壁空に消えた気球(ラジオゾンデ)
旧満州国中央観象台時代
(旧満州国全図昭和20年現在 図挿入)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Manchuria.jpg (参考)
壁空に消えた気球
三.五〇年目の両訪
(一)
大倉山駅から「だらだら」の坂道をのほる。右手に東横線が走り、左手が民家となっている。この坂道を三百米位のところに、大倉山記念館、その続きの向う
に梅林があり、公園となっている。毎年2月末日〜三月上旬の土・日曜日に「梅まつり」が催される。今年も昨日まで賑わっていた。数日前には小雪がちらつく
小寒い日があったが、幸いに前日から晴れた。まつりの一日目は風がやや強く、寒く感ぜられたが、日曜日は暖かくなり、おおぜいの人が、我が家の前を、親子
連れから老人まで、ぞろぞろと公園に向ってゆく。梅はまだ七分咲きだが、次第に春の気配を感ずる気候となった。今日3月一日、昼食をすませて郵便物を見に
ゆく。日吉一夫氏から封書が届いていた。1993年の「梅まつり」の翌日だった。
内容は見るまでもなく、中国東北部(旧満州)え「郷愁の旅」の誘いであることに間違いないと確信する。足早に、二階の部屋に入り開封する。まぎれもない「南嶺会中国東北部地方旅行のご案内」となっている。春の喜びを何倍も感じた、ひとときであった。
旅行の出発は1993年(平成五年)六月三日から10日間の旅である。
この旅行は89年の十二月十日、横浜中華街での関東地区忘年懇談会のときに話題となった。
「よい話だね。一度訪れてみたい」
という意見が多かったが、そのまま別れた。
この会合で、予報科で一緒だった。1年先輩の矢吹さん、田野井稔さんのほか、顔見知りの人はおられなかった。90年には、日吉一夫氏から前年より多少具体的な提案があり、その場では賛成者も多かったがそのまま終った。
91年の会合では19名の出席があり、来年(92年)に実施したいと言うことであったが、何分にも住居が全国にまたがり、誰に連絡をとって良いのか、日吉一夫氏も相当苦労されたようだが、実現しなかった。
そして93年2月にさらに具体的となり、ようやく4年ぶりに実現した。
89年に初めて出席したとき、矢吹氏、田野井氏は
「日向元気か、よく帰って来られたね」
「お会いできて、こんなに嬉しいことはない。お二人とも、お元気でなによりです」
「おたがいになによりだ」
「50年ぶりの面会ですね。つい先日のようで、ちっともかわりませんね」
と互いに手をしっかりと握りあって、生きていた喜びで、それ以上の言葉はでなかった。いま、矢吹さんは埼玉県羽生市で、田野井さんは栃木県鹿沼市にお住まいになっておられます。
92年2月25日の新年会で、日吉一夫氏から
「六月頃を目途に具体的な検討をしている」
「是非お願いします。」・・・・出席者から
「何とか実現するように旅行会社と接しようしている」
日吉氏は埼玉県鳩ヶ谷市にお住まいで、地元で「リクリエーション」関係の活動をしておられるとのこと
「それは何よりだ。よろしく御願いします」
「ここに、お集まりのなかで、希望される方はどれくらい居られますか?」手をあげて、参加希望と7〜8名から発言があった。私も勿論参加希望と手をあげま
した。幹事役を引き受けた、日吉さんは大変な役だ、六月頃をめどに、全国から希望者をとり、旅行会社と折衝して、出発まで2ヶ月しかない。結局この年は実
現しなかった。
この話があってから、早く実現できないかと、気持ちは昂る。2〜3年後まで訪れられなかったら、旅行会社が募集しているツアーに参加する方法もある、と
思ったりした。やはり2〜3人でもよいから、知人、友人がいなければ心細い、南嶺会の実現を願う。何年目に実現するかわからないが、「パスポート」を取得
することが先決である。そう思い、92年の2月三日付で交付を受けていた。これで何時でも中国旅行は出来る。しかし南嶺会が募集するのに、まず「パスポー
ト」の取得から各人に通知しなければならないから幹事役は大変である。そして,いま三月一日封書を受け取った。
案内の手紙は2月26日とあった。あのひから4月目である。
封書には、昨年の失敗をふまえて、今年は近畿日本ツーリストと交渉した結果、成田発・着を夕方にして、大連を経由にし、円東(旧安東)、瀋陽(旧奉
天)、長春(旧新京)、ハルピン、チチハルの旅行を、日吉・三浦で企画しました。同封の旅程表は見積の段階です。細部にわたっては、人員確定次第ご連絡い
たします。希望者は15名位で予約いたします。
日吉一夫氏は埼玉県、三浦睦男氏は岩手県久慈市に在住で、四五年(昭二十年)四月に訓練生として入所した同期である。第4期の訓練生は在満僅か4ヶ月の
観象台職員としてであるのに、一番若い年令でもあり、僅か4ヶ月とは言え旧満州には忘れられない、思い出だけでなく何か心に残るものがあるのだと思いま
す。心よく旅行の世話人として、この旅行に大変なご苦労を願ったのです。
航空機の手配を早めに予約する為、同封の返信用ハガキを恐れ入りますが、三月十五日まで着くように御願い申し上げます。その際予約金5万円を下記郵便預金総合口座にお振込み願います。
また。近畿ツーリストより、下記の書類提出の要請がありましたのでご連絡いたします。
1.海外旅行お伺い書(同封のもの)
2.パスポートのコピー
3.なるべく、4月10日までに御願いします。
なお、三月25日現在の参加者は、11名予定なので、旅行会社に15名ほど御願いしてあります。行程や宿泊ホテル等はまだ先になりますとあった。
三月四日、午前予約金とパスポートのコピー等を送付しました。
旧満州の中国東北部の旅行会社の募集は瀋陽、長春、ハルピンの三都市と決まっているくらいであった。それを特別に鴨緑江河口の朝鮮族の多い、旧満州の玄
関口である円東(旧安東)と北満チチハルが加わったので、旅行会社も中国の旅行会社と折衝して加えて頂いたことに、日吉氏・三浦氏の苦労もあったことと思
い感謝しました。参加者の中に、円東は飯倉誠氏は中学時代をお姉さんは安東高等女学校に通学されており、また、安奉線(旧称)は小学校高学年を過した町や
村があるからなのです。また、日吉氏は終戦の八月下旬、円東へ同期の小野操氏と新京武徳殿の柔道の総師という方と三名で新京を脱出、朝鮮民団の疎開列車に
かくまわれ、日本人であることを隠し、二日後に安東に到着した。九月中旬安東軽金属という会社の事務所を改造して宿舎とした収容人員は約1000人位だっ
た。生活は勿論尋常ではなく、いろいろと事件もあった。
鉄道工事にも狩り出されたりしたが、11月下旬葫慮島から十二月二日に帰国するまで苦労して過した円東へ今回旅行に同行した。三浦陸男氏、高橋亮氏、成
田普氏も円東の収容所生活を送った。また、佐藤義爾氏は荘河から近い海沿いの大弧山に勤務されていた。この人達にとっては、やはり円東を一度見たかったの
であろう。
また、チチハルは佐藤長治氏、梶原宇一郎氏に矢吹氏は兵隊として、ほかに樺旬に米山実氏、牛塚末光氏がともに終戦時に勤務した街だったか、樺旬だけは実
現しなかった。残念だったろうが、団体旅行では止むを得なかった。私は円東が入っていたので、円東ー新義州の国境のこの街を三度ばかり通過しており、特に
鴨緑江を渡った印象が強く残っており、また、朝鮮民主主義人民共和国の対岸が目前にあり、朝鮮戦争で爆破された、かつて通過した鉄橋の残骸が江上にあり、
また、チチハルは武装解除されて、シベリアに抑留されるまで、マンドリン(銃)で驚かされ、使役の約20日間を味わった屈辱の街である。もう一度見たい都
市であった。
(二)
四月一日付けの近畿ツーリスト盛岡支店から、旅行の工程表は三月17日付けと5月十四日付けと後日送られて来たが、全く同じものであったが、宿泊予定場
所が未定であったり、変更の場合があると注記されていた。中国旅行社も、いろいろ苦労があるのか、何故こんなことなのかわからない。旅行中に留守宅から旅
行先に電話等で連絡をとろうとしても、出来ないのかと思ったりしたが、これも止むを得ない。そんなことが無いことを願うのと、旅行先から電話を入れて、今
日は何々ホテルに宿泊と連絡すれば良いのでと思う。
5月17日付けで旅行代金の振込みの御願いという手紙を戴いた。ビザの取得、渡航、旅行保険料等々を詳細に記載されてあり、日吉氏の苦労も大変だと思う。早速19日に予約金を差引いた分を送付する。
南嶺会中国東北地方旅行参加者
氏 名 |
〒 |
住 所 |
|
1 |
浅野● |
501−51 |
岐阜県郡上郡白鳥町向小駄良 |
2 |
飯倉● |
306 |
茨城県古河市幸町 |
3 |
内田愛● |
154 |
東京都世田谷区若林 |
4 |
梶原宇一● |
572 |
大阪府寝屋川市豊野町 |
5 |
佐藤長● |
959−26 |
新潟県北蒲原郡中条町築地 |
6 |
佐藤義● |
951 |
新潟県新潟市関屋恵町 |
7 |
田野井● |
322 |
栃木県鹿沼市見野 |
8 |
高橋● |
289−11 |
千葉県八街市文違 |
9 |
手塚末● |
310 |
茨城県水戸市元吉田町 |
10 |
成田● |
960−06 |
福島県伊達郡保原町 |
11 |
日向敏● |
222 |
神奈川県横浜市港北区太尾町 |
12 |
日吉一● |
334 |
埼玉県鳩ヶ谷市本町 |
13 |
三浦陸● |
032−82 |
岩手県久慈市大川目町 |
14 |
矢吹芳● |
348 |
埼玉県羽生市東 |
15 |
星元● |
272 |
千葉県市川市大野 |
16 |
米山● |
683 |
鳥取県米子市車尾 |
葛゚畿日本ツーリスト盛岡支店:盛岡市中央通り2-2-51
注)個人情報保護のため、一部情報を未記載にしました。
(一)
この旅は郷愁のつもりでしたが、今は当時の面影はなく、新生中国を見る旅となり、些小がっかりもしたが、この地域の活力ある姿を見ることができた。楽しい旅でもあった。
ニューズウィーク紙、フランク・ギブニーJr北京支局長は中国を「21世紀初めには、日米を追い抜き世界一の経済大国になるとの予測もある」といわれ「だが繁栄の陰に、新たな社会矛盾を生んでいる。」と指摘されている。
この感想は帰国後、「中国東北部の旅を終えて」という、回想の旅を綴った、レポートに書いた、「再訪したい10年後に」と私が書いた、前書きの一部分であります。
都市の労働者はよく働く。勤務時間は八時出勤−五時退社の人と、8時半出勤−5時半退社の人になっている。30分の時差は通勤時の緩和策であるが、それでも、この時間になると車は動けない位である。
普通の労働者の人は、昼の仕事と退社後の仕事を持っているとのことで、例えば昼は工場で働き、退社後は商人に早変りとなるケースが多く、この様相は瀋陽
でも長春でも、ハルピンでも変りはない。チチハルと大連と同様と思われるが聴く機会がなかったというよりも、聴くのを忘れたほどだった。
労働者の賃金が低いことが原因のようであるが、夫婦で働くことが当たりまえの社会制度であれば月収400元なら800元になる。決して賃金は低いとは思えない。
物資が豊富で自由に買えることから少しでも生活を充実したいと言う欲望からだろう。自由市場で仕入れて、それを売ることによって利益を得る手段をとっているようである。
労働者の一ヶ月の給料はおおよそ、400元−500元が標準のようである。
労働者の定年は男子は60歳、女性は65歳、この歳になると病院は無料になる。
また、年金は30年以上勤務すると給料の100%、25年以上の勤務で80%が支給されているようである。
夕方五時を過ぎると自由市場が急に賑やかになり、むしろ雑踏の場となる。年末に上野のアメヤ横丁に行ったような感じてある。話によると一番お金を持っている人は商人で、さすがに漢民族の逞ましい姿を見たようだ。
労働者の退社後のアルバイトで給料以上を稼ぐ人も多いとのこと、したがって、買う人も売る人も真剣で、値段も駆引きで相当安く買えることを体験した。
公営の商店もあるが、サービスも悪く、活気もないらしい。中国の人も全く無関心のようであった。三〜四年前までは、こんな現象は考えられなかったと、なにげなく言われたのには、なんと答えてよいものが迷った。
テレビや雑誌なとで北京とか上海の映像、写真を見ることもあったが、文化大革命のときと違って着ているものもさまざまで見た目でも綺麗になり、社会主義
の国も変りつつあることを知ることができましたが、東北地方はどうなっているだろうと興味をもっての旅であったが、この地方も北京や上海と全く変わってい
ないようであった。
瀋陽と長春で約一時間位の自由な時間があったので、近くのデパートに行って見ました。
衣料品をはじめ、家庭用品、電気器具など豊富なのには驚き、化粧品も外国製品をはじめ見事に陳列されていた。人民服ばかりてせあった十年前とは別な世界であるとのこと。
値段はまだまだ高く、女性のスーツなどをみても400元以上もするものもあり、買うのは大変だろうと思った。400元は日本円にして約8000円ですか
ら、日本人の感覚では決して高価なものではないが、中国の労働者の1ヶ月分の給料に当る値段である。Tシャツが2元位、日本円で40円位これはまあまあの
値段でしょう。
電化製品や洋服が憧れの商品であり、女性に「電化製品がないと結婚しない」と言われるようである。25インチのカラーテレビが500元これではとても買えない。
1992年六月頃から、食料品の配給制がなくなった当然と思う。食料品は豊富で自由市場は活気があり、米は1粁2.5元約50円位、肉や野菜、果物は種
類も多く数量もあり、六月の上旬のこの季節に西瓜が陳べられていた。東北部と言えば厳寒の地であるのに西瓜が出回っていた。広東省あたりの暖かい地方から
出荷されているものとおもう。輸送、流通面でもかなり改善されているのだろう。ホテルでデザートに西瓜がでた。
魚も売られていた。大陸であるから川魚が多いのだろうが、冬期は別にして冷蔵庫はまだまだ家庭に入っていないのに、お店に魚が陳べられているのは嬉しい。
今までは、朝の食事は「オカユ」に「マントウ」でしたが、今はパンと牛乳に変りつつあり、男性は朝食の準備をし、夕方子供を託児所に連れに行く。女性は買い物をするのが一般的のようである。
生水は飲めないので、いたる所で飲料水を売っていた。0.6立位で3.5元、ビールにも同じ量で、3.0元位だから水の方がビールよりも高い。煙草の値
段はどうなっているのか見当がつかない。10本1箱で1.5元から13元まであり、同じ商品でも都市と場所によって違うのが解らないと同行の人達の話であ
る。私は幸い煙草を吸わないので、なおさら判らない。
さて、一番の問題は住宅とおもう。古い建物は次々と取りこわされていて、新しい街造りが進んでいるが、住宅難はひどく、申し込んでも3〜4年先でないと入居できないのが実状のようである。日本の戦後の10年位のときのようである。
一方進んでいるところもあり、例えば長春の第一自動車工場の従業員のための住宅街は見事に整備され、4万人以上の労働者で1つの街ができ自由市場もあり、映画館があり、託児所も10数ヶ所もある恵まれた環境にあった。
一方どの都市に行っても生花が売られていない。かつてはロシア人の街として栄えた、ハルピンでも花売り娘の姿は、ついに見られなかったなぜだろう今だに解らない。
衛生面はどうだろう。旅行中最もいらい思いをしたからである。いままで新生中国の逞しい姿を書いてきましたが、こと衛生特にトイレ、中国では厠といいま
すが、まだ、遅れているのが実状である。泊まったホテルはどの都市においても遜色はなかったが、ホテル以外は何処へ行っても設備が悪く、トイレに行きたく
ないが、これだけは我慢できないのが辛い。
街は大連を除いて何処に歩いても汚く、街頭で物を売っているのを見ても、衣料品、食料品、家事用品など、むきだして陳べられ、塵りにまみれているのが普通である。
丁度乾燥機でもあったが、昔からの砂漠、風塵の大陸そのままであり、これはやむをえない自然現象としても、それなりの工夫があって良いのではないかと思った。
さらに厠にいたっては驚くばかりである。国や地方政府もいろいろの対策を立てているようであるが、六月二十一日(93年)付け朝日新聞に「農民に不満高まる負担金」との見出しで「農村便所改造費や・・・」と報じられていた。
大連から円東まで、さきに書いたように、八時間のバスの旅だったので約四時間過ぎたところで「トイレ休憩」となった。街と街の中程で田園地帯のまん中で
したが、ガイドさんが指をさし「そちらにあるのが厠です」と教えられた。どこなのか見当たらなかったが、よく見るとそれらしい、バスから降り順番に用をた
したが、コンクリートの囲いがあり、中で仕切られ天井もなければドアもない。手前が男性用、向こう側が女性用で、便や尿がそのまま下の畑に流れて異句うに
なっていた。農村地帯だからこれも止むをえないものと諦める。
六月五日、円東から瀋陽までは列車での移動でしたが、列車の厠は長春、ハルピン、チチハル、そして大連まで、どの列車も同じで、何10年か前の公衆便所
を想像頂ければよい。掃除はしているらしく見えたが、それても平らな便器はあちこち汚れていて、どの列車も殆んど変りがなく察して頂けると思う。トイレを
手洗いともいい、ホテルなどでは手洗所と表示されている所もある。列車では水も出ない時が多く、出ても、チョロチョロとしか出なく、また蛇口がしまらない
状態であった。
観光地の施設でもトイレは同じようなもので、手を洗うような設備になっていない。水は勿論出ない。便器も詰まっているところが多かった。
大連の星海公園、老虎灘公園には有料トイレがあったので、双方とも利用させてもらったが、料金はいくらか忘れてしまったが、結構高価なトイレだったが、手洗いの水はない。水洗トイレはホテル以外はないようである。
列車で驚いたことに車掌さんが車内を掃除してくださったが、1車両が終ると空き缶、空き瓶を分類して、その他のゴミは窓から外にポイと捨てているのを見て、びっくりした。日本でも空カンを道路に投げ捨てることを平気でやる人もいるので批判することもできないが。
(三)
道路は大連から円東まで、バスによる移動と聴いて、遼東半島の海岸地帯では舗装されない、山あり、谷ありのガタガタ道を八時間も揺られながらの旅では、
一体どうなることかと想像しただけでも、身のちじまる思いでした。ここまで来たからは仕方なく覚悟の悲壮な思いで乗車する。
大連を出て1時間半位高速道路を走る。快適である。この道路はたしか日本との合弁で大連-瀋陽間に作られた、高速道路と書いてあったことを思い出し、これならば最高の道路と思った。その割には車の数は少ない、長春やハルピンの混雑を思うと不思議である。
普蘭店附近から車は右折、いよいよ問題の道路にさしかかるのではないかと、ビクビクしながら乗ってたが、先の高速道路よりは道幅は狭いが、それでも八米
−十米位あり、完全舗装され荘河市を過ぎても、この道路は続き平坦な大平原が延々とつらなり結局円東まで立派な道路であった。
荘河市附近では、道幅十米位、両側に欅やアカシヤの並木が果てしなく続き、その外側に用水路が整備されていた。ところどころ橋があり、橋柱に1971年
−1986年の間の年代が記されていた。ここ10年−二十年間に、大きく変革していることが伺える。また、数ヶ所で補修工事が行われていた。道路はいまの
ところ、自転車やロバと荷馬車の通行が多く、道端には田畑に施す肥料が積まれていた。近い将来には自動車が主役となる日も遠くないようである。
このような道路は大連-円東間だけでなく列車の窓から見て、長春-ハルピン−チチハル−白城−大連間においても見られた光景であった。
大平原の中に、石油の発掘により、新しい街が建設された大慶と、その近郊は道路も縦横につくられ、近代化された情景を見ることができた。ここは特別な地
域として、当然といえば当然だが、鉄道沿線から遠く離れた地域も開発の先駆けとして道路が整備されているようである。機会があったら行って見たいと思いま
した。
瀋陽は歴史のある街で東北地方一番の大都市であることは言うまでもないが、この街も大きく変った。私の在住したころの瀋陽(旧奉天)は狭い道に家が建て込んでいた。
50年の歳月は、この街を一変させた。もちろん50年前の東京も同じように変ったことを想うと当り前のようであるが、何か違った感じがする。社会主義の国だから出来たのだろうと思う。瀋陽の東西、南北に走る道路は道幅40−50米位あり良く整備されていた。
主要な道路はほぼ出来ていたようである。朝夕のラッシュ時には主要な役割を果たしている。
時代とともに都市がかわりつつあることは当たりまえだが、これほどの変革は思ってもいなかった。
古い建築物は、どんどん取り壊わされ、あちこちに瓦礫の山となっているところが多かった。ことに瀋陽、長春は2〜3年前の日本のバブルの時を凌ぐ比較に
ならない。建築ラッシュであった。瀋陽北駅は生まれかわり、日本人が造った長春も駅が大改築中で、駅前の広場は地下街と地下道の建設のため、大変な混雑と
なっており、かつての満鉄が誇ったヤマトホテルも、新長春駅建設中の現況では、片隅に名残りをとどめている程度であった。ハルピン駅も長春駅同様建設中
で、ハルピンからチチハルに向うとき、5元の駅建設協費を支払うことになった。これも一つの方法かもしれない。チチハルも昔の古い駅の続きに新駅ができて
いた。
日本人の住宅街は2〜3年前まで、現地の人達の住宅として使用されていたようであるが、いまでは殆んど取り壊されて、新しいマンションにかわっていた。まだ廃屋のままとなっているところも見受けられたが、時間の問題のようである。
新しい街造りによる近代都市の建設も見事であるが、ただ残念に思ったのは瀋陽では、鼓桜門、大北門など八つの門楼があって、これら歴史的な建造物は清朝
の初期、或いはそれ以前のものではなかったろうか、長春にも長春城東門と西門があり、満洲イスラム教の清真寺も廃止になっているとのこと、ハルピンはロシ
ア正教の寺院が10以上あったと聴いていたので、ガイドさんに特にお願いし、案内して頂いたところ、今は2ヶ所残っているのみだった。チチハルは北の要衝
であって、城壁の一部となっていた。魁星桜も現在はなく、ガイドさんも知らないくらいであった。
50数年という、短くて長い歴史を改めて感じ、遼、金、清代と変遷した、歴史のある建造物が取り壊されたことが惜しまれる。中国の人の話によると城壁や城門は、文化大革命のとき、殆んど取り壊されたとのことだった。
偽満洲時代に出張したとき、農村は小さな集落でも城壁があったことを思い出した。それが今は全く見当たらない。列車の窓から見える街や集落は土で築いた城壁の取り壊しによって、馬賊の襲撃を受けた時代ではなく、無用な物はなくなり明るく希望のある姿になっていた。
(四)
鉄道はまだ遅れているといえる。幹線は50数年前と殆んど変らず、東北3省だけでも日本の2位以上もあるという、広大な土地だけに多くの困難があると思
