2005年05月06日 UP
=まえがき・凡例=

●石瀧豊美著『増補版 玄洋社発掘』(1997年8月25日、西日本新聞社刊)より


玄洋社社員名簿

昭和56年2月28日作成
平成9年2月28日補訂
「*」以下は今回の追記。

 ここに掲げる『玄洋社社員名簿』は、編者が個人的に収集した資料を基に、複数の名簿類を
勘案して新たに編成し直したものである。

 名簿を作成した意図は、ひとえに、玄洋社を歴史的に研究、考察する上での基本的な資料
のひとつとして、広く玄洋社に関心を持つ人々の利用に供したいという点にある。先入見にとら
われず、生きた、ありのままの玄洋社を研究の対象にしようとすれば、玄洋社員の名簿は不
可欠な資料のひとつであるはずだ。ところが、これまでは、研究の出発点であるべきそれすら
もなかった。

 玄洋社という「怪物」がいたわけではない。血の通った一人一人の玄洋社員の思想や行動の
積み重ねが、歴史における玄洋社の事跡として残っているのである。しかし、これまでの研究
では、玄洋社の三傑≠ニいわれる箱田六輔・平岡浩太郎・頭山満の人間像を基に、玄洋社
の本質が論議されてきたのである。したがって「一般の」社員たちは将棋の「歩」のように、無
名の「駒」として歴史の闇の中に、ひとしなみに姿を没しているほかなかった。編者はこの『玄
洋社社員名簿』において玄洋社員一人一人が、表情もしぐさも異なる、そしてやはりわれわれ
と同じように、具体的な人生を生きた人間なのだということを示したかったのである。そうした事
実を認識することが、当たり前のことだが、玄洋社研究の出発点であるべきだと思うのであ
る。「顔」のない「玄洋社員」はないのだから。



〈凡 例〉
一、 人物名は五十音順に配列した。読みを確定できない場合は音読みとするか、一般的な
読みに従った。表記の明らかな誤りは、漢字を訂正した場合がある。旧字体は新字体
に替えた。
一、 名簿に登載した人物が「玄洋社員」であることを認定するのに使用した資料は、bP〜
13に分類し、○◎△の記号によって明示した。すなわち、bP〜13の各欄で、人物名
の下に○◎△の記号の付されたものが、その人物名を見いだした資料であることを示
す。

* このサイトの 玄洋社員・名簿 のページでは欄内に○◎△を表示することは
していない。次項にあげた記号についても同じ。
一、 ○は一般の社員、◎はそのうちの役員、△は退社ないしその時点ですでに死亡してい
る人物の記号。しかし、かならずしも厳密なものでなく、資料の性格に応じて役員・死亡
者を区別せず一律に○を付した場合もある。

●および【◎の内側の○を黒く塗りつぶす】の記号は、同一人物が二つの項にあがっ

いるために、○および◎を他の項からそれぞれ転記したことを示す。(ただし、藤島常
吉と一造についてはbRの欄、金子克己と福住克己についてはbP3の欄で、原資料
に重記されているため、双方とも○または◎が付してある)

 玄洋社員・名簿 のページでは依拠資料を斜体の数字で示し、転記・重記に
ついては明示していない。
一、 依拠資料は玄洋社自身によって作成・公表されたものを中心とし、他に、明らかに玄洋
社関係者の監修を受けていると考えられるものに限定して選んだ。資料名および出典
は一覧表を作り名簿の前に掲げた。
一、 bP〜13の各資料は、時代順に上から下へ配列した。したがって、上部に記号が付さ
れた人物ほど活動の時期は古いことになる。
一、 簡単に「備考・略歴」を記した。これは公刊された郷土資料を中心に、各種資料を利用
して編者がまとめたものである。正確を期したが、同姓同名の異人を混同した場合が
全くないとは言いきれない。

