カモミール 9



 クロームだけが案内の為に共に行き、他は誰も部屋を出なかった。
 ここから出口までは人払いをしてある。
 静かに白蘭達は城を出て、クロームだけが見送る。
 面会はそれで終わる筈だった。
 けれど出口付近で騒がしい音と人の声が聞こえてきた。
 数人が言い争っているような声は、この先にある角を曲がった先から聞こえてくる。
 人払いはした筈だ。
 今こうして歩いている場所とその近くの廊下は立ち入るなと、それはボスである綱吉からの命令。
 それを無視するなんて一体誰なのか。
 気にはなったが今それを止めるのはクロームの役目ではない。
 何事もなく何もさせず白蘭を外まで送り帰るのを見送る。
 役目はそれだけだから騒ぎは素通りしようとしたが、通り過ぎる時に目は無意識に騒ぎの方へと向いてしまった。
 白蘭達も勿論気になったようで、角を通り過ぎるついでに何を騒いでいるのかと声がする方を見る。
「あれ?」
 白蘭がぽつりと呟いて足を止める。
 クロームも思わず立ち止まってしまった。
「どうして…?」
 白蘭とクロームの声に騒いでいた人達は動きを止めた。
 数人はこの辺りの警護として配置されていた人だろう。
 そして彼らが必死になって取り押さえていたのは正一だった。
 ずっと、通せ、無理だ、ボスの命令だ、とそればかりが繰り返されていたので、状況を見る限り正一が無理矢理人払いをした場所へ入ろうとしていたようだ。
 クロームの疑問に警護達は答えられない。
 彼らも理由など知らず、ただ通せと言う正一を力尽くで押さえ綱吉の命令を守る事に必死だった。
 正一の腕力などたかが知れているが、暴れる人間を怪我させる事なく取り押さえるのは大変で、こうなったら多少の怪我は止むを得ないかと考えていたところ。
 碌な会話など交わされていない。
 クロームは困り顔の警護達から正一へと目を向ける。
 彼はただ白蘭を睨んでいた。
 言いたい事がある気持ちは分かる。
 セキュリティに侵入されたと慌てて綱吉の所に駆け込んできた正一を見ているので、出来れば少しくらいは話を、と思う。
 だがここは立ち入りを禁止された場所。
 お互いを刺激せず面会を終わらせる為に綱吉が決めた事。
 命令を無視するわけにも無駄にするわけにもいかない。
 このまま正一の事は無視して通り過ぎようとクロームは判断した。
「放していいよ。」
「え?」
 けれどそれを白蘭が止める。
 白蘭は確かに正一達の方を見ていて、取り押さえている警護達はどう判断していいのか迷っている。
「あの…。」
「放していいよ。」
 繰り返す白蘭は綱吉に判断を仰ぐ時間を与える気はない様子だ。
 諦めてクロームは頷いた。
「放して。」
「ですが秘書官…。」
「ボスには私から話す。だから放して。」
「………。」
 警護達は悩んだ末にしぶしぶ手を放す。
 あまりにも白蘭を睨んでいるので、手を放した瞬間に正一がそのまま勢いで掴みかかるのではないかと心配したが、そんな事はなかった。
 クロームが目配せすれば警護達は自分の配置に戻る。
 その間ずっと正一は白蘭を睨んでいた。
 でも自分から声をかける事はしなかった。
 もしもこのまま白蘭が何も言わず、正一に興味などなさそうな様子で立ち去ったのなら、もう2度とこの人の事など気にするものか。
 けれどもしいつものように声をかけてくる事があれば、その時は彼が望む通り立場など忘れた態度で言いたい事を言ってやる。
 部屋を出てここに来る間に正一はそう決めていた。
 だからただ白蘭からの反応を待った。
 彼からの答えはどっちなのか。
 少し緊張した気持ちで待っていれば答えはすぐに出た。
「やあ、正チャン。そんな怖い顔をしてどうしたの?」
 見慣れた笑顔と聞き慣れた声。
 いつもと何も変わらない、自分のした事など少しも悪びれていない、正一がよく知っている白蘭だった。
 ぎゅっと正一は唇を結ぶ。
 そっちがそのつもりなら、こっちも望み通りにしてやる。
 そう思って1歩前へ出た。
「貴方は一体どういうつもりなんですか!」
「何が?」
「何が、じゃありませんよ!こんな綱吉君を困らせるような真似をしてボクの事も巻き込んで!」
「その質問にボクが答える義理はないよね。」
