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ボロ酔い雑記2・2
(2/11)地域の再生と雇用
2/7)ケア論執筆渦中、京都へ取材に。
(2/3)新たな学校文化としての特別支援教育
(1/30) 25日、千葉・東金事件弁護団による記者会見が
(1/23)『飢餓陣営』というタイトルの由来など
(1/17)新年の御挨拶に代え、とりあえず近況報告を。

2月11日(木)
●地域の再生と雇用
本日の朝日新聞に次のような記事が。
2009年3月,群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」で施設火災が発生し、入居者9人が亡くなる、という事件がありました(覚えておられますか)。その理事長が、施設管理を怠ったということで、逮捕されたという内容です(事件から1年が過ぎていますが、業務上過失致死が成立するかどうかの立証に時間を費やしていたようです)。

この問題を、いまになってここにもちだしたことには、ある理由が。
フリーになった当初から取り組んできた「法を犯す障害者」の問題と、取材を始めて5年ほどになる「高齢者の医療・介護」の問題は、どこかで出会う(交錯する)だろうと思っていました。

医療、介護を中心として新たな雇用を創出する工夫を、というのは『ルポ高齢者医療』でもくり返し訴えたテーマの一つでした。出所後の地域生活を可能にする条件の一つは、その受け皿となる雇用があるということにほかなりません。つまり二つのテーマ群は、「地域の再生と雇用」という同じフォーマットに乗ることになったわけです。

(考えてみれば当たり前のことですよね。福祉、介護、医療、司法とそれぞれ縦割りでずっと動いてきて横のつながりがなかったため、この当たり前のことがなかなか気づかれなかった。まだ一部のひと以外には、気づかれていません)。

ともあれもう一つここに、昨年度より「生活困窮者のケアと住居の保障」という問題が加わることになりました(「法を犯す障害者」と「高齢者の医療・介護」、「ケアと住居の保障」が3点セットとして揃い踏みをしたことになります)。

「住宅と住居の保障」は、端的には「ケアつき住宅」という形をとっていますが、早い話、日々の生活にケアをつけようとすると住宅保障ができなくなり、住宅保障をするとケアをつけられなくなる、というようになんともおかしな制度になっているのが、東京都の福祉行政の現状です。この隙間で生じたのが先の「たまゆら」の問題であり、都内に住居を持てず、近隣の県にある施設への入居を余儀なくされている。

これを改めようというのが「ケアつき住宅」の政策提言です(もっと詳しく知りたい方はこちらへ・クリック)。

以下の文章は2009年8月30日に東京新聞に掲載されたものであり、ここにいたる事情の一端を明かしていると思われます。

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BOOKナビ(5)

 某大都市の一角に、高齢化率が四〇パーセントを超す民家密集地域がある。ある非特定営利法人(NPO)がそこで高齢者の住まいと生活のサポートをし、街づくりにも取り組もうというプロジェクトを始めた。評者もお手伝いできることになり、「地域」とか「起業」とか「再生」という文字の入った本が、しきりと目に入るようになった。

西川一誠『「ふるさと」の発想』(岩波新書・七〇〇円)。著者は福井県知事。地方が都市に依存しているという認識は誤解であり、電気や水や米、その他ライフラインの多くを支えているのは、じつは地方である。既成の「地方対都市」という対立的思考から抜け、どう新たな関係を作ることができるか。それが本書の核心の一つ。

もう一つ。都市は地方の人口を吸収しながら経済発展をしてきた。この人口を欠くことになれば、もはや成長は維持できない。つまり地方の衰退は、回り回って、やがては都市や国全体をも危機へと導く。

三つ目。なぜ「ふるさと」か。高度成長期は都市の時代だった。しかしポスト成長期、環境と地場産業と、人の「つながり」が価値ありとされる時代となる。地方は都市の下請けではない。こうした価値観の転換を、著者は「ふるさと」という言葉に託している。

 森まゆみ『起業は山間から』(バジリコ・一六〇〇円)。「岩見銀山 群言堂 松場登美」というサブタイトルをもつように、岩見銀山を抱える島根県大森町で古民家を修復し、衣装ブランド群言堂を立ち上げた松場登美さんの語りを、著者がまとめている。

