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添田馨の「手帖時評」

(第一回)
リーマンの予想と批評の小径

1.数学と詩学

私は、数学という学問体系にどこか畏れに似た感情をいだいてきた。おそらくその理由は、数という記号体系とその複雑な数式群が、頑として人が近寄るのを拒む城壁のように映っていたからだろう。

だが、最近になって、数学はじつはきわめて詩に似ていると思うようになった。そのきっかけは、「リーマン予想」と呼ばれる現代数学の未解決の超難問に、ほんの少しだけ触れたことだった。

リーマン予想は、十九世紀のドイツの数学者ベルンハルト・リーマンが発表した、ある特殊な関数におけるゼロ点の分布に関する予想であり、いまだそれは証明されるに至っていない。この世紀の超難問をめぐるさまざまな数学者たちの知られざるドラマも、たしかに感動を秘めたものではある。だが、私はなにより、その中身の“分からなさ”ということのほうに魅了されてしまったのである。それは次のようなものだった。

「ゼータ関数の零点、つまりζ(s)=0となるような点は、s=−2,−4,−6,−8,…にある他はすべて、複素数sの実数部分がつねに1/2になるような点であろう」

 この箇所を読んだとき、私は雷に打たれたように震撼させられた。そのときの驚きとは、言葉で記されていながら、その意味が自分には見当さえつかぬような表現形式が、じっさいにこうして存在していることに対してだったのである。これは、ほとんど詩ではないのか。あくまで直感的にだが、私はそう思ったのである。

 マーカス・デュ・ソートイ著『素数の音楽』(新潮社・2005)は、私のそうした思いをさらに決定的にするものだった。この本は、イギリスの現役数学者によるリーマン予想の歴史的背景やその現在的な意義についての物語といってよく、数学の素人が読んでも、リーマン予想の何たるかがある程度理解できるような内容になっている。それによれば、このリーマン予想は、素数定理というものと深い関係にあることが分かる。

いうまでもなく素数とは、1かまたは自分自身でしか割り切れない数であり、いわば数字の元素とも考えられている一連の数のことだ。素数が無限に多く存在することは、すでにギリシャ人によって証明されているが、しかし素数は数論においてそれほど基礎的で重要な単位であるにもかかわらず、その並び方つまり出現のパターンは、じつはまったく出鱈目にしか見えない動きをするのである。それは、つぎの素数がどこに現れるのか、正確にはだれにも言い当てることができないことを意味していた。リーマン予想がすごいのは、このまったく無秩序に現れてくるかにみえる素数の運動に、じつは音楽的といってもよい精妙な諧調と秩序が存在すること、そしてその驚くべき発見を、複素平面上の虚の空間というメタレベルの数学的表現において、みごとに描き出したことにある。

もうすこし具体的にいうなら、リーマンがえがいた地図上を南北にはしる1/2の線上に、ゼータ関数のすべてのゼロ点が並ぶという予想であり、その並び方がじつは素数の出現するパターンの鏡像をなしているというものである。これは、無秩序とみえた現象に、高次な秩序が潜在することを示した画期的な発見であり、その眺めそのものはほとんど神秘にちかい。ソートイは、すべてのゼロ点が並ぶこの1/2の線を、「リーマンの秘密の小道」と呼んだが、いったい誰がこんな「小道」を用意したのか、その問いはもうすでに数学の範疇を超えているだろう。

リーマン予想はこのように、記号上の表記のみならず、それが表象する内容においてもじつに不思議な美しさを湛えている。そして私は、リーマンが示したこの光景が、あるときまったく別の声を発するのを聞いた。その美しさを解析できるのは、これは詩学の役割ではないかと、そう思ったのである。

 2.批評の小径

 私は、このところしきりに、“批評の小径”というものを夢想する。詩の批評において、素数にあたるものは、いうまでもなく個々の詩作品である。詩作品は、それ以上分割もできなければ、また水増しもできない点で、きわめて素数的である。そして、その出現のしかたが一見したところまったく無秩序に映る点まで、素数のふるまい方にとてもよく似ている。

もし、例えば「リーマンの秘密の小道」のような回路が言語世界のどこかに隠されていて、その「小道」に沿ってあらゆる詩作品の価値が瞬時にして計測できてしまうような、そんなことが可能だったなら、おのずと詩の批評も必要なくなるだろう。だが、実際そうなっていないのは、そんな「小道」がまだ誰によっても発見されていないからではないのか。

そもそも存在するのかどうかさえ怪しいこの“批評の小径”の仮説に立って、私も言葉の美の秘密の解析に何とかわたりを着けていきたいところだが、その道が決して平坦でないことは、もうあらかた予想はできている。しかし、その発見に向けての努力までをも放棄してしまうつもりは、今のところまったくない。


*

『詩の現在』(思潮社・2005)が手元に届いた。著者は野村喜和夫+城戸朱理。あの『討議戦後詩』をものした二人のコンビが、今回は未来にむけての詩と批評のありかを座談形式で問う内容である。「まえがき」を野村氏が、また「あとがき」を城戸氏がそれぞれ分担する形式も、毎回決められたテーマに沿ってゲストを招き入れ、つごう十三回にわたって現在の詩のあり方を論じる手法も、前回とあまり変わらない。違った点といえば、『討議戦後詩』が個々の詩人論というかたちで一連の対話が構成されていたのに対して、『詩の現在』のほうは、設定された各テーマごとに何人かの詩人論が配置されている点ぐらいである。

 ところで、私の第一印象をいうと、彼らがこの本で行おうとしているのは、私が夢想するような“批評の小径”の発見にむかう作業ではなく、「詩の現在」という調査対象をリサーチするための新しい装置の開発ではないのか、ということだった。

 その内容目次を概観すると、まず概論として野村氏と城戸氏による「外傷としての『近代』」があり、そこから順番に「起源・反起源」「神話・アーカイブ」「記憶・外傷」「都市・抒情」「愛・メタモルフォーゼ」「日録・忘却」「形・迷宮」「母語・異人」「出現・亡霊」「定型・共同体」「言語・世界」「資本・痛覚」と続いている。

 いまここにあげたボキャブラリーは、その配列の成否はともかく、いずれも「詩の現在」を読み解くキーワードとして構想されたものだが、それらは観念装置ではあっても、批評の語彙ではむろんない。つまり最初のプログラミングの妥当性が問われる以前に、すでに議論がある一定の方向性をさし示してしまっている。まず、こうしたアプローチのしかた自体が、装置的であると私が判断する所以である。

「記憶・外傷」(ゲスト 吉田文憲)の章では、まず城戸氏から2001年にアメリカで起きた同時多発テロの話がさいしょの導入部分として語られ、ついでそれが「どうしようもない大きな記憶の刻印であるとともに、外傷の体験でもある」と解釈されることで、「戦後の現代詩の『出発』」が語られる伏線へとじつに効果的に接続されていく。だが、その中で鮎川信夫の作品「死んだ男」に言及がおよぶ時、最初の疑問が私のなかで声をあげた。

 まず吉田氏が口火をきって、この作品の「時間がなくなってしまった、そういう途方もない空虚さ」について触れ、それを受けて城戸氏がその発言内容を、みずからの「外傷体験」というところにつないで、こう述べている。

 外傷体験は、記憶を失わせるのではないけれども、記憶を覆い尽くしてその時系列を攪乱してしまうんじゃないか―そうしたことがまさにこの「死んだ男」に表出されているのだと思います。

(城戸・同書一○四頁)


 私は、ひとつの詩作品は誰にどのように読まれてもいいと考える一方で、またどうしてもそのように読まれなければならない本質というものも、同時に持っていると思っている。その前提に立っていうと、ここで展開される議論が鮎川の「死んだ男」の“どうしてもそのように読まれなければならない本質”を、微妙にはずしているとしか思えない。

 また、野村氏にいたっては、この「死んだ男」をはじめとする鮎川信夫の語り口の意外な「強さ」にあらためて注意を喚起したうえで、さらにこうも発言している。

 そこには歴史的に消化されていく記憶装置みたいなものから自分を離脱させて、吉田さんが言われたような「記憶が死んだところに現われてくるような記憶」、誰のものでもない記憶の場に、沈潜していくときの「おれ」の強さなんじゃないかと思います。

(野村・同書一○三頁)

 ここでの議論が、座談というひらいた形式のなかで、相互に話が交わされるやり取りを記録したものだという点を割り引いて考えても、発言内容のかくれた意図がどこにあるのか、私にはあまりにも明白に聞こえる。

 「時系列の攪乱」(城戸)や「記憶装置みたいなもの」からの離脱(野村)という物言いの背後にある意図とは何か。ひとことで言うなら、それは「死んだ男」という詩作品から、いわば歴史性の痕跡を極力排除しようという無意識の共通意思にほかならない。だが、この詩は、ほんとうにそういう読み方でいいのか。

 3.歴史に“二重性”はない

『詩の現在』冒頭の「外傷としての『近代』」で、城戸氏は、「歴史の検証によって露わになる現在があるとともに、歴史に捕われすぎることによって、隠蔽されてしまう現在もある」と述べ、この「歴史の二重性」を踏まえながら詩における現在を考えていくべきだと主張する。

だが、私にいわせれば、歴史に“二重性”などというものはない。なぜなら、自分にとって動かすことのできない経験が、すなわち歴史なのであって、そこには最初から意図的な操作が入りこむ余地などはないからだ。

私は、城戸氏のこうした発言に、ある種のリヴィジョナリズムの臭いを感じてならないが、自分が詩を読んできた経験の教えるところに従えば、私はどうしてもその点に反対を表明せざるをえないのである。私たちは、詩との出会いを、やはり自分なりの動かしがたさの感覚において果たしてきたし、いわばそれは私が詩を論じるさいの原点いがいの何物でもない。そこをあえて相対化して、いったい詩の言葉のどこに表現上の価値を発掘していけるというのか。

「死んだ男」については、先行する読み込みがすでにある。鮎川信夫の「死んだ男」について、過去に瀬尾育生はその『鮎川信夫論』(一九八一年・思潮社)でこう書いていた。
 
ところで、「無人称」的な世界から「二人称」的な世界へ、というように彼の作品をたどったとき、彼の表現が戦後において獲得したあらたな質について、おそらくわたしたちはつぎのようにいっていいのだ。《M》という「他者」が作品の中に設定され、それにたいして語りかける主体として「私」がみちびき出され、そしてそのあいだに「関係」が成立するとき、鮎川の詩の戦後がはじまったのだと。」(「遺言執行人」一二一頁)

  さらに八八年の『文字所有者たち』(思潮社)において瀬尾氏は、同じ作品についてこう語っている。


日本の戦後詩の出発点をしめす鮎川の作品「死んだ男」の中で、《Mよ》と呼びかけられているのは森川である。この作品に語られているとおり鮎川は、このMの〈遺言執行人〉として戦後の歩みをはじめた。(中略)「自己」をかかえたままで戦争をくぐりぬけねばならなかった人に強いられた二重身の方法が、鮎川的戦後に固有の話法を生みだした。森川は〈内なる人〉として鮎川である。鮎川は〈外なる私〉として森川である。

(「鮎川信夫、憂鬱な二重」一二○頁)

 鮎川の「死んだ男」に対する瀬尾氏の読みは、この先どういう地点に至りつくことになったのか。その答えの一端を、私は『われわれ自身である寓意』(一九九一・思潮社)のつぎのような箇所に見出す。

 「詩の言葉には帰属する場所がないこと、詩人としての鮎川の歩みは最後にはまぎれもなくそのことを実証していた。生者のものとも死者のものとも知れぬ彼方の共同体に対する暗く親密なエロスと、現実世界への生理的な恐怖や不安にいろどられた敗戦期が遠ざかるにつれて、彼の歩行はあて(・・)()ない(・・)さまよい(・・・・)の感覚に支配されるようになり、この感覚は彼の詩の最後の一篇に至るまで変わることはなかった。

(「隠喩終結まで」一四○頁)

 ほぼ十年のあいだに別々に書かれたこれらの文章には、瀬尾氏の「死んだ男」への最初の読みを核として、「人称」から「関係」、「内なる人」と「話法」、さらに詩の言葉の無帰属性といったように、その批評的なコンセプトを少しずつ変えながらも、一貫している文体の質というものが感じられる。そのことは、これらの文章が書かれた十年間に、瀬尾氏がこの「死んだ男」という作品と自分との関係をさまざまに深化・変奏させながらも、それをもうひとつの動かしがたい自らの内部の時間に熟成させて、それを言葉にしてきたことを物語っているだろう。

言いかえるなら、ここに引用した三つの文章には、それぞれが時間をおいて書かれたにもかかわらず、細い批評の小径がちゃんと通っているのである。

       *       *       *

 リーマンの予想した数学的風景は、文字どおり驚くべきものであったが、私たちはそれが指し示す「秘密の小道」を何か便利な公式のようなものとか、あるいはコンピューターのプログラムソフトのようなものと勘違いしてはならない。それは目を凝らして見ようと思う者にしか絶対にみえない神秘を湛えた光景であり、そこまで行くには超人的な努力が要求されることになる。

 つまり、リーマン予想は、彼の天才的閃きが生んだ、正真正銘の驚異的〈作品〉だといって間違いない。現在、コンピューターの計算能力の発達は、彼の予想の正しさを億単位まで検証することができるようになった。だが、機械装置に予想そのものを証明してみせる創造的能力はないのである。

 (『現代詩手帖』20061月号掲載)








添田馨の「歌詞考」



(第10回)05・05・08
innocent world(イノセント ワールド) (1994年/平成6年)

……………
変わり続ける 街の片隅で 夢のが生まれてくる
Oh 今にも
そして 僕はこのままで 微かな光を胸に
明日も進んで行くつもりだよ いいだろう?
Mr.myself

いつの日も この胸に流れてるメロディー
切なくて 優しくて 心が痛いよ
陽のあたる坂道を昇る その前に
また何処かで 会えるといいな
その時は笑って 虹の彼方へ放つのさ イノセントワールド
……………
(作詞・作曲:桜井和寿、歌:Mr.Children)


 何かが始まるためには、何かが終わらねばならない。どんな青春にも歴史はあり、ひとつの物語が始まりそして終わり、また別の世界が始まるという繰り返しのなかで、希望と呼びうる光もまた、時として私たちの曇った額を照らしだす明るい朝(あした)となって訪れる。

 「イノセントワールド」―“無垢なる世界”との出会いは、「昭和」が「平成」に変わった後、「失われた10年」と呼ばれるエアーポケットのような時空間の真ん中に思いがけずもぽっかりと現れた、それは実に新鮮な響きをもつ音楽の体験だった。この歌を聴いたとき、心底そう思った。あきらかに“時代が変わった”という肌触りが、この歌にはあった。

 「窓に 哀れなが しくもある この頃では…」―アドレセンスが終わり、家庭や学校などのゆるやかな保護や拘束からも解かれ、誰も君を特別な存在としては見てくれなくなる時、アイデンティティの揺らぎは最大限に達し、自分が一体なにほどの者なのか、これから何をやって身を立てていけるのか、真剣に思い悩む季節がやってくるだろう。自分が世界に投げ出されてあると感じる時、君にとって世の中の掟とはどれもよそよそしい素振りを示すに違いない。社会には社会の厳格な掟があって、それ自らの基準によってしか君の価値を計ろうとはしないからだ。

 そんな不安な毎日のなか、かけがえのない自分を、何よりもいまの自分のままに存在の最も深いところで支えてくれるものの予感をこそ、見事なまでにこの歌は告げることに成功している。歌っているのはただの大人では決してない、いわば“大人になった子供達”だ。

 歌にも、思想は宿る。そして、この瑞々しい感性の発露からくる海のように大きな自己肯定の思想は、同時に極めて非=戦後的な表情をもって現れている。

 思えば戦後の青春歌謡史に底流していたのは、産業面でのめざましい経済復興の現実にもかかわらず、巨大な喪失感覚とそこから自立しようと欲するひたむきな意志とのせめぎ合いが生んだ、「切なくて 優しくて 心が痛い」アンビヴァラントな感情世界のさざ波に他ならなかった。そして、戦後五十年近くを経て、ようやく私たちは自らが生まれ育った時代のこうした経験を、子供の無垢な魂のように丸ごと肯定できるピュアな世代の登場に、はじめて立ち会えたのだと言えるだろう。



(第九回)03・04・25

翼の折れたエンジェル (1985年/昭和60年)

……………
“もし 俺がヒーローだったら
悲しみを近づけやしないのに…”
そんなあいつの つぶやきにさえ
うなずけない 心がさみしいだけ
……………
[作詞・作曲:高橋研、歌:中村あゆみ]

 私たちが生きている各時代々々にも、まぎれもなく“青春”という季節は存在する。前回私は、青春の終焉ということをテーマに取り上げたが、個々人の青春期がかならず終るという自明さをさらに越えて、ひとつの時代として“青春”が終焉していく姿を、今回は追いたい。

 青春、それも時代のエポックとしての“青春”というものが、わが国にも確かにあった。“青春”とは、この場合、文化や思想、政治や経済などのすべてをトータルに内に含み込んで、力強くその時代を牽引した一種の社会的な雰囲気、その活力度合を指している。戦後、その波は1960年代に起こり、70年代に入って急速に退潮し、そして80年代には見る影もなくなって、すでに死語となるほどに音たてて壊滅していった。

 そして、85年にヒットしたこの「翼の折れたエンジェル」という歌は、私にはこのような“青春”が、時代として完全に終ったのだということを強烈に告げ知らせる暗黙の象徴のように映るのである。

「ドライバーズ・シートまで 横なぐりの雨/ワイパーきかない 夜のハリケーン…」の文句で、この歌は始まる。いま何処を走っているのか、これから何処へ行くのか、まったく見通しのきかないこのシチュエイションは、年齢的には青春期であるはずの若いふたりの恋人が、じつは出口の見えない袋小路に迷い込んでしまった様子を物語る。「“I love you”が聞こえなくて/口もと 耳を寄せた/ふたりの想いかき消す 雨のハイウェイ」―車の中にふたりで一緒にいるにも関わらず、そこには優しさも温もりもなく、ただこのディスコミュニケーティブなふたりの冷えきってしまった関係しかない。この「横なぐりの雨」とは、彼等から、今後を生きていくための視界さえ奪ってしまう、閉塞した大人社会の寒々しい予感なのだと言ってもいいだろう。それにしても、何がいったい彼等をここまで追いつめたのか。

 彼等はたぶん、青春というものの宿命に躓いている。「エンジェル」こそは、彼等に生きることの実感を与えうる唯一のイメージだったに違いない。しかし、その翼を折ったものの姿を、自分たちの外側に捜そうとするのは、じつは間違いだ。彼等は、誰よりも精一杯に青春を消尽しつくしたその結果、やっとはじめて自分たちが生きるべきゼロ地点、つまりこの「雨のハイウェイ」を、他ならぬおのれの宿命として見出したのだと考えるべきなのである。


(第八回)03・03・28
大阪で生まれた女 (1979年/昭和54年)

踊り疲れたディスコの帰り これで
青春も終りかなと つぶやいて
あなたの肩を ながめながら
やせたなと思ったら 泣けてきた
… … … … … … … …
(作詞・作曲:BORO、唄:萩原健一)

 青春は、終らなければならない。そう思う。終りかたは人によっていろいろでも、やっぱりそう思う。それが今回のテーマである。

 この歌は、「大阪」で生まれた女が「東京」で生きていくことを決めるまでの心模様を、自分の青春の終りのモチーフに重ねて歌いあげた内容だ。いわば自分のこれからの生き方を、前向きな決意をもって自分自身に言いきかせる歌詞のようにも聞こえるだろう。だが、それにしてもこの歌は何故こんなにもうら悲しいトーンに満ちているのだろうか。

 この「大阪で生まれた女」が巷に流れた1979年という年は、ちょうどわが国がバブル経済の絶頂期にむけて邁進をはじめた頃だ。と同時に、消費社会が急速に拡大して、情報化の波が圧倒的な勢いで列島を覆いはじめていた。都会では、物も情報もかつてないほど豊かに流通しはじめていた。だがその一方で、見失われていったものも確かにあった。

 私もちょうど同じ頃に大学を卒業し、社会に出なければならない年齢に差しかかっていたが、どうもこのあたりから、いっぱしの自立した大人になる、ということの意味がひどくイメージしづらくなってきたという印象がある。

「大阪で生まれた女」の場合、それは苦しい逡巡の果てに生まれ故郷を捨てるつらい決心としてもたらされたのだと言える。「ディスコ」とは、いわばこの喧騒に満ちた都会そのものの暗喩でもあるだろう。でも人は、どこかで自分の人生の進路を決めなければならない重大な局面に、必ず一度は立たされる。「あなたについてゆこうと決めた」ことは、だから、住みなれた環境からのドロップ・アウト、言ってみれば先の見えない跳躍なのだ。そのときの投げ出された心の震えが、まさしくこの歌の真髄の部分をなしている。その意味で、人は誰でもそれぞれに自分だけの「大阪」を持っているに違いない。