「だからってボクが聞いちゃいけない理由になんかなりませんよ!!」
「あはは、確かにそうだ。」
 こんなふうに正一が白蘭に本気で食って掛かるのは珍しかった。
 いつも叫びながら逃げようとするばかりで、怒りながら向かってくる姿なんて何回見ただろうか。
 滅多にないから記憶が薄く、別の世界の自分の記憶と混同しそうだ。
 彼と一緒にいた正一は弱くて、けれど吹っ切れると怖かった。
 臆病な癖に覚悟を決めればとても強かった。
 目の前で怒る正一も同じなのだろうか。
 きっと同じなのだろうと、友達と自分の為に怒る正一を見て思うが、白蘭は確証が持てなかった。
 だって本当にこの姿は珍しく、そうして自分自身は正一の事を実際はそんなに知らなくて、判断する材料はとても少ないのだ。
 そんな事を思って白蘭は笑った。
「入江正一君。」
 ミルフィオーレのボスとして笑顔を作って正一を呼んだ。
 途端に正一は息を呑んで怯えたような顔をする。
「いいのかな?今ここは立ち入りが禁止の筈だ。曲がりなりにもキミはボンゴレ所属の人間。ボスの命令に背くなんて、マフィアとして随分とまずい事だよ。」
「………。」
「それにボクもマフィアで、しかもボスだ。煩く喚かれれば鬱陶しくて
 うっかりキミを殺しちゃうかもしれない。分かってるのかな?」
 安い挑発ではあった。
 けれど白蘭の雰囲気が恐怖とも言える重みを加える。
 正一の目が揺れるのが分かった。
 また逃げるだろうかと思っていれば、彼はぎゅっと唇を結ぶと、再び白蘭を睨み付ける。
「でも、貴方はボクを呼んだじゃないですか、ドン・ミルフィオーレ。」
 少し震える声で正一はそう言った。
 反撃があった事に白蘭は驚いた。
 白蘭に気圧されていて、青い顔をして握った手は微かに震えていて、きっといつもの腹痛だって感じているだろう。
 それでも正一は更に白蘭へ1歩距離を縮めた。
「貴方が気にする程じゃない開発班責任者が騒いでいた。たかだかそれだけなのに貴方は無視もせず殺しもせず声をかけた。それなのにボクと話す気がないなんて、そんな事はこの状況では言わせませんから!」
 響いた声に白蘭はぱちりと瞬きを繰り返す。
 それからゆっくりと口元に片手を当てた。
 じわじわと込み上げてきた感情は間違いなく嬉しさだ。
「何を笑っているんですか!」
「だ、だって…。」
 大声で笑い出したい気分だが、今そんな事をしてしまえば正一が別の意味で怒りだすだろう。
 それはそれでいいが話が終わらなくなる。
 綱吉は忙しい合間を縫って10分という時間を用意したが、白蘭も同じ状況にある。
 現に桔梗が時間を気にしているが、それでも今は正一と話をする事が大切だと思った。
 肩が震える程の笑いをなんとか抑えて息をつく。
 そうして正一と同じように白蘭も1歩彼に歩み寄った。
「ねぇ、入江正一君。キミも随分と別の世界にいるキミの記憶には振り回されているよね。」
「は?」
「キミが今こうしてボンゴレにいるのは、それでもキミが10年間考えた結果。でも普段ボクと話をしているのは別のキミの影響が大きい。」
「何を言って…。」
「だからね、入江正一君。ボクはキミと喧嘩がしたいな。」
 白蘭が何を言っているのか分からず、ついに正一は言葉を失った。
 喧嘩をしたい、と確かにそう言われた。
 意図がまるで分からない。
 何故そんな話になるのかさっぱりだ。
 突拍子がなさ過ぎて勢いを削がれ、きょとりと少し間の抜けた表情をする正一を、白蘭はいつもの笑顔でにこにこと眺めた。
 馬鹿にされている、と正一は判断する。
 かっと頭に血が上って顔が熱くなった。
「喧嘩したいって言うなら、今ここで受けて立ちますよ!」
 言うと同時に振り上げた拳は、いつの間に後ろに立ったのかザクロに掴まれ、クロームも正一を止めるように肩を掴んだ。
 桔梗は白蘭を少し下がらせ彼の前に立つ。
 ブルーベルとデイジーは2人の間に割って入った。
 正一が素手で白蘭を害する事が出来るなんて誰も思っていない。
 それが分かっていて、いっそ呆れた様子さえ見せているのに、全員が白蘭を守る為に当たり前に動いた。
 彼はそれだけの相手だ。
 普通に喧嘩をするなんて到底無理な話だ。
