●(132) 2006年4月24日
「閉店後の片付け」
4月10日閉店後からの後片付けは想像以上に大変な作業でした。閉店日までは連日、早朝までの営業で、特に最終日は朝5時頃までやっていました。とりあえず11日から後片付けを始めましたが、店の中にある荷物の多さに驚きます。以前、自宅の引越しの時にも思いましたが、荷物をダンボールとかに入れて整理すると、どこにこれだけの荷物が入っていたのだろうと思うくらいの量になります。感覚的には10倍くらいの量に増えてしまうようです。
また、たまたま閉店前ごろからは、なたね梅雨というか、約一週間のあいだ連日雨降りで荷物運びには最悪の状態でした。雨に降られて荷物は濡れるし、風邪はひくし、私も爪は割れるしと、連日営業時以上の長時間勤務をして何とか十日ほどで片付きましたが体力は限界でした。
後片付けの最終日、すべて終ってドアを閉める時に妻は「ありがとうございました」と店に向かって一礼、それなりの感慨があったものと思います。
荷物はすべて自宅に持って帰り、現在は八畳間を占領していて、レンタルの倉庫を借りるかどうか思案中ですが、閉店してから夜に家にいると、いつも日曜日のような気がするのは、今まで日曜日以外に休むことがなかったせいなのでしょう。永年の習慣で身についた感覚は恐ろしいもので、毎日,毎日ふとした時に今日は日曜だと錯覚してしまいます。
ここしばらく本当にバタバタして疲れてしまいましたので、閉店前にいろいろお気遣いいただいた皆様に、未だお礼状も出さずじまいで申し訳ございません。
4月23日に行なわれた松尾大社の神幸祭。六基の神輿(みこし)が桂離宮前の桂川を渡ります。
平安時代から続いている船渡御
●(131) 2006年4月17日
「桜散る」
前回の日記にも書きましたが、先週は顕本法華宗総本山の妙満寺というお寺の観桜会ということでの「金子みすゞ」のライブでした。法華経には春爛漫の侯に謝恩、供養する桜会(さくらえ)という行事があって、終った後で宴会が催されたらしいです。ちょうど花見の侯というよりは、お坊さんたちがその時期に合わせて桜会を設定したようで、奈良朝以前からの行事だったようです。ライブ当日はちょうど入り口左右にある枝垂れが満開でしたので、その桜を見るために大書院の雨戸や襖戸を取り払っていたのですが、あいにくの強い風で、黄砂と花粉で咽をやられそうでした。
桜の花に格別の思いを感じるのは日本人だけのようですが、華やかにぱっと咲いて散ってゆく桜は日本人的なこころに通じるものがあるのでしょう。私も桜のシーズンになるといつも、自分の親や自分自身があと何回このきれいな桜を見られるのだろうとか思ったりしますが、ほかの花では感じることのないものです。
最終日の4月10日はお天気はよくなかったのですが店の前の桜はまさに満開でした。「923最終章」のご案内以降、地元の方はもちろん、ご遠方の方からもたくさんお越し頂き感謝致しております。東京からも女優の星由里子さん、アサヒビールの相談役(前会長)なども駆けつけて下さり、本当にありがたいことです。特に星さんは店で歌も唄っていただいたので、その日のお客様は大喜びでした。
そういえば昔は大学受験の合否発表の電報サービスで合格者には「サクラサク」、不合格者には「サクラチル」というのが使われていましたが、923もたくさんの思い出とともにひとまず「桜散る」ということになりました。
毎年、店の帰りに円山公園の枝垂れ桜を見に行きますが、今年も閉店後の13日の深夜に行ってみました。
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円山公園の枝垂れ桜(妻の携帯写真より)
●(130) 2006年4月10日
「何故、4月10日?」
