第五話 子なきは去る 後編

富子が一ヶ月の予定で実家に帰って、二十日ほど経つ。しかし、半平太は美鶴に手を出そうとしなかった。様子を聞きにくる虎太郎にとってはがっかりの連続だ。
「よし!今日も酒を飲もう」
「え、またですか…」
ここのところ、宴会騒ぎが続いている。名目は富子が実家に引いて、寂しがっている半平太を励ますことになってるが、そうではなく、酒の弱い彼を酔わせるのが目的なのだ。
(武市さんは酔って我を忘れる人じゃないと思うんだけど…)
彼女はこのことをすごく疲れていた。肉体的にも精神的にも。富子なしでする家事はものすごい大変で、猫の手を借りたくなるほどだ。虎太郎のほうは毎日のように経過を聞ききて、自分で引き受けたのに無責任だが、もうんざりしてきた。
「…さぁ、準備しなくちゃ」
夕方からの飲み会に向けて、台所に立って、包丁を握る。
どう考えてもこの行動は、寒桜の下でした決意と矛盾している。
「なにやってるんだろう…私は」無意識のうちに溜め息がこぼれた。

「あしも…行かぇきゃならんがか?」
これから半平太のところに行くというのに、暗い光次を虎太郎は訝しがる。
「こないやき、おんしはおかしいぞ。いったい、どうしたというんだ」
光次は自分でも疑問だった。なにがこんなに胸につかえるのか。それが分からない。美鶴はこの話を承諾した。女性の立場にあんなに憤りを覚えていた彼女があっさりと。嫌がると思っていたから、強い衝撃があった。
自ら選んだのだから、文句は言えない、割り切ったはずなのに何かが胸につかえる。
「…別に、みょうにしやーせん。ただあしは顔色にでやすいから行かぇいほうがいいかと思ったがだ…」
もっともらしい言い訳をした光次に虎太郎はますます訝しがったが、聞かぬほうがいいと思い口をつぐんだ。
「…なんちゃーがやないだ、おんしは顔色に出にくいほうやき。ほら、行くぞ」
嫌がる彼を引きずって、また目的の家に向かって歩き出す。



飲み始めて、まだ一刻もたっていないが、飲み会は大荒れになっている。
「もっと飲んでくらさ〜い」
普段、飲めないからとお酒を断ってきた美鶴が今日始めて口にしたら、悪酔いをしだした。というより、無理やり飲んでよっているようにも見える。
美鶴にはショックでならなかった。光次は自分のことを避けている。明らかに避けているのだ。目もあわせず、言葉も交わさず、座るときも遠い位置に座る。
(軽蔑されたんだ…私の今の行動を)
そう思うともう飲まずにはいられなかった。
「飲みすぎだ、やめなさい」
半平太に宥められ、杯を取り上げられると、美鶴は電池が切れた人形のようにコロンと横になって丸まり、眠ってしまった。
「…近頃、美鶴さんの様子がおかしい。なにか理由を知らんか」
悟られたような質問に首謀者は肩をビクつかせる。
「…さぁ、わかりかねるがで」虎太郎は笑顔を作ってはぐらかす。光次は下を向いたままなにも言わなかった。
「…そうか」
半平太が美鶴に自分の羽織をかけてやる。
「じゃー、ねちゅうがを邪魔したくないがで、我々はこれで失礼するがで。」
見送ろうとする師に、起きてしまうかも知れないから、といって断り襖をそっと開ける。
「すまない」
頭を下げて、閉めた。が、少し隙間を開けて。光次がすぐに帰ろうとするのを引き止める。
「いぬるがやないがか?」小さな声で抗議する。
「ああ。全部見るわけがやない雰囲気が出てきたらいぬる」
露骨に不満げな顔をして、光次は襖から顔を向けた。
帰りたい、そればかりが胸をしめる。半平太と美鶴が――。それを考えると、胸のどろどろがまた湧き出てきて、自分を支配していく。
気持ちとは裏腹に中の様子を伺っている自分の卑しさに吐き気がした。

「…美鶴さん?」
目覚めたようで、うつろな潤んだ目で隣に座っている人物を見上げ、見つめられている。
「どうし…――!」
不意打ちのように美しい鶴に抱きつかれ、言葉を失念してしまう。
「軽蔑しますよね、こんな私を…」
別の人間にたいして言っているような、意味深な台詞に半平太は戸惑った。
「いったいなにを軽蔑するというんだ」
質問の答はなく、そのかわり規則正しい寝息が聞こえてくる。
(寝ぼけちゅうのか…)
下ろそうとすると、案外しっかりと抱きしめられてしまい、首元から離れない。
(仕方ない、このまま寝室に連れて行って寝かしつけるか)半平太は美鶴を抱え、向かいの襖の中へ消えていった。

