壁空に消えた気球(ラジオゾン デ)
一.大陸の夢
あとがき
1.旧満州国中央観象台
(一)
この頃は私の思師であった、初めて就職して、配属になった。中央観象台の予報科長で終戦時は企画室長でした、出渕先生。氏は千九百六十三年内地の中央気
象台から招聘されて、旧満州の気象関係に貢献されました。新入所当時は公私にわたり、大変御世話になりました。現在も兵庫県宝塚市にお住まいなっておら
れ、90歳を過ぎても、ご健在でおられます。
出渕先生の「旧満州中央観象台史」1988年、出渕重雄編著から抜粋したところが多い。
あの混乱の中、よくこれだけの資料を収集されたものと思います。隣接する800部隊気象部の命令で、すべての資料はすべて15日までに焼却せよとのこと
であった。部隊の指揮者に従って2〜3回中央観象台に行き手伝いをしたとのこと。南嶺会員はじめ、国立国会の図書館及び各県の図書館等にも寄付されてお
り、多くの人に読まれています。
昭和史の中で旧満州に関わる資料として貴重なものと思います。何10回が読み直して、当時のことを思い、懐かしいなどと云えるものではありません。満州
侵略と歴史の一頁を感ぜさせる本であり、私にとっては何よりも大切なものの一つであります。
1898年(明治31年)、ロシアが南満鉄道の敷設権と関東州り租借権を獲得して、東支鉄道建設局によって呤尓(ハルピン)に気象観測所が設立された、
との后鉄路に沿って、10数ヶ所の観測所が設けられた。1904〜5年の日露戦争で、軍事上の目的から、大連営口に、翌年奉天、旅順に臨時の観測所を設け
たが、後年これが関東気象台所属となった。
その後、辛亥革命によって清朝は滅亡、日本の対中国積極政策は、関東軍参謀による。満蒙領有計画が行われ、1931年(昭和6年)9月18日奉天郊外の
抑條郊外の抑條満における、鉄道爆破事件を導火線に全満に戦線を拡大したが、この抑條満爆破事件は関東軍による謀略であった。
満州事変の勃発によって、中国各地で激しい排日運動が起こり、在留邦人は厳しい生活状況においこまれ、関東軍は邦人の生命財産の安全を条件に、国際世論
の緩和に努めるため、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀を中心とする、傀儡国家、満州国を1932年(昭和七年)三月一日に独立宣言して、大同元年とし、新京を
新首都とした。
移民政策も国策として推進する、国土補助調査のため、観象所の設立を計画、大同二年八月、朝鮮総統府観象所長後藤一郎と陸軍航空本部から、土佐忠夫氏が
渡満して着々と準備が進められ、同年11月一日中央観象台官制が公布の運びとなり、後藤氏が初代の台長となって創設された。
農林・畜産をはじめ重工業を含む諸産業、治山治水、交通、航空政策および軍の要請に適合するように、急速な観象台所の建設が始まり、1945年には
76ヶ所完成したが、終戦直前には、都合により5ヶ所が閉鎖されたので、最後は71ヶ所であった。なお主要空港には最寄の観象台から気象要員が派遣されて
いた。この他に気象研究所、観象職員訓練所が設けられた。
広漠なる旧満州は東西1500粁、南北1700粁に展開された。地点の中には大興安嶺の山中、興安彼に開嶺と改称したが標高983米砂漠の中、林西、林
東、多倫、極北の漢河、北緯53度50分のように人跡稀なところ、国境線至近の治安が悪い所、、日本内地では想像も及ばないところがあった。
しかし、異境にあってこそ、体験し得た、大自然の不思議と、美しさ、突然のオーロラの出現、ダイヤモンド・ダストのきらめき見る日、黄砂に襲われて大陸
の荒っぽさに驚嘆したり、現地人との交流を今に懐かしんでいる人も多くおられた。
1931年設立以前には関東庁観測所が下連にあって、この管下に旅順、営口、奉天、長春の観測所があった。又、関東庁の委託によって数年前から開始した
満鉄の鞍山、開原、洮南、哈尓浜、海倫、斉々哈尓、鄭家屯の観測所があった。そして満州事業になって観測機関が不足していたので、関東庁の努力によって承
徳、錦州里に臨時の観測所を設け、人員を派遣したり、委託したりして観測を始めた。
昭和七年(1932年)夏、たまたま、ハルピン(哈尓浜)を中心に、かつてない豪雨があり、北満に広範囲に大洪水が発生して、「北満水災中央委員会」と
いう組織が設置され、救災事業、義捐金募集等が行われた。
この募金の一部を観象台創設のための基金として使うことが決められ、観象台ができるきっかけとなった。
1934年に中央観象台、地方観象台10ヶ所、地方観象所55ヶ所の設置計画があったが最終時には50ヶ所位であった。
創立当初は独立の庁舎はなく、新京市城内にあった、総理府内の二室を借りて業務が始まった。しかし観測施設は無く、市内錦町にあった、関東観測所新京支
所の一室を借用していた。
1936年(康徳3年、昭和11年)、南嶺に新庁舎が落成し、ようやく、観測、予報、通信、調査、天文などの業務が行われるようになった。
新天地
十七新天地 17歳で新天地(旧満州)へ就職
希望出故郷 希望に満ちて故郷を出る
黄沙春尚浅 春のはじめは黄沙の嵐
紅樹好秋穣 秋は豊穣となり紅葉は美しい
白鳥夏波及 夏は松花江、嫩江、遼河等の光景は美しく
灰空冬夜長 冬は灰色の空となり、昼の時間は短い
談朋存宿志 友と語った、気持ち、考え、希望など
夢幻未不忘 幻となった過ぎ去ったことは忘れられない
旧満州は東撫遠県東経135.20E、西新巴尓虎右翼旗115.20E,南関東州38.40N,北漢河県53.50N、人口は約430万人、内主
要都市新京、奉天、ハルピン、牡円江、チチハルの5都市で266万人、6割強で、民族別では、漢民族364万人、満州族275万人、蒙古族150万人、回
族120万人、日本人(朝鮮人を含む)120万人、その他、ゴルド族、オロチョン族、ソロン族等1万5000人。これは1940年(康徳7年)の国勢調査
によるもので、それ以降、敗戦時までは日本人も増加していることは勿論、他の民族も増加傾向にあった。
気候は、いわゆる大陸性気候で、ヒマラヤ、天山、陰山の山脈と、シベリヤ大陸の一角シホリタ山脈、長白山山脈に囲まれた、大陸性気候の最も顕著に発達す
る地域で、旧満州はその東辺に当たり、東岸気候の特徴を持っている。
1.大陸性気候−東岸気候
2.冬季の酷烈な寒気と寡雨、乾燥
3.江河の結氷、流氷、凍土、細氷
4.シューバ、つばなし防寒帽、ペチーカ
5.冬の三寒四温
6.長い冬と短い夏
7.夏季の高温多湿、特に南西部の酷暑
8.春の一斉発芽、開花
9.春秋の乾燥、冷涼、爽快
10.春の黄砂-黄塵万丈
平均気温(℃) 1月 |
平均最高(℃) 気温7月 |
平均最低(℃) 気温1月 |
降水量(mm) 1月 | 降水量(mm) 7月 |
|
新京 |
-16.9 |
28.9 |
-22.8 |
6.2 |
177.7 |
ハルピン |
-20.2 |
28.6 |
-25.9 |
4.5 | 165.6 |
依蘭 |
-20.7 |
27.7 |
-25.2 |
2.8 | 132.7(8月) |
チチハル |
-20.2 |
28.4 |
-26.4 |
1.2 | 137.2 |
黒河 |
-23.5 |
27.3 |
-28.4 |
2.5 | 150.2 |
富錦 |
-21.8 |
26.3 |
-26.4 |
1.9 | 168.8 |
綏苓河 |
-18.4 |
25.6 |
-22.1 |
0.8 | 126.9 |
牡丹江 |
-20.4 |
27.5 |
-27.5 |
3.3 | 122.9 |
延吉 |
-15.9 |
31.3 |
-23.9 |
0.1 | 83.8(8月) |
奉天 |
-13.0 |
30.3 |
-18.8 |
4.8 | 158.2 |
営口 |
-9.8 |
29.1 |
-15.6 |
5.8(2月) |
172.7 |
承徳 |
-9.6 |
31.8 |
-14.8 |
0.3 |
115.8(9月) |
赤峰 |
-14.4 |
31.3 |
-22.1 |
0.7 |
70.2 |
索倫 |
-19.6(12月) |
28.4 |
-24.3(12月) |
2.2(11月) |
73.6 |
興安 |
-28.0 |
21.9 |
-31.0 |
4.0(3月) |
167.3 |
海拉尓 |
-28.3 |
27.2 |
-24.2 |
4.3 |
88.1 |
満州里 |
-25.7 |
26.6 |
-30.8 |
1.9(2月) |
83.0 |
観象台の行政組織は交通部におかれていて中央観象台−管区観象台−地方観象台、地方気象所の外気象研究所、観象職員訓練所となっていた。
奉天管区観象台
四平・営口・連山関・万家嶺・大東・大狐山・鳳城・錦州・阜新・山海関・承徳・葉柏寿・通化朝陽鎮・老爺嶺・陶来昭・吉林・林西・聞魯・魯北・通遼
牡円江管区観象台
○哈尓浜・一面披・五常・間島・春化・東安・綏分河・東寧・虎林・饞河・羅子満・天橋嶺・八面通・宝清・額穆索・○住木斯・富錦・勃利・湖南営・依蘭・通河・綏化・鉄驪
斉々哈尓管区観象台
白城・安達・大賚・○黒河・鴎浦・呼瑪・奇克特・漢河・孫呉・嫩江・仏山・北安・克山・○海拉尓・満州里・開嶺・札蘭屯・索倫・阿尓山・奈勒穆図・免渡河
○地方観象台
(三)
国境地域16ヶ所、辺境な地域19ヶ所、砂漠地帯10ヶ所、想像を絶する環境であった。
国境、僻地は漢河、鴎浦、呼瑪、奇克特、仏山はアムール川(黒竜江)境として、ロシアとの僻地饞河は烏蘇黒江(アムール川支流)対岸にあり、東寧、春北
も沿海州のウスリースリ、ウラジオストクの北西に位置した国境である。西部部の阿穆古郎、林西、多倫も蒙古と国境に接した砂漠地帯であった。
同期生の田中脩氏(鳥取県に在住)は、敗戦時極北の漢河に勤務していた。田中氏は、終戦時の昭和二十年(1945年)七月、中央観象台予報科から漢河観
象所に転勤を命ぜられた。気象技術官養成所専修科の一期先輩に当たる竹村宰氏が現役入隊したため、その後任として極北、国境の僻地へ赴任することとなる。
黒河哈尓浜を経由して約七五〇粁、この鉄道も現在は竜鎮ー黒河間の鉄道は敗戦直後に廃止された。中央をはじめ各観象所も同僚が相次ぎ招集されて、騒然とした世相となっており複雑な心境であったことと思う。私もすでに大興安嶺の山中に野営していた。
黒河から漢河までは黒龍江遡江船が唯一交通機関であった。
遡江船が呼瑪-漢河の中間点に差しかかったとき、江の中央部で座礁という事故が起こった。まず船から対岸へのロープの架設、ロープを伝って、半裸の決死
的渡河から始まり、同乗の日本人五人と、江沿いの道なき道を探しながら徒歩での難行を続けた。途中異様な阿片窟で食を求めつつ、漢河の手前の乗船地に辿り
つき、ここから小型スクリュー船に乗船して、満身風のついたまま漢河に着任したのは八月初めであった。七月に転勤を命ぜられ赴任の途について、三週間近くかかったようであった。
鴎浦、呼瑪は遡江船で漢河に至る黒竜江岸にあって、黒河から300粁、180粁の距離にあった、漢河は約780粁の小さな集落で、県公署があったが、日本人は婦人や子供を含めて約60名位であった。鴎浦、呼瑪については全く不明である。
1945年(昭和20年)鴎浦は焼けた月日不明、翌年二月末日に呼瑪の観測所が全焼した。鴎浦はソ連のスパイによるものであると言われた。呼瑪は小使が気象暗号書をソ連に横流して庁舎に放火してソ連に逃走した事が判明するという、国境ならではの事件であった。
対岸はジムスキー、ムムスキーという、2つの村と相対している。河幅は約700米位で、憲兵隊、特務機関の他警察隊、守備隊あり、外には観測所と郵便局があった。
黒河から黒竜江の下流域に奇克特観測所があった、この地は日満系合わせて人口七百人という小さな集落で、結氷期でないときは、黒河から下流の仏山行きの
船で一昼夜の旅であった。また陸路は孫呉からバスで朝方立ちのと夕方に到着し、碆日孫呉へ引返す、一日おきの便で、工程111粁である。中間に遜河がある
が、遜河を出ると人家のない、広い原野ばかりで、雑木林に狼が出るという所がある。
昭和十二年(1937年)奇克特がまだ、黒河の出張所であった頃、簡易な観測を行っていた。その時、黒竜江上流約20粁の中の島の1っである乾岔島事件
が発生した。六月十九日突如ソ連兵の小部隊が上陸し、点灯夫、採金夫と日本人監督に退去を命じ、上流の中の島にも上陸、満人の立ち退きを要求して、ブラゴ
エスチエンスク港から艦艇十数隻を出動させて水路を封鎖する。関東軍はこれに対し、ソ連艦艇を撃波するなど、一時は憂慮すべき状態になったが、ソ連軍が二
日に撤退して落ち着いた。
奇克特は、ランプの生活で、観測所の中も夜間ランプの明るさで仕事をしていた。
仏山は奇克特から、さらに180粁下流にあった県都である。観測所職員は日本人四名と満人1名の人要であって、各地の観測所と変わらない、少人数の組織であった。
鏡河は佳木期から直線コースで約300粁黒竜江、松花江、烏蘇黒江の囲まれた。大湿原地帯の国境の街であるが、詳細は不明である。
宝清は国境地帯ではないが、東安から北北東90粁、富錦から南の120粁、餴河から南西150粁にある。陸の孤島であって、三河地帯の大湿原地帯の中央
で、完達山の北方撓力河に沿ったところに在る。任地に赴任するには、虎林線東安駅から、バスで約10時間ゆられながら奥地に入る。電々委託第1期生で初め
て勤務した。1年先輩に当たる。有友勇氏によると「地の果てを行く」という映画を思い出して、悲壮な気持に打たれたという職員は日本人三名だった。
富錦は日本人三名と満系人二名、依蘭域通河も松花は支流にあり、鉄道はなく、近くは住木斯まで依蘭は90粁、通河は150粁の距離にあった。職員は依蘭は日本人二名満系2名で通河は不明である。
東寧は三盆口という、ソ連のトーチカが目の前の集落であった。羅子満は東満原始林地帯の中間に位置する山間の盆地に開けた、綏芬河の上流にある農村で
あった。牡丹江−図們線の中間よりやや南、大興満駅から山また山を縫って走る、東寧に通ずる幹線道路をバスで4時間(5〜6時間ともいう)もかかるとい
う。ここも陸の孤島と言える。住民は朝鮮系が多く、次いで満系、日本人は少数であるが、守備隊や、軍糧抹倉庫その他の機関もあり、軍の要地のようであっ
た。
春化は日本人三名と朝鮮系三名の人要で、観測所は市街から離れた位置にあった。
ここには、師団クラスの大部隊が駐屯していたが、敗戦時には南方へ移動して、百名位となっていた。観測所と電々の職員と家族10名が居住していたという寒村であった。
黒河村斉々哈尓管区内で海拉尓と並び、重要な地点で地方観象台であった。それでも職員数は8名ぐらいであった。私は43年春頃、気象暗号書を持参のため、哈尓浜、黒河を訪れたことがある。(暗号については後記)
