古事記・日本書紀の分析と日本古代史像の構築
序文
日本古代史の探究は、本居宣長以来の歴史を有する日本伝統の学問である。
この学問は、日本人とは何者かという問いとも結びついて、国粋主義的な傾向を強く持つこともあったが、第2次世界大戦以降は、その反動で古事記・日本書
紀の記述を否定したり、日本の歴史を卑小なものにしようという傾向が強く見られるようになった。
今後は、恐らくこの両極端の傾向を脱して中庸を得た研究が主流となっていくことであろう。
また、日本古代史の探究は、もう少し気楽に推理を楽しむ知的遊戯としての側面も併せもっている。
これは、昨今の邪馬台国に関する膨大な著作を見ても明かであろう。
本稿もこの気楽な推理の中の一つである。
ところで、古代史に限らず日本の歴史は、我々の祖先の物語である。
それゆえ、この物語からは、祖先に対する尊敬・親愛の情が感じられなくてはなるまい。
たとえ日本の歴史に暗い影があるとしても、それはそれとして、なお、愛情のある眼差しで語られる物語こそ我々の求めるものであろう。
第1章 古事記・日本書紀の分析
第1節 分析とは
分析とは、史料(場合によっては考古資料)の中から個々の命題を取り出し、その真偽を判定するものである。例えば、「雄略天皇が実在した」という命題を
取り出し、その真偽を判定するのである。
<補足>古事記・日本書紀の分析にあたっては、日本古典文学大系本の古事記、日本書紀を使用する。また、
用語については、古くから使用されている一般的なものを使用する。例えば「大和朝廷」など。
第2節 判定基準
相互に引用関係がない複数の命題の内容が一致した場合、その命題は真であると判定する。
複数の命題の内容が一致する原因としては、次の三つの場合が考えられる。
(1)それぞれの命題が史実に基づいて作成された場合
(2)別個に作成された命題が偶然一致する場合
(3)一方が他方を引用したり、双方に共通の引用元があるなど、何らかの引用関係がある場合
このうち、(2)の別個に作成された命題が偶然に一致する蓋然性は、極めて小さいため無視して構わないと考えられる。
そうすると、複数の命題の内容が一致していて、(3)の何らかの引用関係が否定された場合、残るのは、(1)のそれぞれの命題が史実に基づいている場合
のみである。
このことから、上記判定基準は妥当であると考えられる。
第3節 分析作業
上記の判定基準を古事記・日本書紀の分析に適用すると次の各号のような結果を得ることができる。
1.前方後円墳の分布から得られる命題と古事記・日本書紀から得られる命題の一致
前方後円墳などの古墳については、東北地方南部から九州にかけての日本列島各地に分布しているが、巨大な古墳は近畿地方(大和、河内)に集中して見ら
れ、その様子は、他の地域から隔絶している。
ここから、古墳時代を通じて近畿地方に他の地域よりも大きな古墳を築いた勢力が存在したという命題を取り出すこどができる。
ところで、古事記・日本書紀の記事を巨視的に見ると、大和・河内を中心とした勢力(大和朝廷)が東北地方南部から九州にかけての日本列島の大部分を支配
していたという命題を取り出すことができる。
この二つの命題は、内容がほぼ一致するし、古墳の分布状況を参照して、古事記・日本書紀が述作されたとも考えにくい。
ゆえに、これらの命題は、真であると判定するのである。
2.広開土王碑文から得られる命題と古事記・日本書紀、中国・朝鮮史料から得られる命題の一致
広開土王碑文からは、倭が百済・新羅を「臣民」とし、その後高句麗と交戦し敗退したという命題を取り出すことができる。
<補足>広開土王碑文については、かつて日本陸軍のスパイが碑文を改竄したという説も出されたが、単なる臆説であり、問題の碑文も古くからの読解どおり
「而るに倭辛卯の年を以て来り海を渡り百残□□新羅を破り以て臣民と為す」と読むのが最も自然であろう。
古事記・日本書紀からは、神功皇后が朝鮮半島へ出兵し、百済・新羅を服属させたという命題を取り出すことができる。
<補足>日本書紀には、このほかにも朝鮮半島へ出兵した記事等が少なからず存在する。
宋書倭国伝等の中国史料からは、「倭の五王」が「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国書軍事安東大将軍」等の将軍号を中国の王朝