うが、ちなみに列車の発・着、本数をみても極めて少ないようである。訪れたどの都市でも、列車の発車するときの混雑は終戦直後の日本を想いだす様相であっ
た。利用客が多いというより、列車の本数が少ないことによるものと思う。一度乗り遅れると、次が何時になるかわからないことが原因である。
円東から瀋陽-長春まで特快の所要時間が九時間30分を要した。60年前よりね時間のかかる列車だった。
車内をときどき、乗務員が大きな「やかん」にお茶を入れてサービスしてまわり、また、床を掃除して、お客の快適な旅を楽しんで貰いたいと努めている心がけは嬉しかった。
車内販売もあり、特に不便な感じはなかったが、列車の窓ガラスは何時掃除したのか汚れはひどく、どの駅も薄暗く、地下道は明りが少なくて、足元が見えないくらいであった。
中国の人達は日本人とみて話しかけてくる。こんなこともあった。チチハルから大連での夜行列車は、軟座席が半分しか取れず、私も硬座席の方に移動しての
旅となった。近くにいた乗客は腕の時計を見せながら、日本製だと得意気だった。寝台の横に別な座席があり、また別の中国人がいろいろ話しかけてきて、一行
の中に中国語の達者な人もいたので、戯いもないことを話しているうちに、時間のたつのを忘れたくらい、楽しい退屈のない旅であった。
大連、瀋陽、長春には路面電車と無軌道バスが運行しており、朝・夕の交通機関として重宝がられていた。都市は自動車と自転車と歩行者のすさまじい様相も呈していると言っても過言ではない。信号が少なくて、あっても守られていないのが現状であった。
私たちの乗ったバスの前を平気で横断したり、自転車が割り込んできたり、車が交差点で右折するとき、前面の信号が赤でも平気で右折する。中国は車は右側通行である。
ハルピンでは「今日は奇数ナンバーの車が多いでしょう」と言われ、よく注意して見ていると確かに間違いない。今日は六月九日で奇数日のため、偶数ナンバーの車は特別の許可がないと運行できないことになっている。私達のバスは偶数ナンバーだったので許可書がついていた。
これは自動車の数が急に増えたため、その対応が遅れているからであろう。街を歩いていても、いつ事故に逢うかからない覚悟でないと、都市の道路は歩けない。
それにしても不思議なことに、自動車の死亡事故は皆無に近いとのことであった。
確かに見ていても大きな事故になるとは思えない。日本のように毎日車による死亡事故が絶えない現状を見ると、人命尊重の意味から、どちらがよいのか解らない。この都市では私など、とても運転できない。
小さな10人乗り位の公共バスも運行されていたが、いつも満員のようであった。自動車はほとんど日本製のトヨタ・日産で統計的に調べたわけではないが、日本製の車以外は20%以下のように見受けられた。
電話はホテルから国際電話はすぐにかかるが、一たん外に出ると電話をかけるのが大変である。公衆電話のようなものは無いし、店にも少ない。公共の施設に
は、電話はあるがまだまだこれからのようだ。最終日帰国のとき、大連の国際空港から妻に電話をかけようとしたら、かけられないとのこと。ガイドさんが「ど
うしてホテルから電話をしなかったのですか」と不思議な顔をしておられた。まさか国際空港に国際電話が無いとは思ってもみなかった。
六月三日夜、大連に着いて売店で絵ハガキを買い「無事に大連に着いた。これから郷愁の旅がはじまる」という意味のことを書いて、出そうとしたが切手がな
い。ホテルにも置いていない。あきらめて四日円東までのバスに乗り、ガイドさんに聞いたところ、円東のホテルを投函できますとのこと。やれやれと思ってい
たが、円東のホテルにも切手はなく、近くの郵便局にないかと訪ねたが、誰も知らない。翌五日瀋陽に着きホテルで聞いたが、ハガキは料金がいくらか解らない
との返事だった。ホテルにエアメールの封筒があったので、ホテルのフロントにもって行ったがやはり解らないとのこと。ホテルは瀋陽の中心街にあり、隣に大
きなデパートがあった、そこで聞いたが、ここでも切手は売っていなかった。現地の人に聞いたところ少し離れたところに郵便局があるとのこと。団体で旅行し
ている、私にとって自分勝手な行動は許されるわけがなく諦めていたところ、ガイドさんが「私がお預かりします。家に帰ってから責任をもって出して差し上げ
ましょう」と言ってくれたので、それまでして出すほどのこともなくお断りしたが、預けてくださいとのことで、いつ日本に着くかという興味もあったのでお願
いした。2元位とのことでしたが、お金は取っていただけなかって、やむなく持ち合わせの、定規セットをお子さんに渡して下さいと言ってお願いした。手紙は
10日に着いたとのこと。個人的なことにも拘らず、大変親切にして下さったのには感謝にたえなかった。
(五)
悠揚と流れる大河、松花江、スンガリーとも呼ばれ、太古以来、大自然のなかで生命の源となってきたこの大河、全長1900粁におよび、信濃川の5倍以上
もあり、中国東北部の大動脈となっている。その源は長白山脈に発し、一方の支流、樕江は大興安嶺を源として、チチハルを経てハルピンの東方で合流し、一方
の支流牡円江も依蘭で合流して、ロシアとの国境の黒龍江(アムール川)に注いでいるのである。
また南の遼寧省全域を潤している遼河があり、この二大河によって、東北三省の肥沃な穀倉地帯をつくり、独自の文化を生み発展してきた地域である。
自然の水資源に恵まれているにも拘らず、水事情はよいとはいえない。長春の東70粁のところに、東北随一の風光明媚をほこる吉林市があり、この近くに、
豊満ダムがあって長春の水事情を満たしていた。その他の地域はどうなっているのだろう。水問題の解決が最大の課題であるように感じた。
いたるところで、水廻りの悪いのに閉口した。外国人の多いホテルでも、あるところでは風呂のシャワーや、トイレの水の出が悪く、また水道工事も粗雑で水が止まらず、応急処置をするのに、夜中までかかったところもあった。
大連で外匯券を両替する。日本円一万円で514.6元、1元が19円33銭の計算になるから、旅行中は1元20円で買い物をした。友誼商店に入るとすぐ
店員さんに迎えられ、ショウウインドを見ていると、こちらの品物は2,000円、これを1,000円と言ってすすめる。どうして円なのか解らなかった。
100元、50元とは言わない。円で買い物をしてくれたほうが有難いようで、円が立派に通用しているのである。仮に100元のものを2,000円で買う
とすると、2.9元の差益が出る。さらに円が高くなると、それだけ差益がでるのであり、物価が上がっていることを考えると円の方が価値があるのでしょう。
買い物をしても外匯券が円で支払うと、おつりは必ず人民券である。そのため人民券を貯ってしまう。使うのには自由市場にでも行かないと使えない。
瀋陽でデパートを出てホテルに帰るとき、あちこちで闇の外貨を交換している人に逢う。一万円、一万円と言って寄ってきて、九百九百と言う。1万円で
900元と両替するとのこと。これは驚いた。随分得な話であるが、交換をする気にはならない。万一偽札だとどうなることかと思うとそう簡単に話にのれな
い。
ハルピンのホテルで妻に電話をかけた。そんなに長くは話さなかったかせ、かけ終わって料金を聞いたところ34元ですと言う。人民券があったので、これで
払いたいと言うと、受け取れないとのこと、しばらく考えて計算機を出し、何やらやっていたが「人民元なら、1.7倍の58元です」とのこと。やむなく人民
券で58元を支払い部屋に帰った。後でこんなことなら外匯券で払えばよかったと気が付いたが、あとのまつりである。
瀋陽で1万円を900元と交換すると言っていたことがわかった。514.7元の1.7倍が約900元となるのです。中国の人の話によると、円とドルが価値があり、機会があれば円かドルに交換して蓄えているとのことであった。
初めに乗って、小さな街というか、集落にかかると、あちこちに中国農業銀行の看板が目立った。大連から円東までの間でも見た看板は数えきれない。中国銀
行と言うのは、日本銀行のような役割をしているので、当然各地にあることは知っていたが、中国農業銀行がこんなに設置されていることは、思いもよらなかっ
た。日本の農協JAのような組織で、農業の近代化の金融面での役割を担っているのでしょう。
中国農業銀行といっても中国工商銀行としても街や農村では普通の商店街にある。薬屋や食堂のような店構えで、これが銀行かと思うようで、看板がなかったら判らない程であった。警備はどうなっているのか、誰でも気軽に利用できるようになっているのか詳細はわからない。
中国銀行と中国農業銀行のほかに目だったのは、中国人民建設銀行、中国鉄道銀行などの看板が目についた。
都市でこの程度銀行があることには、それほど驚かない。日本の場合どんな地方の都市に行っても、都市銀行のほかに、その地方独自の銀行や信用金庫があることを思うと、まだ少ない位だが、なにしろ社会主義の国なので以外におもった。
さらに○○信託投資公司、○○信託証券公司、○○保険公司などの大きな看板があった。
市内の観光バスに乗って見た程度で、これ以外にも金融機関があるのかもしれないが、中国は開放され、金融面も自由経済体制化が進んでいるとは聞いていた
が、北京、上海、深州などの大都市のみかと思っていた。それが東の地、大連をはじめ各地にも金融機関の看板は同じように目についた。
ハルピン、チチハルでロシア人と思われる大勢の人にあった。どうも、ハバロフスクやブラゴベシチェンスク当りから観光ビザでこの地に来て、商売をしてい
るようだ。ロシアの物産を中国に輸出し、中国の食料品などを買い込んで行くとのこと。年に4〜5回来ることによって、相当の利益を得るらしく、商売を競っ
ている。ビール等を相当の量がロシアに輸出していると聞く、中林公司というロシア人が経営している大きな商売があり、瀋陽や大連にも支店があり、93年の
歴史のある老舗であるとのこと。
子供の教育費は収入の約35〜40%にも達し、人によっては50%以上になるとのこと、六・三・三・四制で良い学校に入れるのに幼児の頃から、英才教育
に熱心で、お隣りでピアノを買ったからと言って競争で買う親もある。中国には昔は科挙の制度があったが、親も子も日本と同じように大変である。
中国東北部も漢民族が圧倒的に多く、さだかではないが、住民の90%以上のように聞いている。
一方少数民族も多く、満州族、回族、朝鮮族、モンゴル族、ダフー族、オロチョン族などの人達も住んでいて、開放されたいま、民族間の問題もなく、この地で活躍している。
中国といえば、京劇を連想すると思っていたが、あまり人気はなく、今はカラオケブームで、団体で夕食に料理店に入ったところ、日本のカラオケが流れていた。一行の中にはカラオケに、あまり興味がなく、折角のサービスも空振りに終ったようだ。
南嶺の兵営は、清朝時代に、設けられたものである。事変前は、国防軍歩兵、砲兵、自動車隊が駐屯し、東北陸軍中の精鋭と称せられていた。
九月十九日、関東軍の野望による、柳条満の満鉄爆破事件の翌日である。午前五時の起床直前、不意を打って、関東軍は、小門から突入した、敵前四百米に接
近するや、集中砲火をあび、はげしい戦闘が交わされた。ここに、彼我の死傷者が続出した。一時第三中隊はほとんど全滅の状態になった・・・と概要が、新京
案内にあった。
戦争というものが、悲惨な結末となるものであることが、一瞬、惨愴をおぼえる。
小学校から農学校に通学していたころ、
「武士通とは、死ぬこととみつけたり」という格言を、耳に胼胝ができる程、教えられた。
「東洋平和のためならば、われらの命、捨てるとも、なにが惜しまん」
「見えず、悲しい昨日まで、敵をさんざん、懲らしめた。勇士は、ここに眠れるか」
などの歌を、よく口ずさんだものである。
「東洋平和のため」
という言葉に、青少年を洗脳し、二つとない命を徒に無駄にした。
先輩諸氏の眠る、石碑の前に立つと、やるせない思いであった。
田舎の集落では、毎年三月十日の陸軍記念日に、忠魂碑のある所に、多勢の人が集まり、日清戦争、日露戦争で犠牲となって散って行った。この集落の出身兵
士の慰霊祭が行われた。小学校の頃は、先生に連れられて参列した。或る年は、寒く残暑があり、また、雨の日もあり、ときには晴れた日もあった。
私の生まれた、この集落の誰が殉職死されたのか、碑には、○○上等兵などと記されていた。
小学校三年生の頃だったと思う。日の丸の旗をもって、行列に参加させられたり、夜になると、田圃の「虫送り」の行事のように、各人が提灯をとり、集落を喚声を、あげながら、行進したことがある。
田舎の小さな集落の出来ごとに止まらず、全国、いたるところで行われていたはずである。
「万歳!!万歳!!」と叫び、軍歌と歌って、大人も、子供も、女も、老人も皆参加した満州事変の戦勝祝賀会だったのである。
南嶺の、小さな石碑の前に、夕陽の斜めに射す、光景のなかに、立って田舎の戦勝祝賀会が頭をよぎる。
南嶺や、寛城子だけでなく、全満各地で、戦死した、多くの青年が犠牲になっているのだ。何が祝賀会だったのか。
戦死した、青年の父母や兄姉、親戚の方の思いなど、微塵もない。浮雲のような、行列だったのではないだろうか。
反戦を謳った、与謝野昌子を国賊と呼んだ,時代だったから、戦死した兵士の、父母はその悔しさを、じっと心にのみ込んで、いたことと思う。
金沢に、歩兵第七連帯があった、集落で、徴兵検査で「甲種合格」となって、この第七連帯に、入隊するとき、皆が見送りに出て、「どんなことがあっても。二年間の辛抱だからね」
「除隊になったら、お釈迦さまの花祭りを、したり、秋の鎮守様のお祭りを、一緒にやろうよ」と送りだしていたことがあった。
(二)
1941年(昭和十六年)三月、いよいよ卒業である。就職の話題が中心になる。希望に満ちて、人生の第一歩を踏みだす。大事な選択であるから皆真剣で
あった。実業の学校であるから、当時、高等学校に進学するということはまれであった。せいぜい、高等農林学校に進む者もったが、一学級に、一〜二名位で
あった。
それよりも、海外雄飛と、おだてられ、満州をはじめ、朝鮮、北支那に就職する者が、卒業生の3分の1におよんでいた。同級生の中村(現専勇)君と、満州国中央観象台に就職することとなった。
修学旅行に参加したとはいえ、全く未知の大地、「赤い夕陽にそまる広野」満州国は、あこがれの地であったことも、就職・決定の重要な要素であった。ま
た、東京の中央気象台の技術官養成所の満州国の委託として、専修科に給費生として、一年間、勉強できることが、何よりの魅力であった。
裕福ではない、農家の次・三男坊が、旧制の中学校又は、実業学校に進学させてもらったことは、父えの感謝であり、それ、以上進学はできないものと、最初から決めていた。だから、実業学校に進学せざるを得なかった。
小学校の同級生で、いつも学級で1〜2番の成績であった友達も、高等小学校へ行くだけで、その後は軍需工場に就職するのが、あたりまえであった。
農学校の一年先輩で岡田さんという人が、満洲国中央観象台に、就職されたことも、参考となって、ここにお世話になることとなった。
その後、岡田さんは、南嶺会の名簿にも登載されておらず、行方不明者にも、名前が見当たらず、戦時中、徴兵となり、或いは敗戦時に、何かの事故で、不明となっているのではないかと推測される。
また、同級生の中村(現専勇)君は、採用と同時に、満洲国電々公社に、委託として入学することとなる。中央観象台の通信関係の技術者として進まれた。
私は四月、中央気象台技術官養成所の専修科に入学する。満洲国中央観象台から、人事担当者の係の人が来られ、大手町で、いろいろ、世話をして下さった。3〜4日位で満洲に帰られた。
東京では、父の親戚に当る、世田谷にお住まいの、佐野様という方の家で、しばらく、お世話になる。
その後、上野近くの、下谷の方に下宿を見つけ、ここから通学することとなった。
同級生は24名で、このうち満州からの留学生、いわゆる中国人は2名であった。この22名のうち、戦時の南嶺会の名簿に登載されているものは、僅か10名で、他の14名の方の消息は不明のままである。
1941年(昭和16年)という年は、満州事変がはじまって、10年目となる歳で、逐次植民地化への道をすすめる一方、翌32年には「国際連盟」を脱
退、33年に熱河省承徳や、山海関で、中国軍と衝突、36年に「日独防共協定」に調印、37年に日中戦争へと進展した、37−38年頃から、米・英・仏か
らも、戦争の準備が積極化する。38年に「国家総動員法」が公布され、国家は社会情勢は、戦争への体勢へと一色化する。39年になるや、ついに、第二次世
界大戦へと進み、「日独伊三国同盟」が調印され、わが国では、「大政翼賛会」が発足、「治安維持法」が公布されるにいたった。そして、生活物資切符制が決
定され、物資は不足となって、何も買うことができない。
国民には「勝つまでは」「勝つためには」と戦争への協力が強制されていった。食料品は、いうまでもなく、衣服にいたるまで、統制され、率先して、学生服
から、国民服を着ることになる。国防色といって、緑に薄黄い色の服を着ることが、半強制された。老人も、子供も、婦女子も、毎日、空爆に供えて、防空訓練
に明けくれた。
下宿の生活は、食事は「外食食堂」という、看板の店でとる。配給の「外食券」がなければ、食べられない。配給だけでは足りない、お腹が空いている。給費
学生とは言え、僅かの給料では、闇の物を買う余力もない。上野駅近くに、公園に行く陸橋があり、陸橋の上で、ぼんやりと立って、信越線廻りで、金沢に進行
する、列車をみていると、田舎では、米の配給制はなく、食糧の心配だけは、なかったので、郷愁にかられることもあった。
さらに44年−45年頃になると、配給も遅配、欠配となっていたと聞く。田舎者の私には、ときどう、ことばかりであった。
41年四月には、日ソ中立条約が調印されて、日・ソ間には、戦争は回避される、こととなったはずである。
気象技術者養成所の日課は、数学と物理のほか、気象学であって、田舎の学校を出た、私には、苦労が多かった。
子供の頃から、数学(当時算術)いった。算術は手習、復習は、やらなくても、できた方であった。その反面、国語は駄目で、試験が近くなると、田圃の手伝
いをしながら、国語ばかりやった。特に漢字の書きとりが苦手で、試験の結果は、いつも駄目で、算術は全くやらなくても、殆んど九十点以上の成績であった。
何学年の頃か、記憶にはないが、たしか、五年生位の時だったと思う。算術の時間に、先生が「相違する二本の直線は必ず交わる」と、おしえられたが、どう
しても理解できないので、先生に聞いたところ、ひどく怒られた、ことがあった。教えられたときは、平面の幾何の時間であった。前の先生の机のところまで呼
び出され、「どうして解らないのか。説明しなさい」と詰問され、両手で、立体的ににして「この場合、交わりません」と答えたところ、「いまはそんなことを
教えているのではない」、と暫く立たされたことがあった。いまでも、忘れられない。
数学と物理は得意で、国語・音楽・図画は不得意であった。努力が不足なかったのか、生まれながらの、ものなのか。
ところが、この養成所に入学してからは、数学と物理もなかなか、むずかしい。毎日学校から帰ると、予習・復習を懸さなかったが、理解するのに苦労した。頭の悪さを、つくずく感じた。
はじめは、1年間の留学ということで、あったが、大東亜戦争といって、第二次世界大戦が次第に熾烈を、加えてきたこともあって、六ヶ月で、残り六ヶ月は実習と、いうことで渡満することとなった。卒業は、勿論、42年(昭和17年)三月である。
41年10月、中央観象台の上司で、梅戸義男さんという方の、引率で、下関-釜山-新義州-安東を経て、新京に第一歩をふみだした。
(三)
新京駅に、下車して驚愕した。前年、修学旅行できたときと、同じ駅なのかと疑った。駅待合室で、暫く待つ間、多くの満漢人が、右往左往している者、座り
込んでいる者、いづれも、小さく折りたたんだ、汚れて、黒光りになった、蒲団を1枚持ち、何処へ行くのか、真っ黒な顔、汚れた体、憐れというより、彼等の
逞しさに、感嘆するばかりだった。
新京駅から、大車という、荷馬車に、分乗して、南嶺の観象台に着いた。道程は、大同大街を真直に進む。道幅は広く、起伏にとみ、都市の中を走るというより、平原を進むといった風景で、大陸の新天地であることを、実感した。
約七粁位走って、中央観象台に着いた。落ち着くところもなく、差し当り、庁舎の地下室が宿舎となり、宿泊所の定まるまで、2日かかるか、五日かかるか、わからない。仮住まいがはじまる。
同期生28名のうち、6名が新京に残ることとなり、他の18名は、それぞれ、地方の観象台や観象所に配属に決まり、2日〜三日後、任地に向った。
私たち、6名の宿泊所は、各々自分達で探さなければならない。下宿屋又は借間を探すことからはじまる。
満洲に就職するからには、当然、独身寮や家族の宿舎が有るものと思っていたが、期待に反して、宿泊施設はない。右も左も解らない土地で、下宿を探すのが、就職の第一歩であった。
無理もない。毎年、満州国の吏員になる者も急増しており、宿舎の建設が間にあわないのが、実情であった。
その点、奉天、ハルピンなどの都市を除いて、地方では、宿舎だけは、一応、整っていたようである。
「宿舎は整っていた」と言えば、聞こえが良いが、実情は、急造の間に合わせの建物であり、観象台という職務上、国境地帯や辺境地にも、観象所が多く、庁舎
と宿舎が、同一敷地内に、あった。新京の中央観象台にしても、部長や科長だった、私達の先輩、上司の方の、家族宿舎は、庁内に建てられていた。職場と住ま
いが、一緒の生活では、個人のプライバシーなど、全くないに等しいものだったと思う。
ようやく、探し当てた宿舎は、庁舎の所在地から、さらに、南の方に約一粁位行った、小さな街で、ここが、昔からの南嶺の郷である。古戦場(前記)はさらに、一粁弱、行ったところにあった。
この郷の端に「アジア旅館」という、下宿先があった。名称は、旅館となっていたが、その由来は、わからない。或る時期に「旅館」であったのかも知れない。
大沼氏、斉藤氏、池田氏に私の4名が、ここの部屋を借りることとなった。
この借家は、日本人の年配の女性が、一人で経営しておられた。
年のころは、30歳半ばから40歳位、まででは、なかったかと思う。一人で経営しておられた。ご主人が何らかの事情で居られず、又子供さんも居られな
かったと思う。私ども、4名は20歳以下の若輩だったから、身の上話を聞くこともなく、又、当人も、こんな若輩者に、話してもと、思って、おられたのでは
ないだろうか。結局、どうして、ここに借間を持って、おられたのか解らなかった。
この「アジア旅館」の経営者も、敗戦時以降、どんな運命をたどれたことだだろう、思うこともある。
「アジア旅館」という、借部屋は、平屋建てで、4室しかなかった。建物は、以外と立派な、レンガ造りで、当時として、珍しい建物であった。
