× × ×
それからどれくらい時間が経っただろうか。
ふと正一が顔を上げてソファーの方を見る。
気付けば随分と時間が経っていたようだ。
幸いにも白蘭に邪魔される事なく仕事に集中出来た。
けれどふと集中力が途切れてしまえば、こうも静かである事が却って気になってしまった。
テレビからは変わらず賑やかなイタリア語が流れている。
けれどソファーに白蘭の姿はない。
出て行った気配などなかった筈だと近付けば、ソファーで横になって目を閉じている白蘭がいた。
少し休んでいるだけなのか。
もしかして眠っているのか。
疑問に思って正一はそっと声をかけた。
「………、白蘭さん?」
返事はない。
ただ目を閉じて規則正しく呼吸を繰り返している。
どうやら眠ってしまっているらしい。
静かでいいとは思うが、こうも無防備に眠られると少し気まずい。
マフィアのボスがこれでいいのだろうかという考えが頭を過ぎる。
危機意識が低いのか、信頼されていると思えばいいのか。
もし信頼だったとしたら余計に気まずい。
確かに多少なりと白蘭という人物を知ってはいる。
けれどそれは随分昔に突然放り込まれた別の世界にいる正一と白蘭の記憶でしかない。
今ここにいる正一が白蘭と関わった記憶なんてほんの僅か。
そしてその殆どが好き勝手に振り回してくれているものばかり。
とてもじゃないが友達付き合いなんて出来る気はしない。
けれど立場に則った態度は白蘭が酷く嫌がる。
本当に一体どうやって付き合えというのか。
分からないんだからこんな無防備な姿は見せないでほしい。
起きている時とは違い随分と静かに眠る白蘭を眺めながらそんな事をぐるぐると考えていた正一は、今それに答えを出してどうする気だ、と誰かに言われたような気がして慌ててソファーから離れた。
別にそんな必死に考えるような事じゃない。
ボンゴレの開発班責任者とミルフィオーレのボス。
明確にお互いの関係を示す言葉があるのだから、それ以外の言葉など探す必要は何処にあるのか。
「疲れてる…、気がする…。」
しかも人の寝顔を無遠慮に眺めるものではない。
失礼だったと心の中で白蘭に謝る。
少し頭を切り替えようと背を伸ばし、とりあえずもうすっかり冷めてしまったお茶を淹れ直そうとキッチンに向かう。
綺麗に片付いているキッチンは、よく見れば使っていない事がすぐに分かってしまう。
お湯を沸かすか何かを温めるくらいしかしていない気がする。
自炊する事など滅多にないので冷蔵庫の中身も素気ない。
そういえば白蘭が好むような物がここにあっただろうか。
今更好きに使えと言ったキッチンを確認して、眠っている白蘭の前に置かれた食べ物の残骸を見る。
少しだけ日持ちのする菓子があったのでそれを出したようだ。
もう少し何か置いておけばよかっただろうか。
今度買い物に出た時に何か買っておけばいいだろうか。
お湯を沸かしながらぼんやりとそんな事を考えていたが、再びはっと我に返った正一は考えを振り払うように頭を横に振った。
何を迎える準備について考えているのか。
「ダメだ、毒されてる。というか流されてる…。」
深々とため息をついてコンロを止める。
同時に訪問者が来た事を知らせるブザーの音が響き、びくりと正一は肩を跳ねさせ勢いよく扉の方を振り返った。
そんなに驚く事ではないのだが、自己嫌悪に陥っている時だったので必要以上に驚いてしまった。
何度か深呼吸を繰り返して気分を落ち着かせる。
それから訪問者を確認すればスパナだった。
気を使わなくていい相手だと分かりほっと安心して扉を開く。
「どうした?」
「少し確認してほしい事がある。今時間大丈夫か?」
「時間は大丈夫だけど…。」
「ん?」
部屋の中を振り返る。
問題は気持ちよさそうに寝ている白蘭だ。
正一の視線に気付いて部屋を見たスパナが、白蘭の姿を見つけて首を傾げた。
「どうしてミルフィオーレのボスが?」
