第二話 出会い

美鶴は幕末という時代の土佐での生活にも慣れてきて、富子の家事なども手伝ったりしていた。言葉では言い表せないほど感謝を少しでも表しかったのだ。
ここはテレビなどない時代、暇をもてあます時は半平太に借りて本などを読んだりしていた。最近では四書に興味を持っている。美鶴は退屈だった古典の授業がこの時ほど役立つとは思っても見なかった。

そんな日々か続いて、数ヶ月がたった安政二年の正月。武市半平太が嘉永七年の大地震で倒壊してしまった道場を富子の叔父、島村寿之助とともに新町田淵に建て直し再開した。美鶴はまずその門人の多さに驚いた。午前も午後も人の出入りは絶えず、まさしく人気道場である。その手伝いをする美鶴は門人たちとふれあうなかで、本来の明るさを取り戻していった。そんな彼女のまわりに自然に人が集まるようになり、授業の終わった道場は笑い声が響くようになった。
同年の七月になってこの道場の成功と剣術の腕を見込まれてか、藩庁から八月七日から九月四日まで約一ヶ月、田野学館で指導することとなる。

半平太が田野学館の指導期間を終えたこと、一人の男が彼を慕って道場に入門してきた。中岡光次、のちの中岡慎太郎その人であった。美鶴は当然そのことをまだ知らない。そうと知るのは先の話である。
数日たってのこと光次と知り合う機会が巡ってきた。
半平太から借りた『論語』を読もうと思い、まだ誰もいない道場に向かう。美鶴はここの独特の雰囲気の中で勉強するとはかどる気がして、よく足を運ぶのだ。読書を始めてまもなく足音が近づいてきて扉が開く。彼女は思わぬ来訪者に扉のほうを見る。そこには真面目を絵に描いたような中岡光次の姿があった。
お互いになんと声をかけたらいいかわからず、しばし見詰め合ったあと美鶴が沈黙を破る。
「えっと、中岡さん…ですよね。」
「あしのことを知っちゅうなが」光次は中に入って荷物を下ろしながら、驚いている様子で言った。
「ええ、武市さんが話していたことがあったので」
そういうと彼は表情が明るくなる。
ふと、目線が彼女の正座をした膝の上にある本の方に移った。
「美鶴さん、ほりゃあ…『論語』か」
「はい…四書を中心にやってるんですが、難しくてなかなか進まないんです」美鶴は照れ笑いを浮かべる。
「ほお、女子ながによおやりな。武市先生も感心するわけだ」光次は感心しきった様子で腕を組みながら隣に正座していた。
「武市さんがそんなことを…なんかうれしい。」
そんな談笑をしながらしばらくした後、美鶴は光次におもむろに尋ねる。
「あの、中岡さん。もしよかったら道場が終わってから私に勉強を教えてくれませんか」
「あしは構わないが…あしじゃー不足がやないろうか」
首を振って笑顔を見せて言った。彼は柔らかな日差しのような微笑に自然と微笑み返した。

それからというと、光次は武市の道場へ通うときは数刻教えてから家路に帰るようにしている。
美鶴と話すのは楽しかった。自分の話すことに一喜一憂しなんとも話しがいがあって、そして何よりも彼女のそのころころ変わる表情を見ているだけでも飽きなかった。
通い始めてしばらく経ったころ、いつものところに行くと、美鶴は待ちわびたように光次の姿を認識すると嬉しそうに駆け寄ってくる。彼女の愛らしい笑顔に彼は思わず顔の筋肉を緩めてしまう。
緩んだ筋肉を再び引き締め、彼女を道場へ促す。
「さぁ、始めようか」

光次は『論語』を閉じて、溜め息をついた。
「今日はこれで終わりにしよう…」
「はい…」美鶴も納得したように本を閉じる。
二人の後ろで寝転がりながらこちらを見ている青年の姿があった。総髪はしゃんと結われてはおらず、鬢からは解れ髪が出ている。
「坂本さんも勉強してみたらどうなが」
「あしは遠慮しちょく」
坂本と言われた青年の名は坂本龍馬。武市半平太の友人でよく家にも道場にも顔を出している。最近では、光次との貴重な時間を邪魔してくるのだ。
美鶴は最初に龍馬に会ったときは驚いた。まさか、あの有名な偉人と会って、おまけに会話までしている。あまりにも緊張して手に汗まで掻いてしまうくらいだった。しばらく話していると彼は思いたのと違っていた。教科書で見たことある彼の写真の仏頂面とはちがって、笑うと実に人懐っこい表情になる。お姉さんの乙女さんが怖いことや、自分が"よばったれ"と呼ばれていた頃の話までしてしまった気さくな人だったのだ。それからは、美鶴は親しみをこめて"龍馬さん"と呼ぶようにまでなった。
「しょうまっこと、美鶴さんは勉強熱心ちや」
「女子ながによおやりな」
龍馬を怪訝そうな顔をして見返す。
「みんなにそういわれるんですけど、そんなに女が勉強するのが珍しいんですか」
「めずらしい」起きて胡坐をかいた。
美鶴は高校の授業を受けるように、勉強してきた。しかし、この世界では女は家庭に入り、夫に尽くすことが普通らしい。それがどうも納得いかない。
「私、思うんです。女も勉強するべきなんじゃないかって。世の中が大変なことになってるのに、なにもわかりませんじゃいけない。絶対女もこの国難に立ち向かうべきなんです!」
熱弁を奮って思わず立ち上がってしまったことに気付き、恥ずかしさで穴があったら入りたい気分だった。
「しょうえい女子だ」光次と龍馬の笑い声が初秋の空に響いた。


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