トップへ

(その1へ)

 『風たちぬ』とファウスト問題(2)
     ――ジブリのなかの命と私を振り返りながら考える

         
村瀬学

 Ⅱ 「火」と「石」への問いかけ
―「もののけ姫」から『風立ちぬ』へ―

    「技術」と「火」

 宮崎駿は「技術」と呼ぶものが実は「火」の技術であることに早くから気がついていた。あらゆる技術は「火の技術」であることについて。「火の技術」とは、たき火をするような火の技術のことではない。もっと激しい高温の火を使う技術のことである。それは具体的に言えば、「鉄」を作り出すような「高温の火」を使う技術のことである。この「鉄を生む火=技術」のことに宮崎駿がはじめて自覚的に取り組んだのは『もののけ姫』で「たたら製鉄」を描いたときである。

  よく知られているように、『風の谷のナウシカ』は「火の七日間」という大きな戦争のあったあとの物語として設定されていた。「火」が世界を破滅させていたという設定である。そうした世界を滅ぼす「火」の恐怖は、後の時代まで「火を噴く巨神兵」の恐怖として残されていた。そんな「火の技術」を扱うトルメキアの軍隊に対してナウシカが立ち向かうのだが、ナウシカの乗り物メーヴェが、「火を噴く小型軽量飛行体」であることはすでに見たとおりである。ナウシカは、この「火を噴いて飛ぶもの」に依存しない限り、物語の中で活躍することはできなかった。しかし、ナウシカの物語の中では、巨神兵の噴く火については「問題」にされても、メーヴェの噴く火について「問題」にされる場面は描かれなかった。

 次の『天空の城ラピュタ』にも「火」のテーマがあったことは見てきたとおりである。空飛ぶ島ラピュタの下部から、おそろしい火の玉が発射される。巨神兵の噴く火のようなものが、ラピュタから発射される。それは「ラピュタの雷」と呼ばれる邪悪な火であるが、その「火」がどこからもたらされるのか?ナウシカでは追求されなかったテーマが、この『天空の城ラピュタ』では少し描かれる。それは「飛行石」と呼ばれる「鉱石」の存在である。

 このアニメが「鉱石」を重要視していることは、物語の最初が鉱山の町を巡って展開されているところを見てもよく分かる。その鉱山の主要な産物は「石炭」のように思われるが「飛行石」も採れるのである。使い方によれば、人を浮揚させることもできれば、強大な島を丸ごと浮揚させることもできる「飛行石」。この「飛行石」とは、おそらく内部に不気味なエネルギーを秘めた鉱石の理想型と考えるといいだろう。

 そういう「飛行石」の亜種が、キュリー夫人の発見した「青く光る石」、つまり「ウラン鉱石」だと考えるといいと思う。そして「技術」の力を借りれば、この「鉱石」から莫大なエネルギーを取り出すことも可能になってきたのである。ラピュタの技術者たちは、その「飛行石」から、物を浮遊させるエネルギーと同時に、物を破壊するエネルギーも得ることができたのであろう。「技術」を使えば「青く光る石」から町を丸ごと消滅させるだけの火を発射させることができるのである。『天空の城ラピュタ』は、そういう「石」と「火」に関わるイメージを映画を通して描いていた。

 そして『もののけ姫』が作られる。ここではじめて、私たちが「技術」として意識しているもの、とくに「近代技術」としての源が「鉄」にあることが描かれる。この「鉄」によって「近代の武器=鉄砲」が作られるのである。そして、その火を噴く武器が、その後の世界の大きな戦争を開いてゆくことになる。

  この近代の「技術」は「火の技術」であり、この「火の技術」とは、「鉱石」から「火=エレルギー」を取り出す技術のことである。それは古代の錬金術から引き継がれてきたものであるが、その技術の関わる技術者の形象として「ファウスト」が作られていった。そういう意味では「たたら製鉄」を踏まえて鉄砲を作る「烏帽子御前」は「女ファウスト」として描かれている。