 自分の生まれて育った街が、どこか小さく記憶の断片のようにしか感じられなくなったら、その時が出発の潮どきなのだろう。だがそれは、多くの愛する者から身を引き剥がす選択をもいやおうなしに迫るのものだ。当然ながら、血も流れるし、痛みも走る。

「さらば東京。おお、わが青春!」(中原中也)―時と場所こそ違え、この痛恨にも似たおなじ響きを、この歌にも感じ取ってしまうのは、果たして私だけだろうか。


(第七回)05・3・15
なごり雪 (1974年/昭和49年)

汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(作詞・作曲:伊勢正三、歌:イルカ)


 ふり返って見ると、青春をテーマにした歌とは意外につらいテーマを背負っているものが多いことに気づく。「青春時代が夢なんて/あとからほのぼの想うもの/青春時代の真ん中は/胸にとげ刺すことばかり」(「青春時代」)と歌われるように、それは自らの成功においてよりも、むしろ精一杯の挫折によってこそ光り輝く季節なのかもしれない。私のなかに住むもうひとりの自分もかつてこう呟いた―「大事に自分だけの胸に秘めておきたい砕けたダイヤモンドのような思い出があってもいいじゃないか」と。

 このところ数回は、戦後からずっと順を追ってわが国の青春歌謡の流れを追ってきたわけだが、七○年代にはいってからというもの、どうも取り上げる歌が暗いというかどこか影を帯びているなあ、と我ながら思わずにはいられなくなってきた。でもそうした思いの底をさらうように記憶の糸をたぐっていくと、暗い雲間からさす薄日のようなメロディーの暖かさと確かに私も出会っていたことを、つい発見するのである。

 70年代の半ば頃だった。その当時、友人のI君とよく行きつけていたスナックにジュークボックスがあって、イルカの歌うこの「なごり雪」は、そこでの僕らの定番だった。今ほどカラオケも普及していない時代に、好きな曲を選択してじっくり味わおうとすれば有線かジュークボックスしかなかったのだ。

 歌はこのあと「なごり雪も降るときを知り/ふざけすぎた季節のあとで/今春が来て君はきれいになった/去年よりずっときれいになった」と続く。ここで“なごり雪”というのは春先になって冬のなごりのように降る牡丹雪のことだが、当然ここには「君」と別れわかれになるしかない「僕」の未練心、その“なごり”の気持ちが仮託されている。

 ひとつの「ふざけすぎた」季節が去って、旅立っていく者、旅立てずにじっと立ち尽くす者、その心模様はさまざまでもそれは互いに傷つけあった季節の終りであり、新しい夢を捜しにさまよう心の旅の始まりでもあるだろう。

「季節よ、城よ、無傷な心がどこにある」(ランボー)―そう、無傷な心なんか何処にもない。でも汽車で旅立ってゆく「君」は、間違いなく「僕」の胸のなかへ、宝石のように輝いた季節の記憶として、ただただ無傷な思い出として帰っていく。それはまぎれもなく「君」がもう僕の手が届かない存在であることの証しであって、もう触れることのできない「君」のその美しさが、背反するこの世界に僕を投げ出す最後のやさしさででもあるかのように。



(第六回)
[歌は世につれ] (1973年/昭和48年)05/3/5
神田川

貴男はもう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が 待たされた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(作詞:喜多条忠、作曲:南こうせつ、歌:南こうせつとかぐや姫)

 かつて「四畳半フォーク」という言葉があった。さしずめこの「神田川」は、その代表的な曲と呼べるものだろう。それは70年代のある時期、特に若い世代の者たちのあいだで支配的だった一種沈滞したムードを、その歌詞とメロディーの中へみごとにすくい上げたところに成立をみた、理念よりも叙情性のまさった一群の若者ソングを指す。

 演歌的な世界にも通じるような男女の感情世界を描いているようで、演歌ともそれが一線を画する理由は、ここに登場する若い男女が、たとえ貧しくても手に手を取り合ってふたりの世界を築きあげようとする勤労者としてではなく、ともに都会での生活基盤を欠いたどこか浮遊するような得体の知れない生活者として現れる点だろう。

「同棲」という言葉が、世間に対して何か後ろめたい視線のもとに一般化していったのも、たぶんその頃だったと思う。この「神田川」に歌われる男女も、明らかにその「同棲」という生活スタイルを生きている二人なのである。彼らは、現在ではもうほとんど見られない「三畳一間の 小さな下宿」に住んでいる。私は実際に「三畳一間」の生活を知っているが、二人で暮らすには家具などは何も置けない狭さで、それは生活の場としての機能をまったく果たさない、そういう空間だ。そしてこのシチュエイションは、社会内にその定着基盤を持たない彼らの素姓を、はからずも象徴しているだろう。

 60年代の後半から70年代のはじめにかけて、この国の若者たちはひたすら社会や世界といった〈外部〉にむけてがむしゃらに出ていこうとした。彼らは国家や社会体制に反抗し、戦後的な価値観をも軒並み否定して、いわばすべてのことに“反対”の姿勢をとった。だが、そうした「世代の興奮」が去ったあとに、彼らに残されたものとは何だったのか。その答のひとつが、おそらくこの歌の中にある。

「ただ貴男のやさしさが 怖かった」というのは、まさに切実な表現だと感じる。そんな儚くて消え入りそうな「やさしさ」を信じるしか、もうすがるものは無くなっていたのである。




(第五回)05・2・20

青春の歌
( 1970年/昭和45年)

喫茶店に彼女とふたりで入って
コーヒーを注文すること
ああ それが青春

スポーツこそ男の根性づくりだ
やれサッカーやれ野球一年中まっ黒
ああ それが青春

さて青春とはいったい何だろう
その答えは人それぞれでちがうだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(作詞・作曲・歌:吉田拓郎)


 吉田拓郎のこの「青春の詩」をはじめて耳にした時の衝撃は、今でも忘れられない。というのは、やっと自分たちの言葉で、他ならぬ自分たちのことを歌える歌が誕生したのだと心底からそう思えたからだ。

 それはちょうど私が高校に入学したばかりの頃だった。私にとって「青春」とは、大学受験にむけ無表情に敷かれたレールの上をただ当てもなく鬱々と歩みだすしかない、そんな暗い季節の始まりを告げる戯言にすぎなかった。そんな事情が背景していたこともあり、この「青春の歌」は、とにかく驚きだった。新鮮だった。自分の心の代弁者を、自分の狭い生活圏の外部のひらかれた場所に見出す、そんな稀有な体験がはじめて訪れた瞬間だった。

 この歌の魅力をひとことで言うなら、とにかく醒めている、それも熱く醒めている点だろう。さまざまな青春像を吉田拓郎はその歌のなかで羅列する。「女の娘をひっかけること」も「反戦歌を唄うこと」も「飛行機乗っとり革命叫」ぶことも、ぜんぶ青春なんだよね、と軽くあしらってみせている。その素振りがまたいい。じゃ、そういうお前の「青春」って何なんだ、というところでこの歌は終っている。

 吉田拓郎というフォークシンガーは、この国の大衆歌の歴史のなかにいきなり登場した訳ではない。それには前史があった。それまでフォークソングの主流は、岡林信康や高石友也などに代表される関西系のフォークにあった。彼等の歌がもつ過激で強烈なメッセージは、時に政治的なラディカリズムにまで通底する本質を持っていた。雑誌付録の歌謡集に「インターナショナル」が載るような時代だったのである。

 彼等の歌になくて吉田拓郎の歌にあるもの、それはズバリ「孤独」だ。孤独であることを本当に彼は知っていた。彼には他に「どうしてこんなに悲しいんだろう」という佳品がある。それは、やっと自由(=孤独)になれた若者がふと故知らぬ悲しみに囚われ、その理由をひたすら内省し、自問する内容のどこかバラードを思わせるような純な歌だった。

 このあと時代はこうした孤独な時をへて、「連帯」の時代から、やがて「断絶」の時代へ向かうことになる。



(第四回)05/02/05
禁じられた恋 (1966年/昭和41年)

禁じられても 逢いたいの
見えない糸に ひかれるの
恋はいのちとおなじ
ただひとつのもの
だれも二人の愛を
こわせないのよ
…………………
(作詞:山上路夫、作曲:三木たかし、唄:森山良子)

 “情念(エートス)の歌”と言っていいだろう。だがそこには、歌われた歌詞内容よりもっとずっと大きな何かが隠されているのではないか、という齟齬感を長いこと私は抱いていた。

 この歌が巷に流れたのが1966年。ホレたハレたの流行歌全盛のなかにあって、この「禁じられた恋」は、歌詞そのもののモチーフもさることながら、悲痛ともいえる曲想全体のその切迫したトーンによって、ひときわ異彩を放っていた。

「恋はいのちとおなじ/ただひとつのもの」―いまどき一体誰がそんなことを思って生きているだろうか、という疑問がまず浮かぶ。だが人は、その時はじめて気付くのではないだろうか。この歌は男女の付き合いを親や教師に禁じられた若者のたんなる人情歌ではないということを。

「恋をすてろというの/むごい言葉よ/それはわたしにとって/死ぬことなのよ」―何気なく聞き流していたこの二番の歌詞にも、よくよく考えてみれば尋常ではない思想が込められていることが推測できるだろう。「恋」とはこの場合、文字通り「命とおなじ」もの、つまりそれがなければ自分が人間として“生きられない”、あるいは“生きている”とは言えなくなるような、それほど重要なファクターとして歌われているのである。この点が、例えば前回触れたグループ・サウンズの過激な恋愛ソングともこの曲が一線を画している理由なのだ。この一見アナクロチックにさえ映る“恋愛観”の出所は、果たしてどの辺にあるのだろうか。

 印象として言えるのは、この歌において「あなた」と呼びかけられる恋の対象が、どうも最初からあらかじめ失われた存在らしいという、その根拠不明の喪失感である。私の考えでは、この「あなた」というのは、戦後のわが国が素直に言葉に出して“好きです、愛してます”とは言えなくなってしまった何かある大きな存在を暗示しているように思われるのである。つまり、戦後のこの時期の青春像が、歴史的に抱え込まざるを得なかった負性の所在を、暗に告げ知らせているように思えてならないのだ。



(第三回 05/01/20)
君だけに愛を (1967年/昭和42年)

おお プリーズ おお プリーズ
僕のハートを 君にあげたい
君だけに 君だけに
捧げよう 不思議な
僕の胸のつぶやきを
・・・・・・・・・・・・・・・
(作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち、歌:ザ・タイガース)

 時代が変われば、人々の人生観や暮らしの様式も移り変わっていくのが常である。この世の何者にも束縛されず、すべてにおいて自由だと信じられているあの「青春」とて、決してその例外ではない。戦後の歌謡曲は「青春」というものを、「若者たち」といったようなかつての群像的共同性から、どこまでも個人一人一人がおりなすドラマ性のほうへとじょじょに解き放していった。そして、ある時期から、わが国の青春像は、男女の恋愛感情が導く高揚感によってしか語られない閉塞した場所へと、自らを追い込んでいく。

「青春」の激しく渦巻くエネルギーが、男女の“恋愛”における情感の上昇力のほうへと雪崩を打って合体していったのは、1960年代の後半に現われたグループ・サウンズの流行を待ってである。これに決定的な影響を与えたのが、ザ・ビートルズでありザ・ローリング・ストーンズであったとしても、わが国のグループ・サウンズの特徴は、どこまでも現体制の枠内で、ひたすら自分たちの恋愛感情の過激なまでの純粋さ、その夢と幻を、彼等の歌詞や音楽をとおして競いあった。

 当時、一世を風靡したザ・タイガースの「君だけに愛を」は、こうした歌謡曲の潜在する流れを決定的に方向づけた歌のひとつである。

「君だけに 君だけに」と連呼されるのは、もはや他の誰にも代えられぬ、嘘偽りない至純の恋人そのひとでなければならない。もうほとんどそれは架空の存在というに等しいが、彼等にとってそんなことは問題ではないのだ。

 要は自分が全面的に没入できる対象、そのために命を賭けても惜しくないほどの思慕の対象が、何故かその時代にはどうしても必要だったのだ。今となっては、そうした存在を求めざるを得ないたくさんの飢えた心が、これらグループ・サウンズの歌の共通のテーマを彩っていたのだと、はっきり判る。
絶叫、失神、派手なアクション…、どう見てもこれらは普通でない。にもかかわらず、共に熱狂してしまう当時の自分をそこに見出すとき、時代感情の核心をヒットする流行歌謡の魅力と魔力とを、私はまざまざと思い知るのである。


(第二回 05/1/1)
学生時代 (1964年/昭和39年)

つたの絡まるチャペルで
祈りを捧げた日
夢多かりしあの頃の
思い出をたどれば
懐しい友の顔が
一人一人うかぶ
・・・・・・・・・・・・
(作詞・作曲:平岡精二 歌:ペギー葉山)

 戦後の青春歌謡、シリーズ第二弾はこの「学生時代」である。古き良き時代の青春像というものを、日本の戦後歌謡曲のなかに探そうとすれば、この「学生時代」という歌はおそらくその筆頭に挙げられる作品だろう。というのも曲想そのものが、まさにこれ以上ないくらいに古典的といってよい設定内容だからである。

 誰しもアドレセンス期を過ぎて、いやおうなく社会の中や家庭の外などに投げ出される時、たまらなく後ろを振り返ってみたくなることがある。青春歌謡の多くが、こうした後ろ向きの志向によって特徴づけられることは、一部の例外を除いてお決まりのパターンと言っても良いほどだ。この「学生時代」も明らかに、自分にとって素晴らしかった「あの頃」を、純粋に過去の特権的な時間のなかに保存したい心的動機によって裏打たれている。

 歌のモチーフがミッション系の女子校であるのは、「歌詞考」的にみれば決して偶然ではない。どこか修道院を彷彿とさせるこの辛気臭いイメージの採用は、この歌の本質が、想像された学園生活を現実と切り離して、センチメンタルに物語化する意図にあったことを雄弁に語っている。その証拠に、「学生時代」を回想しているはずの“自分”の位置というものが、歌のなかではまったく触れられることなく、そこだけ空席のままになっているのだ。だからこそ、この歌は世代を越え時代を超えて歌い継がれる本質をはからずも持ってしまったのだと、逆説的に言いうるのである。

「テニスコート/キャンプファイヤー/懐かしい 日々は帰らず」―まさに青春像のシンボル化において現在にまで引きずられるこれらの諸表象は、戦後のわが国が大衆レベルでのナショナリズムの基底を、「花摘む野辺」(「誰か故郷を思わざる」)や「兎追いしかの山」(「故郷」)から、一体どこへシフトさせたのかという問いに充分答えてくれるだろう。

 ただし青春というものの本質が、現実の側からの夢の終りを告げる神聖な儀式性にあることもまた明白なのだ。そうやって、やがて青春はみずからの手で「青春」そのものを否定しにかかるに違いない。


(第一回 04/10/06)
青い山脈
(1949年/昭和24年)

1. 若くあかるい 歌声に
雪崩は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(作詞:西条八十 、作曲:服部良一、歌:藤山一郎・奈良光枝)

「青春」−戦後の歌謡曲の原点のひとつが、この言葉のもつ広がりの中にあると私は思っている。その場合「青春」とは、単にひとりの人間が通過するアドレセンスという狭い意味にとどまらない。もっとひろく社会や文化の隅々にまでしみわたる瑞々しい感性の震えのようなものとして、私たちの「青春」のイメージはあった。今回から数回にわたり、戦後の歌謡曲に現われた「青春」というものの諸相とその変遷を、個々の歌に即しながら追いかけていきたいと思う。

 太平洋戦争が終って間もない1949年に、映画の主題歌として巷に流れたこの「青い山脈」こそは、まさにわが国の戦後歌謡曲における最初の青春讃歌として記憶されるに相応しい。なんと屈託のない明るさが、ここには満ち溢れていることか。まだ経験したことのない「青春」へのふるえる予感が、歌詞とメロディーの全編にわたって流れている。そうなのだ。この歌は「青春」そのものではなく、むしろ「青春」という幻想(=夢)への尽きせぬ想いを歌った曲なのである。

「古い上衣よ さようなら」―二番の歌詞のこの部分は、明らかに過去の自分(=時代)との決別を宣言している。「上衣」とは言うまでもなく古くなった時代の象徴に他ならない。生活のすべてに暗い影を投げかけていたあの戦争がもたらした一切の「さみしい夢」も、もう過去のものだ。見えるのはただ青々と輝くみどり深き山々と、その霞にけぶるむらさきの嶺々…。三番の歌詞にもあるではないか。「雨にぬれてる 焼けあとの/名も無い花も ふり仰ぐ」―焦土と化した町々から、私たちは太陽の光をふり仰ぐ名も無い花のように、その遠い山脈に想いを馳せる。もうそうすることが許される時代になったのだから。

 そして“山脈”のイメージこそが、それの持つ分水嶺において、何かとてつもなく大きなものとの境界を、一番よく象徴することができた。ここに戦争の死者たちの翳はみじんもない。劇的に転換した時代が向かった遠い夢の所在こそが、実はこの「青い山脈」だったのである。



添田馨の「クリティック2003」(最終更新04/02/26)

タイトル 初出誌 更新日
”ライブ”に堪える思想(村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』) 「現代詩手帖」2003・07 03/08/01
メモリアルの鉱脈(三浦雅士『批評という鬱』『青春の終焉』) 「現代詩手帖」2002・02 03/08/19
忘却の修辞学(松浦寿輝『物質と記憶』)
「現代詩手帖」2002・03 03/09/07
歴史語りの風景(『鮎川信夫全集』)
「現代詩手帖」2002・4 03/09/23
粘状解読(吉本隆明『読書の方法』・岡井隆『吉本隆明を読む日々) 「現代詩手帖」2002・5 03/10/04
暮れ方の思想
 −−中村稔『人間に関する断章』/辻井喬『深夜の孤宴』

「現代詩手帖」2003・6 03/10/24
“書かれ”の至福、“読み”の恍惚 −平出隆『ベルリンの瞬間』、吉増剛造『ブラジル日記』
「現代詩手帖」2002・8 03/11/15
詩と小説と幽霊問答
対談「文学の根拠」(高橋源一郎×三浦雅士)、『一億三千万人のための小説教室』(高橋源一郎)、座談会「昭和の詩」(大岡信×谷川俊太郎×井上ひさし×小森陽一)
「現代詩手帖」2002・9 03/11/24
裏切ってゆく言葉の怪
藤井貞和『自由詩学』、正津勉『詩人の愛』
「現代詩手帖」2002・10
04/01/10
〈音示〉としての詩 「現代詩手帖」2002・11
04/02/04
カイロスの揚翼 「現代詩手帖」2002・12 04/02/27
カイロスの揚翼(続)
「現代詩手帖」2003・12) 04/04/11


[クリティック2003]
カイロスの揚翼(続)(初出:「現代詩手帖」2003・12)

                                   
1「場面」について

 この一年間、私はこの連載批評を書きつなぎながら、文学がそこでさまざまに変容する「場面」というものを想定し、意識的にその発見に努める作業を自らに課してきた。現代詩に限らず小説・評論もひろく含めた文芸一般において、従来ジャンルの同一性が大きく揺らぎつつある一方、文学の側がこれまでカバーしきれていなかった他領域への浸透をみずから果たそうとしたり、また逆にそうした外部からの浸潤をわが身に受けながら変容を生じさせつつあるような「場面」、主にそうしたところに殊の外関心を集中させてきたのである。

 私がそこを「場面」と呼ぶ理由は、文学というものをある特定領域の呼称としてではなく、言葉が書きつけられているところなら何処にでも生じ得る可能性の表現(=カイロス)として考えており、それは従来ジャンルの枠組みを完全にはみ出したかたちでしか捉えることができないもので、やはりいまだ領域化されていない「場面」としてこれを示唆するに留めるしかなかったからである。

