(15) 家庭は”想念”を形成する大切な場所

 ぼくは”想念”ということについて、よく考える。

 笑ったり泣いたり、愛したり憎んだり。正義感に燃えたり人をだましたり。何を

にしても、人はこの想念にみちびかれている気がしてならない。

 それがどんなものものかしっかりとらえることはできないが、価値観や物の感じ

方や考え方などが寄り集まった、思考の源泉のようなものとでも言えばいいだろう

か。われわれは、この想念によって、幸せにも不幸にもなる。いい人生を送るのも

、つまらない人生を送るのも、その人の想念のあり方次第だと思う。

 ところが、われわれは想念と言うものがどんなふうに形成されるのかをしかと目

にすることができない。あのことがあったから、こうなった。こうしなかったから

、ああなったという、はっきりとした因果関係を知ることは、誰にもできない。な

ぜならば、それは、精神の奥深くで行われているきわめて抽象的な営みだからだろ

う。

 家庭は、人間がその営みを行う最初の場所だ。食べたり眠ったり、笑ったり泣い

たりしながら、子供はいつの間にか子供なりの想念を育てていく。

 そこで、親が、子供に良質の想念を育ててほしいと願ったとして、果たして何が

できるだろうか。ああしろこうしろと、手取り足取り子供をしつければいいのだろ

うか。子供をたくさん遊ばせればいいのだろうか。あるいは、厳しく勉強させれば

いいのだろうか。どうすればいいのだろうかと、親はみんな悩む。その答えが分か

りにくいのも、精神の奥深くでの抽象的な営みを、われわれは容易にのぞき見るこ

とができないからだ。

 営みを支えるのは、家庭の持つ体質という、やはり抽象的なものではないかと、

ぼくは思う。家庭構成や人柄、毎日食べているものや身につけるもの、日常のさま

ざまな出来事など、ありとあらゆることがまじり合ってできる家庭の体質が、そこ

に暮らす人間の想念をはぐくみ、その質を左右するのではないだろうか。

 しかし、そのうちのどれか一つを取り出して、想念との因果関係を考えても、そ

れはあまり意味のないことだと思う。

 子供たちに良質な想念をはぐくんでもらうためにぼくにできることは、子供に直

接何かをしてやることではない。ぼく自身が、自分の人生をまっすぐに精一杯生き

ること。ぼくが真剣に生きることによって、家庭という場の質を高めること。それ

が、子供たちの精神の奥深くに良質な何かを植えつけるためにできる唯一のことだ

という気がする。そして、それは、結婚をして家庭を持った人間の果たすべき大き

な責任ではないかと思う。

09年02月05日新設