第六話 偽り

「武市さん、江戸へ行くんですか?」
いつものように武市宅へ訪れている龍馬から聞いたことは、驚愕であった。
「あぁ、わしも行くけどな」
今日聞いたことに関しては、すべてが寝耳に水である。江戸行きは半平太の希望であったから、それは美鶴としても嬉しかったが、しばらく帰ってはこないと思うと寂しさがあった。
「そうなんですか…」
「ほがな顔しなや」
しゅん、となった彼女をみて、抱き締めようとする龍馬を、すごい勢いで隣の部屋からやってきた半平太に引き剥がされる。
「意地悪だな、アギは」
「無闇やたらと抱きつくがやない」
「妬いちゅうかえ?」
「そうじゃーないが!あしは一般論をゆうちゅう!」
どうやら説教が始まってしまったらしく、間に挟まれた美鶴には居心地の悪い状況になった。
「…はぁ、これやき安心して行けないがだ」
半平太は溜め息をついて、額をおさえた。
「武市さん?」
「黙っちょったがことを悪く思っちゅう。…でも、おんしも自覚を持ちやー―――」
(女子ながやき)
それをいうと美鶴はとても嫌な顔をするので、言えなかった言葉は胸の中にとどめて置く。
「…つまり、安心こたうような格好がえいがだな」
龍馬のほうを二人一斉に見る。すると本人は満面の笑みを浮かべていた。


美鶴は龍馬に引きずられながら質問をする。
「『才谷屋』って龍馬さんの知り合いのお店なんですか?」
「いや、知り合いも何も――」
目の前に見えてきたのは大きなお店だ。
「ここはわしの家ちや」
「え?!そうなんですか!」
思わず口にだして叫んでしまった。つまり龍馬はお坊ちゃんってことだ。
「乙女姉やん、乙女姉やん!」
美鶴は挨拶ろくにできぬまま、店の中に引っ張り込まれてしまった。
(オトメ?変わった名前…)
そんなことを考えていると、女性のものとは思えない足音が聞こえてくる。そして、目の前に立った大きな女子をみて美鶴は開いた口が塞がらなかった。
「なんだい、龍…馬」
相手も目の前の彼女をみて酷く驚いているようだ。
お互いにしばらく固まる。その沈黙を破ったのは龍馬である。
「乙女姉やん、俺のき――痛って!!」強烈な痛みが脳天を走った。
乙女が殴ったのだ。
「何するちやっ!!」
「どこからこがな美しい娘さんをかどたいてきたが?!」
話がとんでもない方向に進みそうなので美鶴はホローを入れる。
「そんな誤解ですよ!申し遅れました、私は武市半平太さんの家に居候させてもらってる美鶴と言うものです。今日は突然お伺いしてしまって申し訳ありません」
できるだけ丁寧に誤ったおかげか、雷雲は過ぎ去ったようであった。
「ああ、おまさんが!よおきたねいらっしゃい。龍馬からいろいろ話は聞いちゅうよ」
笑った顔が龍馬そっくりであった。あのあったかい笑顔が。
「そこでだ、乙女姉やん。美鶴さんにわしの古い着物があったろうそれを貸してやりたいんやけど、どこにある?」
また乙女の怒りに触れてしまったらしく、ボコリと叩かれる。
「こがなきれえな娘さんにおんしのお古なんか貸せないよ。ほがなことをしたら武市さんに申し訳ない」
そういって立ち上がって、美鶴を手招きで呼んだ。
「さら男物の着物をあげる」
「え!そ、そんな悪いですよ」
「ほら、遠慮はいらんよ」背中を押されて二階に上がらされる。

二階に上がってから半刻くらいたったころ、一人取り残され、暇を持て余していた龍馬は、上がって様子を見に行く。
そうすると、ちょうど乙女が部屋から出てきた。
「いいところに来たね、美鶴さんを見てごらん、若侍に見違えったが」
中に入ってみると、鉄紺の着物と袴を身に付け、女髷を結うにはまだ短い髪を総髪に結い上げた美鶴が立っている。立ち姿は凛とした若侍そのものであった。
「ほう、見違えったな。あと二本を差せば完璧だ」
「本当ですか!」
嬉しそうに笑った顔は、やはり女子のもので花のようである。
「あー、笑ったら駄目だ。こうきりっとせんと」
龍馬が手本のようにしてみせると、笑いのツボにはまってしまうほど可笑しいらしく、鈴を転がしたかのように笑った。

「乙女さん、ありがとうございます。お着物まで頂いてしまって」
美鶴は玄関の前で今日のお礼に深々と頭を下げる。
「いいちや、あしも結構楽しかったからさ」そういってにっこりと笑った乙女に美鶴も微笑み返す。
「ほんなら、わしは送ってくる」
「ああ、そうしちょき」
もう一度乙女に頭を下げて、才谷屋をあとにした。