哈尓(ハルピン)浜を朝早く出て黒河に着いたのが夕方であった。現在はこの鉄道も北安の北竜鎮で止まっている。敗戦時に北安−黒河の鉄道はソ連軍がはずして持って行ったという。
その後北安−克鎮間は修復されたもので、黒河に行くには北安からバスに乗って行くこととなっている。黒河は当時の黒河省の省都で公省、警察署、郵便局、法務関係等主要な機関があった。
駅を降りてみて、以外と閑散な感じがした。駅前といっても静かで人通りもそれ程なかった。哈尓浜で案内図のようなものを書いてもらったので、一人で観象
台に向かった。道路は整備もされておらず、氷った土の上を歩くので注意しながら目的地に着いた。主要路であったが、数えきれる程の人数で出会った位であ
る。冬期間の夕方四時頃となると、もう暗くなっていて、寒さも厳しいので閑散な街とだった。それにしても珍しく雪も少なく、これが旧満州の冬だと感じた。
10分位で役所に着いた。3〜4人に迎えられ、最初に台長に暗号書を渡して、やっとほっとした。宿に落着き、所員二名と夕食をとり、すぐ床に着く。
翌朝早く目が覚める。冬の北満の日の出は遅い外は未だ暗かった。暫くして薄明るくなった。宿の窓から黒竜江のが目前にある。さらに間い岸にプラグエチェ
ンスクの街が手に取るように見えた。対岸の人々の動きもよく思えた。こんな近いのだ。河幅は約八百米、黒竜江に云ってみる。厚い氷の上を歩いて進んで行っ
た。百米位の所まで何げなく歩いて行くと、突然威嚇の銃声が馨いて引返した。ロシア革命の頃、多くのロシア人が黒竜江を越えて旧満州に逃れたのもうなずける。北満唯一の観象台職員は日本人が8名位だった。
黒河の南、哈尓浜の中間点に北安省の省都であった北安、この北安で宮本正さんが、北安で国民学校の教員をしておられた。就学生は漢族、朝鮮族、ロシア
人、蒙古人に日本人等で、日本人の教師は校長と宮本さんの二名だけだったとのこと。いろいろ苦労されたようですが、児童等は勉強に、遊びに仲良く楽しい
かった思いでも話してくれました。宮本さんは引揚時に2人のお子様を亡くされ、時々お墓にお参りに行かれていたとお聞きしたが当時のことは、あまり悲惨
だったようなので、詳細は、聞くことが出来なかった。宮本さんは平成三年十二月に他界されました。
満州年鑑、満州開拓史によると北安省は開拓団は40で多い省であった。国民学校も三十五校もあり、勤務されていた学校は、北安の近くが、僻地の学校かはついて知ることは出来なかった。
(四)
現在は内蒙古自治区となっている。興安東省、興安北省、興安南省、興安西省と執海省を考えてみる。東省は大興安嶺の山中で浜洲線(哈尓浜−満州黒)の中間駅、興安(開嶺)札蘭屯、免渡河の観象所があった。免渡河は44年5月に閉鎖された。
札蘭屯は布特哈旗札蘭屯と言い、興安東省の公署があって主要な官庁が置かれていた。
ここは斉々哈尓から120粁強の所にある浜洲線の主要駅であった。私は45年三月、海拉尓の一一九連帯に入隊した。この札蘭屯駅に差し掛かった。急勾配
のため列車は暫く停車して、大興安嶺を登る準備であった。機関車は後部にも連結して、前後で押し上げる方法で発車した。この札蘭屯は線路が螺旋状となって
いて、列車が進むのに大変な難所であったことを思い出す。ようやく上りきると、あの大森林地帯をさらに大草原を改進した。
また、兵役中に海拉尓に2ヶ月、その後大興安嶺に野営することになり、野営地が、札蘭屯の街が一望できる南の山間にあったので札蘭屯はどんな街で、観象台は何名の職員で観測に当たっていたかはわかりません。
日曜日の或る日、休日突然自由外出が出た。気分的に悪くなかったが、どこに出掛ける所もなく、札蘭屯の街に行っても、行きたい所も分からず、金もない、ぶらぶら名足居ていて、前方500米位の所に小さな集落があったのでそこに出掛けた。
白系のロシア人の集落だった。彼等は突然の来訪者に驚いたようで、多くの人達に声を掛けたのが三三五五と集まって来た。20名以上の老若男女が、軍服を
着ている吾々に何の警戒もなく話し掛けてきた。よほど人間が恋しかったのであろう。言葉は全く通じにない。顔と目、手まねで一時間を過した。すると集落の
人達が、ロシア菓子や、チーズ等をもってきて歓待してくれたことを、こちらが面食らってしまった。彼らは歌ったり、踊ったりして、むしろ吾々を慰労してく
れたのには、何と感謝してよいのやら、言葉は通じないが態度で示したつもりであったが、果たしてどうだったのだろう。兵隊の身の日曜日の休暇でもあり時間
がないので、この地を後にした。白系のロシア人、やはり陽気な人達であった。
この人達は、スターリンの革命前までは貴族であったり、大地主であった、人達で、共産主義革命で、身の諸遇を思い、危険を感じ、旧満州に非難して来ら
れ、ここを生活の地としておられたのです。貴族、大地主など、高貴で裕福な羨ましい、生活をされていたのであろうと想像出来る、方々ばかりでした。それな
のに、よくこんな山中で生活をされておられるかと思うと、何と申し上げてよいか、言葉はありませんでした。それでも、人間として生存し、いつかは、生まれ
故郷の地に帰れるまではと、希望をもっておられたことは、ひしひしと感じられた。
非常に礼儀正しく、日本人とかではなく、人間として慕して出来る人達であった。
この人達の人生は何だったのだろうと、思うと身にしまる思いがする。
革命、戦争、不運な一生だったのではなかったかと思う。
シベリアに抑留されたときも、夏の日曜日には、広場に集まって、夜の明けるまで、歌い、タップダンスを踊って、仲間に入るようにと誘われた。
私は、シベリアに抑留されたときも、夏の日曜日には、広場に集まって、夜の明けるまで歌い、タップダンスを踊って、仲間に入るように誘われた。
私はシベリアに抑留されたときも夏の日曜日には広場集まって夜の明けるまで歌い、タップダンスを踊って、なかまにのれと誘われた。
敗戦時に旧満州に在住していた。(大多数の人達は北満に)、白系ロシア人はソ連兵に迫害され、日本人と同じような運命を送ったと、聞いた。また一部の人
はカナダに逃避されたような記事を見た。同じロシア人でありながら、この人達は革命によって祖国を追われて、微かな安住の地を得たのも、つかの間でまた悲
惨な生涯を送られたことと思う。あの陽気で生活を楽しんでおられた人達を思うと胸にこみあげてくる。興安北省奈勤穆図は札蘭屯をさらに西に進み、大興嶺の
山を越えれば、そこがホロンバイル高原である。ホロンバイルの首都海拉尓に至り、ハイラルから北へバスに揺れて180粁、ここが国境の街ナラムト(三河)
です。
知人の釣部清忠さんと佐藤長治さんは、三河地区に永く勤務されいいたのです。お二人の話や、手紙等からナラムトはどんな所だったのか、知る範囲をまとめてみました。
釣部さんは、大先輩に当たり、川崎に住んでおられて、私より10歳以上年上の方でした。釣部さんは平成八年(一九九六年)八月他界されました。
釣部さんは麻布獣医を卒業されて、三河地区に勤務されました。詳細はお聞きしてなく、今となると残念ですが、ホロンバイル蒙古物語りによると、満州畜産は三名の職員と家族計7名とある。
平成六年三河地区に関係の深い方々と、海拉尓と、三河地区の、かつての畜産農家を訪れられた。大勢の人に迎えられ、パオ等に宿泊されて、過ぎ去った当時
を語りあった。当時の農家の方は既に高齢になられて、ご子息様方が歓迎して下さって、ホロンバイルの大草原を満喫されたと話してられました。当時彼の地で
家畜の病気の治療と予防に当たられたことが、お聞きするまでもない。
蒙古人の家庭に何日も宿泊しての勤務であった。当時、獣医は人医に勝る客として歓迎されたのです。
佐藤長治さんは39年(昭和十四年)から5年間、ナラムト観測所に勤務され、44年11月々哈尓管区観象台に転勤されました。
額尓古納旗は、一般に三河と呼ばれていた。三河とは大興安嶺を源流として、国境のアングル河に注ぐ、「哈布尓」「得尓布尓」「根」の三大河川流域を総称
して、三河地区と呼ばれていた。この旗の首都は「ナラムト」・・・ロシア人は「ナラムト」を「ドラガケエンカ」と呼んでいた。この地方は国は蒙古、領主は
満州、住む人種はロシア人で人口一万人中70%はロシア人が占めていた。彼等は、ロシア革命の影響でバイカルから国境のアングル河を渡り亡命してきた人達
です。
またコザック騎兵隊の血を引く、ザバイカル地方の農民で農耕を主業とする人達でありました。
彼等の生活様式と営農法は、日本人に関心と興味を持たせていた。素朴で底抜に陽気なロシア農民で牧歌的な生活風情は、三河地方の明媚な風景と相rって、クラスノヤルスクでみたロシア人を思い出す。
他の30%は満人、蒙古人、朝鮮人と日本人で、満人は中国山東省出身者が最も多く、商業を主としていた。蒙古人は放牧の民で畜産を主業としていて、ホロ
ンバイルは蒙古語であり、額尓克納左翼旗の旗長は蒙古人であり、旗公署の職員は日本人、満人、ロシア人、蒙古人、朝鮮人と各種族の人が勤務していた。蒙古
人は非常に温厚で優しい人種だった。
その他の少数民族、オロチョン族は、狩猟民族で毛皮を物々交換して生活をしていたが蒙古人のように温厚ではなかったと、佐藤氏は書いてあった。
日本人は45年当時、旗公署、警察関係が64名、営林署、興業合作社、満鉄バス関係が63名、開拓団男女合わせて34名内女子が22名、一般の邦人8
名、観象台職員は5名で合計174名、家族は177名(開拓団の女子を除く)、合計僅か317名で,他に特務機関と三河警備隊が457名その家族12名、
合わせても786名10%にも満たなく、サラムトは首都とは言え、日本人にとっては僻地であったが、佐藤氏によれば、青春時代を暮らした。第2の郷里で
あった。
海拉尓はハイラル河支流イビ河に接し、ホロンバイル高原の中心地であった。海拉尓地方観象台は日本人職員15名、家族6名の他に満人が勤務していた。
満州里は星のマークをつけた、バイカル鉄道と浜州線の終点で、開けた国境の街であった。市街は整然とした、ロシア式の街で、ロシア文字の看板が立ち並
び、蒙古貿易の一大市場として栄えた。日本人経営のホテルも3軒あったという。一歩街をはずれると、露・蒙・清・満の住民はラクダで輸送し、砂漠の主役で
あった。
満州里観象台は梅戸所長の外、日本人は三名と満系の技士1名で、梅戸所長は私達が始めて中央観象台に就職するとき、下関まで迎えに来てくれた方で、当時
中央の庶務科に在勤されていた。初めての外地での勤務で一行は、希望と不安の玄界灘越えであったたせけに心強く、梅戸さんの指示によって朝鮮半島を従横、
新義州-鴨線江-安東(現円東)と国境を越えて奉天-新京へ、新天地の新京駅頭に立ったと、ようやくここが新天地かと安堵感を与えてくれた方で忘れられな
い先輩の一人であった。
海拉尓から南西一八〇粁余の鳥尓遜河の上流に阿穆古朗観測所があった。1937年(昭和12年)に設立されていて、奈勤穆図より1年早く観測が実施された。
アムグロの北西約40粁の地にラマ廟の総本山「甘珠尓廟」があり、蒙古人は牛車で、海拉尓から一望千里の平原を約4日間の行程で、ここに参集しる。市も立ち日用品の交易が行われる。また、南は砂漠地帯となる。蒙古地方では水は生命であった。
阿穆古朗には無線のアンテナポールのあるのは、1939年(昭和十四年)5月13日紛争が生じ、大きな犠牲を払ったが、ハルハ河を自己認定の国境として一時収まった。これがいわゆる第一次モノハン事件でソ連軍支援下の外蒙古軍と満州国軍が衝突した。
一時収まったに見えたが、6月半ば、ソ連軍がハルハ河を越えて再び衝突が起こった。関東軍は次々と兵力を増大して戦闘を拡大、全満洲から結集して、飛行
機と戦車でソ連軍と戦ったが、一万数千名の死傷者を出して、壊滅的な打撃を被った。それが第二次ノモハン事件である。9月15日ノモハン停戦協定が締結さ
れた。この事件は関東軍専断による武力行使によるものであった。
この事件で観測所のアンテナが目標にされ一番先に地上掃射を受け、六時の定時観測のときには機関銃の音が鳴り響いたが、満洲軍、関東軍の出動があって、
身を挺して爆撃又は掃射の洗礼を受けつ、鉄兜をかぶって観測を続けた。このことは、私がかつて奉天管区観象台に勤務しときの一年先輩に当たる、田中九州男
氏が「観象台史」によせられたものである。田中氏は現在も福岡県大牟田市にご健在で、毎年、年賀状を交換しております。
阿尓山は新京-白城子間の京白線を白城子から更に北西に270粁余、蒙古との国境の街で近くに満洲では珍しい温泉が沸き出ていて、温泉街があった。ここ
の観象所は遅い方で1941年(昭和16年)の創立である鉄道の終点であった。現在は更に西にある、伊尓施まで通じているようである。
ここの職員は所長以下三名という観測地点であった。
興安南省、興安西省、熱海省の三省は、大部分砂漠地帯であった。
盛唐の辺塞詩に「西出陽関無故人」「平沙万里絶人煙」。王維は陽関を出れば一緒に酒を酌みかわす友もいないだろう。岑参は砂漠は見渡す限り、人家の煙も見えない-と
興安南省の公署等は通遼、興安西省は開魯再所は東に偏し、熱河省は承徳、省の南に位置しており、現在は河北省に属している。
索倫は1936年(昭和11年)早い設立で、白城子から150粁西、京白線延長した鉄道の阿尓山の中間にあり、やや阿尓山よりの街であった。
通遼まで直線距離で約360粁も遠い所にある。
魯北は昭和17年2月、鶴羽所長と石川勝技士の2名で新官署の開設準備に当たり、18年(1943年)に正式に開所となり、無線の坂本昇氏を加え、日本人三名と現地人3名の6名であった。
魯北は興安西省にあり、省公署は開魯、開魯まで約60粁ですか、開魯と通遼間も約60粁強、砂漠の中でも、この両所に近い所にあった。それでも旗公署は
置かれていたが、人口は満系、蒙系で約2000人、日系は僅か旗公署勤務が6名、合作社二名、特務機関1名と観測所3名だけだった。省公署の開魯まで出る
のに乗馬か、荷馬車を走らせても、途中に数ヶ所の関所が在るので、3日間も要したと石川勝技士の証言である。
石川勝さんは現在香川県観音寺市にご健在です。中央観象台史「落日の修羅行」によると、魯北の木村司、坂本昇両名は戦士となっておりますが。
1990年(平成二年)八月9日、朝日新聞夕刊「交差点」に次のような記事が掲載されました。
「7月12日付けで、昭和16年(17年と思います)頃、旧満州興安西省札魯特旗魯北観象所に勤務した、石川勝さんをお尋ねしました。早速面識のあった
日向(私)さんから、石川さんの消息を教えていただきました。おかげで五十年ぶりに、石川さんの懐かしい声を聞くことが出来ました。荒川区坂本昇」とあり
ました。その後同年10月29日付けで「旧友石川君と再会でき二人共感謝しております。写真が出来ましたので同封いたします。」というお手紙を戴きまし
た。両氏に聞いても、魯北は砂漠の中の陸の孤島であったと、当時の苦難を語ってくれました。