に要求して、その大部分が認められたという命題を取り出すことができる。
三国史記・三国遺事からは、新羅の王子が倭の人質となり、これを朴(金)堤上という人物が奪還したという命題を取り出すことができる。
<補足>三国史記等には、このほかにも倭が朝鮮半島へ出兵した記事が散見される。
これらの命題は、日本の勢力が朝鮮半島に進出したという点で一致しており、また、これらの命題に何らかの引用関係があるとも考え難い。
ゆえに、日本の勢力が朝鮮半島に進出したという命題は、真であると判定する。
3.稲荷山鉄剣銘文・江田船山古墳大刀銘文と古事記・日本書紀の一致
埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘からは、獲加多支鹵大王が「治天下」していたという命題を取り出すことができる。
熊本県江田船山古墳出土の大刀銘からは、獲□□□鹵=ワカタケル大王が「治天下」していたという命題を取り出すことができる。
このワカタケル大王が古事記・日本書紀の雄略天皇(大長谷若建命または大泊瀬幼武尊)と同一人物
であることは間違いのないところであると考えられる。
また、それぞれの刀剣の銘文と古事記・日本書紀との間に何らかの引用関係があるとも考え難い。
ゆえに、これらの命題は、真であると判定する。
<補足>埼玉県と熊本県の古墳から雄略天皇の名前を記した刀剣が出土したということは、1号で取り上げた大和朝廷が東北南部から九州にかけての地域を支
配していたという命題を補強するものであろう。
4.遣隋使・遣唐使についての命題の一致
日本書紀からは、遣隋使の派遣に対して隋から裴世清が派遣されてきたという命題や、遣唐使の派遣に対して唐から高表仁が派遣されてきたという命題を取り
出すことができるが、これらの命題は、隋書倭国伝の記事や旧唐書倭国伝の記事と一致する。
日本書紀と中国史料の一致は、部分的なものであり、隋書の男王「多利思比孤」と推古女帝のように重要な点で矛盾する場合もあり、両者の間に何らかの引用
関係があるとは考え難い。
ゆえに、これらの一致する命題は、真であると判定する。
5.百済救援の役についての命題の一致
日本書記からは、白村江の戦いで日本が唐・新羅の連合軍に敗れたという命題を取り出すことができるが、この命題は、旧唐書劉仁軌伝の記事と一致してお
り、これらの命題の間に何らかの引用関係があるとも考え難い。
ゆえに、これらの命題は、真であると判定する。
第4節 情報量の不足
以上の分析作業の結果、5組の真と思われる命題を取り出すことができたが、日本古代史像を構築するためには、これらの命題だけでは情報量が少な過ぎる。
そこで、もう少し多くの情報を得るため新たな判定基準を追加することにする。
第5節 追加基準
歴史書、あるいは、歴史物語の中から取り出した主要な人物・組織・制度・事件の概要を述べた命題は、真であると判定する。
ただし、この判定基準は、神話と考えられる部分には適用しない。
この基準は、いくつかの近似した例からの類推である。
例えば、史記に書かれた殷王朝の歴代王名については、甲骨文字の解読によって史実に基づいていることが確かめられたし、日本の平家物語や太平記を見て
も、その概要は史実に基づいていることが知られる。
ゆえに、このような歴史書(物語)の中から取り出した主要な人物・組織・制度・事件の概要を述べた命題は、真である確率が大きいと考えられるのである。
<補足>人物や事件等が主要か否かの判断は、明確な一線を引けるわけではないが、より多くの人により大きな影響を与えた人物、あるいは、事件ということ
で常識的に判断することになるであろう。
ただし、神話として語られている部分を人間の歴史と同様に扱うわけにはいかないので、この部分については判断を保留する。
日本書紀の場合でいえば「神代」、古事記では上巻、史記の場合は、境界が曖昧であるが五帝本紀までが、これに該当すると思われる。
<補足>神話に史実が反映しているか否かは、別途、考察を加えるべき問題である。
第6節 追加基準による分析作業
追加基準を古事記・日本書紀の分析に適用すると次の各号のような結果を得ることができる。
1.歴代天皇