改めて感じるが、美鶴は本当に美しいのだ。彼女が歩けば男は振り返り、男装して歩けば女が振り返る。結われた艶やかな黒髪、白磁のような肌、凛とした柳眉、長い睫毛、漆黒の瞳。長い手足、すらっとした身長。
(ああ…どうしておんしゃーこがーに美しいがやろ)
龍馬は美鶴の横顔を見ながら、普段は臭くて口に出来ない台詞を心の中で呟く。
半平太に紹介された時、心が大きく動いた。要するに、一目ぼれであった。好きで好きでしょうがない。本気で好きだからふざけたりおどけたりしないと接することができない。
(悲しい性だな…)
「?私の顔に何かついてますか」意中の人に声をかけられ、はっとする。
「いや〜…月代も剃ったほうが男らしくなるかもと思ってな」
そういいながら、美鶴の頭のてっぺんを撫でる。
「龍馬さん!!」
殴るのを除けながら、走って逃げると美鶴もついてくる。
(ここで振り返って抱きしめたらどうなるか…)
振り返ると、思ったとおり勢いよく飛び込んできたので抱きしめた。
「!?」
包み込むくらいだった手に力を込めると、身体が強張るのが解る。
「ややみたいなニオイがする」
「とことん失礼ですねまったく!」
龍馬の胸のあたりを思いっきり叩いて、美鶴は前を歩く。
「…我ながら情けない」痛いところをさすりながら、聞こえないくらいに小さな声で呟いた。


半平太の江戸への出発の当日になった。
「富子、息災にな」妻の肩にそっと添える。
「はい、家のことはおまかせください」
夫はしっかりとうなずく。
「留守の間、私が富子さんをお守りします」
妹のようにかわいがっている娘は真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
「いいか、決していかんをするがやないぞ。男装しちゅうとはいえ気を抜くな。それから――」
美鶴の目の前に、大刀が差し出される。
「持っていなさい、無銘だが丈夫な刀だ。これを使うのは本当に身の危険を感じた時だけだぞ。」
刀を受け取り、腰に差す。
「ありがとうございます。心得ました。」
「じゃー、行ってくる」
「言ってらっしゃいませ」
二人は声を揃え言い、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
安政三年八月、武市半平太は臨時御用を受けて江戸へ出立。同じ時期に龍馬も出立。これは土佐勤王党結成に大きく関係していくことになる。

半平太たちが出立してから数日後、城下町で虎太郎と会った。
「光次のやつ、持病の脳病が良くないらしうて、今寝込きるんだ。」
そう聞いて早速、光次の寓居を訪れることにした。
扉の前にまで着たが、やっぱり扉を叩くときは緊張する。
「どなたなが」中から調子の悪そうな声が返ってきた。
「美鶴です」
「ち、ちっくと待ってくれ…」ばたばたと片付ける音が聞こえてくる。
しばらくすると音がやみ、申し訳なさそうに戸が開いた。

「脳病の具合はいかがですか」中に入れてもらった美鶴は、前で胡坐をかいている光次の前に腰を下ろす。
「いや、朝よりはだいぶえいがだ…」
そう言ったと同時に、腹の虫が聞こえてくる。
「あ、お腹すいていらっしゃるんですか。私がなにか作りますよ」美鶴は台所へ立つと、襷をかける。
「ほがな!構わん、後であしがやるき…」
「具合が悪いんですから、ゆっくりしていてください」
手際よく作業をする彼女の後ろ姿を見つめる光次の顔はどこか熱を帯びていた。
「何で美鶴さんはあしのためにここまでしてくれるんだ?」
振り返ると今までとは違った、真剣で熱を帯びた視線でこちらを見つめているのだ。
「そ、それは…」
美鶴がここにきた理由、好きな人が心配だった、出来るなら何かしてあげたかった。そう好きだからここに来た。
(好きだから…)
あらためて光次を見つめる。髷、着物、なにより彼は"過去の人"――。
「――大切なお友達だからに決まってるじゃないですか!どうしたんですか急に!」
本音を飲み込んだことを悟られないように、おどけていうが、それもすぐに消えゆく。
「…そういうことなら、こがなことは余計な世話だ。」
光次は怒ったようであり悲しげでもあるような表情を変えずに話を続ける。
「おんしは思わせぶりな態度をとって、あしが勘違いしちゅうがをみて笑っちょったがかえ?」
「ち、ちがいます!」
「――もう、帰ってくれ…」
美鶴は涙がこぼれそうだった。なにも言葉が出ない、家を飛びだすことしかできなかった。
「…頭が痛い」
やるせなさに、光次はまた激しい頭の痛みを覚えた。

どこを歩いているのかさっぱり分からない。胸の痛みが大きすぎて、ほかのことが考えられない。
(これで、よかったのかな…実らない恋なら)
気付けばあの寒桜の木の下にいた。今は青々と葉が茂っている。
「――いいわけないじゃん…」
子どものように声を上げて、泣いた。思い出と同じ場所で。



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