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   『風立ちぬ』とファウスト問題 (その1)

―ジブリのなかの命と死を振り返りながら考える


        村瀬 学


 「ジブリの中の命と死」というお題をもらっていたが、「ジブリ」一般に広げると私の思考できる範囲を越えてしまうので、ここでは宮崎駿が監督をつとめた映画を中心に、そこで描かれてきた「命と死」について考えてみる。というのも、宮崎駿の描こうとしていた「命と死」のイメージは、他の監督とおもむきがかなり違っているように私には思えるからである。そして時は折しも『風立ちぬ』が封切られた直後で、この作品で監督は「引退宣言」もしているので、この新作の持つ意味から、それまでの作品群の持つ「命と死」を振り返って考えてみたい。

Ⅰ 「飛翔する夢」へ向けて


1 『風立ちぬ』と「美しい夢」

 『風立ちぬ』は、ジブリの特有の前宣伝で、「零戦のアニメ」というようなイメージで広められた。案の定アニメを見た直後から、零戦を謳歌しているとか、戦争への反省の色のないアニメというような批評がネットで流された。無理解な批評ということもあるが、前宣伝の結果とも言える反応で、こういう「前宣伝」と「作品」の乖離は、いつも不愉快に感じるところだ。

 映画のパンフレットでも、宮崎駿は「かつて、日本で戦争があった」と書き出し「そして日本は戦争へ突入していった。当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか」「この映画は、実在の人物、堀越二郎のの半生を描く--」と書いていた。いかにも「戦争」に関わる映画なのだというような「前宣伝」である。そういう「宣伝」のもつきな臭さを察してか、ジブリの鈴木プロデューサーは、「宮崎駿監督は、戦闘機が大好きだが、戦争は大嫌い」という「矛盾の人で」という話をわざわざ語り、火消しの配慮を見せていた。映画『風立ちぬ』は、しかし本当はそういう鳴り物入りではじまるのではなく、もっと静かに送り出されるべき作品であったと私には思われる。

 もし「前宣伝」のように、「零戦を作った堀越二郎の生涯」を描きたかったのなら、まさに彼の生涯にだけ的を絞って描けばよかったはずである。そうすれば、戦争と技術者の苦悩が、もっと掘り込んで描けたように思われるし、現にそういう指摘をする批評もあった。しかし宮崎駿は、「美しい飛行機」を作る男のアニメに的を絞らずに、結核に冒された菜穂子との結婚のストーリーを作品の後半に組み込んで描いていた。そこがきっと今回の映画の見所だったはずなのであるが、妙なことに、彼は企画書で、「この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公"二郎"に仕立てている」と説明していた。主人公はあたかも「二郎」一人であるかのように。「前宣伝」としてのこの「説明」には、しかし重大な「間違い」がある。無意識にそういう間違いを犯しているのか、意図的にそういう「間違い」の「説明」を書いているのか、わからないが、その「説明」は「事実」ではない。というのも、実際の映画は、「堀越二郎と堀辰雄をまぜて、ひとりの主人公"二郎"に仕立てている」のではなく、「堀越二郎と堀辰雄をまぜて、二郎と菜穂子の二人の主人公を仕立てている」ことになっていたからである。

 大事な事は、「堀越二郎と堀辰雄をまぜて、二郎と菜穂子の二人の主人公の物語を作った」という、誰が見てもそうなってしまっている映画があるのに、なぜわざわざ「零戦のアニメ」というような無理な宣伝をしなくてはならなかったのかにある。それを「問題」にするためには、やはりこの映画の本当の狙いがどこにあったのかが問われなくてはならないのである。宮崎駿は何を作ろうとしていたのか。おそらくは今回の作品は宮崎駿にとっては特別な作品になっていたはずである。特別なというのは、彼のアニメ制作人生の決算的な作品という意味である。古い言い方をすれば「総括」という意味合いを持った作品になっているという意味である。そのことを考えるためには、この映画で繰り返し出てくる「美しい夢」というイメージについて考えてみなければならない。

2 「美しい飛行機」の「美しさ」とは何か

 映画の最初に、少年時代の二郎が飛行機に乗りたいと思う夢が描かれる。しかし、視力に問題があり、操縦士にはなれない。そこで夢の中で、飛行機の雑誌で見たカプローニ博士に出会う。彼は自分も飛行機の操縦はできないが、飛行機の設計ならできたという。そして「飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ」という話を聞き、夢から覚めた二郎は「ぼくは美しい飛行機を作りたい」と母に言う。そして、その「美しい」と呼ばれるものに二郎は引きつけられ、成人になった二郎は、現実に「飛行機の設計技師」として就職する。