こんな立派な建物でも、春から夏にかけて風塵、黄沙が舞うと、部屋が砂埃りで、白くなる。一月〜二月になると、窓の内側にも、厚い、氷が一ぱいに着いて、外が全く、見えなくなる。二重窓の部屋であるのに、こんな現象が起こるのだ。
しかし、松遼の寒さを実感するのは、11月中・下旬頃であった。実際の新京(長春)の気温は、平均気温で、一月が氷点下15.9度、12月が氷点下
12.4度で、11月が氷点下3.7度であるのに、この時期は寒さが、身にしみた。秋から冬に到るとき、体に強く感じたのであろう。春の黄沙、冬の厳冬、
詳しく書くまでもない。
食事は、庁舎の食堂が、近くの外食屋又は中国人の食堂で済ませていたが、給料が月給120円位で、給料前になると、食費も、なくなり、中国人の経営の、あまり「きれい」でない、食堂に入ったり、街頭で売っている、饅頭か煎餅を食べて、給料日を待った。
四畳半の部屋を、大沼氏と二人で借りた。隣りは、池田氏と斉藤氏である。
大沼氏は、福島県に、現在も元気でおられる。斉藤氏は、群馬県藤岡市におられたが、残念ながら、平成二年に他界された。
初めて就職して、同じ所に住った、4名が運が良かったのか、敗戦時の犠牲には、ならなかったが、大沼氏も、ソ連に抑留されて帰国している。
満洲電電公社の委託もとなった、同年入所の専氏(旧姓中村)、彼は農学校の同級生でもあり、僅一の親友であった。彼は石川県金沢市に、中村氏(旧姓馬
渕)は滋賀県に、千布氏(旧姓稲富)は埼玉県に、現在元気でおられる平山氏(旧姓飯塚)は、東京都北区におられたが、平成元年に他界された。
この4名も、吾々の宿舎から、五十米も離れていない、日本人の産婆さんの二階に、部屋を借りていた。
彼等の所に、夜勤の前や、明けの日に、ときどき、遊びに行った。
彼等は、電電公社で委託として、通信専門の教育を受けていた。同期の採用されたので、やはり親しみが深い。
木造の二階建てで、日本の建築そっくりである。厳冬地の建物とは思えない。それでも周囲に防寒用の物を入れて、トタン張りの、二重になっていたと思う。
これでは、零下30度にもなると寒い。彼等の部屋は八畳位はあった。部屋の中央に、大きな、石炭ストーブを置いて、暖をとる、生活であった。
ところが、この石炭ストーブが厄介で、毎日掃除をしなければならない。石炭の燃えた灰を釜から取り出す、長い曲がった、煙突を掃除する。
部屋中が、白い灰と、黒い煤で、床も、戸棚も、白と黒の紋様になる。ストーブの掃除が終ると部屋の掃除をする。叩きと、箒で立ち回る。窓は、全部開放しているから、ほこりと、寒さとのに、耐えなければならない。
目も、鼻も、耳も、首も真黒で、目だけが輝いている。誰だかわからなくなる程である。掃除も手伝ったが、これが毎日の日課であった。
勤務が、彼等も、私も三交替の現業であるから、誰かは、日中部屋にいる。夜勤になる日は、掃除当番である。
彼等は部屋代も安く、自炊生活をしていたので、給料日が、待ち遠しい、ということを聞いたことはなかった。私達の所は、スチームが入っており、その点、快適であったが、夜半にとめられたので、朝の寒さは,彼等の所が、いくらか暖か、かった。
この「アジア旅館」の借間に、4ヶ月いた。ようやく、南湖北岸の「南湖寮」という、独身寮に入れるようになり、4名は別々になる。
私は、先輩の「山崎」さんと、いう人と一緒の部屋であった。先輩となると、気もつかい、心労もあった。それでも、寮に入れるように、なっただけ有難い。
山崎さんは、島根県に、ご健在で、平成二年の「南嶺会全国大会」で、再会でき、お互いにはげまし合うことができました。
42年八月に、満洲国建国10周年を、迎えて、「東亜競技大会」が南嶺の総合運動場で、開催された。参加国は、日本・満洲・中国の僅か3ヶ
国だった。日本の国威を内外に、誇示するため、デモンストレーションだった。選手達の宿舎、いわゆる選手村ができ、競技大会が終ると、こんどは「南湖寮」
から、この選手村に、引越しすることとなる。選手村を、独身者の、宿舎として利用するため、役所からの指示である。又引越しをしなければならない。ようや
く、与えられた、南湖寮に8ヶ月位であった。
選手村では大沼氏(先出)と、また一緒の一室で暮らすこととなった。
ベットの生活で、寝心地は、決して良いものではなかった。冬、夜中に、お手洗いに、外に出なければならず、風呂も、別なところにあって、住み心地は、全
くひどい、風呂に行くには、寒いときは、特に注意しなければならない。防寒着をつけて外に出る。近くだからといって、外套を着ないで出て、先輩から注意を
受けたことが、何度かあった。
それは、日本人は、寒さに弱いくせに、室内と室外の注意がたりず、何回か繰り返していると、体に決して良くないからで、2〜3分でも、外に出るからには、それなりの、物を着ないといけないのである。
その点、中国人は、絶対にそのような、ことはない。又、風呂から帰って、部屋に入るとき、素手でドアの金具に手を掛けると、氷りついて、取れなくなり、大怪我をすることもある。特に、注意を受けたが、これは、守ったものである。
この、オリンピック村も、取りこわされることとなり、この選手村は、4ヶ月位の期間だった。
こんどは、南新京駅に近い、安民大街を隔てた、洪煕街(現紅旗街)に、新築された、「南冥寮」に移った。
この寮は、5階建てで、続いて、3棟位あったと思う。新京の各官庁の、独身者の人達が集まったところであった。しかし、他の官庁の人達と話し合ったりしたことは、殆どなかった。
全くの平地で、附近には何もなく、道路だけができていて、見わたす限りの原野であった。
草1本もなく、微風でも、砂が飛びあがり、砂漠のようなところだった。
ここでは、先輩の小原さんと、一緒の部屋であった。小原さんも行方不明であり、会の名簿にもない、新興地帯で、まだまだ人の住めるようなところではなかった。
それでも、満映ができたり、「満洲赤十字社」ができたり、第六、第八代用官舎ができ、生活必需品の社宅もでき、少しずつ、賑わいを見せるようになった気配もあったが、その後のことはわからない。
南湖寮、南冥寮の生活は、風呂もあり、食堂もあったが、再寮に約1年半位で、役所の都合で宿舎を変らなければならなかった。
これが、俗吏の満州での生活であった。当直明けの日は、ラヂオを聞くのが、唯一の楽しみで、大相撲がはじまると、夢中で実況を聞いた。双葉山関という、
今でも話題になる名横綱に、魅了され、一層、相撲を楽しいものにしてくれた。内地を離れてみて、唯一の心のやすらぎを得た、ラヂオの実況であった。
忘れられないのは、四一年(昭和十六年)十二月八日、早朝、目が覚めるや、日本軍が、真珠湾を奇襲したという、ニュースを聞いたのがアジア旅館であった。
「帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋に、おいて、米・英軍と戦闘状態に入れり」と、繰返し、繰返し、報じられた、真珠湾攻撃によって、日華事変から満洲事変を経て、大東亜戦争、第二次世界大戦へと進んだ。今でも耳の奥に、あの実況が聞こえて来るようである。
この無謀な、軍の行動によって、2年半後に敗戦となり、在満邦人を含めて、同盟の方の多くの犠牲を出したことになる。残念というより、無念でならない。
(四)
勤務は、予報科に配属され、アジア旅館で、一緒だった、池田氏は調査課に配属されて、日勤の勤務であったが、大沼氏、斉藤氏と私は現業のため、三交替の勤務となる。こんは勤務状態だったから、三名で一緒に、机を並べて仕事をしたことはなかった。
天気図用の地図に、各地の気象現況を記入して、天気図を作成するのか、主たる業務である、定期観測が、一日六回と、航空気象観測値を、五時から毎時十九時まで、一日十三回、定時観測所が、76ヶ所、航空気象観測所が、42ヶ所であった。
観測時から,五分位で、各地から、データーが入って来る。次から次へと、図面にデーターを書き込む。これが初任者の仕事である。5〜6分で記入が終る
と、予報官が等圧線を引き、気圧配置によって予報を出す。今は、気象衛星、高層気象、アメダス等のデーターもあり、コンピューターで計算値を引き出して予
報するが、当時は、ただ、天気図によるのみであった。
予報が決まると、謄写版に、鉄筆で記入し、印刷して配布する。
観測してから、30分と、かからない時間に、天気図を作成しなければならない。寸刻が惜しまれる。航空気象は、毎時であるから、時間のたつのは、わからない。これが毎日の勤務の実態であった。
41年の10月から、翌年の三月までは、まだ技術官養成所の身分であるから、その間宿題がでる。週1回くらい、地球物理学と気象力学及び物理の宿題であった。当直が明けると宿題にとりかかる。
参考書がない。日本橋通り附近まで、出かけて行って、本屋を探す。なかなか専門書はなく、図書館は勿論ない。苦労しながら、宿題を、こなすと「ほっと」する。はたして、どれ位の点数だったのか、わからない。
昇任試験もあった。この試験は、専門の気象、地球物理は当然であるが、中国や、ロシア語を習得しなければならない。私の一番の苦手の語学である。これには参った。
また、現地人と仲良くしなければ、ならない。これも昇任試験の一つの条件であった。
中国人、朝鮮人、ロシア人、蒙古人の生活や習慣を学び、知り、理解して、はしめて、満洲国史員となることが、要求されていた。
その努力がなければ、昇任試験もパスできない・・・ということであった。
こんな毎日が続いて、正月を迎えた。言うまでもなく、現業だから、正月も、お盆もない。正月元旦の朝、当直明けで帰ったり、朝いつもと同じ時間に出勤したり、何の因果かと思ったりした。
今では、正月元旦から勤務するともあたりまえのようになっているが、当時は交通、通信、報道関係者など一部の人であったから、世間が正月休みというのに、出勤するのは何となくなさけなく、あわれに感じた。が、自分で進んだ職業とあきらめた。
中国では少年は紙鳶をあげ、見踢(羽根つき)を、商家では、門頭に「開市大吉」「萬事亨通」と書いて門●がかけられる。大晦日には爆竹を鳴らす。聞いた
ところによると厳しい、この地では、お正月の準備に、豚を2〜3頭を殺して正月1ヶ月休むための食糧として軒下に下げておけば、冷凍庫に保存すると同じよ
うになる。
漢満人の職員はどのようにして、正月休暇をとって正月を迎えたかわからない。彼等は旧暦による正月であるから、また、予報科には漢満の人はおられなかった。
あっという間に、三月になり卒業となる。修行証書が届いた。地方に配属になった盟友等はどう過したか、新京で参考書が少ないのは、特に、国境地帯や辺境の地に赴任した友は、どんなに苦労したことと推察すると、私はめぐまれていた、方だと思う。
新京駅より、両方向に7〜8粁位、行ったところに、新京飛行場があった。交替で、勤務することとなった。駐在する人員は、予報科2名と、通信科2名の4名であった。
2ヶ月に1回位、1週間の勤務である。ここの勤務は、飛行場の宿直室で、寝泊りする勤務で、その間は寮には帰れない。
この飛行場は、満洲航空という、民間のはずであったが、当時の状況からして、殆ど軍が使用する、飛行場となっていた。
現在と違って、日本の内地に行くにも、飛行機で行く、ことは全く考えられなかった。
ましてや、吾々、下級官吏には、無縁であった。政府や、軍の最高幹部が、利用していたものと思う。それでも毎日のように、飛び立っていた。それも、日本内地と新京間が殆どあったと思う。
飛行場では、当然ながら、行く先の天候が問題になるので、いわゆる航空気象予報を出していた。特に、朝鮮と満州の国境である。長白山脈の天候は、激しく変化するため、一時間おきに、天気図を書き、予報を出していた。
本庁の予報科と同じてあった。戦争が、はげしくなるにつれて、天気図、天気予報の重要性が、ますます、増してきたのである。
中央観象台の予報科においても、予報に対する、統制が次第に厳しくなってきた。
1943年(昭和18年)の後半ころになると、ソ連のシベリア方面の、チタ、イルクーツク、ハバロフスクの観測地の入電が、わからなくなって来た。
当然のことながら、満州の気象データ、風向、風速、天気、気圧、気温といった、基本的な観測値は、すべて暗号となった。ソ連、アメリカには、解読できな
いようにとの、ことであったが、いろいろな噂が飛びかった、どれだけ、暗号を変えても、3日〜4日位で解読されていたという噂が広まった。それも、まんざ
ら噂でなく、真実だったようだ。
日本軍の方にしても、中央観象台でも、軍からの情報が入り、ソ連のシベリアの気象情報が入り、天気図に記入していたものである。彼等の方も、また、一週間位で、暗号が変り、2〜3日間、図面上は空白になった。
特に、満州では、シベリアのサタ、イルクーツクの観測地が、必要であったようである。暗号は、数字を並べるだけである。普通は、02.
02.00.098.10・・・・等々で入って来るのであるが、これは、風向、風速、天気、気圧、気温の数値であって、通信や電々から、入電が入ってく
る、各地の数字を聞きながら、天気図に記入していたものである。ところが、暗号になると、例えば、875362・・・といった数で発信され、又受信しなけ
ればならなすのである。受信と同時に、天気図に記入することは出来ず、別の、受信用紙で受け、これを解読するのであるが、むずかしい、ものではなく、た
だ、機械的に数字を、加減すれば、よいのである。時間的に、何分かの時間が、必要となってきて、それだけ、遅れる、こととなるのである。
その頃から、毎日、関東軍司令部に、天気図を届けるようになった。それまでは、誰かが届けていたようであるが、天気図も、極秘扱いとなって、予報科員が、直接とどけることとなった。
役所の公用車に乗り、運転手付きである。たしか、運転手は中国人だったと思う。若干20歳前後の者が、関東軍司令部に、天気図を届けるのに、乗用車で乗
り付けるのだから驚いたものだ。一寸と「いい気分」になって、守衛所で、一旦停車し、運転手が、身分証明書を見せるだけで、そのまま、正面玄関に、横付け
になり、そこで、受け付けに渡し、受領の印鑑をもらい、又、公用車で帰っていた。或る日、今までどおりに、守衛所に、さしかかり、いつものように、運転手
が、身分証明書を提示したところ、一人の兵隊が、でてきて、「生意気で降りろ」といわれ、車から降りるなり、2〜3発「ビンタ」を喰らわされ、あまりの突
然に、面喰った。何故、そうなったのかわからない。軍と観象台の間で、天気図の配布について、決まりがあったと聞いていた。天気図は「極秘」扱いになって
おり、誰にも、絶対に渡してはならない、決まった、受け付けの人、以外には、どんなことがあっても、渡しては、ならないと言われていたので、その、とおり
のことを、やっていたので、突然の兵隊の行動に、ただ、驚くばかりだった。守衛兵も、それ程、強くやったようにも、見受けられなかったので、「一寸と驚か
してやろう」くらいの気持ちだったのかも知れない。
その日、以降は、上司の指示で、守衛所まで行き、そこで車を降り、正面、玄関の受付まで、持って行って届ける、こととなった。勿論、営内だから、盗まれるという、心配はなかったが、軍人は、別の人格を持っている集団であると思った。
中央観象台の北隣りに、八〇八部隊という兵舎があった。1943年頃から、予報科の職員が、月に1週間交替で、この部隊に派遣された。冬型の気圧配置
が、予想されることが、わかっていた。陸軍気象部の偉い将校が、天気図を作成するに当り、いきなり、北から南に垂直に等圧線を引き、北緯34度〜35度位
から、緩い放物線を、左右に分かれるように、等圧線を無造作に引いて、「天気予報は晴れ」といって席を立って行った。
冬期は、シベリア気団が張り出し、旧満州の地方は、晴天が続く日が多いが、各地の観測地点も考慮しない、乱暴な天気図を見て、軍の高官には何の意見も言えず、抵抗もできない自分に腹が立った。
予報は、大局的には問題ないと思うが、真の予報と言えるのだろうか、軍人は仔細なことを無視ることが、優秀な人物なのか、軍人の諰しいなのか、兵卒の一人や二人、どうならろうと、「戦いに勝つ」という、大儀が優先するのか、気象技術者の卵のような者でも、憤りを感じた。
この八〇八部隊で、或る日、兵卒が、厠で自殺したという、話を聞いた。何があったかわからないが、この処置について、おそらく「名誉の戦死」として、処理されたのであろう。
軍隊とは、どんなところなのか、又自殺に追い込まれた兵は、どんなに悔しい、思いをしたことだろう。
先にも、書いたように、気象通信の暗号書も、月に1回位変更になる、その都度、暗号書を地方に届けなければならい。管区気象台が地方気象台に届けるのには、職員が持参することになる。
この暗号書を持って、行くことが、唯一の出張旅行であった。
1944年の一月、ハルピン管区気象台と黒河地方気象台に、出張を命ぜられた。
暗号書は、盗難されたら、大変なことになる重要な任務であり、旅行である。諜報活動も勢んであった。出張する日も、乗車旅行で、書類だけを持って行く・・・などと気楽に考えてはいけない。上司から細心の注意をするように・・・と達せられた。
それだけ、大事な秘密書類なのに、一人での出張である。いつ、何処から、どんな方法で襲って、来るか解らない。幸い、何事もなく任務をおえた。
噂によると、何処かで、事故があったと聞いた。暗号書が盗まれれば、即、翌日から、別のものに取替え使用することになる。
戦争のため、気象観測値が入手できないばかりでなく、何倍もの労力を必要と、しなければならない。
ハルピンと黒河の出張は、真冬、ハルピンでは、前に洗礼祭のことを書いたが、この出張のときであった。
ハルピンをたって、黒河に着いたのは、午後四時頃であった・・・以下旧満洲観象台の項参照)
黒河の対岸、ブラコエ・スサエンスクが手にとるように見えるが、河の中央の国境線を越えられない。
鳥や、獣が、自由に、この河を往来ているのに、人間というものは、不自由なものだ。
1858年に、結ばれた、愛琿条約、このとき、黒龍江(アムール河)の北側に、住んでいた、中国人が追われ、濁流にのまれて、約3000人が死亡している。
(四)
南嶺の邑は、満人を含めて、二〇戸〜三〇戸位の寒村である。古い、邑のように思われた。当時は、近くの官庁や軍の施設が、あったので、そこに勤めている人のために、日本人の商店が数戸あった。
こんな寒村に住んでみると、人種を超えて、何十年もの前から、ここに住んでいるように、中国人、満洲人も、とけ込んだ雰囲気があった。
四三年頃は、旧市街地、すなわち城内の西側京浜線(新京-ハルピン)、南新京駅(現在は廃駅)までの、拡大な、都市計画のうち、駅前附近と、大同大街
(現大林街)を中心に、順天公園(現朝陽公園)位までの、建設は進んでいたが、まだまだ曠野の地であり、郊外の南嶺地区は、見放されたように、原野という
か、荒野と、表現した方が、適しているのか、未開発の地域であった。
新都市計画の、四分の一位が、道路と、建築物と公園用地が、徐々に進められている程度であった。
それでも、南嶺地区には、綜合運動場、南嶺動物園、建国大学(現廃止)、大同学院(現廃止)、満洲航空株式会社(現廃止)、八〇八部隊(現廃止)及び、私の勤務した、中央観象台(現気象機器製造所)が、この荒野に建っていた。多少は、人間の住んでいる、面影もあった。
現在も、残っているのは、運動場、動植物園と旧中央観象台のみである。
軍人、軍属が住んでいたので、玉突(ビリヤード)や、ダンスホールもあった。日本人が経営していたようであった。こういう風景は、城内と異なるところであった。残念ながら、こんな店に入ることはなかった。
下宿のすぐ前が、広場になっていて、向い側に商店があったが、城内で見たような、商店ではなく、床屋、饅頭屋、雑貨兼薬屋位の程度で、日本人の経営の酒屋兼雑貨屋と、外食食堂が、あったくらいである。
広場の所で、中国人が、露店で、落花生をはじめ、西瓜、向日葵、南瓜等の種を売っていた。西瓜、向日葵、南瓜の種は、枝をむいて食べる。お腹のたしには
ならないと思うが彼等は、チューインガムを噛むようにして、いつも口を動かしていた。種の中に含まれている油脂が、体に良いのだろう。
良く、こんな露店で、「チエンペイ」という、大きさは30cm2位の栗の粉を焼いた。薄い煎餅のようなものであった。その「チエンペイ」や「落花生」を買って食べた。
彼等は、特に商売をしているようにも見えず、たわいもない話に、花を咲かせ、雑談に興じていた。その仲に入り、通じもしない、中国語で、雑談し、彼等と過した時が、楽しい一時であった。こんな光景も、つい先日のように思い出す。
彼等は、煙草の吹滓を拾って、吸っている姿は、戦後、まもない日本の光景と異い、物ごいをする、ようなものでなく、同じような行動であっても、如何にも、のんびりとして悠揚たるものであった。にこにこし、笑いながら煙草を拾って、楽しそうに、話しかけてきた。
そんな、平和な邑に、238000坪という広大な、大動物園、650000坪の敷地を有した、満洲国の最高学府として、建国大学、青年官吏を養成するための、大同学院、敷地約30000坪等の学校が設置されて、南嶺の邑も、大きく変貌しようとしていた。
南嶺の東側に新京(現長春)唯一の伊通河が流れていて、長春の水源となっていた。
歩いて、行ける距離であり、気分転換に、出かけることもあった。
春は、水量も多く、晩春には、水辺に、名も知らない、可愛い、花も咲いていた。夏は水量が減り、一変して、汚れた河となる。悪臭もするし、河岸には、ゴミが散乱していて、汚かった。
冬は、さらに水量が少なくなり、氷の河になる。スケートを持って行って滑った。自然のままの、整備されていない所を、滑るのもは、むづかしく、滑るというより、遊びであった。
冬の或る日、河の上流に、木箱が置いてあった。先輩に「これは何だろう」と聞いたら、柩であると教わった。箱の中は、見ることもできず、合掌して帰った。風葬の形の変った弔いなのだろう。
葬儀は、さまざまな、迷信もからんで、古来から、風習があると聞いた。葬列を見たこともある。
邑の人が、多ぜい集まって、列をなし、死者を送るのであるが、専門の哭人がついていて、号泣する。悲しみの極みを、表現する、光景で、葬儀の風習なのである。
私の田舎の野辺の送りを思う。婚礼や葬儀の風習が何日か続くのだが、葬儀の葬列を一度だけ見たことがある。葬列までの数日間の行事を見る機会がなかったのが、残念である。彼等だけの行事には立ち入れなかったのだろう。
まだ、郊外でも、都市のどこかでも、墓のあるところを、見たことがない。奉天(現瀋陽)に転任になったときも、郊外の北陵の地でも一般庶民の、先祖の霊を迫害する、墓地を見ることはなかった。
中国では、身分や、地位のあった人物には、墳墓が作られ、その前横などに石碑を建て、文字を刻んであるようになっていると、思っていたが、庶民は、どの
ように、葬られたのだろうか。南嶺の戦跡の地にも、日本軍の石碑はあったが、中国兵の碑は見当たらなかった。日本軍の一方的な処置だったのか、それとも、
碑のないことが、一般的だったのか。
