看護師として長く働いていると、普段の日常や社会生活では起こりえない非日常的な体験をすることが増える。まあ、そもそも『病院』という世界自体が非日常的なものだから、病院で働く看護師が世間一般の人とは違う特殊な体験をする機会が多いのも当たりまえかもしれない。
それは悲しいことだったり、ショッキングなことだったり、そして笑い話だったりと様々だが色々な体験を重ねることによって看護師として鍛えられ、成長していくものだ。
私が脳外科・眼科の混合病棟で働いていた時、いつの頃からか、同僚の看護師や医師達に「顔に似合わず肝っ玉が据わっている」とか、「度胸がある」、「仕事の時はどんなことがあっても冷静に動いている」と評価していただいた。個人的にそう言われて嬉しくないわけはないが、だけど私だって最初からそうだった訳ではない。でも、「百戦錬磨の…」じゃないけど色々な経験を積み重ねてきて自分でもどこか開き直ったというか、肝が据わったような気がする。
その最初のキッカケというか、数ある看護師としての心得の一つを悟った事件(ハプニング?)は未だに鮮明に覚えている。
それは勤務交代で脳外科・眼科の混合病棟に移って半年ばかりたった頃の準夜勤(その病院では16:30〜1:15の勤務帯)で起こった。
その頃の私は、その病棟にやっと慣れて一通りのことはこなせるようになってきていたが、“経験不足”という点は否定できず、その日一緒に夜勤をするのがベテランのNさん・Tさんで心強く感じていた。
重症や術後の患者をみながら急変や急患入院も多くて忙しい夜勤帯だが、その夜は比較的落ち着いて、仕事も順調に流れていた。
その日、私はくも膜下出血の術後1日目のMさんを担当していた。Mさんは前日、緊急手術を受け、一晩ICUで全身管理を行って麻酔を醒ました後、その日の午後病棟に上がってこられたばかりだった。急な発症、そして緊急手術だったため、救急車で病院の救急部に運ばれた後、そのまま手術出しとなり、私がMさんと会ったのはその夜が初めてだった。
その時のMさんは、麻酔はとうに切れていたが、呼びかけや痛み刺激に対してわずかに顔をしかめ、時々無意識に手足を少し動かすものの、全く目を開けない状態だった。いわゆる『昏睡』状態で(医学的に言えばJCS200、GCS1・2・4のレベル)、医師達からもくも膜下出血の量が多かったため、脳血管れん縮など合併症のリスクが高く、意識回復は遅れるだろうと言われていた。
Mさんのご主人やたった1人の娘さんはたいそう心配されてはいたが、ご主人も病気があり、娘さんも小さい子供さんを抱えていたため、その日は一旦それぞれの自宅に帰られ、病室はMさんひとりきりだった。
医師からのバイタルサインのチェック(体温や血圧などの測定や意識状態の観察など)は2時間毎の指示で偶数時間には必ず病室に行かなければならないが、何となく気になった私は、他の患者さんの観察や処置の合間をぬって30分毎にはMさんの所に行って様子を見ていた。
ICUより病棟に上がってきてから、Mさんが1度も目を開けることはなく、もちろん呼びかけに何らかの応答を見せることはなかったが、時々手足を曲げるような動きが気になっていたからだ。
Mさんの体にはIVH(中心静脈にカテーテルを入れた高カロリー輸液)と脳槽ドレーン(脳のくも膜下の中で特に多量の髄液が存在する脳槽まで直接管を通し、主に脳圧をコントロールする目的で留置される)、それにバルンカテーテル(尿管)が入っており、さらに心電図モニターがつけられていた。体に入っている3つの管はどれも大切なものであるが、無意識のうちに患者さん本人が自己抜去して大事に至ることもあるので、私はそれが怖かったから頻回に訪室していたのだ。
“やばいかな〜、起き上がったりということはないかもしれないけど、この手がひょっとしてIVHや脳槽ドレーンに届いて抜いてしまわないだろうか?”という心配が強くなってきた21時、私はMさんの両手を抑制させてもらうことにした。
…話は少しそれるが、今、医療や介護の現場では患者さんの尊厳や人権問題から抑制廃止が叫ばれ、抑制を全面的に禁止する病院施設も増えてきている。まあ、その是非について語るのは別の機会として、その当時事故を未然に防ぐために抑制する行為は日常的に行われ、私が訪室していない時は1人でいるMさんが、チューブ類の自己抜去を防止するためにとった私の行為は当然のものだったと思う。しかし、一向に目が開く気配のないMさんに対し、不安はあったもののそれを確信していた訳ではなかったので、どこか“甘さ”があったのかもしれない。