今日は4月10日で閉店の日、といってもこの日記を書いているのはまだ9日の深夜というか10日の早朝で、これから寝て最終日の営業です。約一ヶ月間、休み無しで仕事をしていますと曜日の感覚がなくなってきて、月曜日なのに週末と勘違いしたり、日曜日なのに平日と思ったりと、もともとボケ始めている頭が余計に狂います。
10日は月曜日で最終日にしては中途半端で「何故この日?」という質問を受けます。皆さんがいろいろ憶測して下さるほど大した意味があるわけではありません。ごあいさつ状にも書きましたが、まずエアコンが故障していますのでクーラーの要る頃までにはやめなければということです。そろそろそんな季節です。それにもうひとつ、4月8日に岩倉の妙満寺というお寺で観桜ライブということで「金子みすゞ」コンサートの仕事が決まっていたことです。8日は土曜日ですので閉店日としては切りがよかったのですが、その日、早起きをして、お昼にライブをして、夜に疲れたままで店にでて、そのまま終ってしまうのでは最後としては少々ものたりない部分がありますので、数字の切りの良い10日としたようなわけです。
当初、2月末で終ろうとしていたのですが、3月にどうしてもと、団体の予約をもらい3月まで延ばしていると、また4月に予約を頂いて、またまた5月にも音楽演奏の予約と、続けているといつまでもズルズルと延びていってしまい、切りがありません。
一昨日ライブの妙満寺も、帰り道の賀茂川沿いも,岡崎疎水沿いも、店の前の桜も満開です。今年は閉店間近で毎日忙しくゆっくり桜を愛でる時間もありませんが、京都市内どこを通ってもきれいです。また店の中にも閉店に際して、お客様方よりいただいた何百本ものバラや胡蝶蘭が満開です。
毎日忙しくて、かなり疲れもでていますが、もう一日頑張って美しく散りたいものです。
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ライブをしました妙満寺大書院前の満開の紅枝垂桜です。
●(129) 2006年4月3日
「赤パンツの力」
最終章のご案内を出してからも連日たくさんの方に来ていただいて有難い事です。ロータりークラブで50名ほどのパーティーほか、昔のJCメンバー、小、中、高、大学のグループ、大学のクラブのグループと、いろんなお付き合いに感謝しています。今日も私がレッスンさせて頂いていたライオンズクラブのカラオケ同好会グループ、明日は高校の同窓会メンバーと、連日嬉しい事です。
お客様以外でも昔の従業員など、珍しい方がたくさん訪ねてくれます。先日も京大時代にアルバイトをしていた学生が東大の大学院に進み、この四月から大手企業に就職ということで、研究室の先生と一緒に報告がてら来てくれました。彼が東京で住んでいたところが「巣鴨とげ抜き地蔵」の近くで、そこで最も有名な土産物をママのためにと買ってきてくれました。みんなが見守る中、包みから出てきたものは巣鴨で有名だという「赤いパンツ」でした。説明書には「赤パンツの力」と書いてあります
へそ下3〜4センチのところにあるのが丹田というツボで、東洋医学ではここが「気」の発信地といわれている大切なツボらしい。この「気」が弱ると病気になるし、感情のバランスも崩れてしまって、運まで落ちてしまいます。赤パンツをはくことにより丹田に力を入れるのと同じような効果が得られ、アドレナリンの分泌を促して精神の集中力を高め、自然治癒力高める効果があるということです。そもそも赤い色の布を身につけるだけで体をあたためる作用があって、エネルギーを補う効果があるそうです。
妻も休みなしでかなり疲れているようですので、この赤パンをはいて気を高めて頑張れればありがたいことです。
〜〜〜〜
祇園の白川沿いも桜が咲き始めましたが、今年から店の前の白川北通り沿いもライトアップされて、華やかに映しだされています。今年はゆっくり桜見物には行けそうもないので、手じかなところで楽しんでおきましょう。
店の前はちょうど今週が見ごろです。桜の終る頃には店も終ります。
●(128) 2006年3月27日