 これらのことを考えるきっかけを与えてくれたのは「すばる」誌上における「座談会昭和文学史(最終回)昭和から平成へ」(高橋源一郎、島田雅彦、井上ひさし、小森陽一)での各氏の次のようなやり取りだった。すなわち島田氏が「私や高橋さんが書き始めたのは八○年代でしたが、今からその文学シーンを振り返ると、私たちは自己批評として小説を書いていた。パロディーというのも自己批評ですしね。それに対して今は、どうも村上春樹のような自己満足や自己陶酔のサイドにしてやられている」と述べたのを受けて、小森氏が「しかし、村上春樹の『海辺のカフカ』やインターネット上で発生しているさまざまな事態を考えると、この「自己」という連続性とそれゆえに責任がある人格というものが不確かなものになってきています。もはや人格そのものが成立していないということを前提にして、それこそ「今日は何々モード」でという若者たちの言説がある。つまり、いくらでもモードを切りかえて、別人格を使い分けることができる。これは、個人として自らの記憶の連続性において人格を握りしめるのか、あるいは手放すのかという正念場になってきていると思うんです」と問題化している場面である。そして私には、これに続く高橋源一郎の以下のような指摘が、とりわけ重要な論点を提供しているように思われたのである。
 
高橋…今、キャラクターの使い分けの話がありましたが、最近、多重人格小説が多いでしょう。多重人格の一番の問題は、だれが責任をとるのかわからないことです。たとえばある人間の中に七人の人格があったとする。その中のだれかが殺人事件を起こしても他の六人は無罪です。それは象徴的なことではないでしょうか。多重人格的な言語を受けいれる素地がある。そんな小説がぴったりとくるということは、なにかを表現することで責任をとりたくないという無意識の現れです。

 我々は、言葉というものは所詮、言葉にすぎないという立場と、いや、言ってしまったことは取り返すことはできないという立場の間をいつも揺れ動いています。(中略)

 だからこそ、近代文学の言葉は重いものとして存在していた。まさに重力だった。百年もの間、家や父や社会や政治から、放っておくと飛んでいってしまいそうな日本人を、その重たい言葉で引き留め、約束させ、実行させてきた。だから、今そのすべてにうんざりだという気持ちもよくわかるのです。「近代文学は人工的なもんでしょう」と言われたら、まさにそうだと答えるしかない。人工的につくり上げ、同じように人工的に作り出された近代社会をこの地面に無理やりくくりつけるためにできたものだった。だからこそ、その言葉で成り立っていた国が浮遊し始めた時、その同じ言葉を使って押しとどめることは難しいのです。だからまるで多重人格者のように、「昨日書いた小説は別な私が書いたのです」と言う若い作家を僕は否定できないのです。(注1)

 私たちはこれまで、小説といえば文学作品だと何の疑いもなく受け入れてきた。「小説」イコール「文学」という等式は、自明このうえないものとしてあった。だがここで高橋氏が言及しようとしているのは、こうした自明な等式についての信憑の揺らぎなのである。つまり彼がここで述べているのは、小説の単なる作法についてのことではない。私の問題意識に照らしていうなら、当座談会のこの「場面」が象徴しているのは、いま小説と呼び慣わされている表現ジャンルが文学たるための、最も根底的な条件が問われはじめている事態なのである。


2「舞城王太郎」という問題

 舞城王太郎という名前を文芸誌上で目にするようになったのは、ほんのここ二、三年のことではないだろうか。一九七三年生まれのこの若い作家について何かと話題になってきたこととは、ひとくちに言ってその幽霊のように捉えどころのない存在性の影についてだった。少なくとも私は、作家について具体的な情報がなくてもその文学作品にはいやがおうにも作家の存在性が滲み出るものだという従来のセオリーが、舞城王太郎の場合、実はまったく当てはまらないという印象を抱いている。ことに本年度の三島由紀夫賞を受賞した小説作品『阿修羅ガール』(注2)におよんでは、殊更にその感が強い。先の座談会で高橋氏がふれた「若い作家」のひとりに舞城氏も確実にカウントされる存在であろうことを、私はこの作品を読んで確信するに至ったのである。

 全体のプロットの説明は省く。ただ、特徴的な文体と作品のモチーフがうかがい知れる個処を一部以下に引いておきたい。

《 吉羽さんのウチは私のウチから北に少し行って野川に当たったら左に折れて川に沿って歩いて五分くらい行ってからちょっと路地を入ったところにある。ちょっと前までマスコミがたくさん詰め掛けてきていて狭い路地を通せんぼしてしまって車の人やらチャリの人やら近所の人やら野次馬の人やらが結構なんかちっちゃく争ったりして地味にカオスっぽかったらしかったけど、今はもうそんなことない。グルグル魔人が真一くん浩二くん雄三くんを連れ去って殺してバラバラにして、その遺体を束にして川原に捨てたのはもう二カ月くらい前だったから、その二カ月間に新潟県で通り魔が出てそいつが包丁持ったまま商店街を突っ走って七人殺して五人に怪我を負わせてそのまま走って山に逃走して山狩りが行われて結局緊迫の一週間が過ぎてからやっと犯人の自殺した死体が見つかった…と思ったら、鳥取県で、隣と正面に住む三つの家族が三つの喧嘩を十数年も繰り広げた挙句にある晩包丁とと金属バットとバールが活躍して四人が死んで十二人が怪我をして、実は事件がその三つの家族とは何の血縁もない一人の女によって皆が操られていたせいだったと判って村中大騒ぎになって逃亡したその黒幕の女追ってテレビ鳥取がアメリカのマスコミみたいにヘリで空中撮影してその映像をライブでお届けして日本全国ムチャクチャ盛り上がったりして、何となく誰も彼もグルグル魔人については忘れてしまっていた。

 話戻すと、グルグル魔人は吉羽さんちの三つ子ちゃんを殺すまでの二年間に猫を七匹以上、犬を四匹以上殺して死骸のそばに「グルグル魔人参上」って書いた手紙を残してた。「グルグル魔人」を描いたらしい絵も時々あって、それはなんかよく判んない変な渦巻きの絵だった。つーか明らかに酒鬼薔薇聖斗の「バモイドオキ神」やら、何とかという奴の「ジャワクトラ神」やらのパクリだった。
 の神パクんな。》(注3)

 この作品は、基本的に「愛子」という女子校生の一人称で語られる。そしてその物語ともいえぬ物語のモチーフには、右に引いたように人の異常なまでの残虐性がそのまま劇場化したような私たちの日常的な現実も、随所に影を落としている。ハイテンションに一気に喋りまくる語りのスピード感はどこかハイテンポな映像作品を思わせる一方で、しかしその構成の自在さは物語としての整合がほとんどバラバラに寸断されている失敗作と思いきや、通読すれば構成のバラバラ加減と見えたものは、実は登場人物の現実の因果関係を超えた無意識下の世界の描写だったり、あるいは「愛子」の幽体なるものが別の人格のなかで語っている言葉だったり、「愛子」の分裂した別の人格がひき起こしていた事実だったり、といった機制に支えられて周到に考案されていることが分かる。

 舞城氏のこの作品では、個々の登場人物といえども個人としてのアイデンティティはまったく保証されず、いやそんなものはむしろ打ち崩されており、彼らの自意識と自意識の壁すらも往還自在な膜のような二義的な役割をしか与えられていないのだ。

 だが、これらのことはいずれも本質的な問題ではない。舞城王太郎がみずから体現する問題が果たして何なのかと言えば、それはこの作品がどのように「文学」たり得ているかというただその一点なのである。

 例えば「群像」八月号に掲載の座談会「僕らにとって批評は必要だ」(田中和生、永江朗、陣野俊史)において陣野氏は、自分が大学で受持っている小説論の授業での学生の反応について、「みんなが舞城王太郎を開くと、わかるんですよ。もう圧倒的。これは何なのかということを本当に考えなきゃいけないと思うんです。もし目の前に百人の読者がいれば、阿部和重はその中の三十人とか四十人をうならせる。星野智幸は二十人くらい。でも。舞城王太郎だけは、それまではみんなA村、B村、C村に個別に住んでいるんだけど、なぜか全員村から出てきて集会場になっている。もう舞城村。そのベースは何なのかということを考えることはすごく必要なことじゃないかと思う」と述べている。これに対して同じく「群像」九月号で大塚英志は、「舞城を歓待する批評は、せいぜいがそれぞれが感じるそれぞれのサブカルチャーの文学への侵入としてしか、この事態を考えていない」として真っ向から反論を行い(「文学自動製作機械」)、「そもそもぼくが舞城の評価のされ方をめぐって奇怪だと思うのは、彼を賞賛している批評家の大半が「サブカルを理解する」批評家である、というギミックを持っている人々だということだ」と、その文学としての評価にあえて横やりを入れていたのが目を引いた。彼は舞城王太郎のこうした持ち上げられ方に対して、「誰もが小説を書き、ましてや本を出しても全く構わない。だが、仮に舞城が「文学」なら、サブカルっぽくていいという、どうにもさもしく物欲し気な批評ではなく、舞城のどこが「文学」と呼びうるのか、誰か立証してくれ、説明してくれ、とぼくは言っているのだ。その意味で、ぼくが理解し得る舞城はコミケ的な二次創作の手法をミステリーの上にも成立させ、それが文芸誌に持ち込まれ「文学」だと歓待されている、という「現象」でしかない」と手厳しい指摘を行っている。私は、大塚氏のこうした疑問は批評家としてはきわめて正当な投げかけだと思う。こうした問いが本質的なところで検討されなければ、どの作品が優れた文学でどの作品がそうでないかを唯一計測する役割を持つはずの文芸批評そのものが、みずから果たすべき最低限の責任すらもまっとうできないことになるだろう。

 舞城王太郎の作品について、私はここでふたつのことのみを指摘しておこうと思う。ひとつはその作品の根幹の思想性に関わる部分、そしてもうひとつはその作品と作家本人との位置関係に関わる部分の事柄についてである。

 例えば二○○一年作の「熊の場所」からここで取り上げた「阿修羅ガール」へ、はっきりと通底するモチーフのひとつに、犬や猫などの動物虐待からついには人間、特に年端のいかぬ子供らへの猟奇殺人へと至る病的な情念の流れが見てとれるのは、先の引用部などからも明らかだろう。恐らくは類似した現実の事件に想を得たと思われるこんな部分にこそ、私はこだわってみたい。酒鬼薔薇事件がその意味で象徴的だったように、近年繰り返し引き起こされるこの種の事件は、その残虐性の側面をマスコミによって誇大に喧伝される一方で、犯人の側の内的動機がまったく明示的に把握できないという不安を私たちに与えてきた。それはいわばうまく言葉にできない潜在意識下の不安と言ってもよく、まさに文学の手法が本来対象とすべき主題を提供してやまない暗黒領域でもあるはずだった。

 舞城氏の作品で、そうした暗黒領域を一身に担う存在として現れるのは「熊の場所」における「まー君」であり「阿修羅ガール」における「グルグル魔人」こと「大崎英雄」である訳だが、読後の感想として言えば、それらの存在が抱え込んでいるはずのこのマイナス符号の闇が、作品の中で言葉のパワーだけによってあたかも山を登るように登りつめられ、ついには乗り越えられたという充実した感触を、私は十分に得られなかったように思う。このことは裏返して言えば、それらの異様で残虐な事件の事実性は消化不良のままで本質的には文学のなかに昇華されきれておらず、物語構成上のたんなるデコラティブな骨格として援用されて終わったのではないか、という感懐を私にもたらすのである。

 そうだとすると、さらには小説のモチーフと作者の間の位置の取り方といったものにも、大きな疑問が湧いてくる。この場合のモチーフとは少なくとも小説作品においては必然的な選択によって、作品中に普遍的に潜在する血流のようなものを指すが、それがプロットの骨格を構成するだけでそれ以上の役割を果たしていないとすれば、この部分に対する作者のコミットメントの作法もどこか全面的なものではなく、部分的かつ間接的な位置に止まっているのではないかと断じざるをえないのだ。そのことは、作品のモチーフが必然的に選び取られた姿というよりも、恣意性に委ねられたハロウィンの仮装のようなものだった疑いへと私を導くのである。

 ならば、そういう作品は文学ではないのか?いやいやそうではなくて、これも立派に文学だとどこかで言い得るのか。大塚氏の発した疑問が、またしてもここで反復される所以だが、方法論的には十分に文学作品としての条件をクリアしながら、文学をそこに求めようとする時になにか不全感を引きずる舞城氏の作品の素姓にかんする問題は、それをカイロスの発現という文脈に置きなおした場合に、まずその問題の所在場所の特定からはじまって、ひいては文学を文学たらしめる原理面からの根底的な洗い出し作業を、少なくとも経ずには解消しないだろう。


3「脱テクスト論」の行方

 加藤典洋が「群像」誌上に三回シリーズにて昨年より連載してきた文学の原理論「テクストから遠く離れて」が、この九月号にて完結した。「テクスト論批評として約四○年ほど前に世に現れ、この国ではさしたる成果ももたないまま、ずいぶんと長い間先進的な文学理論として公認されてきた考え方が、そのようなものとしては、もうとうに破産しているのではないか、と言おうとして、ここまで書いてきた」と、その冒頭で加藤氏が述べているように、この論考はわが国の文学シーンにおける偽ポスト・モダン的な状況を、徹底的な理論面からの検証を通して完膚なきまでに否定しさる動機に裏打たれ、開始された。その中心のテーマをあえて一言でいうなら、それは文学作品における「作者」とは何者なのか、ということのあくなき追求の軌跡でもあった。

 第一回目(「テクストから遠く離れて」同誌二○○二年一○月号)ではロラン・バルト「作者の死」の概念の検討と大江健三郎『』への論及を通し改めて前者の無効が宣言され、そして第二回目(同二○○三年二月号)ではジャック・デリダの言語論から竹田青嗣のそれへの批判的検討を通して「虚構言語」という文学作品の新たな原理提示があり、そして第三回目の「『仮面の告白』と「作者殺し」』では、ミシェル・フーコーのテクスト論への批判とその反証として三島由紀夫の小説『仮面の告白』が俎上に乗せられる。

 特に今回加藤氏は、フーコーがサミュエル・ベケットの「誰が話そうとかまわないではないか」という言葉を取り上げた際の原文との微細な異同に着目し、そこから新たに「実定性」という概念を導き出すに至っている。つまり戸籍に登録されている現実存在としての作者を「実体としての作者」とするなら、それとは位相を異にする文学作品上の「作者の像」を指し示す言葉が、この「実定性としての作者」なのである。そしてフーコーの言葉を逆手にとり、加藤氏は次のような大胆な理論的転倒を試みている。

《 しかし、フーコーの言にもかかわらず、作者の機能とは、〈エクリチュールのあらゆる差異を解消し〉・〈テクスト内の諸矛盾の超克を可能ならしめ〉・〈作者の思考の矛盾を解消し、相い容れぬ諸要素を結合し〉・〈作品、草稿、書簡、断片といったさまざまなレベルのテクストを位階化し、統合し〉てしまうところにその主眼があるというより、その手前で、〈エクリチュールのあらゆる差異を差異ならしめ〉・〈テクスト内の諸矛盾を諸矛盾ならしめ〉・そこに〈作者の思考が矛盾として現れ、思考内の諸要素が相い容れぬものとして現れ〉・その名のもとに書かれた〈作品、草稿、書簡、断片といったさまざまなレベルのテクスト間に差異・矛盾・食い違いをもたらす〉ところの、そのような意味での、「統一性の原理」というより、「統一性の場」たるところに、その核心は、存在しているのである。》 (注4)

 このような論証から導かれる結論とは、矛盾するような言い方だが、「「作者の死」が生きてあること、それが作者にとって、そして作品=文学テクストにとって必須の条件となる」というものだった。つまり現実の発話主体たる「実体としての作者」は、文学作品を書く行為のなかで自らをいわば一旦殺して、その「作者の死」そのものを自ら書きつつある作品の中で生き続ける存在、すなわち「実定性としての作者」へと変成するのである。

 加藤氏はこれら一連の論考において、自己のこうした重要な論点を、個々具体的な小説作品のその特徴的な記述構造を逐一しめすことで、より一層強固なものに鍛えあげてきたと言っていい。だが反面において、私に終始つきまとって離れなかったもうひとつの思いは、それでは詩作品において、これら小説作品に言えたのと同じことが果たして言えるのだろうか、というもう一段階掘り下げた問いかけに他ならなかった。そして私には加藤氏が『吉本隆明全詩集』について述べた「無人国探訪記」(「群像」二○○三・十一月号)が、その私の問いかけに対するひとつの答のようにも読めたのである。

 加藤氏はそこで「わたしにはほとんど詩というものがわからなくなっている」と述懐しつつも、『吉本隆明全詩集』を読み込む作業をとおして自分に生じたある興味深い変化についてこう述べている。
 
《 それが今回の『吉本隆明全詩集』では、違う結果になった。読み進めるうちに、書き手が自分の知っている存在から知らない存在に変わった。わたしはこれを、未知の誰かのかつて書いたただの詩として読んだ。ただの詩は実に多くのことを新鮮に教えてくれる。吉本隆明という思想家、詩人を自分が知らないことがわかった。それの書かれた時代が、まったく自分の想像外の時代のように感じられた。そしたら、そこに読まれる詩が、意外にも、心に沁みた。》 (注5)

 ここで起こっているのは果たしていかなる事態なのか。これは加藤氏自身もあるいは気付いていないことかもしれないが、「書き手(=吉本隆明:引用者注)が自分の知っている存在から知らない存在に変わった」というような単相的な事態では多分ない。しかし加藤氏本人にとってまごうかたなくそう感じられたのだとしたら、そこで起こったのは実際に見知っている現実存在としての吉本隆明の記憶像とは別に、その詩作品群のなかに脈々と息づいている作者「吉本隆明」すなわち「作者の死」をそこで直接に生きているところの「実定性としての存在」たる「吉本隆明」の像に、加藤氏がその詩作品の言葉を通してはじめて出会ったという事態以外ではないだろう。現実の吉本氏を多く知れば知っているほど、このもうひとつの「吉本隆明」像との乖離は、大きなものになっているはずだからだ。

 私の考えでは、小説ほど構成的な仕組みをもたない詩作品において、あの「作者の死」が作品中にまさに生きてあるその直接的な形姿こそが、とりも直さず「抒情」というものの本質をなしているということだ。加藤氏は吉本氏の戦中から戦後にかけての詩作品を読み較べながら、「わたしにとって吉本さんの詩の面白さは、この戦前から戦後へと続く、現代詩になりきらない、いびつで硬質な抒情の姿勢にある」と述べ、この「抒情」の質において「吉本さんの戦前は、そのまま戦後へと切れることなく続いたのである」という重要な指摘を行っている。つまるところ加藤氏は、吉本隆明においては「戦前と戦後の詩がまったく変わらない」と言っているのだ。この発見内容は、いうまでもなく私たちがこれまで初期著作の『高村光太郎』や何よりインタビューなどを通した吉本氏本人の言葉などから受け取る作者像とは違っている。戦前(戦中)から戦後へ、私たちはある大きな断絶というものをイメージしてきた。吉本氏の場合にも、大方はそうした見方を当てはめてきた。それは今述べたように根拠のないことではなかったが、しかしその詩作品のほうは実はそうなっていないのだとしたら、これは一体どういうことなのか。

「吉本さんの詩が、先に見たように、その戦前と戦後を不器用な抒情の回路で不動のまま通過していることの意味は、大きい。もし、いまや死に瀕した観のある戦後の詩(現代詩)が再生するとしたら、それが戦前の詩とつながり、明治の詩とつながり、それ以前の詩歌とつながることによってだというのは、まず間違いのないところだ」という一文で、加藤氏はこの論考を結んでいる。加藤氏のこの主張が、単に現代詩が「死に瀕して」いるのだから現代詩以前の詩とつながりを持ちなおすべきだという内容なら、それはあまりに短絡的に過ぎる議論だろう。しかし、あまりに移ろいやすい影のみを追いかけた結果、逆に移ろわぬ言葉の深層を見失ってきたのもまた私たちの現代詩なのだという意味ならば、私も詩を書く人間のひとりとして、加藤氏のこの言葉を重く受け止ようと思う。そして私は、同時にそのことによって、自分がこれまでよりもさらに一回りも二回りも大きな問いの前に引きずり出されてしまったという感触を否定することができない。もし文学作品において「実体としての作者」と「実定性としての作者」があるなら、いや事実それはあるのだが、だとするなら連綿する幾多の文学作品群が織りなすその歴史についても、「実体」としての歴史(現実の歴史)と「実定性」としての歴史(文学の歴史)というふたつの時間系列が存在しなければならない。いま私がその前に引きずり出されたところの大きな問いというのは、この歴史の相のもとに二極化しかねない文学原理が、鋭くみずからの生存権を自問自答する一種分裂した声のことなのだ。