  『千と千尋の神隠し』では「火の技術」への関心は後退したかのように見えているが、そんなことはない。この映画の重要な舞台は「湯屋」であり「銭湯」である。そこには水をお湯にする「ボイラー」が重要な役割を果たしている。その「ボイラー」に使われるのが「石炭」である。「石炭」が無い限り「湯屋」そのものが成立しない。

  この「ボイラー」という「蒸気機関」が発明されるのは近代である。そんな「ボイラー」が「湯屋」にあるという事を、大まじめに考えることはとても難しい。作品の時代背景が難しいというような野暮なことをいっているわけではない。「蒸気機関」が物語の中心にあることを考えることが難しいのである。というのも、「ボイラー」があるという事は、そこに石炭という鉱石を扱う高度な技術があるという事であり、その「技術」を担っているのが多足の「釜爺」なのであるが、その「釜爺」という存在を考えることが、とても難しいのである。

 彼は、石炭で湯を沸かすだけではなく、鉱物を砕いて薬を調合している。薬湯の薬である。そんなふうに「鉱石」を多方面に利用する「釜爺」は、まるで近代ヨーロッパに出現した新型の錬金術師のようである。そんな「湯屋」になくてはならない「石炭」や「鉱石」を、湯婆婆がどこから調達して釜爺に渡しているのかは映画では問題にされない。

 しかし「石」からエネルギーを取りだし、湯を沸かすというこのボイラーの仕組みは、実は原子炉の仕組みと同じなのである。宮崎駿が、「技術」が「火の技術」であり、その「火」は、たき火のような火ではなく、「石」から取り火であることを意識し始めたときに、「石の火」を操るものを「釜爺」として形象化し、その「問題点」を先送りしたのである。
 

  2 「石」から「地殻変動」へ

 こうして『ハウルの動く城』が構想される。原作は『魔法使いハウルと火の悪魔』で、まさに「火」を中心テーマにした作品であった。この作品でも、城を動かす「ボイラーの火」が「問題」になっている。その「火」を受け持つのが、カルシファーである。『千と千尋の神隠し』のボイラーでは石炭が使われていたが、ここではそうではない。カルシファーという存在そのものが動力源になっている。ではカルシファーは何者か。なにかしら「火の悪魔」というような、魔法使いなのか。そんなことはない。映画の中では、彼は、はっきりした位置を与えられている。それは、「流れ星」という設定である。もし彼が流れ星なのだとしたら、彼は「隕石」という「石」であることになる。「隕石」とは「飛んできた石」であり、「飛行石」である。映画ではこの「石=隕石=飛行石」のもつ秘められた力によって「城」が動かされていることになっている。

 ここでも注目すべきは、宮崎駿が「動力源」として「石」に関心を寄せているところである。石炭―飛行石―隕石、と続くこの「動力源」を巡る「石」への思いは何を語っているのか。それは古代から始まる「石」の加工、つまり「錬金術」の系譜をたどっているという事であり、その技術は近代に入り「石から火を取り出す技術」になっていったということへの関心である。

  それは「燃える石=石炭」の発見から、「核分裂する石=ウラン鉱石」の系譜への関心につながる。「石のもつ力」を考える者は、究極の石として「ウラン鉱石」を考えざるを得なくなる。「ウラン鉱石」を考えるとは、ボイラーを燃やす石を考えるというのではなく、「大地」そのものを燃やすエネルギーを持ったものを考えるということになってゆく。

 こうして『崖の上のポニョ』(2008719日公開)が作られる。この作品は、子ども向けの人魚・ポニョの物語のように思われているが、そういうものではない。魚のポニョが海底から人間になろうとして無理をするために、地球に地殻変動が起こる物語である。その地殻変動が津波と洪水を起こすのである。この作品は、奇しくも2011年(平成23年)311日に起こった東北大地震・大津波の先取りをするような内容にもなっていたので、話題を呼んだが、多くの人は偶然にそうなっただけだろうと思っていた。

 魚が崖の上まで上がってくるには、何億年の時間がかかっている。その時間を縮めて、数時間で魚から人間になろうというのである。そういう長い時間をかけて起こるものを、短い時間でおこなうと、その長い時間の間に起こったであろう地殻変動も短い時間の中で一気に起こることになる。それが、ポニョの引き起こす急性な地殻変動と津波であった。