魯北のみならず、熱海省の林東、林西、多倫も魯北よりも、劣悪な環境の観象所だったと想像がつきます。
林東は1945年(昭和20年)7月下旬に新設された。敗戦の僅か数日前で、日本人職員は白鳥所長の外、訓練所四期生まで、渡満して約2ヶ月の基礎学科
を終えて、7月下旬に新京を発って、奉天管区観象台で白鳥所長と一緒に任地に向かったが、途中、赤峰附近でソ連の参戦を知り、奉天に帰ったが、その後の状
況は不明である。また、林東観象所も同じく不明である。
林東は承徳から北へ380粁、通遼から西へ240粁の所である。
林西と多倫は1938年(昭和12年)の設立で、比較的早い時期であった。
林西は承徳から北北西300粁、赤峰へ北西160粁にあり、県都でもあった。牧地もあったせいか、地方商業の中心であったが、全体の人口は不明である。ここの観象台も日本人職員は3名であった。
多倫は承徳から北西200粁、赤峰から南南西230粁、蒙古連合自治政府察哈尓盟にあって、特務機関があったが、満州国史員としては、観象所職員だけであった。
住民は放牧が主で、綿羊や牛を移動させながら包を張っていた。職員は星野所長と若い真藤氏と現地人の3名であった。
赤峰は蒙古産物の集散地で、畜産製品が主要な商品、外に石炭、塩の輸送で奉天への連絡駅であった。観象所の設立は1933年(昭和11年)であったが、終戦当時の職員数は日本人三名であった。
承徳、山海関にも観象所が置かれていた。
承徳は熱河省の公署も置かれ、また、主要な官公署もここに集中されていた。旧奉山線(奉天−山海関)に通ずる鉄道が1940年に通ずるようになった。山
海関は天下第一関」の東門に囲まれ、トンネルを境に関外と呼ばれた要所であった。熱河地方は1939年には赤峰が地方観象台となって、気象関係組織は赤峰
が中心であったが、終戦時には奉天管区観象台の管下には地方観象台は置かれなかった。
懐八月十五日 其の四
不撓労歌五十年
暖衣飽食舞詠阡・・・・・世情遷
何時不戦萌風化・・・・・安吾分
卒去悲茄万世伝・・・・・劫後心千古伝 日向 敏之 謹仰
私は八月十五日の番であった。夕食を済ませ、八時頃から敵戦車の通過すると予想される地点まで行き、空が暗くなるのを待っていた。夏の北満は日没
は遅く、日の出が早い。いわゆる白昼夜に近いのである。11時頃にようやく薄暗くなり、朝三時にはもう明るくなるので、僅か四時間位が敵戦車の進撃を阻止
する時間であった。
海拉尓の工兵第119連隊に入隊したとき、点検後各班に編成されて、各班ごとに入浴となった。畳三畳位の木製の長方形の風呂に班全員15名が一度に入る
のだから、体を洗うことはできない。ただお湯につかるだけである。体を洗いたいと言えば、古年兵にビンタ(顔を力まかせに叩かれること)を食う。5分位で
風呂から揚がる。これが軍隊生活の初まりでありました。
食事は奉天に勤務していた時に比べれば良い方であったが、初年兵はいつも空腹となるらしい。私達も例外ではなく、週に一度くる炊事当番が待ち遠しかった。
当番になると炊事用具をかたずけるため、炊事室に行くと古年兵が残飯を食べさせてくれたからである。このとき古年兵も
「人間だな!」
と思った。
海拉尓に2ヶ月位、毎日の訓練は50キロの爆弾を背負い、敵の戦車に近づくと紐を引き戦車に飛び込む訓練である。実戦ではいわゆる肉弾である。紐を引くと雷管に点火して爆発し、戦車もろとも吹き飛び爆死するのが訓練の目的であった。
数名で戦車1機を破壊する戦法であり、人間ではなく「戦車を破壊する機械」でありました。
毎日が、この訓練であり、仮装戦車に飛び込み、紐を引くタイミングが、1〜2秒遅れると
「敵の戦車は通過して行ったぞ」と上官のビンタを食いながら何回もやり直すのです。工兵隊とは名ばかりでありました。
6月になり部隊は大興安嶺の山中に移動して、兵舎と言うよりも、山の木を伐採して、三角屋根に組立て、雑草を敷き寝起きできる程度の仮兵舎、野営である。
ここでは海拉尓のときと同じような訓練もありました。
主な作業は山中に地下倉庫があって、その中に食料をはじめ、爆薬が相当量蓄えられていた。古年兵の話によると10年位の戦争に堪えられる程度の量があると言われた。そんなにあったのか見当もつかなかった。この地下倉庫を整理するのが主な作業でありました。
当時は、どこも食料難で私どもも、アルミの食器に7分目程度の給食であり、お腹がペコペコであったので食庫の食料をみて、"ぐうぐう"と腹が鳴ったのですが、上官の目が厳しく食べることもなく、
「馬の鼻先に人参をぶら下げて働かす」
馬そっくりの倉庫の整理であった。しばらくして、私はひどい脚気になり、足がしびれ、だるくて抜けるような症状となって歩くのも困難な状態となってしまいました。
軍医に診察してもらったところ
「今日は訓練を休みなさい。風呂に入れば一番良いのだが相談しなさい」
と言われて、班長に話したところ許可を得たので、訓練を休み自分で風呂を沸かして入っていたところ、古年兵に咎められ、ぶんなぐられ気を失う位となり、眼
鏡は吹飛ばされて粉々に壊れてしまった。もう使い物にならず、別に1個持っていたので、翌日からその眼鏡を使用したが、また殴られて眼鏡が飛んだ。片方は
半分に、片方は三つに割れた。幸いに枠を紐でしばり、どうにか使えるようにしました。
半分壊れたこの眼鏡を掛け、シベリアに抑留され復員するまで使用した、いまでは考えられないが、ビタミンB1の不足に起因する脚気は敗戦前後は蔓延したようである。
十五日、11時を過ぎると、1分、2分と刻まれて行く時間の長いのには、何と表現してよいのか、自分を忘れる思いであった。ここまで来るまでは国家のために
「一身を捧げる」
と覚悟していたが、爆死するという瞬間が近づくにつれ、我を失い、3〜4人が集まり、戦車の来ないことを必死に祈った。
「もし戦車がきても飛び込むのを止めようか」と話したり、反面、止めて隊に帰れば、
「不忠者」
の汚名を受け、生きておられる保障はない。どちらにしても生きられない。
「国家の為」
と勇んでみたが、究極に到ったとき、
「お母さん」
と叫ぶのみだった。小学校1年生の6歳の秋、母を病気で亡くしている。母の慈愛を甘受することもなかったと、思ったこともあるがやはり母である。大声で、
「お母さん」
と叫び
「お父さん助けて!」と
心の中で祈った。誰一人
「天皇陛下万歳」
と言っている様子は見えなかった。
故郷の父母のことや、残してきた、妻子のことを心配する声ばかりであった。
何処かで、誰かが
「逃げようか」と小声で囁く者がいた。
「もし、逃げる覚悟があれば、知らぬふりをしよう。だが、この山中、どうして逃げられるだろうか?」
互いに、向きあいながら沈黙、一人として言葉を発する者はいなかった。
「いづれにしても、爆死するか、山中で野獣に襲われるか、食料はなく餓死するか・・・無事に逃亡できる庫は万一にもあることは思ない。また、一人でも逃亡したことが判れば、全員、軍によって銃殺されるだろう。
このことが、祖国におられる、父母、兄弟、姉妹、親戚に国賊の汚名を着せられる・・・とも考えた。
しかし、軍人というのは、自らの出世と勲章だけである。兵の事など考える上官など、あるはずがない。
部下が逃亡したとなると、監督責任を問われかねない。黙殺して全員名誉の戦死をしたとなるであろう。それならば、故郷には迷惑を掛けることはないだろう・・・
夜は次第に更け、12時を過ぎ、16日午前一時、あと二時間の命である。腕時計は刻々と時を刻んでゆく。誰かが、
「不思議だぞ、何かあったのかな」
「戦争に勝って、ソ連軍が撤退したのか?」
と言う者もいた。何も解らない、2時を過ぎ三時近くになるまで、敵戦車は来ない。東の空は薄明るくなってきた。
「助かったぞ」と叫ぶ声がした。
「まだ安心できない。あと一時間だ」と
一人一人が、自分に言いきかせ夜明けを待った。
五時、六時と経過し、この時、はじめて助かったことを信じても良いと思った。
万歳!!万歳!! と叫び抱き合い、涙を流し肩を叩き合った。八時帰隊する時間となり勇んで兵舎に帰り大きな声で
「異常なし」と報告した。いまだ忘れられない。十六日にも敵戦車はこなかった。
班の長として、隊員15〜16名(詳しくは判らない)、日本人と朝鮮系の人が半々であった。急遽召集令状(いわゆる赤紙)が来て、集められた人達であった。6月〜7月頃になると、民間人も男性なら根こそぎ徴収されたのが実態である。
こんな軍隊に、むしろ軍隊とは名のみの集団だったのである。私のような、三月入隊、僅か4ヶ月で、班の指揮をとるような軍隊であった。7月10日「兵科幹部候補生を命ず」「上等兵の階級を与う」これが軍歴であった。
それでも戦争に勝ったのかな?と思っていた。
十六日夜中だったと思う。背嚢に三十八銃を待って行軍がはじまった。何処へ行くのか、何のための行軍なのか全く解らない。ただ不可解なのは、ソ連軍の飛行機も、戦車も来ないことだった。
日本軍が勝利したのだと半信・半疑で山中を殆ど休むことなく行軍が続いた。
17日、ようやく、夜が明ける頃となり、人家も見え、街らしい所に着いた。
突如、マンドリン(銃)を肩にしたソ連兵があらわれ、武装解除となった。
このとき初めて敗戦を知った。幹部は知っていたかは不明であるが、15日の玉音放送のことも、シベリアから帰国してラヂオを聞いて知ったのである。
(二)
中央観象台関係の敗戦当時のことを、前出の「旧満州国中央観象台史」第三編、落日の修羅行から引用させて戴きます。殆どは書かれている所を、そのまま、
転記しするようになりますが、全文を書くことも出来ないので、要点を載せ、多少私なりに加筆したところもあることを、おゆるし願います。
中央観象台
九日急遽避難命令が来る。関東軍司令部に今後の行動について指示を乞うためだったが、既に関東軍は撤退していた。九日深夜、家族50人が集合を命ぜら
れ、新京駅前で夜明かし、10日午前避難行に出発した。鴨緑江を越え、北鮮宣川まで南下した。その後の惨苦に満ちた行動は、藤原寛人(作家新田次郎)さん
の、藤原てい夫人著「流れる星は生きている」によって察知することができる。
続いて職員の避難が命ぜられ、残された家族を含めて、12日に出発した。無蓋貨車に雷雨の洗礼を受け、子供や病人をかばい助けるなど、前途多難のなか、十五日に安東に着く。また、残っていた人達は13日に出発した。
関東軍は通化の山中に篭城するとして、避難した。次は日系満洲国軍将校の家族、次に満鉄職員の家族、次が満州国の日系官史の家族、五番目を一般人と関東
軍が指示したが、また、家族の都合で、新京に残った庄司照雄さん(後南嶺会の事務局長)によると、15日に満軍の反乱で、日本橋方面の日本人住宅に砲撃を
加えたり、各所に銃声が轟き、市内は大混乱となった。そのため約八百名位の人が、室町小学校に避難したが、拳銃で殺された人もいたという。
また、第二航空気象班と合同勤務に着いていた。野間浩氏以下6名は
「作戦はなお継続中なり。予定に従って通化の山中にて長期抗戦する」とて、部隊とともに軍用列車で南新京を出発したが、途中行先が変更され、八月十八日大連周水子飛行場で降ろされた。奇怪な軍の行動である。
通信の八名も奉天で放送する予定で出発したが変更となり、通化に集結したが、翌日解除された。ソ連軍の帰りの汽車に隠れて新京に帰った等で、その他種種の事件に遭遇したが、それぞれ苦難な逃避行であった。
観象台は職務上先にも書いたように、国境、僻地、砂漠地帯の職員家族は、中央からの何の通知もなく、九日払暁から大混乱の巷と化した。
漢河-前出の田中脩氏によると、10日、漢河県副県長よりソ連参戦を知らされる。在住の日本人全員、家族を含めて約60名、県公署に集結、各人小銃、爆
薬を受領、同夜田中所長、高木氏と三名で、観象所に帰って、暗号書、乱数表を焼却、総ての観測資料は、南側の庭を掘って、再び帰る日に備えて、雨水の浸入
しないように被覆い土して、その夜県公署で仮眠、11日、早朝より、ソ連軍の小型艦艇数隻、砲門をこちらに向けて遡江、昼前から、小型複葉機や単機が数回
来襲、手投爆弾投下及機銃掃射、午後現地人の県長、現地人の警官を加えて総勢100人、武装して避難行軍の出発、大興安嶺を越え、斉々哈尓方面を目標に進
んだ。同夜は漢河街南方山中の特務機関兵舎、この兵舎は有事のために設置してあって、ここで仮眠、深夜銃声一発、現地人は全部離散する。
12日〜15日、往時の馬占山軍の漢河砂全運搬騎馬道を探しながら、道なき道を歩く、湿地帯の連続、松、唐松の自然倒伏、数多くの黒竜江支流の出現に悩まされ、空腹、疲労の行軍続行も遂に、その極に達する。
眼は朦朧として言葉を出す者もなく、ただ先行者に追髄しつつ、徒に密林を彷徨するばかりであったが、遂に考えてもいけないことが目前で起こった。子供は
全員各自の親が処分(射殺、刺殺、扼殺、置去)すると言う。田中氏は劇的な展開に、親と子、生と死、極限状態の中で自己の在り方について考えさせられる
と。
十六日、早朝山林中、数ヶ所で焚火を中心に仮眠中、オロチョン族の案内により、ソ連軍に包囲され、肉迫戦用小型機関銃により、一斉射撃を受け、田中氏と
外2名を除き、全員死傷。このとき甲谷所長夫妻と高木氏は目前で即死された。続いて死者、負傷者の全員は集められ乱射を受けて全員死亡を目撃した。
田中氏と他の二名は両手を縛られて、漢河まで徒歩連行されて、そのまま二晩野営させられる。
十八日〜二十一日、ソ連軍の勝利を示威するため漢河街中を引き廻し、司令官から絶えず銃殺と脅かされながら、訊問され、非戦闘員として処理されたらし
く、3名は別々に独房に収容された。22日ごろ対岸のシベリアに抑留、3ヶ年後舞鶴港に復員した。(戦死 甲谷春松、高木茂、 行方不明 竹村宰、松本)
仏山→6日頃から裏山前方のソ連側対岸で合図しているように、照明弾が、ひっきりなしに打上げられ、望楼の守備隊の兵士が撃ち殺された。11日ごろ、
「ソ連が参戦して日本が負けた」とボーイが伝えてきたが信じなかった。ただ八日頃諜報機関の某氏や慰安婦が、どこかへ逃げて行ったようだった。
11日、守備隊から移動命令が出て、初めて知った。
12日夕暮時、すべての書類を焼き、無線機その他を、裏庭に埋めた後、30人位の守備隊の後をついていった。
日本人一行は県長(満系)副県長を始め、警察、満航、合作者などの職員と家族約百人位、婦女子が多く、観象所の人は、新井所長夫人と子供二名、本郷氏夫
人(重身であった)、高橋、西河は所長の女の子を背負い、護身用のピストル二挺、村田銃一挺と食糧、タバコ、薬品などを牛馬、12〜13頭に積んで出発し
た。満人ボーイと水杯を交わし、再帰を約して別れたとき、ボーイの目に涙が滲んでいた。これが佳木斯にいたる、200粁のはるかに越える逃避行の始まりで
あった。
黒竜江沿いの道路は、むしろ危険であったので、裏の湿地帯を逃げ、小興安嶺の山中をさまよい歩いた。