三月から四月にかけて、全満で、360におよぶ、廟祠があり、道教の最大の民族祭、「娘々廟会」が行われた。多くの人々が集まり賑わう。お祭りが、人々の心の安らぎを癒し、唯一の娯楽であることは、どこの民族も共通する、人々の生きる印なのだろう。
(五)
南嶺から北に、二十分位、歩いて南関に出る。ここは、長春城市の南門のあったところで、私の赴任した当時は、もうこの南門も、なくなっていた。
伊通河を渡って、吉林街道に続く、永安橋の袂である。吉林街道から、西にのび、南新京駅に至るのが、新都市計画の、興仁大路である。
橋の左袂に、関亭廟があった。満州情緒の豊かな廟と言われた。
南関から、北西に向って、日本橋に到る南、北大路街、商埠大馬路が、俗に城内と呼ばれる。古来の長春城市のあとで、純然たる中国人街である。
南関をすぎて、市大街、北大街を、二道街、三道街、四道街を経て、長春大街に出る。この長春大街が、大同広場に至っている。さらに北に進み四馬路、五馬路、日本橋に至る。
この城内の三粁位の街を歩くのが、楽しみであった。一人で、のんびりと歩いて、吉野町あたりまで行った。
市大街、北大街は静かな、商店も、まばらな中国人街であったので、あまり、記憶にはないが、二馬路あたりから、四馬路、五馬路までは、殊に賑やかであって、六馬路、七馬路は、大馬路を右に入る通りとなっていた。
商店も、立派なものが多く、四馬路の角には、中国人百貨店中、最大の「秦発合」があった。
三階は、「店の直営でないから、責任を負えない」という、意味の掲示が、あったように思う。面白い、掲示であったが、何か、無気味であったので、何回か、この百貨店に入ったが、三階には、行かなかった。
また、この附近には、「秦発合」以外に、二階建ての店が、軒を連ねていた。
店内に陳列してあるものには、それが、何に使うものか、どれ位の値段がするものか、1つ1つ見ていると、珍しい、ものばかりで、時間の過ぎるのを、わす
れてしまう。時計をみて、急いで店を出る。結局、何も買わなかった。というよりも買えなかったと、言った方が適切なのかも知れない。
初めの頃は、一人で歩くのが、怖かったが、好奇心で、おそる、おそる、歩いてみると、案ずることもなく、それ以来、たびたび、一人で吉野町あたりまで行った。
これには、別の理由があった。給料が少なく、バス、馬車、洋車に乗ると、料金がいる。歩けば、一挙両得である。こんなことも、あったからである。いずれにしても、良く歩いた。
城内は、朝から賑わっていた。大馬路を横ぎるようにして、四馬路の横丁に入ると、食べ物屋、占師、売薬屋などの店があり、雑踏していた。古着屋、油屋、靴屋、古道具屋などがあり、いろいろ、珍奇なものが売られていた。
中国の都市、全体については、わかないが、松遼の地では、どこの都市に行っても、あると言われていた、小盗兒市場が、ここにあった。
小盗兒市場とは、盗品を売る、露店のことであって、何でも並べて売っていた。
つい数時間前に、万引きにあって、この小盗兒市場に行って見ると、そこにもう並べてある。
「これは私の物で、先程、盗まれた、ものだから返してほしい」と言っても、駄目である。どうしても、取り戻すには、ここで自分の盗まれたものを、買わなければならない。これが、日常の茶飯事であって、盗った方も、売っている方も、特に罪の意識は、それほどない。
半年、冬期の大草原に生きる、ための手段だったのだろうか、或は、中国人の「メイファーズ」という諦めなのか、大陸的な「こだわり」のない気質なのか、日本人には理解できない、光景である。
大馬路を北に歩くと、橋の袂に、「日本橋公園」俗に東公園と言った、小さな公園があった。公園と言うのか、広場というのか、大陸にしては、珍しい、それほど広くない、公園であった。
ここまで来ると、城内をすぎて、日本人の多い商店街になる。
南広場をすぎて、吉野町、三笠町、富士町と続く、すぐ近くが、新京駅となる。
吉野町は、新京銀座と、言われていたように、新京一の繁華街であった。また、その附近は、硯町、東一條通りになっており、大商店が、軒をならべ、その裏通りは、銀座新道と呼ばれて、おでん屋、小料理屋、バー、カフェーなど、櫛比する、味覚街であり、歓楽街であった。
この繁華街を昼の静かな街を、ぶらぶら、歩いたこともあったが、夜のネオン・サインの街は、一度も歩いたことはなかった。理由は、ただ一つ、お金がなかったからである。
お金がなかったことが、良かったのか、残念だったのかわからない。そのほかに、日本人街とは言え、何となく、怖かった。
二十歳に、満たない、若輩には、無理もないことだった。
(六)
長春は、当時、新京特別市と呼ばれた、地区を大別すると、城内、商埠地のいわゆる、旧市街、満鉄付属地と賽城子の新京駅附近及び北部地区、国都建設施行
区域、すなわち新市街の、三大地区になると思う。私は、満鉄附属地及び賽城子を含む、北部地区には、無縁であったので、行ったこともなく、書くことはでき
ない。
新京特別市の、1939年の新京案内によると、第二次、市域拡張が進められると、総面積は、約四百六十平方粁、当時の東京市の五百七十平方粁に次いで、世界第四位の面積となる。
特に、新市街と国都建設計画区域だけでも、約二百平方粁という、驚異的なものであった。
首都として計画通り、新都市として発展していた。新京を知るものには書籍や写真等、数かぎりあるので、省略することとする。
私が、滞在した、1941年から、僅か、三年間に見た、感じた、新京を回想してみたい。
新京駅に、はじめて降りたとき、駅構内の雑踏、苦力連の混乱の情景から駅前で、馬車に乗り、駅前広場を過ぎて、大同大街(現新大林大街)に向うと、風景は一変した。これが同じ、市内かと疑った。
駅前から、大同広場(現人民広場)を経て、至聖大路(現自由大路)まで、大同大街を、風を切って、走る、広々として、閑散とした、風景は、異国の新都市なればこそ、内地では考えられない。
大同大街は、新京駅から、真南に7.5粁の、新京の中心の道路、幅員十六米、両側に、2.5米に街路樹、さらに六米の緩速度の車道、外側が六米の歩道、その広さに驚いた。
大同大街を馬車に揺られ、至聖大路まできたとき、大陸に来て良かったと思った。拡大な計画の新天地、未来が永遠に見え、向えて来れたと、胸をふくらませた。
至聖大路を、左に折れて、東に進んだ、ところ、至聖大路の東端に、中央観象台があった。
幅員六十米の中央、十六米の遊歩道(プロムナード)両側が、十二米の車道、さらに外側が十米の歩道となっていた。
順天大街(現新民大街)は、宮廷建設地から真南に、至聖大路の両端、安民廣場(現新民広場)までは、約1.5粁、広漢たる地に、計画されたとはいえ、魅力ある都市の建設が、夢のようであった。
幹線道路には、大同広場をはじめ、建国広場(現南湖広場)安民広場が建設中であり、新市街には、東広場、南広場、西広場(現漢口路)、興安広場(現西安
広場)等があり、広場を中心に、放射状に道路があった。道路にはすべて、街路樹が、植えられていた。あの頃の街路樹は「ドロノ木」が多かった。ドロノ木
は、ポプラに近い、松遼土着の樹であった。
順天大街は「吉樹」として、楡の25年生になるものを、近郷から探し出し、移植された(満洲の首都計画)による。
順天大街を除いて、街路樹は、未だ若く、二年〜三年生のものだった。
或るとき、噂として、聞いたことだが、任官したばかりの将校が、軍刀の「試し切り」といって、若木の街路樹を、切る者があったとも聞いた。こんな恥知らずの軍人がいたのだから情けない。
自動車は、殆ど見かけなかったから、高速道車道を、馬車や洋車が走っていた。将来は、ここを車が通り、馬車や洋車は緩速度車道が専用と、なるように、現地人の車夫の、ことも考慮に入れた計画だった。
幹線道路には、美観の観点から電柱や架空線等は地下に埋設することとなる。街路樹も、広く枝を伸ばし、将来は、線のトンネルを造りだす、ことだったと思う。
この大街の、所々に、地元の中国人の、街頭写真屋があったり、山査子(タンホーロ)を売る人がいて、観光客を、あて込んだ、風景が見られた。
大同大街の大同広場を、南に少し過ぎた、ところに、地元中国人の信仰を集めていた、孝子塚があった。孝子塚は、緩速車線と分離帯の用地に「少し食い込んだ」ところに、あったが、そのまま、保存されていた。馬車に乗って、ここで小休止したこともあった。
街頭写真屋、山査子売り、孝子塚など、当時はまだ、発展途上の街の風景であったが、敗戦で一変してしまったのだろう。
公園も、各所に造られた。児玉公園(現勝利公園)、白山公園、牡丹公園(現吉林大学)、大同公園(現人民公園)、黄龍公園(現南湖公園)、順天公園(現
朝陽公園)、日本橋公園等があって、1940年、公園緑地総面積は、10.8平方粁、人口一人当たり、三十一平方粁米という、非常に高い水準であった。公
園の都市占有率は東京の2.5倍、欧米の緑、豊かな世界の都市平均の3−6にもなっていて、森の都として、中国有数の緑の濃い都市となっていた。
児玉公園、牡丹公園には、何回か、園内散策したことがあった。冬の児玉公園では、スケートを楽しんだが、スベルのが、やっとの程度で、はずかしい思いました。
上水道も、下水道も完備し、水不足に悩まされたり、驟雨のときの浸水にも、対応することができた。
(七)
建国大学や大同学院は、南湖の近くにあった、両大学とも、建国精神を体得し、一身を顧みず、邁進する青年を育成する、軍事に武置に、農作業に、猛訓練を
課する、教育機関であり・・・・とあったが、植民地政策の先覚的指導者、青年官吏層を拡大を図るのが、目的であったようである。現在は、この両大学の跡形
もなくなっている。
この両大学は別として、小学校は、室町小学校、順天小学校他十五校位、中等学校は、新京1中、敷島高女他10校位あったと思う。あるいわ、もう少し多くあったかも、知れない。現在でも、これ等の学校を卒業されたり、在学中だった方にお逢いすることもある。
新京は、当時から、文教都市として、生まれつ、あったことは確かである。
大同大街の西、至聖大路の南に、私には、忘れられない、南湖があった。
人造の湖水で、周囲には約八粁、湖としては小さい。湖と呼べる規模かどうかと思えるくらいのものであった。それでも、長春の附近にしては、湖と呼べるの
かも知れない。完成の暁には、遊覧船の計画もあったという。南湖周辺一帯は、当時まだ、公園として、未完成であった。名称も、黄龍公園と呼ばれていた。
南嶺の「アジア旅館」の借間から、官庁の独身寮に、入居したのが、南湖寮である。安民大路(現工農大路)の建国広場方向にあった。
寮の窓を開ければ、すぐ下が、南湖であって、春は新線を、夏は赤、黄等の草花を、秋は紅葉を、冬は氷波を見せてくれた。新天地に来て、仕事に追われ、疲れているとき、故郷のことが、脳裏をかすめるとき、じっと、南湖を眺めていると、ほっと心が休まる場所であった。
寮を出て、湖岸の堤防に、立って目に入る、光景は、西に見える、曲橋亭は、橙黄色の屋根、紅桃色の柱、銀色の棚材は、波に浮かんで、旭光に輝き、斜陽に燃えて、しばし、立ち去ることが、惜しい。
南湖 ・・・新京(長春)の新都市計画による人工湖
軽風消夏渡郊坰 ・・・気持の良い風は夏の暑さをしのぎ郊外の地を渡る
花気鳥歌湖畔汀 ・・・花の香り、鳥の鳴き声、湖の水際に聞こえる
一切紅塵存恵潤 ・・・しばらく、この世のわずらわしさを忘れ、うるおいがある。
波光蕩漾曲橋亭 ・・・曲橋亭(南湖の亭)が、ゆらゆらと波に写っている。
南湖
却愛南湖水
長春沾野拘
昔時偲古里
年少在安寧
氷雪玉巒列
花提水満汀
波光紅潤舎
似画曲橋亭
夏になると、水着をつけて泳ぎ、仰向けで大空を見る時は、楽しい一時であった。
厳冬を向えると、一変して、湖水が氷りはじめ、深夜になると、炸裂するような、激しい音が、毎晩聞こえて来る。
はじめのうちは、何事かと驚いたが、次第に結氷の、すさまじい音にも、ようやくなれてきた。あの強烈な音は今でも忘れられない。
南湖が氷ると、スケートをすることができる。氷上は、整備されているわけではないので、いたるところに、亀裂もあり、多きな亀裂は10糎〜20糎もある
ので、一気に滑っては危険であるが、若さにまかせ滑った。よくあんな冒険をしたものだ。南湖で滑ったという、優越感があって、自己満足していたのかも知れ
ない。
観象台でも、冬になると、前庭に囲いを作り、水を流して、おくと、一晩で立派な、スケート場ができた。南湖のような、亀裂はできないから、良いスケート
場ができるが、難を言えば狭い、庁舎内の広場では、これ以上広くすることはできない。スケート場ができるだけ幸せである。ここは、手入れをしなければ、な
らないので、時々、、皆で、高低をなおし、箒で掃いて、リンクを整備する。
昼の休み時間になると、急に賑やかになる。男も女も、中国人も日本人も、入りみだれて、思い思いに、滑る。冬場の唯一の楽しみであった。
予報科の私には、昼休みがないので、三階の室から見るだけだった。反面、当直明けになると、庶務課や調査課の人が、勤務中であって、人ごみはなく、悠々と滑ることができた。
スケートをするころになると、前にも書いたように、それ程、寒さを感じなくなる。実際の気温は、年間で最低になる時期であるのに。
或る年の夏、南湖寮に入居していた人が、徴兵検査で、甲種合格になり、嬉しさのあまり、酒を飲みすぎて、夜、湖に泳ぎに入って、命を落としたという事故
があった。若い、将来、有望な青年の死は、軍人になることの喜びは、何を意味するのだろう。朝方、窓越しに、大勢の人が、何か忙しく、動いていたことを思
いだす。
勤務体制の関係で、寮に、一人でいることが多かった。こんなときの、唯一の楽しみは、ラヂオで、ラヂオを聞きながら、雑誌を読んだり、宿題をしたりして過した。
1941年(昭和16年)十二月八日は、私の満十八歳の誕生日の二日後であった。
誕生日といっても、親や兄弟が、いるわけでなく、友人達も、勤務の関係もあり、一同に会することも少なく、今日のように、誕生日を祝うという習慣も薄
く、特別な、こともなかったが、十八歳になったという、自己意識は強く、責任もって、満洲のために、働かなければならないと感じた。
母と父の他界した日、結婚した日、長男、次男の誕生日は、誰でも人生の中での、出来事で、忘れられない日であるが。
昭和九年(1934年)七月十一日の、手取川の氾濫した日、194年十二月八日と1945年(昭和二十年)八月十五日の敗戦、この痛恨の日は、思い出したくないが、死ぬまで脳裏から、はなれない日である。
南湖のすぐ、北西に延安大路(現同)と洪煕街(現紅旗街)に挟まれたところに、満洲映画協会(現長春映画撮影所)を俗称「満映」といった。撮影所があった。当時は東洋一とほこった。
「満蒙建国の聡明」「民族の叫び」「国防全線八千料」など、満州への関心を、深める役目をになった。一方、満洲各地の風俗や、自然を「カメラ」により、照会したものもあった。
しかし、全般的に、侵略を正当化し、移住奨励した、国策映画が多かった。
俳優では「季香蘭」日本名、山口淑子の登場により、「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓い」「蘇州の夜」など、当時、満州に、住んだ人には忘れられない、映画であった。
1945年八月の敗戦で終止符を打ち、甘粕理事長は、自決を遂げたという。
満鉄、それは「赤い夕陽」の中に消えた。幻影であった。
新京駅に降りて
大陸の初めて降りた新京駅
旅人は黒光りの服に寝具一枚
駅舎で手鼻 向日葵の種を噛
行き先があるのか人の渦
駅前ロウタリー左に大和ホテル
南に真直ぐ 遥かに見る大同大街
延長7.5K 幅員60米
規模の大きさに度肝を抜かれる
大同広場の直径300米
広場の周囲には行政機関
長春城内の南西 原野の中に
忽然と現われた新都市 新京
アジア旅館という下宿屋
着任時 寝る宿もなく
未亡人経営の狭い部屋
泣けず 故郷の父は何を
叶えて南湖寮 先輩と2人
休日 ラジオだけが楽しい
春は柳緑 曲橋亭を写し
冬は夜半 炸裂する結氷音
3ヶ国東亜競技大会終
選手村が即我が宿舎
厳冬時も外の特設入浴場
タオルは板 手は戸に吹着く
安民区 満映近く南冥寮
砂原 樹木の影 鳥も鳴かず
必需品 娯楽もなく静寂のみ
新設路面電車は頼りにならず
(八)
六月七日、晴、北瀋陽発九時三十分の列車にて、長春に向う。発車三十分前位に北瀋陽駅に着く。出発までの時間待合室に行く。思ってもいなかった、立派な
待合室だった。室内は広く、綺麗に整頓されている。まるで貴賓室のようである。私達一行の外には誰もお客さんの姿は見えない。何故なのだろう。駅構内で見
た旅行客の雑踏は一体何だったのだろう。聞くところによると、外国人のお客さんを特に歓待したい心づかいだったようである、"熱烈歓迎"の姿だった。窓ガ
ラスはきれいに拭き掃除されている。日本では、こんな待合室にお目にかかったこときない。些か恐縮したが、かつての侵略国の人達であったのにと思うと、中
国の人達の寛大さに心をいたむ。列車は定時より10位遅れて発車した。女性の乗務員も親切に対応してくれた。車内はむし暑かったが、列車内の掃除等は割合
行き届いたようであり、食堂車での乗務員の対応も、親切で、新しい中国の建設いぶきが、列車内にも、満ちていた。十四時三十分長春駅に着いた。旧新京駅は
解体中で混雑していたが、駅前広場は当時より大き、列車を降りて改札口に行くのにとまどい待たされた。ガイドの張さんは、瀋陽の人で、改装中の長春駅につ
いては、不案内だったのも無理はない。暫く待たされて、改札口に向った。今までの改札口より、離れたところに、改札口があった。かつての旧新京駅の正面は
通れなかった。
長春駅は、六〜七割出来上がっていた。素人で詳しいことは判らないが、十数階の建物と思われ、北瀋陽駅よりも、大きく立派になるとのことであった。
駅前広場は、かつて相当広い、ロータリーがあった。この広場は駅前地下道となり、地下街が出来るような、工事も行われていて、駅前を抜けるのにも、足元に注意して歩いた。
かつて、駅の左に、樹林の中に、豪壮なヤマトホテル(春諠賓館)と旧満鉄新京駅事務所があった。流線型特急、最優秀列車として、賞賛された「あじあ号」を運行していた事務所である。
解放後は、多くの大学や研究機関が集中する文教都市として生まれ変っていた。松遼平原の中部に位置し、森と文化の街という美称をもち、市内五つの区と周辺の五つの県を管轄する、人口二百十万人の吉林省の省都である。
駅前から、旧満州国の皇帝の宮殿に、ここは中国の人々には、苦々しい処である。地図では、偽満皇帝と記されている。ここは、一時的な宮殿で、タバコの倉庫を改造したとか。偽満当時の一部が陳列館となり、吉林省博物館として保存されて、併設されている。
陳列館には、ラスト・エンペラーの関する遺品が展示されていた。
皇宮跡も、極めて質素なもので、建物も庶民の建物と大して変らないようだった。
宮廷の中庭には、1本の杏子の樹が、陰房を覗いるようであった。
詠日満洲宮廷
蘭英紋様掩閑局・・・青
一杏殊花傍小庭
何視何聞又何語・・・清朝最後の皇帝だった溥儀が
傀儡古殿雨飄零
博物館内には、1906年生まれ、三歳に宣統帝として即位して1911年、辛亥革命がおこり、翌年二月退位、幼少の六歳の時である。その後、三十
三年間、関東軍に動かされて、満州国執政となり、三十四年皇帝と称し四十五年、日本の敗戦で満州国が消滅するまでの近代史を語る、貴重な遺品が展示されて
いた。
関東軍による、植民地支配に利用され、日夜、幽閉同然の監視下にあったときの遺品、阿片中毒となった、秋鴻夫人の部屋、男装の麗人、川島芳子の行動や、排日運動家の実情など、多くの資料が生々しく、ところ狭しと展示されていた。
博物館を出て、一行が何よりも、見たかった偽満皇居の門には、蘭花の文様ではなく、他の図形の門に変っていた。
博物館を後にして、南嶺に向う途中、大馬路を通った。大馬路の名称は、今も変っていない。四馬路との交差点に、中国人経営の秦発合百貨店が、長春概略の
地図によると、東北デパートと名称が変わって、現在も営業中のようだ。附近に材木で店舗や住宅の改装中と思われる光景をみた。ガイドさんによると、「この
材木は日本の建築廃材を利用している」と聞く、捨てられずに、再利用されているのは有難いことだと思う。バスの中から見た、中国人街、いわゆる城内も、変
りつつあるように感じた。5分でよいから、バスから降りて、附近を見たかったが、そんなわがままはゆるされない。
南嶺の旧観象台前でバスを降りる。感慨無量である。
まるで原野のようであった。あの南嶺が、ドロ柳の街路樹も5米-6米以上ある樹にのび、至聖大路も、南嶺古戦場に通ずる道も、自由大路、南嶺小街と名称を変えて、初夏の夕刻に微風で、一行を迎えてくれた。
西を見れば、綜合運動場と長春動植物園の前も、樹木一本もなく、遠く一望できた。至聖大路も、街路樹で森をなし、長白賓館も見えない。また、南嶺小路
も、樹木のトンネルを形成し、通りの左には、中国独創の朱色か、青色の灯篭に腰紐のようなものを下げた中華店や各種の店が並んでいた。
中華店の青色は回教徒(イスラム)の店で、豚肉は一切使わないことを知らせている。
旧観象台は「長春気象n(儀)器厂(廟)」と看板が掛かっていた。気象関係の機器を造ったり、検査をしている所となり、長春の気象観測所は「何処に移転したか」とガイドさんに聞いた「わかりません」と答えが帰って来た。
庁舎は、五十年前そのままであった。中に入れるようにと、守衛と交渉したが、「今日は終業時もせまっているので、明日なら良い」
との返答で、明日、再度訪ねることを、束して去る。附近を寸刻の間、散歩した。丁度、この季節は、柳 と言われ、晩春の風物となっている。突然、風が吹
き、柳繁が舞った、雪のように、東西南北、左右に舞う光景は、春吹雪を思わせる壮観な、一時であった。ここの丘に同朋が、向えてくれたような、幻想をおぼ
えた。明日を楽しみにして、バスに乗る。
バスでホテルの長白山賓館に着く。すぐ前が南湖公園で、自由大街(旧至聖大路)と新民大街(旧順天大街)興農大路(旧安民大路)進安大路(旧洪煕街)の
交差する、長春南部の主要な地点にある、ロータリ広場である、この広場は、かつて安民広場と呼ばれていたが、街はずれの、原野のような所で、樹木もない閑
散なところであった。しかし、すぐ前に南湖があり、現在は、この広場の名称は地図には載っていない。
50数年前に植えたばかりだった、「ドロノキ」は、街路に大木となって緑豊かな姿を誇っていた。
ホテルは13階建てで、私ども一行は9階の部屋に案内された。荷物を置く間もなく、誰かが声をかけたわけでもないのに、廊下に集まり一望するなり、あの
建物は、かつての興農部、文教部、交通部、司法部だったと会話は続く。その向うが満映だったと紅旗街の一角を指して、当時を回顧し、お互いの会談はつきる
ことなかった。
ホテルは、大連や、円東に比べて、新しく立派であったが、難を言えば、洗面所、浴槽の排水栓が壊れていた。トイレの水の出が悪く、ボーイさんに言って、修理してもらう。一寸した手抜きからか?
