マサラ日記     previous«  »next

7月25日(月)

 前日に中古CD屋でジェファーソン・エアプレインの「シューリアリスティック・ピロー」を買ったのだが、本日、本屋を見たら、ロック黄金時代を語る雑誌「ストレンジデイズ」の最新号がジェファーソン特集だった(ちなみに「ストレンジデイズ」という名前は、これまた私の敬愛するドアーズの名曲からとったものだろう)。なかなかない、いい感じの偶然である。

 1960年代の後半、サンフランシスコを代表するロックバンドだった彼らの音には、ビッグ・ブラザー・アンド・ホールディング・カンパニー時代のジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドなどにも通ずるゴア的なインドっぽさが横溢していた。いわゆる「ラーガ・ロック」を含めた、このあたりの状況については、当サイトのここにも少し書いたので、興味のある方はご覧いただきたい。

 あの時代のロックと、現代における形骸化した「ロック」では、存在の意味合い自体が違う。そういうことを考えながら聞く人間は、いったいどのくらいいるだろう。単に、心地よいだけの「消費財としての音楽」は薄っぺらで、聞いてもつまらない。

 料理についての解釈についても、おなじようなところがある。
 私の場合、人の暮らしや文化、伝統、精神、あるいは民俗誌、民族学的なところから、料理を、そして食を眺める傾向が強い。インドのカレーに惹かれても、日本のラーメンにはあまり興味がないのはそのためだ。つくる側、食べる側、双方に関わっている人々に、興味深いライフスタイルやおもしろい、あるいはカッコいい部分が感じられないのである。つきつめれば「日本」とか「日本人」がカッコいいと思えないからかもしれない。

 ストレンジデイズでは、ブライアン・イーノやカンも特集されていた。どちらも好きな音楽家である。