× × ×
深夜近くになっても終わらない仕事に綱吉の集中力が途切れた。
手を止めてペンを転がす。
ふかふかした座り心地のいい椅子に体を預けて背を伸ばした。
「ちくしょう、白蘭のせいだ…。」
昼に突然侵入してくれた白蘭を思い出す。
話をしていた時間はほんの僅か。
実際は自分の作業の遅さが原因だと分かっているが、八つ当たりでもしなければやっていられなかった。
部屋には獄寺とクロームもいる。
霧の守護者は仲間にも正体を隠しているのが基本、と決めてあるのでクロームの表向きの立場は綱吉の秘書。
獄寺は嵐の守護者としての仕事がある筈だが、いつも自主的に綱吉の仕事を手伝ってくれている。
2人を休ませる為にも早く終わらせたい。
そう思う気持ちとは裏腹に、手を動かす気力が湧いてこない。
「………、母さんのハンバーグが食べたい。」
妙な我儘まで口を突いて出てきた。
獄寺とクロームが同時に綱吉の方へと目を向ける。
「ボス?お腹すいたの?」
「何か夜食でも用意させますか?」
「お腹すいたんじゃなくて…、ハンバーグじゃなくてもいいや。何でもいいから母さんの作ったご飯が食べたい。」
獄寺とクロームが困ったように顔を見合わせる。
無理だと言えばいいのに、こんな我儘を相手に悩む様子がおかしくてつい笑ってしまった。
「ねぇ、獄寺君。」
「はい。」
「明日の朝ご飯はホットケーキをキミが作って。」
「オレが、ですか…?」
「うん。バターとメープルシロップの、ホットケーキミックスで作ったみたいな普通のホットケーキ。そうしたらオレ頑張れる気がする。」
「あの…、そんなに食べたいのでしたら、オレじゃなくコックに作ってもらった方がいいかと…。」
「獄寺君。」
にこりと笑って獄寺を見上げる。
母親の手料理が無理でも、ここにいる獄寺なら作ってもらえる。
別にホットケーキでなくてもいいのだが、自分でも作れそうな簡単な料理がそれしか浮かばなかった。
明日の朝に、不慣れな手つきで一生懸命作ってくれた物が出てくると思えば、何とか今日の仕事を片付けられるような気がする。
早く休んで欲しいと思った気持ちとは正反対の、獄寺の負担を増やすだけの言葉だ。
分かっているが取り消しはせず、にこにこと獄寺を見る。
獄寺が早々に降参するのはいつもの事だった。
「分かりました…、出来る限りの事はします…。」
「小麦粉と卵と牛乳と何かを混ぜて焼けばいいだけでしょ。」
「いえ、生半可な覚悟で10代目のお食事を作るわけには…!」
「そんな感じに気合の入った物じゃない物がいいんだってば。」
ホットケーキミックスなんて厨房には置いていないだろう。
後で厨房に連絡して、混ぜて焼けば出来上がり、という所まで材料を準備しておいてもらう。
小さな楽しみだが、そんな些細な事もやる気に繋がる。
綱吉が再び気合を入れれば、控えめにクロームが声をかけてきた。
「ボス、私は何か出来る事はある?」
「クロームも?」
「ボスが頑張れるように、私も何かしたい。何でもする。」
「それじゃあお茶を淹れてほしいな。緑茶で熱めの。美味しくね。」
「うん。」
大きく頷いてクロームは準備の為に部屋から出ようとした。
ちょうどそれと同時に電話が鳴る。
綱吉から任された事も大切だが、自分の仕事も大切。
すぐに電話を取って、はい、と短くクロームは言う。
それに対して返ってきたのは酷く焦った声だった。
『開発班責任者入江正一、緊急事態の為、早急にボスと面会したい!』
「っ…、ボス!」
驚いた顔でクロームが振り返る。
いつもの彼女らしくない様子に綱吉も獄寺も表情を変えた。
「開発班の責任者の人、緊急の為に面会の要求をしています。」
「分かった、すぐに来てもらって。」
「はい。」
頷いてクロームがその事を正一に伝える。
その間に獄寺が護衛に連絡をした。
正一が来るから通していいという事を伝えながら机の上を片付ける。
何が起きたかは知らないが、緊急だと言うだけの事態が起きた。
今日中に仕事が終わる可能性は、これで完全になくなった。
「獄寺君、ご褒美のホットケーキはまた今度お願い。」
「10代目が食べたいのでしたらいつでも作りますよ。」