 それなのに何でそんな事を言うのか。
 いっそこのまま立ち去ってしまえ、と正一は思う。
 けれど白蘭は桔梗達を押しのけて正一の目の前まで来た。
「もう何なんですか本当に!さっぱり意味が分からない!!」
「うん、そうだね。だからボクと2人で喧嘩をしよう。」
「今この状況を見て何を言っているんです!」
「大丈夫だよ、入江正一君。キミが強い事を確かにボクは知った。」
「強いって言われても、見ての通りこの様で、貴方に指1本も触れられませんけど!?」
「でもキミは強いよ。期待している。」
 白蘭がそう言うと同時にザクロは正一から手を放した。
 話は終わりと態度が示している。
 残念ながら白蘭には単純に時間がないのだ。
 名前を呼ぶ桔梗に白蘭は少し残念そうに頷いた。
「入江正一君。」
 立ち去る間際にもう1度白蘭は足を止めて正一を振り返る。
「喧嘩が終わったら、今度は話をしようね。」
「話?」
「そう、キミとボクで、話をしよう。」
「何の為に…。」
「勿論お互いを知る為に。」
 それじゃあね、と手を振って今度こそ白蘭は立ち去った。
 正一の事が気になるが、今は役目が優先だとクロームも白蘭を追う。
 ぼんやりと白蘭達の後姿を見送っていれば、足音は聞こえなくなり、すぐに姿も見えなくなる。
 静かな廊下にぽつりと正一は残された。
 突然の静かさに頭が上手く回らない。
 最初に正一が思った事は、言いたい事は言えただろうか、だった。
 もう完全にここへは勢いで来てしまった。
 何か考えがあったわけでも、言いたい事があったわけでもない。
 それでも白蘭に会わなければ気持ちが収まらなかった。
 そう思っていたのに、実際会ってみれば気持ち悪さが残っただけ。
 叫ぶだけ叫んだようにも思えたが、結局は白蘭のペースに乗せられ、適当にあしらわれただけ。
 それに気付き、悔しそうに正一は歯を食いしばる。
 もうそろそろ自分が何で怒っているのかも分からなくなっていた。
 綱吉を困らせ、了平達を危険に晒し、自分を巻き込んだ。
 勿論その全部に怒っている。
 怒っている原因はそれで全ての筈だ。
 けれど今は何故かその全てがどうでもよかった。
 それでも苛立っている正一の頭は別の事でいっぱいだった。
 今ボンゴレで白蘭を信じているのは綱吉くらい。
 正確に事情を知っているのは守護者達と正一しかいないが、了平達が襲撃をかけられた後のこの話し合いは、おそらく怪しまれる。
 正確な情報は出回らないだろうが、疑惑だけは膨らむだろう。
 そんな状況を白蘭が自ら作った。
 これが原因でボンゴレとミルフィオーレが再び全面戦争をするような事態になったらどうするつもりなのか。
 戦争が起きた場合の勝敗は分からない。
 どちらも手の内を晒していて、けれど隠している物もある。
 戦えば勝者と敗者が出来上がり、命のやり取りともなればどちらかが死んでしまう。
 戦争なんて起きないと綱吉は言っていた。
 それを信じても今の状況はどうしても可能性を考えてしまう。
 それが酷く嫌だった。
 綱吉が死ぬなんて冗談じゃない。
 けれど白蘭が死ぬのだって冗談じゃない。
 つい先程まで目の前で笑っていた人の死を考えてしまう。
 それが本当に嫌で本当に苛立った。
「無駄な心配をさせて…、説明くらいちゃんとしろ!」
 何も考えずに正一はそう叫んだ。
 そうして廊下に響く自分の声が消えないうちに踵を返す。
 喧嘩をしようと言われた。
 結果は先程の通り散々だ。
 もし守護者達がいなくても結果は変わらなかった。
 実際に白蘭の強さを見た事はないが間違いないだろう。
 それを実感するような事態になんて一生遭いたくないが、そんな中で唯一見てもいいと思える強さがある。
 白蘭の知識量だ。
 そうして正一が強いと言われてもおかしくない部分も知識量だ。
 それだったら喧嘩の方法はもう1つしかない。
「ああ、もう!受けて立ってやりますとも、この喧嘩!!」
 お互いの知識と技量のぶつけ合い。
 白蘭がやった事を自分もやり返す。
 つまりはミルフィオーレへのクラッキング。
 正一が白蘭と同じ位置で喧嘩が出来る場所なんて、もうそれしか思い浮かばなかった。





  ≪  | Top | 10 ≫