「寝台特急 出雲」
この春のダイヤ改正で東京、出雲間を走る寝台特急「出雲」が3月17日かぎりで廃止になりました。1947年に準急列車としてスタート、72年3月に急行から格上げされて寝台特急となったそうです。準急時代からは59年でほぼ私の生涯、寝台特急の歴史は34年でちょうど923の歴史と同じです。
妻の郷里が島根県の松江でしたので、私どもにとってはこの山陰線を行く「出雲」には愛着があります。でも京都の人たちにとっては、この「出雲」は時間的にほとんど乗ることがないような列車でしょう。上りは夜6時頃に出雲を出発して、東京へ朝の7時頃に着くのですが、京都を通るのは深夜1時前です。京都から東京へ行く夜行は東海道線にもっと便利な列車がたくさんあります。また下りは夜の9時代に東京を出発して出雲に朝11時頃に着くのですが、京都を通るのが早朝4時20分頃だったと思います。ところが我々は深夜2時過ぎまで仕事しても、この夜行寝台に乗れば午前中に松江に行くことができます。病気見舞いに行っても、また夜の仕事に戻ってこれますし、松江でのお昼の婚礼などにも間に合います。
ただし早朝4時代に誰もいない駅のホームで列車を待っているのは淋しいもので、車掌もそんな時間に乗ってくる者は迷惑そうです。乗ってから手荷物の片付けをして、横になって寝る態勢になるまでには小一時間ほどかかりますが、やっと眠りについたかなという頃、多分福知山か城之崎あたりでしょうが、「おはようございます」のアナウンスでたたき起こされ、ベッドを片付けてしまわれます。高いA寝台の料金を払っている割にはほとんど寝台としての値打ちがありません。
時代の流れとはいえ、この「特急出雲」がなくなってしまうのは寂しい思いです。駅前の近鉄百貨店も丸物の時代から親しんできたのですが、来年二月で86年の歴史に幕を下ろすそうです。そしてわが923も間もなく・・・・。
〜〜〜〜
先週は珍しく病気でママがダウンしました。このところ流行っているらしいウィルス性の腸炎とかで、22日の深夜から突然の下痢と発熱。23、4日は全く食べられないし起き上がれないような状況で重症。医院で点滴をしてもらって無理を押して出勤しましたが意識朦朧で早退。25、6日から多少回復しましたが、まだ本調子ではありません。日祝も休みなしで疲れもでているのでしょうが、病気でこんなに長い間寝るなんて、かつてなかったことです。
この間に来ていただいた方には行き届かないことで大変申し訳ございませんでした。
●(127) 2006年3月20日
「続、923最終章」
最終章のご案内を出しましてからお手紙やメール、ファックスなど、あたたかいお便りをたくさん頂きました。店のほうにも、突然のお知らせで召集令状をもらったようだとハガキを持って駆けつけて下さる方、東京から車でとんで来られる方、昔のいろんなことを思い出して涙ぐまれる方など、
923に対しては我々が知らない部分で、それぞれがいろんな思いをお持ちのようで、閉店に関しては少々責任も感じます。
先月の日記で「理念と経営」という月刊誌について書きましたが、その3月号にT社長が書かれている文章の中に、三十年近く前に初めて
923に来られたときの思い出についても書かれていますので、その部分から一部を抜粋してご紹介させていただきます。
※〜〜〜京都国際会館は私の青春の場所であり、三十代の頃、毎年1月になると、(社)日本青年会議所の京都会議が楽しみでした。私にとってはこうした場所での勉強は新鮮であり、知的関心を十二分に満足させてくれたものです。
1978年でしたが、初めて訪れた国際会館の大きさに圧倒され、身が縮むような緊張感を覚えました。特に私を担当される同年齢の委員長は大手建設会社の社長であり、壇上で毅然とした姿で座っておられました。対極の下の段に小さなすし屋の経営者の自分がいて、自分の力不足を嘆き自分を小さく小さく感じていたことを思い出します。