4文学時間と歴史時間

 ひとことで言うなら、この問題は言葉の権能を越えたところで、ほかならぬ言葉の在り方そのものを決定的に規定づけている何かへの問いかけを否応なく含んでいる。こうした問いによく答え得る根本の機能が一般には批評の持つそれだとして、しかしそれはすでにして文学が問いかける範疇をとうに越え出てしまっているのではないか、という疑問をも同時に私に突きつける。そして皮肉なことに、文学が歴史という相において危うく分裂しかねない事態に対し、もっとも果敢に応じようとした思考の試みは、文学の守備範囲のさらにその外側において進められることになったのである。
「戦後日本のナショナリズムと公共性」の副題をもつ小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(注6)は、社会思想史的な記述を通してこの問題にある重要な示唆を投げかけている。少なくともそう私には読めた。吉本隆明を取りあげた本書の第十四章「「公」の解体」で、小熊氏は、「吉本は著作で、戦中の自分を熱烈な皇国青年として描いており、これまでの吉本論はそれを前提に行われてきた。しかし本章の検証で明らかにするように、彼の実像はそれとは異なったものであり、その戦争体験が吉本の思想を大きく規定していた」と述べ、吉本隆明の思想への接近を、主に戦中から戦後をまたぐ時期に書かれた彼のさまざまなドキュメントの断片に添って描き出していく。その際に参照されるのは、むろん詩作品も含まれはするものの、それ以外の文章も多くその枠内に入ってくるのである。この本を読んだ印象で言うと、小熊氏はさきの加藤典洋とはまた違った意味で、吉本隆明という個性を戦中から戦後に至る「歴史」の断絶ではなく、むしろその連続の相のもとに描き出そうと試みていると言ってよい。その際、戦後期の吉本氏が手にした思想的態度の核心部分を、小熊氏は「外の世界を拒否するのではなく、外の世界に服従するのでもなく、自分の思想や言語表現のなかに世界をまるごと含みこんでしまうこと」(631頁)だったと総括し、そして、そのことは「詩人であった吉本が、世界のすべてを自分の詩のなかにとりこんでしまう希望」の表現だったとして、次のように書く。

《 一九六○年代になって、吉本が新左翼運動に影響力をもつようになると、吉本の政治思想には現実的基盤がないという批判もでた。しかし吉本の側は、一九六七年の鶴見俊輔との対談で、「思想というものは、極端にいえば原理的にあいまいな部分が残らないように世界を包括していれば、潜在的には世界の現実的基盤をちゃんと獲得しているのだ」と主張し、「それは自立しているということであって、その世界を包括しえていれば、いかなる事態であろうと、だれがどう言おうと動揺することはない」と述べている(一四巻四七三、四八○頁)。

 つまり吉本にとって、政治思想も一つの言語表現であり、表現として完成していることが「現実的基盤」だった。そうして世界のすべてを自分の言語表現にとりこみ、「捩れの構造」(内部と外部との齟齬感:引用者注)が解消されれば、戦中に彼を悩ました孤立感や動揺は消滅し、思想と行動のずれから生じる罪責感もなくなるはずであった。いわば吉本にとって「自立」とは、「お前は自分の好きな道をゆくんだな」という戦死者の声をふりきり、罪責感と動揺を超越して、世界のすべてを包含する「永遠の詩」を書く状態に到達することだったといってよい。》(注7)

ここにこのように描かれた吉本隆明の人物像とは、はたしてあの「実体としての作者」なのかあるいは「実定性としての作者」なのか、そのいずれとも一概には言い切れない超出した部分をも含んでいよう。このような記述の底に流れているのは、例えば吉本氏の詩作品を初期の段階から戦後期にいたるまで一貫して洗っていたあの“文学時間”の系ではすでにない。しいて言うなら、それは後世の方法的足場から新たに組み上げられた“歴史時間”とでも呼ぶしかないようなひとつの拡張された意識形態の記述であると考えられよう。だがこの“歴史時間”は、そもそも文学を孕むものなのか。文学よりもさらに上位にあって“文学の時間”をどこまでも相対化する機制を有するものなのか。そして、もしそうなのだとしたら、この“歴史時間”は文学にとってどのような意味を持つものなのか。

 最後に私はスガ秀実の『革命的な、あまりに革命的な』(注8)のなかに、これと同型の問題 の所在を探りつつ、課題個所の見極めということも含めて今後の展望へとつなげたいと思う。本書は「「1968年の革命」史論」の副題を持つ、やはり“思想の歴史”を主題にした著作ではあるが、その冒頭でスガ氏が「少なくとも日本においては、六八年革命はあまりにもおとしめられ過ぎている」と述べているように、これまであまりにも「挫折」や「自壊」のイメージでのみ語られてきた一九六八年から七二年に至る時代の歴史的本質というものを、トータルな史観の構築によって新たな視点からふたたび辿り直そうとする試みである。ひたすら哀惜されるばかりの「一九六八年」という象徴性に対するある種の苛立ちをこめて、スガ氏は先に触れた小熊氏の著作にも言及しながら次のように述べている。

「戦後」思想の意義を探って、その可能性の核心を鶴見俊輔と小田実に求めた、小熊英二の浩瀚な『〈民主〉と〈愛国〉−戦後日本のナショナリズムと公共性』にあっても、そこにおいて徹底的におとしめられているのが六八年とその思想にほかならない。確かに、六八年が単にロマン主義的反抗とその挫折としてのみ括りうるものであるなら、小熊の論も正鵠を射ていよう。

 しかし、六八年が今なお持続する世界革命であるとは、それが圧倒的な「勝利」以外の何ものでもないということなのだ。六八年への批判が必要だとすれば(実際に必要なのだが)、それは何よりも、その勝利を「挫折」と見なさせてしまう歴史的な光学に対してであり、その今日的な帰趨なのである。 (注9)

 私はここに、あの“歴史時間”の連続性というものをあくまで「一九六八年」を起点に据えて掘り起こそうとするスガ氏の初発の動機の強固さをありありと見て取るが、そうやって掬い上げられた「歴史」が、これまた夥しい「文学」の切片から構成されている姿に、少なからぬ異和と共感とを覚える。少なくともここでは“歴史時間”と“文学時間”とは水と油のように互いに相いれない分離した層とは捉えられておらず、ベクトルの方向としては小熊氏とは逆方向から、すなわち「文学」の内部領域から発して「歴史」というものの全体性に向かおうとする意欲が、ひときわ強く息づいている印象を私は持つ。そして、今の私たちのテーマにとってまさに重要だと思われる「第六章 詩的言語の革命と反革命」の中で、スガ氏はある重要な視座を提供している。

 一九六九年五月十三日に東大駒場でおこなわれた東大全共闘学生とのパネル・ディスカッションにおける三島(由紀夫:引用者注)の、「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」という高名な言葉は、期せずして、アルチュセール、廣松渉から宮川淳、入沢康夫、天沢退二郎までを包摂する、六八年的な疎外(=表現)革命論批判に対する、疎外論からのラディカルな再批判となっていると見なすべきなのである。先に注2で触れたように、大岡信が小田久郎に言ったごとく、三島も入沢康夫も、そして天沢退二郎も、「時代に流され」翻弄されたとは言えるであろう。しかし、時代に流されなければありえない思想や文学というものがあり、それはその「誤認」ゆえに真実を突いているのである。そもそも、六八年とは重層的な「誤認」の上に成立した革命であった。アルチュセールは、先に引用したところからも知られるように、そのことを思考しようとしていたし、三島由紀夫は「天皇」という「誤認」をあえて冒すことで「(反)革命」たらんとしたのではなかったか。 (注10)

 私は、スガ氏の論理がこの“誤認ゆえの真実”という一種の運命的な項目にまで言い及んでいる点、その視力の透徹した貫通力というものに、一縷の可能性の原理をみる思いがしている。なぜならこの「誤認」こそが「実体としての作者」と「実定性としての作者」のあいだの、ひいては作品に内在する“文学時間”とそれを外側から包み込むように作品と一体化してある“歴史時間”とのあいだの矛盾が、じつはある極限的な姿で現れでた異貌の経験相いがいではないように思うからだ。いうまでもなく、この種の「誤認」は三島由紀夫に限らずとも他の作家や詩人においても数多く認められる事態だし、同時にそれは文学の内側のみを照らす視線によっては絶対に発見できないもうひとつの現実の所在を言い当てるものでもある。唯一それを把捉しうる機能が、非常に広い意味での文芸批評なのだとしても、批評じたいがそれもまた文学であり、否、文学たりえぬ批評は批評の名に値しないという押し殺した声がいまも私のなかで響いている以上、この可誤性をめぐる問題は、これからも文学、思想、歴史等にまで相渉る広汎なフィールドにて原理的に検証されなければならないだろう。

 その意味では、現在、その思想判断の「誤認」において最も大きな可能性(!)を示していると私などには思われる吉本隆明の『超「戦争論」(上・下)』についても言及したかったが、すでに紙数も尽きている。また、一九七二年の「連合赤軍事件」などに材を取り、思想する主体とその可誤性の相克について豊富な資料検討を武器に、時代そのものの無意識を実証的にあぶり出そうとした坪内祐三『一九七二』(注11)も、この問題について多くの有効な指標を提供していることを、最後に付記しておく。


(注1)「すばる」2003年7月号掲載「座談会昭和文学史(最終回)」より(204頁)
(注2)舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮社・2003年1月刊)
(注3)同前「第一部 アルマゲドン6」(87〜88頁)
(注4)「群像」2003年9月号掲載「『仮面の告白』と「作者殺し」−テクストから遠く離れて3」より(129頁)
(注5)「群像」2003年11月号掲載「無人国探訪記−『吉本隆明全詩集』を読む」より(140頁)
(注6)小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社・2002年10月刊)
(注7)同前「第十四章「公」の解体」(632頁)
(注8)スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』(作品社・2003年5月刊)
(注9)同前「第一章 「歴史の必然」からの自由がもたらされた時」(8頁)
(注10)同前「第六章 詩的言語の革命と反革命 4三島由紀夫の「勝利」」(134〜135頁)
(注11)坪内祐三『一九七二「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文藝春秋・2003年4月刊)


[クリティック2002]展望
カイロスの揚翼(初出:「現代詩手帖」2002・12)

1.「9・11」以後

 いま、言葉に求められているものは、何か。この問いを巡って、私の思索も同時代のさまざまな領域にわたる言語表現の間を行きつ戻りつした一年であった。

 特に「9・11」以後を画するこの二○○二年は、まだ完全にあの崩れ落ちるニューヨーク・WTCビルの余塵のなかに巻き込まれてあったと言っていい。過去のどんなテロ事件と比べても、あの「9・11」はそれが与えた衝撃の大きさと無惨さの深度において、世界史に消しがたいトラウマを刻んだという強烈な印象が、私にはまだ消えないでいる。 当然ながら、その衝撃波はこの極東の島国にも瞬時にしておよび、メディアと言説空間においてはもとより、私たちの無意識の深い部分にも程度の差こそあれ視えない裂傷を刻印したに違いない。「9・11」を境に明らかに何かが変わったという感覚は、状況に敏感な者であれば誰もが抱いているにしても、それが自分にとっても動かしがたい現実感を伴っている証拠をひとつだけあげるとすれば、それは“9・11以後”という座標軸を内面化することなしでは、文学についてであれ思想についてであれ、言葉を打ち出すことになにほどの意味も感じられなくなってしまったということが挙げられる。

 あたかも私の意識のそうした変化に呼応するかのように、自分の周囲でそれまでなりを潜めていたり、その本来の意味を隠しつづけてきた言葉たちが、恐らくはそれを書きつけた作者の意図をも大きく越え出て、にわかに自らの輪郭というものを鮮明に主張しだし、あの「9・11」の衝撃以降ぱっくり口開いた不気味な心の空隙に、あるものは抗いがたく引き寄せられるようにして、またあるものはそこへ必死に架橋するかのようにして、粛然と自らを思想的に再布置していくという稀有な場面に私は立ち会うことになった。

「群像」2002年1月号における吉本隆明と加藤典洋の対談「存在倫理について」は、たしかに「9・11」以後における「倫理」のあり方について、ひかえめながらひとつの提言を行ったものだと言える。そこで吉本氏は、イスラム原理主義の側にある「迷妄」とアメリカ側が言うところの「永遠の自由」理念の双方から等しく距離を置くかたちで、次のように述べていた。

「結局、こういうのを設定する以外にないんじゃないかと僕が思えるのは、社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、民族的な倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、『存在倫理』という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。それを考慮しないと、この手前味噌な言い方とやり方は理解できないんじゃないかという感じ方になっちゃうのです。『存在倫理』という倫理の設定の仕方をすると、つまり、そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理を設定すると、両者に対する具体的な批判みたいなのができる気がします。そういう意味合いの倫理を設定しないとダメなんじゃないか。」

 この提言は、私にものの考え方に関するひとつの射程をもたらす。すなわち「倫理」の根底は「存在」することであり、それを極言するなら、反対に「存在」するものは皆等しくその「倫理」性を問われるだろう、というある種憂鬱な判断だ。私たちの「存在」はもとより、私たちの“言葉”においても当然それは言いうることであってみれば、たかが文学たかが詩だといってこの問題を回避することによっては、恐らく「9・11」以後の経験世界に拮抗できる〈質〉を、ほかならぬ文学や思想の言葉が獲得するのはさらに困難になるだろうという予見が私にはあるからだ。

 私はこれから、主に詩論とそれに隣接する諸分野でのさまざまな成果物に触れながら、そのとりあえずの見取り図を示しつつ、それらが内包する「9・11」以後の世界ヴィジョン、その萌芽のようなものについて言及していくことになるだろう。そして予想されるその困難な作業にあたり、少なくとも大きく的を外すことのないよう私がずっと照準を絞ってきた観点が、とりわけ言語表現における“カイロス”体験であったことは、最初に申し述べておきたいと思う。言いかえれば、文学の表現において「倫理」は、イロニーやイデオロギーの形式においてではなく、この“カイロス”体験においてのみ根底的に問われ得る、ということなのである。

 カイロス(機時)は元来が美学上の概念ではあるが、私はこれを文字表現における言語の美質が、そこに胚孕された〈時間〉として意識内に新たに顕現したものと考えてきた。それは批評行為によってしか明らかにできない、言語表現の文学的価値(必ずしもそれは所謂「文学作品」のそれに限らない)の所在をいうのに必須の概念と思われたが、「9・11」以後の殺伐たる世界において、その命脈はますます痩せ細りほとんど亡霊的な意味を漂わすのみになってしまった感がある。

 文学が本来もちうるはずの力が不当に狭められ、この視界から消え去ってしまわないうちに、私はそれでも静かに息をたたえている生きた表現成果を同時代の多様なテキスト群の中から拾えるだけ拾いあげ、少なくともそれが自らの力で依って立つ姿を、その原理にまで遡って素描したいと強く願うものだ。

2.『海辺のカフカ』が教えること

 『海辺のカフカ』(注1)は、じつに詩的な小説である。そう言い切るところから、ここでの考察をはじめたい。

 村上春樹の新作長編小説『海辺のカフカ』は、発刊当初からその評価がまったく二分されるという不可解な分裂を、はからずも宿命的に生きることになった作品である。しかし、漠とした期待値までもその勘定に含めた過大評価も、表層のモチーフだけを見た不当な過小評価も、この作品が良くも悪しくも到達した現在の登攀地点にまで、いまだその言葉を届かせていないという感覚が私にはある。と同時に、私はこの作品が、戦後日本の文学表現が至りついたある極相というものを、好むと好まざるとにかかわらずその構成形式において背負わされてしまっているのだとも感じる。

 じつは私はこの小説を読みすすみながら、何故か長編の詩作品を読んでいる時のような読了感を持った。それは何故だろう。おそらくその答えの核心は、この小説の表現原理そのものに関わっていると私には思われた。この作品が傑作かそうでないか、といった議論にはまったく関心が持てないが、その一方で分裂または解離しているのはその評価だけではなく、そもそもこの小説世界の設定と主要な登場人物の人格が自らの“非同一性”ということをその根本属性としている姿に、実は大変に興味をひかれたのである。

『海辺のカフカ』の構成形式は、たとえて言うなら「3Dプリント画像」の世界に喩えることができる。「3Dプリント画像」とは、ランダムな模様にしか見えないプリント画像に両目の焦点をずらして向き合っていると、その中に立体的で意味のある第二の画像が浮かんでくる印刷物のことである。だが、その画像をきちんと焦点をあわせて見ようとすると、それは瞬時にして消えてしまう。いわばピンボケの視線によってはじめて視認できるイメージがこの「3Dプリント画像」なのである。

『海辺のカフカ』の複雑に錯綜するエピソード群、引き起こされる不可解な現象群の最後まで不明なままの連関、作中人物の突然の人称変換、これらはどう見ても有機的な繋がりを保ってはいない。さらにその人格設定では、主人公の田村カフカは「カラスと呼ばれる少年」に時として分裂し、「佐伯さん」は少女時代の自分へと時空をこえて分身し、「ナカタさん」は人間の言葉(文字)を失って猫の言葉のほうへ解離し、「大島さん」は男性と女性の同一性から共に引き裂かれている。

 彼等の存在は決して何かを象徴しているのではない。こう言ってよければ、それらは寓意ならざる寓意を表象している。つまり彼等が演じる役割とそこに発生するすべてのドラマは、あの「3Dプリント画像」のようなメカニズムによって確かに何ごとかを寓意してはいるが、しかし寓意される対象は決して名づけらず言及することも不可能な未知の物語だという循環構造になっている。そしてそこへの入口として『海辺のカフカ』」という曲の歌詞(=詩)が、まるで物語の鍵をにぎる「入り口の石」のように置かれているのだ。
 その全行は次のようである。

『海辺のカフカ』

あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。

眠るとかげを月が照らし
空から小さな魚が降り
窓の外には心をかためた
兵士たちがいる。

(リフレイン)
海辺の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を想う。
心の輪が閉じるとき
どこにも行けないスフィンクスの
影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。

溺れた少女の指は
入り口の石を探し求める。
蒼い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。

 この詩行のなかには、物語全体を構成する成分要素のほとんどがじつに露わに埋め込まれている。しかし、かといって、そのことで事態がいくぶんかでも分明になったということではいささかもない。いわばこの詩は、『海辺のカフカ』という物語全体の未分化な種子であって、小説空間の次元をさらに一段階も二段階もひき上げる効果を担っている。読者はまさにこの詩行を通過することで、作品全体の時空間が“クラインの壺”のように予期せぬ別次元へと敷かれたレールの線上に仕掛けられてあることを発見するだろう。すなわち、この詩はこの小説全体のなかの単なる一要素なのではなく、この詩とこの小説とはこう言ってよければまさに“同位”なのである。

 ということは、この『海辺のカフカ』という物語は小説という形態をとってはいるが、実はそれは単なるアリバイであって、むしろ既存する小説的な形式すなわち散文的な意味性を、はじめから越え出る志向によって動機づけられていたのではないか、という読みに私を導かずにはいない。散文体で書かれていながら、長編の詩を読んでいるような印象を受けたのも、恐らくはこうしてその最も深い動機性にまで降りていってはじめて看取できる本質だったのである。

 このことは私に、作品が自らのテキストから発して、その“テキスト性”自体を踏み台に、どこか別の場所へとすでにジャンプしてしまった事態を予想させずにはいない。

 『海辺のカフカ』が私たちに教えることとは、詩や小説といった形式区分がそこにあろうがなかろうが、私たちがそれら手持ちの材料だけで文字の痕跡たるテキストをテキスト以上の何かへの指示性として、つまりは他に取り替えのきかない“カイロス体験”として、存分に定位しうるのだという強力いメッセージのように思えるのである。

3.日本語ブームの底流

 いま、言葉に求められているものは何か、を問い続ける一方で、しかし私たちは言葉の氾濫のなかにありながら、それでも言葉そのものが激しく求められるという異様な事態に立ち会っているのだろうか。前者が文学的な問いかけであるのは言うまでもないが、それを受けるなら、後者はむしろあからさまなナショナリズムからの要請にほかならない現象と言えるだろう。

 この二○○二年は、不可思議な日本語ブームが一挙にわき起こった年としても、私たちの記憶に止められるべき年である。

 齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(注2)が爆発的に部数を伸ばし、自ら火付け役となった感があるこの日本語ブームは、その音声中心主義的な彩りによって一層つよく特徴づけられる。それの中心的思想とするところは、一体どこにあったのか。

「いま、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している。かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた。つい数十年前まででも、暗誦している自分の好きな漢詩を大きな声で朗誦したり、芝居の名ゼリフをふだんの生活のなかで口にしたりということは、とりたてて珍しいことではなかった。
 しかし、現代の日本では、詩や名文を暗誦したり朗誦することが、当たり前ではなくなってきた。」
    (『声に出して読みたい日本語』「おわりに」から)