松葉さんは「地域アドバイザー」でもあるが、ご本人は、好きなことを好きにやっているだけ、自分にとって居心地のいい場所を作っているだけ、と述べる。趣味でやっていると言われることがあるが、最低、働いている人に払う分は稼がなければならない、ともいう。その言葉通り、貴重な雇用をつくりだしている。

 知事とデザイナーによる地方への目。両著の対照が何ともいえず面白かった。

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ちなみに、デザイン関係の知人に言わせると、松葉さんのような生活スタイルを望む人は少なくない、しかしあそこまで「商才」があってかつ多才な活動ができる方はきわめてまれであり、生活ができない、趣味から脱することができない、と悟った時点で結局はあきらめてしまうのだとのこと。

よく分かります。自ら会社を立ち上げて中高年用の衣類をデザインし、ブランド化し、その会社の経営を一定程度維持させる。古民家を借り上げ、人を集め、観光地としての知名度を上げ、地域起こしまでやってしまう。

好きなことをやって「損」を出さないというだけでも、相当な力量がいると私も「飢餓陣営」なんぞをやってきた経験から思います(金銭の動くスケールも活動のパワーも、およそ違いますが)。

上記の「地域起こすとケア付き住宅」プロジェクトは進行中ですが、適した物件探しに苦労しているようです。文中の「非特定営利法人」とは「自立支援センターふるさとの会」であり、昨年2月よりお付き合いをさせてもらってきました。

じつは本日の午後、下記のような企画が行われる予定が。私もゲストスピーカーとして招かれており、宣伝には遅すぎますが紹介をしておきましょう。

  [記]
日時:2010211日(木)祭日
時間:プレ企画 午後130分〜3
討議「宿泊所問題」の何が問題か

発題 滝脇 憲(ふるさとの会/地域ケア連携をすすめる会運営副委員長)
指定発言 本田 徹さん(浅草病院医師/同上運営委員長)
吐師秀典さん(友愛会理事長/同上事務局)
油井和徳さん(山友荘責任者/同上事務局)
ゲストスピーカー 佐藤幹夫さん(ジャーナリスト、岩波新書『ルポ高齢者医療』著者)

1230分より新規事業「自立援助ホームふるさと寿々喜屋ハウス」の内覧会を行います。ご希望の方は事務局までご連絡下さい)
場所:ふるさとの会本部3階 台東区千束4-39-6
参加費:2000
特定非営利活動法人自立支援センター ふるさとの会
代表理事 佐久間 裕章

・・・・ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「宿泊所問題」というのは、本来は次へつなぐための短期入所施設である宿泊所が、「ケアつき住宅」の粗末な代替施設として転嫁されようとしている、という問題です。東京都がそのような方向を示そうとしているのです。

この辺はきわめて専門的で個別具体的な制度の問題で、なかなか難しい。今日は何をしゃべるかまだ決めていません。「前に座ってくれていればいい」とのことなので、それなら、と引き受けたのでした。


(別件)
過日、自身(佐藤)の履歴をきちんと書いたほうがよいのではないか、とある人より助言を受けた。自己宣伝はできれば控えたい、と答えると、それは違う、自己PRと履歴を記すこととは違う、とそのひとは言います。今さまざまな場所でさまざまな活動を行っているのは、そこで出会った人々に(佐藤が)支えられているということであり、その人々への礼を失しないためにも履歴の披瀝は必要である、と。なるほどと思い、自己紹介の欄に加筆しました(クリック。)



2月7日(日)
●ケア論執筆渦中、京都へ取材に。
朝青龍の電撃引退、小沢民主党幹事長の不起訴決定、というニュースに沸いた1週間でした。1月17日付けの雑記でお知らせしたように、目下「ケア論」執筆の真っ只中。脱稿次第、刊行の運びとなる予定です。内容についての詳細は今しばらくお待ちください。目下、胸突き八丁の8合目あたり。頂上にたどり着けそうで、もう一山ふた山、という胃がきりきりする日々をすごしています。

そんななか4日(木)、『健康保険』連載原稿の取材のために再び京都に足を運び、医師の三宅貴夫先生にお話を伺いました。取材場所は京都大学の桂キャンパス(工学部大学院のみのキャンパスで、出来たばかりでした)。三宅先生のホームページに入っていただければお分かりのように、先生は認知症治療のスペシャリストです。テーマは認知症高齢者の終末期医療について。

