複数の判定基準を認める
といっ
ても、我々は信頼度の大きな基準から順番に採用することになる。このとき、信頼度と情報量の両面から歯止めがかかるは
ず
である。
第一に信頼度の低下は、好ましくないものであり、個人差があるにしても容認できる限界がどこかにあるはずである。また、情報量も取りあえず満足できると
いう量
が人それぞれにあるはずである。
こうしてみると、基準が際限なく増えるという心配はしなくてもよいと思われる。
太郎2-6 話は戻るが、「追加基
準」につ
いては、どうしても根拠が薄弱な気がする。類推といえば類推なのであろうが、それにしても大雑把に過ぎるのではないか。
次郎2-6 「追加基準」を認めない
という
のも一つの立場である。ただし取出せる史実の量が極めて限られたものとなる。このような状態に満足できるかどうかは個
人
の判
断に委
ねられることになるであろう。
なお、「追加基準」とは別の新たな基準を設定して情報量の不足を補っても良いが、その場合は、信頼度について「追加基準」との比較検討が必要になる。
太郎2-7 ところで、ある判定基準
で真と
されなかった命題は、偽と判定することになるのか。
次郎2-7 「真とされなかった」と
いうこ
とではなく、それ以前に基準が適用できなかったということであり、判定不能の命題というべきであろう。もちろん、その
命
題が
別の基準で偽と判定されれば偽となるが、それ以外は、真偽未定とすべきである。
ある命題を偽であるというためには、偽であることを判定する基準が別に必要となる。
太郎2-8 信頼度と情報量のバラン
ス
か・・・。
その後、太郎と次郎は熱めの浴槽へと向かった。