 少なくとも、『声に出して読みたい日本語』は、こうした現状を受けて「暗誦・朗誦文化の復活」を果敢に目指しているわけだが、著者の齋藤氏が例えば次のように書いているのを読むと、一抹の疑問が立ち昇ってくるのを私は禁じ得ない。同じところで齋藤氏はこう書いている。

「詩の授業を参観しても、その詩を声に出して朗読したり暗誦したりすることはあまりおこなわれず、詩の解釈に時間が割かれることが多い。詩は、朗誦したり暗誦したりすることにこそ魅力がある。意味を優先させるあまりに、小中学校の国語の教科書には簡単なものしか載せなくなってきている。日本語を体得するという観点からすると、子供の頃に名文と出会い、それを覚え、身体に染み込ませることは、その後の人生に莫大なプラスの効果を与える。意味を解釈したとしても、暗誦できていないとすれば、その詩や名文の威力は半減してしまう。」

 この本の性格からして、例えば詩の朗誦による作品の音的側面が過大にフォーカスされているにとはいえ、かなり過激な音声中心主義がここにはある。しかし、こうした考えに対し、詩をじっさいに書いたり論じたりしている私のような者の眼から見ると、いかにもそれは雑駁な議論に終始しているという印象を拭えない。

 たしかに『声に出して読みたい日本語』が採りあげた日本語による様々なテキストを読み上げてみると、一種の心地よさというかナチュラル・ハイな意識の酩酊効果にも似た状態に入り込むことができるのを否定はしない。だが、それを私たちが「心地よい」と感じるのは、文章のリズム感に加え、過去に読んだり聞いたりした時の記憶をランダムに拾ってくるからで、心地よさの内容は読む者のそうした記憶量の寡多によって差が生じるにしても、ただ単に音声器官を動かしての朗誦ならば、それはすでに近代以降に確立されたわが国の国語体系というあらかじめプログラムされたソフトのうえを、発声行為を通してただなぞっているだけの結果にならないだろうか。詩やその他の文章を、意味や解釈の軛から解き放ってその音声的側面だけを取りだしてこようとすれば、古典も近代詩もおなじ平面上で取り扱えることになり、それは文学やその歴史とはまったく別の段階のことを言っているのだと私には思える。

 柄谷行人は『日本精神分析』(注3)のなかで、「音声中心主義というものが、近代であれ、古代であれ、国家の自立ということと深く結びついている」(第一章「言語と国家」)と述べている。こうした発言を待つまでもなく、私は突如としてはじまったこの日本語ブームの底流には、90年の湾岸戦争以後に顕著になった国家的アイデンティティ回復の機運と、さらに言えばあの「9・11」以後にいっきに覚醒したわが国のナショナリティの空白感、それを埋めようとする無意識の欲求といったものが潜在していると考えている。しかしこの問題の起源は、じつは百年前の「言文一致運動」にまで遡るということを、柄谷氏はこの著書の冒頭部分でじつに的確に指摘している。

 柄谷氏は民族国家(ネーション=ステート)誕生の母体をなした「世界帝国」の特質に触れ、諸部族の宗教を越えた「世界宗教」と、同じく諸部族の言語を越えた「普遍言語」の存在に言及していた。この普遍言語とは、例えばラテン語のように巷間でじっさいに膾炙される言葉とは隔絶した“書き言葉”として帝国内に伝播していくが、その「世界帝国」が解体したあとに生まれる民族国家においては、こうした“話し言葉”と“書き言葉”との分裂はかならず統合される経路をたどり、その結果として「言文一致運動」が必然化されるという図式がここでは示されている。

「一般的にいって、ネーションは、旧来隔絶していた書き言葉と話し言葉を、新たな書き言葉(言文一致)によって綜合していく過程なしには成立しません。ナショナルな言語は、それが書き言葉(ラテン語や漢字など)からの翻訳によるということが忘れられ、直接的な感情や内面に発すると思われた時点で完成します。」

 私は、現在の標準的な日本語についても、この範式は完全に当てはまると思っている。だとするなら、現在の日本語ブームとその音声中心主義的側面とは、一旦は完成されてある私たちの日本語という表象の作為的な再分節化を意味せずにはいないだろう。それが国語教育改革の美名のもとに推進されようとしている姿は、坪井秀人の「声が権力によって利用されるとき、個人は往々にして日本国や日本人といった共同体に服属することを求められてきた」(朝日新聞/02・7・21)といった警鐘をよりいっそう根拠づけているように思われる。

 ついでに付言すれば、私は詩人たちによる自作詩編の朗読や、イベント企画としての「詩のボクシング」といった試みなどと、この日本語ブームにおける音声中心主義とはまったく別物だと考えている。前者には少なくとも話芸や演劇にも通じる芸術表現の介在する余地がじゅうぶん残されているのに対し、後者にはそれがまったくない。あるのはすでに規範と化したテキスト群と、パターン化された読みあげの技術だけである。

 ここでの私の関心にひき寄せて言うなら、詩の単なる朗誦は、それがどれだけ積みあげられたところで、それ自体“カイロス”には絶対になりえない。いわゆる名文・美文の類をその音声的側面からのみ切り取って、あたかもそれが何事かであるように振舞うのは、文学の本質を完全にはずしたところで行われるまがいものの“カイロス”再生産である他ないのである。

4.言語的思考と脱テキスト論

 いま、言葉に求められているものを、私は真正な“カイロス”に向かって羽ばたくもののイメージで予兆的に捉えようと試みてきた。私たちは言葉に向き合いつづけることで、一体そこに何を見出そうとしているのか。たぶん、その答えは一定ではない。しかし「9・11」以後の最初の一年であるこの二○○二年を画期する事績として、言語と文学の原理にかかわるすぐれた考察が、ようやく独自の姿をここで現わしはじめたその力強い兆候を、同時に察知していることだけは示しておきたい。

 竹田青嗣『言語的思考へ』(注4)は、今後恐らくこの国の文芸思潮の流れの方向を、いわば大きく方向換えさせうるほどのインパクトを孕み持つ著作だと言っていい。「脱構築と現象学」という副題が暗示している通り、これはジャック・デリダやロラン・バルト、ヴィトゲンシュタインらに代表されるポスト・モダン的言語=表現理論を、自らの現象学的方法によって批判・解体し、勇躍その向こう側へ乗り越えようとする野心的試みである。その意味で、これは竹田氏の宣戦布告の書でもあり、また彼のこれまでの思索活動の集約地点だと言っても間違いではない。

 その内容は、哲学から文学にわたる広汎な概念領域を、自らの徹底した批判思考で貫き通した粘質の体系的記述に満ちており、とても限られた紙面で概括できるような代物ではない。それを充分承知のうえで、敢えてここでのテーマに関わってくる個所を抜粋する。竹田氏の発想の原基をなす考え方は、およそ次のような部分に最も明瞭に読み取れる。

「デリダやヴィトゲンシュタインを含め、現代の言語理論家たちが見出す『言語』の多義性の不可避性は、本質的に信憑構造として存在する『言語』を、その生きた関係構造から切り離して単なる言語痕跡として扱うことに由来する。彼らがこのとき扱い分析しているのは、正当な意味での『言語』ではなく、言語の痕跡にすぎぬもの、あるいはその一般的表象でしかないもの、つまり『一般言語表象』にすぎないのである。」

 言われている内容を要約すれば、「発話主体」を抜き取られた言語を竹田氏は「一般言語表象」だとして、日常言語たる「現実言語」と明確に区別しているということだ。彼が標榜する現象学的意味論では、例えばソシュールが定式化した〈能記 /所記〉という二項連関は退けられ、代わって〈意/表現〉 という新たな連関が登場する。この考えは、つづめて言うなら、言葉はたとえそれが書かれたテキストであっても、それは発話者の何らかの〈意〉をかならずそこに反映しているという読みに繋がっていくだろう。つまり「作者の死」を言うポスト・モダン的言語理論に対して、実は「作者」は死んではいないのだという反証を、それは投げ返すことになるのである。

 この根本原理が文学作品、特に詩に関してはいかなる表記となって現われているか。

「たとえば『詩』といった文学形式において、この事態は象徴的に露呈される。言語が一般的意味のみを表現するシステムであるなら、そもそも『詩』という表現は不可能なものとなるだろう。『詩』の表現は、むしろしばしばその一般的意味を壊すような仕方で一般規則を利用する。それはまた、言語の『一般的意味』と『一般規則』を攪乱するような仕方で、ある固有のもの(一般的意味として表現できないもの)を表現しようとするのだが、しかし『攪乱』することや『差異化』すること(ズレを作り出すこと)自体が表現の方法だというのではない。一般規則を攪乱し差異化することは、その試みのひとつというにすぎない。それはまさしく一般的規定から逃れ出ようとするある『企投』なのだが、にもかかわらず一般規則を拒否し無化するのではない。詩の表現の企投は、むしろ言語が一般規則としての体系であることを起点として(あるいは前提として)はじめて可能になっている。言語が誰にとってもまさしく一般規則をもったものとして現われているために、『詩』は言葉が作り出す一般的意味性を揺るがしたり、攪乱したり、歪みを入れたりすることができ、このことが『詩』においてある固有なものの表現の本質的方法となりうるのである。そしてこの場合でも、言語が関係企投であり、その了解関係が信憑構造によって根拠づけられているという本質はまったく変わらないのである。」

 無論ここには刮目すべき多くのことが語られてはいるが、ついに詩そのものが語られている訳ではなく、単に詩の「一般表象」が語られているだけだと言えば、そうなのかもしれない。だが、これは詩をめぐる表現理論としては初めて言われたことであって、詩が詩であることの了解構造を解明するうえでも、大きな指標をこれからも提供することになるだろう。それは同時に言葉の“カイロス”へと向かう脱テキスト論の萌芽をも、明確に告げ知らせてもいるのである。

(注1)『海辺のカフカ』(新潮社)2002・9
(注2)『声に出して読みたい日本語』(草思社)2001・9
(注3)『日本精神分析』(文藝春秋)2002・7
(注4)『言語的思考へ』(径書房)2001・12



[クリティック2002]

〈音示〉としての詩(初出:「現代詩手帖」2002・11)


「日本語」がいまブームだという。火を点けたのは齋藤孝『声に出して読みたい日本語』という本らしい。そのタイトルにもあるように、これまでに書かれた様々な日本語テキストを歴史横断的に取りあげ、それらをしっかりと声に出して読みあげることに眼目があるようだ。この本は著者の言によれば、「暗誦もしくは朗誦すること」をねらったもので、その基本は「リズム・テンポ・響きを楽しむ」ということにあるとされる。そこには古典から近代詩さらにはお経の文句まで、日本語のよく知られた文章がランダムかつ断片的に網羅されている。むろんこれは文学の本でもなければ日本語を論じたものでもない。ただこの本は私に、文学テキストを“声”つまり日本語による発音という切り口から眺めるきっかけを作ってくれた。とりわけそれは言葉のリズムと音韻にかかわる問題系を、よりいっそう鮮明にしてくれたと思う。

 例えば『感じる日本語』(注1)のなかで川崎洋は、「定型というカラオケに乗るのではなく、自身のリズムによる生演奏で詩の言葉を鳴らしたいと思う」(「韻文のリズムをめぐって」)と述べている。その理由について彼はこう書いている。

「わたしにはわたし自身の詩のリズムがあって、本能的にといえばいいだろうか、そのリズムを基幹としてこそ、わたしの詩が書けると信じている。たとえば七五調によって、言葉がわたしの思いから浮揚してしまうのを恐れると言っていいかもしれない。といって詩における音楽性を考えないということではない。」

 川崎氏の本のタイトルにある「感じる」ということが、ここでは「本能」や「音楽性」と表現されているのが分かるだろう。そしてこれらのことが詩作品における言葉の美的要素として考えられているのは疑いない。だが「本能」や「音楽性」への言及は、この国の詩の歴史で何度か繰り返されてきたにもかかわらず、なかなか正当な地位を確保できないできたのもまた事実だろう。それは何故なのか。

 大野晋は『日本語の教室』(注2)で「ヨーロッパの詩には脚韻があって、美しいなあと感じるのですが、日本語の詩に脚韻がないのは何故ですか」という質問に応じるかたちで、こう回答している。
「日本語の文章に使う単語の六割、場合によってはそれ以上が名詞で、動詞の数はずっと少ない。そして動詞だと終わり方が決まっていて、『歩く、倒す、来る、噛む』のように必ず母音Uの音で終わります。(中略)つまり日本語では文末に変化がつけにくく、単調になる。それを避けるためには、規則に外れた表現、たとえば倒置法などを使わなければならない。しかし、倒置ばかり使うわけにもいきません。」

 だがこの答は私を納得させない。問題の本質は、日本語の詩に脚韻がないことではないからだ。大野氏のこの文章はマチネ・ポエティクの批判のために書かれており、その限りでは理解できるが、膠着語たる日本語の特性に立った音韻表現の可能性は、こうした議論とはおのずから別の地平に潜在するのではないだろうか。

 言語表現の美について、人間が言葉を発するようになった始原の位相にまで立ち帰って考察したのは、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』が最初ではないかと思う。言葉を発する行為とは、まずは声による意識の自己表現であるわけだが、それが言語として社会的に流通するようになるまでの遥かな距離を、吉本氏が言語の「自己表出」と「指示表出」の概念で説明したことはよく知られている。そして韻律については、そこに「指示表出以前の指示表出」が孕まれているとして、その根源には「非言語時代の感覚的母斑」が隠れているとした。

 これは本当に考え抜かれたすえの卓抜な表現だと思う。そして音韻が、言葉の意味とは無関係のところで本当に何かを語りうる機能であるなら、詩の韻律やリズムは非言語的な領域へと開放されるべきではなく、むしろそれは言語の内側へと回収されるべき性質のものだというのが、私の考えである。
 こうした言葉の性質のことを、私は仮に、音が指し示す意味領域ということで〈音示〉と呼んでみるが、意外にも昨今の日本語ブームの点火役をはたした『声に出して読みたい日本語』(注3)の構成は、私にはこの〈音示〉されるものの表出力だけを狙ったもののように読めたのである。

 万葉集、伊勢物語、平家物語等の古典、芭蕉や蕪村といった近世の俳諧があるやと思えば、芥川や漱石、鴎外といった近代の骨太な散文から藤村、白秋、朔太郎、賢治、光太郎、中也、啄木などのよく知られた詩歌の断片が、時代区分も順序もジャンル分けもバラバラに、まるで思いつきのようにふりがな付きで並んでいるだけの本である。無論、文語や口語の別も問題にされてはおらず、両者入り乱れての配置だ。だが、私はこれを読んで何故か面白いと感じた。それは恐らくその中身が著者の意図に反して、私たちの記憶、正確には読書の記憶といったものの輪郭を忠実になぞっていると思えたからだろう。

 実際、私たちは自分が過去に読んだり聞かされたりした日本語作品を、まるでこの本の目次のように渾然一体のゴッタ煮状態のまま記憶してはいないだろうか。そしてその多くは、意味連関や画像イメージとしてではなく、何となく覚えやすい音感や語感として記憶されているはずなのである。仮に〈音示〉表出されるものが言葉に内在されているとすれば、おそらくいま述べたような記憶内容が、まさしくそれに相当するに違いない。確かにそれは、これまでうすうす気づかれてはいたものの、明確にその実在を論証されないできたもうひとつの文学的価値として、はじめて発掘されるべきものだろう。

(注1)川崎洋『感じる日本語』思潮社(2002年10月1日)
(注2)大野晋『日本語の教室』岩波新書(2002年9月2日)
(注3)齋藤孝『声に出して読みたい日本語』草思社(2001年9月18日)
(注4)大岡信『大岡信の日本語相談』朝日新聞社(2002年9月1日)



裏切ってゆく言葉の怪
(初出:「現代詩手帖」2002・10)
藤井貞和『自由詩学』、正津勉『詩人の愛』


いうまでもないことだが、言葉は人を裏切る。それは、文学の言葉においても事情はさして変わらない。言葉が時折みせる怪物的なあの表情。ひょっとして、言語表現の精髄たる詩においては言葉が読む者を裏切るはずがない、などと思い込んでいる向きがあるとしたら、この藤井貞和の『自由詩学』(注1)を読んでみれば、そうした考えがなんと泰平な幻想であるかがはっきりと了解されるだろう。

藤井氏がこの本で試みようとした未聞のプロジェクトを、一言で述べるのは難しい。「現代詩は口語(不)自由詩というべき不自由によってこそ自由詩になろうとしてきた存在ではないかといま思いあたった。(中略)だから不自由詩を考えることによって」口語自由詩に向きあいたい、と藤井氏はそういって憚らない。そしてここから文語の定義とはなにか、詩に定型は必要か、詩語や七五調の命脈は、あるいは伝統を否定すべきか、モダニズムの問題はどうか、などといったテーマが芋蔓のように引きずり出されることになる。が、それはいまあげたような問題が、現代詩において必ずしも卒業されていないではないか、という藤井氏の暗黙の視力に裏打たれてのことであるのは言うまでもない。例えば「伝統」ということをめぐって藤井氏はこう述べる。

「どうして“伝統の否定”をしなければならないか。/まつわりつくから。 あらかじめあり、まつわりついてありつづける伝統を現代が否定しなかったら、現代詩は生きられない。 伝承は創造する、しかし伝統はそれを近代の賞味期限の切れる冷暗な氷庫のなかへ凍結する。」

だがそう言いつつも藤井氏は、こうした「伝統の否定」の後に本当に何かが残るのだろうか、という最終の疑問をも決して手放してはいない。はたしてこの疑問は、「口語(不)自由《詩学》」の恐るべき実験へと連なっていく。それはひらがな四十五音(正確には「ゐ」と「ゑ」さらに「ん」を加えた四十八音)を一回ずつ使用してつくる“いろはうた”を、六つ作って六連の詩を作るとほうもない作業を藤井氏に強いることになる。この言葉えらびの極限的不自由さのなかで、一体なにものが詩作されたのか。その最後の一連はこうだ。

「沸く谷地、ぬめり漲って、根へ垂れ、言語よおまえは、
ほろぶ「ゑ」「ゐ」という文字にすら、無喩の遊びを咲かせる」

立派にこれは“いろはうた”になっている。しかし藤井氏も言うように、これは詩ではない。詩を考えるきっかけに過ぎないのだと。

言葉は本当のところとんでもない怪物なのではないか、とつくづく思うことがある。藤井氏のこうした極度に真剣きわまる実験を見せつけられると、近代以降の口語自由詩の歴史において、詩をもっとも裏切ってきたのは他ならぬ言葉そのものではなかったか、という激しい目眩に囚われずにはいられない。というのも、新しく創造されたと見えた言葉は、実は見たこともない怪物へとみずから変身することによって古い言葉を食い荒らし、そうした言葉どおしの共食いの循環が、詩の変遷を跡づけてきただけなのではないかという、空恐ろしい感慨が私を襲うからだ。

新体詩から口語自由詩、そして現代詩へといたる有為転変の流れを概観しただけでも、そのことははっきりと判る。詩がみずからのスタイルを大きく変える時とは、それは言葉そのものがそこで怪物化している当の局面なのだと言って間違いないだろう。だが何故に怪物化までしなければ、この国の詩はそのスタイルひとつ更新させることができないのか。

この本において藤井氏は、必ずしも明確な解答を提示しているわけではない。ここで詩学の欠如、伝統の不在を言うことはむしろたやすいが、だが実はそこにさらに根深い藤井氏のニヒリズムの匂い、といって悪ければわが国の近代詩史を貫通する底知れない空虚の実態といったものを私は嗅ぎつけてしまう。

ならば事態を逆の側から見るということはできないだろうか。つまり言葉の自律的な変転の相を追うのではなく、外部光のような強烈なエネルギーが、そのまま詩の言葉のなかに吹きすさぶさまを発掘していくという道のことだ。
正津勉『詩人の愛』(注2)は、「百年の恋のありようを、五○人の詩をもってたどる」試みである。詩の百年の歴史は、新しい恋愛の時代を拓くことの軌跡だったと正津氏は言う。何ともシンプルなこの語り口が、やけに新鮮に響く。

「透谷、藤村をもって詩と恋の前線は切開かれた。それから百年、この国にあっては「恋する者」=詩人の運命は決して祝福されるものではなかった。いやそれどころか茨の道でこそあったのだ。彼らは直面した。因習的な道徳やら、家族の体面、世間の常識、強圧的な国家らと。彼らはというとその愛の成就のために不断に闘わなければならなかった。」

この本では、北村透谷の「双蝶のわかれ」から辻征夫の「婚約」まで五〇人の詩人による五〇篇の“恋愛詩”が取り上げられ、その時々の詩人の「真実」つまり「その「詩」が書かれるにいたった」さまざまな現実的ないきさつが語られる。それにしても、愛の詩を語る正津氏のこのかたりは、なぜにこうも瑞々しく響くのか。例えば、高村光太郎「レモン哀歌」の章はこのように始まっている。

