江戸東京探訪シリーズ 江戸庶民の教育              
 − 当時の子供たちの教育状況を垣間見てみましょう −
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■ 以下の文から当時の一般庶民の教育の様子が分かります。
 わたしのおッかさんは、きついから、むしょうとお叱りだよ。まァおき々な。 朝むっくりと起ると手習てなれへのおさんへ行ってお座を出して来て、 それから三味線のお師さんの所へ朝稽古にまゐってね。 内へ帰って朝飯あさまんまをたべておどりの稽古からお手習へ廻って、お八ッに下ッてから湯へ行て参ると、 直ぐにお琴の御師匠さんへ行て、夫から帰って三味線や踊のおさらひさ。其内そのうちに、 ちイッとばかりあすんでね。が暮ると又琴のおさらひさ。 夫だから、さっぱりあすぶ隙がないから、いやで否でならないわな
浮世風呂うきよぶろ:式亭三馬)
寺子屋
寺子屋という呼び名は関西に多く、江戸ではもっぱら”手習い師匠”と言ったようです。 手習いを始める年齢は、早くて6歳、遅くて9歳ぐらいと言われています。勉強の時間は、 おおかた朝六つ時(午前8時頃)から昼八つ時(午後2時頃)までで、態度が悪かったり、 進みが遅いと、居残りもあったようです。また、午後になると、出席率が2,3割減ったと言われていますが、 家業を手伝う子や琴、三味線等の習い事をする子がいたためでしょう。 江戸後期から幕末にかけてが寺子屋の最も盛んな時代で、当時3〜4万校の寺子屋があったと言われています。
当時の寺子屋は、今と違ってランキングというものはありませんでした。理由は、 庶民が生きていく上で文字を習得する必要があったことから、自然発生的に生まれた教育機関が寺子屋であり、 人を蹴落として自分だけが得をするなどという発想がなかったからです。 女の子はいい家に嫁がせるために手習いをさせるという側面があったにせよ、親たちが真に望んだことは、 生きていく上で必要な読み書き能力を子供たちに身に付けさせたいと願う純粋な気持ちでした。 それが寺子屋を発展させたとも言えるようです。
当時の寺子屋には、入学証書もなければ、修了証書もなく、卒業したからといって何の社会的メリットもありませんでした。 当然寺子屋にもレベルの差はあったと思われますが、ランキングなどという概念がなかったようです。
この浮世風呂の内容から、当時の子供たちの平均的な1日の行動がわかります。
これを見ると、江戸時代の子供たちもかなり勉強させられていたようです。 江戸庶民の子供たちは、それなりの理解と資力のある家庭ならば、寺子屋に通うのが普通でした。 上の文章はパロディ化されていますが、お母さんがかなりの教育ママであった様子が窺い知れます。 当時の子供たちも、現代より数段努力していたのかもしれません。
子供たちの平均的な1日
早朝 寺子屋へ行って机の準備
 三味線の朝稽古
午前 −朝食−
 踊の稽古
午後 寺子屋での学習
 −おやつ−
 銭湯に行く
 琴の稽古
 三味線や踊のおさらい
 ちょっと遊ぶ
夕方 琴のおさらい
 
上の「浮世風呂」は、さらに次のように続いています!!

 わたしのおとッさんは、いっそ可愛がって、気がよいからネ。おッかさんが、さらえさらえと、 おいいだと、何のそんなやかましく云事はない。あれが気儘にして置いても、どうやらうやら覚えるから、 打遣うっちゃって置くがいい。御奉公に出るための稽古だから、ちっとばかし覚えればいいと、お云いだからネ 
  浮世風呂うきよぶろ

 父親の方は、呑気なのか、娘のためを思い自由にさせたいと願う気持ちか、理解があるというか、少々甘いようです。これも、現代に共通しますね。

 おッかさんは、きついからね。
なに、稽古する位なら、身に染みて覚えねえじゃァ役に立ちません。女の子は、私のうけ取り(受け持ち)だから、 おまえさんは、お構いなさいますな。あれが大きくなったとき、後悔とやらをいたします。 おまえさんが、そんな事をおっしゃるから、あれが、私を馬鹿にして、言う事を聞きません。なんのかのとお言いだよ。
浮世風呂うきよぶろ


