カモミール 7



 他に言うべき事がある筈だ。
 分かっていても他の言葉が続かなかった。
 勝手に人のカードを盗ってクラッキングして、けれど何でもない顔で人の部屋で寛いでいて忠告するようなメモを残して。
 そんな人が敵になるという事実を受け止めるのが難しかった。
 記憶にある別の世界の自分を思い出す。
 彼も白蘭は友人から敵になった。
 親しかった友人だったのに明確に敵になった。
 それに比べれば自分は随分とましな方だろう。
 少なくとも自分にとって白蘭は友達じゃなかった。
 けれど簡単に割り切れる程どうでもいい人でもなかった。
 今こんな状況の中でそれを実感する。
 こんな友達とも他人とも言えない自分ですら悩むのに、友達を相手に戦うと決意した彼はどう割り切ったのだろうか。
 記憶をひっくり返そうとするが何故か思い出せない。
 だったら綱吉の言葉を割り切る切っ掛けにしたい。
 他力本願もいいところだが今はそれしか打開策が浮かばなかった。
 じっと正一は綱吉を見る。
 綱吉はその視線を黙って受け止め、目を伏せて少し考え込む。
 お茶が熱くて飲めないと気付いて湯呑をテーブルに置いた。
「まぁ普通に考えれば、同盟関係を利用して情報を何処かに売った、となって完全な敵対行為になるとは思います。」
「そう…、だよね…。」
「でも、オレ個人の意見としては、敵対されたとは思っていません。」
「………、え?」
「楽観視すれば質の悪い遊び、そうでないなら何かしら利用されている可能性はありますけど、敵対行為にしては弱い。」
 綱吉の中の白蘭は本当に残虐だ。
 過去の記憶と今の印象を照らし合わせて相違点を色々と見つけたが、その部分だけは全く同じだった。
 彼が本気になればきっと自分の世界は一変する。
 確実に追い詰められ、確実に潰されて。
 過去に見た悪夢を再び目の当たりにする事は間違いない。
 けれど今回白蘭がやった事は、とても悪夢の再来とは言えない。
 本当に質が悪くて面倒な事をしてくれた。
 でもその程度だ。
 徹底的に自分達を追い込んだ残虐さは少しも見えない、ちょっとした悪ふざけと言ってもおかしくない程度の事だ。
「オレは白蘭を過小評価はしません。この程度が白蘭からの敵対表明である筈がない。本気なら、もっと自分が楽しく、そしてオレを徹底的に打ちのめすだけの事をしてくる筈です。」
「これからそういう行動に出るって事は?」
「だったら今日この城をふっ飛ばすなりオレを殺そうとするなりして、それなりに派手な開始合図を出しますよ。これじゃあ地味すぎる。」
 迷いなく言う綱吉の姿が正一には何だか不思議だった。
 裏切られたと思うのが普通の筈だ。
 自分のようにショックを受けるのが普通の筈だ。
 それなのに何故こんなにも当たり前のように信じていられるのか。
 言っている事は物騒な言葉ばかりだけれど、綱吉が並べている全ての言葉は今でも疑っていないと確かに言っている。
「オレがそう考えるなんて、きっと分かっているんでしょう。」
「え?」
「問題は周りです。本当にこの状況どうしてくれよう…。」
 悩む綱吉に悲愴さは見えない。
 正一はまだ熱い湯呑みをぎゅっと握った。
 何だか喉が渇いたが、残念ながらまだお茶は飲めない。
 俯いて湯気の上がる湯呑みを眺めながら、少しだけ掠れた声で正一はぽつりと呟いた。
「キミは…、本当に白蘭さんを信じているよね。」
「ある意味で信じていますよ。そうでなければオレ達は成り立たない。」
 全面的に信じていれば簡単に足を掬われて切り捨てられる。
 最初から疑っていればあっさり利用されて切り捨てられる。
 微妙なバランスの上に立っている事は間違いないが、基本はお互いを信じている事が前提で成り立っている関係だ。
 最後の一線を越えるまで敵対関係にはならない。
 そして今はその時ではない。
 綱吉は感覚でそれを理解しているので人に説明するのは難しい。
 獄寺もクロームも完全に白蘭が敵に回ったと思っていた。
 そういう目をしていた。
 マフィアの世界では裏切りなんてそんなに珍しい事ではなく、まして白蘭は最初から危険分子扱いだったのだから仕方がない。
 山本や了平もきっと同じような反応をするだろう。
 今から他の人達への説明を考えると頭が痛い。
 そう思いながら綱吉は正一を見る。
 この件については自分の味方など皆無だと綱吉は思っていた。
 強いて言えばリボーンが傍観者でいてくれるくらい。
 けれど正一の様子は予想と違っていた。
 信じているわけではない。
 でも完全に疑っているわけでもない。
 踏み切れない様子で揺れている目を見て、ふと綱吉は笑った。