当時の日本の最高権力者であった歴代天皇は、主要な人物であり、「カムヤマトイワレビコ」以下の歴代天皇が実在したという命題は真であると判定する。
<補足>各天皇が実在したということと、その天皇の事績等は、別に考えなければならない。例えば、雄略天皇が実在したということと、雄略天皇が葛城の一
言主神と一緒に狩をしたという説話、あるいは、宝算(享年)が124歳であったという記述の真偽は別個に考えなければならない。たとえ宝算124歳が否定
されたとしても、雄略天皇の実在までが否定されることにはならないのである。
2.大和朝廷
天皇を中心とした政治権力(大和朝廷)が一貫して存在したという命題は、主要な組織について述べており、真であると判定する。
<補足>この命題については、第3節の1号でも触れた。
3.一夫多妻制
系譜記事やその他の記事から取り出すことができる一夫多妻の婚姻制度が行われていたという命題は、主要な制度について述べており、真であると判定する。
4.神武建国
神武天皇が南九州から大和盆地に入り初代天皇となったという命題は、主要な事件について述べており、真であると判定する。
5.ハツクニシラススメラミコト
崇神天皇が四道将軍を派遣し、貢物の制度を定めて、「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれたという命題は主要な事件や制度について述べており、真であ
ると判定する。
<補足>日本書紀では北陸、東海、西道、丹波の四道に派遣したことになっているが、古事記では、高志道(北陸)、東方十二道(東海)、旦波国の三道に
なっており、もう一つの吉備国(西道)については、孝霊記に記事がある。
6.部の設置
垂仁天皇の頃から部を設置したという記事が、しばしば見られるようになるが、これらの命題は、主要な制度について述べており真であると判定する。
7.ヤマトタケル
景行天皇の時代に「ヤマトタケル」という皇族将軍が西征東伐したという命題は主要な事件について述べており真であると判定する。
8.国造・県主
成務天皇の時代に国造・県主を定めたという命題は主要な制度について述べており真であると判定する。
9.朝鮮出兵
神功皇后が朝鮮半島へ出兵し、百済・新羅を服属させたという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
<補足>この命題については、第3節の2号でも触れた。
10.氏姓制度
允恭天皇の時代に盟神探湯をして氏姓を定めたという命題は、主要な制度について述べており真であると判定する。
11.磐井の反乱
継体天皇の時代に筑紫国造磐井の反乱があったという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
12.任那官家の滅亡
欽明天皇の時代に任那官家が滅亡したという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
13.仏教伝来
欽明朝に仏教が伝来したという命題も、主要な事件について述べており真であると判定する。
14.崇仏廃仏論争
崇仏廃仏論争があり、物部氏が滅亡したという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
15.冠位十二階と十七条の憲法
推古天皇の時代に冠位十二階が制定され、十七条の憲法が作られたという命題は、主要な制度について述べており真であると判定する。
16.大化改新
乙巳の変で蘇我氏が滅亡し、その後、大化改新が行われたという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
17.百済救援の役
百済救援の役で唐・新羅の連合軍に敗退したという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
<補足>この命題については、第3節の5号でも触れた。
18.庚午年籍
天智天皇の時代に庚午年籍が作られたという命題は、主要な制度について述べており真であると判定する。
19.壬申の乱
壬申の乱で大海人皇子が勝利したという命題は、主要な事件について述べており真であると判定する。
20.飛鳥浄御原令
