第一話 時を越えて

「あぁ〜っ!もう嫌!」
一人の少女の叫びが人里はなれた場所に見事に響いた。
「そういうなよ、美鶴」
美鶴と呼ばれた先ほどの少女は今の男の言葉に余計に腹をたてる。
「なんでこんなところに住まなきゃならないのっ!譲(イズル)お兄ちゃん!」そういいながら妹は段々と端正な兄の顔に、お互いの鼻が付くかつかないかぐらいまで近寄る。
「ち、近い」
譲という兄は戸惑ったように目を離し、どさくさに紛れてやり過ごそうする。美鶴はそれを追いかけて追究の手を緩めなかった。
「どうしてよ!せっかく就職決まったのに、なんで一日でクビになっちゃうの!」
「僕にわかるわけないだろう」と目をそらす。
「まさか、初日から寝坊で大遅刻した…とかじゃないでしょうね」
どうやら図星らしく、そそくさとその場をはなれる。
「いい場所じゃないか」と能天気なことを言ってはぐらかす。
この整った顔だけが取り柄のダメな兄に呆れて溜め息がこぼれた。
しかしよく周り見てみれば、ぼろぼろだが雰囲気のある古風な農家の造りになっている。安らぎさえ感じた。
「それにさ、ここタダだし」
嬉しそうに笑っている譲に美鶴はまた溜め息が出る。
実はこの兄妹、両親はすでになく、二人だけでアパートに暮らしていたがどうにも、十八歳の妹のアルバイトの稼ぎと二十二歳の兄の少ない稼ぎだけではやっていけず、家賃滞納のためアパートを追い出される結果となったが、アパート大家が兄妹を不憫に思い、自分の所有しているこの農家造りの家を自分で修理するのを条件にタダで貸してくれたものだったのだ。
「でも、こんなのどうやって直すのよ…」
家のボロボロ具合に、どのくらい時間をかければ直るのかを考えて軽い眩暈を覚えた。
ふと、目を別に移すと、兄が古い井戸を覗き込んでいる。
「うおースゴー」子どもみたいにはしゃぎまわる譲に美鶴に笑みが浮かんだ。
瞬間、兄の声が止む。
「お兄ちゃん?」不審に思った妹は近寄る。刹那、井戸が光を放ち、辺りを包み込んだ。
美鶴はその光に飲み込まれる譲の姿を、見たような気がした。




真夜中、すっかり眠りに落ちた時間に自分の家の庭ので不振な物音を聞いた男は、妻をそっと起こして、傍から離れないように忠告する。そして、手元にあった大刀を手に取り、雨戸をそっと開け、抜刀しかけたが寸でのところで手を止めた。夫の行動がおかしいのに気付いた妻は隣から外を覗き込むと一糸纏わぬ姿で、女が庭先で倒れているのであった。


美鶴は温かさを感じて目を覚ますと、見知らぬ女と男が上から覗き込んでいるのが目に跳びこんでくる。思わず飛び起きて後退りをしてしまった。よく二人を観察してみると、女は日本髪に結い、男は月代に髷。着ている物も着物という古風なものだ。しかも、自分に着せられているのもどうやら襦袢みたいだった。余計に混乱して何も口にできない。すると、女の方が優しく声をかけてきてくれた。
「一体なにがあったのですか」
なにがあったか、と聞かれても美鶴はわからず困ったように女を見つめ返すだけだ。
「…どうやらよっぽど怖い目に遭ったのですね」少し訛のある声に悲しい響きになる。どうやら困った目が脅えているように見えたらしく、なにか勘違いされたようだ。
「まだ夜は明けない。とりあえず一晩ここでゆっくりするといい」
今まで一言も発しなかった男が、無愛想ながらも低い優しげな声で言った。そこにも女と同じ独特の訛があった。
「そうしてください。旦那様や私(わたくし)は隣の間にいますので、何かあったら私を起こしてくださいな」
暗かったが女の優しげな笑みが見えた。