この問題は医師ならばどなたもが直面し、それぞれ対応しておられ事態ではあるでしょう。しかし、まだ共通了解が出来上がっていないテーマです。厚生労働省は終末期医療についてのガイドラインを作成し(厚生労働省ガイドライン)、とりあえずは一定の方向性を示しました。しかし富山県の射水市民病院、川崎共同病院など、延命治療の中止をめぐる判決(昨年12月)に見られるように、医療現場にとってはいまだ道半ばのテーマ領域です。

そもそも高齢者の「終末期医療」をどこから始めるのか、その議論さえまだ行われてはいない状態で、ワタクシ自身、父親を看取った際にこの問題に直面しました。目下執筆中の「ケア論」の重要な柱の一つとなる予定です。

三宅先生のお話は、高齢者とはどのような存在か、というところから始まりました。当然医療的な観点からです。そして「認知症」の診断基準について(ここにもまた思いがけずも厄介な問題が)。さらには認知症の終末期の定義について(ここには狭義と広義というふたつの定義があり、この問題の複雑さを感じさせました)。意思確認を誰が、どうおこなうのか。その際の本人と家族との関係、医療者やケアスタッフと家族との関係をどう考えるかなどなど、議論していかなくてはならない問題が山積していることを改めて感じました。

終了後、ホテルにチェックインしてから加茂川沿いを少し歩き、担当編集者のNさんとお疲れさん会へとなだれこんだ次第です。


翌5日は伏見稲荷神社へ。もともとは稲荷山信仰に発しているといわれているように、山全体が神域で、あちこちに小さな神々が祀られ、全体があたかも曼荼羅のように配置されていました。神域というのは戦いのための「要塞」なのではないかと直感しました。誰との戦いであるかといえば、当然、「神々との戦い」です。

写真右は有名な「千本鳥居」。江戸時代より寄進が始まったとのこと。間を抜けながら、久々に、思い切り「古代妄想」を刺激されました。


それから鳥羽街道を北上し、京都五山の第四位、東福寺へ(写真上)。建立は鎌倉時代。東大寺の「東」と興福寺の「福」を取って名づけられたといいます。さりげなく大伽藍が旧街道の風景となっているところが、いかにも京都らしくて贅沢でした。

ちなみに京都五山とは、以下。
南禅寺-別格。 天龍寺−第一位。相国寺-第二位。建仁寺-第三位。東福寺-第四位。万寿寺-第五位

今週も、「ふるさとの会」のシンポジウムへオブザーバーとして参加。「かりいほ」が主催する
「触法障害者等の地域生活支援研究事業」の研究会への参加、などなど、いくつか予定が。寒い毎日が続き、早く暖かくなってほしいと思いますが、秋田は大雪とのこと。贅沢はいえません。



2月3日(水)
1昨日、久しぶりの大雪。夜、船橋からタクシーで帰ってきたのですが、なかなか感銘深い雪景色でした。午前中、『文蔵』のゲラ校正作業。その後、東京新聞のブックナビ用原稿を仕上げ、そこでダウン。午後はからだのメンテに行ってきました。頭の後ろ、首の付け根、背中の右筋がキーンと痛くなっていて、集中力がもはや限界。リフレッシュしたところで、船橋へ乗り出しました。

さて下記は、『特別支援教育研究』(東洋館出版社)2010年1月号に掲載された原稿です。元の同僚が編集委員をしており、声をかけてもらいました。雑誌刊行後、すでに1ヶ月がたちましたので、ブログで公開しても営業妨害にはならないでしょう。(改行等、少し手を加えてあります)

●新たな学校文化としての特別支援教育

1 2001年、筆者の現場から
 筆者は現場教員からから遠ざかること10年、フリーランスのジャーナリストとして活動している身である。本誌のラインナップではきわめて異色だろうから、最初に少し自己紹介をさせていただきたい。