式典やたくさんの勉強が終わり、その夜は「923(くにみ)」というお店で懇親会をしました。しかし、ワイワイガヤガヤの雰囲気中で、私は言葉には表現できないような哀しみに襲われていたのです。それは大きな会社を経営している経営者や、たくさんの資産家の経営者仲間に対する劣等感であり、実に複雑な気持ちがない交ぜになったものでした。
哀しみが頂点に達したのは、お店のご夫妻が、ご自作の「きのう京」という曲を歌われた時でした。私はトイレに駆け込み涙をふいていました。哀愁のあるメロディーと歌詞に涙が止まらなくなったからです。
〜♪〜「京都をひとりで 歩いた秋には はれているのに 心がぬれた
色あざやかな 落ち葉をふめば ぬれた心も かわかせるかと
そんな期待はしてなかったけど こんな気持ちじゃ帰れないと 歩き疲れた 南禅寺」〜♪〜
ニュー京都というホテルの一室に泊ったその夜、歓びとも哀しみともわからない感動につつまれていました。
「立派な経営者になりたい! 一度しかない人生を自分らしく生きたい!」
生きるとは何か、経営とは何か、天井を見つめながら自分に問うていました。〜〜〜〜※
なにげなく歌っていた私どもの歌に、こんなにも深く感じて下さっていたとはまったく驚きます。
このT社長は今では大きな企業をいくつも経営されていて、みんなから崇め尊敬されるような大社長です。
★理念と経営HP
●(126) 2006年3月13日
「923最終章」
突然のことで驚かれるかもしれませんが、来月4月10日(月)をもちまして
923は閉店することとなりました。昨日の日曜日は、朝からそのお知らせのハガキ作りで一日がつぶれてしまいました。店のお客様には一両日中にごあいさつ状が届くことと思いますが、以下のような内容です。
〜〜〜川端通り時代の大忙しだった十年目、二十周年記念の大パーティー、
三十周年記念のコンサート、そして今年は三十三年目になります。
常々いつかはやめなければと思いながら続けて参りましたが、
たまたま店の大型エアコンが故障したことがキッカケになって、
一気に閉店の方へと進んでしまいました。
4月10日まで
「923最終章」として日祝も無休でお待ち致しております。
皆様にお世話になった
923の歴史にはいろんなことがありましたが、
三十三年の心の思い出をご用意してお待ち致しておりますので
お顔を見せていただければ嬉しく存じます。
略式ですが永年のご愛顧ご支援に心より感謝申し上げる次第です。
このあと小さな店で
923をという予定もありますが、その節はまたご案内をさし上げます。〜〜〜
ということで現在の店は4月10日まで休みなしで営業し、閉店となります。
この「気まぐれ日記」は今後も続けてゆく予定ですので、たまには覗いてみてください。
●(125) 2006年3月6日
「お経」
前回の日記にも書きましたが、我が家は浄土真宗本願寺派(西本願寺)で、法事の時にはお寺さんの後ろで「仏説阿弥陀経」というお経を唱和します。住職(50歳代)が来られる時と、都合で副住職(息子さん)が来られる時がありますが、後ろで唱和しているとかなり詠み方の違いを感じます。住職の場合はついてゆきやすいが、副住職の場合はついてゆき難い。副住職の場合、まずの詠まれるテンポが早い。それと微妙な事なんでしょうが、息つぎの場所や息継ぎのタイミングも違うようです。やはり住職のお経は年季が入っていて、全体に安定感があってゆったりした感じがあります。ただし住職が来られる時でも、お盆前のお参りや、年末のお参りの時はテンポが早いと感じます。多分その頃は忙しい時期で、一日のうちに何軒も檀家さんを回らなくてはならないからなのでしょう。
どの道も究めるのにはそれなりの時間がかかるようです。
●(124) 2006年2月27日
「故人を偲ぶ会」
