病院という場所は、時に色々な意味で非日常的である。現代科学の成果を示す医療の最先端の現場でも、科学の力では説明し難いような出来事が起きることもある。
…そう、出るのである、幽霊が。
何をバカなことを言うんだいと思われるかもしれない。自分でもふざけているかもしれないと思う。医療機器は飛躍的に発達し、生命科学は人間の力がいよいよ神の域に達しようか…というほど進歩しているのに。けれど、科学的論理思考でもその実体が証明されず、存在自体が曖昧で現実離れしていても、霊魂はこの世界に存在するのかもしれない。そして、様々な形となってその存在を主張しようとしているのだと思う。
色々な生き方や考えを持つ人間が集まり、今の時代では多くの人が死を迎える場所となっている病院だからこそ、霊魂は集まりやすいと思う。そして、時に『幽霊』となって姿を見せることがあってもおかしくはない。まあ、それが見える見えない、信じる信じないは別として、病院ではそういった非日常体験をよく耳にするし、経験することもある。
実は私が働いていた病院でも『幽霊話』をいくつか耳にしたし、自分でも理屈では説明できない不思議な体験をしたことがある。私は決して霊感があるとは思わないが、時に「あ…」という不思議な瞬間(?)を感じてきた。
今から書くのは、その中でも忘れられない出来事である。
Mさんは70代の女性、くも膜下出血で入院していた。
…通常、くも膜下出血は脳の血管に出来た動脈瘤の破裂によって起きる。そのまま放置しておくと破裂を繰り返すことがあり、再破裂のたびに致死率は高くなる。だから、くも膜下出血の患者さんには、脳血管造影を行って破裂した動脈瘤の位置を確認、再破裂を予防するための手術を行う。ところがごくまれに、血管造影で動脈瘤が見つからないこともある。そうなったら、何度も検査を繰り返すのは患者さんへの侵襲も大きいので、少し期間を置いてから再検査を行うことになる。私の勤めていた病院でも、最初の血管造影で見つからなかった場合、2週間後に再検査を行っていた。1度破裂した脳動脈瘤は、手術を行わない限り2週間は再破裂する危険が高いので、その時期が過ぎるのを静かに待つのである。そう、動脈瘤の再破裂は音や光、体動などのちょっとした刺激やストレスによって生じることがある。再破裂を防ぐために昼間でも暗くした静かな部屋で、厳しい面会制限を行い、必要であれば鎮静をかけてまで安静を保ってもらう。関わる私達も、それこそ爆弾を取り扱うように細心の注意を払って接しなければいけない…。
Mさんも残念ながら最初の検査で原因となる動脈瘤が見つからなかったため、2週間の待機安静を強いられていた。
昼間もブラインドを下ろし日光が入ってこないようにした部屋は、夜になっても直接目に入って刺激しない薄暗い常夜灯1つのみで、非常に陰気で不気味な感じすらする。Mさんは幸か不幸か発症直後から高度な意識障害で、そんな周囲の状況を認識できない状態だったから良かったようなものの、まともな精神状態でそんな部屋に寝かされていたら1日ともたないと思う。(だから、状態によっては厳しい安静制限を少し緩めることもまれにあるのだが)
そんな部屋で昼も夜も1人きりでMさんは昏々と眠り続けていた。Mさんには息子さんがいたが、仕事があったとはいえ、ほとんど病院に姿を見せなかった。そしてMさんの御主人は6年前、同じ病棟で脳腫瘍のため亡くなられていたのだ。(父親が亡くなった同じ病棟で母親もまた危篤状態にさらされているというのは非常に辛く、それで息子さんの足も遠のいていたのかもしれない。)
そんなある準夜勤帯のこと。その夜の私はMさんの受け持ちで、時間毎の観察や喀痰の吸引、点滴などの処置に何度かMさんの病室に出入りしていた。Mさんは私の声かけにも反応することなく、ほとんど手足を動かすこともないまま、静かに眠っていた。
だが、訪室のたびに私は不思議な気配を感じていた。
部屋に入って正面横向きにMさんの寝ているベッドがあって、その向うに1メートル弱のスペースを挟んだ後、窓際になるのだが、その窓際のスペースに、ずーっと何かの気配がするのである。もちろん息子さんも親戚の方も、そして同僚も誰もいない、私とMさんだけの部屋に、確かに“人”の気配がするのだ。
ごくまれ〜に、脳障害で見当識を失って自分の部屋がわからなくなった患者さんが他の病室に入り込んでいることもあるので、ベッドの下や個室内のトイレをのぞいて見るが、そんな人もいない。(笑い話だが、時々そういった患者さんが他人のベッドで寝ていたりすることもしょっちゅうある。)
も、もしや…?私は霊感が強くないので見えないが、そこにいらっしゃるのは『オバケさん』??
…だけど、決して怖いとか気持ち悪いといったマイナスのイメージは湧いてこなかった。むしろ懐かしい感じというか、不快な感じは全くしなかったのである。その気配はずっと窓際とベッドの間にいて、あたかも側に椅子を置いて座って付き添っているような感じだった。
折りしもその日は8月のお盆の真っ盛り。もしかして、亡くなられた御主人が、病の床で闘う妻を心配して励ましにあの世から戻ってこられていたのかもしれない。きっとそうだ…。
それからその部屋に入る度に気配のする方にも注意を払い、誰に話すともなく「大丈夫ですよ。」なんて独り言を喋っていた。
だけど、一緒に夜勤を組んでいるTさん、Nちゃんは幽霊とか怖い話大嫌いのタイプだったので、その『御主人さん』のことを口が裂けても言えなかったんだけど。
それからもずっと、Mさんの部屋に入る度にその気配を感じていた。そして、それはどうやら私だけの勝手な想像ではなかったらしい。他にも数人「Mさんの部屋に誰かいる!」と騒ぎ出して数日。無事に2週間の待機安静期間を乗り切ったMさんは、再検査で動脈瘤がハッキリわかり、開頭手術に踏み切ることになった。
そしてその手術当日の朝。手術出しを担当したKさんが、無事に手術室にMさんを送り出して戻ってきた後、
「こ、怖かった〜〜!誰かがずっと、ジーーッと見ている気配がするんだもん!!何か変に見つめられて怖かった!塩を盛ったほうがいいよ、あの部屋!!」
と騒ぎ出したのである。
Kさんは、何が何でも塩を盛って御払いしなくちゃ…と主張し、結局『幽霊怖い』派の数人によって、本当にその病室には盛り塩がされた。
さて、Mさんの手術は無事に終わり、一晩ICUで過ごした後、翌日再び同じ病室に帰ってこられた。今度は厳しい制限が解除され、普通にブラインドを開けた明るい病室に…である。
そして、手術前と大きく違うことがもう1つ。それは、あれだけ病院に姿を現さなかった息子さんが、付き添いベッドを借り、泊り込みを始められた事である。男の人がすることだから、一見無愛想ではあったが、母親のことを非常に心配し、大切にしている気持ちは十分伝わってきた。
そして、手術出し前にKさんが感じたのを最後に、『御主人さん』も全く現れなくなった。
無事に手術が終わって一命を取りとめたのを見届け、安心したのか?それとも、息子さんが付き添うようになって、自分が側にいる必要はなくなったと感じたのか?
どちらにしても、手術前、独りっきりで闘病していたMさんを陰ながら支えていたのは御主人で、Mさんが助かったのは“自分と同じ世界に来るな…”という御主人の説得があったのではないだろうか?という気がしたのは私だけであろうか?
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