 退職をしたのは2001年。まだ特別支援教育の「と」の字も見られなかったが、当時、筆者は二つのことが気になっていた。

 一つは就労した卒業生たちのその後。「軽度発達障害」という言葉はまだ一般的ではなく、「軽い子たち」(差しさわりのある表現かもしれないが)と現場で呼称していた卒業生たち。しかもいったん就労したのちリタイアし、その後、音信不通になる少数の卒業生たちの存在だった。障害者手帳は取得しておらず(できず)、従って福祉支援のネットワークからこぼれ、音信不通になることによって卒後支援からももれてしまう。

 そのような卒業生たちの将来が案じられたが、一教員の身分では何の手を打つこともできなかった。

 もう一つは、やがて「ブーム」となるADHDやLD、広汎性発達障害、アスペルガー症候群といった文字が、ちらほら目に入るようになったこと。校内の資料をのぞかせてもらうと、筆者が在職していた学校にはまだいなかった。知的障害はない。しかしそれぞれに応じたハンディキャップの態様を示す。さてどのような子供たちかと、文献を揃えたりしていた。
 退職した後、卒業生たちとの交流はもくろんでいたが、それとともに上記の2点が、退職時の背景、筆者なりの課題だった。そして退職後、いきなりこの二つの課題に直面することになる。

 一つは東京・浅草でのレッサーパンダ帽の青年による短大生殺人事件として(この事件は2001年4月に起きた)。犯人となった青年は、札幌市内の高等養護学校の卒業生だった。

 もう一つの方は小学校の取材に入ったとき、ある場所での勉強会を知り、当時の担任たちの孤軍奮闘にぶつかることになる。くり返すが01年、不勉強なせいか、特別支援教育の「と」の字もなかった(*1)。

2 特別支援教育というパラダイムチェンジの大きさ
 筆者には「学習指導」の技術論はできないし、期待されてもいないだろう。従ってとても基本的な考え方を述べることになる。

 一つ目。小・中学校で現在起きている現象は(特別支援学校もそうだと思われるが)、率直に言って教職員の2極化現象ではないかと推測される。「特別支援教育的」な流れに対する適応の2極化。文部科学省や各教育委員会が「特別支援教育」の旗を強く振れば振るほど、この2極化現象は小さくなるどころか、広がっていきそうな気配である。

 筆者には、少しずつ少しずつ時間をかけて(ご本人や保護者からすればそれでは困るのだが)、学校の中に浸透して行くことを待つほかない。そのような事態だと思われる。

 人権意識や差別意識は、一気には解決されない。事ここに至るまでどれほどの時間を要したか。同じように「特別支援教育」の理念が、現場にあって本当に浸透するまでにはやはり少なくない時間を要するだろう。ここを間違えると教員の疲弊が大きくなるだけであり、無理をしたいびつな人権意識の発露につながりかねない。そうなってしまうと現場は硬直化するし、修復するまでとても時間がかかることになる。

 筆者のかつての同僚の多くが、現在、特別支援コーディネーターとして各地域で活躍している。時々、現状を聞かせてもらう機会がある。その奮闘には頭が下がるし、彼らの意とするところが多くの現場で理解されてほしいと筆者も強く願っている。しかしそうであるからこそ、「時間がかかる」ことをも理解してほしいと思うのである。

 特別支援教育の導入は、戦後民主主義教育の導入と同じスケールで生じているパラダイムチェンジである。それくらい大きな転換だったと筆者は考えている。こうした長いタイムスパンをもって見ることの重要性を、前提として、まずは訴えたいと思う。

3 学校文化としての「通常学級の特別支援教育」
 二つ目。特別支援教育の前に「通常学級」という言葉が付されることによって、子どもたちの問題が多様化するだろうことが推測される。視野に入れなくてはならないリスク因子は、発達障害だけではない。虐待(ご存知のように身体、心理、ネグレクト、性と、ここだけでも広い領域に渡る)。きわめて悪質で長期のいじめ。生活困窮。

 これらのあるものは、時と場合によっては発達障害と似た「症状」を示すことが最近の研究で明らかになっている。そして第1の因子が虐待なのか発達障害なのか、この見極めを間違えると、その後の対処法に重大な支障をきたすことを杉山登志郎が報告している(*2)。いわゆる素因とリスク因子の関係である。

 何を申し述べたいか。「通常学級における特別支援教育」と問題を立てたとき、発達障害にのみ視点を限局してしまうことには危険性が伴う、という当たり前のことである。言い換えるなら、特別支援教育の浸透が、これまで通常学級の担任が心を砕いてきた、いわゆる「生活指導」を軽んじることになってはならないという、やはり当然のことを思うのである。