「色々あったんだ…、そうとしか言えない。」
部屋に戻って白蘭へ声をかける。
正一の呼び声に小さく呻いたものの目を覚ます様子はない。
もしかしたら疲れているのかな。
随分としっかり眠る白蘭を見て正一はそう思った。
正一には好き勝手にやっている気ままな人にしか見えないが、白蘭はいつも忙しそうな綱吉と同じ立場にいる。
綱吉のように時間に追われている日々を送っていてもおかしくない。
だったら帰って少しでも仕事を片付けろと思う。
けれど同時に少しは休ませてあげたいとも思う。
少し悩んだ後に正一はスパナに声をかけた。
「ここで話すと煩そうだからそっちの部屋でいいかな?」
「資料があるから来てくれた方が助かる。」
「どのくらいかかる?」
「1時間くらい。」
いつから眠っているのかは知らない。
でも仮眠ならもう1時間も経てば十分だろう。
戻ってきても眠っているようだったら遠慮なく起こす。
でも今はそっとしておこうと決めた。
「分かった、ちょっと待ってて。」
正一が出ている間に起きても大丈夫なように、大切な資料は鍵付きの引出しにしまい、パソコンの電源を落とす。
それから寝室に行ってタオルケットを持ってくる。
特に寒い日ではないのでタオルケット1枚で十分だろう。
最後に、帰る時は綱吉君に連絡を残るなら勝手に物は触らないで、というメモ書きをテーブルの上に置いておく。
やっておく事はこれくらいだろう。
「ごめん、待たせて。じゃあ行こうか。」
「いいのか?」
「綱吉君は放っておいていいって言っていたから、きっと大丈夫。」
「そうか。」
「それで確認って何を?」
「この前の資料にあった奴だけど…。」
話をしながら2人は部屋を後にする。
それから少しして気配が完全に遠ざかった頃、白蘭は目を開いた。
上半身を起こして大きな欠伸をした後に背を伸ばす。
「んー…っ、よく寝た。」
しっかり眠れたので頭がすっきりとした。
机にある菓子の残りを食べながら先程正一が残したメモを見る。
不用心にも部屋を開けて、律儀にこんな物を残して。
あまりの微笑ましさについ笑ってしまう。
白蘭がマフィアのボスだというのを分かっているのだろうか。
きっと本当の意味では理解していないんだろう。
マフィアに所属していても、彼は裏方で血生臭い世界とは縁遠い。
それはそれでいい事だ。
こんな世界に染まらずにいられるなら、それに越した事はない。
そして今はその考えの甘さに助けられるのだから。
白蘭はソファーから立ち上がってもう1度背を伸ばす。
そうして正一のパソコンを起動させる。
勿論パスワードはかけられている。
試しに記憶にある別の世界の正一が使っていたパスワードを打つが、流石に同じではなかった。
それならば、と他にもいくつか見た事があるパスワードから彼がよく選ぶパターンを思い出し、それに並ぶ言葉を打つ。
2回失敗しただけでパスワードは解けた。
あまりに分かりやす過ぎてもう苦笑するしかない。
けれどこれも正一に関する何年か分の記憶があってこそ。
出来れば別の自分が持っていた記憶ではなく、自分だけが持っている情報で解きたかった気もするが、今は解けただけでもよしとする。
1時間くらいで戻ってくると言っていた。
見つかるとそれなりに面倒なので早々に終わらせないといけない。
しっかり椅子に座って軽く手を叩いた。
「それにしても、ボンゴレの内部情報なんて無茶言うなぁ。」
先日とても面白い提案をしてくれたドン・グリッジョ。
彼から何でもいいからボンゴレの内部情報が欲しいと言われた。
随分と無茶な要求だが、それでミルフィオーレがボンゴレに何処まで入り込めるのか判断したいのかもしれない。
別に律儀にその要求に答えてあげなくてもよかった。
でもなかなか面白い提案でもあった。
面白半分のトラップを何度か送った事はあっても、真剣にボンゴレのネットワークに侵入しようなんて思う機会はない。