 しかし考えてみたら「美しい」とは何なのだろうか。はっきりしているのは、二郎は「美しい夕焼け」とか「美しい花」と呼ばれるような「美しい」ものを求めているのではないということだ。「美しい飛行機」を求めているのである。そのために彼は「飛行機設計士」になる。彼が向き合っているのは、いつも製図台と方眼紙である。そして「計算尺」を片手に持ち、数字と数式と図をいつも描き込んでいる。

「美しい夕焼け」と「美しい飛行機」の「美しさ」はどこが違うのか。それは後者の「美しさ」が「技術・テクノロジー」にあるところだ。二郎の「美しい夢」は、実は「人」に関わる「美しさ」ではなく、「技術」に関わる「美しさ」である。技術というか、幾何学というか、数理的な美しさである。古来から、人に関わるものは「倫理」と呼ばれ、技術に関わるものは「美学」と呼ばれてきたが、二郎の関心を寄せていたのは、まさに「美学」だったのである。その証拠に、映画を見ている観客には、ひたすら設計図を見続ける二郎の姿が写る。数理的理性を生きる二郎の姿。生きている魚ではなく、魚の骨の曲線に「美しさ」を見る二郎は、そこに数理的な極みの「美しさ」、つまり「美学」を見ているのである。そしてそれは宮崎駿の姿に重なる。アニメを求めるものは「美学」を求める。恐ろしいことは、「美学」を求めることと、「倫理」を求めることの間に、つながらないものがある、ということだった。

 二郎の思い描く「美しい飛行機」には、だから矛盾があった。それは宮崎駿の求める「美しいアニメ」のもつ矛盾に重なっている。

 映画の夢の中で、二郎はカプローニと「美しい飛行機」について語りながら、銀色のシンプルな飛行機を、まるで紙飛行機を飛ばすように、片手で持って飛ばすシーンが出てくる。夢の中で描く美しい飛行機なので、それはそれでいいと言えるのだが、しかし「美しい飛行機」というか、「飛行機の美しさ」は、そんな「紙飛行機」のような「美しさ」ではあり得ないことは作者にもよくわかっている。本当の飛行機は「火」を噴いて飛ぶものだからである。

 ここに二郎の夢想する「美しい飛行機」と、「火を噴いて飛ぶ飛行機」の間の乖離がある。映画の中盤、軽井沢のホテルで、二郎と菜穂子が出会い、「紙飛行機」を飛ばし戯れるシーンがある。重要なシーンである。「紙飛行機」の持つゆっくりした時間が、二人の時間、つまり、やりとりし戯れることのできる時間を作り出す。「倫理の時間」である。しかし、二郎が設計するのは、そういう「紙飛行機」ではない。「人間の時間」をあっという間に飛び越える、「火を噴く飛行機」である。映画の中では、二郎はそんな「火を噴く飛行機」の設計に夢中になる。

 この「美学の美しさ」を求める二郎の姿は、明らかに「美しいアニメ」を作りたいと願ってきた宮崎駿の姿そのものである。「美しいアニメ」は、狭い大地にくくりつけられることからの「解放」を目指している。そういう「解放力」をもつアニメは、「大地から飛ぶ」。まさに「美しいアニメ」は「飛ぶ」ものとしてあったのである。

 だから宮崎駿の作るアニメには「飛ぶもの」が登場してきた。そこには宮崎駿の「美しい夢」が折り込まれていた。しかし、「大地」を蹴って「飛ぶ」ものには「技術」がいる。たとえアニメであっても、「飛ぶもの」は「技術」で飛ぶのである。宮崎駿は誰よりもそのことを深く認識していたと私は思う。

『風の谷のナウシカ』のメーヴェは「火を噴いて飛ぶ」ものである。しかしこの映画を見た人たちは、この火を噴くメーヴェの燃料が、どこで手に入れられているのかなどということには注意を払わない。もちろん、メーヴェのエンジンが鉄でできており、その鉄を風の谷の人々はどこから調達しているのか、などといったことにも関心を向けたりはしない。