昨年11月に私と同じ歳の富山のご住職が亡くなられました。多くの人に慕われた方でしたので、先週その方を偲ぶ会が京都で行なわれ、私共も夫婦で出席しました。真宗大谷派(東本願寺)の方でしたので同朋会館の講堂で法要がおこなわれました。法要では「正信偈(しょうしんげ)」他、いくつかのお経を出席者で唱和しましたが、私たち素人には非常に難しかったです。
我が家は浄土真宗本願寺派(西本願寺)ですので、法事の時にはお寺さんのお経に合わせて、みんなで唱和するのですが、そのときは本を読んでいけば何とか合わせられます。今回のこのお経は音程が動き、コブシがあったりと、かなり慣れないと合わせられません。よく見るとお経本の文字の横にはいろんな印がつけてあって、それが高さやコブシの具合を表しているようです。「南無阿弥陀仏」が続けて五回ほど出てくるところも、一回ごとに節回しがちがいますので覚えるだけでも大変です。本山では以前にお経を一度五線譜に書き置こうとされたそうですが微妙な音程がたくさんあって通常の十二音階の楽譜では表せきれなかったそうです。お東のお寺さんに言わせると、音痴の人はお経を読むのも下手だそうですが、納得できることです。音楽をしている私なども非常に難しいと感じたお経ですが、さすがまわりの皆さんはその道のベテランでピッタリ唱和、そのうえ他にもたくさんのお経の節回しを覚えておられるのですからすごいです。
そのあと本山所有の国の名勝「渉成園」の中の臨池亭で会食ということになりました。渉成園は本山前の烏丸の正面通を東に入ったところにある回遊式庭園で一般的には枳殻邸(きこくてい)といわれています。池に面したお部屋で会食、故人の在所の富山の「立山」というお酒をたくさんよばれて、そのあとも923で二次会、そして夜中まで飲みつづけ、最後にはまた別のお連れと食事にお付き合い。翌日は完全にダウン。
(注)「渉成園」の名は唐の詩人、陶淵明の「園は日々に渉り 以って趣を成す」ということばからとったそうです。
●(123) 2006年2月20日
「酒」
仕事柄といえ毎日毎日よくお酒を飲むものです。一年のうちでも飲まない日はほとんどないのでしょう。この日記を書いているのもたいてい日曜日の夜で、かなり飲んだ状態で書いているわけです。
私共の若い頃はお酒はぜいたく品、特にウィスキーなどは高級酒で、今では千円台のスタンダードのスコッチでもなかなか飲む機会がなかったものです。特にブランディーなどは超高級酒で、手の届くような飲み物ではありませんでした。学生時代はサントリーの角ビンでも高級で、オールドなどもめったに飲めないような酒でした。今と違って集まれば飲んでいたわけですが、酒をのむことにはかなりの贅沢感がありました。
学生時代にはみんなで集まっては飲み会をしていましたが、ほとんどはビールか日本酒。大学のクラブのボックスでのコンパはヤカンで日本酒を沸かしてコップ酒という荒っぽい飲み方で、次々に酔っては倒れてゆきます。私も人並みには飲める方で、飲んだあとの片付けまでは元気なのですが、そのあと喫茶店へ行ったりして急に体調が悪くなって悪酔いをしてしまう事がよくありました(今思うとコーヒーのせいのようです)。
そんな時は放っておいてくれた方がよっぽど楽なのですが、みんなが気を遣ってくれて鴨川の川原やクラブのボックスや知人の下宿などへ運んでくれます。両方から腕を抱えて担いでくれるのですが、本人はまるっきり歩く気力もなく足は引きずったままで、翌日履いていた靴を見ると、革靴のつま先から甲の部分が地面にこすれて剥げているような悲惨な状況。
私達の世代に比べると、このところの若い人の酒に対する価値観は低く、執着が薄いようで、飲み方もスマート。私はこのところ体調も良く、いくら飲んでも二日酔いがなく、それをいいことに毎日少々飲みすぎていて、反省!。
●(122) 2006年2月13日
「理念と経営」
店のお客様の中には立派な方がたくさんおられて私共もいろんな勉強をさせて頂きますが、その中で、もう三十年も来て頂いている我々と同世代のT社長がおられます。