持統天皇の時代に飛鳥浄御原令が施行されたことは、主要な制度について述べており真であると判定する。
第7節 追加基準による分析結果について
以上の分析作業の結果、新たに20個の真と判定される命題を取り出すことができた。この中でも特に重要なのは、1号の歴代天皇の実在である。
これによって、日本古代史像を構築する際に天皇を指標とした相対年代を提示することができるようになったのである。
第8節 付記
我々が何かものを見る場合、近くのものほど、はっきりと見え、遠くのものほど、かすんで見えるといったことがある。
これは、物理的な距離に限ったことではなく、時間的な距離が離れている場合にも当てはまることであろう。
時を隔てた日本古代の史実も、古事記・日本書紀をとおして、ぼんやりと、かすんで見えているのではないだろうか。
もしそうだとすれば、古事記・日本書紀の描くおおよその輪郭を取り出してみると、当たらずとも遠からざるものが得られることになる。
神話を除いた部分については、そう考えてよいのではないだろうか。
少なくとも古事記・日本書紀の記事を否定した後に提出される検証不能の仮説よりは真実に近いものが得られるというのが、現在の見通しである。
第2章 日本古代史像の構築
第1節 ハツクニシラススメラミコト
初代の神武天皇が「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれているのは当然であるが、第10代の崇神天皇もまた「ハツクニシラススメラミコト」と称されて
いる。
崇神天皇の場合は、北陸、東海、西道、丹波の四道に将軍を派遣して、貢物の制度を定めたために「ハツクニシラススメラミコト」と称されたとあるが、ここ
から推理すると、大和朝廷は崇神天皇の頃になって畿内以外の地域にも勢力を伸ばして統一王権の体裁を整えたものとみられる。
従って、それ以前の大和朝廷は、大和・河内とその周辺の地域王権の段階にあったと考えられる。
神武天皇は、この地域王権の創始者であったのだろう。
また、 景行天皇の時代に
「ヤマトタケル」という皇族将軍が西征東伐したという記事からすると、大和朝廷による統一事業は、一人の天皇によって成し遂げられたというものではなく、
崇神天皇前後の数代の天皇の時代に行われたものと考えられる。
第2節 戦国時代との類似
後世の戦国時代、統一政権が成立する過程で、織田信長が天下布武をとなえ、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったわけであるが、これと似たようなことが古代でも起
こっていたと考えられる。
崇神天皇以前の日本は、群雄の割拠する戦国時代のような状況にあったと考えられ、大和朝廷も、初めの頃は、この群雄の中の一つであったと考えられる。
このような中で崇神天皇は、天下布武をとなえた織田信長に擬えることが可能である。
「ヤマトタケル」の西征東伐は、豊臣秀吉が九州の島津氏を降伏させ、小田原の北条氏を滅亡させたことを想起させる。
神功皇后と豊臣秀吉の朝鮮出兵も重なり合う。
古代と中世の日本統一にあたって、似たような事件が生起したわけである。
第3節 調の貢上
大和朝廷が他の地域の首長を支配下においた際、その服属の証しとして行われたのが貢物の献上であったと思われる。
崇神天皇が貢物の制度(男の弓端の調、女の手末の調)を定めたとあるが、これは、大和朝廷に服属した地方の首長が大和朝廷へ差し出したものであろう。
また、神功皇后紀の中で新羅王が服属を誓う場面でも「年毎に男女の調を貢らむ」とある。
国内外を問わず服属のしるしとして調の貢上が求められたのであろう。
第4節 人質の貢上
調の貢上と同時に求められたのが人質であったと思われる。
新羅や百済から人質を取ったことは、古事記・日本書紀などに少なからず見られるところであるし、国内の地方豪族の場合は、采女、あるいは舎人、靫負と
いった形で人質を取っていたと考えられる。
舎人や靫負の場合は、課役としての側面が強く見られるが、新羅・百済の場合なども考え合わせると、本来の意味は、人質であったと思われる。
もしかすると、はじめ人質であったものに後から役務を付加するという経緯があったのかも知れない。
第5節 国造・県主