 しかし「飛ぶもの」を描いてきた宮崎駿は、最初から、大地を蹴って「飛ぶこと」が根本に抱えている「火」の問題を、無視できないと痛切に感じていた。ナウシカを乗せて飛ぶメーヴェの姿は「美しい」けれど、その「火を噴く美しい姿」は、『風の谷のナウシカ』の後半に出てくる「火を噴く巨神兵」と全く別物ではないことがよくわかっていたからである。

『風の谷のナウシカ』のあと、再び「火を噴いて飛ぶもの」を別の側面から描く『天空の城ラピュタ』が作られる。ここでは、ドーラたちの乗る蠅のような乗り物の可愛らしさに目を奪われてしまうが、これも「火を噴く乗り物」である。それに対してパズーとシータは「凧」のような「乗り物」にのってラピュタに不時着する。この「凧飛行機」は「火を噴く動力源」を持っていない。宮崎駿は、この作品で、「火を噴いて飛ぶもの」と凧飛行機のように「火を噴かずに飛ぶもの」を意図的に分けて描いている。そして最後に「島の下部から火を噴く」恐ろしい「ラピュタ」を描くことになるが、そこには巨神兵の別の姿が見て取れたものだ。

 そうした「火を噴いて飛ぶもの」への異和が高じると、どうしても「火を噴かずに飛ぶもの」を描きたいという夢に向かわざるをえなくなる。そうして生まれるのが『となりのトトロ』であり『魔女の宅急便』であった。トトロも猫バスもキキも「飛ぶもの」であるが、「火を噴いて飛ぶもの」ではなかった。彼らの乗る「こま」や「ほうき」は、魔法で飛ぶという言い方を避ければ、「紙飛行機」のように「飛ぶもの」であった。

3 宮崎駿と「ファウスト問題」

 「火を噴かずに飛ぶもの」をトトロのように描いても、宮崎駿は、「美しい夢」を描くことができたとは思うことができなかったはずである。「火」の問題を回避して「夢」を描くことは、どこか納得できないところを感じていたはずだからである。「火」を噴かずに「飛ぶ」ことは人間にとって不可能なのである。 「飛ぶもの」を求めるものは、たとえそれがどんなに「美しいもの」であっても「技術」を抱えている。その「技術」は「火を使う技術」である。そして「火の技術」を求めるものは、必然的に「倫理」を飛び越えてしまうところがある。そういう「問題」は、本格的に「技術」に直面したルネサンスに生まれた。そして多くの作家はその問題を「ファウスト」という形象にたくして「問題」にしてきた。

 宮崎駿は老年になって、自らのアニメ人生を振り返ろうとしていた、はずである。それを「美しい飛行機」を作りたかったという『風立ちぬ』の二郎の夢に重ねるように考えようとした。しかし「美しい飛行機」を作ることも、「美しいアニメ」を作ることも、その「美しさ」を支えるのは「技術」という「数理的な理性」であった。そうなると、ここでどうしても「倫理」を飛び越える思考と向かい合わざるを得なくなる。そこに同じように「ファウスト問題」が出てきていたのである。

 ゲーテの『ファウスト』に、ファウストが「飛翔の夢」を語る有名な下りがある。第一部の「市門の外」で弟子のヴァーグナーに語るシーンである。

見るがよい 夕日の赤く燃える中で
緑に囲まれた家々がほのかに光っている。
一日が終り 太陽は今この地から退き
新しい土地で新しい生命を呼び起こそうと先を急いでいる。
おお われに翼あれば 大地を離れ
太陽を追ってどこまでも 力の限り飛び続けたきものを!
その時 空飛ぶ私を包む永遠の夕映えのなかで
静かなる世界が目の下遥かに横たわり
山々は火と燃え 谷間は深くしずまり
銀色にせせらぐ小川が金色の大河に流れ込むのが見えよう。
ゲーテ『ファウスト上』柴田翔訳 講談社文芸文庫2003

 ここでファウストは人々の生きる大地(倫理)を離れ、太陽を追ってどこまでも「飛べる翼」があればいいのにと語る。『ファウスト』の中でも心に残る最も美しい「語り」であり、恐ろしい「語り」である(蛇足でいえば、この「語り」の美しさ、格調の高さを味わえるのは、柴田翔訳だけである)。そして、この「語り」は、二郎の求める夢と同じであることがわかる。二郎は、それを単なる「夢」にしないで、実際に大空を飛べる飛行機を作る夢へと発展させる。