 同様の問題が、中学校でははっきりとした形をとる。以下はその取材報告である。

 特別支援教育の導入後、中学校での「しつけの文化」(集団指導)が、職員間にあって見直される気運が生じたという。「発達障害」が少しずつ共通理解されるにつれて、「ツッパリ」や「不良」は「問題児」ではなく、「特別な支援を必要とする生徒」であるという考え方が浸透するようになった。「一人ひとりの特性をよく理解し、配慮した指導」が、中学教師たちの間でも求められるようになったわけだ。

 これは悪い方向ではない。ただし課題が二つ生じた。

 一つは教師側の問題。旧来の「ツッパリ」に対する生徒指導体制の弱体化が、一部の教員によって懸念され始めた。この背景には特別支援教育に対する心理的抵抗がある、と筆者は睨んだ。表だって反論はしないが、「特別支援で生徒たちの『指導』ができるのか」、「発達障害だと診断名を付けて問題は解決するのか」という疑義がくすぶっているだろうことが推測されるのである。これは、ある意味では当然の事態である。

 中学校で、小手先ではない特別支援教育がどこまで浸透していくか。中学校の「新たな文化」として定着できるかどうか。真価が問われるのはこれからだろうと思えた。

 次は生徒の問題。小学生から「多動」や「注意顛動」、「いたずら」を見せてきた生徒たち、中学校の「しつけ」で落ち着くはずだった生徒たちが、中学校での「しつけの文化」が弱くなったことにより素通りし、高校まで引きずってしまう。そして、そのことが不適応のきっかけとなっている、と指摘され始めた。

 つまりは、「一人ひとりを理解し、一人ひとりに配慮した教育」にも、生徒によっては限界があるのではないか。かえって昔ながらの「しつけの文化」の中で育った方が、落ち着くタイプの子もいるのではないか。

 いかがだろうか。ここは考えどころだろう、と筆者には思える

 通常学級にあって、発達障害や特別支援教育に対する専門性を身につけることに、異論などあろうはずはない。しかし「通常学級における特別支援教育」の定着とは、新たな学校文化の創出ではないだろうか。ちょうど義務化された養護学校が、時間をかけて新たな学校文化となっていったように。旧来の文化とどううまく融合できるか。2極化の解消はここにしかない。

 学校管理者はもちろん、そのことへの理解がどこまで深まるか。そこが勝負の分かれ目だろうと筆者は思っている。

(*1)この仔細は滝川一廣へのインタビュー集、『「こころ」はどこで壊れるか』と『「こころ」は誰が壊すのか』を参照していただきたい。
(*2)杉山登志郎「成人の発達障害」(『そだちの科学』13号.09・1


1月30日(土)
●25日、千葉・東金事件弁護団による記者会見が
25日(月)午後3時より千葉地方裁判所にて、千葉・東金事件の第8回公判前整理手続きが開かれました。そこでの協議を受け、弁護団の弁護方針と内容が決定したので報告したいということで、同日の午後5時半より弁護人による記者会見がありました。そのごく一部ですが、以下、かんたんにご報告します。

前回の公判前整理手続きのあと、「採取した指紋が、被疑者本人のものとは一致しないという鑑定結果だった」とし、「起訴事実3件ともに犯人性なし。無罪を主張する」という記者会見がなされたことは、すでに報じられたとおりです。

「無罪」の主張には驚かれた方も多かったと思いますが、じつはワタクシもその一人でした。傷害致死でも過失致死でもなく、「無罪」。ということは、当然誤認逮捕あるいは冤罪ということが、視野に入ってこざるを得ません。そして公判も、全面的な「対決」ということになります。

それまでのワタクシの立ち位置は、この事件はマスコミが大騒ぎして報じたような「殺人」事件ではない。過失致死か、ひょっとしたら傷害致死かも知れない、というものでした。未成年略取もありえないだろう(現場を何度か歩きましたが、あの時間、駅前のあのにぎやかな場所で、誰にも気づかれずに自宅まで拉致できるとは、どう考えてもありえない出来事だと感じられました)。