お寿司屋さんの丁稚修行から、25歳でお寿司店を創業されて以来、どんどん事業を拡大されていかれた方ですが、大チェーン展開を成功されたところで、40歳の時に鞄本創造教育研究所という経営セミナーの会社を立ち上げられました。今や全国各地にセミナーセンターを開設されて日本でトップクラスの研修会社となっています。毎年何冊もの経営哲学の本を出版されているのですが、40歳代になってからアメリカのスタンフォード大学へ行って勉強をされたほどの努力家で、今も連日、全国を飛び回って講演活動をされています。
またその方の驚くことは、毎日必ずご自分で全国の会員、知人へメールを配信されていることです。毎日仕事で全国のいろんなところに行かれるわけですが、どこに行かれても我々にも必ずメールが届きます。それもその日の活動、その日に感じられたことなど結構長い文章も書かれています。京都へお越しの時は、私の店へも来られてお酒も飲まれるのですが、多分ホテルへ帰られてからメールを書いて配信されるのだと思うと、私のようなグータラ人間は考えさされます。
その鞄本創造教育研究所が設立二十周年事業として、今年の一月から「理念と経営」という月刊誌を発行されることになりました。永年のお付き合いでのことでしょうが、私のところへも昨年に「縁は異なもの」というテーマで800字ほどの原稿依頼がきまして、先日出版された二月号に写真入りで拙文が掲載されました。みなさん立派な経営者ばかりがお書きになっているところへ、私だけが飲み屋のオヤジでまったく気がひけます。私共は仕事柄、毎日いろんな出会いがあるとはいえ、それこそ「縁は異なもの、不思議なもの」です。
★理念と経営HP
●(121) 2006年2月6日
「シネマズ二条」
久し振りに映画へ行きました。「博士の愛した数式」という今話題の映画です。タイトルどおりいろんな数字の話がでてきます。例えば、220と284は友愛数という話。220の約数の合計が284で、284の約数の合計が220になるという珍しい関係だそうだ。また28は完全数といって約数の合計が、その数字と一致(28=1+2+4+7+14)しているということです。この28も江夏の背番号と結びつけて話を広げてゆきます。原作本もベストセラーですが、作家のイマジネーションの豊かさには感心します。そういう数学的事実から展開していって、ストーリーを作ってゆくのですから。
このところ邦画の話題作が多く、見たい映画がいくつもあります。行きだすと、また行ってしまうもので、今週も突然思いたって「男たちの大和」へ行ってきました。「博士の・・・」に比べると出演者の数、セット、撮影などにかける豪華さは対象的で、どのくらいの制作費の違いがあるのかと考えてしまいます。
このところ昔からある大型映画館が次々に閉鎖されて、郊外やターミナルにシネコンができていますが、我が家からは二条駅のシネマズ二条が便利に行けます。4階フロアに11スクリーンがあって場内のシートも広く、ひじ掛けにはドリンク立ても付いていて快適な環境です。家から地下鉄に乗り約30分、五十歳以上は二人で2千円というのも魅力です。
●(120) 2006年1月30日
「坂上田村麻呂」
京都はさすがに歴史の町、いろんなところに意外なものを発見するのですが、我が家の近くの住宅地の公園の一角に、坂上田村麻呂のお墓があります。蝦夷地を平定するため征夷大将軍として功績を上げた平安前期の武将で、清水寺を創建したことでも有名ですが、弘仁二年(811年)に54才で亡くなられ、この地で葬儀が営まれたそうです。嵯峨天皇の勅により甲冑、剣、弓矢を具した姿で棺に納められ平安京に向かって立ったまま葬られているそうです。春にはこのお墓の横の公園にはたくさんの桜が咲きますが普段は子供が遊んでいるだけで、ひっそりしています。私のジョギングコースの一つでもあります。