翌八日、再度旧観象台を再度訪問する。庁内に入る許可されるまで、しばらく門前で待つ。
「どうぞ、お入り下さい」
と言われて、玄関先へ五十数年前がよみがえる。工場内に入れないかと交渉したが、作業中だからと断られた。突然の訪問だから無理もない。構内に入れただけでも有難かった。
正面玄関付近は、樹木に囲まれた、白亜土の建物であったが、今は道路からの入口も変り玄関前も狭くなって、白亜土と表現するのには多少の抵抗を感じた
が、当時のままであってほしいと思ってのこと。汚れた感じがあった無理もない。この旅行の最大の目的が果たされた充実感があった。むしろ、五十数年を思う
と、そのままの姿のように見えた。
前の広場で、冬、スケート場を作って滑った楽しい一時もあった広場だったが、今は樹木が繁り、緑の下で小休止するようになっていた。
三階建ての庁舎は、寸分変らず、当時の姿のまま、一行を迎えてくれた。
「三階が予報科で、あの附近に机があった」など、それぞれ懐かしそうに話がすすんだ。
正面玄関で、全員揃って、記念写真を撮る。また、各人が、それぞれに、バチバチとシャッターを切り、時間の過ぎるのを忘れた。
一粁位、北に行ったところに、南嶺の小さな南街があり、下宿をした、アジア旅館や、産婆さんの家は勿論、南山嶺の戦跡は補修されていないと思ったが、どうなっていいるのだろうと、次から次に、古き当時の思い出が、脳内をよぎる。別れをおしんで、ホテルに帰る。
午後は、長春第一自動車工場を見学する。工場と労働者が一体となった工場である。工場責任者に工場内と労働者の説明を聞く。長春観光の目玉となっているようである。
長春映画製作所を見学する。かつての、満洲映画協会・・・満映・・・といって親しんだところである。
所内を見学する入口も、中国人の入口と、外国人の入口が別になっている。瀋陽の待合室が浮かんだ。敷地は、二十八万平方米と、かなり広い。所内の建物に
は、あちこち弾痕が目についた。敗戦後、中共軍と国府軍が戦った痕跡のようである。今日の平和な暮らしも、こういう一時期があったのだろうと思い、ここで
も亦、幾人かの犠牲者がでたことと思う。詳しいことは解らない。広場に戦闘機も展示してあった。
満映時代は、一度も見学する機会がなかった、小道具室を見せてもらったが、各部屋とも、よく整頓されており、掛軸や陶器類、さらに日用品から武器まで、旧満映時代の物と思われるものもあった。
外で撮影中の演技をみる。銃で襲われ、二階から飛び降りるところを、何回も繰り返していた。どんな映画だったのだろう。
市内観光に回る。長春駅から、欺大林大街(旧大同大街)の真っすぐ行ったところに、人民広場(旧大同広場)があり、その中間くらいのところに、新発路と上海路(旧、朝日通り)、新発路の名称は以前のままここでバスを降りる。
新発路側に、共産党吉林省革命要員会がある。旧関東軍司令部である。ガイドさんが、「写真は近くからは、遠慮して下さい」という。近くでなければ良いら
しいが、良いとは言わない。止められることもなかった。関東軍司令部は昔のままであった。樹木た゜けは、すっかり繁り、森の中に威容を誇っていた。
近くの長白山百貨店に行く。旧宝山百貨店である。衣料品をはじめ、家庭用品、電気器具などはじめ、商品は豊富で客も多いのには驚いた。瀋陽のデパートで
も、そうであったが、中国は、もはや自由経済の先進国と変らない。化粧品なども外国製品が、主力になっている程であった。
人民服ばかりであった、十年前の写真でみた、別な世界であると現地の人も言う。
このデパートは、丁度改装中で、隣接にも増築し、現在より、高く、八階建て、床面積は三倍位になるらしい。
価格は、まだまだ高く、女性のスーツなどをみても400元以上もするものもあり、買うのは大変だろうと思った。400元は日本円にして約8000円です
から、日本人の感覚では決して高価なものではないが、中国の労働者の1ヶ月分の給料に当る値段である。Tシャツが50元-60元、給料からみて安くない。
下着の半袖のシャツやパンツが2元位で、日本円で40円位、これはまあまあの値段でしょう。
電化製品や洋服が憧れの商品であり、女性に「電化製品がないと結婚しない」と謂われるである。二十五インチのカラーテレビが5000元、これではとても買えない。
少し離れた、西広場附近に行く。旧新京ですごした人には、思い出深い、給水塔が、当時のままの姿で迎えてくれた。西広場附近には、西広場小学校、敷島高等女学校がある。
西広場小学校は、長春第三中学校として残っている。この小学校に通学したことのある、米山氏は、幼い頃の思い出深い校舎をながめ、写真を撮っておられた
が、今年十月に取り壊しが決まっており、「運の良い方ですね」とガイドさんが言われ、どんな思いだったろう。敷島高等女学校も、長春第十一中学校として存
在していたが、同じように十月に取壊されるとのことであった。
日本人の住宅街は、2〜3年前までは、現地人の住宅として使用されていたようであるが、いまは殆ど取り壊され、新しいマンションに変っていた。まだ、廃屋のままとなっているところも、見受けられたが時間の問題のようである。
地質宮広場は、旧宮廷造営地であり、完成後は、皇帝溥儀も、ここに転居することになっていたという。溥儀の心境は複雑だった、ようで、さらに監禁、幽閉が強化されると思い、怯えていたと解説する人もいたという。
造営途中に敗戦となり、そのままの姿で、今は長春地質学院となっている。
われわれ一行をみて、大勢の人が集まって来た。「満洲中央銀行券」をもって、思いでのコレクションとして売るためである。
たしか、五十年前に使用した紙幣である。拾円、壱円、五角、壱角紙幣であった。数枚セットにして、逼迫して来る。幾らか聞く者もなく、買わなかったと思う。
自由市場に行く。地図がないので、何処だか解らない。旧市街の東四馬路か長路附近だと思う。日本の都市の繁華街のような所だった。夕方に近かったこともあって、買い物客で、ごった返しであった。
一九九二年頃から、食糧品の配給制が無くなった。食料品は豊富で、自由市場は活気があり、米一料が2.5元約五十円位、肉や野菜、果物は種類も多く、6
月上旬と言うのに西瓜が並べられていた。東北部と言えば、厳寒の地であるのに、広東省あたりの暖かい、地方産のものと思う、輸送、流通面でも、かなり改善
されているのだろう、ホテルでデザートに西瓜が出た。
魚も、川魚が多いのだろうが、冬期は別にして、冷蔵庫はまだまだ家庭に入っていないのに、お店に並べられているのは嬉しい。
今までは、朝の食事はオカユにマントでしたが、今はパンに牛乳に変りつつあり、男性は朝食を準備し、夕方子供を託児所に向えに行く。女性は買い物をするのが一般的のようである。
長白山賓館に帰る。ホテルのすぐ前の南湖公園は広大で、中国第二の面積を持つ公園との説明。当時より三分の一位を埋め立て、附近に樹木が植えられていた。何か当時より少し狭く感じたが、そうだったのか。
夕食後、南湖公園を散歩しながら、矢吹芳雄氏、飯倉誠氏の三人で、五十数年前に生活したことのある独身寮、南湖寮を捜そうと出かけた。一五〇〇米位歩いて、
「この附近ではなかったか」
「もう少し右側ではなかいか、南湖がこの方面だから」などと言って歩いた。わかるはずがない。南湖附近の様相は、すっかり変わっている。
突然、真暗となり、雷鳴をともなう、豪雨、ゴルフボール大の降雪に見舞われた。立ち往生となり、近くのアパートの軒下に駆け込んだ。いわゆる湿流のような大陸特有の夕立である。自由大路や交差する道路はたちまち、川となり動きがとれなくなった。
その時の排水の良いのに驚嘆した。雨水はドンドン下水に吸い込まれ、約三十分ほどで俄雨も止み、川となった道路が、すっかり、もとどおりとなり、我が目
を疑ったくらいである。俄雨のおかげで、都市計画で上下水道の完備により、全域水洗便所が設置された五十数年前の結果が今になって、すばらしいものであっ
たことを思い知らされた。
このホテルに二泊した。南湖は五十年前より約三分の一に縮小されて、埋め立てられて公園となり立派に整備されて、一変していた。夕方から夜になると、大
勢の老若男女が集まって来た。市民の楽しい憩いの場となっている。夕暮の湖面は、柳の緑が美しく映え、湖畔の曲橋亭や、橋が、黄・朱・白と美しく、釣りを
する人、広場では大道芸、太極拳、若者がダンスを踊り、露店も開かれ、笑顔で語りかけて来た人もあり、楽しい一時をすごしていた。
ホテルのお客さんに、日本の商社の人にも逢う。長春に工場を持ったり、商店を開店したりする希望があり、調査のために来られておられるとのことであっ
た。或る人は、もう二ヶ月にもなると言っておられた。ガイドさんによると、吉野町の土地を日本の会社が買い取ったとのこと。
朝鮮の人、台湾の人も多かった。朝鮮の人は、すべて韓国のの人で親しく話しあうこともできた。この人達は団体で、朝鮮の人には、霊峰長白山(朝鮮名白頭
山)に登るのが目的である。日本人が富士山に登るの同じようなものなのか、何か雰囲気からみて、それ以上の思いがあるように見受けられた。
彼等は朝鮮側から登山するのが、長い歴史の習慣であったが、現在は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に入ることは難しく、北京を経由して、瀋陽又は長春から登山するのだと話していた。毎年相当の数の人が、登山に訪れているらしい。
同一民族でありながら、祖国の霊峰に登山するのに、南北に別れているため、遠く北京-松遼の地を経なければならないのには、さぞ複雑な心境であろう。
台湾の人達の団体もあったが、観光旅行のようであったが、或は、半世紀前に在往した地の旅愁が、父母が生きて来られた地に対する子の思いなのか、松遼の地には、観光地として、そんなに魅力があるとは思えない。
まだ、偽満時代の多くの建築物が残っている。偽満国務院、偽満司法部、旧関東軍司令部、旧康徳会館、旧海上ビル、旧電信電話会社など枚挙にいとまがな
い。公園の多さも、都市としては珍しいくらいである。そのまま市民の公園として、その役目をはたしている。旧児玉公園だけは、勝利公園と改称されて、中共
軍の退役、幹部の保養所となっていると聞く。
長春は、まだまだ、見たかった。一週間いても、十日間いても、この街には、思い出はつきないが、日程の関係で、九日朝、ハルピンに向うため、長春を後にした。
残念でならなかったのは、憩いの場であり、何度も夢に出てまた南湖の汚れであった。経済発展のために起きた現象である。何とか昔のような南湖にならないものかと願うのみである。
奉天
飛行場の隣接地
○馬の鼻先に人参ぶらさげ
粉を挽くため
休まず(馬)働く、人参は
食べられない
○農民はそこでゆっくり
雑談にふける
競馬場
○森の南側に競馬場
マーチョ(馬車)、ヤンチョ(人力車)
一日中競馬ですごす
勝てばマーチョン、ヤンチョンで
帰宅するが、
負ければ歩いて帰ったようだ
のんびりしていて、考えられない
○城内には、壁厚さ50mm位あった
と思う、壁に幾つかの穴が
あり、子供を捨てに来る人、男の子を
もらって帰る人・・・あり
城内の様子は解らずこれ以上
書けない。終戦役は城壁もとり壊された。自由に入れたが、市民の生活は変わっていなかったよう
翌五日は、列車で円東を発った。六月の上旬の日本内地は、うっとおしい梅雨の季節に入る時季である。なんとなく、日本内地と言ったが、五十年前
は、旧満州が外地で、日本を内地と言っていたが、いまそう呼んでよいのだろうか? 車窓からの風景は、沿線の並木は、鮮やかな新緑から晩春の濃い緑に変ろ
うとしており、どこまでも、果てしなく楡の木が軽やかな風にゆられて、南へ北へ、抑繁が舞いあがろうとしている。桜の花吹雪を思いおこす晩春であった。
六月上旬の松遼の気候は、爽やかで、一番住みよい季節である。
朝八時半、円東を発って特快列車は、見わたす限りの大平原で、何の変化もなく退屈で、社内も殺風景であったが、四時間半の時を感じさせなかった。五十年ぶりにみる大陸の風景であることにくわえ、暑くもなく、寒くもない、季節のせいであった。
やがて、風景は、都市を感じさせるようになってきた。まもなく、瀋陽に到着するところである。
「間もなく瀋陽です」と
中国旅行社の張さんがしらせにきた。
待ちに、待った瀋陽に着くのだ。列車の中で食べたり、飲んだりした。残りの菓子や、飲物や、読んでいた雑誌や、本などをバックに入れ、すぐにも降りられる準備をした。
「まだです。あと二十分はかかります」張さんは、一行の動きに驚いた様子だった。
「間もなく瀋陽です」と、言ったのは、少しでも早く知らせたかったのだろうと思う。
「そんなはずがない。瀋陽駅構内にもう入っている」と私は思った。二分〜三分で着くはずだ。ガイドさんが勘違いしているのではないだろうか。
「もう降りるんだ」
「そろそろ降りよう」
日吉氏、飯倉氏、矢吹氏、佐藤氏。皆降りる準備をして、出口に向かいはじめた。
ガイドの張さんは、われわれの行動をみて唖然としている。(まだ二十分もあるのに、どうして急ぐのだろう)と不思議でならなかったようだった。
「瀋陽だ!」
「瀋陽に着いたぞ!」
団長の日吉氏が、下車するように言った。日吉氏は、旅行会社との折衝もしてくれたし、旅行の費用も彼に一任していたから、一行十五名の者は、自然に彼の指
図に従って行動してきた。成田から大連、円東を経て、ここまで、誰と言うこともなく、いつの間にか、彼を団長として、彼の指示に従うことが、当たりまえの
ことであった。日吉氏が、
「瀋陽に着いたぞ!」と言って、列車から降りる準備を始めたことに、誰一人として、疑問をもつ者もいなかった。
列車は静かに、滑るように、瀋陽駅に停車するところであった。
張さんは、思いがけない、出来事に狼狽して、
「ここではありません。降りないで下さい。」まるで、懇願しているように思えた。列車は瀋陽駅に着いた。
一行の者は不思議でならない。なぜこの駅で降りないのだろう。
薄汚れた窓から見た、瀋陽駅は、暗く、気味が悪いほど静かで活気がない。下車する人も数えるほどである。
ここが、中国東北部最大の都市、瀋陽の玄関口とは、どうしても思えない。
かつての奉天駅は、どうなっているのだろうと思い、顔を見合わせたが、言葉もない。
この駅で、入隊するとき、皆に見送られた駅、駅前で寒さの中、足ふみをしながら、北陵行きのバスを待ち、奉天駅の威容を見つめていたのも、つい先日のようだったのに。
列車は発車した。次の瀋陽北駅に向った。ガイドの張さんが
「次の駅で降ります」と
一行は、再度降りる準備をする。仕切りなおしである。
当時、在住したことのある、日本人の誰もが、懐かしい思い出の奉天駅(現瀋陽駅)は、鉄道博物館と鉄道関係の事務所となっており、新たに瀋陽北駅が全面的に改造され、1990年四月二十二日開業、いまは、瀋陽の中心駅となり、私達もこの駅で下車することとなった。
列車は瀋陽北駅に着いた。開業して、まだ三年という、新しい駅は明るく、乗降客も多く、活気があった。地下道は電灯が少ないせいもあって、薄暗かったが、電力事情がまだ、充分でないせいなのだろう。
(ニ)
奉天、現在の瀋陽である。遼寧省の省都で、人口も四百五十万人、天津に次ぐ、大都市である。
この街の歴史は古い。明代までは、「瀋陽」と呼ばれたが、女真族の英雄、如児哈赤(マルハサ)が後金を興すと「盛京」となる。清となって、奉天と改称されて、満州国時代も、「奉天」と呼ばれていたが、四八年に瀋陽の旧称に、もどったという、歴史ある街である。
「奉天」も、入隊するまで、約七ヶ月過した街であり、思い出も多いが、ここでは、修学旅行中に、見たこと、感じたことを、書くこととする。
古い街なので、決して、綺麗な街とは言えない。むしろ、汚い街だと感じた。ことに城内に入ったところ、人々の服装は、垢で汚れていて、黒ずんでいた。店
の軒先には、珍奇で誇大と思われる、招牌という、看板を掛け、商品の現物を、そのままの形をした、物を下げてある。見ていると、面白くなってきたが、団体
行動の修学旅行、時間の制約もあり、案内人に促されて、駆け足で、通り過ぎた。街頭商法が、これまた珍しい、雑貨や小物を売る、よろず屋が多く、特に、小
盗児市場は、それなりに活況を呈していた。
小盗児市場と、いうのは、終戦時まで、「新京」であった。全満、どこの都市でも催されていたと聞く。
ここで、特記したいのは、城壁に、五十粍(センチ)位四方の、小さな穴が開いている。
城壁のことだから、奥行きも相当あった。不思議でならない、ことに城壁に穴があることが、賊の襲撃を防止するはずの、城壁が役に立たないのではないかと。
案内の説明によると
「子供が生まれたが、育てることが出来ない。誰かに、育ててもらいたい」
と母親が、人目を忍んで、ここに置いて行くのだとのこと。
「子供が欲しいが、授からない、夫婦が、吾が子として、育てるために貰って行く」とのことであった。
生まれて間もない、嬰児もおれば、一〜二歳になった幼児もいるという。この国の、昔からの風習らしく、考え方や、生き方の違いは驚くばかりだった。
或いは、合理的なのかも知れない。わが国でも、同じことがあることを報道される。
嬰児を、他人の玄関先に、また、お宮の賽銭箱の横に、置いてあった・・・・という報道を聞くことがある。
このような行為をする、親は非道なのか、正常とは言えないにしても、止むに、止まれぬ行為とだったのだろう。人間として、自分の子を捨てる人は、いないと思う。どんな極悪な者でも、親が子に対する、情は変らないと思う。
貧困と病弱、そして戦乱が、このような結果を齎すこととなる。
生まれて、来ても、育てることができず、「せめて、この子だけは、生きて、立派に育ってほしい」と願いたいのが、母親の姿であろう。
敗戦のとき、在留邦人が、避難の途次、幼児を中国人に預けたという。このまま、避難行を繰り返せば、親子、ともども、死の道を並ぶことになる。せめて、
この子だけでも、助かればと、止むに止まれず、すこやかに、育ってほしいと願い、中国人に預けたのも、窮極の決断だったのであろう・松遼の中国人には「他
民族の子を「排除しない」という気風があった。
避難の途次、多くの人が、犠牲になっていることを思うと、永久に、誰も解答することはできないことと思う。
いま、残留孤児となって、毎年、肉親探しに、訪れているという、悲劇を生んでいる。
中国人には、孤児を育てるという、昔からの風習があったからでは、ないだろうか。
人の運命は、貧困と戦乱によって、その人の人生を狂わす。
いまなお、世界のどこかで、難民が、安住の地を求めている。この難民が、当時の敗戦のときと同じように、親と子が、引き裂かれている、現象がおきていることであろう。
あれから、五十年以上も、過ぎているというのに、一体どうしたことだろう。
清の太祖奴児哈赤と大宗皇太極の二代にわたって、皇居とした故宮、規模は、小さいが、建築は満洲王朝独自の様式で興味深い。正面には、八角形、二重ひさ
しの大政殿があり、前の広場には、満洲八旗の軍官が詰めていた、八旗亭が並んでいる。外に崇政殿、鳳凰楼が建てられていた。
中国の歴史は殷、周の紀元前、1700年から、清滅亡に至る、1920年代まで、3600年余、幾多の王朝の成立、栄枯盛衰、戦乱の歴史で
あった。この街も歴史は古く、新石器時代から人類が暮していたことは、1974年、北新楽で発掘された遺跡によって証明されている。
1616年、太祖奴児哈赤が、後金国を建てた頃は、わが国は、戦国時代であり、1600年、関が原の戦い、1603年、徳川家康が、征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を創設して、1616年(文和元年)家康没した年である。
故宮は1625年に建立に着手、十年を経て、完成したものである。
大政殿、八旗亭、宗政殿、鳳凰楼等、往時を、しのばせる華麗なものであった。
さて、わが国の戦国時代の政を行う城を思うとき、大阪城にしても、名古屋城にしても、その規模、建築等、中国に比して、築造に違いがある。
わが国の諸大名の城は、常に外敵から城を守り、機会があれば「国盗りをする」という、城であるように、思うが間違いだろうか。
奉天城は、正方型をなし、西南北に、大小二つづつの門があり、宮殿(故宮)を中心に井型をなしており、城郭の中が、旧市街となっていて、文化都市として栄えた。
故宮は、庶民の暮らしの中にあり、城内街である。
城門に角楼があって、庶民の暮らしを守っている。
そこに、中国とわが国の文化の違いが、あるのかも知れない。
奉天で九州の中学生一行の修学旅行に逢う。顔を合わせ、挨拶を、したくらいであった。彼らもまた、同じような、旅をしたのだろうと思う。何となく、意思は通じていたのだと思う。
(三)
1944年二月、胸を患い、満鉄病院の診断で、肺侵潤といわれ、日本に帰り、転治療法をすすめられたので、一時、田舎に帰った。あの頃は、肺結核に罹る
と、不治の病気と言われ、しかも、伝染する、厄介な病気であったと、されていたので嫌われた。子供のころ、私の集落でも、肺結核に罹っている、人の家も
あった。そこの家には「行っては駄目」といわれていた、くらいであった。
肺侵潤というのは、どんな程度の病気なのか、肺結核の初期なのか、或いは、肺結核ではない病状のものか、解らなかったが、満州にいた、日本人の青年に
は、多々あった病気であり、転地すれば、治るといわれていた。微熱が続いた。何回か、レントゲン写真を撮り、診断の結果、肺侵潤といわれ、内地に、帰るこ
ととなった。
田舎に帰り、金沢の病院に通院する。四ヶ月位で、微熱も下がり、レントゲン検査も、良かったので、先ず安心した。
これからどうしようか、新京に帰るのか、当たり前だが、気象の勉強をもっとしないと、将来、技術者として、やって行けるのか、不安であった。気象技術官養成所の本課に入学して、勉強をしたいという思いがあった。
また、田舎に、いつまでもいては、近所の人の目にはいり、何となく、いたたまれない。
毎月、診断書を新京に送らなければならないのに、四回ばかり送ったが、その後、送るのを一〜二回怠って、東京に出た。七月になっていた。間もなく、父から「至急、帰って来い」という、電報が入った。何事かとすぐ、旧舎に帰ったところ、
「すぐ新京に換えるうに、役場から言われた」とのことだった。よくよく聞いたところ、軍の方からの、指導命令だったようだ。父は、相当驚いた様子だっ
た。関東軍も、気象技術者が少なく、観象台に勤務した者をあてにしていたようである。真実の程はわからないが、止むを得ない。新京に帰ることが、当然の事
だったので、残念ながら、帰らざるを得なかった。
新京に帰るとすぐ、奉天管区観象台に、転勤を命ぜられた。こんな行動をとった、ためだったかどうか、わからない。
勤務地の奉天管区観象台は、千代田公園(現中山公園)の一角にあった。
奉天駅(現瀋陽駅)を出て、正面の千代田通り(現)を七分〜八分のところを、右に折れて、間もないところに、千代田公園があった。