「『智恵子抄』は類い希な愛の詩集だ。百年の詩史を画期する一冊だ。/明治十六年、東京下谷に木彫師高村光雲の長男に生まれる。東京美術学校彫刻科卒業。三十九〜四十二年、米国、欧州に留学。帰国後、父に代表される旧体制に反旗を翻し、パンの会に参加、芸術上の煩悶からデカダンな生活を送る。そんな日々にひとつの出会いがある。四十四年、荒れる光太郎の前に一人の女性が現れた。」

これはドラマを呼び込む文体だ。過去の詩人たちの詩が古典や伝統としてでなく、常に新たな生命をもって今に生き続けるには、それ自体がもうひとつのドラマを形成する時だろう。ここに収められているのは確かにこれまで読み慣れたはずの数々の詩作品なのだが、それらは正津氏のこの巧みな文章によって、まったく異なる光芒に包まれるようにして私の前に立ち現れてくるから不思議だ。詩が言葉であり、詩を本質的に語るためには日本語という言葉について理論をもってするべきだ、という考えはここには微塵もない。颯爽とした風が吹きぬけてゆくようなこの感じは、一体どこから来るのだろうか。

正津氏は、はじめに詩篇を引き、その後にこれら個々の詩人のかずかずのドラマに言及するのだが、各文章の最後に必ず取り上げた詩人の没年と享年を記している。私はこの記述の意味がとりわけて私の中で大きな位置を占めていることに、全体を読みすすみながら気付いた。つまり、これら多くの“恋愛詩”は他ならぬ死者たちの言葉であることに揺さぶられたのである。私たちが、それらを死者の言葉だとはっきり視認できたとき、それらの詩が逆にこれほど輝くのは何故なのか。それは歴史が死者たちのものであり、歴史においてこそ、死者たちは生命に満ち溢れるからではないのか。このことは、次回においてさらに考えてみたい。

(注1) 思潮社・九月刊 2400円
(注2) 河出書房新社・七月刊 1500円




詩と小説と幽霊問答
対談「文学の根拠」(高橋源一郎×三浦雅士)、『一億三千万人のための小説教室』(高橋源一郎)、座談会「昭和の詩」(大岡信×谷川俊太郎×井上ひさし×小森陽一)

「群像」(二○○二年八月号)における高橋源一郎と三浦雅士の対談「文学の根拠」は、近来でも稀にみる迫真的な内容をもつものだった。その対談で、三浦雅士は「言葉によって生かされているということは、冥界に生きているということですね」といった、本当はかなり恐ろしいことをじつにさらりと吐露している。そしてこれを受けた高橋源一郎も、三浦氏の『青春の終焉』を入口にして、「六○年代」論からさらに詩誌「荒地」「凶区」へと言及しつつ、それらの詩人たちに共通する“死者の代弁者”的役割を見出したうえで、そこに近代文学発生以来の「死者に対する倫理」といったものが底流していた背景を回想している。私には、タイトルとなった「文学の根拠」というテーマ設定とともに、この対談は詩や小説を考えるうえにおいても、きわめて現在的な避けて通ることのできない重要ポジションを間違いなく占めるだろうと思われた。

 文学というものは、実は幽霊の所業なのではないかと、時折おもうことがある。つまり文学というフィールドは死者の影だけが生きて動いているような反転の世界でありながら、私たちの生の時間をしっかりと下支えもしているような、そういう見えない本質世界だという意味で、じつに幽霊的だと思うのである。私たちの身体で言えば、意識的に鍛えあげることはできるがすぐにへばってしまう随意筋ではなく、まったく意識されることなく不断に休みなく活動しながら、生命維持の中枢機能を担っている不随意筋の働きに、それをなぞらえることもできよう。

 いずれにせよ言葉として自存しているのは明白な事柄なのに、意識的に捕らえようとするとかすんで見えなくなっていく「文学」という対象世界。これを形容するのに幽霊的という言葉がもっとも相応しいのではないかと、常々私はそう思ってきた。だから「高橋源一郎にあってはこの世は幽霊の世界なんだということです」といった三浦氏の言葉に出会った時は、思わず「そうだ!」と度胆を抜かれたのであった。

 冒頭ちかくで三浦氏は高橋源一郎に、「なぜ書いているのか」と彼の文学することの根拠を問いただしつつ、こんなことを言っている。
「高橋源一郎の読者は(村上龍や村上春樹に比べて:引用者注)それほど多くはないかもしれない。もしもそうだとすれば、それはこの世界が幽霊的な仕組みを持っているということをはっきり前面に打ち出しているからじゃないかなと思う。それでどうしても高橋源一郎はなぜ書くのかって聞きたいと思ったわけ…」

 そして彼の小説『昭和文学盛衰史』に触れつつ、それが「死者とかかわる試み」だとしたうえで、「言葉に関して、それから言葉を使う人間に関して、現在性ということをいうならば、それはほんとうは、死者にかかわった形でしかありえないということ、幽界、冥界にかかわった形でしかありえないということを(その作品が)立証」しているとして特段の評価を下している。

 ところで私は、こうした対話のなかで、「死者の代弁者」の問題が二人の間で奇しくも「荒地」「列島」からはじまり六○年代詩を経て七○年代へと至るわが国の戦後現代詩の流れにおいてもっともよく共有されている姿に、軽い驚きを禁じえなかった。特に高橋氏の文学のバックヤードに、これほど深く「戦後詩」の経験世界が色濃い影を落としていたことに、まったく認識を新たにさせられたのである。同じところで高橋氏は次のように述べている。

「僕はずっと、まだ書きはじめる前から、あるいは自分が書き始めてからも、他人が書いたものを読んでは、この人たちの根拠は何だろう、何が根にあって、そんなに自信たっぷりに書けるのだろうと思っていました。そして、たとえば、『死者の代弁者』というものを想定すると、それが可能になるのではないかと思ったのです。僕に死者を代弁することができるだろうか。簡単にいうと、それはない。だが、それが僕の六○年代とのかかわり方でもあるのです。なぜなら既に僕の中に『死者の代弁者』という言葉ができているからです。根拠というものは、それを言葉にした時には、もう根拠にはならないのです。」

 ここにはある意味で高橋源一郎の「現在」というものが集約されているのではないだろうか。つまりそれとは、書くことの「根拠」が消滅したところで、なおも「書く」という行為が続けられることの意味として問われてもくる課題だと言い換えられよう。

 高橋氏は、それは「分裂」だと言っている。このことに関して次のような注目すべき発言を、彼は行なっている。

「確かに、僕は小説の中で、政治や死者について触れているのですが、だからといって、直接そのことを書きたいわけでもないし、また批評家に猫じゃらしをやっているわけでもありません。なんというか、直接、小説に書かれていることとは、全然別のことを書きたいとも思っていて、だが、残念なことに、それは直接書くことができないのです。/そのことについて書いたり、しゃべったりする時、僕は、自分が分裂していると感じます。」

 つまり自分の行動と書いたものの内容とが一貫しない、むしろ大きく矛盾してしまう事態を指して「分裂」と彼は呼び、それこそ自分が六○年代から引きずってきた「モラル」かもしれないとここで表明しているのである。それは九一年の湾岸戦争時のアピールや昨年九月十一日の同時多発テロの時にも彼が感じたことで、実際にそうした現実の事件について自分が行動したり発言したりすると、それらの行動的言辞と自分の「書いている小説」(つまりは文学)がどうしようもなく矛盾してしまうという現実、さらにそれを無意識に修正しようという働きが再び「書く」ことにつながっていくという循環が語られているのである。

 このように見てくると、文学が幽霊の所業であるとは、こうした見えにくい意思の動作をも包括して、一見するとものを書くに足る何の根拠もないところで、それでも人に書くことを促し、必ずしも意図しなかった何事かを書いてしまう人間存在の偶有的なあり方それじたいを指しているのだとも思えてくる。

『一億三千万人のための小説教室』(注)において、このテーマは高橋氏自身によって、さらに劇的な展望を与えられるに至る。

 この本は文字通り小説を書きたいと思う初心者向けの入門書の体裁をとってはいるが、凡百の他の入門書のように小説の“書き方”つまり〈方法〉については全くといってよいほど言及していない。むしろこういってよければ、それは小説ひいては文学というものの極めて現在的な〈原理〉について、ひたすら語ろうとしているのである。そして瞠目すべきことに、この『小説教室』はそのまま「詩」と「小説」という文学形式に関する本質的な考察にまで、私たち読者を誘わずにはいない。「少し長いまえがき」で、彼はミラン・クンデラの「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ」という発言を引きながら、こう書いている。

「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。/小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。」

 人間の限界の向こうとは、果たしてそこが依然人間の領域なのか分からない、むしろ幽霊の住む領域のことではないかという想像に、私などはすぐさま導かれてしまうのだが、ここで言われている「人間の限界」とは、先の対談で高橋氏が触れた、「死者の代弁者」をみずから任じ、それを書くことの根拠となしてきた戦後文学そのものの“限界”をも名指しているのは明らかだ。そう考えると、この『小説教室』は、戦後文学というものの乗り越えというテーマをも、その隠れた動機として持っていることになる。

 本書の文体は小学生に語りかける設定で編まれているため、表記はごくやさしい語彙をしか使用していないし、「基礎篇」「実践篇」をとおして合計8編のレッスンを順番にこなしていくことで、「小説とはなにか」というやっかいな問いに読者みずからが答を見出していけるような構成になっている。しかし、そこで展開される内容は、決してひと筋縄ではいかない骨太なモチーフを秘めていることは強調したい。例えば「レッスン2 小説の一行目に向かって」では、「あなたが、いちばん最初に、やらなければならないのは、なにも書かないことです。(傍点引用者)」といった禅問答のようなフレーズも現れるが、この本の至る所にちりばめられたこうした逆説的言辞は、やはりすべてあの“限界”の乗り越えという当初のモチーフにまで還元されていくのである。

 例えば高橋氏は、エーリヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』を引いて、ここには小説を書きはじめる人が最初に何をやらなくてはならないかが、完璧に述べてあるという。もともと『原始林のペータージーリエ』という小説を書こうとしていたケストナーが、途中でクジラの足が何本あるかが気になって仕方がなくなり、部屋を歩き回ったあげく床に寝ころんで見たテーブルの足からの連想で、『エーミールと探偵たち』の創作の機会を得たという逸話だが、彼は前者を「だれにでも書ける、だれかがあなたの代わりに書いてくれる小説」、そして後者を「あなたが書かねばならない、あなたにしか書けない小説」だとして、自分は後者すなわち『エーミールと探偵たち』を書いて欲しいのだと、読者に訴えるのである。そしてこの『小説教室』に一貫している思想は、まさにこのことに尽きるといっても過言ではない。

 高橋氏は、「小説は書くものじゃない、つかまえるものだ」(レッスン4)と繰り返し述べているが、それは小説は技法ではなく、向こうからやってきて自分を包み込む非実体的な何か、すなわち幽霊のような何かだと言っているように私には聞こえるのである。そしてレッスンも終盤に入った段階で、私たちは再び現代詩について言及する高橋源一郎に出会うことになる。「現代詩文庫」一期・二期全巻のなかには小説や批評にはない「完璧な文章」があるとまで書き(レッスン6)、さらにレッスン7では「詩」と「小説」の違いといったところにまでその考察を押し進めているのだ。

「わたしは、詩、という確固たるものがあって、それに向かっているから、詩なんだ、という説明がいちばん正確なのではないか、と思っています。(中略)しかし、小説はちがいます。小説には、形がない。確固としたものがない。それに向かう中心、それが小説であるという、明確ななにかはないのだ、とわたしは思うのです。」

 高橋氏の小説論は、つまるところ「なにを、どう書いても、小説であることが許される」という地点まで登りつめていくのだが、これはあの幽霊的な本質を有する文学というものの最高の自由さの符牒でもあると考えるのは、果たして行き過ぎだろうか。だが書くことの根拠が失われたところではじめて見出される文学の無根拠なモラルの所在、あるいは高橋源一郎の作家としての極限的なモラルの所在を、この本がかろうじて告げ知らせていることだけは疑いないだろう。

 だが、ひたすら自由なのは小説だけで、詩ことに日本の近・現代詩にそうした自由さが禁じられていたということでは決してないだろう。「すばる」(二○○二年・七月号)の座談会「昭和の詩−日本語のリズム−」は、私たちに日本の詩文学のもうひとつの圧倒的な歴史の姿を望見させてくれた点で、これまた読みごたえのある内容となっていた。特に井上ひさしと小森陽一が、大岡信と谷川俊太郎にそれぞれ詩を書くようになった原点的経験(井上氏はそれをカトリック用語を使って「召命」と呼んだ)を聞き出すくだりは、じつに興味深い示唆に富んでいた。

 大岡氏も谷川氏も、その最初の詩的出発を一九五○年代に果たした詩人であり、かつて吉本隆明から「第三期の詩人」と評されたグループに属している。そして先の高橋源一郎にみられたような六○年代的テーマとはまた別のまったく異なる出自を生きた点で、わが国の戦後詩文学のフィールドに、複層する表現の自由さとその可能性とを切り開いた重要な先人でもある。なかで大岡氏は「八月十五日以前には、全く詩のことなんか考えていなかった。工場動員で勉強もできない状況だったからね。」と述べ、自らの過去の事実関係の回想のほうへ話をひき戻してこう述べる。

「現代口語で書けると思ったのは、戦後一、二年してからですね。当時に書いた詩は、中原中也、立原道造、三好達治に影響されたのがたくさんあります。自分で『影響なしに書こう』と思って書き出したのが最初の詩集になった。だから、召命があったかどうか知らないけど、最初は人真似ですね。」
 これに対して、谷川氏も当時をふり返ってこう言っている。

「僕は詩人になりたいとも思わなかったし、いい詩を書きたいというのもなかった。大学に行くのが嫌だったから、どうやって食っていくかが最大のテーマだったんです。幸いなことに、親に大学へ行けと言われずに放任されていた。それで、何となく書き始めてみたら、わりと書けたんですね。『詩とは何か』と考えなくても、ただ書きつけていけば、詩のようなものができる。それをノートに書きためていった…」

 戦後詩の力強いもうひとつの顔が、明らかにここにはあると実感できる述懐ではないだろうか。大岡氏にしろ谷川氏にしろ、自らの原点に代弁すべき「死者」は存在していない。そのことの幸運を、詩芸術の豊饒さへと結実させたこれら詩人たちは、戦前・戦中からの思想的断絶によってではなく、むしろそれ以前の近代詩との連続性、すなわち近代日本語による表現の蓄積のなかで自らの詩表現を鍛えあげてきた。

「谷川 詩を書き始めた頃から、イデオロギー的なものは一切なく、趣味的に書いてきた。最初から人が喜ぶ軽いものを書きたいという意図があったんですね。自分の中のやむにやまれぬ衝動の自己表現というようなものではなかった。」

「大岡 …僕は仏文志望だったけど、国文に回された。国文学科は志望と違うからあまり勉強する気になれなかったのね。それで、仏文学科や英文学科の授業には随分と出ました。そこで外国の詩をたくさん読んだ結果、当時、『荒地』派のような詩は日本の現代詩にたくさんあるけど、そうではないものもあり得るはずだと思った。」

 谷川氏と大岡氏のこうした発言は、もともと自分たちは書くことの「根拠」から出発したのではない、すなわち自分たちの文学に“原点は存在しなかった”ということを言っているように聞こえる。だがその真意は、「根拠」というものが思想や観念つまり非文学の言葉では言えないというだけであって、そこには戦争の死者や政治的死者の幽霊とはまた別の、名づけえぬ本質世界が横たわっていることの教唆以外の何物でもない。

 単純にその出自だけで限っても、私たちの近代以降の詩の歴史にはいくつもの切断面が存在する。それらは互いに斜めに接ぎ木されるようなかたちで、いくつかの系統樹を私に幻視させるのだが、それら全部を繋ぎとめる未知の幽霊像は、このようにまだまだその全貌を明かしてはいないのである。


“書かれ”の至福、“読み”の恍惚(初出:「現代詩手帖」2002・8)
平出隆『ベルリンの瞬間』、吉増剛造『ブラジル日記』

それにしても、この二冊の書物がこうも共通してしめす恍惚とした表情は、いったい何なのだろう。ともに日本から遠く離れた海外での生活時間をベースに置き、紀行エッセイという形式において共通する平出隆『ベルリンの瞬間』と吉増剛造『ブラジル日記』のふたつの書物は、私にふとそんなことを考えさせた。

 一九九八年五月から一年間、平出氏はヨーロッパ、主にドイツで過ごすことになるのだが、『ベルリンの瞬間』はこの年の経験を時間の流れに沿うかたちで書き綴ったものだ。ただ読んでいて不思議な感じがするのは、書かれているどの場面もが、現実のヨーロッパの地理空間とは違う、どこか別の時空間での経験のように読めてしまうことである。無論、平出氏が滞在するのはドイツという国のベルリンという都市の、デュッペル街という具体的な街区である。彼はそこに仮の居を定め、道に迷ったりしながらも実在のモニュメンタルな場所へと赴き、あるいは実在の人物たちと出会って言葉を交わし、時には泥棒の被害にあったりしながらも、このどこか異次元めいた滞在を続けていく。

 しかしテキストをよく読んでいくと、平出氏のベルリンには現代ヨーロッパという空間的広がりにちょうど重ね合わさるようにして、カフカやベンヤミンやツェランたちが生きていた時代からの幻想の視線が、オーラのように充満しているのが判るのである。

「人はいったいどのようにして、住んだことのない土地を、自分にとってのもうひとつの土地と思い定めるようになるのだろうか。すでに幾人かの他者の精神的な仕事が、ぼくの中に、ベルリンのイメージの種子を散らしていた。それはほかの都市の『もうひとつの土地』の種子よりも、なぜかつよく成長していた。(中略)

ベルリンの種子は、ぼくの中で、一種の幻視を生み出していった。ぼくはそこを訪れることになるよりずっと早く、『ベルリン』というイリュージョンに居住しはじめていた。」(「六月」 木々の奇蹟−六月第一週)

 平出氏にこうしたイリュージョンをもたらすところの視線が誰のものなのかは判らない。だがこの視線があるために、そこで書かれた言葉(日本語)は、ヨーロッパ時間でも日本時間でもない、どこか宙吊りな場所に浮遊するような異化作用を被ってしまったように思われる。

「あなたは、比較ということをどう考える。」というヘレラー氏の言葉が、この書物の随所に現われる理由も、つねに何かと比較をしていなければ、自分の位置をどうにも確認できないという不安さが、無意識にそうさせたからではないだろうか。そして平出氏のこの書物の文体が持つ焦点の定まらなさは、私たち読む側の意識さえをも、どこか人間的な匂いのする異界へと瞬時のうちに繋ぎとめてしまうのだ。恐らくこの作用は、渡欧した作者の意識が日本・ヨーロッパ間の運命的ともいえる距離において変貌をきたし、いずれの側にも回収されず、またいずれの側からも相対的に自由でありうる位置を確保できたことからくる恩寵なのだ。

 自ら書いているというのでもなく、書かされているのでも無論なく、言葉がこうした経験の変質過程に沿うように“書かれ”ている。つまり、“書かれ”の中間的なエクリチュールがここには奇跡的に現出しているのだと言ってよい。これまで見てきたように“書かれ”の至福が体験されるには、それが、特権的だった「瞬間」をその輝きのまま、非人称の歴史の未来時へと解放する言葉の作用として発現させるのでなければ、嘘だと思う。

 吉増剛造氏の『ブラジル日記』も、じつは文字通りの日記などではない。やはりこの書物も、ブラジルという幻想の土地へ、半身どころかその全身を引き裂かれるという吉増氏の時空感覚の超絶体験、そこからくる意識のストーム状態そのものの記録として読むことができるのだ。

 日付じたいがここでは現実的な意味を喪失し、あたかも夢の中での“ここ”と“あそこ”とを便宜的に境界づけておくための空虚な符牒でしかないようだ。事実、その記述のなかに出現するあらゆる事物と人物たちは、隠されたある重要なメッセージの、自分でもそうと知らされない担い手として登場しているのだとしか思えない。そこでは松尾芭蕉も宮沢賢治も「芭蕉さん」「賢治さん」というように、妻の「マリリアさん」をはじめとする吉増氏にとってはかけがえのない身辺の登場人物たちとある意味では同列に、またある意味ではその匿名性のなかへと渾然化されていく。