ボンゴレのセキュリティはかなり厳重だ。
とてもじゃないが外部からのアクセスなど無理と言ってもいい。
内部からも、結局セキュリティが厳重な事には変わりなく、そもそもこの城に侵入する事が不可能なので難易度が上がるだけ。
ドン・グリッジョも綱吉に面会を求めて上手く話を聞いて来いという意味で情報が欲しいと言ったのだろう。
けれど自分なら城への侵入もネットワークへの侵入も出来る。
白蘭にはその自信があった。
下っ端みたいな諜報活動をするなんて初めてだ、と凄く楽しい気分になりながらパソコンの画面を見る。
認証システムが表示されて、ポケットからカードを取り出した。
綱吉が部屋に来る少し前、正一が倒れたどさくさに彼のポケットから抜き取った。
ボンゴレの情報ネットワークにアクセスする為に必要な物。
それをポケットに入れて盗られた事に気付いていないなんて、かなり不用心だからこれが終わったらちゃんと忠告をしてあげよう。
今回の事はいい勉強になっただろう。
そう思いながら取り付けられている機械にカードを読み込ませる。
パスワードは先程と同じように潜り抜ける。
「ここからどうしようかな。」
開発班責任者ではアクセス出来る場所には限りがある。
綱吉か守護者の権限でもない限りは全部見るのは不可能だ。
けれどこのネットワークとセキュリティは、確認をした事はないが、おそらく正一が作った。
専門分野ではないがそれくらいは出来る筈だ。
記憶にある気の弱いスパイは優秀だった。
出来れば手元に置いておきたかったと別の世界の自分が思うくらいに。
正一はその記憶を持って更に10年の時間を重ねた。
10年を遊ぶだけで過ごしていたとは思えない。
綱吉の代になり、正一が今の立場に就き、短時間ながらも目に見える成果をいくつか出している。
年若い部外者の東洋人が由緒正しいボンゴレの責任者でいる。
相応の実力と実績は不可欠。
今も変わらずこの立場にいる事が彼の実力の証明で間違いない。
ボスと旧知の仲という理由に甘えられる程に甘い世界ではない。
それに綱吉は身内贔屓をしない。
正一がその立場にふさわしくないと思えば早々に立場から外す。
そして平和な世界で平穏に生きて欲しいと望むだろう。
彼は優しいから、他に責任者として適任の人材がいれば、すぐにでも友達の手を放して血生臭い世界から追い出す。
でもやっぱり正一はこの立場で居続けている。
綱吉の人の見る目を白蘭は買っている。
彼の人選はまず間違いない。
白蘭自身も正一の能力を買っている。
自分の人を見る目もまず間違いない。
だからこそ余計に気分が弾んだ。
彼がボンゴレで残した成果を見る事は出来ても、こうして真剣に直接対決をする機会は滅多にない。
正一はどれだけの物を作り上げたのか。
そしてそれはどこまで自分を楽しませてくれるのか。
今までのような冗談半分の侵入ではない。
出来る限り痕跡は残さず、出来る限り深く。
完全に秘密を暴き情報を得ようという目的での侵入。
正一のプログラムの癖は知っている。
癖は変えようと思って簡単に変えられる物ではない。
意識して変えたとしても必ず正一らしさは出る。
それを知っているし、正一には普通よりも多い情報があったとしても白蘭には遠く及ばない。
多くの知識とほんの少しの記憶。
侵入不可能なセキュリティでも白蘭の自信は揺るがない。
「さてと、正チャンは気付けるかな。」
侵入のとっかかりとして正一のカードを使った。
もしかしたら彼に疑いがかかるかもしれない。
けれどそこは正一と綱吉を信じる。
この侵入の痕跡を見つけるのは正一で、報告は必ず綱吉に行き、彼は判断を間違えない。
ああ、本当に、凄く楽しい遊びを提案してくれた。
ドン・グリッジョに感謝しながら白蘭は行動を開始した。
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