戦争は、次第に熾烈を増して来た。ラジオや新聞によると、戦果は拡大し、南方方面では、常に、大勝利と伝えていたので、報道を信じていたので、悲壮な感じは、しなかったが、1年後の、八月十五日に、無条件降伏するとは、夢にも思っていなかった。
千代田公園は、奉天の中心部にあり、歴史もあり、繁華街の近くで、観象台としては、稀な所、例外的な場所にあった。
清朝の発祥の地であるから、観測所の歴史も古い。出渕重雄著の「旧満州国中央観象台史」によると、一九〇五年四月に日露戦争のとき、軍事上の目的から、
臨時の観測所を設けた。その後、関東気象台の所属となり、一九三三年(昭和八年)、満洲国中央観象台が設立された。千代田公園の一角にあった庁舎は、その
ころからあったものと思う。建物は一見して、古かったから、一九〇五年に建てられたものであろう。
奉天は,管区観象台で、一九四四年当時は、官制によると、満州の南部及び、熱河、興安の一帯を、管轄区域とする所でもあり、四平、錦州、山海関、吉林、魯北等、二十二ヶ所の観象所があった。
管区観象台とは言え、予報科と観測科のほか庶務課があった程度であった。
私は、予報科に所属していたが、実務は、予報科の業務とは別に、観測の実務を手伝った。それだけ、人手不足だったのだ。
私としては、観測の業務を手伝得たことは、将来、地方の観象所に、配置転換になったときを考えると、むしろ幸運だった。
厳冬の夜中、午前の時の観測のときは、辛かった。耐えて、露場に立った。観測て手帳に書き込むのも、なれるまでは苦労した。
高層気流観測(高層気象観測は別)は、屋上で観測気球を上げ、その気球を最初は肉眼でその後望遠鏡で追跡し、上空百米おきに、風向、風速を測定して、図場に記入する方法で、午前と午後の二回観測する。
冬期には、シベリア気団の関係で、天気は良く、寒さも厳しい。屋上に、気球を追いながら、一時間以上も、望遠鏡を覗いていると、体の中から凍り付いてくる。目を離すことも、体を動かすこともできず、早く見えなくならないと思っても、いつまでも見える。
この観測は、、全満で二十九ヶ所で観測された。観象台職員として当たりまえのことであり、北満や、国境地帯の僻地でも、同じ観測をしていることを思うと、耐えて、露場や屋上に立つしかなかった。
一九四四年の暮、12月6日と12月21日の二回、米軍のB29が、70機、50機が、奉天を爆撃したが、庁舎の屋上で観測中に見た、B29は、5機な
いし、六機を編隊で、上空を通過して行った。爆撃の事実は知らなかった。ただ、気象無線放送は暗号であったが、解読されており、大連、旅順など、南満
10ヶ所の観測所の気象情報が、放送されており、B29の襲撃された編隊から、布地に、天気図が印刷されていたと聞いた。
B29は、飛行機雲を作って、いずれかの方向に去った。
内地で見る飛行編隊よりも、一際鮮明で、綺麗であった。
何故、B29が、日本の内地を越えて、満州まで、侵入して来たのか、わからない。
戦況は毎日のように、大勝利を伝えているのに、不思議なこともあるものだと思いながら、放送を信じ、信じさせられていた。
この頃になると、食糧も不足気味となり、食えるものも、次第に少なくなって来た。食堂の食事も配給制のため少なく、お腹が空く。公園の池のほとりに売店
があり、蕎麦挽きを売っていた。すぐ得り切れる。運の良い日には買えたので、何度か、買って、空腹をしのいだ。蕎麦挽きというものを、このとき、はじめて
食べた。
東京神田の錦町、小川町、神保町あたりは学生の街で、そば屋さんも多かったが、そば挽きは食べた記憶がない。中国人街に、行けば、「ぎょうざ」や「饅
頭」は売っていたが、給料との相談で、空腹を満たすことはできなかった。それから1年後のシベリア抑留を思うと、同じ、空腹の数年間をすごした。
宿舎は、北陵にあった。役所のある、千代田公園まで、歩いて、一時間近く、要したと思う。よく歩いて通勤した。
歩いて、通勤するには、近道を通ることとなる。必然に、中国人街を通らなければならず、往復ここを通った。
城内ではないが、何となく、無気味である。しかも汚い。夏季は、悪臭がひどく、大都市奉天の別な姿であった。
少しでも、近道をしようと、裏通りに入ると、もうびどい。公衆便所のような、ところが連なっている街である。それでも、近道だから、その道を歩いた。病
気に、ならなかったのが、不思議なくらいである。冬になると、汚水が氷り、転ぶといけない。「ヒヤヒヤ」しながら通った。
通勤の途中、凍死者を何回か見た。朝の出勤時に、数人の人だかりがあり、何かと見たところ、瀕死の人が横たわっている。何とか、助からないものんと、思ってみたが、どうしてよいのか、判断がつかず、その場を過ぎたことがあった。
翌日、帰りに通りかかると、裸体のままの遺体の姿である。筵が掛かって、いたが一見して、わかった。寒さのため、氷っているので、腐敗の心配はないが、どう考えたらよいものか。
二日位すると、片付けられていた。こんな心痛な状景を、ときどき思いだすのである。初めのうちは、驚きのあまり、見るのも忍びなかったが、そのうち、なれたのか、あまり、感じなくなった。
人間というものは、慣れるということは、熟練と、言われるようなこともあるが、反面おそろしい事でもある。こんな状態は冬だけで、又男性だけだった。
赴任時に先輩から、旧城内に、「一人で行ってはいけない」。生きて帰れないかも、知れないと注意を受けた。
こういう、注意を聞くと、一度でよいから一人で行ってみたかった。結局、2〜3回行ってみたが、心配したこともなく、無事に帰って来られた。話によると、軍人が一番、狙われたらしい。一般、民間人は、夜間以外は、そんな事故は、なかったらしい。
奉天駅前から、北陵方面行きの、バスも出ていたがので、バスによって通勤する、ことの方が、いくらか多かったと思う。
ところが、このバス、なかなか来ない。奉天駅初発で、いつも満員で、ギュウギュウつめ込んで、身ぶきできない。通勤に欠かせない、唯一の交通機関であった。また、北陵の官舎の奥さんの買物にも、重宝がられていた。
バスも、一日何報復だったかわからない。そんなに多くはなかった。一時間に、一〜二往復位だったように思う。
特に、冬の駅前で、待つのは、大変だった。寒さが見にしみ、足をバタバタと足踏みをし、手を顔に当て、鼻と耳を擦りながら待った。時間は、そんな長いものかと感じた。
勤務が、三交替の関係で、日中に、このバスに乗ることもあったが、バスの乗客の、殆どは、日本人で、通勤時は、サラリーマンで、日中は、奥さんで、何時も満員であった。
そんな不便さもあって、旧城内を歩いて、通勤したことが、たびたびあった。
(四)
宿舎は独身寮で北陵にあった。寮の附近は畑と水田が多く、寂しい市街地であった。それでも寮の前に一軒の食堂兼酒屋があった。
日本人が経営していて、比較的繁盛していたように思えた。街はずれのながら、近くに社宅や官舎があったからである。
食料品が配給制であったのに、ビールや酒は、少しではあったが、不思議に、いつでものめた。
陵から歩いて、10分位のところに北陵があった、正式名称は、昭陵といった。清の太宗、ホンタイジと、その皇后を祀った。陸幕で、1643年から
51年まで、八年もかけて建てられた。面積四百五十万平方米、南側にある、正面から、棺の埋葬されている宝頂まで、一直線の参道があり、その両側に、石獣
や、年を経た、松や柏が続く。正紅門や、隆思門等、鮮やかな、色彩の風格或る、建築物がある。
四方は、高さ七米の城壁に囲まれて、後方に、半月形の宝城があった。
その下が、地下宮殿となっているのであるが、現在、入口は不明である。地下宮殿には宝物が、沢山あるはずである。何時の時が、盗賊が宮殿に忍び、宝物を
持ち出したときに、陵墓の図面を紛失したと伝えられている。盗賊にしてみれば、図面は、何の価値もない物なので、捨てたのか、焼いたのか、想像するしかな
い。そのため、今も、地下宮殿の入口は謎となっている。
私は、奉天勤務中、地下宮殿を見学した、ように思う。
隆思門を潜るとすぐ、右手に地下道があり、この地下道が、緩斜面になっており、地下宮殿の入口に至るようになっていた。
斜面の通路には、両側に、兵馬俑や、仏像が陳列されていた。
いまも、真実だったのか、夢を見たのか、不思議でならない。あまりにも、明確な記憶が、脳裏に焼き付いている。
93年に、再訪したとき、そんな、緩斜面の地下通路など、跡形もない。中国旅行社の「ガイド」さんも「入口は不明です」と言っておられた。だから、そんなことはない。夢だったのだ。しかし、今も夢だとは思っていない。
寮に近いこともあって、北寮には、何回か参詣した。
北陵の北東の森の傍に、私の勤務した、奉天飛行場があった。北陵の宿舎から、飛行場出張所へ、いうまでもなく徒歩である。以外と遠かった。遼を出ると、周りは、田園と畑で、現在の北寮大街を、一人で歩いて、北陵の入口あたりまでくる。十分以上は、かかったと思う。
正面手前を迂回して行くと道路があり、この道を通るのが普通であったが、一〜二度、この道を通っただけで、以後は、森の中を通って勤務地に行った。
北陵を左に見ながら、森の中を歩いて、飛行場までゆく。現在は、北陵公園となっているが、当時は、気味の悪い森であった。
森には、松や柏が、植えられてあり、大木ではなく、高くても、五米位の潅木が、無造作に植えられていた。原生林ではない、北陵の陸墓のために植えられ
た、森であることは私でも解るくらいである。人通りは全くなく、森に入っても、飛行場に着くまで、人に逢うことはない、広大な森である。行けども、行けど
も、森の状況は変らない。森の中には、道路はない。それなりに、歩くのには、困難ということはなく、手入れが行き届いているQだろう。
夏の暑い日には、避暑に最適の場所であった。森の樹木の枝や葉を通って、日光が差込み、百合やエビネのような、花をはじめ、かわいい花が、あちこちに咲いていた。鳥のさえずる声も、聞こえ、静まりかえった、森の中も、楽しい散歩の場所であった。
たまたま、中国人の一人歩きや、ロシア人の夫妻が、恋人と思われる、二人がベンチに座り、楽しい、そうに、話しあっている姿をみかけたくらいである。
森の中に、ベンチが設置されていた。捜さなければ、解らないような場所で、森全体で二〜三個所、三〜四人が座れる程度の、木製で当時としては、ごく普通の物だった。
森の中を奥に進むと、小高い丘となっている。そこが宝城で何回か行ってみた。見た目には、普通の丘であったが、丘に上ることは、気も引けて上れなかったし、又上ったような、跡もなかった。聖地だったからであろう。
北陵の左側、飛行場の反対に、競技場があり、休日になると、中国人で賑わっていた。
競技場に、入ることは、なかったから、どんなレースがあったか、わからない。北陵を出て、附近を散歩していて、競馬場の入口に出る。
入口は広場となっており、何百台かのマーチヨ、ヤンチヨが、お客さんを待っていた。500台〜600台、ものと、多かったかもしれない。壮観である。晴
れた、暖かい日には、馬車(マーチョ)、洋車(ヤンチョ)の駆者は、ほとんどで、全員が、昼寝をしている。一度くらい起しても、反応がない、楽しい、夢で
も見ているのだろう。
何人かに呼掛け、ようやく、目を覚ました「奉天駅までやってくれ」
めんどうくさそうに、
「駄目だ」という。
何回か、交渉しても、奉天駅までは、行ってくれない、どうして、駄目なのか解らない、北陵から、奉天駅までなら、近い距離ではない。料金も高いはずだ。それなのに、断られる理由が解らない。
「何時頃競馬場に来たのか」
「朝早く来た」
「ずっと待っているのか」
「そうだ」との返事
日本人の若い、サラリーマンでは、金もあまりなく、あとで値切られる・・・とも思ったのか、こちらも、意地になって、なんとか、馬車か洋車に乗って、奉天駅まで行ってみたい。あまり話せない、中国語と手まねで、話してみたが、駄目、ついに諦める。
駆者の話を綜合すると、朝早く、お客さんを、この競馬場まで運び、競馬が終るまで、ここにいて、帰りに、競馬に勝った、お客さんを、乗せて、帰るのが一
日の仕事であって、よけいな仕事は、しないのが、あたりまえであった。これでは、いくら交渉しても、相手にされない事を後で知った。
競馬で儲けられる人は、十人に一人位か、不思議でならないが、彼等にとっては、それで良いのであろう。大陸的な一時であった。
バス代の数倍もする、馬車や洋車に、乗ってみても、旦那になった気分にもなれず、薄給で見栄を張ってみても、馬鹿馬鹿しい。
競馬が終るまでの、その間に、少しでも、稼げば良いのにと思うが、それが、日本人の考え方である。
飛行場から、森の小経を、1粁半位行ったところに、人家が、5〜6軒、建ち並んだ、小さな集落があった。勤務明けの日に、この集落え、特別な目的もな
く、ただ漠然と、なにげなく遊びに行った。小川もあった。戸数は僅かしかない。小集団で、当直明けに、2〜3回、訪ねて行った。
子供のころ、近くの小川に遊んだ。川岸に菖蒲、葦、ガマや猫柳などが雑然と生えていた。メダカや鮒、泥鰌が自由豁達に泳ぎ、小鳥や胡蝶が舞っていた。田舎のような、田園ではなく、生活汚水と家畜の糞尿まで、一緒になった、ドブ川だったと言うよりも、下水溝にちかかった。
この「ドブ」かわのすぐ脇に、一軒の民家があった。道路と言っても田舎の畔路で、歩くのも工夫がいる。誤ると「ドブ川」に転ぶ。それでもときどき、この家に足を運んだ。
何故か、ここの生活に、ひきつけられる。不思議なものがあった。年寄りが、2〜3人集まって、楽しそうに話しあっていた。年寄りに見えたが、40歳
〜60歳位だったのだろう。私の子供の頃、まだ、小学校に入る前、田舎に一軒の散髪屋があり、年輩の人が何時も、2〜3人集まって、将棋を指す人、雑談に
花を咲かせている人、さまざまで、集落の溜り場であった。それが1931年頃からと思うが、その姿が見られなくなった。関東軍の満洲支配の野望から、満州
事変と、なった年であった、昭和恐慌の厳しい、生活のなかにも、平和な一時であった。
小さな小屋の中で、小屋と言っても、周囲も、屋根も土で固めてあり、小さな窓が、三ヶ所にあって、入り口だけが、木製の開き戸になっていた。寒い国の生
活の知恵から出た、構造だった。明りは無く、薄暗く、窓からの光だけが頼りであった。小屋では、高梁、粟などを曳く、作業をしていたが、この光景がまた、
私には楽しく、心休まる一時でもあった。
驢馬が一頭、もくもくと粉を、曳いていた。なんと滑稽な光景にうつった。臼から、馬の背に棒でつながり、驢馬が、臼の周りを、休むことなく、「モクモク」と歩け、つづけている。その馬の鼻先に「人参」が、ぶら下がっており愉快であった。
驢馬は、人参があるから、働いているとは思えないが、馬に聞いてみないと解らない。それも楽しい一時であった。
側に、2〜3人の農民が、煙草を吸いながら雑談にふけっている。これも大陸らしい光景であった。
挿話は、これくらいにして、忌まわしい、実に悲しく痛ましい青少年飛行兵のことを書き残さなければならない。
勤務していた、飛行場から、毎日、20歳にも未たない若者が、南方の戦場に飛び立っていることなど、今まで知る由もなかった。
奉天飛行場の勤務は予報の係二名、無線の係1名の計三名で二週間ごとに交替する勤務であった。
気象情報を予報科から電話で入手し、また、無線の係は、各地の観測地の観測値を受信して、予報係に渡される。それを天気図に書き込み、各地の情報と予報を飛行場に通報する業務で、新京の飛行場勤務と同じ業務であった。
時には勤務の関係で人手が無く、予報係が無線を受信することも、しばしばであった。
幸い送信がなかったので、どうにか無線の業務もこなすことができた。
いまとなったから書けるが、短波の受信機であるから、ソ連やアメリカの日本語による放送を、ときどき聞くことができた。あくまでお互いに胸の中に秘めていて、口に出す人はいなかった。
放送の内容は、流暢な日本語で、どう考えても日本人であることに間違いないと思われた。その内容とは、
「日本軍が南方の○○島で全滅した。飛行機を何機も墜落した」また、日本国民につぐ
「日本はもはや勝利する見込みはない。一日も早く休戦を受諾すべきである」といったようなものであった。
こんなことを、誰かに話をすれば、必ず憲兵により、自分の身に危険が及ぶことは言うまでもない。
もちろん、職員間は安心であったが、
「この放送を聞いてみろ」
くらいは言ったが、声を出して話をすれば、誰が聞いているかわからない。二週間の勤務は飛行場での宿直であるから、その間は家に近くても帰れない。掃除をしたり、洗濯をしたりして二週間目に交替をする。
奉天に勤務となったころから、日本が占領していた、太平洋諸島が、次々と、米軍に奪回され、フィリピン、沖縄まで連合軍の手中に落ち、翌年には、日本の本土まで、空襲を受ける状態であった。
この飛行場に、どれだけの飛行機と軍人がいたか、私達には、解らなかったが、少年航空飛行隊出身の十六歳〜十七歳の若者達が、戦闘のため、毎日のように、台湾、フィリピン方面へ飛び立って行った。
観象台の任務は、中国と朝鮮の国境に聳える、長白山付近の予報を特に重視して、朝鮮、九州、沖縄、台湾の気象情報を、航空隊に提供することが任務であり、定時の予報は、言うまでもなく、あるときは、一時間おきに、天気図を航空隊にもって行きました。
少年航空隊の人達は、優秀な人材が多く、私より三才〜四才若いのに、航空中尉、少尉の肩書きをもつ軍人であり、戦死を覚悟した、悲壮な思いをしている、少年ばかりであって気楽に声も、かけられなかったが、いよいよ南方へ飛びたつこととなると、私達の出張所を訪れ、
「お世話になりました。祖国のために発ちます」と、挨拶に来られ、別れの、水杯を交わして飛び立っていった。
職務の関係もあって、無線通信を傍受できましたので、それを聞きながら
「いま長白山脈を越えました」
「九州を過ぎた」
「沖縄上陸です」と
まもなく、台湾に到着かと、無事を祈りながら、受信している、無線係の声を聞いて、いたが、何故か、沖縄を過ぎると、通信が途絶えてしまった。
無線の係が慌しく、受信機を、操作していましたが、ついに受信することは、できなかった。確かな証拠はないが、沖縄か、台湾近くで、空中戦があり、互いに、撃墜をしたのでは、ないかと思われます。と伝えられた。
こうして、毎日五〜六機が、敵機撃墜のために、戦場に向い、東シナ海や、太平洋に、尊い生命を失ったのです。
出発に際し、何県出身の、何某と名乗ることもなく、ひたすら、祖国のため、
「天皇陛下万歳」と
叫びながら、心には、お母さんをはじめ、父兄妹のことを思い、再び、生きて帰る、ことがない事を知りながら、飛びたって行ったのです。
(五)
赴任した年の晩秋に、徴兵検査があり、第二乙種合格と申し渡された。
第二乙種合格が、合格に入ることは、五〜六年前なら、恥ずかしい、宣告だった。
身長百六十米、体重五十二粁、視力0.6。これでは、第二乙種合格と言われても、やむを得なかった。それでも後日、兵役に、服するよう通知を受取った。
戦況が、悪化して来たので、男は根こそぎ動員された時代であったから、歳末となり、正月を過ぎたころ、海拉系の工兵隊に、三月に入隊することが決まった。
海拉系とは、思いもよらない地、北満の大興安嶺を越えた、ホロバイルの地方である。
入隊すれば、生きて、帰れるとは、思えない。内地には、再び帰れない。故郷の父は、いま何をしているのだろうか。雪の降る、白銀を、敷きつめた田舎で、
最愛の妻である、私の母を亡くして、すでに、十年以上を経ている。話し相手もなく、納屋に入って、稲藁の仕事を、もくもくと、続けていることと思う。ここ
奉天は、幸いに、寒さは、厳しいが雪が降らない。雪国の北陸は、別の意味でのつらさがある。
そんな、ことを思う日が続いた。後半年か二年位の命かと思うとやるせない。
酒を飲みたいと思っても、買うことはできない。ビール・酒・ウィスキー等は、いつの間にか、街から、消えてしまった。探しても、ない。食糧不足で、配給制度の世相、酒類を、飲みたいと思うことが、不謹慎なのである。
中国人街に出かけると、闇値で売っている。それも、手に入れるには、尋常ではない。しかも高価である。
何とか、それらしい、ものを買って来て、飲んだこともあった。いま思うと、随分乱暴な、ことをしたものだ。或る日、あやしい酒を飲んだ。アルコールばか
りの酒だったようだ。二〜三日、声がでない日が続いた。失敗したと後悔したが、もう取り返しができない。憂鬱な気分で、過したが、幸い三日目くらいから、
声が出るようになり安心した。
もうこれから、先はない人生だと、なげやりになったような、空間があった。
それでも、翌日からの勤務は、真面目に勤めた。いささかの抵抗も、この程度だったのだろう。うまれつきの、小心者で、あったからだろう。
職場に、章氏さんという、姉妹があられた。姉の方は、私より二歳位、年下だったと思う。妹の方は、姉より、一歳位異いの年令であった。
台湾の出身で、生まれは、台湾か、広島かわからないが、両親と広島で、育ち広島の高等女学校を卒業して、両親の職場の関係で、奉天に来られたとのこと。奉天に来て、まだ日が浅かった。一年か二年位の奉天生活だったと思う。
父親は、開業医をしておられた。場所は、わからない。
姉妹は、観測科に勤務しておられた。夜間の勤務はなく、観測値の整理をする業務であった。
気象の業務は、長年の統計が必要で、いろいろの角度から、資料を整理して、おかなければならない、重要な業務である。
二人は、いつも一緒で、仲の良い、姉妹であった。
台湾といえば、北緯二四度位で島国であり、奉天は、北緯四二度位で大陸である。
気候は全く違う、暖地と寒地帯で、奉天の生活は、自然条件だけを見ても、大変だったと思われる。
台湾は、十六世紀に、ポルトガル人に発見され、「美しい島」と呼称され、オランダ、スペイン人が、一部を支配していて、欧州での呼び名であった。
17世紀末に、中国の行政が及び、清朝に属し、大陸から、移住するものが多くなり、在来の高砂族が、漢民族に圧せられていった。十九世紀末(1895
年)に、日清戦争の結果、日本の統治時代に入った。植民地政策に対し、民族解放運動が起り、きびしい弾圧が行われ、住民の自治は、ゆるされなかった。
私の友人の父親が、台湾で道路の建設等に携わっておられた。彼は終戦直前まで、台湾で過した。彼の父は、台湾で、大変な困難に遭遇し、一時、ノイローゼ
になられたという。現地人と、充分な相談をして進めようと、よく家に遊びに来ていた・・・・ことを思い出す。それが、軍部の気に入らず、悩み、体をこわし
て、終戦の前年に他界されたとのこと。また、別の友人の父親が、台湾精糖に勤めていて、台湾での、学校生活だったと・・・なつかしそうに話していた。
このように、台湾の統治時代に、多くの日本人が、台湾総統府関係や、企業に勤務していた。台湾との関係は、私達の年令の者には親しい、兄弟のように思えた。
日本の満洲大陸進出も盛んになり、章氏さんの両親も、医師として、新天地で、医療活動に夢をはせておられたことと思う。