「正一さんも信じているんですか?」
「そうじゃない!」
 思ってもみない事を言われて正一は咄嗟に叫んだ。
 大声で叫び、静かな部屋に声が響き、すぐに音が消えて静かになる。
 その間も綱吉は笑っていた。
 見透かされている、と言うよりは、何を言っても受け入れてくれる、そんな気持ちにさせる笑顔だった。
 正一はまだ熱いままのお茶を一口飲む。
 そうして湯呑みを置いて、その優しさに真正面から向き合った。
「そうじゃないんだけど…。」
 綱吉が待っているので必死になって言葉を探す。
 信じているわけではない。
 綱吉のように確かな気持ちを持っているわけではない。
 でも綱吉が信じているという事を馬鹿らしいと言えない。
 それを纏めて言葉にすれば酷く幼稚で恥ずかしいのだけれど。
「ただ…、敵に、なって欲しくはないんだ、あの人に…。」
 今ここで正一が言える事はそれくらいだった。
 そんな我儘のような気持ちが今の全てだった。
 綱吉は頷いて席を立つ。
 仕事用の机に戻り、正一へ人差し指を唇の前で立てて見せた。
 静かに、と告げるその様子は、何故か悪戯っぽい笑顔と共にだった。
「今からオレは電話をしますが、そこから動かずに何も喋らずに、ただじっと終わるまで静かにしていてください。いいですね?」
「え、あ、うん、分かったよ。」
「約束ですよ。」
 綱吉が慣れた手つきで番号を押して、何故か正一にも聞こえるようにしてくれたのでコール音が聞こえてきた。
 数回のコール音の後に相手が電話に出る。
『もしもし?』
 聞こえてきた声に正一はびくりと肩を震わせた。
 もう1度、静かに、と綱吉は合図を送る。
 そうして何事もなかったように電話の向こうへと話しかけた。
「遅くにすみません、白蘭。」
『大丈夫だよ。でもこの時間に電話は予想外だったな。』
「予想ではどのくらい?」
『今日の明け方、キミの守護者が帰って調査が終わる頃くらいかな。』
 どうやら自分がやった事を隠す気はないらしい。
 綱吉は机の上に頬杖をついて呆れたようにため息をついた。
「もう本当に何をやってくれたんですか。」
『ちょっとしたおちゃめじゃない。』
「そのおちゃめで正一さんが本当に大変だったんですから。」
『正チャンが自分で突き止めて報告を?』
「少し前に真っ青な顔して駆け込んできました。」
『ふーん…、そっか。』
 楽しそうな声が聞こえた。
 綱吉が少しだけ眉を顰める。
 落ち着きなく指でコツコツと机を叩いた。
「それで目的は?」
『ちょっとしたお遊びだよ。』
 綱吉は更に眉を顰める。
 白蘭の言葉に苛立っているわけではなく、上手く考えが読めない事に少し困っていた。
 嘘はついていない。
 でも遊びが理由の全てでもない。
 それは分かるのだが電話越しの声だけでは自信が持てない。
 特に白蘭は分かりづらい相手だ、電話だけでの判断は怖い。
 やっぱりダメだ、と綱吉は軽く頭を振った。
「とりあえず近いうちにこっち来てください。話はそこで。」
『いつがいい?』
「予定が開く最速で。10分くらいなら何処かに捻じ込みます。」
『随分本気だね。』
「一応は本気にもなります。それだけの事をしてくれたんですから。」
『それもそっか。』
 軽い調子で言う白蘭の声を、その声が聞こえてくる電話機を、綱吉は真剣な顔で見る。
 白蘭は予定を思い出している様子で黙り込んだ。
 2人の短い沈黙を正一は緊張した様子で見守る。
 気を抜くと何か言ってしまいそうで、白蘭に対して叫び出しそうで、気休め程度に口元を手で押さえた。
 落ち着かない沈黙が続いたのはほんの数秒。
『明後日の正午に会いに行くよ。』
 その返事を聞いてようやく綱吉は笑った。
 いつものような明るい笑顔ではなかったけれど。
「分かりました。守護者を揃えて待っています。」
『手厚く歓迎してね。』
「ええ、出来る限りの大歓迎をしてあげますよ。」
『それは楽しみ。』
「それじゃあ明後日の正午に会いましょう。」
『うん、それじゃあね。』
 白蘭が先に電話を切り、それを確認してから綱吉も電話を切る。
 そうして綱吉は頬杖をついたまま再び机を指で叩きだす。
 何か考え込んでいる、そうして苛立っている様子だった。
 正一は電話が終わったのでもう動いても喋ってもいい。
 けれど雰囲気に呑まれて微動だに出来ず綱吉を見つめる。
 そのうち指の動きはぴたりと止まった。
 同時に綱吉は勢いよく立ち上がり、無言のまま窓の方へと向かう。
 何をするのだろうかと正一が目で追っていれば、綱吉はいきなり窓を思い切り殴った。
 突然の事に正一はただ唖然とする。
 この部屋のガラスは特別製だ。