 そんなゲーテの『ファウスト』と、『風立ちぬ』を、とってつけたように結びつけていいのかと言われるかも知れないが、そうではない。それは私の勝手な読み込みではない。『風立ちぬ』で「カプローニ」の声を演じた野村萬斎が、映画のパンフレットの中でこんなコメントを寄せているからだ。「私が演じるカプローニは、主人公である二郎に対して一種の啓示をしていくかなりセイントな感じの人物かなあとおもっていました。ところが宮崎監督から、「カプローニは二郎にとっての"メフィストフェレス"だ」という説明を聞き、この映画の中で描かれる夢とは、「良いのか悪いのか解らないけれども"悪"かもしれない」という危険を孕んだものを意味するものなのだと感じましたね。」と。宮崎駿が、もしカプローニを「メフィストフェレス」だと考えていたのなら、「ファウスト」は他の誰でもない二郎ということになるだろう。もし「美しい夢」を実現するように勧めるカプローニが「メフィストフェレス」として宮崎駿の中で意識されていたのだとしたら、彼は相当「危険」なことを二郎に勧めていたことになってくる。

 それでも「ファウスト」の話が『風立ちぬ』にあるなどと思えないという人のためには、この映画のタイトルの出所に関心を寄せもらうといいかもしれない。「風立ちぬ」は、これも「宣伝」されてきているように、ヴァレリーの『魅惑』という詩集の中の「浜辺の墓場」という詩篇の最後の方の一節を堀辰雄が「風立ちぬ」と訳したところからとってある(これも蛇足になるが、ヴァレリーの詩は、精神科医・中井久夫の古風な訳『若きパルク/魅惑』みすず書房2003改良普及版が味わい深くていい。しかし「風立ちぬ」は中井訳では「風が起こる」と訳されている)。宮崎駿が堀辰雄だけに関心を寄せていたのか、ヴァレリーにまで関心を寄せていたのかは定かではないが、でもヴァレリーの詩集を『クローデル・ヴァレリー』(筑摩世界文学大系56)で読んだ人なら、ヴァレリーの最後の作品として『我がファウスト』が収められているのを知っていることになる。ヴァレリーも晩年は「ファウスト問題」に関わらざるを得なかったのである。

 そんなヴァレリーまで持ち出さなくても、手塚治虫の遺作となった『ネオファウスト』朝日新聞社1989に関心をもってもらうのもいいかもしれない。宮崎駿の偉大な先行者であった手塚治虫の書き続けた未完の『ネオファウスト』は、まさに鬼気迫る作品である。手塚治虫もまた最後に「ファウスト問題」を考えていたのである。(この手塚治虫とファウストの問題は、これはこれで別途考察される必要のある大事なテーマである)。

 「ファウスト」には、それを物語る人の数だけの「ファウスト」があるのかもしれないが、それでも宮崎駿の意識した「ファウスト」は、やはりゲーテの『ファウスト』を継承している。それは先ほど引用した「飛翔の夢」に大きく関わるということもあるが、それ以上にもう一つの大事なテーマを宮崎駿はゲーテから引き継いでいたからである。それは「グレートヒェンの悲劇」の問題である。『風立ちぬ』に「ファウスト問題」があると私が考える時には、「飛翔の夢」と同時に「グレートヒェン問題」つまり「菜穂子の問題」が折り込まれていることを私も考えているのである。

 私はここで何からしら特別なことを指摘しようとしているのではない。芸術家の多くは、大なり小なり自分の人生を振り返るときに「ファウスト問題」にぶつかってきたのではないかと思っているのである。そして宮崎駿も、実は『風立ちぬ』の制作過程で、そういうことを考える「時」を持っていたのではないかないかと私は感じているのである。

4 『風立ちぬ』と「メロドラマ」

 そうなると『風立ちぬ』における「ファウスト問題」とは何なのかということなる。それは「零戦のアニメ」を作りたいと思いながら、作品の半分に「菜穂子の物語」をどうしても組み合わさなくてはならないと感じた問題でもある。宮崎駿が「ファウスト問題」に向き合った結果の展開である。そして事実、「零戦の映画」は、二郎と菜穂子の二人の物語へと修正されることなってゆく。

 ここで実際に『風立ちぬ』を見た身近な学生の二つの反応を紹介してみたい。というのも、従来の宮崎作品を見てきた反応とはずいぶん違った反応を彼らは見せていたからである。

