都市国家ローマの誕生からローマ帝国へ


イタリア人の一派のラテン人が紀元前752年にテルベ川下流に建国したとされるのがローマである。紀元前6世紀末にはラテン人の貴族がエトルリア人の王を追放して共和政を樹立した。

当時のローマには貴族・平民・奴隷の階級があったが、この共和政は貴族政治で行政・軍事を担当する2名のコンスル(執政官)が最高権力を握り、貴族を終身議員として国家の立法・行政・財政・宗教などの決定権をもつ元老院が国政の中心となった。元老院のあるフォロ・ロマーノ(フォロとは広場を意味する。)には紀元前6世紀に入り、下水道の整備がすすむと、人々が集まり店が立ち並んだ。すると歴代の執政官や皇帝達はそこに神殿を築き、元老院や裁判所が置かれ、凱旋パレードが繰り返された。 フォロ・ロマーノは、ローマの政治、経済、文化の中心となった。

  

だが紀元前5世紀頃から国防の主力を占める重装歩兵として活躍した平民が力をつけ平民会が作られた。こうした民主政への動きはアテネの場合と似ている。平民会から選出された護民官が元老院の決議にたいし拒否権をもつと同時に平民の勢力を強めるような法律の成立により平民の権利は法律上貴族と対等になっていった。しかし元老院や貴族の力は依然強く、民主主義は徹底しなかった。

     

前5世紀からローマは他のラテン人の都市国家と同盟し前3世紀前半までにイタリア半島を統一した。さらに地中海へ勢力をのばしたローマは、地中海の商業交易権を握っていたカルタゴを3回のポエニ戦争で破り西地中海全域を制覇していった。そしてポエニ戦争後マケドニアやシリアなど制覇した。属州から大量の奴隷と安価な穀物が流入し、元老院を守ろうとする大土地所有者が力をつけるのに対し重装歩兵として活躍した中小農民が没落し無産市民や有力者の私兵となっていった。これ以後ローマは内乱期にはいっていく。

紀元前1世紀になると同盟市がローマ市民権を要求した同盟市戦争や奴隷反乱がおこり、ローマ社会はさらに不安定になっていく。この頃、議会を2分していた平民派と元元老院派の大土地所有者の閥族派の有力者は没落市民を私兵として勢力を伸ばし、平民派のカエサルはポンペイウス、クラッススとともに第一回三頭政治を結成した。クッラッススは戦死。ガリア遠征で力をつけたカエサルが元老院と結んだポンペイウスを破り政権をとり、ローマの共和政は崩壊した。その後ブルートゥスらの共和派にカエサルは暗殺された。

その後カエサルの養子オクタヴィアヌスはアントニウス、レピドゥスと第二回三頭政治を実施し元老院に対抗した。やがてクレオパトラと結んだアントニウスをやぶり、エジプトを滅亡させ、地中海を含むローマの政治的統一が達成された。
オクタヴィアヌスは元老院からアウグスツゥス(尊厳者)の称号を与えられ紀元前二七年、帝政を開始した。それは共和政の伝統を尊重したもので元首政とよばれている。
その後200年間広大な領土と属州支配に支えられ”パックス=ロマーナ”(ローマの平和)とよばれる安定期が続く。

 
カラカラ帝

3世紀になるとカラカラ帝の時、属州の自由民にローマ市民権が認められローマ世界がひろがる一方、ゲルマン人らの周辺民族の進入が激化し、各地の軍隊が次々に皇帝をたてては殺害する混乱期となり、領土拡大の限界と奴隷社会の行き詰まりが明らかになった。395年ローマ帝国は東西に分列。西ローマ帝国は476年に滅亡。東ローマ帝国はビザンツ帝国として1453年まで続いた。

ローマ文化は法律や土木など実用性にすぐれた特色がある。

土木建築ではコンクリートを使用した神殿パンテオン、5万人収容のコロッセウム、数千人収容可能な公共浴場。軍事道路のアッピア街道。三重式水道橋などがある。
文学でもガリア戦記、ゲルマニア、アエネイスなど著名なものがある。

もとへ。



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