「…その“ポエジー”なるものははたして、こゝがポイントだろうと思いますが、いつの時代にも変わることのない、恒久性、芭蕉さんは不易といゝましたが、その“ポエジー”の未来性あるいは将来性にかゝわっているであろうか、という“不安”であり、“怖れ”です。“未来性”といゝましたが、乱暴なようですが、これを“過去”“郷愁”といゝ替えてもよいのであって、別乾坤、…つまり途方もない別宇宙と連れ立って旅して行くことが出来るのだろうかということだと思います。」(「病蠶の道路(やまいごのみち)−ブラジル日記」より)

 だが私は、この独語の連鎖とも見える特異な文体表記のなかに、何かただならぬものの気配を嗅ぎ分けないではいられない。吉増氏のこの書物は、一見、散文集のかたちをとってはいるものの、なかなかどうして一筋縄では解けない粘状のオブセッションの集積と読めるからだ。いったい何が、吉増氏をしてこうした危地へと赴かせるその剣呑な情熱を募らせたのだろう。

「ブラジル日記」は、吉増氏がブラジル在住の日系移民の人々への「詩」のセッションのために、彼の地へ飛んだというシチュエイションを背負っているが、じつはこれも仮初めの構図にすぎないのであって、たとえそういう事情が現実にあったのだとしても、すでにこの文章自体はそうした事実性をはるかに越え出てしまっているのだ。

『ベルリンの瞬間』における平出氏も『ブラジル日記』における吉増氏も、はるかな空路を通ってそれぞれの異土へ降り立つのであるが、おそらくその時、彼等を捉えていたのは自国の風土で培った「伝統文学」や「ヨーロッパ文学」の記憶が、丸ごと外部の非文学的風土へと曝される希有な経験だったのではないだろうか。そしてこの外部の風土的脅迫においてはじめて自国の「文学」総体を射返すだけの視線の強度が生まれ、はじめて言葉の“書かれ”における未知の沃野に自分の手が触れられたのではないだろうか。私たちの“読み”がこれに呼応しえた時、書物の恍惚もはじめてその経験の窓を開くのである。

平出隆『ベルリンの瞬間』(集英社)二○○二年四月三○日刊
吉増剛造『ブラジル日記』(書肆山田)二○○二年四月二五日刊


暮れ方の思想(初出:「現代詩手帖」2003・6)
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中村稔『人間に関する断章』/辻井喬『深夜の孤宴』

 暮れ方にくるだろう人々が、いるように思う。彼等が訪れる時間帯はなぜかきまって夕暮れなのだ。例えば永瀬清子「あけがたにくる人よ」に現われるその「人」のイメージは、ついに訪れることなく時のなかを過ぎ去っていった何者かの気配への覚醒を指していたが、それとは逆に過ぎ去った時のむこうから現われる誰かの実在感への夢遊が、とどのつまりは暮れ方にくる人への私のイメージなのだと言えば、そうなのかもしれない。そして偶然にも私はそのようにして訪れたいくつもの人影に深く染め抜かれた二冊の書物と、たて続けに出会うことになった。

 中村稔の随想集『人間に関する断章』は、なによりもそのタイトルに少なからず興味をそそられた。詩に関してでも言葉に関してでもなく、ただ「人間」に関してというその直截さが、言葉は悪いが新奇な目新しいもののように映ったのである。そこでは例えば「愛」「父」「母」「友情」「青春」といったようなキーワードに即しながら、夏目漱石、正岡子規、高村光太郎、斉藤茂吉、萩原朔太郎、石川啄木、三好達治、中原中也など、わが国の近現代の文学史を織りなした突出した個性をめぐりさまざまな言及がなされている。かといって伝記風の作家・詩人論でもなければ、また通り一ぺんの詩歌史論でもない。おびただしく引用されてあるのは、つねに彼等の作品であったり手紙であったり、要するにかつて確かに彼等の記名をもった“言葉”たちなのだ。にもかかわらず中村氏は、これらに対してトータルに「人間」という表象を与えている。そしてそのことが決して不自然でなく、逆に不思議と骨太な思想を私たちに突きつける結果となり、文学という体験においてひさしく忘れていた実体に触れたという感触を私に抱かせたのである。何故だろう。

 中村氏がこのような力技を発揮できたことの背景には、こういってよければ言葉以前の何か、すなわち〈名辞以前〉というものについての氏の強い信頼があったことを私は感じるのである。「12.言葉について」の章で、中村氏は中原中也の「芸術論覚え書」を引きつつ興味深いことを書いている。すなわち中原の「名辞が早く脳裏に浮かぶといふことは尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮かぶといふことは、やはり『かせがねばならぬ』といふ、人間の二次的意識に属する。『かせがねばならぬ』といふ意識は芸術と永遠に交らない、つまり互ひに弾き合ふ所のことだ」−の文章について触れ、次のように述べている。

「中原は人間を芸術家と生活人、社会を芸術圏と生活圏あるいは社交圏という二元論でとらえ、『かせがねばならぬ』という意識は人間の二次的意識に属し、芸術家は『名辞』が脳裏に浮かぶ以前の一時的意識、たぶん中原が『現識』と呼んだ意識の世界に生きなければならないと考えていた。私は芸術家と生活人、芸術圏と生活圏という中原の二元論には同意できない。私には芸術家ないし詩人が通常の生活者と違う特権的人間であるという思想は受け入れがたい。しかし、『名辞以前』のもの、という考えには、かなりに納得しがたく、しかも共感する、といった感想をもっている。」

 そしてあのよく知られた「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」という中也の詩句について、「戦争を『茶色い』と感じさせたものが、中原にとっての『物の見えたる光』であり、名辞以前であったろう」と述べている。そして氏にとってこの〈名辞以前〉に位置する実在こそが「人間」という表象であったことは疑いないだろう。

 いまさら私がことさらに言うまでもないことだが、特に二十世紀の後半において、現代詩が喪ってきたものは数えきれない。その中でも「人間」という観点ほど完膚なきまでに排除されたものはないだろう。思えば「詩は表現ではない」(入沢康夫)というテーゼを私たちが一九六○年代に手にして以降、そうした傾向は細やかに流れを輻輳させながらも今に続いていると言える。なぜならこのテーゼこそは詩というものを、「表現」概念すなわち言葉以前の何かとの相関でとらえる見方から、ものの見事に切断した最初の楔だったからである。そう考えると「技術の威嚇」(荒川洋治)といい「修辞的な現在」(吉本隆明)といい、私たちがこれまで手にしてきた批評的なキーワードは、どれも皆その流れのうえに位置するものであった。




粘状読解

−吉本隆明『読書の方法』・岡井隆『吉本隆明をよむ日』

 自分はこれまでどれだけの本を読んできただろうか−読んだ冊数の寡多をでもなく、渉猟した文献ジャンルの広さをでもなく、ただストレートにこう問うことが充分に原理的でありうることを、吉本隆明『読書の方法』は私に教えてくれる。本としての体裁からいえばややまとまりに欠けるこの一冊も、そうした意味で私の中にある位置を占めることになった。

 たしかに読書ということについて、これまで私たちはあまりに考えなさ過ぎた。いや読書のその時々においては、確かに何かを考えてはいるのだ。それが文学書や思想書ともなれば、かなりギリギリまで思考を切迫させて読んでいるに違いない。だが一方で、読む行為そのものについては、ほとんど何も考えてはこなかったように思うのである。

 同書劈頭の「なにに向かって読むのか」というやや奇異な感じのタイトルの文章で、吉本氏は「ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通わたしたちがやっていること」について触れ、それは「書物にふくまれている世界によってきめられる。」と述べている。

「この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手がいく度も反復して立ちどまり、また戻り、また歩きだし、そして思い患った場所なのだ。かれは、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。」−そうした「小さな場所」にすぎないものでも、「それは世界なのだ」と吉本氏は言う。そして「そういう場所に行き当った読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。」とも書いている。

 ところで私はある時期から、一冊の本というものへのどこか見切りめいた感覚を持つようになっている。多分それは二十歳前後を境にして以降のことだと思うが、それまでは世界大の疑問や等身大の虚無や、その他いっさいの精神的煩悶などを抱えこみつつも、その一冊の本さえ読めば、その全部とはいわぬまでも核心の部分は書物が射抜いてくれて私自身を解放してくれるような、そんな書物がどこかにあると信じて疑わなかったし、事実わすれ得ぬ何冊かの本と巡りあえたこともあったのだ。ところがある時期を境に、そういう経験はほとんど影を潜めていった。何故だろう。

 それは、いかなる本であっても著者と編集者、版元が織りなす相対的な制作物であることに気づき、おのれの全存在を賭ける対象物たる書物という観点からやや離れた見方ができるようになったことと、もうひとつ、私が現実のなかで他人と多様な関係を切り結ぶことがあるように、ある種の本の場合それと同等の位相で、活字を通じてその向こう側にいる誰か(著者とはかぎらない)と私が粘状の関係を際限もなく作っていけるようになったからだと思う。

 この連載の一番初めのほうで、私は「カイロス的なもの」について書いていきたいと述べた。まだその約束を充分に果たしたとはとても言い難いが、活字体験をとおして訪れたそれの痕跡は、いま自分の中でどれも粘状に膠着して、相互に溶けあいそうでいながら決して完全には混じり合ってしまうことのない個々の感動の記憶の繭に封印されている。現実での出会い以上に生々しい他者との出会いを演出する書物のこうした粘状の読解のし方は、およそこのようにカイロス的時間の予期せぬ介入によってもたらされた感動の震えを得て、はじめて可能となる。吉本氏が短い言葉でいおうとした書物の善し悪しの基準も、深読みすればこのような契機を内に秘めているのだと考えていいだろう。

 ところで唐突ではあるが、岡井隆『吉本隆明をよむ日』(注2)は、まさにこの本の著者の吉本隆明に対するこうした粘状の読解だけで成り立っている書物である。これを読み終えた直後に私を襲ったのは、自分はこれまで吉本を本当に読んできたのか、といった根拠不明のある感懐だった。たしかに何度も吉本は読んできた。しかしそれは単に吉本という思想を、あるいは吉本という論理を、あるいはその詩歴を、自分が何かを書く時の必要に応じて追いかけてきただけであって、つまりそうやって吉本を有償的に読んできたということはあっても、吉本隆明自身を本当には読んではこなかったんじゃないかといった気持と言えば、もっと近い。それだけ岡井氏のこの仕事は、私に読むことの無償性といったものの所在を強く印象づけた。そこで彼は吉本隆明を徹底して無償に読んでいるからである。その場合、読む者は素手のままみずからの読みだけを頼って、ひとつの粘状の時間を紡ぎだすのだ。

「しかし『転位のための十篇』のどの一篇にも、おのれの支えを見出したことのなかったわたしは、今、たとえば「ちひさな群れへの挨拶」を読む。そうすると、この詩は、わたしを勇気づけることはない。勇気づけることはないけれども、吉本隆明が、この詩を書いたときに見ていた世界、世界の認識そのものについては共感しないわけにはいかない。」

 岡井氏が例えばこのように語る時、私たちがそこに目にしているのは、まさに岡井氏が粘状に読解した対象である「吉本隆明」の実在性なのである。つまり詩人としての吉本像はここでは重層化しあい、私たちは吉本隆明そのものを読んだ時と同等あるいはそれ以上に生々しい吉本の実在感に触れることになるのである。

 書物を通しての人との出会いというのは、往々にしてそういうものだ。直接その本人を知っていなくても、本質的な出会いは訪れうる。実はそうやってはじめて私たちは文学や思想というものに、ある特定の個人名を冠することを何の違和感もなく可能としてきたはずなのである。

「さて、このぐらい詩史にくらいところから読んでいるのであるから、吉本隆明の詩へのふみ込みが、たえざる眩暈によって中断されるのもせんない話であるが、−しかしある個人が、いろいろの試行をおこないながら詩を書いていくとき、詩史の或る一角をかすめて過ぎざるをえないというのも本当だろう。ただ、わたしは、そこのところを、個体発生が系統発生を模倣するといった見方ではなくて、その個人の半生の記録という側に加担して読みたいというのである。もっと言えば、それですらない、一つ一つの詩に対面し、交差しているわたし自身の今現在に固執したいというのである。」

 岡井氏の吉本読解のなかにはたえざるカイロス体験が至るところに埋め込まれていることを、私たちはこうした記述からも窺い知ることができる。

 ところで吉本氏は、八○年代の末にある場所でちょうどこれと反対のことを述べていた。『言葉からの触手』の「4 書物 倒像 不在」のところで「書物が氾濫しすぎたら、なにがこの世界におこるのか」と問いつつ次のように述べている。

「書物はこの倒像(=現在:引用者注)のなかでは、文字が記載された個所だけくりぬかれている。また書物の氾濫はその氾濫分だけ空洞になっている。この意味では世界は、書物の情報量の総体だけ神経系統に障害を受けるといっていい。」



“ライブ”に堪える思想
  −『次の時代のための吉本隆明の読み方』村瀬学/聞き手 佐藤幹夫
                                   
 思想というものが本来どこにあるか、はなかなかひと口で答えるのが難しい。それは人の頭脳にあるのか、あるいは書物の中にあるのか、または広く言葉の中にあるものなのか。多分そのどれでもあると言うことはできるが、これが学問的対象としてではなく同時代をともに生き抜き、私たちの日々の思考や行動に直接響いてくる生きた思想としてあり続ける“場”となると、右にあげたそのいずれでもないシチュエイションを想定しなければならない。つまり、コンサートや劇場公演などとそのスタイルこそ違え、思想にも“ライブ”というトポスがあり得るのではないか、ということなのである。

 この『次の時代のための吉本隆明の読み方』(注1)は、佐藤幹夫による村瀬学へのインタビュー形式をとった思想書、それも吉本隆明の思想系譜を主題とした重厚な内容の書物だが、まさにこうした場の設定そのものが、そこに思想の“ライブ”感覚を引き出そうとする聞き手とそれに応えようとする受け手との、濃密でスリリングな共闘する時間を堪能させるに充分なものだった。

「読み方」というタイトルが示すように、この書物は吉本思想という難攻不落な地形図を、さらにそのはるか上方から「地図」として把捉しようという村瀬氏の隠れたモチーフに貫かれていると言ってよい。事実、村瀬氏は本書「まえがき」で「地図とはいったい何なのだろう、という問いかけを考えていたときに、ふと思いがけない形で「吉本隆明」が見えてきた」のだと述べている。そして、そもそも「地図」とは何なのか、というより根源的な問いのほうへ傾斜を強めながら「マチウ書試論」『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』から『共同幻想論』さらに『ハイ・イメージ論』にあい渉る広大な領域の「地図」の描出作業に取りかかっていく。興味深いのは、それが村瀬氏と佐藤氏のメリハリの効いた共同作業として進められている点だ。ここに私は“ライブ”としての思想がまさに誕生する瞬間を目撃するような思いに駆られたのである。

 ところで私は、いまでも吉本氏を「戦後思想家」だと思っている。それには明確な理由がある。つまり、わが国の多くの作家や批評家があの第二次大戦の敗戦体験をマイナスの符牒として受け取ったのに対し、吉本氏はまさにそれこそを自らの思想の積極的契機となして出発していると映るからだ。つまり吉本氏は、国家の無条件の敗戦という巨大な価値の空白そのものにおいて、文字通り苦渋の自己形成をなしたと言える。特に私は、その初期詩編に顕著なように、自意識が世界大の空虚に立ち向かいながら、そのことへの憎悪のみによって言葉が立っているようなあの独特の感覚−そこにこそ逆説的に吉本氏の個性が陰画のように現れていたと考える者だ。

 しかしその一方で、特に九○年代以降、吉本氏の思想的コンセプトに対し、この「戦後」という部分を極力脱色し、より思想言語の普遍性においてそれを再読しようとする試みがなされてきた。そして最近になって、吉本氏の言説のあり方について私の周囲からそこはかと聞こえてくるのは、ほとんど共通してその特異かつ独自な吉本氏の用語法に対するいささか消化不良気味の一連の反応である。つづめて言うなら、それは吉本氏が使用する思想言語がどれもつまるところ曖昧かつ非論理的であり、強力な訴求性を発揮して多様な解釈を可能にする反面、つねに論理連関としては明瞭になりきれない不全感を残すことへの困惑なのである。例えば「9・11同時多発テロ」以降、吉本氏が機会あるごとに言及する「存在倫理」という概念にしてからが、その内実たるや剪定されぬ樹木のようにその全貌もその細部もともに捉えきれないという、一種の不可知性をつねに漂わす結果となっているようにである。

 このことについて村瀬氏は本書にてある刮目すべき指摘を行っている。すなわち『心的現象論序説』における「原生的疎外」と「純粋疎外」という吉本氏の言葉に触れながら、こう述べている。

「吉本さんはこの概念を「理論」として設定しているように見えて、じつは自分の中で不連続に感じられている領域を連続的なものとして、あるいは「関数的なもの」として連続させるための装置として作り出しているように見えるからです。おそらく、こうした言葉を平気で作り出すところが、彼が詩人だということなんでしょうね。つまり、こうした試み全体が彼の文学であり、彼の作品だということでしょう。/だからこれが「理論」だと思って受け止める人は、こういう概念の曖昧さ、定義もはっきりとなされていないあり方に振り回されて、きっと嫌になってしまうでしょうね。」(注2)

 村瀬氏のこうした視点は、まさしく「次の時代」のための吉本隆明の「読み方」について、恐らくは極めて重要な根本テーマを投げかけるものだ。こういうことが率直に言われてはじめて、吉本思想への支持者も批判者もともにその論点を共通の土俵にて戦わすことが可能となるように、私には思われるからである。「彼の試みを、詩(文学)として受け取るのか、理論として受け取るのかという分かれ目」(村瀬)で、その評価も否応なく二分されざるを得ない事態に、現在はもうすでに差しかかっているのかもしれない。

 この点について私の考えを述べれば、詩的(文学的)だと見なされる思想を、一概に思想的な弱さの象徴だと見なすことには、実は根拠がないのではないか、ということである。無論、こうした私の主張にしたところで、明確な根拠をすぐここで示せる訳ではない。だが、詩的(文学的)であることが弱みではなく逆に強みであるような論理のあり方を、吉本氏のこれまでの総体的な仕事は、その膨大な言語記述のそれぞれ個々の枝葉をとおして暗に私たちに語りかけているのではないだろうか。村瀬氏の先の指摘をことのほか私が重視するのも、ここにその理由がある。なぜなら、私たちは表現者・吉本隆明の初期から現在までに至る事跡の数々、すなわち詩作品と批評作品と文学論、意思論、思想家論、宗教論その他多くの理論的労作のすべてを貫通する内在的読解を通じて、「詩」から「思想」へと段階的に架橋しうる未知の“言語地図”の在りかを発見できるかもしれないからである。

 私は、その途上に至るひとつのヒントとして、こうした“インタビュー”という言葉の相互交流の現場から表明される発話者個人の思想というものに、その原型を透視したい欲求にかられる。なぜなら、そこにはあらゆる思想においてその根底をなす、人としての存在性が不可避に露出していると思うからだ。吉本氏の「多面性と総合性」ということについて村瀬氏は同じところで述べている。すなわち吉本氏の仕事においても、「古い事実に依存している部分、論理的に矛盾している部分、あまりにも詩的な言葉で書かれすぎている部分、なんの実証や検証もなされないままで断定されている部分、感情的に相手を断罪しすぎている部分…」など多々見受けられるものの、「違った立場に立ってみれば、違った「吉本隆明」がいっぱい見えて」くるというのである。つまり、結晶質の鉱物に喩えるなら、そのカットの仕方によって様々にその光りかたを変える言語構築物を、それはイメージさせないだろうか。多分“ライブ”に堪える思想とは、こうした事態を指すのだろう。その時、目指されるべき「地図」とは、この露出した存在性の多様さを照射する思考の原理と決して別ではない。

(注1)2003年4月17日刊(洋泉社)2200円
(注2)同書「第一部『座標』という発想のゆくえ」



歴史語りの風景 『鮎川信夫全集』

 鮎川信夫の初期の詩論を読む時、私は自分の意識が知らずしらずのうちに“歴史的”になっていくのを感じる。随分とおかしな言い方だが、彼が「荒地」の詩人として再出発した頃の一連の文章には、確かにそう感じさせるだけの何かがあった。

 彼の全集が完結した今日において、私たちは鮎川信夫を“歴史的”に語ろうとすれば語りうる位置にいることは事実としても、そのことと私が今ここでいう“歴史的”であることとはまったく違うような気がする。人はみずから進んで“歴史的”になろうとしてなれるものではない。だが鮎川信夫という存在は、その類稀な詩的営為が充分に“歴史的”であるということの意味を、現在も私たちに遺言のように告げ知らせてくれるのである。