 一つは「よくわからなかった」という反応である。この「よくわからなかった」という反応には、注釈がいる。「よくわからない」という反応には、従来の「よくわかる」宮崎アニメとの無意識の比較があったからだ。

 たとえば、「面白かった!」という手放しの反応は、それまでのトトロやラピュタや魔女の宅急便のような作品までの反応である。心温まるファンタジーやハラハラドキドキ感のストーリー展開を見ると、観客は必ず「面白い」と感じるものである。その感じは、魔女の宅急便のような作品まではあった。しかし、もののけ姫から崖の上のポニョまでの作品は、それまでのハラハラドキドキ感とは、違った作品になっていた。それでもあえて「面白かった」と観客が言ってきたのは、それらの作品に、何かしらの「謎めいたもの」があって、そこに「面白さ」を感じていたからだと思われる。

 しかし、『風立ちぬ』となると、それまで見てきた宮崎作品とだいぶおもむきが違っていたのである。心温まるファンタジーがあるかというとそういうわけではなく、ハラハラドキドキ感があるかというと、そういうわけでもなく、ではわけのわからない「謎」があるかというと、そういうわけでもなかったからである。だから今まで見てきた宮崎作品と比較すると、どういうふうに感想を言えばいいのかわからない、と答えるのが正直な感想だったように思えるのである。だから、「面白かった」ではなく「よくわからなかった」という感想になって現れてしまっていたのではないかと。

 しかし「よくわからなかった」という反応を見せる学生とは違って、映画の後半ぼろぼろと泣き通しだったという感想を言う者がいた。ただぼろぼろ泣いたという感想をいった学生には、「えっ、どこで泣いたの?」とか、「そんなに泣くシーンがどこにあったっけ?」とたずねる者もおり、宮崎アニメを見てそんなにぼろぼろ泣くということは、今回の『風立ちぬ』特有の反応ではないかと私には思われた。

 というのも、こういう反応は宮崎監督が試写会の後で、「お恥ずかしいことですが、自分の作品を見て泣いたのはこれがはじめてです」とあいさつをしていたことにも関係しているように思えるからである。もちろん、「泣く場面」や「泣いた理由」をたずねるのは野暮なところがあるだろうし、映画のパンフレットの中のインタビューで宮崎監督も、そういうことをたずねられて、「なんで泣いたか自分でもわからないんですよ」と答えていた。

 私には、映画を見てぼろぼろ泣いたという学生や、自分の作品を見て泣いたという宮崎の反応を、どうでもいいようには思えない。こういうふうに男女の悲恋のようなもので泣かせるドラマは普通「メロドラマ」と言われてきた。そういう意味では『風立ちぬ』はメロドラマ仕立てになっていた。「メロドラマ」というのは広辞苑6版では、「波瀾に富む感傷的な通俗恋愛劇」と説明されている。宮崎駿が泣いたのは、もちろんそういうメロドラマのせいではないのだが、彼は「零戦のアニメ」という「前宣伝」を裏切るようにして、意図的に後半を「メロドラマ」として作り上げる決意をしていた。そうなると、『風立ちぬ』には、ファンタジーや、ハラハラドキドキ感や、わけのわからない「謎」などはないが、「メロドラマ」にはなっている、ということで、そこに観客の反応があったという事は十分に言えると思われる。

 もちろん、往年の宮崎アニメファンにとっては、宮崎アニメがまさかそんな「メロドラマ」のような作品になっているとは思って見ないから、信じられないという感じもあり、だから「よくわからない」という反応を示していたのかもしれないし、その「メロドラマ」に素直に反応した観客は、「ぼろぼろ泣いた」ということになっていたのかもしれない。

 そうなると疑問が残ることになるだろう。なぜ「零戦のアニメ」のような触れ込みで宣伝をしながら、「メロドラマ」のような体裁のアニメを意図的に作らなくてはならなかったのかという疑問である。そしてそうやってできた作品を見て監督自身がなぜ泣いたのかという疑問。その疑問を考えるには、どうしてもこの映画があるテーマをもって作られていることに再度思いを寄せなくてはならないだろう。それが、「ファウスト」のテーマだったのである。そしてそのテーマは、くり返して言えば、往年の作家たちが、人生の集大成として考える時の巨大なテーマとしてあったものなのである。