12日の20時頃、仏山街はソ連黒竜艦隊の機関砲による集中攻撃により、火の海と化した。退避が2時間も遅れておれば、全滅の悲運に遭うところだった。
湿地帯を10時間も歩いていると、足がただれ、赤い斑点ができ、肉が見えてきて、大変痛かった。小興安嶺の山中は、八月とはいえ、夜は極端に冷え、寒さ
も厳しかったので、夜は焚火の周りに婦女子を寝かせたが、一旦攻撃を受けたときは「婦女子は手榴弾で自決させ、男子は戦うことになっていた」
職員の西河氏は「天皇陛下のため死ぬんだ」と本気で考えていた。
県職員の夫人と子供さんが落伍、また職員の本郷氏夫人や他の2名は、山中の雨の中で、お産することもあって、大騒ぎだった。しかし、お互いに助け合って
無事に佳木斯まで来たが、佳木斯に到着後、武装解除、婦女子と別れることとなり、本郷夫人、子供さんの消息は現在も判っていない-行方不明。黒田慎、砂田
直記。
奇克特-八日午前七時ごろ、ソ連機が突如現われ、守備隊陣地、兵舎、警察隊等を攻撃してきた。
警察隊から遜呉へ引揚げるから15時までに集合するよう通知があった。
林所長の家族は小さい子供が4人もおり、10分遅れたため、20数台の馬車がどれも鈴なりになって目前を通過して行った。
そこで家族を引き連れ、警察隊に車を探しに行ったが、上空から敵機の反復攻撃があって危険なので防空壕に退避していた。
しかし、時間が気になって外に出たら幸運にも荷馬車があり、持主を尋ねたが返事がないので、林所長の家族五人と警察隊員の太々一人を乗せて林氏が手綱をとり、村上氏と電報局長が後について出発した。18時半頃であった。見ると、守備隊兵舎は猛火に包まれていた。
騎馬の警察隊員から、ソ連軍が河を渡って追ってくるとのこと。すっかり暗くなった。
明けて九日八時頃遜賀村に到着した。電報局長は、この村の局員の様子を見てくるといい、そのまま別れ、太々もいなくなっていた。
村の警察に行くと丁度トラックが来ていたので、無理矢理乗せてもらい、遜呉の満人小学校に到着した。翌10日、警察から30名ほど狩り出され入隊することとなった。
行方不明-近内良男
黒河−九日港湾局長が来て、ソ連が対日宣戦をしてきた。十七時に特別列車で日本人は全部引揚げて、省公署から通知があった。
川俣、林氏は早朝すでにラジオによってソ連参戦を知っていたが、八時の気流観測(測風気球)のため屋上に上った藤沢弘之と外二名が、9時を過ぎても降り
て来なかったので、林氏が上に行ってみると、当日無風快晴、抜けるような青空で気球はまだ肉眼でも見えるような状態だったので慌てて中止させた。
九日十八時満人職員と再会を約し、日本人小学校校庭に集合した。
黒河中の馬車を動員し、老人、婦女子を乗せ、男は璦琿駅まで歩くこととなり、荷物は制限され、乾パン、石鹸、おむつを持つだけで、夫人と子供2人を車に
乗せた。23時出発、延々長蛇の列を作って馬車は動き出した。隊列が黒河街を出ないうちに、官庁会社に火の手が上がり、真紅の炎は夜空に映じ、いつ襲撃し
てくるかわからない、ソ連兵におびえながら、暗夜の道を璦琿へと進んだ。
夜が明けたころ、不眠不休の行軍で、綿の如く疲れているが、ソ連機が頭上を通る度に、馬車から飛び降りて、草むらに隠れた。被害者もなく10日15時ごろ璦琿駅に到着した。
間もなく、遜呉行きの列車に乗れたが、車中疲れと安心感からすっかり眠っていたが、突然「バン」と叩き点けるうな物凄い音と、婦女子の泣き叫ぶ声で目が
さめた。川俣夫人は肩をやられ、背中合わせの婦人は特に負傷でひどく苦しんでいる。続いて再度の空襲は横からの機銃掃射で、10米ほど先きの男の人がもん
どり打って即死した。遜呉駅に着くと駅員が死人や負傷者を運び出していた。
11日朝鮮北安駅に到着した。このとき事務員の成田春子さんは姉さんと会ったので、今後は姉と行動を共にしたいと申出があったので喜んで別れたが、別れ
て行く、後姿が忘れられないと川俣氏が語る。いつのときか思い出せないが、テレビで残留婦人としてハルピンにおられたような報道を見たように思うが、成田
春子さんという方が、後日、黒河地方観象台に在職されたことを、この本で知りました賀、当時の映像を朧げに思い出し、どうのように過ごされているのかと思
うと胸が痛む。
13日朝鮮遜呉に着く。県公署で合流して、憲兵司令部に行ったところ、軍服を渡されて戦争要員に狩り出された。支給されたのは赤錆びた銃,付剣もできな
い剣、弾も銃に合わず、敵機襲来にも応ずる。高射砲も迎撃する飛行機も皆無の状態であった。爆薬を抱いて敵戦車の通路に穴を掘って、肉弾攻撃に出て行く兵
士の姿は悲しく哀れであった。守るべき主力軍隊は既になく、有為な青少年を犬死させるまで戦争を長引かせた責任は、どこに持っていればいいのだろう-と川
俣氏はいう。行方不明-藤沢弘之、成田春子
(三)
東部方面の富錦−九日。かなり上空で飛行機一機が旋回を始めた。間もなく観象所の南方に当る、満軍兵舎の辺りで、何物かが落下して土煙を上げた。当時は
七日から佳木新地区の防空演習を報じていたが、この演習は何かの都合で、三河地区全域に拡大されたものと思った。それでも土煙が本物らしく、普通でないの
で官舎に戻り、実さんに話し、所員に集まってもらった。そして観象所が演習の対象になった時の指示を与え、観測は平常通り続けられたが、電々の有線通信は
機能を停止したようだった。
その後30分たって、県の兵事科からの電話で、日ソ開戦を知り、今朝の空襲が本物であったことを知った。また、その電話で緊急招集令がかかり、一日も早
く、牡丹江のどの部隊でもよいから応召して下さいという。聞いてみると、赤紙はないが、富錦の在郷軍人全員だという。野坂所長、木下氏、後藤氏の3名であ
る。後に満系の2人を残して業務を任せて応召できるかと、佳木斯の伊達台長に伺いを立てたら「自分も今から応召する」こととった由で、応召を決意する。
それにしても、街はずれの満人だけの部落の中に、女子供だけ残しておくことは到底できないと考え、副県長(県長は満人、副県長は日本人)に相談すると、
今日12時に軍のトラックで家族全員を佳木斯に送るとのことで、急いで、小さい荷物を持っただけで、夫人と2人の子供、木下氏の夫人、後藤氏の夫人と「赤
ん坊」都合6人を連れて、出発に間に合わせた。慌ただしい妻子との別れであった。
その夜、家財を満人達に与え、カランとした所長官舎で、3人で最後の乾杯をした後、県公署の連中と合流する。
10日朝7時出発の予定だった。ザコ寝でうとうとしていた時、大きな砲声で一斉に飛び起きた。屋根瓦が崩れ落ちる。艦砲射撃である。7時を待たずに各個出発する。
佳木斯まで泥濘の道二百粁の行軍。現地部隊から貸与された小銃を肩にして避難がはじまった。不思議なことに、ソ連兵が自動小銃を抱き辻辻に立っていたが、無言で通り過ぎる。彼等も黙って見送るだけだった。
行軍中、富錦を徒歩で出発した、老人、婦女子の同胞たちが、泥濘の中疲れ果てて路傍に休んでいるのを見て唖然とした。入隊が少しおくれても、同胞を見捨
てることも出来ず、護衛しながら行動を共にすることとなった。しかし、正午ごろ、突如戦車三台による襲撃を受け、混乱と阿鼻叫喚のうち、忽ち数名の命が奪
われた。自らの手で家族を射殺している人もいる。戦車上で悠然と構える、機関銃に対して、寄り合いの小銃だけで何ができるのであろうか。殆どの人は夢中で
山の中に逃げて行った。後に残った11名の者は夕暮を待って、敵戦車に肉攻することを決し、湿地帯の中で各人3米の間隔で陣形をとり、命令を待つうち、ふ
として行き違いから、指揮者の分会長が自決することもあった。
また、木下氏は佳木斯を出てから、山又は山を歩き、数度死線を越えて、終戦も知らず9日になって、方正において武装解除、船でソ連に連れて行かれた。
饒河-ソ連軍の越境と同時に退出したが、途中機銃掃射をうけ、大橋所長の夫人と子供および職員を失い、ばらばらとなる。大橋氏一人で湿地帯を徒歩、山中を逃げ回りながら辛うじて行きのだたという。
−戦死−本間稔
宝清−九日、突如空襲を受けて、一瞬にして街民達は恐怖のドン底に陥し入れられ、陸軍病院も焼燼していしまった。街中は大騒ぎの様子であったが、観象所は城外にあるため、平静も早く取り戻し、観測を続行した。
夜となると、街の空は引揚げの整理であろう。パリ−パリ−と火を燃し、空は真赤に染まっていた。
10日には少し落着き、千葉氏は観測を行った。
11日朝になって、県公署からの連絡で、避難することとなり、10時で観測を打切った。役所の整理は、県の破壊班の助力もあって済ませた。
県公署の前の広場には、日本人でぎっしり埋まっていた。思い思いの服装で、中には白虎隊を思わせるような、白鉢巻に白だすき、長刀を腰に下げている者、
老いたりと雖も、この猟銃をという人も、女子にもピストルを持っている人等々、12日夜から行動をおこし、林口まで約200粁の避難行が始まった。婦女子
を先頭に、男子組は、婦女子の後を食糧輸送を兼ねて続行した。林口までの28日間、毎日のように降る雨に、すっかり足を痛め、地図と磁石を頼りに、餓と足
の不自由さ、あるときは土匪賊に遇って肝を冷やしたり、よくも28日間、死なずに山野を歩き廻ったものだと、
戦死か?-福本某氏
佳木斯−南嶺会第一10回大会報告書より・・・・
九日未明、無線にてソ連の対日宣戦布告を知る。黒龍江をはじめ各地区に、ソ連軍が越境侵入、 佳木斯では18歳以上の男子は全員非常呼集を受け牡丹江へ向う。残った老若婦女子は、一時、戦場となる可能性があることから、千振開拓団方面へ緊急避難命令がある。
観象台職員の家族は湖南営観象所へ向う。家財道具を整理する暇もない。重要書類を焼却処分し、着たままの服装で避難する。御手洗所長の暖かい接待を受け
一夜を明かしたが、敵の進攻は急で、再び佳木斯へ戻ることになったが、列車は駅でストップ。市街のあちこちで火の手が上がっている。待合室を中心に難民が
集結したまま身動きできない。街へ一歩も踏み出せない。末広通信士と私(遠山喜久好氏)は、警備隊の前田上等兵を長とした、三江省民国警護本部の勧めによ
り、本部附けとなり、武装し、難民の警備に当ることとなった。
難民は、時と共に増加。食糧の徴発もままならない。
貨物列車を編成し、南下を決定。寿司詰めの状態でハルピンを目覚す。飢餓と疫病で急死者が出る。列車から原野へ投捨てる。列車を停車すれば怱ち匪賊化した原住民に襲撃される。
日本婦人会の「たすき」を掛けた婦人たちに、堀り飯を渡される。それを頬張りながら飛行場に向かう。
翌日には、そのご婦人たちが、避難して飛行場へ、明日、否、いま現在、生死を賭けた人たちである。
兵舎から格納庫まで、あっという間に難民がひしめき軒先まで溢れ満ちる。
毎日が生き地獄。主食も尽き、またたく間に栄養失調となり、加えて風が発疹チフスを運び、抵抗力の弱い乳幼児、老人の生命を奪っていく。広野の真只中の
酷暑。肉親を喪っても葬る気力も体力も失せ、避難列車に乗車するとき、僅かに持てる物は、みな棄てさせ、身体のみ折重なるように積込んだため、着ているも
のは垢に埋もれ、ボロボロとなり、履物とて破れ果て足の指が露出している。
武装して部落に徴発に行っても、金も尽きるとともに、食糧も尽き果ててきた。やがて日本が降伏したという情報が流れ、それを裏書きするように、ソ連兵のマンドリンをかかえた姿が、飛行場を取り囲むように、チラホラ散見するようになった。
ソ連軍の司令部から武装解除の伝令が来たが、無条件で呑むことは出来ない。各地から避難してようやく辿り着いた同胞からソ連兵の非人道的暴行は誰でも熟知している。
まして、ここには、老若婦女子の集団である。果たして戦争は終わったのか、それすら確かな情報は誰も入手していない。
そのうち、部隊が武装解除され、列車で何処かへ向かったという知らせが入った。
シベリア抑留を後に知った。民国警護本部では、ソ連軍と生命保障と食糧確保を条件として再三交渉し、武装解除に応じた。
風が身に沁む頃、貨車による南下が開始された。匪賊の襲撃、ソ連兵のダワイ、必身もにボロボロとなって、ハルピン経由で長春へ向い、室町小学校で仮泊、
錦ヶ丘高女校へ、床板を剥して暖を取る。間もなく菊水町の旧満鉄の社宅に移住。越冬し翌21年7月から引揚が開始されるまで幾多の同朋を葬り、内戦に遭遇
し、生命の保障のないままに、食をあさり、生命の灯の消えなんとする危機を脱して来た。
東安-9日朝。聞きなれない爆音。市公署から連絡により、ソ連軍が虎頭から侵入したことを知る。直ちに婦女子を避難させたのが16時頃。10日2時、工藤所長は、歌津、佐藤、木次ほか職員を伴れて、2日2晩歩いて,勃利に到着したが。
勃利-ソ連の爆撃が、ひどくなって来たので、林口か牡丹江に出ようとしたが、途中でソ連の機銃掃射が烈しく、皆バラバラになってしまった。−詳細は不明。
依蘭−所長は小林氏と満系の李氏、王氏、の二名。日本人は小林氏と安積氏の4名で、ソ連参戦と同時に小林氏は非常招集を受けたが、後のことで迷ったとのこと。
しかし、軍命に従い、重要書類を焼き、依蘭も戦場となることを覚悟し、三名の職員や家族に、後事を託して、桜花江を下って、佳木斯に向かったが、佳木斯には日本人は殆んど引揚げ、部隊も撤退しており、依蘭の招集者は残留警備隊に編入された。
ソ連軍は市の周辺に迫り、旧満軍は反乱を起し、掠奪は相次ぎ、火焔は天を覆い、銃砲声は轟き、流弾がでび、凄惨な状況であった。小林氏は同行した兵隊と
市内を巡回し、逃げおくれた日本人の収容、建物、物資の焼却、破壊に当った。佳木斯観象台に行ったところ、職員はすでに全部引揚げ、ただ、自記器のみが動
いており、官舎は食事をしたままであった。親しかった仲間の顔を思い浮べ涙が止度なく流れたが、勇を鼓して、観象台の庁舎、官舎に火を付けた。
依蘭の最後の状況は、夫人も真夜中に県公署の指示で、松花江を船で哈尓浜に向ったというだけで、全くわからず、また、満系職員がとうなったかも、今でも心残りだという。
小林氏は、その後、綏花で武装解除、シベリアに抑留して、2年後に帰国したが、家族は三女を松花江で、次女を哈尓浜で、長女を新京で次々と失われ、夫人一人、46年12月に帰国された由である。
東寧ー文字通りの軍隊の街であったが、戦況が不利になるにつれて、次第に軍の移動が行われ、何時の間にやら、兵舎は空っぽになったという状態で、44年
暮れごろから、いろいろと「デマ」が飛んだ。45年になると、「何時日本が手をあげるか」と問題となっていると、満人からの情報が伝わってきたが、まさか
日本が負けるとは全く考えられていなかった。
八日夜中に県公署から電話があり、「ソ連が参戦したが、詳しいことは判らない。後報を待て」との連絡。九日朝方になると、敵機が進入したという情報が入った。
その後、間もなく、女子や子供は全員県公署に集合し、後退するから2日〜3日分の食糧と着替えをもって避難させるという。