大和朝廷に服属した地方の豪族は、成務天皇の時代に国造、あるいは県主に任ぜられることになった。
この国造と県主の制度については、かねて議論のあるところであるが、例えば大和国の中に高市県や葛城県などがあるように、国の範囲の中にいくつかの県が
存在したことからすると、国造は国(地域)の首長であり、その支配下にあった小豪族が県主ではないかと思われるのである。
ただし、小豪族のすべてが県主となったのではなく、比較的有力で大和朝廷と直接貢納関係を結ぶことができたものだけが県主になったと考えられる。
それゆえ、国の大小や国造の支配力の強弱によって、県が多数存在する国や逆に全く存在しない国など、さまざまな形態の国があったと思われるのである。
国造は、その国内の裁判権を掌握していたようであるが、県主は、このような点で国造の支配を受けていたのであろう。
<補足>仁徳天皇紀の倭屯田の帰属をめぐる争論の記事では、倭国造(倭直吾子籠)にその判定が求められている。また、筑後国風土記逸文の筑紫国造磐井の
墓についての記述を見ると、国造が犯罪者に対する裁判権を保持していたことが伺われる。このようなことから、国造の裁判権の掌握が推理されるのである。
第6節 御家人との比較
国造の読みは、「クニノミヤツコ」であり、これを漢字かな交じりで書くと「国の御家つ子」となる。これは、後世の「御家人」という言葉とほぼ同じであ
る。
御家人が将軍と封建的な主従関係で結ばれていたことを考えると、国造も同様の関係を天皇との間で結んでいたのではないかという推測が出てくる。
大和朝廷から国造の地位を保証される代わりに、調や人質を貢上したり、軍役を負担するという、御恩と奉公の関係があったと考えられるのである。
ところで、大和朝廷も、はじめは群雄の中の一つであり、戦国時代のような状況を統一したとすると、国造は、御家人というよりは、大名のような存在であっ
たのかも知れない。
江戸時代は幕府と藩による統治が行われたが、大和朝廷と国造の関係は、この幕府と藩の関係に似ているように思われる。
県主については、大名の有力な家臣が幕府と直接交渉を持っていたというところであろうか。
第7節 部の設置
部(べ)は、その領有者に奉仕する伴(トモ)を扶養したり、領有者に必要な物資を貢納する人間の集団というのが、現在の共通の理解であろうが、その集団
が生産活動をするための土地も不可分に付随していたと考えるのが自然であろう。
当時、人と土地を截然と区別して支配していたとは考え難い。恐らく村(集落)を単位とした、人と土地が一体となった支配がなされていたと推測されるので
ある。
ただ、山部や海部のように土地よりも人を把握した方が都合のよい場合も多かったため、人間集団を主にした管理が行われたのであろう。
この点、屯倉(屯田)は、大和朝廷の直轄地、あるいは皇族の私有地であり、土地を主にした管理が行われたと考えられる。
ところで、部(子代、名代、部曲)は、皇族や中央有力豪族の私地私民であり、相続可能なものであったと考えられる。
また、部は、国造の支配領域に設置され、その管理は、国造、あるいは、その一族によって行われていたと考えられる。
部をこのように捉えると、これは後世の荘園と似ているように思える。
国造領への部の設置は、大名の領国の中に荘園を設置したようなものではないかと推定されるのである。
第8節 傍系親族
部の設置は、これといった抵抗もなく、広範囲に行われたように見えるが、それを可能にしたのは、傍系親族の存在ではないかと思われる。
一夫多妻の婚姻制度が行われていた社会では、多数の男子が誕生したはずであり、族長位を継承した1人を除いた男子は傍系親族となり、その数は、子から孫
へと世代を累ねるに連れて急速に増えていったと考えられる。
古事記・日本書紀には、景行天皇の皇子は80人おり、有力な3人を除いた77人は、分封し地方へ赴かせたという記述がある。
80人という数字は、ともかく、実際に多数の傍系親族が生まれて、その処遇が問題になったことは、あったに違いない。
<補足>皇族の場合は、激しい皇位継承争いがあり、殺害された皇子も少なくなかったが、一方で難を逃れて地方に土着するものも多かったようである。顕宗
天皇・仁賢天皇は、一時播磨国へ逃れていたという記事があるし、継体天皇も地方に土着した皇族の子孫であったと考えられる。