5 二郎と菜穂子 ーなぜ「結婚」を描いたのかー

 「ファウスト」のモデルはいろいろあるのだろうが、ここでは近代の始まりに「技術」と「錬金術」に関わった知識人の総体をイメージしておく。彼らファウストたちは、広がり始めた近代技術(科学技術)を前に、その技術の未曾有の可能性に導かれ、寝ても覚めてもその技術の可能性を追い求めようとした人たちである。ゲーテのファウストはその中の一つであったが、他のファウスト像と違っていたのは、「技術」と「倫理」を対比させるように描いたところにある。つまり、「技術=数理」を求めるゲーテのファウストは、町の素朴な娘グレートヒェンをみそめても、結婚をして子どもを育ててというような倫理の道を選べずに娘を妊娠させ、その娘に嬰児殺しをさせてしまうのである。ここに「技術的・数理的理性」が「倫理の世界」と解離させる「ファウスト問題」が現れていた。それは「近代」の「理性」の抱える大きな問題であった。そして実は、堀越二郎も、一人のファウストとして映画では登場していたのである。

『風立ちぬ』が、もし宮崎駿の「総括」として意識されていたのだとしたら、そこでこの「グレートヒェン問題」に、彼なりの形を与えなくてはと思っていたように思われる。そのことは、それまでの作品を振り返ることで見つめられるものであろう。

 『ルパン三世 カリオストロの城』では、クラリスの淡い思いをよそに、泥棒稼業に邁進したいルパンはさよならをするし、『紅の豚』のマルコは、ジーナの思いを、空を飛ぶものの宿命のような理由を付けて受け入れない。『もののけ姫』では、アシタカはサンに「そなたは美しい」「生きよ!」とはいうが、それまでである。『ハウルの動く城』では、あれだけ思いを語るソフィーに対して、「ああ、ソフィーの髪の毛、星の光に染まっているね、きれいだよ」といい、それに対してソフィーは「ハウル大好き」と抱きつくシーンで終わってゆく。もちろん、そういう終わり方には、それぞれの味わい深いものがあって、それ以上の終わり方はないようにも思われてきた。しかし、それらの作品では、主人公達は決して「結婚」のイメージを匂わすことはなかったのである。

 しかし『風立ちぬ』では、主人公二郎は、映画の中ではっきりと菜穂子に向かって「きれいだよ、大好きだ」「僕と結婚してください」というのである。いままでの宮崎作品にはみられなかった展開である。もちろん、こういう物語の展開をフェミニズムは良くは思わないだろうし、なぜ今頃になってこんな「結婚」などいう古くさいテーマにたちもどって作品を作ろうとしたのかと、疑問に思われるかもしれない。宮崎駿も年を取り、もうろくしてしまったのか、と冷笑されるのかもしれない。

 そうなると作品の前半で、「零戦」を描くことで「反戦家」や「平和主義者」から好戦的映画と批判され、作品の後半で「結婚」を描くことで、「女性運動家」や「おひとりさま主義」からは、前近代への逆戻り映画と批判されることにもなるだろう。

 しかし、当然のことながら、そういう批判の起こることなど百も承知で、宮崎駿はこういう展開の映画を今回あえて作っていたのである。それは「美しい飛行機」を作りたいという二郎の「夢」の実現が、人間を殺戮する武器(戦闘機)を作ることになるということ、そのことが宮崎駿にもよく分かっていて、そうした「死」を抱える技術者が、ここで選択するのは、「命」を育むことになる「結婚」なのだという「思い」である。マルコやアシタカやハウルが、言い出さなかったことを、ここで宮崎駿は主人公二郎に決断させるのである。

 もちろん「結婚」の話だけを映画全体から切り離して取り上げるなら、「結婚」がいいとか、悪いとか、議論する社会学的な話にすり替わってしまうだろう。大事な事は、映画の全体の中で結婚の話がどう描かれているのかというところにある。そして、実際の映画では、「零戦」の制作の話と対にされて、「結婚」の話が描かれていた。そのことをどう見るのかと言うことである。

 もちろん、こんな風に要約してしまうと、それまでのアニメの主人公達が「結婚」しなかったので、引退する最後の作品で「結婚」させる主人公を描いたと思われるかもしれない。それも誤解になる。というのもこの映画の「結婚」のモチーフは、あくまで「火の技術」を引き受けた人間の死の問題と対比させる形で提示されているからである。
                                                       (続く)