毎週更新しているこのページも、大したことを書いているわけでもないのですが、書く才能のない私にとっては忙しかったり、ネタがなかったりしてして書けないことがあります。そんな時のために、日頃から何か準備もしておかなくてはなりません。実は今週も以前からストックしてあったもので失礼してしまいました。
●(119) 2006年1月23日
「青年会議所」
毎年1月下旬の週末から日曜日にかけて「社団法人日本青年会議所」の総会が京都国際会館で行われます。通常JC(Junior Chamber)といわれている世界組織の団体で若手経営者の集まりです。その京都会議のために全国から数千人が入洛、特に土曜日は懇親会などで祇園街もJCメンバーで溢れますが、今年は21日(土)がピークでした。
923も三十数年前の開店当初から、京都のJCの方々とのお付き合いが深かったので、未だに毎年どこかのJCのロムナイト(地区JCの夜の懇親会)を引き受けていますが、今年は茨城県のメンバーの懇親会場となりました。
JCは40歳までしか所属できない団体で、毎年40歳を迎えた人は卒業式をして送りだします。ということは最年長の方でも40歳ですから、私共もだんだん年齢差が大きくなってつらいものがあります。十数年前の景気の良い頃は、この京都会議の時には、祇園街はJCメンバー一色というほど溢れかえったものですが、現在は全国のJCメンバーも好景気時に比べると半分近くまで人数が減っているようで、来られる数も減っています。
歴代のメンバーOBをみても、大企業の経営者や現国政の大臣などがおられます。京都JCのOBでも、企業家はもちろんのこと、国会議員から府市議会議員まで何人も政治家になっておられます。
一年の中でも一番観光客の少ない今の時期に全国から何千人も来られるのは、ホテル、旅館、料理屋、飲み屋など、京都経済にとって有難いことでもあります。いままで何度もこの全国大会を他都市に移そうと、いうような話があったようですが、京都JCの努力で京都開催が続いています。
この京都会議が終ると、祇園街もすっかり静かになってしまいます。
●(118) 2006年1月16日
「aaと王将」
時々、無性に「aa」の餃子を食べたくなることがあります。923のお客様も、たまに是非「aa」へ行きたいと言われてお付き合いをすることがあります。「aa」は昭和40年前後に京都で学生生活をしていた人は誰もが知っている人気の店でした。最近は木屋町の店や祇園の店も、ホステスのお姉さんなんかも来られるくらいきれいになっていますが、当時はどの店も座るとよごれるのではないかといようなところで、木屋町の店なんかは壁中に落書きがしてあった記憶があります。でも味は抜群、値段は安いという学生にはうってつけの店でした。どの料理も美味しいのですが、特に餃子は格別で、皮が柔らかくて全体がくっ付いてしまうような餃子で、他の店のものとはちょっと違います。我々の貧乏時代に、たまの贅沢での餃子とビールは実に豊かなひとときでした。その後余裕ができてからたまに行っても、注文するものは学生時代と変わらず、何時行っても、餃子、ジンギスカン、焼きそばが主です。妻がいつも注文する「春雨炒め」も、ぜひお勧めしたいメニューです。
昭和50年代になると「王将」のチェーン店がたくさんできて、私共より少し若い人たちは「王将」ファンがほとんどです。その頃の学生にとっては「王将」が青春の店らしい。「王将」も餃子が売り物で、当時お金のない学生は食事をしてそのあと手伝って帰れば、食事代を免除してもらえるというようなことでも有名でした。大きな餃子とボリューム万点の料理が売り物ですが、我々の世代はまったく馴染みがなく、単に安い店としか感じません。
我々世代にとっては「aa」の餃子は懐かしい味がして、食べると青春時代が蘇ります。
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