このような事態は、皇族だけでなく、中央・地方の豪族の間でも同様に生起していたと推測される。
允恭天皇の時代に盟神探湯をして氏姓を定めたというのも、このような傍系親族を整理・把握して、その身分を明確にするという目的があったのかも知れな
い。
<補足>稲荷山鉄剣の乎獲居臣も、中央豪族の傍系親族であり、埼玉の豪族に入り婿のような形で迎えられたのかも知れない。系譜と経歴を殊更に強調した鉄
剣を所持していた理由もそこにあったのではないだろうか。
地方豪族の場合は、このような傍系親族が新たに設置された部や屯倉の在地管理者に任用されたと考えられる。それゆえ部や屯倉の設置が円
滑に行われたものと推測されるのである。
<補足>もちろん、すべての部や屯倉が在地豪族の一族によって管理されたわけではなく、白猪屯倉などのように中央から派遣された官人が管理をする場合も
あった。
第9節 後世の歴史との比較
日本古代史は、後世の日本の歴史と比較しながら考えてみると、その輪郭をうまく説明することができるように思われる。
はじめに戦国時代のような群雄割拠の時代があり、その後、江戸時代の幕府と藩のような大和朝廷と国造による支配が行われる。
その国造の支配地には、荘園のような部や屯倉が次々と設置され、国造の勢力は次第に弱体化して行く。
大化改新以降、国造は、地方官僚である郡(評)司に再編成され、やがて明治政府のような中央集権国家(律令国家)が成立する。
古事記・日本書紀が対象としているのは、ここまでであるが、その後、律令国家には、荘園が出現し、その数が増えるに連れて荘園公領制の社会へと変質し、
中世へ・・・という具合である。
江戸時代が約300年続いたように大和朝廷と国造による支配は安定した体制であったと思われる。
この安定した体制から、中央集権国家への転換を促進した要因は、推古朝や大化改新の頃は朝鮮半島での権益確保であり、百済の滅亡後は、唐・新羅の軍事的
脅威であろう。
黒船の来航以降、西洋列強による外圧が明治維新に繋がったように、古代においても律令国家を成立させた最大の要因は、外圧であったと推定されるのであ
る。
第10節 邪馬台国についての見通し
以上、古事記・日本書紀によって古代史像(輪郭)を構築してみたわけであるが、この構図の上に邪馬台国をどのように位置付けるかは、問題である。
そもそも魏志倭人伝の記事は、魏志の中でも主要な部分とは言い難く、その信頼性については、大いに疑問が残る。
部分的に混乱や錯誤のあることは、邪馬台国の位置が未だに決定できないでいることからしても明かであろう。
また、類例として、隋書倭国伝の場合も考えてみなければなるまい。
隋書の記事をそのまま信用すると、「多利思比孤」という男王が実在したこととなり、推古女帝の存在が宙に浮いてしまう。
これと同じことが魏志倭人伝の場合でも起きている可能性は否定できないのである。
とはいえ、邪馬台国という国があり、その王(名前や性別については検討が必要)が「親魏倭王」の金印を授与されたことを簡単に否定するわけにもいかな
い。
取り立てて疑問符の付かない部分に関しては、史実であるとしておくのが一般的な考え方であろう。
ところで、邪馬台が「ヤマト」の音を写したものとすれば、邪馬台国と大和朝廷が全くの無関係であるとは考え難い。
もしも、邪馬台国の時代に大和朝廷が存在していたならば、邪馬台国=大和朝廷であろうし、邪馬台国が神武建国以前とすれば、古事記・日本書紀の神武東遷
記事と組み合わせた、いわゆる邪馬台国東遷説が有力になると思われる。
現在、いずれとも決定しかねているのであるが、どちらかといえば、東遷説に魅力を感じるというのが現状である。
後記
本稿では、これまでに積み上げられてきた先人の研究については、ほとんど触れることがなかった。
これは、触れなかったのではなく、膨大な蓄積に圧倒されて触れられなかったのである。
正直に言えば、めんめじろうが目を通した論文は、ごく僅かであり、とても研究史を語れるような段階ではないのである。
しかも、記憶力が弱いので、どの論文に何が書いてあったかも定かではなくなっている。
不備な点や失礼があれば、お許しを乞うばかりである。
* 平成20年1月27日 誤字訂正 「祟神」
→「崇神」