「凄くありがたいけど、少なくとも明日は無理だろうね。」
酷く嫌な予感がした。
気持ちの悪い感覚に綱吉は顔を顰める。
けれどこんな顔で正一を迎えては焦りに困惑を加えてしまう。
何とか意識して何でもない様子を装おうとする。
その間にバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
話は通してあるので煩い足音を咎める声はない。
ノックはなかったが失礼しますという言葉はあった。
勢いよく正一は飛び込むように執務室に入る。
「綱吉君!ああ、違った、ボス!」
「オレ達しかいませんから名前でいいですよ。何がありました?」
「ごめん、ボクが失敗したから…、甘かったからこんな事に…!」
「正一さん、とにかく落ち着いて。まずゆっくり話を…。」
酷く取り乱すだけの事があったのだろう。
危機感は増すが、まず何が起きたかを話してもらわなければどうにもならない。
落ち着いて、と繰り返すが、正一は酷く慌てたまま。
その様子を見かねた獄寺が突然正一の頭を思い切り殴った。
「獄寺君!」
咎める綱吉の声を獄寺はあえて無視する。
殴られた頭を押さえる正一の胸倉を乱暴に掴んで引き寄せた。
「緊急事態なら1秒だって惜しい状況だ、早く状況を説明しろ。これで指示が遅れたらどうする気だ。」
冷たい視線と厳しい声。
それを間近で浴びてようやく落ち着いたのだろう。
ごめん、と小さな謝罪が聞こえてきて獄寺は手を放した。
1度大きく深呼吸をした後に正一は真っ直ぐに綱吉を見る。
罪悪感でいっぱいという色をした目だった。
「ネットワークに侵入された痕跡を見つけた。場所はボクの部屋から。犯人はおそらく白蘭さんだ。」
「え?」
「場所はボクの部屋だからボクを疑ってもいい。でも今はこれを見て。侵入された痕跡を見つけた情報の項目を全部出してきた。」
急いで綱吉は出された紙を受け取り、獄寺も隣で一緒に目を通す。
正一とクロームがその様子を黙って見守った。
随分とあちこちにアクセスしている。
ネットワークは主に城内の人間の情報を統一化するのに使っている。
各部署の決定や、大まかな全体の動きに、簡単な今後の予定。
秘密裏に行う事や本当に隠しておきたい重要な事は置いていない。
それに綱吉の予定も、獄寺が完全に管理をしてクロームが補佐をする形になっているので、ここに侵入しても分からない。
けれど他の動きなら大雑把には分かる。
侵入された程度は深い。
綱吉や守護者達の権限と同じくらい何もかも自由に見られたわけではないようだが、それでもかなりの情報を見られたと思う。
でもこんな事をして一体何の意味があるのか。
情報戦は大切だが白蘭がこの程度の情報を欲しがるとは思えない。
冗談半分の嫌がらせだろうか。
そう思うものの何かが引っ掛かって冗談では終わらせられない。
誰かに情報でも売るつもりだろうか。
その可能性が全くないわけでもない。
ふとそんな事を思った瞬間、ほぼ同時に綱吉と獄寺は顔を上げた。
「お兄さん!」
「笹川!」
顔を見合わせて2人は同じ人物の名前を呼ぶ。
了平には今日、まさに今、任務に就いてもらっている。
ボンゴレが、綱吉が守る領域内で、何度警告しても撤退しない不穏な動きを見せる組織が行う取引を潰す為に。
それが任務の内容で、正一が出した紙にも項目としてある。
確証はないが危険性はある。
何より綱吉の勘がこれだと告げていた。
すぐに獄寺が携帯電話を取り出し了平へ連絡する。
まだ移動時間で作戦決行予定の時間ではない。
ほんの数秒がとても長く感じられ、イライラとしながら呼び出し中のコール音を聞いていれば、すぐに連絡は繋がった。
「笹川、問題が起きた。今すぐに移動ルートを変更しろ。作戦が外部に漏れた可能性がある。援護を向かわせて作戦は変更する。変更の内容は決定次第すぐ連絡するから、今はとにかく襲撃に注意しろ、いいな。」
焦っている筈なのに酷く落ち着いた声で獄寺は伝える。
隣で綱吉も同じように静かな声でクロームを呼んだ。
「クローム、山本と合流して。今の事を伝えて10分以内に数人見繕って出られるようにさせて。その後は獄寺君と連携を取って援護に。」
「分かった。」