鈴木氏は、15歳の娘と2人の男の子に、僅かな荷物と2000円(?200円ではないかと思う)を持たせて、トラックで出発させた。ホットした束の間、
10時ごろになると、トーチカが火を吹き出し、物凄い音を立てて砲弾が街の中心地や、県公署、電々などを目当に飛んで来るようになった。
残った者に、集合命令が下った。鈴木重義氏は暗号書を大事に腰にくくりつけ、少々の白米と時計2っだけもって、即須野二郎、浜崎源吾氏らと一緒に後退を始めた。このとき、若い者には、小銃が渡されたが、後にこれが仇となった。
初めは、一時後退ということで、牡丹江に続く一本の軍用道路を避難者が、三々五々と歩いていたが、そのうち、敵機に再三銃撃され、負傷者が出るように
なった。どうも戦況が不利との情報で、もう再び東寧には帰られないことになり、一路約150粁(直線距離)の牡丹江を目ざすこととなった。
完達山脈の山中の一歩道を、夜を日について歩いていたが、日中の暑気と空腹のため、足が次第に重くなり、三日目頃から荷物を少しづつ捨て始め、ついに、
小銃もそのまま捨てていった。これが大失敗で、満人がこれを手に入れて土匪と化し、途中ところどころで襲撃され、毎日殺される人が出てきた。
鈴木重義氏は、東寧の官庁街の1区の区長をしていたので、区民600人を指揮して、一緒に歩いていた。昼は寝て、夜は歩くという変則で、しかも夜は密林の中、一寸先も見えないこともあって、疲労は甚だしく、遂に何時の間にか散り散りの集団となった。
そして全く思いもかけない三日目、先発させた三人の子供と寄遇し無事を喜びあった。トラックが故障して、一日目に降ろされたからであった。
これから約30人の少人数となり牡丹江を目ざしたが、ぼつぼつ、風が湧き始め、栄養失調も進んでくる。また、戦争に負けたらしい噂で、急に病人や落伍者の続出し、無惨な地獄絵を実に悲痛な思いで見た。
九日目ごろになり、牡丹江はソ連軍の制圧下にあることがわかり、一転東京城に向うということになり、11日目早朝、東京城の街近くに入った。ここには、
まだ日本軍の兵隊もおり、軍用トラックも走っているので、安堵の胸を撫で下ろしたところ、間もなく、ソ連の機械化部隊がどっと進入し、物資やトラックを徴
発し、兵隊は丸腰にされるのを見て涙が溢れ出た。
羅子満-隔絶されたような、この農村にも、戦況の悪化に伴い、45年三月、6月には日本人の召集が続き、噂には関東軍の部隊が南方に移動しているとか、詳しいことは一切わからない。7月半ば、中央より郵便が不通となり、送金が途絶えたのには閉口した。
八月四〜五日頃から電報も不通となる。八日、こちらの窮状を訴え、併せて現在の一般情勢も把握するため、思い切って新京に出ることとし、夕刻、劉技士を
官舎に呼んで、出京役の処理事項について打合せをした。官舎前で誰かが「飛行機がおかしい」と呼び声で、室外に飛び出したとき、六機の軽爆撃機が官舎目が
けて急降下に移った瞬間であった。「危ない逃げろ」と叫びながら、2人の子供を押入れに突っ込んだ刹那、ドカンという音とともに官舎前2m位のところに大
穴が出来た。噴き上げる土砂で夫人は瞬時に防空壕に埋められてしまった。幸い皆で掘り起こしたものの、憲兵軍曹の若い夫人は爆風で飛ばされて、悲惨な死を
遂げられた。八日牡丹江、綏芬河、東寧方面にソ連戦車隊がはいり、後退中とのニュースを聞き、新京へ行きの指示を受けようと、電報局長、警察隊長と話と
合った結果、在羅邦人家族全員を大興満駅まで運ぶことなった。翌十日八時にトラック三台を用意することを約束してくれた。大津所長は、その日徹夜で書類、
資料などを焼却し、家財や衣類を満系の人達に分与した。
トラックに40数名分の老若婦女子のみを引率して羅子満を後にし、12時頃大興満に到着。空いている満拓宿舎に落着き、暗号書等一部未処理書類に気づ
き、一人で羅子満に引返し11日夜明けに書類等を処理して、大興満に帰ることができた。退却する兵隊は引きも切らず、宿舎に帰るや否や妻子を急がせて、
やっと図們行きの列車に乗上りこみ、羅子満を脱出。その後幾多の国難辛苦の後、10月上旬新京に着いたが、11月中旬長女と次女を相次いで失われた。
春化−八月九日、田中所長は牡丹江管区観象台に出張中で、栗林氏によると、朝砲撃音が聞こえたが、それが何を意味するものか判らず、気にもせず通常の観
測をしていた。観象所は市街から離れたところにあり、春北の日系人が避難していることなど知る由もなかった。隣接の駐屯里に勤めていた、田中所長の妹さん
が、9時ころ出勤して初めて事を知り、日本人は急いで避難するようにとの事。急遽女子だけを避難させることとし、産後間もない所長夫人と妹さんの面倒を見
るよう、栗林夫人も一緒に出発させた。
残った職員は、電電公社の職員と連絡をとりながら観測をつづけていたり、15時頃、駐屯部隊から重要書類を処分して、16時までに部隊に入るよう指示が
あった。1時間ばかり書類を埋める等の作業をした後、着のみ着のまま、職員四名駐屯地に行く.十八時頃から駐屯地は戦闘準備で騒がしくなり、内陸へ移動す
ることとなった。民間人は観象所、要きの職員等子供を含め約10名もこれに従う。春北には、師団クラスの大部隊が駐屯していたが、南方へ移動し、中尉の指
揮する約100人しかいなかったが、敵は知らなかったようだ。部隊が交戦するという連絡があったので、部隊から離れ、山道を歩き、河を渡り、内陸へ内陸へ
と行軍した。夜遅くどこかの部隊に着いて仮眠した。
その後2,3日は砲撃の音を聞きつつ、波状攻撃を受けながら全く未知の土地を行軍したが、途中にいた部隊の指示もあって、最後の列車に乗せられ図們駅に
着き、徐行する列車から延吉駅で飛び降りて、間島観象所は造吉にあり、ここで家族も含めて、暖かく迎えられ、お世話になった。
(四)
西部方面の-奈勤穆図−九日ソ連軍進攻により地区全員は大興安嶺を越え、9月4日、チチハル西方布西で終戦を知る。武装解除され、嫩江まで行軍。男は北
安収容所へ、女子はチチハル難民収容所へ、山峰善雄氏の夫人と子供2人は、その間に死亡される悲惨なことがあった。11月初め開放され、新京まで送られた
が、衣類は全くなく、極寒がせまる。中央観象台はすでに南下しており、頼む人もなく、毎日が死と隣り合わせのような日比を送る。翌年10月20日内地に帰
還。生きて上陸できたのが不思議なくらいだった。
行方不明−中川某、秋山某、丸山某
満洲里→小田刻雄氏の「生命を抱いて」から摘記します(中央観象台史から)
八日満系丈技士の「小田さん、ソ連が入って来た」「いくさですよ」との呼声に飛び起きた遂に来るべきものがきたか・・・と妻と子供2人を領事館に行くよ
うに指示した後、乗馬ズボンをはいて迫撃砲の炸裂する中を観象所に着いた。役所には、梅戸所長、丈、細川、坪井氏も走りこんでいた。咄嗟のことで、一応、
梅戸所長夫人、小田氏夫人と子供を避難させた。このころ、ソ連軍の歩兵部隊が市内に突入しており、満系丈さんの姿は見えず、梅戸、小田、細川、坪井の四名
となった。4名に騒然なる中を領事館に行く途中、第一線陣地から退却しダライ湖畔の本隊に合流するため急ぐ2名の兵隊に道を尋ねられ、案内する形で、ダラ
イ湖方面に向った。
明けて九日、四名の運命が決まった。梅戸所長は今も行方不明、坪井氏は途中ソ連軍に撃たれて即死、小田、細川氏は3年間のシベリア抑留を強いられた後帰国。小田氏を待つのは愛児のいない、病床に横たわる夫人だけであった。
兵隊二名を含む6人は、市街南方のオルドス平原地帯を砲弾機銃の音を進んでいたら、突如敵に発見されて迫撃砲の洗礼、酷熱の太陽のなか、朝から飲まず、
食わず、意識も朦朧となる。このとき20名ばかりの小部隊に遇い合流して進んだ。梅戸所長は河を思ったか一人で満洲里に引返したといい、3名の制止も聞か
ず何時の間にか姿を消した。
梅戸氏は私達が、養成所を修了して、初めて大陸に就職するとき、下関まで向えに来て希望と不安の錯綜する、新人生を案内、誘導してくだされて、釜山-新
義州・安東ー新京の旅を安心して新京に到着できた、先輩で恩人の一人でした。今も梅戸先輩の容姿が目に浮かびます。観象台史には、行方不明となっている
か、残念でたまりません。
残った3名はダライ湖畔の第4漁場で、興亜水産の人々に助けられ、国境警備隊の指揮の下、水産の職員を含めて、十日大車40数台の大部隊で出発した。日
本人は観象所の3名のほか、水産・警察官と家族、兵隊5名を含めて13人、満、蒙系の警察官と家族達も加わった。その日の午頃、満蒙古漁夫達の離脱によっ
て大車4台となった。直ぐその後、突進してくる3台の敵戦車を見たが、奇跡的に大きな洞穴にひそみ危うく難をのがれたが、隊長の夫人は手足まといになるの
を恐れ、2名の子を抱えて自爆するという痛ましいことがおこった。
ダライ湖を横断できたのは13日未明であった。満洲里を出てから4日目、敵中の強行軍による精神的、肉体的消耗は極限に達し、飢餓状態で、昼間は草原の
中に身をひそめ、夏の短い夜の数時間だけ星を見ながらの行動で、思いもよらない間違いを犯した。ウルシエン河の手前の地点に上陸したばかりに、河中100
米を渡るため、大変な苦労を強いられ、あまつさえ、遂に14日未明、坪井氏を敵弾によって失い、同行の兵士1名も河中に沈めるという悲痛な事態となった。
小田、細川、佐藤警官と三人で、ハイラルに行きたいと想像に絶する危機を何度も乗り越え北東に進んだ。19日朝、遂に鉄道線路に到着した。しかし不運にも時を経ずして、鉄道警備のソ連兵に捕まってしまった。
厳しい取調べの後、佐藤氏は警官証を持参していたが故、不幸にも不帰の客になり、小田、細川両氏はシベリアに送られた。
小田氏は梅戸所長夫妻や自らの妻と子の安否であった。
また、「ホロンバイル蒙古物言い」の「必死のホロンバイル脱出」のほんの一部を「掲載」させていただきます。
高山和子の組では、2〜3人の発狂者が出たが、世話も出来ず死んでいった。使役は鉄道線路の草取りで、炎天下飲み水も少なく、ただ、皆死に物狂いで働いたという。使役の場所でも、なおソ連兵の暴行を受けた者もいた。
満洲里の気温は海拉尓より多少温暖であったが、9月中旬を過ぎると冷気が身にしみる。
その頃、小集団が時々軍用列車に便乗して南下していたが、多くの人達には許可も出ず、5歳以下の幼児の大半は、栄養失調で死んでいった。
十月五日、満洲軍の婦女子に遂に南下の日が来た。待ちに待ったこの日、彼女達は手を取り合って歓喜した。
南下の旅は、決して楽なものではなかった寒風には、体をよせあって耐えたが、車中でも何人かの子供が死に遺棄された。貨車はハイラル、昴々渓、ハルピン等で長く停車し、ハルピンから別の貨車に乗りかえ、新京で一部の者が下車し、残りの者は奉天の難民収容所に送られた。
高山和子は愛児剛彦と夫正彦を満洲里の地に残したまま奉天から引揚げた。
岡田みどりは南下の途中で息子を亡くし、奉天では出産のため体を衰弱させ、変わり果てた姿で幼児を抱いて母国に辿りついた。なお夫忠夫(当時三十三才)の死を確認したのは、引揚げて十五年後であった。
海拉尓-ハイラルは地方観象台で、日本人約十五名のうち、永石元義台長以下十名は戦死、僅か四名だけ帰国するという悲痛極まる事態であった。
九日朝五時頃、突如大爆音と、大地をゆする物凄い爆風に、官舎内外のガラス窓は一瞬にして吹き飛ばされてしまった。何が起こったのか皆目見当がつかない。2〜3回の大振動、間もなく、不気味な金属音の飛行機の爆音にやっと空爆であることを悟った。
直ちに、生まれたばかりの赤坊を布団にくるみ、防空壕に避難させ、砂山を一目散に役所へと駆け登った。
無線機で王技士が、ナラムト、満洲里、アムグロと国境の出先と連絡をしていたが、全部不通。チチハルとの回線も切断され、電話は勿論不通。完全に孤立の
状態になっていた。構内に入荷したばかりの高層気象観測用の水素ボンベ100本が山積になっているので、これを全員で分散して爆発を防ぎ、機密書類を防空
壕内に格納した。街では火の手が上り、黒煙を上げていた。その時でも、ソ連が参戦したことなど夢にも思わなかった。
間もなく国境警備隊から「訓練防衛召集」令状が来て、奥田、菖蒲、三浦の三名が記されてあり、気軽に出かけたが、菖蒲氏は沈痛な面持ちで、官舎に両親の写真をとりに行き、集合場所に急いだ。司令部に着いて、ソ連参戦を始めて知った。
六〜七時間後に満洲里、ナラムト方面からハイラルに突入してくる模様で、これを迎え玉砕の運命にあるという。この事を役所の職員、家族に伝え南下してく
れるようと思ったが連絡の方法がない。ただ祈るのみで軍務に就いた。ソ連軍は遂に市内に突入して来た。日に日に敵の攻撃は熾烈の度を加え、ホロンバイル高
原を圧した。そのような時、12日朝、菖蒲氏は迫撃砲の一弾のため壮烈な最後を遂げられた。奥田氏に司令部に勤務せよとの命令があり、距離は六〜七〇〇米
のところを葡萄前進して七〜八時間かけて、急降下爆撃、機銃掃射の中、命中しないのが不思議な地獄の底を脱して司令部に到着した。司令部入りは旅団の無線
小隊を結成することであった。気象、電々職員で通信は確保されることとなった。
戦闘はいよいよ熾烈さを加え、無線室の隣りの仮包帯所には、重傷者が毎日山積される有様であった。アンテナも砲弾のため、張っては切れ、また張るの繰返
し中、機能も危うくなったので、新しい交信系を設定する目的で、十四日夜23時永石台長以下全職員、中銀ハイラル支店長、電々ハイラル所長外2〜3、一行
約20名が陣地を脱出して、興安嶺に向ったが、途中免渡河において戦死を遂げられたと、免渡河在勤の矢部了所長の話しである。この時戦死した方は、永石元
義、小野信和、関岡博、川島広臣、小島辰五郎、後藤誠一、森茂卓、菅原勇吉、山田茂の9名であった。残った奥田亮、岡元昌信、三浦忠夫、矢野清次氏の4名
は17日の夜、関東軍当局談として「・・・・八月十五日陛下の命令により日本国は降伏した・・・・速やかに銃を捨てて、ソ連の指揮下に入れ」という、同盟
通信の電報を偶然にも受けた。4名はシベリアに抑留され、それぞれ数年後に帰国した。
阿尓山−八日ソ連機飛来して、観象所の爆撃を開始する。余りの突然のこととて、防空壕に入る暇もなく、押入れ、露場に飛び出すなど・・・幸いに近くの沼地に落下し被害はなかったが、静かな阿尓山の温泉街は、この一撃で大騒ぎとなる。
司令部は婦女子の引揚げ命令を出して、16時に出発すると・・・・続いて各種機関も一斉に引き揚げるとの報に接したが、安本所長は観象業務の重大性と責
任から所員を督励して、最後まで止まる事を決意する。残ったのは、観象所と国境警察隊のみとなった。最悪の場合を考慮して、秘密書類を焼却し、気象原簿と
暗号書のみトランクに詰め、何時でも搬出できるよう準備する。20時指令部から今夜中に総引揚げるとの命令が出た。今晩中に興安嶺を越えることと決め、重
要書類、観測器機を焼却、破壊して21時出発した。