 父親が理解を示しても、母親の方はとんと受け付けなかったようです。強きもの、汝の名は女なり!ですかね。  しかし、この女の子は、自分の母親がなぜこうも口うるさいのか、その理由をちゃんと見抜いているようです。
 おッかさんは、幼い時から、無筆とやらでね。字はさっぱりお知りでないわな。 あのネ、山だの、海だのとある所の、遠くの方でお産れだから、お三弦おしゃむせん何角なにやかも、 お知りでないのさ。それだから、せめてあれには、芸を仕込まねえじゃァなりませんと、おッかさん一人で、 じゃじゃばって(我を張って)おいでだよ。アア、ほんとうに。
浮世風呂うきよぶろ

 子を思う親心のようですが、これは親の無学コンプレックス、親の身勝手のようです。それにしても、江戸時代の子供は、 今の子供たちよりしたたかというか、頼もしかったと思います。
 
 女子三絃・浄瑠璃を専らと習うこと既に百余年前よりの習風也。今世ますます比風にて、 女子は七、八歳よりこれを学ぶ。母親は特に身心を労して師家にる。江戸は特に小民の子といえども必ず一芸を熟せしめ、 それを以って武家に仕えざれば良縁を結ぶにかたく、一芸を学ばざれば武家に仕ゆることがたし。 これに依り女子専ら三絃・琴のたぐいを学ぶ
  守貞漫稿しゅていまんこう:喜田川守貞)

 当時の親も、子の出世を願っていたのは今と変わらなかったようです。特に女の子の場合は、武家に奉公に出すことが夢で,、 そのためには琴や三味線など何か一芸に秀でていなければならなかったそうです。長屋住まいの一般庶民といえども、特に女子の教育には熱心だったわけです。

 
 以上見てきたように、江戸庶民は以外と教育熱心だったようです。江戸時代の庶民は文字が読めないと思われがちですが、 次の シュリーマン旅行記(脚注) に記されているように、識字率はかなり高かったことが分かります。

 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、 日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら、日本人は、 工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。 それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。清国をも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、 日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。
  (シュリーマン旅行記 清国・日本)
 
 もちろん江戸時代の子供たちも大いに遊んだにちがいありません。 たとえば次の江戸川柳に示されているように、いろいろな遊びがあったようです。

「凧の糸ふんで子供に叱られる」   ・・・ たこあげ
「真棒が曲がって独楽もそれはじめ」 ・・・ こま
「竹馬で乗り切って行く八里半」   ・・・ たけうま
「かくれんぼう一寸ねむった立ち姿」 ・・・ かくれんぼ
「追羽根も男がつくと紛失し」    ・・・ はねつき
「われものをおさえて娘まりをつき」 ・・・ まりつき

現在の子供たちの日常の遊びとしては、凧もコマも竹馬もほとんど見かけなくなり、 のどかにかくれんぼをしたりする場所もなくなってしまいました。 女の子たちの羽根つきやまりつきの風景も見ることがなくなりましたが、年の瀬に浅草で催される 羽子板市 は大変な人出で賑わいます。売られている羽子板は、羽をつくためのものではなく飾りですが、 それでもやはり多くの人に昔の遊びを懐かしむ思いはあるのかもしれません。

 

『シュリーマン』 ハインリッヒ・シュリーマン(1822 - 1890)。 伝説にすぎないと思われていたトロイの木馬で有名な「トロイア遺跡」を発掘し、世界を驚かせたドイツの考古学者。 1865年、阿片戦争当時の清国と、幕末の頃の日本を訪れ、日本の暮らしを細かく観察し、 旅行記の中で日本の住居や衣服の清潔なこと、職人技の見事なことなどを賞賛している。

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