二人が部屋去り、暗い部屋に取り残される。とにかく、美鶴は今の状況を整理してみることにした。
まず、ここは他人の家らしいこと。ここの住人は夫婦らしいこと。この暗い部屋から電気は通っていないだろうということ。
そして、雨戸を開け、こっそり庭から外を見ると街灯ひとつもなく真っ暗で、柵から足を出して地面の感触を確かめてみると土っぽい感触がある。道路は補修されていないらしい。
もう一度元の部屋に戻り、布団にすっぽりと包まる。
「もしかして…これって"アレ"?」
美鶴の言う"アレ"とは、よくSFで描かれる、現実の時間から、瞬時に過去や未来に移動してしまう"アレ"である。
「どうなってるの…」心細さ、不安、恐怖で押し潰され、涙がこぼれてきた。その涙で歪んだ視界に兄・譲の顔が浮かぶ。
「おにいちゃん…」そういった声は震えていた。

翌朝目覚めてみると、やはり元の部屋だ。美鶴は溜め息をついた。どんなに夢ならいいと思ったか。頬に手を当ててみると涙で濡れていた。
「…これからどうしよう」美鶴は枕元に用意されていた着物を四苦八苦しながら着る。着終わったとき考えた。ここにはずっと置いてもらえないだろうと。自分を未来から来た人間だとあの夫婦は夢にも思ってないだろうから。色んな言い訳を考えながら意を決して二人のいる居間の戸を開ける。
どうやら朝食の途中だったようで、男は茶碗を膳の上に置き、女は隣で夫の方に向けていた体をこっちに向ける。
「昨晩は助けていただきありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいか…」
そうした状況のなか美鶴は正座をして深々と頭を下げた。
「名を聞いてもよろしいか」男の声が聞こえて恐る恐る顔をあげる。
すると、色白で鼻筋が通った端正な男の顔が目の前にあった。少し見とれて間が空いてしまう。
「美鶴といいます」どうも直視できずにまた頭を下げた。
「顔をあげてくれ、美鶴さん」
男にいわれてまた頭をあげると、さっきと同じ綺麗な顔があった。目の行き場に困って女の方を向けると、また綺麗な顔がある。目線は行き場を失って泳ぎ、ついに床に落ち着いた。
「一体なにがあったのですか。あんな姿では余程のことがあったのでしょうね」
「え?あんな姿とは…」女に言われた思わぬ言葉に聞き返す。
夫婦は不思議そうに目を見合わせる。
「憶えて…いないのか」男の顔が酷く心配そうな顔色になる。
そっと女が美鶴の近くまで寄り、発見された時の状況を囁く。すると聞いた本人は顔を真っ赤にして、さっきよりさらに俯いてしまった。
「私…どうしてここにいるかがわからないんです。その部分だけ記憶が虫食いのように抜けてしまっているようで…」
不意に涙が頬を伝うのを感じ、手のひらで拭う。すると女は背中を摩ってくれて、その優しさにまた涙が零れそうになるのをぐっとこらえた。
「もともとは…相模国の生まれなのですが、住んでいた家を追われてしまったので、兄とともに各地を放浪していました…。でも、突然、その兄が行方知れずなってしまったんです。後は路銀もきれて…力尽きたまでは憶えているんですけど」
この時、美鶴は心の中で、我ながらいい言い訳をしたと思っていた。が、目の前の夫婦が真剣に聞いてくれており、自分を不憫だと心から思ってくれているのを感じ、完全に嘘ではないのだが心苦しくなる。
「…旦那様」女は懇願するように夫に呼びかける。男はすべて察したように頷いた。
「美鶴さん。しばらく…いや、しばらくでなくてもいいが、ここにいなさい。年頃の娘が一人で歩き回るのは危ない。あなたがここにいるということは、貴方の兄者のことについてもなにかつかめるだろうと思うから」
男の言葉に、夫婦の優しさに、感謝の気持ちでいっぱいだったが、言葉は泣き声にしかならなかった。
美鶴は、すぐ後にこの場所は土佐であり、この夫婦の名前が武市半平太・富子夫妻だということを知った。



彼女は大きな歴史の動乱に巻きこまれていく。
そして、その数ヵ月後、彼女の運命を変える人と出会うことになる―――。



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