軍隊も警察隊、騎馬隊を編成し南下、一般引揚者は観象のみ7名、夜半万古の密林地帯に入る。九日三時ごろ密林地帯を抜け明るい道路となり夜明けとなった
が、何千人もの引揚げ軍隊の姿は全く見当たらない。興安嶺を越え、白狼部落に到着したのは10時過ぎて、小休止したが、2人の職員はどうしても動けず、幸
い日本軍のトラックを捕まえ、途中機銃掃射に遇うも、その夕刻無事索論に着いた。観象所に行ったが誰もいない。聞くところによると、索論の馬場定金所長は
引揚の途中死亡された由であった。
十日十六時ごろ白城に着き、夫人にも再会した。12日早朝、婦女子引揚げ命令が出て、また家族と別れることとなる。12日夜半、全日系総引揚げ、白城市街は大火災を見て十五日に新京に到着。
行方不明−春田勇夫
索倫-十日朝避難されたようだが、馬場所長と夫人は次の列車で出られる線路が破壊されたので、中村利司、山下氏の三人離ればなれにならないように縄で結びながら徒歩行軍されたが、遂に三人とも帰られなかった。
白城−八日夜半。20トンの爆弾を受け、九日朝、ラジオでソ連参戦を知る。白城の駐屯部隊は全員、夜半極秘裏に南方へ移動する。十日正午まで婦女子全員
駅に集合の命令があり、14時引揚げ。その中に木内所長夫人と子供三人、田中夫人と子供、藤田夫人及び阿尓山の安本夫人と子供二人計10名も加わった。そ
の後、在郷軍人と一般邦人は、小銃でソ連軍と一戦を戦わす津守であったが、在留邦人を保護すべき軍隊が邦人を置き去りにして引き揚げたのだからどうにもな
らない。
ソ連戦車部隊が阿尓山に到着した報で11日六時に駅に集合。全員撤退を決した。その数150名。只一人副県長が見えなかった。彼は官舎にあって「県内開拓団と行動を共にする故、諸君は速やかに引揚げるよう勧告する。僕はここでお別れする」との悲壮な言葉が伝えられた。
魯北ー三月頃から治安が非常に悪くなり、中共系、ソ連系のスパイなどがのり乱れ、夜毎にスパイの信号がきらめいた。観象所は万一のときには、暗号書を焼
却することが第一となっており、また、自決用としてピストル三丁と弾丸100発位用意されていた。魯北は僻地であることを充分認識していたので、開戦と同
時に逃げても無理であろうと覚悟をきめていた。日系人は全員参事官宅で自決したとのことであるかさだかではない。坂本氏は奇跡的に帰国されていた。
多倫ー僻地といわれる中でも、北満の漢河と多倫は格別の地であった。十五日、新京の命令で、取り敢えず、承徳に引き揚げるようにとの事であった。日本人
は翌十六日、早朝出発することになったが、何が何やら理由がわからず、県公署の人の話では、「日本は戦争に負けて無条件降伏した」とのことであった。
その日の夕方重要書類を焼却したが、機器類や観測野帳などは残しておいた。観測を続けるよう、星野所長は職員に命じて、承徳に向った。また真藤氏は軍の命令で張家口に向って出発した。その後の消息は不明である。
国境地帯、僻地の外黒河、海拉尓の地方観象台を含めて、終戦当時の状況について書いて来ましたが、孫呉、呼瑪、鴎浦、虎林、八面通、綏芬河、アムログ、
林東、林西、赤峰などの外にも数ヶ所の観象所においては状況が全く不明で、名沅や、語られた方々の様子などから、戦死又は行方不明となって、今だに判別で
きません。依蘭の小林六弥所長は、満洲時代は所謂五族協和、王道楽土建設を旗印に、満洲開発の一翼を担って、地味な気象でさえ何となくやり甲斐があり、思
い出楽しいものであった。しかし吾々が侵した満洲植民地は、それが満州開発に大いに役立ったとは言え、満洲国人に与えた苦痛は大きく、誠に申し訳ないと
思っている。まして、それが中国本土侵略、第二次世界大戦に連なるものであったことは明らかである。「小生も敗戦により多くの苦痛を受けたが、日本人とし
て、満洲人に与えた苦痛を帳消しにはできない」と。また「私は日本人として犯したあやまち、自ら受けた犠牲の上に立って、日中友好のために、少しでも努力
することが、私にできるせめてもの償いと考えている。と、小林氏は、埼玉県大宮市(現さいたま市)にお住いであったが、昭和63年(1988年)8月に他
界されました。私も親しく語りあい、おつきあったことを頂いた方のお一人です。
ご冥福をお祈りいたします。
僻地国境旧友
近地狼禽罕世人 | 僻地や国境、狼や鶴など、一般の人は、まれである。 |
同倫六百覜蒼旻 | 仲間なら六百名、青い空をのぞむ気象観測 |
晨鶏八九雷鳴湧 | 早朝、八月九日、ソ連軍による突如空襲受け、一瞬にして恐怖のドン底に陥いる |
過半無帰夢想頻 | 半数以上の同志故郷にまだ帰れず。眠っていても忘れることはない。 |
聴気象情報
晨宵気象眼前 | 朝晩天気情報をテレビ、ラジオで伝えてくれる |
朔北寒風南下天 |
中国地方(旧満州)の地から寒風が南下している模様 |
過半同窓空入夢 |
半数以上の同期生はむなしく行方不明や戦死してしまった |
何時故里駕雲還 |
いつになったら生まれ故郷へ、この雲に乗りなたがって帰るのか |
極北の地 人跡稀な黒龍江岸
湿地の国境東満 砂漠の西満
600余名 70余の観測地点
8月9日仏暁 予期もせぬ大異変
銃声の中観測を続けた先輩同僚
悲しい 悼ましい 悔しい
(二)
クラスノヤルスク第一収容所に容れられる。
収容所には1000人位の員数だったと思うが、詳細はわからない。4日か5日位、何もすることなく過ごす。器用な人もいて私の将棋盤と駒を作って退屈を凌ぐ人もいた。
「待った」
「待ったは駄目と決めていたはずだ」
「今日だけだ」
と押し問答をしていた一幕もあった。
全員集合の時が来た。ラーゲルの前に四列縦隊となる。人員を点検するのに、四列では計算が出来ず、五列になるように命ぜられたが、四列で慣れているので、
五列になることは馴染みもないので、故意に、5名の縦隊に4名を縦隊ができる。何回も遣りなおして、時間を稼ぐこともあって、監視兵も怒ることもなかった
が、何時までも、こんな姑息なことを続けることも出来ず、目的地に誘導され、到着したのがエニセイ川の石岸であった。
川の上流で伐採された、丸太を製材にするために、引き上げ−製材所に運ぶのが、最初の仕事であった。5名位が1班になって、慣れない作業であったが、初めは戸惑どったが、何とかできるようになる。
この作業は5日位で終わった。或る日、夕方になって、あと10分位で馬車に積み終る時刻となったが、その僅かの時間でもと、五時に作業は止めになる。もう
少しだ、頑張ろうと思っても重くて、そうやすやすとは運ばない。10分もあれば馬車に積み終るが、五時になる。作業は中止となり、ここまで引き上げたもの
を馬車の下に降す。明日はまた初めから作業を行うこととなるが、監視兵も何も言わず、この日の作業は終る。こんなこともあった。
こんどは製材所
での作業である。階上で製材する丸太が、監視する役。ここでは若い女性も数人いて、同じ仕事をする。彼女達は、日本兵に興味を持ち、時々話しかけてくる。
別に監視する人もなく、罪悪感と思うほどのこともなく過ぎたが、ここでも作業はむしろ、楽しい一時であった。
この製材所には、多くの要員が、必要であった。ラーゲルを出て、五列縦隊となり、工場に迎う工場の入口附近に、若い女性が数十名いて、吾々の来るのを待っていた。
もう雪の降る、季節であって、中には「マスク」をして出勤していた。これを見た、先着の待っていた彼女達は、隊の中に飛び入りして、「マスク」をはずす。私はマスクをしていかなかったので残念に思ったが・・・と思うより、愉快な活発な女性ばかりだった。
昼食の時間になると、黒パン1個の我々を見て、彼女達の手製の食べるものを持って来たりした。捕虜としてではなく、日本軍の兵士とみていたようだった。
作業場がまた変る。煉瓦造り。石炭の燃え滓をに、セメントを加え、水を注いで、かきまぜ、30cm立法の容器に入れて、数日たつと、石炭滓レンガが出来る。枠から取り出し製品となって積重ねて行く。こんな仕事を、数日間続いた。
(三)
水道管敷設の作業に入る。
これが、難工事だった。収容所生活中の最大の苦痛だった。エニセイツの何百年前か、何年前か、河川の大洪水によって運ばれた流水により、出来た砂粒地帯だったと想像することが、学問的でなく、私の思いであった。
作業に入ったのが、十二月頃だったと思う。シベリアの冬は、十時にならなければ明るくならず、夕方は四時頃もう暮れる。作業する時間は短い。
結論から言えば、住宅の建設だったのであった。
一般住民のための住宅が、4階建てで、二棟完成した。
住民の喜びは言うまでもなく、私達にとっても、こんな立派な居住地が出来たことは、嬉しく、捕虜の身を忘れて充実感を味った。
抑留者でもなく、収容所生活者でもない、思いがあった。
(四)
「楽しい」と言うか、日曜日に、三〜四回、自由行動が許された。
期待もしたことはなく、以外は事であった。
三〜四名で、単独だけは許されなかった。
或る日、春頃だったと思う。四名で街に出た。自由外出だから、嬉しさで、ラーゲルを飛び出したものの、目的はなかったが、何を期待することもなく、街中を歩いた。映画館に入って、二十分位鑑賞していたが、言葉も解らないので、面白くもなく、ここを出た。
しばらく、街の中をぶらぶら歩いていたら或る、アパートの2階から手招きされ、そのお宅にお邪魔したところ、隣りの奥さんが見えたり、近くの奥さん方も来られて、言葉は通じないが、何とかお互い、理解したのかいずれにしても楽しい寸暇だった。
お話の内容を、いろいろ、日常的な会話だったが、話が進んだころ、壁に「スターリン」の写真があって、スターリンについて、あまり好意を持たらず、むし
ろ評判は悪かった。あの人達は、もっと自由を求めておられたと思う。何故か街の中を注意深く観ておられ、兵隊の姿がみえると、話題を変えて、笑い声も出
て、一変した感じだった。話を聞くと、「ゲーペーウ」と言う兵が、一日何回か街中を監視しているようで、自由など全くない、日常の生活だった。
あまり長く、お邪魔してはいけないと思い、(この方々と隣りの人、階下の人)別れて、街中を少し散歩し、ラーゲルに帰った、ことあった。後日わかったことであったが、私達だけでなかったようだった。
この作業は、地盤が砂地であったので、五糎位までは,石より堅く、少し大き目の石があると、先ずこの石よりはじめた方が能率的だったと思う。又そうした作業の繰返しだった。
こうして、水道管敷設の難作業も春まで続いた。
水道工事に戻ろう。水道管を敷設するのに深さ、2米位まで掘らなければならない。言うまでもなく、それ位深くしなければ、凍結するからである。冬期に何
故と思うが、それなりの理由がある。夏場では、少し掘っても崩れる。2名で10米位置きに、作業に入る。2米位の高さで、径四〜五センチが鉄棒の尖鋭に
なっており、それを手で掘るのだが、20センチ位掘るのに、二日〜三日もかかる。
そこまで穴を掘れば、後は比較的楽な作業になるが、こんな厳冬の地に住んでおられない者には考えられないことであった。冒頭にも書いたように、難工事だった。
市内の道路に,水道を敷設するには、こん苦労があったとは、誰も考えてもなかったことと思う。春になるまで続いた作業であった。
書き方が前後するが、「レンガ造り」の作業もあった。この作業は思い出すほどの事はなく4名1組になって、進められた。
帰国が決まったような、噂が誰からともなく伝わって来た。何となくそのような雰囲気があった。誰からともなく聞いた話では。
この地に残って婿になって、と口説かれた人も数名いたが、やはり祖国が気になり、決断することもできず・・・・祖国日本の土を踏む。
後日、不確実な情報であるが、数名の兵が当地に残ったと聞く。これも事実だった。数年後に新聞で読んだことがあった。
(一)
47年四月末、シベリアに抑留、帰国が決まり、クラスノヤルスクからの長旅のすえ、ナオトカに着いた。目前の日本海の向こうが我が祖国であるが、未だ未
だ遠い。生まれた父母の国、一日も早く、祖国の土を踏みたいが、船便が不足気味で、何時になるか解らない。何万人という、同僚が帰国を待っているのだから
順番の来るまで待つよりしかたがない。その間、約一週間、収容所の環境は極めて悪く、食糧もままならず、伝染病が、各収容所に発生して、帰国を目前にし
て、病死する者が出ているという、噂が聞かれた。これは噂でなく事実だったことは間違いない。私の班の人も、発熱・腹痛・下痢等に罹り、数名の人が、入院
して行ったことが、毎日のようであった。私は五月七日ようやくナオトカを出航、十日に祖国舞鶴港に上陸することができたが、残って入院した、友がその後ど
うなったことかと、船中で気掛かりでならなかった。その後無事に帰国されたものと信ずるしかない。長い長い船旅であった。
舞鶴には早朝着いたが、上陸するまで、何時間かかっただろうか。船内にアメリカ兵が入り込んで、一人一人にDDTの散布である。頭から足先まで、真白に
なる。瘦せて衰弱した五体に、目玉だけが、ギヨロギヨロとした、人間とは思えない姿で、祖国の土を踏めたのは五〜六時間後であった。その間、DDTの散布
の外、身分の確認、身体検査、帰国先などの調査などで、これだけの時間のかかるのも了解できたが、反面一刻も早く、生まれ故郷に帰りつきたいと言う、あせ
りもあってとても長い長い時間であった。
私の場合、舞鶴港には誰も向えに来てくれる人はなかった。でも今思うと向えなどは考えてもいなかったからである。
舞鶴は隣県の港、金沢までは近い。二時間もあれ松任駅に着くのだ。松任駅に着いたのが夕方近くだった。兄と親戚の方3〜4名が向えに来てくれていた。も
う声は出ない。ただ夢を見ているようであった。松任から生まれ故郷まで辿り着いたか、どうしても思い出せない。着くなり、兄や親戚の人から、今年二月十八
日、大雪の日他界されたと聞く。父は他界するまで「敏之はどうしたろう」と何回も口ずさみ静かに息を引きとられた・・・と聞く。父を失った悲しみも重な
り、早くに母をなくしているので、ただ呆然となり、気持ちの整理ができないで2〜3日が過ぎた。父は私が満洲のどこかで生きていると信じていたのだろうと
思うと、よけい涙が溢れるでるばかりであった。
この日はもう暗れたので、翌日父の墓前に帰国の報告をしたが、父からは何も言葉が返って来なかった。
兄が「しばらく家にいなさい。いつか職につけることもある。」と言ってくれた。嬉しかったが、せめてもの救いであった。
終戦直後のこと、国内はどこも職はなく、さらに軍人や、海外からの引揚げ者をふくめて、失業者であふれていた。ソ連から運よく引揚げてはきたが、職がなければと、将来に対する不安な毎日であった。そのことを兄も見ぬいてられたようだった。
とは、言ってくれたものの、何時までも兄や義姉に甘えてはいられない。一週間位して一日も早く就職しなければと思う。幸いに実家が農家で兄が後をついていたので、食べることだけはそれ程心配はなかったが。
