マサラ日記     previous«  »next

8月22日(月)           

 マルーン5の曲を聴くと、いつも「あ、これスティング?」と勘違いしてしまうのは私だけ?

 唐突だが、私が好きな音楽の多くは、聴くと「自由」を感じたり、「異なる場所」に連れて行ってくれるものだ。さらには当然、「人と違う、世の中とぜんぜん違うこと」これもまた大事だと思っている。

 何でこんなことを書くかといえば、最近、テレビの歌番組などでJポップやヒップホップ系の「日本人アーティスト」と称する人々の歌や演奏を見聞きしたりするにつけ、「ああ、日本の音楽界って基本的に変ってないな」と思ったからだ。

 未だ、日本のポップ系音楽の基盤は歌詞的には「センチメンタルな共感」重視だし、音的には「海外のヘタなパクリ」から抜け出ていない。それを疑問に思ったり、恥じたりする意識は業界内にいる人間も含め皆希薄だろう。何しろ、心地よさや口当たりのよさが売り上げには最優先なのだろうから。

 ジミ・ヘンドリクスの音楽、レッド・ツェッペリンの音楽、ビートルズの音楽、イギー・ポップの音楽、M.Sスブラクシュミの音楽、ロバート・ジョンソンの音楽、ザキール・フセインの音楽、マイルス・デイビスの音楽。いずれも、私には「自由」を感じさせるし、こことは異なる場所に私をフッ飛ばしてくれる。しかも他の人たちとはまるで違う。それが快感だ。

 中学や高校の頃、周囲でもてはやされていたフォークやニューミュージックが大嫌いだったのも、「しみったれていて」「どこにも自分を連れて行ってくれないから」だった。

 同じ頃、黒人のブルースにのめりこんで行った。
 12小節や8小節の、多くは完全に定型・固定化されたコード進行の中に恐ろしいくらい無尽蔵な表現のバリエーションがあったし、ミシシッピーのコットンフィールドからシカゴのゲットーまで、多彩な映像が頭の中に想像されるカラフルさも好きだった。

 そういう音楽って、日本にはホント少ない。

 そもそも私は音楽家はミュージシャンであって、アーティストではないと思っている。外国人の音楽家は自分たちのことをたいてい皆MUSICIANと呼んでいるはずだ。
 自らARTISTなどと名乗って薄ら寒い笑顔を浮かべているのは、日本人音楽家ぐらいではないだろうか。

★日記を書いているときのBGM:じゃがたら『南蛮渡来』