章氏さん姉妹とは、特別な感情が、あったのかわからない。姉の名前は忘れたが、妹は「イシュウ」と言った。漢字は残念ながら、正確な字は思い出せない。
休日には、千代田公園や、北陵の森を、良く散歩した。何を話しあったかわからないが、散歩中、話題が切れることはなかった。初めのうちは、姉妹と三人のときが、多かったが、いつの間にか、妹と二人で散歩するようになった。
話題は、日頃の出来事くらいだった。三月になれば、入隊することが決まっていた。海拉尓の工兵隊、生きて帰れることは、先ず、ないはずだ。
かなしい思いをさせては、いけないと、心に誓っていた。
三月に入って、入隊が近づいた或る日、「これを身につけて下さい。武運を祈ります」と
入隊する、二日位前、姉妹から、思ってもいなかった、「千人針」を戴いた。
入隊する日の朝、奉天駅に、数人の友人が送りに来てくれていたが、章氏さん、姉妹の姿は見えなかった。
三月二十日、海拉尓の工兵第一一九連隊に入隊した。
九月上旬、シベリアに抑留される。
東清鉄道の満洲里をすぎ、チターに着いた。チターで、入浴する休息となった。
長途の休息といえば、聞こえが良いが、実は蚤や南京虫を駆除することが、主な目的であった。高温で殺虫する方法であった。その間、約二時間位、その間に、シャワー室で、体を洗う入浴であった。
そのときまで、大事に身につけて来た、章氏さんから戴いた、「千人針」を取り上げてしまった。お守りだったのに、以降、二度と身につけることはできなかった。
ここで、特に、章氏さんのことを書くのは、日本人以外は、すでに、日本の敗戦が、予測されていたときであったと思う。街では、中国人や朝鮮人、ロシア人
から、街の噂に、なっていた。私をはじめ、日本人は信ずる、者はなかったが、或いは、万一という、不信が一瞬頭をよぎったことも事実であった。こんな巷
で、「千人針の布を持ち」街頭に立って、
「お願いします」と呼びかけ、一針、一針と募っていたのだろう。
敗戦後、関東軍や、偽満州国家に協力した、中国人の多くは、処刑されたという。
もしも、「千人針」を縫っていたということで、日本軍に、多少でも協力した、ということで、処罰を受けたのでは、ないだろうか。
もし、そうであったとすれば、私の武運のために、彼女達の運命が狂い、以後、想像もできない、苦難の途を歩んだのではなかろうか。或は、現在、どこかで、生存しておられるのではないだろうか。
幸いにも、現存されておられても、五十数年の長い間、不遇に過されたのでは、なかろうかと思うと、胸が痛み、いても、立っても、おられない心境である。
たずね人で、尋ねてみても、日本国内に居られるとは思えない。中国か、台湾に健在であればと願っている。
日本の敗戦時の忌まわしい、出来事も、忘れたく、思い出したくない、と思う。
心のなかに、じっと、しまっておくことが彼女に対しても、一番幸せなのでは、なかろうか。
どこの地におられるか、知らないが、幸せに立派に、生きておられることを願っている。
懐遠人
故園首夏歩池頭・・・故園瀋陽(旧奉天)の千代田公園、初夏の千代田公園、池のほとりを三人で歩く
昔日菖蒲花影幽・・・その頃、章氏(台湾出身)姉妹と
秋潦烈風鴻爪散・・・八月九日、ソ連軍侵攻で15日敗戦となる
枯栄何処邈難捜・・・夜はつり変り、姉妹は何処に又健在かと思えど、捜すことは、はるかに遠い、残念
瀋陽懐古
昭福両陵千古心・・・昭-昭陵(北陵)、福-福陵(東陵)
城門城郭欲来尋
瀋陽駅舎黄昏雨
一夢追懐歳月
(六)
新しく生まれ変った、北瀋陽駅
半世紀前にこの駅と駅付近のことは知りません。一度も行ったことがないからです。十年前はどうだったのか、開放政策によって、一変したのだろうと想像します。
駅前の広場に出た。駅前らしく整備され、広々とした感じになっており、その向うには道幅もゆったりとした、道路が左右に通じており、車も頻繁に通り、駅前らしい光景は、さすがに、東北部第一の都市らしい活況を呈していた。
半世紀前にみた、奉天駅(現瀋陽駅)は、ロシア人が建てた駅とのことで、奉天では、ハルピンや、大連のように、ロシア人の建築は珍しくなかった。
駅前から、中国旅行社のバスに乗り、北陵に着いた。
北陵は市街地の北のはずれにあり、清朝第2代の皇帝、太宗ホンタイチとその皇后を祀った陸墓でぁつて、瀋陽の観光地となっている。
北陵は、前にも書いたように、忘れない地である。正面からみた北陵は、五十年前とはほとんど変わっていないようにみえた。今は観光地となっているので、入場料を払わなければならない。団体のため、まとめて払っていたので、幾らかわからない。陵内は昔のままである。
ただ、建造物は破損したところがあり、貴重な歴史遺産であるから、修繕して、後世に残せればと思う。翌日、訪れた、東陵、正式には福陵というが、この陵墓も、いたみが目立った。土曜日でもあり、天気も良かったこともあわせ、観光客で賑わい、家族連れが目立った。
北陵に向って、石間の前、右に人工湖が造られ、左に田中元首相が、一九七二年国交正常化の記念として、五百本の松や桜が植樹されている(NHK新中国取
材記)とのことであったが、その「友諠之樹」は見学できなかったのが残念である。あれから二十年相当大きくなり、今年も桜が見事に咲いたことと思う。
北陵を後にして、瀋陽駅の近くのホテルに到着した。
ホテルは、中山飯店という高層ビルで、一行は十九階に二日間宿泊した。観光を終えて専用バスで街頭に繰出して、夕食は中国料理の専門の店で、皆で乾杯をしながら一時をすごす。
ホテルに帰ったところ、南陵会事務局の庄司照雄氏から連絡されていて、新京時代の季一心氏が長男と娘婿を連れて、ホテルに訪れてくれました。五十年ぶりの面会に肩を抱いて歓びあいました。
ホテルロビーにおいて歓迎し、記念撮影をし、懇談に花を咲かせました。
和達清夫先生のメッセージをお渡しして、又同氏と同期生だった、杉浦弘氏が体調を崩して、参加できなかったことを知らせました。
記憶の良い、季先輩は、当時の人達の消息を尋ねられ、知る範囲のことを伝えたところ、数名の方々の名前を思い出されて、「皆様によろしく」とのこと。しかも一行の全員に中華の菓子を土産に戴き恐縮しました。
先輩の心づかい誠に有難いものがあった。季先輩は82才(この日)の高齢で、ゲートボールを楽しんでおられるとのこと。
100キロを越えるかとも思われる体格、将に中国の大人の風格であったと、矢吹氏は「旅を終えて」に書いていた。
季一心さんは、1942年九月に気象技術官養成所を卒業され、中央(新京)の観測課に勤務されていた。いま、中国人として、唯一人南嶺会の会員になって
おられる。敗戦後は瀋陽の気象局にも勤務されて、気象業務に携われた先輩である。すでに、各種の要職を離れられておられた。
6日朝食後、出発までの間各人自由に行動する時間があった。四〜五人で隣接のデパートを見学した。その間約一時間、品物も豊富であったが、価格は日本とあまり変らない。日曜日であっても、朝から買い物客で、にぎわっていた。
デパートを出て、ホテルに帰るとき、あちこちで闇の外貨を交換している人に逢う。
一万円、一万円といってよって来た。九百九百という。一万円で900元と両替するとのこと。これには驚いた。随分得な話であるが、交換する気にはならない。万一偽札だとどうなるかと思うと、簡単には話にのれない。
十時に故宮を見学する。瀋陽の故宮は、太祖、太宗の二代、十九年間、北京に遷都するまで皇居とした所で、建築様式は、満洲王朝独自のものを保っていて興味深い。
訪れたとき、丁度、大政殿が補修中であって、完成すれば、中に入って、見学できるとのことであったが残念であり、またの機会に望みを託すこととする。
五十年前、二〜三度、故宮をおとづれたことがったが、今日のように開放されていなかったと思う。故宮内を観覧したことはなかった。
約六万平方米の敷地内には、当時を、しのばせる遺産が目を楽しませてくれた。
東陵は、市街の東北十一粁の所にあり、前の渾河と、後の天桂山の自然の地形を利用して造営された。清の太祖と皇帝の陸陵である,周囲の環境は森閑としており、陵内も、入口から樹木が繁り、奥に北陵と似た、朱色建物が、緑り濃い光景に浮かびあがっていた。
東陵は遠く、昔訪ねたことはなかった。今はバスで訪れる人も多かった。東陵もまた、北陵より破損が進んでいるように見えた。
中医院を見学して、夕刻近く、中山公園に着いたが、晴れていた空も曇り、雨となった。ここが、千代田公園で、この一角に奉天管区観象台があった。ガイドさんは、
「下車しますか」といわれたが、雨が降っており、予定より遅くなったこともあって、降りようという人はいなかった。それだけではないかも知れない。奉天に
勤務したことのあるのは、私一人でぁつて、矢吹氏も、数日間、滞在したことがあったようだが、風向、風速計も見えず、建物もない。
雨でも降っていなければ、私一人でも降りて、思い出の「千代田公園」を、歩いてみたかったが、他の人達に、うながされ、降車をあきらめた。止むを得ない。もう一度訪ねたい所である。
七日朝、北瀋陽駅を離れ、午後三時三十分発長春に向った。
「満洲事変」の発端となった、柳条湖は近くにあるはずだが、中国人のガイドさんも、一行の者も「柳条湖」の話題はでなかった。ここに「不忘"九・一八"牢記血泪仇」と大書された碑がたっているはずである。
瀋陽懐古
昭福両陵千古心・・・侵 昭・・・昭陵(北陵) 福・・・福陵(東陵)
城門城郭欲来尋
瀋陽駅舎黄昏雨
一夢追懐歳月深
いま一つ、書きたいのは、旧満鉄が誇った"快々的"大陸特急アジア号だった。広漠とした大平原を、驀進する、最新流線型特別列車で、1934年11月大連から新京までの700粁 を八時間半で、展望車を含む六両の客車に冷房をまで備えられていた。その後、ハルピンまで延長された。私も奉天−新京間に往復でこの列車に乗ったが、何 時、何の用件で乗車したか記憶はないが、一等客車、展望一等客車、二等客車、食堂車、三等客車があった。乗車したのは言うまでもなく三等客車、それでもア ジア号に乗車できた、喜びと、快適な気分にしたったことだけは、忘れない。
城内
東西南北に大小2問8城門
鼓楼門の上に3層の門楼
宮殿を中心に井型をつくる
城門を結ぶ城郭 中が城内
清朝初期かそる以前の建造か
半世紀まえ支配した時代
城内に入るのが楽しく、恐く
故宮清朝の栄光を偲ぶ
城郭に穴、幼児を置くため
捨てる人あり、育てる人あり
子の幸せを願い去る辛さ
持ち去る人、遥かに神とみる
大北門 日本軍入場する写真
忘れたい城門 城郭
文化大革命のとき壊された
悪夢が去る、偉大な遺産を失う
北陵
瀋陽 北の郊外に昭陵あり
清朝第2代皇帝を祀る陵墓
参道に石人 石獣
後方に鬱蒼とした広大な松林
松林の奥 東のはずれに飛行場
飛行機雲が南北に一直線
少年航空隊十八才の士官候補生
沖縄 台湾に向う
長白山 朝鮮 九州 沖縄
東支那海 台湾 フィリピン
気象情報を彼らに伝える
高気圧に覆われ天気晴れ
長白山上空を通過 京城付近
朝鮮半島を経て九州 天気よし
沖縄で通信途絶える
無線係懸命に電波を探す
空中戦 若き命は大空に散る
祖国の父母兄妹何を想う
いま昭陵の参道にたつ
飛行場を知る人はない
正紅門や隆恩門等風格ある建築
園内の松や草鳥は変らず
訪れる人も多く 笑顔が満ち
初夏の休日 親子団らん心慰む
森の奥の閑村で
北陵を過ぎ 飛行場を後にして
草原に数戸の農家あり
道もなく下水溝のような小川
村はずれに薄暗い小屋
老人、壮年か数人快談中
駿馬は鼻先に人参ぶら下げ
只もくもくと粉を曳く
植民地の戦時下は他国のこと
千代田公園
千代田公園いま中山公園
バスが着いたとき雨だった
五十年前、一隅に奉天管区観象台
ガイドさんは移転先を知らない
跡地でも確かめたいと思う
傘はなく、下車する人もない
極寒0時真暗闇に観測する
露場から屋上駆け天空を見
寒さ身にしみ手はかじかむ
寸時も許されず電報を打つ
バスから見る草木は昔のまま
行きかう人は今の人
44年暮れ 煙霧あるが視界良
高層気象観測の気球を追う
突然 B29数機南から北え
何の抵抗もなく大空は我の者
数状の飛行機雲鮮やか
暫し唖然と空を見る
章氏さんのこと
章氏さんという姉妹
台湾出身の人
子供の頃から広島に住み
幼な馴染みも、学友も
仕事の関係で奉天に
父は医師と聞く
教養もあり美人だった
千代田公園を妹と散歩した
妹の名はイシュウと呼んだ
千人針を戴き駅で別れる
他民族だった章氏さんは
何処に、生死も解らず
敗戦で罪のないあの人は
邦人よりも苦難な道か!
中山公園に着く
突然驟雨あう
一角に聳えた観象台もなく
暮雨、園内は見えず
過ぎて五十年錦書もかけず
1993年6月6日
5.ハルピンー哈尓浜.
(一)
九日、八時40分、長春始発のハルピン行きに乗車する。
長春を過ぎると、車窓からの眺めは、一変して見えた。遥かに見える道路は、整備されており、道路の両側に、カラ松、赤松、楡の木などの並木は、緑滴る見
事な風景であった。大連-円東間を思い出す。さらに一変したと思われるのは、牛や馬、羊などの放牧が目立ち、畑が多く、水田はあまり見当たらない。
松花江の支流が、縦横に流れていて、湿地帯も多い。あちこちに沼があり、何種類かの川魚が獲れている様に見えた。修学旅行のとき、五常開拓団に向う途中に遭遇したときを思い出す。
途中に陶頼昭という駅があり、この街の観象台に、永沼明さんが、四三年(昭和十八年)に所長として勤務されておられた。関東地区の南嶺会で何度もお目に
かかった、大先輩である。この旅行に参加したいと心に思っておられたと思うが、何分にも、81歳になられたご高齢であったから、参加されなかったのではと
思い、駅を通過するのを待ち、カメラのシャッターを、後日お逢いして差し上げた。
正午少し過ぎて、ハルピン駅に着いた。
修学旅行で五常の開拓団の方々に送られてハルピンに、何の役にもたたないばかりか、手足まといになった私達を親切にして下さったばかりでなく、駅まで送って戴いた。
約三時間で北満の南都、ハルピンに着いた。北のパリ-と呼ばれた北満の中心都市の街である。
(四)
十九世紀末まで、ひなびた一漁村にすぎなかったが、ロシアが、東清鉄道を敷設して、極東への進出拠点の地として、ロシア人が創り上げた都市である。その
後、ロシア革命で、赤軍に追われた、白系ロシア人たちは、黒龍江を渡り、必死に国境を越えて、たどりついた安住の地が、ハルピンであり、また北満の地で
あった。それだけに、ギリシア正教の円形ドームの建築物が、樹林の中に、多く見られた。
初めてみた、異国の都市が、ハルピンであったから、異国情緒の風景が、特に印象に残った街である。
この日は、特に、自由外室がゆるされた。何が、おこるかわからない異国である。先生から、
「必ず、四〜五人で行動するように」と
厳しく注意を受けた。
日本の植民地的な支配は濃厚であったから、治安は平定していたが、注意するに越したことはなく、修学旅行ともなれば、当然のことである。
幸い、同郷の小島さんという方の案内で、友人4人と街の中を、珍らしさのあまり歩き回った。
ハルピンはロシア人が多い。中国人が多いのはあたり前であるが、蒙古人、日本人に朝鮮人が、混じって歩いているのも、さすが、国際都市だったと思った。
最も繁華街は、キタイスカヤ通りであった。この通りの、レストランで、小島さんに、歓迎のロシア料理を、御馳走になった。
はじめて、洋食というものを、食べたことを思い出す。フォークとスプンで、食べ方まで教えてもらった。珍しさと、とても美味しかった。友人もみな、満足して、小時間を過し、旅館に帰る時間になったので、小島さんに、お礼を言って別れた。
小島さんという方は、私より十歳位の年長で、この方の弟さんとは、小学校の同級である。私の生まれた集落の出身で、軍属として、ハルピンに来ておられた。
私の生まれ、育った近くの街、金沢と比べものにならない。金沢にも、香林坊から片町という、繁華街がある。田舎者には、華やかな街並みである。
学校では、不良化防止のため、県下の中等学校で「教護連盟」という組織があって、香林坊の映画館あたりを歩いていると注意され、翌日、学校で呼ばれ、訓告を受ける。二回〜三回と重なると、退学処分になるという、厳しいものであった。
気が小さくて、香林坊や片町を歩いたが、映画館が並んでいる場所へは行かなかった。
友人の中には、「訓告を受けた」ことを、多少自慢げに話した者もいた。その彼らも、二度と訓告を受けたという話は聞いたことがない。
年間に全校生徒の中で、一人や二人、退学処分になったということを耳にした。キタイスカヤとは、そんな雰囲気のする街であった。
翌日、松花江に行く.太陽島という、中州がある。はじめは、何う岸かと思っていたが、島だという案内で、さすが、大河、松花江だと驚いた。
大きな、観光船や帆船が行き来し、活況を呈してた。
後日、中央観象台に在職中の冬、ハルピンに出張したことがある。
松花江で、ロシア正教の洗礼祭が、行われるというので、行ってみた。
多ぜいの人で賑わっていた。松花江の氷を割り、そこで洗礼を受ける。人ごみで、このお祭りの神事を見ることはできなかった。
氷の厚さも、二米以上もあり、気温は、日中でも零下二十度食らいはると思う条件で、川に入り、洗礼を受けるのだから、宗教を信ずる人の心は、はかり知れない。
松花江は氷海である。川の上を荷馬車等が通う。交通の要路となる。又氷を割って水を汲みとり、桶に入れて、荷馬車で運んで、街を売りに行く。水売りの商売である。
松花江は、夏と冬の、二つの顔がある。夏は大平原の向うに、緑と紅や黄など、花盛りの島に、白い鳥が飛ぶ。冬は銀白の大平原に変り、静寂の中に、馬車の軋む音が響き、雲一つない大地に、樹氷の花が咲き乱れる。
白系ロシア人の娘さんは、八頭美人で、毛皮のコートを着て、街を颯爽と歩いている姿は、冬の白百合である。
それが、歳を重ねると、セメント樽のような肥満体になる。シベリア抑留のとき見た、風景と同じである。
街では、毛皮屋が多い、値段の方は、わからないが、毛皮を着た、ロシア人や日本人女性は良く見かける。
中国人等は、毛皮を着た人も散見されたが、多くの人は綿の入った、部厚い物を着て、両手を交互に、袖に入れて防寒帽の囲りが、真白に氷っていて、サンタクロースを思わせる。
冬の街を歩くのには、細心の注意がいる。道路の氷ったところが、所々にあり、危い。従来から住んでいる人達は、すいすいと歩いているのに比べ、日本人は恐る、恐る歩いているのが対照的である。
夏は松花には、水着の花が咲く。中州に太陽島が浮かぶ。太陽島は、白系ロシア人の別荘地であった。川向うに、緑豊かな地があり、個性の豊かな建物が、屋根の黄色、白い壁が、樹の緑と調和して、リゾートらしい、雰囲気をただよわせていた。
(二)
ハルピン駅は、1909年(明治39年)十月二十六日、伊藤博文が暗殺された駅であることを思い出す。資料によると、伊藤博文は、満洲進出について、
「満洲は決して、わが国の属地ではない。純然たる清国の領土である。」と軍部を批判した(満洲の誕生)より・・・・とある。
伊藤博文は民主主義的な憲法の草案を作成し、大日本帝国憲法を制定した人だが、韓国総監として日韓併合を推進した。その10ヶ月後の1910年八月22日日韓併合が成立した。
もし、゜事件の凶器が30糎でも離れていたら、あの事件は忘れ去られていただろう。
十九世紀末、バイカル湖畔のイルクーツクから、極東軍港のウラジオストックまでの近道として、東清鉄道を敷設するまでは、松花江の一漁村にすぎなかった。その証拠に、ハルピンは満洲語で「網干し場」の意味になる。ロシア人により建設された町である。
伊藤博文は民主主義的な憲法の草案を作成し、大日本帝国憲法を制定した人だが、韓国総統として、日韓併合を推進したため、韓国青年、安重根によって暗殺
された。その10ヶ月後の1910年八月22日日韓併合が成立した。もし、満洲侵略が、或は変っていたかも知れないとも思う。しかし、軍部が実権を握って
いた。次第に権力が増大して言った。当時を思うと、何と考えてよいのかわからない。
この駅もまた、長春駅と同じく、改装中で会った。翌日、チチハルに向うとき、一人五元の駅建設協力費を支払った。これもまた、一つの方法かも知れないと思う。
ハルピンは、修学旅行のとき、出張したときの、僅か、二度訪れた程度で、それ程深い印象もない。駅前の大通りを、少し行ったところに、中央寺院があり、この附近に、噲尓浜地方観象台があった思う。何処かへ、移転したらしく見当たらない。
昼食をもって、松花江に遊覧に行く。流れは、まばゆい程光り、川幅は500米位らしいが、中州の太陽島は海上に浮かんでいた。出張で訪れたときは、寒さ
と時間の関係で、充分観察しなかったのだ。江面は、厚い氷に、覆われて、氷上を自由にゆききできる、氷厚であった。水量は豊富に感じられたが、意外と少な
い。錯覚だったのか、ハルピンは夏場に降水量が多い。七月、八月の二ヶ月で、250糎(理科年表)年間の降水量の約50%を示している。時々、水害に見舞
われてた、こともあったと聞く。敗戦後も洪水に苦しみ、その後堅固な堤防が築かれたので、少量が少く感じたのかとも思う。また、四月、五月の降水量は年間
の約10%弱であることから、六月の水量は少ないのか、松花江は、やはり、満々とした、豊かで悠揚と流れる大河が頭にうかぶ。
岸辺には、まだ六月というのに、水浴を楽しむ、若い男女や、子供連れの団欒のかたまりが、初夏のスンガリー(松花江)を飾っていた。平日にしては多い。
私達の遊覧船の近くを、一人が太鼓を叩き、十一名の若者が裸で、櫂を漕いで、過ぎ去った。ボート競技の練習なのか。太鼓役の隣りで、ビデオを撮っていた。
太陽島は、労働者の保養地として、また療養所となっているという。
船上から見た、太陽島の岸にも、多くの人々が楽しんでいた。紅、白、黄などの花が咲き乱れているように見え、市民の楽園であった。
一行の一人、佐藤義爾さんは、実兄が、松花江で亡くなられた。敗戦前であるから、五十年はすぎている。佐藤さんの今回の旅は、実兄の「供養」と新潟駅前で、中華料理店を営んでいる「中国人の友人の親族に逢う」という、大きな目的があって参加したとのこと。
駅から、松花江に来るまで、花を売っている店を捜したがない。今でも松遼の地には、生花が売られていない。上海や北京では、どうか解らないが、時々日本
で、中国物産展がデパート等で開かれることがあるが、造花を見かけるが、生花はない。ここでも、結局、花は買えず、造花を持って船に乗った。
佐藤氏は、本場新潟の地酒を何本か持って、来た理由がわかった。
船の上から、生花とお酒を捧げ「般若心経」のお経を唱え合掌した。しばしの静黙が刻まれた。
すぐ近くの川下に、斉々合尓方面に行く列車が、頭上の橋を渡って行った。
遊覧船を降りる。江岸の公園には、旅行客を相手にした露店が並んでいた。なつかしい、ヒマワリの種、カボチャの種など、昔と同じように、大きな麻布に一杯つめて、「買わないか」とよって来た。長春の南嶺で、買って食べた。昔を思い出す、