「ごめんなさいね」と断りを入れながらMさんの両手を抑制させてもらい、Mさんの病室を出てから30分ほど過ぎた頃…。
私は別の部屋の患者さんの所にいて、Tさんは先にナースステーションに食事休憩に入り、Nさんは排泄介助を希望された患者さんの所にいた。
自分で寝返りをうてない患者さんのために体位変換を行っていた私の後ろの廊下から、Nさんの「…っ!!」という押し殺したような声にただならぬ気配を感じ、急いでやりかけていたことを済ませて廊下に出た。
すでに消灯時間を過ぎ、薄暗い廊下でポータブルトイレを持って立っているNさんの指差した先には、身に何もつけていない全裸の異様な姿のMさんが立っていたのだ。
…病棟の1番外れの個室で寝ているはずの、今まで意識がなかったはずのMさんが、脳槽ドレーン、IVH、バルーン、頭の術創ガーゼ、心電図モニター、そして寝衣とオムツ、体についていた全てのものをのけ、素っ裸でMさんの病室から2つ離れた病室の前の廊下を、手すりにつかまってフラフラしながら歩いていたのである…。
慌ててTさんにも声をかけ、3人でMさんを抱きかかえるようにして病室へ連れ戻ったが、私がつけたはずの抑制帯は、ものの見事に外されていた。
まさかいきなりMさんが立って歩くことを予想していなかった私は、もうそれはそれはビックリして、この時はほとんど頭の中真っ白状態だった。それまでの半年間にも、不穏や無意識のうちに点滴や栄養チューブを自己抜去する患者さんに関わってきたが、これほど“派手”に自己抜去した患者さんに出会ったのは初めてだったからだ。しかも、IVHを抜けば、場合によっては出血が続くし、脳槽ドレーンなんて脳の中心部に通している管で、そこから髄液が漏れてきたり感染の危険があるわけで、『命』に関わる重要な管を抜かれたのだから一大事件だ。
Mさんをベッドに横にならせた後、TさんとNさんは冷静に動いていた。まずは頭の脳槽ドレーンが抜けた部分と術創の消毒をしてガーゼを当てたり、待機の当番医師を呼んだりと、テキパキとやるべきことをしていた。
そんな2人に対し、私は“ああ、なんてことを…。こんな命に関わりかねない大自己抜去が起きることを未然に防げなかった私は、責任とって辞めなければいけない…”という想いが頭の中をよぎり、ショックで固まってしまって、Nさんに言われた通りのことをするのが精一杯だった。
けれど、そんな私に気がついたNさんに言われたことに、ハッと我に返り、力みが抜けた。
「驚いたね〜。でも、やるだけのことをやったら、後は結果オーライ、大丈夫。私もみんなも同じような経験してここまで来ているんだから。」
…そう、私達は患者さんの回復や安全などのために最善を尽くさなければならない。けれど、細心の注意を払っていても“人間”が相手だから不測の事態が起こることもある。その時、なぜ…?と原因を追求し、解明することも大切だが、起こってしまったことを振り返って立ち止まっているだけでは許されない。何が起きても、私達はそのときその場で最高のことが出来るように全力を出し切らなければならない。そして、そこから次へのステップを学び取ることが重要で、患者さんに対する責任でもあるのだ。人の命を預かる以上、『出来ない』『出来なかった』では許されない。
まあそれからも、もっと色々な体験を重ね、どんな時でも考えるより先に体が動く…ようになっていったが、この1番最初のショッキングな(?)体験がひとつの『原点』になったと思う。
それからもう一つ、わざわざ抑制するんだったら、心を鬼にして徹底的にきっちり抑制をしろ…ということも、この時の私の頭と体に叩き込まれた。もちろん、抑制を受ける患者さんのストレスなどのデメリットは十分承知しているし、抑制は最後の手段であって、そこに至らないようにする努力も怠ってはならない。だけど、やむを得ず抑制する時は、“患者さんを縛るなんて…”というあやふやな優しさで抑制していては、結果中途半端な抑制となってしまい、意味のない無駄な抑制となってしまう。それはかえって危険で患者さんのためにならない…ということも思い知った一件だった。(※抑制に対する是非や問題は奥が深くて長くなるので、また別の機会に書いてみたいと思います。)
ちなみに、Mさんはその後順調に回復され、大きな障害も残らず、無事に自宅退院された。けれど当然というか、Mさんの記憶にはあの夜の出来事が残っていない…。
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