「…こりゃあーよういくかもしれんな」
今の光次には虎太郎の声が聞こえない。
(――…そうか、そういうことか)自分の気持ちに気付いてしまった。彼女を思う特別な想いに――。
今までの美鶴の言葉が頭の奥で響く。
(私に勉強を教えてくれませんか)
あの時の探究心を持つ女子に興味を持った。
(私、思うんです。女も勉強するべきなんじゃないかって。世の中が大変なことになってるのに、なにもわかりませんじゃいけない。絶対女もこの国難に立ち向かうべきなんです!)
珍しい考えを持つ彼女をもっと知りたいと思った。
(嫁いで、子どもを生み育てるだけが女の幸せなんですか?)
(女の私にも志があります。私はたくさんたくさん勉強してそれを果たしたい…!)
強い意志をもつ瞳に引かれた。彼女には幸せになってもらいたいと心からそう思った。いやそうではなく――自分が幸せにしたかったんだ。
光次はその結論に至る。
でも、美鶴はどうやら半平太のことを想っているようだった。
妻のことを一途に愛している彼の隣に寄り添うことはできない。けど、志を同じくするものなら寄り添うことができる。だから、近くにいた半平太ではなく、自分に教えてもらいに来たのだ。
美鶴がなんで、この話を断らなかったのか…そこには半平太を想う気持ちがあったから断ることができなかったのだろう。
あの時、なにを話しているかは聞こえなかったが、美鶴は半平太抱きつき、半平太も美鶴を受け入れたように見えたのだ。
(そうか、美鶴さんは武市先生が――…)
光次はあの二人の姿が、その場から去っても目に焼きついて離れなかった。



鳥のさえずりで目を覚ますと、美鶴はなぜか自分の部屋の布団で眠っているではないか。
「え、どういうこと…って、痛!」
激しい頭痛に襲われ、思わず頭を抱えた。
こんどはゆっくりあたりを見回すと、綺麗に畳んである昨日の着物、掛け布団の上の半平太の羽織。
(――そうか、やけになってお酒飲んで…迷惑を掛けちゃったんだ)
身支度を手短に済ませ、客間の片付けをするために行くと、綺麗に片付けられていた。
急いで、台所を覗きに行くと、襷をかけた半平太が洗い物の後始末をしている。
「ご、ごめんなさい、後は私が…」軽い眩暈をおぼえて柱に寄りかかった。
「無理するな、二日酔いだろう」
湯のみに水を入れて、美鶴に差し出す。
(何から何まで迷惑を…)
実にいたたまれない気持ちになって、小さくなって水を口にした。
「――あしは近頃ずっと疑問に思っちょったがことがあったが、答が出たよ」
美鶴は半平太の落ち着いた声に、肩を強張らせる。
「なぜ富子ののうが突然悪くなったがか、なぜ君の態度が変化したがか」
真っ直ぐに見つめられて、目が泳ぐ。
「そして、吉村おんしがびっしり訪れる理由も」
本当のことをしゃべろうとすると、裏口を叩く音がする。
(吉村さん!)
頭で認識した。彼は美鶴がここに一人でいるときを見計らってやってきたのだろう。
半平太が代わって扉を開けると、虎太郎は思わぬ人物の登場に顔面の血の気が引いて白くなった。
「た、武市先生」
「あがっちょき吉村君。話があったがでぼっちりいい」
無表情で低い声を響かせる師に、弟子はもう観念して中に続いて入る。

その後、半平太の説教は小一刻にわたって続き、
「子のないのは天命。今後ふたたびこのような配慮は慎んでもらいたい」
と叱責を受けたのだった。



「いや、この度のことは美鶴さんにもすまないことをした。申し訳ない!」
虎太郎を見送りに玄関まで出てきた美鶴に、素直に頭を下げる。
「いいんですよ、引き受けた私も共犯ですから」苦笑いを浮かべて言う。
目の前の庄屋も愛嬌のある顔で笑った。別に悪い人物ではないのだが、どうも尊敬する師の為になると我を見失う。龍馬も言っていたことを思い出して思わず吹き出した。
「それでは」
「あ、待ってください!ちょっとお聞きしたいことがあるんです…」
帰ろうとする虎太郎を引き止めてたのにはわけがあった。まだ美鶴には問題が残っている。
「中岡さんの寓居を教えていただけませんか――」



光次は家で針仕事をしていた。
「…ったく、よういかん」
心が乱れる。美鶴と半平太がうまく言った可能性が高い。
もし万が一のことがあったら、彼らに普通に接する自身がなかった。
ドンドンと戸を叩く音がして、扉を開ける。
彼は己の目を疑った。
「こんにちは、中岡さん」
美鶴である。
「ごめんなさい、急に訪れてしまって…」
光次は次の言葉がなかなか出てこない。
「えっと、その言わなきゃならないことがあって来ました…」
その言葉が彼の上に重しのなって乗る。
「…あの日、私は武市さんとは関係はもっていません。」
聞き間違いではないかと耳を疑った。
「寒桜の下で言ったことと矛盾してることをしている私を、軽蔑してるかも知れませんけど、それだけは中岡さんにわかって欲しくて…」
これは聞き間違えでも何でもない。現実だ。
「それじゃあ…!」
頭を下げて、去ろうとする美鶴を後ろから抱きしめた。
光次の温かい腕に美鶴は心臓が張り裂けそうなくらいである。
「どうか、しばらくこのままで…」
「はい…」
しばらくの間二人はお互いの温かさを感じていた。


それから十日後、富子が帰宅。半平太のことを聞いた彼女は涙を流して、嬉しがった。
この事件はこれをもって落着した。



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