一週間位して、中央気象台に相談してみようと思い、さし当り金沢測候所を訪ねてみたが、「役所も定員法で、欠員のところはない。ただ1ヶ所南鳥島(確か
な記憶がない)に、1名欠員があるので、そこはどうですか」と言われた。気象関係の業務に携わることが出来ればよい。太平洋の孤島である。満州の国境地帯
や、僻地を思うと、大差はないどころか、治安の方は心配ないだけに、行ってみようか思い相談したが、即座に反対された。後日南嶺会の名簿で知ったが、満洲
観象台から引揚げて、日本の気象台関係に就職できた者は、旧満州で要職にあった人数名の外は、一般の人は内地の気象関係に就職できたのは、全国でも僅か数
名にすぎなかった。
兄は「抑留から帰って来て間もないのに、まだ体も回復していないではないか」と確かに言われるとおりである。自分は若さにまかせて大丈夫と思うが、兄や
他人が見たら、弱々しく見えたのだろう。南鳥島といってもそれ程驚きもしなかった、また、シベリア抑留で、多くの人が他界されていたが、その人達は確か年
齢的にも私より、年長の方が多かったと思っていて、少しは体に自信があったのかとも思ったが、入隊したとき、身長160センチ、体重僅か52〜53キロ、
過信してはいけない。兄の言うことも一理はある。あきらめることにした。
終戦で焼け野原となった国土では、バラックや防空壕で住み、食糧の配給は欠配が続き、横流し、盗品の雑踏のなかで、餓死者100万人以上、生きるための時代であった。
それにしても、何処かで何か職業をみつけ働かなければと、知人や、金沢にいる、兄にもお願いしていたが、なかなかない。気持ちにあせるばかりでした。と
ころが或る日、新聞に「食糧を確保するため、GHQから、米を調達するために、調査をする機関が、各県に設置する」という記事をみて、即日、金沢に行き就
職の相談をしたところ、気象関係のこともあり、予想するのに必要なのでと言われ、即座に採用が決まった。運が良かったと思い、翌日から、ここに勤務するこ
ととなった。
それから、二十年半の歳月が過ぎた。六七年初夏の頃と思うが、確かな記憶はない。この頃は結婚して、長男重友、次男俊二も中学、小学校に通学していて、横浜に転居していた。
共済組合年金の手続きに、前歴の書類の証明書を整備しなければならなくなり、兵役の証明書は石川県の援護課で頂いたが、旧満州の吏員であった証明があれ
ば、共済年金の勤務日数が加算される可能性があるとのことで、その証明書を提出しなければならない。言うまでもなく、旧満州の公的機関の証明は不可能であ
る。しかし、当時勤務した上司の方の証明でよいとのこと、そのように助言されても誰が帰国され、何処にお住まいか、全くあてがない。とりあえず休暇をもら
い東京の気象庁に行く。大手町以前学んだ懐かしいところである。東京駅を降りて気象庁に向った。
庁舎前で來所した目的を守衛さんに告げたところ、
「一寸待ってください。旧満州に勤務された方がおられますので」
と言われ、間もなく一人の先輩にお目にかかった。その方こそ、南嶺会の事務局として、お世話になった庄司照雄さんであった。
庄司さんは1911年(明治四四年)生まれで私より、12年の大先輩である。当時は中央観象台の総務の資材科に勤務されていた。
初対面ながら当時の面識がありませんでしたので、私の名前と勤務について
中央観象台の予報科に41年−四四年八月まで、四四年九月-四五年三月まで四年間勤務していました。その後兵役に召集されました。
いつ引揚げられたのですか。
四七年六月にシベリアから舞鶴に上陸しました。
今どこにおられますか。
横浜です。引揚げてもう、二十年になります。
早いものですね。もん二十年になるなあ-
庄司さんは、気象庁の何処の部課に在職されておられたかわかりません。
1956年に中央気象台が気象庁となっており、委託生として学んだ時から26年も経ている。現職もすっかり変っていた。目的は共済年金の手続のため「旧観象台に勤務していたことを証明」していただく方を探しにきました。
元同じ職場でのことをはなしました。先輩との会話は10年も20年も同じ職場にいたように、話題は尽きなかった。
このとき、庄司さんから南嶺会という会があることを知る。入会を勧められて、その場で入会しました。
当時の上司で、予報科長で大へんお世話になった。出渕重雄さんが、兵庫県宝塚市に居られることを教えてもらい、早速「在職証明書」をお願いする。間もなく、ご返事を頂きました。大変助かりました。
南嶺会は「入会金も会費もない」自由な組織である。勿論会報も発行されない。年に一度全国大会があり、その折に参加費を集め、幹事がやりくりして残金をだし、翌年の名簿など作成にあてる。幹事、事務局の個人負担があると思うが、詳細はわからない。
(二)
1990年十月十六日、戦後45回という節目の年に当り、東京で第10回目となる全国大会が開かれた。その時配布された。「南嶺会の変遷」という。以下のような資料があった。
この資料は、一九五三年当時、和達清夫先生、小渕重雄氏、矢部了氏が気象庁総務部企画課に勤務しておられて、旧満州からの引揚者に対しては「元の職業え
の復帰」「他の職業えの斡旋」「生活困窮者えの援助」等の仕事にたずさわっており、たまたま、同年十月三〇日、(故)石井千尋、(故)安井豊両氏が、留用
解除となって帰国してきたので、当時中央気象台に在職していた。旧満州からの引揚者の職員有志が集まり、経済企画庁の四ツ谷麹町寮において歓迎会を開いた
事から始まった。
留用解除というのは、敗戦後中央観象台観測科長であった安井豊氏が、長春東北大学助教授をしておられて、石井千尋氏は気象研究所の第二科長であったが、東北部の気象観測の業務に就かれておられていた。
開催した日時は左記のとおり
回数 |
年 月 日 |
開催場所 |
出席人数 |
世話人、幹事 |
備考 |
・・・ |
S28.11.3 |
四ッ谷麹町寮 |
19 |
矢部 了 (萬家嶺所長) |
世話人、幹事 矢部 了 |
1 |
S29.6.11 |
上野根津上海楼 |
16 |
矢部 了 | 南嶺会として発足 |
2 |
S31.2.4 |
神田高砂屋 |
27 |
矢部 了 | |
3 |
S33.7.13 |
上野根津上海楼 |
35 |
矢部 了 | |
4 |
S34.2.8 |
神田廬山会館 |
38 |
矢部 了 | (大熊義一逝去 S34.8.21) |
5 |
S35.1.28 |
神田廬山会館 | 40 |
矢部 了 | (吉永一枝逝去 S35.12.7) |
6 |
S36.2.15 |
神田aa |
37 |
矢部 了 | 旧満州観象台の「思い出」発行 発行責任者 矢部 了 |
7 |
S37.2.8 |
神田登亭 |
35 |
矢部 了 | |
8 |
S38.2.18 |
上野根津上海楼 |
30 |
矢部 了 | |
9 |
S39.2.13 |
上野根津上海楼 | 41 |
矢部 了 | |
10 |
S40.2.2 |
本庁第一会議室 |
.38 |
矢部 了 | |
11 |
S41.2.10 |
本庁第一会議室 | 35 |
矢部 了 | |
12 |
s42.2 |
本庁第一会議室 | 40 |
矢部 了 | |
13 |
S43.3.18 |
上野根津上海楼 |
− |
庄司照雄 (中央資材) |
S42.4.1付 幹事矢部了 八丈島測候所転出により庄司照雄氏へ移る |
14 |
S44.2.17 |
上野根津上海楼 | − |
庄司照雄 | |
15 |
S45.3.17 |
本庁゛泰一会議室 |
− |
庄司照雄 | |
16 |
S46.3.17 |
東管会議室 |
32 |
庄司照雄 | (計良元彦逝去 S46.8.21) |
17 |
S47.2.15 |
東管会議室 | 48 |
庄司照雄 | |
18 |
S48.2.28 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | |
19 |
S49.2.26 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | (安井豊氏逝去 S49.10.21) |
20 |
S50.2.17 |
本庁第一会議室 | 30 |
庄司照雄 | (佐川正雄逝去 S50.7.2) |
21 |
S51.2.27 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | 関西方面からの出張者の多い時期に併せて行う様にとの意見が多い。又、地方でも行って欲しい |
22 |
S52.2.19 |
本庁第一会議室 | 40 |
庄司照雄 | |
全1 |
S52.11.26 |
京都市堀川会館 |
70 |
石井正語 |
全国大会と言う事で京都で開催した。 従って一泊泊まりとなる。 (藤原寛人逝去 S52.2.15) (大谷東平逝去 S52.5.5) |
23 |
S53.10.8 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | |
24 |
S54.2.26 |
本庁第一会議室 | 40 |
庄司照雄 | |
25 |
S55.10.21 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | |
全2 |
S56.10.3 |
奈良市桃山荘 |
− |
石井正語 |
(石井千尋逝去 S56.10.6) |
26 |
S57.10.21 |
本庁第一会議室 | − |
庄司照雄 | 南嶺会は全国持回りで開催して欲しいと地方からの要望により今後地方でも開く事に決定。山陰の奥田亮氏特別参加 |
全3 |
S58.9.26 |
松江市水天閣 |
71 |
奥田 亮 |
|
全4 |
S59.10.15 |
熊本市司荘ホテル |
76 |
能戸勝雄 |
|
全5 |
S60.10.15 |
仙台市秋保温泉水戸屋 |
80 |
梅田三郎 |
(石井正悟氏逝去 S60.11.9) |
全6 |
S61.10.15 |
伊豆修善寺菊屋ホテル |
88 |
木内勝夫 |
(伊達了逝去 S61.11.7) |
全7 |
S62.10.13 |
名古屋市東急イン |
100 |
石川儀三 |
(滝沢直人逝去 S62.2.5) |
全8 |
S63.10.16 |
松山市宝荘ホテル |
102 |
渡部士朗 |
|
27 |
H1.3.4 |
観測部会議室 |
44 |
庄司照雄 |
観象台史完成記念を兼ねて。(出渕重雄編集) |
全9 |
H1.9.11 |
札幌市サントールニュ札幌 |
78 |
藤田才啓 |
(星爲蔵逝去 H1.9.13) |
全10 |
H2.10.16 |
東京サンシャイン60トリアノン59階 |
114 |
日吉一夫 手塚末光 出渕重雄 庄司照雄 |
和達清夫先生米寿のお祝いを兼ねて 物故者45年追悼式 |
全11 |
H3.9.11 |
新潟 |
87 |
佐藤修次 長治義満 加藤康夫 |
|
全12 |
H4.10.6 |
別府 |
85 |
田島松太郎 北山俊一 重幸子 |
|
全13 |
H5.9.16 |
萩 |
64 |
奥田亮 小田刻雄 池田利一 程原幸人 |
|
全14 |
H6.10.19 |
福島会津 |
73 |
大沼七郎 |
|
全15 |
H7.10.18 |
松本 |
77 |
後藤茂 林本 小林武人 杉本敬 |
|
全16 |
H8.10.15 |
豊橋 |
60 |
佐々木守彦 |
|
全17 |
H9.10.14 |
盛岡 |
59 |
加藤正道 三浦陸男 成田普 |
|
全18 |
H10.10.21 |
九州佐賀 |
63 |
中村重雄 伊集院綾子 田中九州男 |
|
全19 |
H11.10.10 |
四国大会 |
51 |
石川勝 岩本照市 安田石生 |
最終会となる |
また関東地区だけの会合も開かれました。
日時 |
場所 |
参加人数 |
S.63.2.23 |
気象庁 |
39 |
H.元.3.4 |
気象庁 |
40 |
H.元.12.10 |
横浜 |
22 |
H.2.12.6 |
横浜 |
18 |
H3.12.4 |
横浜 |
18 |
H4.2.25 |
気象庁 |
31 |
H5.2.22 |
気象庁 |
24 |
H5.12.6 |
横浜 |
16 |
H6.6.22 |
気象庁 |
24 |
H6.12.6 |
横浜 |
17 |
H8.2.19 |
東京KKR |
17 |
平静八年の会合に関して、お世話を頂いた榎戸正義さん、永沼明さんが、主体になり、運営をされて居りましたが、私達より、ちょっとお年を召しにな られましたので、今回より、若返りとして、世話人を研修所の三期生、四期生で、東京近郊に近い方々で運営させていただくことになりました。・・・とありま した。
満州より引揚げの観象職員各位に(第二報)
愈々、秋冷の候となりましたが、皆様如何にお過ごしでいらっしゃいますか。第一報を差し上げましたが、其の後、引揚げ事務も段々軌道に乗ってまいりまし
た模様で嘗での同僚が続々とお帰りになるのを承りますと、何とも言い知れぬ嬉しく、自ずと胸に込み上げて参ります。然し又、今尚現地に在って、忍び寄る寒
気と闘いながら、幾多の苦難を嘗めて居られる方の事を思いますと、誠にご苦労様でこの上は一日も早く、お帰りの日が参ります事を、お祈りする次第でありま
す。
我々満洲観象事業に関係あるものは、此の難局下御互に力を協せ、励まし合い、慰め合い、緊密な連絡の下に将来に向って相互扶助の実を挙げて行き度いと存じます。
第一便でも、申し上げました様に僭越乍ら気象台の中央に籍を置く関係上右に関する仕事(例えば引揚げ職員援護会の様なものを設ける積りです)の創始事務と私達に御委ね願い、皆様の御賛同を仰ぎ度いと存じます。
勿論、此の難局下の事でありますから、気象事業への復帰、その他職業の斡旋とか、困窮者に対する、経済上の援助と言うと仕事こそ、最も重要な問題であり
乍ら、意を満たすことも亦、誠に困難な子とでりますが、能ふ限りの努力を畫してみたいと存じます。何卒皆様の御協力を御願い致す次第であります。
別紙に帰還された方々の名簿を添付致しました。何卒皆様御互い援け合い元気で新日本の再建のため、力を畫そうではありませんか。
尚名簿の中で間違いの点があったり、帰還された方で、記載漏れにお気付きの方は至急御知らせ下さい。又生活上、特に御困りの方がありましたら、何卒御申出下さい。その他職業が決まったり、何でも動静がありましたら、其の都度、御連絡くださいますと好都合と存じます。
昭和二十一年十月五日 中央気象台企画課内 和達清夫 出渕重雄
このように、引揚げて間もない時から、旧観象台職員のことを心に掛けて下さっていたのだろうと思うと、先輩の御努力に感謝するのです。私など、こ