これらを足場として、速報的に「ドキュメント」を書いてきました。ところが、「無罪」の主張だということになれば、すでにワタクシ自身の立ち位置が勇み足になりますし、確認しなくてはならないことがいくつか出てきます。

この日の記者会見に出席し、弁護団がどういうかたちで裁判に臨もうとしているのか、だいぶはっきりしました。質問させてもらえる機会があったので、「確認しなくてはならない」点のいくつかも確認できました。いずれ感想と分析を交えたドキュメントを発表したいと思っていますが、ここではとりあえずの速報として、簡単に弁護団の主張するところをお伝えしておきます。

1.指紋について。
物証とされる指紋の件については、すでに報告しているように、弁護団は「不一致」という鑑定結果を提出しています。「水に濡れた手でビニール袋に指紋は付かない」(鑑定人)。

2.幼児略取について。
被疑者の身体能力からして、起訴事実(その根拠となっているのは本人が話したという「供述調書」)にあるような犯行態様はありえない。「片手で抱え上げ、騒がれないよう口を封じ、自宅マンションまで運び込んだ」などとあるが、被疑者には、このような運動能力も筋力もない。18キログラムある幼女を片手で持ち上げ、自宅まで連れてくることなどできない。関係者全員から同様の証言を得ている、ということでした。

(記者会見場に、検証のために作られた体重、身長ともに実物大の人形がありました。試しにワタクシも持ち上げようとしてみたのですが、ずしりと重い。非常に重かったです。片手ではとても無理で、両手で持ち上げるのがやっとでした。この人形を片手で抱え上げて、口を封じながら100メートル以上を歩く、などということが本当に可能だったのか。両手で抱き上げたとしても、300メートル運ぶには相当な体力・筋力が要ります。)

3.殺人について。
犯人逮捕の裏づけとなったのは、指紋のほかは、被疑者の「供述」のみです。その供述によって作られた調書が、精神科医、臨床心理士、言語聴覚士など、5人の専門家による鑑定をうけ、その鑑定結果が提出されたということでした。詳しくは省きますが、いずれの鑑定書も、供述能力や訴訟能力(有利不利を理解し、自分を防御することができる能力)について、任意性、信用性の疑わしいものだったと述べています。

4.捜査・逮捕・取調べについて
きわめて杜撰で予断に満ちた捜査だったのではないかと指弾しています。逮捕以前に作成していたはずの指紋照合鑑識の結果報告書(それがなければ逮捕状の請求ができない)を、これまでに何度となく証拠として開示するように請求しているが、「検討中」との答えに終始している。これは違法逮捕を疑わせるような、非常に杜撰な逮捕劇だったということになる。まさかでっち上げたのだとまでは考えていない、そこまでは、いくらなんでもやらないだろうとは思うが・・・とも。

(取調べについても、その不適当さ、障害に対する無理解を指摘していました。浅草事件の取り調べに感じたやりきれなさが、どうもまだ取調べの中で日常的に続けられているようです。ただしここには、ハンディキャップを持つことの不利のなんであるかがどう理解されるか、という難問があります。きちんと書かないと、「障害があろうとなかろうと、そんなことは関係がない」という反論を呼びかねないのです。できれば下記ドキュメントや、ワタクシの他の著書を参照していただければ幸いです)。

5.マスコミ報道について
もし無罪かそれに準じた裁判結果となれば、これまでのマスコミ報道に対してはきっちりと反論したい、場合によっては法的措置も考えている、とも。
(1昨年の逮捕直後の大騒ぎに比べ、会見翌日の26日の朝刊は、ほんの申し訳程度のベタ記事で紹介していただけでした)。

以上、大きな問題がいくつも出てきています。浅草での事件から10年。やはり仕切り直しをして、何度でも訴えていかなければならないのでしょうね。これからさらに材料を集め、徹底的に論じていくつもりです。また、すでに発表した2つのドキュメントを、「飢餓陣営」の次号(2010年3月刊行予定)に転載しますので、関心のある方はこちらでお読みください。

『ドキュメント千葉・東金事件』(『世界』(岩波書店)掲載)
・(第1回4月号)ほんとうに女児「殺人」事件だったのか』
・(第2回8月号)「責任能力よりも訴訟能力の議論