 このポニョという造形に近いものが、ウランの核分裂である。核分裂は、本来であれば、宇宙的な時間の中で起こってきたものである。それが、短い時間の中で起こる。ポニョにはそういうイメージがダブっている。ポニョの持つそういう爆発力をよく察知していたのは、「フジモト」である。彼はポニョの力を封印しようとするのであるが、それができないままにポニョは爆発し地上に噴出する。もし、このポニョに別なネーミングが許されるとしたら、アトムの妹の「ウランちゃん」のネーミングが与えられることになるだろう。

  フジモトとポニョとウランを結びつけるのは悪趣味だと言われるかも知れないが、しかしフジモトの乗る潜水艦は、『海底二万里』に登場する「ノーチラス号」をモデルにしていると言われていて、そうだとすると、この「ノーチラス号」はアメリカの作った世界初の原子力潜水艦の名前にもされていたことを思い出させることになるだろう。ポニョと原子力の問題は、そんなに遠い問題ではなかったのである。

 

 そして『風立ちぬ』が作られた。ここでも「関東大震災」という大きな地殻変動が描かれた。「零戦のアニメ」を描くのに、なにもわざわざ大地震を描くことはないだろうと思われた人もいるかもしれない。確かに「零戦のアニメ」を作りたいだけならそういうことは言えるだろう。もちろん、「零戦」の生まれた時代背景を描こうとしたら、「関東大震災」の起こったことは無視できないのだよ、ということで「説明」することも可能である。しかし、『崖の上のポニョ』で「大津波」と「大洪水」を描き、『風立ちぬ』で「大地震」を描こうとしたのは、単なる時代背景がそうであったからというような理由ではないものがあったはずなのである。それが「地殻変動」を描くというテーマである。いったい「地殻変動」とは何なのか。

  それが「石」の動きであり、「石」が動くという問題である。それは「石」が「火」を秘めているということ、つまり「石」にエネルギーが秘められているということの「問題である。そこに目をとめたのが古代からの錬金術師であり、近代に科学技術のはじまりであり、そこに目をとめるファウストたちの出現

であった。そのことを考えると、宮崎駿が、ずっと「石」にこだわってきたということで、彼のファウスト性も見えてくることになり、そういう「石」への着目の延長に、ポニョの津波、『風立ちぬ』の地震という「地殻変動」への関心があったことが分かってくるのである。

  多くの人は、なぜ宮崎駿がポニョで「大津波」を描き、風立ちぬで「大地震」を描いているのかよく分からないと思ってきたと思う。しかし理由はあったのだ。つまり『崖の上のポニョ』を「津波」のアニメと思ったり、『風立ちぬ』に「大地震」描かれているというだけでは不十分で、そこにはともに「地殻変動」のテーマが描かれているとみるべきなのである。

  こうした巨大な地殻変動が身近に起こる時代が再びやってきたという時代、技術的にも、人工的な地殻変動(原子力の核分裂)を起こせる時代になってしまったときに、人類が世代を紡いで生きる形をもう一度見直す必要に迫られているところがある。おそらく宮崎駿はそういうところを認識していたと私は思う。ではその世代を紡ぐ形は何かと考えると、多くの知識人は陳腐と思うかも知れないが、「結婚」という形だったのである。

 近代に入り怒濤のように押し寄せる「技術」の波に乗りながら、ファウストたちはそれで十分だと感じ、「おひとりさま」を謳歌して「結婚」を軽んじてきていた。宮崎駿は「零戦」という近代技術の粋を集める飛行機を作るファウストを描きながら、ここを描くには同時に「結婚」というテーマを描かなくてはと、きっと考えていったと私は思う。たとえ「メロドラマ」を作るのかと嘲笑されるのを予期してでもである。

 

  3 アニメ「技術」のもつ闇

 