すぐにクロームが部屋を出る。
獄寺は了平が向かった先の周辺地図を綱吉の前に広げる。
話し込む2人を正一は青褪めた顔で眺めた。
犯人は白蘭でほぼ間違いない。
正一がスパナと話をして部屋に戻った時、白蘭の姿はなかった。
お菓子の残骸は片付けられ、テーブルにメモが残されていた。
メモには帰るという事と何故か正一への忠告が書かれていた。
そしてメモの下には自分のセキュリティカードがあった。
まさかと思って調べれば、セキュリティのチェックシステムに微かな違和感があった。
本当に些細な事だったのだが何だか気になって調べていけば、ほんの僅かな侵入の痕跡。
出来ればもっと早く知らせたかった。
けれど本当に痕跡は少なくて、侵入を確定するだけでこんなに時間がかかってしまった。
自分の至らなさが、そもそも白蘭を置いて部屋を出た迂闊さが、今の状況を作り上げたと思うと血の気が引く。
綱吉と獄寺の話し合いはすぐに終わった。
獄寺が指示を出す為に連絡をしている間に、綱吉は正一に笑いかけて軽く肩を叩いた。
「お疲れ様でした。すみません、こんな事になって…。」
「違うよ綱吉君!ボクが白蘭さんを部屋に1人放ったばっかりに…。」
「入江、とにかくお前は部屋に戻れ。処分は後で伝える。」
必要最低限の指示を出した獄寺の冷たい言葉に思わずぞっとする。
けれど当然と言えば当然だ。
それだけの失態をしたと思う。
せめて2人の顔を見て頷こうと唇を結んで顔を上げれば、綱吉が手でそれを止めた。
「隼人、何度も言っている。白蘭に関する全てはオレの責任だ。」
「ですが…!」
「放っておけと正一に指示を出した。確かにオレがそう言ったんだ。」
「………。」
「まだ話があるならそれは全部後だ。指示は任せる。」
「分かりました。」
硬い声で一言返すと、獄寺は足早に部屋を出て行った。
この部屋には連絡手段が少なくて、連絡用の機材が揃っている部屋があるからそこに向かったのだろう。
複数の部隊で行われる作戦の時、そこで様々な方向から送られてくる情報を纏め状況を把握して指示を出す彼の姿は時折見る。
大抵は守護者が全員出る必要はない、けれど面倒な作戦の時。
今はそれだけの事態になってしまった。
俯いた正一を見て綱吉は苦笑した。
「落ち着かないでしょうが、今はどうぞ部屋に戻って休んでください。終わったらちゃんと連絡しますから。」
静かながら獄寺と違って優しい声で綱吉が言う。
責める音は欠片もなかった。
それが却って辛く正一は何も言えなくなった。
けれど綱吉が困っているのが分かり、何か言わなければと口を開く。
「出来れば…、今はここに…、いさせてもらえないかな…。」
了平や援護に向かった山本とクロームの無事を確認したい。
帰ってくるのは深夜か、もしかしたら夜明け頃になるかもしれないがこのまま部屋に戻ってもどうせ眠れないし、セキュリティの再構成など仕事に手を付けた所で碌な結果にならないだろう。
我儘を言っていい相手ではないと分かっていながらも、ついぽつりと呟けば、少し悩んだ後に綱吉は頷いた。
「オレもやる事がありますからゆっくり休む事は出来ないでしょうが、それでもいいならいてください。」
「ありがとう…。」
「少し待っていてください。」
そう言って綱吉は部屋を出る。
少しすればお盆の上に急須と湯呑みを持って戻ってきた。
綱吉は正一をソファーに座らせ、向かい側に座りお茶を淹れる。
頭が回らなくてその様子をぼんやりと眺めていれば、何だか懐かしい慣れた香りの緑茶が置かれた。
あんまり上手く淹れられないんですけど、と言って綱吉が苦笑する。
味の前に熱過ぎて飲めなかったのだが、その熱さと香りに少し気分が落ち着き、ゆっくりと正一は顔を上げる。
目が合った綱吉は小さく首を傾げた。
色々と言わなければいけない事がある。
色々と言っておきたい事もある。
何から言えばいいか分からずに悩んでいれば、何故か勝手に口が開き考えるより先に無意識に綱吉へと質問を向けていた。
「綱吉君…、白蘭さんは、ボンゴレの敵になったのかな…?」
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