1月23日(土)
●『飢餓陣営』というタイトルの由来など
『文蔵』用の原稿のめどが立ったので、ちょっとした合間を縫ってホームページの整理をしました。驚いたことに(というか、ワタクシがどこかで手違いを犯したんだろうけれど)、以前更新した原稿の少なくないものが、アクセス不能になっているではありませんか。ページを整理しようとして、アクセスカウンターを誤って削除してしまったとき、マズイ、と思ったのですが、あのときなんか要らぬことをしてしまったようです。

『飢餓陣営』の初期について触れた文章も、創刊号からの目次の一覧も見えません。膨大な量の仕事が全部パーかよ、あちゃー、という泣きの涙でした。

『飢餓陣営』などというへんちくりんなタイトルを、どうして選んだのか、なくなった文章のどこかに書いてあったはずです。まあ、ワタクシのセンスのいかほどであるかを示していることは間違いありませんが、これを機会に、少しばかり記しておきましょう。

たしか3号で、詩人の根石吉久さんにインタビューをするチャンスをいただいたときだったと思います。ひと段落した後の雑談で、名前の由来を尋ねられました。

雑誌の刊行は87年。このときは88年か89年。バブルの真っ只中。丸金・丸ビとか、ボディコンネエチャンがどうしたとか、くそしようもない話で世間は盛り上がっていました。こっちは仕事と子育てで、毎日無我夢中。

そんなあるとき、たまたま宮沢賢治を読んでいたら「飢餓陣営の歌」という楽曲が目に飛び込みました。すぐに、これだなとピンときました。そっちがバブルでウハハなら、こっちは飢餓陣営だ、文句があるか、と思い切りひねりと厭味をこめて啖呵を切ったつもりだったのです。・・・

というような話を、根石さんに伝えました。そしたら根石さん、「佐藤さん、それはひねりが足りない。もっとひねらないと。たとえば『真実一路』とか、それくらいやらないと」と、即座に返されました。そうか、そこまでやらんといかんかったのか、と痛く感じ入りました。

ここに、さらに追撃がやってきます。

私の愛する友人、かがくいひろし君は、3号から5号まで表紙を、それ以降もカットを寄せてくれていた同志(私が勝手にそう呼んでいる)なのですが、その彼が、飲み会のたびに「名前を変えろ、名前を変えろ」と迫ってくるのです。飲み会のたびに、ですから、ほぼ2日に1回です(それでもちゃんと保育園の送り迎えや通院や添い寝や読み聞かせ手遊びや・・・ちゃんとやってたんだよね)。

シャレなんだけどシャレ、といくら言っても、彼は許してくれませんでした。「その生真面目さを、なんとかしたほうがいいんじゃない?」と。

根石さんの『月刊ヘルニア』は当時圧巻を誇るミニコミ誌でした。「あほくささ」と天下一品の「詩」情が混然一体とし、権力を辛辣に笑いのめすセンスにおいて群を抜いていました。かがくい君のユーモアは、絵本を見ていただければ一目瞭然(こんなことを、この人は、毎日毎日考えていたんだなあ、と改めて思います。お互い様だけど)。

その二人に、「もっと修行を」と宣告されたわけです。

そこで、ある日突然決断しました。『樹が陣営』。これならどうだ、と。

根石さんいわく。「佐藤さんも、大胆なことをする人だねえ」。かがくい君いわく。「まあ、こんなもんだろうな」。・・・

そんなわけで『飢餓陣営』が『樹が陣営』になり、2010年を前に再び『飢餓陣営』に戻すこととした。そういうわけです。たいした話ではなくてすみません。

皆様からお金を預かり、好きなように自分で企画を組み、書き手を選んで原稿をいただいて雑誌を出すなど、これほど贅沢な道楽はないと思っています。せめて刊行回数を年2〜3回に持っていければ言うことはないのですが、先立つものが立たなくて。

おまけ
かがくい君の原画展に行った2日目。二日酔いでへろへろになりながらも、富山県立近代美術館に足を運んだのでした。そしたら瀧口修造のコーナーが2室用意されていました。驚きもものき。クロッキーやオブジェのほか、講演用の生原稿も見ることができました。瀧口さんは富山の出身なのですね。どこにでも何かしらあるものだな、と改めて思いました。