 『風立ちぬ』の中で、一つ、私がとても気になり心に残っている場面がある。それは二郎が買ったばかりの洋菓子を、子守をしている女の子にあげようとするシーンである。明らかにお腹がすいているはずの子どもが、そのお菓子を受け取らずに、弟と共に逃げてゆくシーンである。私は、映画を見ながらこの女の子はお菓子を貰うんじゃないかと思っていた。でも、その予想に反して、女の子は厳しい表情を見せて、お菓子をもらうのを拒んで、逃げていったのである。私は予想の外れたことに、その時正直驚いてしまった。そうするとその場面の後で、その話を聞いた友人の「本庄」が、そんな行為は偽善だというようなことをいう場面が来たので、それにも驚いた。

 映画の本筋からすると、どうでもいいようなささいな場面ではあるが、なぜそのような場面に妙な思い入れをもって見てしまっていたのだろうと、私は後になって考えていた。それは、もちろん私の「予想」が外れたという理由によることが大きいが、なぜ予想が外れたのかとともに、なぜそんな場面を作者は描き込もうとしたのかということも気になっていた。

  この場面は、戦争の最中でも(むしろ最中だから)、子ども達は見ず知らずの人から物を貰うことの「怖さ」を親からたたき込まれていた反応、と読み取ることも出来るし、世間知らずの二郎が、おいしそうなお菓子をあげると言えば、子どもは誰でも喜んでもらうものだと思い込んでいたことを描いたものだと、読み取ることもできる。

 しかし私は、この場面には、「甘いお菓子」を見せつけるファウストと、それを拒む「小さなグレートヒェン」が描かれていたようにも、今になって思うところがある。二郎の「夢」をはっきりと拒否しているのは、この少女だけだからである。

 あの少女の拒否は、自分が「悲劇のグレートヒェン」になってゆかないための第一歩だったのかもしれないと。そしてあの少女の拒否は、『千と千尋の神隠し』で、カオナシが千に、「金」をあげようとしたときに、それを拒むシーンを思い出させる。この時に、千は何を拒んだのかというという問いかけが、『風立ちぬ』のあの子守の少女の拒否を問うことにつながっているはずなのである。

 「ジブリの夢」を拒否する子どもも描きたい!という宮崎駿の思い。

 

  「ジブリの夢」は「ジブリの技術」とともにある。その「技術」は多くの観客を魅了してきたものではあるが、私は、同時にその「技術」のもつ非人間的な側面も感じている。

 たとえば、「NHKプロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿スペシャル 風立ちぬ 1000日の記録 2013.8.26放映」で放映されたある場面がそういう側面をよく映し出していた。それは「関東大震災」の「たった4秒のカットに1年3ヶ月を費やした」というナレーションが流れた時である。宮崎駿はそのカットを描いたスタッフに「よくやった」と声を掛け、試写会を見たそのスタッフは「あっという間でびっくりしました」と苦笑いをしていた。そこで宮崎駿は「あっという間以上のものがあった」「うまくいった」と繰り返し労をねぎらい、スタッフは「ありがとうございました」と照れながら答えていた。何かしら寒気のする場面だった。

  たった「4秒のカット」に、「1年3ヶ月」も費やしたということが事実なら、あまりにも過酷な作業を命令されて作っていたのではないかと私は思う。「4秒」に凝縮される「1年3ヶ月」は不自然である。そういう不自然さに支えられて「アニメの夢」が作られるときは、そういう「夢」を拒否する「少女」がいてもいいのではないか。

 

 

 おわりに ジブリの命と死というテーマについて

  こうして振り返ってみると、宮崎駿の作品には、「夢」を与えながら、それでもさりげなくであるが「夢」を拒む姿勢が描かれていることに気がつく。「夢」には、大地の足かせを解き放ち、大きな可能性へ向けて飛翔させる力がある。それは命の飛翔をもたらせてくれるものであるが、同時にそれは大地を失わせる飛翔であり、「大地の死」をもたらすものでもあった。いみじくも『天空の城ラピュタ』はラピュタ島が「大地」から離れて「飛翔」してしまったときの悲劇を描いたものであったが、「夢」と「技術」が、同時に「倫理の死」を孕むものであるという、その矛盾にできるかぎり向かい合おうとしたのが最後の『風立ちぬ』であったのではないかと私は今は思っている。
(おわり)