また、資料によっては同一人物の没年、享年に異同のある場合が少なくなかった。そ
の場合、墓碑・過去帳に確かめ、旧社員や遺族に問い合わせた場合もあるが、資料

信頼度に応じて、いずれかを選択したものもある。没年の下に記した年齢は数え年に
よっている。

総じて「備考・略歴」は、編者の能力的・時間的制約もあって、疎漏はまぬがれ難い。

補・訂正が必要なことをお断りする。記述方法は、各人によって盛り込むべき情報量

違いが大きく、あえて統一しなかった。
一、 「備考・略歴」のうち〔 〕でかこんだ部分は資料bXと10からそのまま転記したもの。
《 》は編者による推定または補足。
一、 この「名簿」は、玄洋社員のすべてを網羅したものでないことは言うまでもない。あくまで
資料によって確定できた人物について登載したのであり、「最も少なく見積っても、ここ
にあげた人々は確かに玄洋社員であったこと」を表すものである。したがって、「名簿」
にもれた玄洋社員があるかもしれない。今後さらに権威ある完璧な名簿、列伝が作成
されることを期待したい。すべて敬称は略させていただいた。
一、 資料bP3として利用した「玄洋社員銘塔」には社員名簿のほかに、これを建てた(財)
明道会の役員名も刻されているので、参考までに掲げる。

 昭和四十七年建之  財団法人 明道会
理事長・安川第五郎▽理事・山内惣作 平賀衡太郎 進藤一馬 妹尾憲介 白川又茂
 矢野憲一 中牟田一義 小嶺一正 財部一雄▽監事・岡本利三郎 牟田茂雄
〈追記〉398ページ以下に掲載した「玄洋社員名簿」(喜多島家文書)はこの社員名簿には反映していない。詳しくは384ページの解説参照。
* 本サイトの 玄洋社員・名簿 のページでは喜多島家文書を増補している。



記号
  資 料 ・ 出 典
社員名簿(61人) 明治13年5月13日付「玄洋社設置届」添付▼『玄洋』第19号(昭和11年11月1日付)所載
そのうちの役員(7人)
入社届(32人) 明治13年10月26日付▼『玄洋』第19号所載
玄洋社演説会弁士(11人) 明治13年12月11日開催▼「福岡日日新聞」(明治13年12月10日付)所載
玄洋社演説会弁士(7人) 明治14年5月28日開催▼「福岡日日新聞」(明治14年5月28日付)所載
玄洋社演説会弁士(7人) 明治14年6月18日開催▼「福岡日日新聞」(明治14年6月17日付)所載
 ※ ただし重複あるため実人数は17人
届出社員(164人) 明治15年7月19日現在▼『玄洋』第19号所載
そのうちの役員(18人)
退社社員(19人) 明治15年7月19日までの退社社員(死亡を含む)▼『玄洋』第19号所載
『玄洋社改革届』記載社員(24人) 明治20年3月19日付▼『玄洋』第19号所
入社社員(9人) 明治23年9月15日までの入社社員▼『玄洋』第19号所載
満州義軍参加玄洋社員(13人) 明治37年▼『玄洋』第20号(昭和11年12月1日付)所載
『東亜先覚志士記伝』「列伝」部目次記載「玄洋社員」(31人)
玄洋社出身「福岡市会議員および主なる当局者」(34人)▼『玄洋』第36号(昭和13年4月1日付)所載
物故玄洋社員名簿(153人) 昭和9年12月調▼『昭和十年度社員名簿』(財団法人玄洋社発行)
財団法人玄洋社員名簿(117人) 昭和9年12月末日現在▼『昭和十年度社員名簿』
そのうちの「財団法人玄洋社理事及監事」(9人)
社員名簿にもれた旧社員登録(10人)▼『玄洋』第17号(昭和11年9月1日付)所載
10 財団法人玄洋社員名簿(150人) 昭和15年1月20日現在▼『社員名簿』(財団法人玄洋社発行)
そのうちの「財団法人玄洋社役員」(33人)
11 社員会費昭和18年度分納入者(93人)▼『玄洋』第108号(昭和19年5月15日付)所載
12 玄洋社新役員(39人)▼『玄洋』第113号(昭和19年10月15日付)所載
13 玄洋社員銘塔記載社員(390人)▼博多区千代四丁目、崇福寺内玄洋社墓地。昭和47年明道会建設

* 喜多島家文書の「玄洋社員名簿」(総数397人)から48人を新たに追記した。これ
は資料番号 「bP4」 として上記に準じて扱った。原題は「名簿」。次のまえがきを付
す。

「法規其他ノ事情ニ依リ、公然名簿ニ列スル能ハサル者アリ。列スト雖トモ事故発生ノ為
退社スル者アリ。亦退社ヲ命シタル者アリ。削除シタル者アリ。然ルニ玄洋社創立以来
一タヒ名簿ニ列シタル者ハ左ノ如シ。」

* 喜多島家文書は第6代玄洋社長喜多島淳氏の旧蔵したもの。

* 以上、縦書きを横書きに直している。漢数字を算用数字に改めた場合がある。



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