 銃弾でも大砲でも死ぬ気の炎でも簡単には壊れない、そういうふうに正一が率いる開発班が作り上げた。
 まだ改良の余地はあるが、現在ある防弾ガラスの中でも性能はトップクラスだと思っている。
 そんな物を素手で殴ったりしたら。
「………、痛い…。」
 当然痛いに決まっている。
 殴った右手を押さえて蹲る綱吉を、やはり正一は唖然と眺めた。
 普通のガラスを殴ったって痛い。
 このガラスは普通よりも硬いので余計に痛いだろう。
 そりゃ痛いだろうな、と普通に思っていた正一は、何を呑気に眺めているんだと我に返って慌てて綱吉の傍へと駆け寄る。
「大丈夫かい?」
「平気です…、痛いですけど…。」
「そりゃそうだよ…。キミや守護者の皆が本気になったら壊れるけど、それでも普通よりはずっと硬いんだから。」
 流石に綱吉や守護者達の炎となると耐えられなくなる。
 そこが改良の余地となっている部分だが、それを差し引いても十分に硬いガラスだ。
「怪我は?」
「何か関節から変な音がした気もしますが、一応平気です。」
「無茶するなぁ…。念の為に炎を当てるよ?」
「すみません…。」
「これくらい何でもないよ。」
 軽く右手を握って力を込める。
 中指に嵌めてあるリングから黄色い炎が灯った。
「ついでだから実験体になってね。」
「怖い言い方しないでください。」
「あはは。」
 この世界は戦争があった世界とは違う。
 リングも匣兵器も存在はするが数が圧倒的に少ない。
 それを人為的に増やせれば戦力は格段に跳ね上がる。
 綱吉も正一も戦力の増強には重点を置いていないのだが、好奇心に色々な理由を付けて正一は実験の許可を得た。
 その結果が正一の嵌めているリング。
 昔から残っているリングがほぼ全てと言っていいこの世界で、新しいリングは画期的な存在だ。
 まだ精度の高い物は作れないが正一が軽く使う程度なら問題ない。
 それだけの知識と実力を正一は持っている。
 けれど白蘭に対しては何の意味もなかった。
 実際にリングの話も公表はしていないが白蘭の方が先にいる。
 彼の持っているリングはボンゴレリングに近い程の精度を持ち、だがそれは古くからある物ではなく彼が新しく作った物で、しかも正一よりずっと前の成功例。
 本当に何もかも敵わない。
 その気持ちと共に炎が揺らいでしまったので、今はその考えを頭から追い払った。
 炎を安定させてから綱吉の手首に当てる。
 見慣れるまでは人を焼いているようで酷い光景に見える。
 黄色の炎はそれでも確かに怪我を癒し、痛みが引くのを感じて綱吉はほっとしたように肩から力を抜いた。
「それで、急にどうしたの、って聞いてもいいのかな?」
「八つ当たりです。一応オレは正一さんの上司なのにみっともない姿を見せてすみません…。」
 もう大丈夫です、と綱吉が言ったので、正一は炎を消した。
 少し赤くなっていた部分は綺麗に消えていた。
「正一さんに、白蘭はこんなものだから気にしなくていいですよ、って言おうと思ったんですが…、もう本当に普段通りで…。」
「ビックリするくらい普通だったからね。」
「本当ですよ、こっちの苦労も知らずに。」
 ぶつぶつと文句を言っていた綱吉は、それで気が済んだのかそれともここにはいない相手に文句を言い続けるのが虚しくなったのか、愚痴を言うのをやめて息をついた。
「まぁ、言いたい事は明後日に言いますよ。」
「言いたい事…、かぁ…。」
「正一さんも何かあります?」
「あ…、いや…、あるような、ないような…。」
「あっても残念ながら面会時には同席させられませんけどね。」
「あっても絶対ボンゴレとミルフィオーレのボスと守護者が揃う場所に行きたいなんて言わないから、大丈夫だよ。」
 全員が揃った光景など想像するだけで怖い。
 綱吉が、それもそうですよね、と軽い調子で笑う。
 正一はもう苦笑するしかなかった。
 けれど、言いたい事、というのが引っ掛かってしょうがない。
 白蘭に怒りたいのか説教したいのかもう顔も見たくないのか。
 考えていれば無駄な事をしているなと思う。
 もう会わなければいい。
 もう全部綱吉に任せればいい。
 それが最良の選択で唯一の正解だと思う。
 分かっていながらどうしても考えてしまうのは、きっと最良の選択が選べないと何処かで感じているからだろう。
 綱吉が殴った窓の外を見る。
 まだ真っ暗で月がよく見える。
 今は深夜手前の時間だ。
 任務に就いた彼らが戻ってくる予定となっている夜明けまで、随分と時間は残されていた。





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