 彼はあるところで「我々は一篇の詩の価値が、一人の詩人の運命とふかく繋がっているものであることを認めざるをえない。」と述べていた。さらに続けてこう言っている。 「戦争による青年の血は一体何のための犠牲であったのであろうか。それがこの国土のために献げられたのではなかったとしたら、そして我々の苦難と試練に何の意味もなかったのだとしたら、我々が今後とも生きてゆくということに何の意義もありそうに思われないのである。自己の生に何の意義をも認めずに生きるということは、単なる生命の喪失よりも悪しきものである。故に我々が詩を書いているということは、何らかの意味で、自己の生の意義を証明するところのものでなければならない。換言すれば、詩人が書いているかぎり、彼は自己の生の意義を手放していないということにならなければならない。」(注1)

 こういう直截な言葉を、わが国の現代詩が過去に持ったことがあったという事実は、戦後の詩の出発においてやはり決定的だったと思われる。なぜなら、ここに息づいているのは抽象論やアジテーションではなく、こう言ってよければ、存在倫理が歴史的な姿をとって自らを語っている忘れ去ることのできない“風景”だからである。だが何故にそれは忘れ去ることができないものなのか。

 その理由は、これがある意味で絶対的な“風景”だからである。この“風景”が恣意的な心模様などではなく、まぎれもなく詩人本人の「運命」と切り結んだ原点的意味に隈取られているのは、そこに何か絶対的なものが深く影を落としているからに他ならない。そして恐らく、この“影”を自らの内部へ孕みこんだ時点から、戦後詩はそれまでの詩の歴史から一線を画し、本質的に“戦後詩”となりえたのだとも言えよう。私がここで考えたいと思っていることは、実はその現在では失われてしまった絶対性の輪郭といったものについてなのである。

 例えばそれは瀬尾育生が『全集4.・評論3.』の「解説」で触れている「深く反近代的な、永続的な価値の世界」−それは鮎川自身の戦争期の体験なかんずく戦争の死者との親密な関係のなかからもたらされ、しかし五○年代以降は直接に言及されることのなくなったテーマ性−と、ある意味で同致しうるものである。そして今更のように、鮎川の思想における“死んだ男”「M」の絶対的な比重の重さに思い至るのだ。「戦争責任論の去就」での彼の次の一文が、この問題への重要なヒントになっていると私は思う。
「私は『死んだ男』を、戦争で犠牲になった死者一般の象徴とはとらなかったし、あくまでも単独者として考えようとした。そして、この考えが、以後の私の思想的行動を決定したのである。」

 “単独者”というトポスが、ここではじめて明らかにされる。特にこの存在位相が比肩しうるもののないほどに意義深いと私に思われるのは、それが死者のみならず生き残った自らの単独性をも圏内におさめたうえで、同時にそれが歴史そのものの風景へ、すなわち「無名にして共同のもの」の記憶のほうへとはじめて架橋しうる論理の筋道を切り拓いたと考えるからである。「死んだ男」すなわち身近な友人でもあり詩人でもあった森川義信について書いた文章で、鮎川はこう述べている。

「幸か不幸か私は生き残り、戦後の詩運動に携わるようになった。大戦から得た唯一の積極的な教訓は、森川の死から受けたと言ってよい。自己という病いから癒えるために、死んだ友のことを考えることは、私には一つの救いになったとおもう。いつも詩を一種の遺書と見做すような気持ちが私にはあるが、それもおそらく彼のせいだろう。」(注2)

 死は、それが誰のどんな理由によるものであっても、この世界にあってはかならず密やかな意味の陰翳というものを孕まざるをえない。とりわけ身近な者の死が、いつも個人的な感情世界の経験として、つまり死者と自分との一対一の関係においてしか私たちに訪れないという事情には、ある絶対的な意味が宿る。それは同時に、身近な者の死に対する第三者からの意味づけが、つねに空虚な観念操作に過ぎない事情をも暴きだす。つまり死と対面するとき、私たちはそこで否応なく“単独者”たらざるをえないのである。

「一人で死んでゆかなければならぬ人間にとって、死の一般的観念などは無意味であり、且現実に不在のものといふべきだ。『Aの死、Bの死』といふ個別的な死を我々は目撃するのみである。」とみずから「戦中手記」に書き記したとき、鮎川信夫の念頭にあったのは最も身近な死者・森川義信の戦病死の事実と、その死によって逆に照射されてくる自己存在の意味(あるいは無意味)というようなものではなかっただろうか。

 ひょっとして私たちはこれまで大きな思い違いをしてきたのかもしれない。事実性によって彫りあげられる外なる歴史が勝者だけの物語でないことは自明にしろ、少なくともその評価自体は生きている側の者によって語られるのだと信じて疑わなかった。だが鮎川の一連の仕事はこれとは別のことを私たちに教えている。つまり個人の内なる歴史のパラダイム上の布置においては、生者が死者を意味づけているのではなく、逆に生者こそが死者によって意味づけられる存在へと、その位相が逆転するのだということをである。そして“単独者”とは、まさにこうした死者たちとたった独りで出会う者であり、その出会いの契機そのものによって否応なく歴史的であらざるを得ない者を指していう表象に他ならない。

「詩を一種の遺書と見做す」姿勢が、こうして彼の内部で必然化されていったことは疑いないとしても、だがそこは独りで持ちこたえるにはあまりにも空虚で殺伐とした場所ではないのか。だからこそ人は戦争の死者たちを、その歴史を必死で意味づけようとしてきた。すると、決まってそこには国家とか民族とか英霊といったような絶対的観念、すなわち“有名にして共同なもの”の影が一気に介入してくることになる。

 鮎川が自らの「死んだ男」をそうした影から隔離しつづけ、唯一詩作という行為を通してその「死」を内部化していく道を選んだ時、おそらく詩の言葉はみずからを貫く名づけようのない絶対的な視線にはじめて曝されたのだと言ってよい。それが何処からくるものかは、いまでも解らない。ただ人が行為の主体として振る舞うとき、出来事は「神」の領域に属したままだが、一旦想像主体として振る舞うようになると、出来事は「歴史」となり人の領域に属するものとなる。そして“歴史的”であることが、虚無と抗うぎりぎりの一線でもあったことを、鮎川信夫は私たちに遺言のように告げ知らせているのである。
(注1)「詩人の出発」『全集』2・評論1所収
(注2)「森川義信1」『全集』4・評論3所収




忘却の修辞学(初出:「現代詩手帖」2002・3)
松浦寿輝『物質と記憶』

 人は、何かを忘れるために、ものを書くということがあるのだろうか。日記にしろメモにしろ、ふつう私たちは記録するため、すなわち忘れないために文字を記す。だが記録することと記憶することとは、似ているようでまったく違う営為である。とりわけものを書く人間が、過去に自分の書いた文章なりを普段どれだけ記憶しているのか、少なくとも自分の経験に照らしていえば、細部の表現などは忘れ去っていても骨子部分は大概は覚えているのが普通だ。また、だからといってそれが特権的な何ごとかであるわけでもなく、また仮にすべてを忘れてしまっていたところで、それはよくあることで特に非難されるべき事柄でもない。

 だが、ただ単に忘れるのではなく、自覚的に“忘れ去る”というこの精神の態勢がものを書く深い動機となっているようなケースを、ほかならぬ文学の課題として考えなければならない未聞の場所にいま私は立っている。「わたしは他人の文章で読んだ事柄は比較的よく覚えている方だと思うが、自分の文章は書いた端からあっけらかんと忘れてしまう。」−評論集『物質と記憶』のあとがきで松浦寿輝はこう語る。彼が迂闊に漏らしたわけでもなかろうこうした微細な一言に、だからとりわけ興味を覚えるのである。

 ここで文学という事象を構成するモナドがもし想定できるとすれば、それは私たちの〈記憶〉ではないだろうか、とひとまず言ってみる。ところで言葉とは精神における物質である、ともこれまでよく語られてきたことであった。それぞれが意味するところの陰影は微妙にずれてはいるが、文学作品は言葉でできているのだというそれ自体は無意味な物言いよりは、どちらも少しはましなことを言っている。ならば“文学は物質である”という言い方はそこで成り立つのだろうか。

「文学とは結局は『物質』であり『記憶』であって、それ以外の何ものでもないという思いが、折に触れて立ち戻ってくる」と松浦氏はおなじところで述べている。さらに続けて言う−「詩とは、小説とは何か。物質化した記憶、あるいは、同じことだが、記憶化した物質のことにほかなるまい。」だがちょっと待ってほしい。額面通りに受けとめるには、この断定にはいくつもの留保がいるのではないだろうか。私が一番に感じるのは、文学を定義するこうした言説の空虚さのようなものだが、反対に松浦氏がこうした空虚さそのものを自らの文学のベースに置いている書き手だったとしたら、話はまったく別だ。

 松浦氏の吉田健一の散文作品(いずれもその死の前年に発表された『時間』や絶筆となった『変化』といった作品)に対する高い評価は、とても奇妙な力点を持っていた。それはこの評論集冒頭におかれた吉田健一論「時間を物質化する人」において明白だ。そこで彼はこう言うのである。「吉田健一は、思考の純粋持続とでもいうべきものを物質化する文体を作り上げた、驚くべき作家である。それは、模倣すべき手本もなく拠って立つべき先達もないところで、無から築き上げられ、洗練されていった一代かぎりの離れ業であり、近代日本文学のいかなる潮流からも孤絶した真に独創的な営みだったと言える。その独創性とは、ここで物質化と呼ぶものが、いかなる意味でも譬喩ではなく、文字通り物質そのものの即物的な現前を指していることと無縁ではないだろう。」−この口吻の裏には、文学を「特権的な精神の表現と考える」近=現代文学の主流に対する反措定がこめられてもいよう。

〈精神〉と〈物質〉−精神はもう使いものにならぬから物質を、という訳でもなかろうが、文学表現上の「物質」すなわち言葉は、ここでさらに「記憶」というように言い換えられる。記憶とは絶対的に過ぎ去った生命としての時間の別称だ。ならば「物質化した記憶」という即物性そのものと化した言語表現は、実は、まさに記憶をその内部に封印しているという意味で、むしろ私たちの生の時間の縊死すなわち〈忘却〉として現象しているのではないのか。
 
「明るい敗亡の彼方へ」−この「八○年代の詩」の副題をもつエッセーでも明らかなように、彼はすでに自らの「八○年代」を忘却している。八七年刊行の自著評論集『スローモーション』を、「歴史的資料」つまりもうすでに終わったものとして突き放すそのおおらかさは、いかに北村透谷に淵源する詩の「現代性」すなわち詩における「モダン」がはじめて疲弊と徒労の実感にうちひしがれた「八○年代」を修辞するためだとはいえ、いささか奇異に映るのだ。むろん彼にとっての「敗亡の彼方」とは、この場合まぎれもなく〈忘却〉されたものの向こう側のことである。

 『青天雨月』から最近の小説作品にいたる松浦寿輝の文学営為に通底しているのは、比喩としていうならいわば時間を言葉に封じ込める手腕によって、逆にマテリアルとしての言葉を際立たせ、その感覚的な手ざわりを、文体がもつ本来の時間性の代替物として文学作品という形式のうちへ全面展開するというモチーフにあったように思われる。「群像」(二○○二年一月号)掲載の彼の最新の小説作品「あやめ」においても、この傾向はますます顕著だ。この小説では、旧友との待ち合わせ場所にむかう途中にトラックにはねられ死亡した「木原」が、死んだにもかかわらずそのまま待ち合わせ場所に出向き、結局めざす相手は現われないで、ひとり小学校時代の同級の女性がママをしているスナック「あやめ」にふらりと入り、その後いくつかのごたごたに巻き込まれながら、刻々と死に至る時間を過ごしていくというものだ。臨死体験といおうか死後体験といおうか、いずれにせよ主人公の木原が、不慮の交通事故によって現実の生の時間を断たれた存在である設定は寓意的にすぎるだろう。肉体を失い、いわば意識だけの存在となった木原の、その空虚な存在性を扱った作品といって良いものだが、そこにはまた次のようなくだりが登場する。

「…もともとどういうとんでもない偶然の所産か進化の過程で生命のうちに意識などという化け物が発生し、それを棲みつかせたまま、いやむしろそれに取り憑かれたまま死までの時間を耐えなければならなくなってしまったことの不幸からすべてが始まったのだと木原は思い、そしてそんなことを道端で血を流しながら思っている俺のその思い自体もまたその化け物のやっていることかと苦笑した。」

 私がこれまで“忘却の修辞学”と考えてきたものの核心が述べられていると感じる部分であるが、忘却しなければならぬ対象は、この「化け物」のような意識そのものだったことがここで初めて明かされる。だが、何故に松浦氏はこのことを詩や詩的散文によってではなく、敢えて小説という形式で告げねばならなかったのか。

 ふたたび『物質と記憶』に戻れば、彼は「『小説』は実在しない。/一方、『詩』は実在する。」という注目すべきもの言いをしている。一般に文学表現における散文と詩文との根本的な差異とは、いわば爆発力と爆縮力の違い、あるいは放射能と吸収能の違いに比定されるべき言葉の実在性の差に還元できるが、「小説」は実在しないと言う時、それは生理感覚として実在しないという意味であり、「詩」が実在するという場合それは唯一確かな言葉の官能性をもって言われていることは疑うまでもない。だがそれらをもって文学と呼ぶのであれば、これはいささか高尚すぎる趣味にすぎないと言えないだろうか。



メモリアルの鉱脈(初出:「現代詩手帖」2002・2)
  三浦雅士『批評という鬱』『青春の終焉』

 いささか唐突だが、以後、私は「カイロス」あるいは「カイロス的なもの」について書くことをしていきたいと思っている。とは言っても、それは自分でもあまりに漠然として捉えどころのない幽霊的テーマではないかとさえ映る。だがすでに過去・現在・未来というトポスを避けがたくまといつかせるクロノス的時間系、またそれによってもたらされる歴史主義といったものに鬱陶しさだけが募っていく毎日に、そろそろこちらの我慢も限界にきているというのが本音である。カイロス=〈機時〉、この現在から過去そして過去から現在にいたるふたつの時間流がひとつになり、新しい未来としての持続になろうとする瞬間をさしていう言葉が、一段と私のなかで重みを増している所以である。

 であるならば「歴史もまた散乱すべきなのだ。」(注)−この一行が語るところにこそ耳を傾けよう。昨年、相次いで刊行された三浦雅士の二冊の評論集『批評という鬱』(岩波書店)と『青春の終焉』(講談社)は、その最も深いモチーフを、この「歴史を散乱」させる試みにおいていたように思われてならないからだ。『青春の終焉』には「一九六○年代試論」のサブタイトルが付されているが、それは表カバーにではなく中扉に控えめに印刷されているに過ぎない。そのことがすでにこのテーマのいささか時代錯誤めいた素姓を明かしていると言いたいところだが、それを“時代錯誤”と了解してすます時代感覚そのものが、むしろここでは問われてもいるのである。そのことを忘れないでおこう。

 実はこの二冊の評論集を読んで、ひさびさに感動のようなものを味わった。何故だろうか。ある過ぎ去った時代へのなつかしさと共感からだろうか。いや、どうも違うような気がする。著者と私の九歳という年齢差を考えれば、共有する経験とて決しておなじレベルではないはずだ。むしろ三浦氏の手傷を恐れないその論鋒の流れそのものに心打たれたというべきだろう。一見それは時代を、社会を、そして歴史を両断しているようにも見える。しかし終始一貫しているのは、文学というより大きな謎に射すくめられながら、なおもそこで〈批評〉という思想を生きようとする著者の荒々しい息づかいなのだ。

 『批評という鬱』において圧巻なのは、書名と同タイトルの書き下ろしの吉本隆明論である。「鬱」すなわちメランコリーは三浦雅士の歴年のテーマに他ならないが、ここに至ってさらにそれは文学者の個性やその時代、あるいはその歴史をも凌駕して君臨し続けるどこか物の怪めいた表象として、くり返し言及されることになる。世に吉本隆明論とされるものは星の数ほどあるとしても、この吉本論だけが明らかにしえた事柄があるとすれば、恐らくその『源実朝』の意外に重要な文学思想的布置を見いだしたことだ。

 「近代的自我が、さらに高度に抽象化されて、自己表出という概念にいたった」と三浦氏は述べている。そうなのかもしれない。また『言語にとって美とはなにか』(六五年)がマルクスの『ドイツ・イデオロギー』を言語論として発展させたものであり、『初期歌謡論』(七七年)が前著の「構成論」のより厳密な追究だとするなら、両者の関係はちょうど前期マルクスと後期マルクスとの位相差に比定することができて、さらにそこに実存主義から構造主義へと転換してゆく時代の影響さえ読み取れるという指摘。多分そうなのだろう。だがそれよりも重要な論点は、吉本の『源実朝』に現れた「濃厚な死と不安の雰囲気」が吉本自身によって「暗い詩心」という表現を与えられ、さらに三浦氏自身によってその「暗い詩心」が時代を越えて文学の営為に本来する「鬱」症状としての新たな統覚を与えられたことだ。つづめて言えば、私たちが年代を問わず文学作品に魅了される淵源は、この「説明のつかない底知れぬ悲哀」すなわち「鬱」にこそあったのであり、その理由は実はよく分からないということなのである。それは文学というものが実は汲みつくせないというのと別のことを言っているのではない。

 「一九六○年代、街には青春という語が溢れていた。書店だけではない。映画館にも、劇場にも、美術館にさえも、青春という語が染み透っていた。(中略)時代そのものが青春だった。そしてその青春は、一九七○年をまたぐと同時に、見る見るうちに萎んでしまったのである。」−『青春の終焉』の「はしがき」の一節だ。文学や思想の歴史をその原理の光だけで語るというのは見果てぬ夢だが、ここに現れた「青春」という語は果敢にこの役割を演じようとしていた。だが三浦氏が語るのはつねにその「終焉」である。つまり「倫理」でも「美」でもあり得なくなってしまった「青春」、その荒廃した姿とは、いわば私たちの七○年代以降を支配した精神のありようそのもののことでもあるだろう。

 「青春の終焉」が「鬱」の始まりを直接に規定するわけではない。だが比較でいえば「鬱」の強度は「青春」のそれをはるかに上回る。だから文学の土壌も永続するのだと言えるのだが、そんなクロノス的時間系たる文学的歴史像を本当に「散乱」させ得る力が当の文学に求められるとすれば、それはカイロスとしての「青春」がそれらの言葉にもたらされる瞬間に違いない。だが、いったい何がそれをよく為しうるのか。

 実は私はこれを書きながら、戦前から戦後期にいたるこの国の詩の歴史に対する疑問をもそこへ二重写しに透かし見ていた。ひとつに「青春」が三浦氏の言うように一九六○年代を席巻した社会現象ならば、「青春」とはいわゆる「六○年代詩」の特権だったのだろうか、と。ある面では確かにそうだった。しかしこの問いは私にある二律背反する思いをもたらす。というのもそれ以降の私たちの詩の歴史は、ひたすら詩の舞台からこの「青春」的要素をひきずり降ろす過程だったように思えてならないからだ。そして底深い「鬱」の表情を新たな舞台に描こうとして、じつはそれすらもどこか偽物くさいと言っては苛立ち、いうなれば極めて曖昧な表情だけを描き続けてきた年月のように映るからである。

 つまり現在の視点に立つなら、私たちは「青春」をもはや必要としていないばかりか、本当は「鬱」のほうからもたくみに身をずらして擬似的な陶酔のほうへ、あるいは安易なプロパガンダのほうへ流れ出ようとしているのではないか。

 私は自分の論理の水脈が明らかに自家撞着をひきおこして、沼のように滞っているのが分かる。あるいは批評が「鬱」でありえた時代さえ、去ったのかもしれない。「カイロス」とは際立って美学的な概念に他ならないのに、言語にとっての「美」がもはや倫理でも真実でもないとしたら、そこでは批評する行為そのものが意味を失うだろう。それは批評が歴史からさえ無関係に迷走する事態をはるかに予想させる。恣意的な創作活動だけが、かくして際限もなく連鎖していくさまを、私たちは目にすることになるのだろうか。

 はっきりしていること、それは「超越は存在しない」(三浦)ということ。美の内観や意味の評釈をつかさどる超越的審級はすでにない。すべては意味不明のアレゴリーで満たされた劇場で、唯一ひとが頼ろうとするものがあれば、それは自己の、あるいは都市の、あるいは歴史の〈記 憶〉の鉱脈だけなのかもしれない。依然としてその鉱脈を掘りおこ す作業に、私たちの記憶を無くしかけた書き言葉が少なからずも寄与しうるという保証は、しかしどこにもないのである。

(注)『批評という鬱』「はじめに」より

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