のころは未だ、シベリアの地に抑留されており、知る由もありません。この方二報だけは、全国大会のときに頂いたものですが、第一報と最初の名簿はどんなも
のだったか解りません。
「南嶺会」という名称は、先の「南嶺会の変遷」で、矢部了氏が(平成二年十月十六日)書かれた冒頭に、
仰々、南嶺会は、旧満州国中央観象台職員の集まりで、年1回以上会合を開き、全会員相互間の親睦を図り、往時を偲びつ語り合い、更に親交を深めようとするための会合で、『南嶺会』と呼びます。
この南嶺会は、中央観象台の所在地が、新京特別市南嶺に在った事、又かつ満洲事変当時の激戦地であることから、南嶺会と呼ぼうという事にした。和達清夫会長の意見による。
全国大会は1977年(昭和52年)11月26日の第一回、京都大会から、1998年(平成11年)11月10日四国大会まで、22年間行われました
が、第一回から第15回位まで80名から100名の出席者も、次第に高齢となり、また残念ながら他界された方もあって、60名から、四国大会では51名と
急激減少してきたので、残念ながら止むなく中止するようになりました。
(三)
私が始めて、南嶺会に出席できて、全員の皆様に遇うことが出来たのは、1987年(昭和63年)2月、気象庁管理課会議室で、午後3時から懇談会を開
き、夕刻から懇親会を催したときです。このときは、和達清夫先生もお見えになられ、なごやかな会食となりました。私は始めての出席のため、知った方は出渕
重雄さんと、事務局の庄司さんくらいで何か、新入生のように終始緊張していたようだった。自己紹介をして、皆様の話しを聞きながら過ぎ去った日を思い出し
て帰途につきました。このときは関東地区だけだったのに、39名も参加され、さらに、第8回全国大会予定の四国松山市から渡部士朗氏が大会実施要領を打ち
合わせのため、遠路にも拘らず出席されて、秋の大会を期待して終わりました。
それより先、1985年(昭和60年)仙台大会が十月十五日に開催されて、そのときの名簿に私の名前が載っていて、総計226名、その中に中華人民共和
国の遼寧水利学校の教官をしておられる、李一心さんが含まれていた。氏は中央観象台当時の観測科の技士で敗戦直後は瀋陽の気象局に在籍されていた方です。
私の同期生は21名中名簿に掲載されている者は僅か10名、愕然として、何回も見直したが、間違いでなかった。
1986年(昭和61年)十月十五日、伊豆修善寺に開催されたとき、庄司事務局長さんから参加の通知を受けました。気象庁に尋ねてからすでに二十年近い
歳月を加えていました。それまで何回か誘いがあったのか、全く記憶はなく、又関係する文書、手紙等もなく、この第6回大会の通知を受けたとき、同封され
た、第5回仙台の名簿が同封されていました。折角のお誘いでしたが、残念ながら出席できなくなったので、事務局に南嶺会の運営に経費もかかっていることと
思い、事務経費に当てて頂きたく、小額ながら同封して、不参加の近況便りと一緒に送りました。
「皆さん、你們好、御機嫌如何でしょうか。道轝が進んで円高となって、中小企業を直撃、その煽りを食って、我々零細業者は四苦八苦、まだまだ第1線で働かなければならないのが近況です。でも働けるだけ幸せと思う。
さて21世紀は日、中共に経済大国とか、隣国でもあり、歴史的にも最も深い関係にあった中国、そして40数年前、骨を埋めようと決めた国、どの国よりも一層の友好を願っています。再見、再見」
1996年(昭和61年)2月10日、中国の春節の佳日に「和達先生文化勲章受賞祝賀会が関東地区の南嶺会として催されたとき、33名の出席により、その栄誉を御慶祝申し上げた。
そのときは関東地区以外にも遠くは熊本県からの出席者も含め八名の方も参加を頂いたようです。私はこの日も都合により、出席できず、同じく欠席者7名の中に加えていただき祝金を同封いたしました。
1989年(平成元年)十二月十日、横浜中華街で関東地区の忘年会が開かれて、初めて出席しました。それまで、87年十月、名古屋市、88年十月四国松山市、89年三月中央観象台史、祝刊行記念会東京で、同年九月札幌市で全国大会が開催されました。
この忘年会は和達先生には要職御多忙中に拘らず、御臨席を賜わり、最後まで小宴のお付合い頂き無上の光栄でありました。同好の士22名参加、互いの健康を祝福し、忘れ得ぬ旧満州の回想に話が弾み、時間の過ぎるのを忘れたくらいでした。
このときは、2〜3名を除き初対面の方ばかりでしたが、何故か、旧満州観象台ということで旧知の最も親しい方々だったように、不思議に意気投合し語りあうことが出来ました。
この中の一人矢吹芳雄さんは、中央観象台予報科当時に在籍されておられ、1年先輩に当り、いろいろと、ご指導を受けた、1番身近な方でした。現在は埼玉
県羽生市に自営の事業をしておられる方です。矢吹さんが、遅れて来られ、庄司さんから「日向君、今日矢吹さんが出席される予定だか、、まだ見えない。もう
少し待ってください。」と特に言われ、幹事さんが、それ程までに気をつかっていて下さるのかと感激しました。しばらくして顔を見せられ矢吹さんからとも、
私からとも再会を喜び、しばし語る言葉もありませんでした。共に生きて帰国し、再会出来た・・・とは、何に喩えることも見つからず、ただ、人生の不思議な
めぐり合わせを噛みしめた一瞬でした。また、矢吹さんは出席者全員に「お土産」を寄贈されて、一別以来の久闊を叙し、酒杯を捧げ互いの健康を祝福し、親交
の絆は緩みなきことを誓い解散しました。
1990年(平成二年)一月10日、第10回大会が東京池袋のサンシャインシティで開催され、『東京大会」と名付けられた。この大会は戦後四五年、10回目の大会として、意義のある、筋目の大会となりました。私にとっては、今日まで忘れることの出来ないものでした。
1.旧満州国観象台職員物故者追悼式典
2.南嶺会創立10周年記念式典
この大会は十六日、十二時から受付、追悼式は14時〜15時と案内状にあったので、正午頃家を出る。池袋まで約一時間余、気分的にも余裕があったので、
久しぶりの山手線を電車の窓から眺めながら池袋駅に着いた。新宿、池袋附近も含め、東京も随分変って来ているのに驚いた。敗戦から四五年、敗戦の傷跡はど
こにも見当たらず、すっかり復興している街の光景を見ると、人間の生きる逞しさ、日本人の勤勉さをつくづく実感しながら、サンシャインシティ-に着きまし
た。正午を少し回ったころだった。エレベーターの附近で、旧観象台の方ではないかと思われる、2〜3名に逢う。初対面の方と思い。
「旧観象台の方ですか。」と声を掛けました。各々、仙台から来ました。福岡県から、香川県から、秋田県からと会話ほしながら、受付をすませました。見知
らぬ初対面の方でしたが、観象台の方ということで、45年来の旧友となり思い出が沸き、信頼することの方と共に、旧満州で働き、敗戦で辛酸を味わった。
14時まで少し時間があったので、同期だった、岩間茂氏夫妻、大沼七郎氏夫妻、をはじめ、1年先輩の田野井稔氏、矢吹芳雄氏、山崎一英氏や、前年の忘年会でお逢いした方々と語りいあっているうちに14時となる。
全員式場に集合する。事務局代表の庄司照雄氏の大会開催にあたって・・・別紙
出渕重雄氏の物故者追悼式に当って・・・別紙
が行われ、
第6回、第7回大会および今回の第10回大会資料を照合してみましたところ、戦死されたり、自決された方62名、行方不明、消息不明者88名計150
名、帰国後死亡された方116名計266名、名簿に記載されておられない方も多数おられると思われますが、残念ながら不明のままです。私の同期生で特に親
しかった、熊谷拓二氏、都所弘氏、戸田栄一氏や沖縄出身の照雄康二氏、喜屋武昌信氏など十名は全く不明である。唯一人近内良男氏は奇克特で戦死と見られる
方にありました。敗戦直前に観象職員が兵役に徴収されたりしたため、急遽内地から参集された人もあって、職員名簿も紛失して、全員の職員数を把握すること
は、今となってはふかのうであります。召集されて休職扱いとなっていたと思われる私を含めて、六百名以上の職員数だったと推定されます。
追悼式は順調に進み、黙祷をささげ、祀壇に向い、合掌、礼拝、表白
ご遺族を代表して、永石元義氏長女東幸子様のご挨拶−献花を終り閉会となりました。
南嶺会創立五十周年記念式典
会員数も、会を重ねるごとに増加しております。第5回大会時は226名でしたが、いろいろと、会員各人が調査したりして、1.同じ職場であった。2.同
期であった。3.出身県が同じであった。等をから、出来る限りの方法で探し当てた結果、今回の大会には300名に達し、5ヶ年で74名の方が参加されまし
た。そのなかには、訓練生として、四四年〜四五年の終戦直前に入所された方が多く、若干20歳以下の方々が含まれたからだと思います。
式典では80歳に到達された方へ記念品を贈呈して南嶺会の益々の発展を誓い解散となり、祝宴に入りました。
祝宴では、同期の大沼七郎氏、岩間茂氏、1年先輩の矢吹芳雄氏、田野井稔氏外多数の方々と語り合いました。
翌日はバスで山梨県の観光でしたが、私は都合により、当日で帰宅しました。多くの人達は十八日朝現地で解散する。
第11回は91年新潟で、このとき島根県の池田利一氏夫妻に逢う。大沼氏と斉藤礼三氏に私と、南嶺のアジア旅館という、間借し屋で暮らした仲間、夜おそ
くまで語りあった。残念なのは、斉藤礼三氏は八年4月に他界されていたので、私がその前に斉藤氏の墓前に花を捧げた写真を両氏に見せて、彼のご冥福を祈っ
た。其の後関東地区懇親会や第12回別府、第13回萩、第14回福島、第15回松本、と参加しましたが、96年三月,胃癌の手術をして、7ヶ月目第16回
豊橋大会に出席しましたが、あまり無理をしてはと考え、皆様にお逢いしただけで、その日に帰りました。
第19回四国大会を最後に全国大会は中止となりました。
述懐
雁信旧朋会
追懐五十霜
野叟嘆迅晷
鶴首菊花觴 日向敏之謹仰
会津で
君は陸の孤島 凍土の露場
我は南嶺で天気図を書く
江岸で老い 原野に散る
自ら笑う 一炊の夢
昨年は萩 いま飯盛山
夕陽は赤く 酒友と語る
萩を訪ね 飯盛山に遊ぶ
情熱を注いだ猛者どもの跡
秋芳洞の黄金柱 白傘ずくし
裏磐梯の湖沼 青緑造化の功
白昼黄沙風塵 漆黒の光
深夜江河結氷 爆発の音
去って50年紅葉秋風の候
老友と酒宴夜半 会津の宿
磐梯吾妻霜降 磐梯吾、霜降時
紅黄碧赭造化功 紅黄碧赭造化の功
暮雨少年碑濺涙 暮雨は少年碑に涙を濺ぐ
ああ50年逢君旅 ああ50年君と逢えた旅
大沼七朗氏と会津東山温泉で、 20.10.1994
シベリアでみた、幽かな光
六十年前の敗戦で、シベリアに六十四万人が抑留され、四万6千人におよぶ同胞が、祖国の土を踏むことなく、今もなお、凍土に眠っておられます。
厳寒と飢餓と重労働、三重苦が、すべてでありました。
しかし、いろいろな出来ことにも、光と影があるように、暗黒のなかで、幽かに心を癒すこともありました。
私は、斉々哈尓をたち、チタ、イルクーツクを経由、十五日間、貨車に積み込まれて、九月中旬、エニセイ川の河畔、クラスノヤスク着き、第一収容所で約二年間の抑留生活を強いられました。
酷寒の冬を過ぎた、翌年の春頃から、監視兵も、現地人も、寛大になってきたように感ぜられた。彼等は「日本人は親しめるが、ドイツ人は駄目」と、よく口にしていた。
シベリアは、昔から、犯罪者、政治犯の「流刑の場所」として、暗い印象の地帯と思っていました。
この連想は、現地の人と、交遊のひとときもありました。
1.夏のある休日に、たまたま、自由外出が許されて、友人と三人で、街を散策していたところ、アパートの二階から、手招きで呼ばれたので訪ねてみました。
言葉も互いに通じなかったが、工夫しながら、手と口の動作を繰返し、暫く雑談の時間を過しました。中食時となり食事をご馳走してくれました。
当時のソ連は、物資が不足だった。よく、こんな接待をしてくれたものと、恐縮するばかりでした。何回も、お礼を言って帰りました。帰りがけに、隣家からも声をかけられ「寄ってくれ」と言われましたが、ラーゲルに帰る時間のこともあり、お断りして帰路についた。
招かれた宅も、隣家でも「スターリンの写真」が掛けられていた。彼等は、この写真に向って、何も言わず、両手で×をして、不満を表現していたことが、深く印象に残った。
2.レンガ工場で雑役に従事していた冬の或る日、私どもの中食が黒パン一個であったのわ見て、自分達のパンを分けてくれ、一緒に、休憩時間をすごした。楽しい一時もあった。
3.冬の建築現場で、空腹と疲労で極限状態になっていたこともあった。もちろん作業は進まず、隠れて、休息をとっていたとき、看視兵も現場の監督者も見て見ないふりをしていた。彼等の方が上司に見られていないかと落ち着きがなかった様子だった。
4.作業現場には、隊列を組んでいく。或る冬の朝、風邪の予防に、マスクを掛けていた者が数名いた。突然、可愛い嫁さんが、駆け寄って来て「マスク」を無理にとり、軽い接吻をして笑顔で迎えて来れました。
5.夏ラーゲルの近くで、白昼夜、若い男女が朝方まで、タップダンスを楽しんでいて、中に加わるように誘われた。一緒に踊った者はいなかった。また、抑留中に、二度映画館に無料で観賞もしました。言葉がわからず、理解できなかったが、心を癒す一時であった。
また、敗戦前、私は札蘭屯の近くの山中に野営していました。はるか眼下に大興安嶺を越えるため、列車は、この地点を、螺旋状に、喘ぎ喘ぎ登っていく、樹海の光景は、名画の世界に逼かれるようでした。その向うに、数十戸ばかりの、ロシア人の小さな集落がありました。
ここの住民は革命によって、祖国を追われ、この山山中で、平和な生活を営んでいました。祖国では地主か、貴族だったのかわかりません。
或る日、晴れた昼下がり山を下り、この集落に遊びに行ったことがありました。「珍しい人が訪れた」と、多くの人が集まり、喜んで、人懐かしく迎えられ。パン・牛乳・チーズなどを振舞ってくれました。
私の青春時代は、戦争・・・精神主義で、勝利に沸き、情愛を失った時代だったと思います。
それが、敗戦と言う現実に直面してはじめて人間性を、とりもどし、徐々に人格を尊重した、民主主義が芽生えてきたと思います。
戦争は、どんな人間でも、狂わすことがあるように思います。しかも組織に入ると忽然として、牙をむき、猛獣に変身する。平時では考えられないことが、公然と行われることがある。
大戦中の日本兵の残虐な行為、敗戦時のソ連兵の野獣のような行動をみると、これが旧満州での悲惨な現実、シベリア抑留の実態であったと思います。
戦争は武器を用いての行為であるが、今日でも一般社会においても「皆で渡れば怖くない」という思潮があり、自分の行動が「それ程の憎悪とは思わない」という感覚の麻痺があるのではないでしょうか。
さて、過去を怨思するのではなく、新しい世紀を迎える日も近い。日露両国民が平和条約の締結を願っていると思います。