1月17日(日)
●新年の御挨拶に代え、とりあえず近況報告を。
12月はめまぐるしい日々が続きました。
那須塩原で「かりいほ」の第1回研究会が開かれ、その足で、父親の1周忌のために秋田へ帰省。戻って、翌週すぐに佐世保に行き、1泊。帰った翌日に、こんどは滋賀県守山市にて取材。京都に泊まりだったので、ちょうど青蓮院門跡で青不動の御開帳の最中、翌日、これを幸いと足を運んできました。青不動は秘宝で、初の御開帳とのこと。さすが迫力がありました(残念ながら撮影禁止)。

年が明けたら少しは落ち着くかと思ったら、おかげさまで、仕事始めとともに駆け足の生活に戻っています。「忙しい」という言葉を聞かされるのは、あまり好きではないので自分でも禁句にしているのですが(あんただけじゃないよ忙しいのは、と思ってしまいませんか)、ゆとりがないというかせわしないというか、追いまくられているというか。そもそも、社会全体がそういう気分なのかもしれません。何か、せせこましい。それからもう一つはやはりワタクシの年齢。60も間もなくとなり、仕事に対する瞬発力がぐっと落ち、常に後手後手と回っている気がします。


10日、11日は富山へ。昨年の秋に急逝した友人、かがくいひろし君の原画展に出かけ、花を手向けてきました。幸い天気に恵まれ、冬の立山連峰が美しかった。彼の原画展も、もちろんよかった(美術館の方、お世話になりました)。ワタクシは例によっておお酔っ払いをし、翌日は死んだ状態になってしまいました。彼の苦笑する顔が浮かびます。絵本については、いつか何か書けたらと思っていますが、いまはまだ静かにしています。小さなお子さんのいる方は、ぜひ一度手にしてみてください。大うけするはずです。

そして1月15日は『健康保険』誌が締め切り。滋賀県守山市の藤本直規医師が取り組んでいる「物忘れカフェ」の報告を、仕事始めとしました。18日には『ホームレスと社会』という雑誌の締め切りで、テーマは「ケア」について。8枚ほどですが、ホームレス問題はシロウトなので、迷った挙句、苦肉の策をとることに。そんなわけで富山より帰宅した11日以降、原稿執筆でうんうん言っています。このあと25日「文蔵」、2月1日「東京新聞」と、恐怖の締め切り攻勢が続くことに。

合間を縫って16日には那須塩原まで出かけ、更生保護施設「かりいほ」の施設長が中心になってが現在取り組んでいる「地域生活定着支援」研究事業の第2回研究会に参加してきました。4名の利用者御本人たちからの聞き取り、横浜のあるNPO法人の報告などなど、濃い内容の研究会でした。これから報告の冊子作成に入るので、こちらの方のまとめ・執筆も(というか、「かりいほ」についてのドキュメントを書かないといけないのですが、時間ばかり過ぎてしまっています。いかんですね。今年こそやらないといけない仕事の一つです)。出所後の地域生活支援は今大きな流れになっていますが、本当に福祉の中で定着するのかどうか。ワタクシはまだまだ油断できないと思っています。この問題をどこから攻めるか、ずっと思案はしているのですが。


ついでに御報告をいくつか。現在「ケア論」を執筆中。これまで取材をさせてもらった高齢者ケアの現場報告が基になりますが、ワタクシ自身の目論見としては『ハンディキャップ論』の続編としたい。『ハンディキャップ論』は支援論が柱で、「養育」という営みは「死」を主題としていると書きました。同じように「ケア」もどこかで「死」を主題としているのではないか。どう展開できるか。3月をひとまずの目途にしているのですが、現在、新しいアイデアが浮かんできそうでなかなか決め手が出てこない、というじれったくも苦しい日々が続いています。

もう一つ、『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』が『十七歳の自閉症裁判ー寝屋川事件の遺したもの』と改題され、岩波現代文庫に入ることになりました。これはうれしい知らせでした。台湾語訳まで出してもらえたほかに現代文庫入り。果報者の本です。新たに長めの「あとがき」をつけます。大阪高裁の二審判決への感想や、最近の少年刑務所の取り組みを中心とした内容になるだろうと思います。刊行は秋以降になるようです。

ちょっと滞っていますが、飢餓陣営も進めます。