中央大街に行く。昔のオクイスカヤ街通りである。石畳の通りで、かつてのハルピン一の繁華街である。新華書店の前を歩いた。昔の松浦洋行という建物だっ
たらしい。夕方には、大変な人通りで、ロシア人、中国人、朝鮮人、日本人などで賑わっていた。かつての面影も薄れ、ロシア人も、日本人もいない、静かな街
になっていた。それでも、かつての繁華街の名残をとどめていた。夜になれば、もう少し、賑やかになるのかも知れない。
敗戦後、ハルピンをはじめ、北の地には、多くの白系ロシア人が居住していたが、「1937年(昭和十二年)九月二十日、ソ連内蒙古人民委員(内相)エ
ジョフの名で「ハルピン人せん滅命令」が出されていたことが、近年明らかになった。エジョフは、スターリンのイエスマンである・・・・・・・四十五年八月
九日、ソ連軍は、満洲に侵攻、引揚げる時、日本人の捕虜と同じように、ハルピン人も多数連行していった。」・・・朝日新聞平成九年九月九日・・・抜粋」
満洲在住のロシア人は、日本の敗戦後、ソ連軍の侵攻による戦乱で、この人達は、一説によると、カナダやアメリカへ移住したと聞いた。祖国を革命で追わ
れ、ようやく安住の地を、この松遼の地に求めたと思うつかの間、再び追われる身となったのである。1917年の革命から三十年にも満たない、僅かな平和な
暮らしも、一瞬にして破られたのである。紅軍街の広場に、光塔が建っていた。ロシア正教の中央寺院は、文化大革命のとき、壊されたという。また、市街のい
たるところに建立されていた寺院、各寺院ごとに、その独特の特性の建造物となっていた。翌日、斉斉合尓に行く予定の時間が少しあった。ガイドさんに「ロシ
ア正教の寺院を見たいが、残っている教会はないのですか」と聞くと、しばらくして、考えてから、「それでは行ってみましょう」という返事だった。あまり自
身なさそうであったが、行ってみると、樹立の中に静かに二寺院が残っていた。写真を撮る。旅行を終えて、昔のハルピンの寺院の写真をみたが、該当する寺院
は見当たらなかった。ロシア人の墓地なのか、樹木で被われて、建立されていた。
日曜日には、少なった、在留のロシア人が、礼拝に来られる姿を見ることがあるとのことであった。
九日、市内で夕食をする。ウェイトレスに医学部の女学生がいた。彼女の話によると、アルバイトをすることに、何のこだわりもなく働いていた。勉強する時間があるのか、心配になったが、学生は、生活するために、働くのが普通のようであった。
十日朝、市内を観光する。極楽寺という、仏教の寺院に行く。残されている唯一の寺院であろう。平日だったが、参拝に来ておられる人が、意外に多かった。
共産党の国家になったが、文化大革命後は、宗教の自由も、認められるようになった,証拠だとも思う。日本の寺院のように、建物は歴史のある建造物とは思え
ない。止むを得ないことと思うが、宗教の自由が認められたことは、やはり、人間の心のよりどころとしている、宗教を、如何なる理由があるにせよ、権力で抹
殺することはできない。チチハルに出発する時間が、少しあったので、先のロシア正教の寺院に行く。
実兄を松花江で亡くした、佐藤さんは、朝出発前に、一行と別れて、新潟の友人の知人と行動を共にするため、ホテルで別れ、駅で待ち合わせる。また、ハルピンには、ロシア人、日本人等、外国人の養老院があると聞いた。
中国の老人に対する、保護政策は万全ではあると思えないが、老人に対する心配りをうかがえる。
ホテルの前が、市街の中央をはしる、中山通りで、道路の拡張する工事中で、混雑していたが、この道路が完成すると、すばらしい通りになることは、素人の私にもわかった。
ハルピンで「今日は、末尾が奇数ナンバーの車が、多いでしょう」と言われ、よく注意して見ると確かに間違いない。今日は六月九日で、奇数日のため、偶数
の車は、特別の許可がないと、運行できないことになっている。私達の小型のバスは偶数ナンバーだったので、許可書がついていた。
これは、自動車の数が、急に増えたため、その対応が遅れているからであろう。街を歩いていても、この事故に逢うかわからない。
怪我ぐらいの覚悟でないと、都市の道路は歩けない。それにしても不思議なことに、自動車による、死亡事故は皆無に近いとのことであった。確かに見ていて
も、大きな事故になるとは思えない。日本のように、毎日、車による死亡事故が絶えない現状を見ると、人命尊重の意味から、どちらがよいのか、解らない。こ
の都市も含め、瀋陽でも、長春でも車の混雑は変らず、私など、とても運転はできない。
小さな、十人乗り位の公共バスも運行されていたが、通過していくバスは、定員の二倍以上も乗っているようで、昼間なのに、朝夕の通勤時はどうなるのだろうと思う。
自動車は、ほとんど日本製のトヨタ、日産で統計的に調べたわけではないが、日本製の車以外は、20% 以下のように見受けられた。
また、犬の姿が路上には見えない。狂犬病発生の恐れから飼うことが禁止されているらしい。
松花江で思い出すのは、1943年の厳冬の頃、気象暗号書を届けてから、黒河地方観象台の分を、しっかり見につけて、松花に行ってみた。氷点下30度と
いうのに、大勢の人が集まっていた。白系ロシア人の人が、洗礼を受けているとのこと。ゆっくり見ても、おられなかったが、とても信じられない。宗教とは人
間の心も体も超越できるものなのかと不思議に思ったことがあった。
蛤尓浜街景
江心帆影感懐滋・・・・・・松花江には遠くに浮かんでいる帆船はますます深さを感ずる
街路露娘紅満枝・・・・・・街中にはロシアの娘たちは枝一ぱいに咲いているよう
物換車多消寺院・・・・・・世の中が変り、道路には車が多くなり、多くあった寺院の姿が見えない
旧街佳景憶風姿・・・・・・かつての街中はうつくしい。あの良かった景色を思い出す。
6.チチハルー斉々哈尓
(一)
十二時四十分、斉々蛤尓行に乗車する。軟座席のため、ゆっくりしていたが、硬座席は大変な人だ。日本の敗戦直後に似ている。シベリア抑留から帰国して、
舞鶴から金沢に帰るまでの列車の困難を思い浮かんだ。中国の人は乗車するのに、後ろから押しているのには、まさかと思った。円東-ハルピンまでの列車と
は、雲泥の差、旅をするのも、大変なことだ。私達は外国人として、軟座席をとることができたが、一般には、大変なことだろう。何か申し訳ない気がする。ハ
ルピンまでは、外国人も多少、乗車しているが、ハルピンを過ぎると異なっていた。おそらく、牡丹江や、徍木斯行も同じように込んでいるのかもしれない。何
しろ列車の本数が少ないようであった。
松花江の橋を渡って、しばらく行くと、見わたす限りの大平原で、ハルピンまでの風景と又異なっている。原野ばかり多く見られる。北の方は、土壌も悪く、
気候も厳しく、農作物に適していないのだろう。半世紀を過ぎた今も、こんな状況なのに、その土地に、開拓団が多く入植していたのだから(開拓暖にれるが、
チチハルからさらに西、ハイラルから荷馬車にゆられて25K白系ロシア人、蒙古人さえ不毛の土地として放棄した土地に入植した人もいた(武装移民)よ
り)、当時の開拓団員の苦労は想像もつかない。国策のために、入植した人と、入植させられた人の心境は、どうだったのだろう。
牛、馬、豚などの家畜の放牧の風景も少なくなっていた。
そんな思いに、かられていると、突然、大平原に、小型クレーンのような、原油を採る小型ポンプが、シーソのように動いていた。その数は、わからないが、相当の数であった。車窓から見る光景は、中国東北の原野に突如と現われた、重工業都市のように見える。
精製と石油化学工業のコンビナートも発展しているとのこと、大慶油田である。パイプラインで大連港に達し、日本を始め各国に輸出している。総面積は公式
に明らかにされていないが、アメリカの一部の専門家の推測によれば、大体日本の四国くらいの大きさと考えれば、間違いないようである。(NHK新中国取材
記V)
かつての、浜洲線は、一度だけ、乗車したことがある。入隊するとき、希望よりも、不安な旅であった。この附近の風景も記憶にはない。ハルピンとチチハル
の中間位、安達からチチハルに向って、約三十K位に大慶駅があり、安達あたりも、原油採掘の地域に入っている。忽然と現われた、原油の基地は、油井が発見
されて、三十五年、近代化計画によって成長発展したのである。途中下車をして見たかった都市であるが、それはかなえられるわけがない。
十七時半頃、斉々蛤尓(チチハル)に着いた。駅は、新、旧の二駅がある。旧駅は、ホテルも兼ねたステーションビルだったらしい。並んで新駅が完成していた。
斉々蛤尓は、半世紀前、観象台としては、北の中心的位置にあったから、管区観象台であって蛤尓浜(ハルピン)は斉々蛤尓管区に属していた。
チチハル→シベリア
武装解除
チチハルで約10日間
シベリアは貨物列車で
二段に急遽作られた
窓は1ヶ所、用便は
できない
長時間の輸送のため3ヶ所
で休憩・・・そのとき逃げた
人もあったが、即座に殺された
ノミやシラミがはっせいしたので
休息をして、マル肌かになる
熱風殺菌で、
そのとき、カクシていた私物は
すべて取り上げられた。
私も入隊時にもっていた
物を含め、すべて取り上げられた
兵隊の中には(ソ連の)時計を
一人で3-4ヶもっていた兵もいた。
斉々蛤尓に敗戦時に勤務していた、佐藤長治氏と梶原宇一郎氏にとっては、思い出の地である。着くなり、駅を見て懐かしそうで、当時のことが、脳裏を走ったことであろう。
私はまた、感怒して忘れられない都市である。武装解除され、敗戦を知った地である。約20日間、苦役として過したところである。
毎日が厳しい使役で、旧関東軍が蓄えていた、食糧と武器弾薬をソ連に輸送するため鉄道の沿線に集積する作業であった。
旧関東軍が、今後10年間、戦っても食糧と武器弾薬は心配ないと豪言していただけに、その量は想像以上のものであった。
大興安嶺に野営していた時も、訓練意外に地下倉庫の食糧、武器弾薬の整理に半分以上の時間をかけていた。この地下倉庫も、入口は全くわからず、僅か二米
四方位のものであったように思えた。地下深くは、大きな倉庫で、ここには驚く程の量があった。あの興安嶺の物資は恐らく発見されておらず、チチハルには
持って来れなかったと思う。
斉々蛤尓の使役は過酷なものであった。マンドリン(楽器の形をした連射式機関銃)を持った、ソ連兵が「ダワイ、ダワイ」と呼ぶ。空腹と疲労で体は動かない。若さだけが頼りであったが、連日休みもなく続けば、能率も上がらない。ソ連兵はそれをいら立って発する言葉である。
作業の途中で少し休むと、マンドリンで威嚇する。捕虜になっても、兵の階級は変らず、隊長が命令するだけである。下士官もまた、下士官らしい態度である。見習い兵は兵隊であった。おさえ切れない憤りがあっても、抵抗する手段もなく、ただ従うのみであった。
ソ連側も、捕虜の統制に、軍の組織である階級を利用するのが得策であったのだろう。抑留中も続いた。兵隊が一番の犠牲者であった。
早く作業が終れば「ダモイ」といって、日本に帰れると、これが彼らの唯一の甘言であった。
信ずるものもいなかったが、それでも僅かの望みをもっていた。
約20日間続いた、テントの生活、一張りに二十名位の雑魚寝である。寝返りなど出来ない。外に水道があったが水の出は悪く、顔も良く洗えない。ましてや
体を洗うことなど考えようもない。トイレは少し離れたところに、お粗末な囲いがあり、小さな穴があけてあるだけ、衛生状態は極めて悪い。食糧は三食であっ
たが、小さな食パン一切れと、スープといえば聞こえが良いが、何か分からない肉のだしだけで、具は何もない。これが食事であった。
テント生活の地は龍砂公園だったようだ。佐藤さんの話では当時より2倍位広くなったとのこと。この公園のどのあたりだったか、想像もつかない。
また、ソ連は物資が全くなかったのだろう。吾々の持っているもの、身に着けているもの、時計、万年筆、タバコ、安全かみそり、ライタ-‥らゆる物を没収
する。一日に二回〜三回、工夫して隠して持っていても、結局身ぐるみにとられてしまう。兵によっては、時計を二個も三個も腕に巻いて誇らしげに振る舞って
いた者も、これから寒さに向うのに外套まで剥がれた人もいたとか。もうすべて失う。
私のこと、シベリアに抑留金沢、満洲里を過ぎ、チター、イルクーツクで小休止となる。理由は、ノミ、シラミが発生して、その駆除が目的であった。入浴で
きる。嬉しかった。何ヶ月ぶりか。入浴時に衣類の熱殺虫である、この施設は、シベリアに送られた。因人のものであった。設備は決してよくなかったが、有難
かった。チターか、イルクーツク川からないが、入浴から帰って入隊以来身につけていた千人針がなくなっていた。没収された。何故かわからない。九日に入っ
て「タモイ」と言う。帰れる。早く帰って、父母兄弟の元気な顔が見られると喜び肩をたたいて喜んだ。ところが、どうもおかしい。あまり順調すぎる。あれだ
け敵対的であった、ソ連兵の行動が変ったからである。その危惧が真実となった。シベリアに移送されるという噂が流れ、それが事実となった。
旧観象台に着いたとき、引込線が入口の数米前に見えた。
この線が、ソ連に移送されるその日、昼頃無蓋貨車に積み込まれ、いよいよ西に向った出発する時が刻々とせまって来た。
もう覚悟していた。ソ連兵は「日本に帰れる」といっていたが、信ずるものは一人としていなかった。シベリアの地に抑留されることは知らされていてたが、なりゆきに従うしかなかった。
この時、列車の周りに、大勢の避難して来た邦人が乗っていた。まるで球場か、競馬場の大観衆の状態であった。貨車の上からみえた光景は、殆んど、婦人、
子供、老人である。何かを叫び、何かを訴え、何かを願っているのかわからない、悲壮な、呻き声だけが「ごうごう」と渦巻いている。人間の叫びではない。正
に地獄からの挽歌であった。
「助けて!!」
「兵隊さん。助けて!!」
「何処に行くのか、生きて帰って!!」
などと呼んでいたようであった。
われわれも、邦人の人から見れば、同朋を捨てた関東軍の一員だったのである。
救いの手を差しのべる、すべもない、運命だけが頭上に覆いかぶさっている。
列車が動き出すと、挽声が響き、はげしくなり、天を動かす、雷鳴が、怒涛のようであった。
列車は、西に向い、大興安嶺、ホロンバイルから、満洲里に向う、脳内の呻き声は、次第に消えたり、忽然と表れたり、夕日が差し込むはずが、貨車内では、それをも見られずむなしさ、悔しさが込み上げてきた。
何万人の方が居られたか解らないが、あの家多の飢民は、その後どうなられたのだろうか。
北満のチチハルから、何人の方が、故郷に引揚げられ、祖国の土をふみしめ、安住することができたであろう。
(二)
チチハルまで来ると、さすがに観光客は少ない。日本人は滅多に訪れることもないと思う、中国人の外、蒙古人も多い。オロチョン族、ロシア人も、民族のルツボの感がある。今まで、旅した都市よりも、また異なった都市であった。
成田を出発して、もう八日目、若い人でも六十歳を過ぎている、一団であるから、皆すっかり疲れている様子。私も同じである。何故か小雨も、パラパラ落ち
て来た。ホテルに入り小休止して、近くの湖浜飯店で夕食をとる。食事は、ここでも中国料理、いささか、食傷気味であるが、止むを得ない。一度くらい、中国
料理以外の食事をと思った。味噌汁に「タクワン」で、ご飯とは思ってもかなわないこと、せめて、ロシア料理か、蒙古料理がなかったのだろうか?
十一日、朝から小雨が降っていた。今回の旅は実にめぐまれていた。瀋陽と長春で、夕方に駿雨にあった以外は、好天にめぐまれた。小雨とはいえ、雨のなか
を街の観光にでかけるのも運がない。あきらめる、ただ、それ程降っていなかったので多少は安堵する。それに、チチハルは観光するところもなく、強いてあげ
ると、龍砂公園くらいである。私達はチチハルまで、足を伸ばしたのは、旧観象台がどうなっているか、見たかったのである。先ず目的の旧観象台のあったとこ
ろに行きたいが、ガイドさんには、何処にあったか、今も建物はそのまま残っているか、わからない。無理もない。一般の人には、観象台はそんなに感心はない
のか当然である。
佐藤長治氏は
「日南区商埠路六十六号です」とガイドさんに告げる。
「商埠路は今も、その名称であります」ということで、バスを走らせることとなった。商埠路に着く前に、毛沢東の銅像のある場所に、下車させられる。広場の前に、「工人文化宮」という建物があった。地図がないので、広場の名称は、わからない。ガイドさんから説明があったが、良く聞こえなかったこともあり、忘れてしまった。
ガイドさんは、旧観象台を探す気は、なかったようだったが、一行にしてみれば、旅行の第一の目的であったから、何とか探し出したい。佐藤氏に促され、商埠路に、バスを移動させた。遠いところではない。広場を出て、すぐ右に折れたところが、商埠路のはずだと、佐藤さんは言う。四百米-五百米走った、ところで車を止め、あたりを見回す。街路樹が、すっかり繁り、森の街となっていた。
「見当たらない。諦めて引き返すしかない」と残念に思っていた。そのとき、誰かか
「観象台が見えた」と呼ぶ。皆一斉に、其の方向に目をやる。樹間からはっきりと、風向、風速計に避雷針と、三本の櫓は、古ぼけた、建物の上に見えた。観象
台は、こういう目印があるから探し易い。誰も居なく、荒地となっていたので、各人歩いて建物の敷地内に入って、建物の方に進むと、やうやく、守衛さんがあ
らわれ
「ここからは入れません」と止められた。佐藤氏は昔は、「ここが正面だったのに」
「正面は向こう側です」
「どうして行くのですか」
「一度道路に出て、右の小路を入り、真っすぐ、進んで、十字路のところを、再度右折した、ところが入口正面です」
言われたとおりに、バスを進めたが、途中までで入れない。ここでバスを降り、歩いて旧観象台の、昔裏口だったが、いまは正面になっている所に出る。手前
に引込み線があった。ここで勤務したことのある、佐藤さん、梶原さんは、五十年ぶりの旧庁舎との対面である。回りの露場や官舎、機材倉庫は、当時の半分に
なっている、と二人が言う。それでも感無量だったようだ。
皆で、玄関前で記念写真を撮る。現在は、長春と同じい、気象機器の工場になっているらしい。工場の責任者も、暖かく迎えてくれたのには、二度感謝した。
今は、何の関係もない人達であったが、こんな形で迎えられるとは思いもよらなかった。しばらく、見とれていたが「謝謝」と礼をのべて、ここを去る。
手前の引込み線は、私がソ連に抑留されて、輸送されたときの、引込線だったのかと、一瞬、頭をよぎる。或は、この附近だったのかも知れない。斉斉蛤尓の駅から、乗せられたはずがないから、
龍砂公園に行く、市民の憩いの場となっている。
佐藤氏によると、公園面積も当時の二倍位に広くなったとのこと。この公園の、何故かで、武装解除され、約二十日間、野営をしたところだったと思う。定かではないが、斉斉蛤尓には外に公園もないし、別に想像できるところもないようだ。
古い黒ずんだ屋根、柱も朱色が濃い、グレーに変色していた、亭が園内にあった。かつて、遥かに見えた、寸刻、心を休ませてくれた、あの亭が、これなのだろうかと、想像しながら園内を散歩する。
「楡樹」「樹齢一百年以上」重点保護、千九百八十七年と標識が掛けてあった。古い公園なのだろう。古木を保存しようとする、意欲が窺える。赤いケシの花が、花壇に、北国の初夏を迎えたように咲いていた。
佐藤氏は、この公園で、過ぎし日、いわゆる「人民裁判」を実際に見たという。あまり語ろうとしなかった。何か心に深いものがあったのだろう。
まだ時間があるので、どこか市内を見ませうか、希望はありませんが・・・とのことで、
「孋江(ノンジャン)に行ってみましょぅ」ということで、孋江まで足をのばす。孋
江は、近くを流れる、松花江の支流である。江岸が公園になっていて、若い男女が楽しそうに、一時をすごしていた。ハルピンの松花江に比べれば、それ程の賑
わいはない。小雨も止んでいたとはいえ、好天でもないのに、バーベキューを楽しんでいる、小集団に逢った。短い、夏を大事に過そうとする北国の人々の思い
であろう。
斉斉蛤尓は観光するような所はないと、佐藤さんは言っておられたが、市内の様子、龍砂公園、孋江の民族が、その地域に適合した生活を楽しんで、対立や争いなどのない平和な街であるように感じ、それなりの意義ある街であった。
現在近隣を含めて、百二十万人の都市になっている。
(三)
佐藤さんが、「中国東北部の旅を終えて」に寄せられて、一部を抜粋し照合します。
斉斉蛤尓は、戦前、前後の二年、影と陽の両面の命をかけて暮らした厳しい激動の二年でもありま
した。あれから五十年、時は今半世紀、過去といふてもあまりにも長すぎる面影を偲び、まだ見ぬ夢と、これから見ようとする希望は三〇〇粁、四時四九分、ハ
ルピンより遠くもあり、近くもあった。
斉斉蛤尓(ハルピンと思う)を発車して、車窓に写る大草原を眺めながら、観象台は今どうなっているだろう。斉斉蛤尓のシンボル、斉斉蛤尓駅、市の中心部にその偉容(威容)を誇る龍江飯店、市民の憩いの場龍砂公園等、次々と浮ぶ過去の追憶、何から何まで、みな懐かしく思いてならない。・・・略・・・
斉斉蛤尓に近づくにつれて、農耕地は次第に荒れ、全くその姿は消えてしまった。
斉斉蛤尓は今、痩せこけた田舎街に転落し観象台は野ざらしに、崩れ落ちる赤い煉瓦を支える力もなく、その姿をさらけ出しているのではないか等、よからぬことを想像しながら地平線の一点を凝視し、只ぼんやり車窓を見つめていた。・・・略・・・列車は斉斉蛤尓駅に滑り込んだ。"お〜い、長さん斉斉蛤尓だよ"と二度三度大声で呼んでいた。私は複雑な思いで、列車の三段目のデッキステップを下りホームにボー然と立ち、駅やホーム周辺を見廻していた。
突然、"母ちゃんチチハルだよ〜"と精一杯の声を張り上げ何度も何度も、どなって、ホームの上を転げ廻って見たかった。すべて生気を失った狂人のように、家内に見せてやりたい。斉斉蛤尓病院で生まれた息子にも見せてやりたい。止めどもなく溢れる涙をじっとこらえていた。丁度もらい猫の子猫が暗い小箱の中から取り出され、明るい大きな部屋で、ちょとんとんしていたが、周囲の子供に驚いて部屋中を飛廻っている子猫のようである。
佐藤さん市内観光はどのようにしよう、と日吉団長とガイドさんが声をかけていたが、私(佐藤さん)には何の反応もなかった。
あァーそうですね。斉斉蛤尓は観光するようなところはないですよ・・・略・・・ホテルに直行した。ホテルは龍砂公園に接する観象台寄りで湖浜飯店でした。・・・略・・・観象台はね、日南区商埠頭路六十六号です。あ、商埠頭路今あります。と言う事で観象台は全く知らないようで゜した。・・・中略・・・
終戦後の八月二四日、五日の頃であろうか、ロスケが斉斉蛤尓に入場して間もない頃です。将校が突然軍用凩二台で観象台を訪れ、観象台を接収に来たと言う事で、神原台長、布村業務課長が大あわて、佐藤君通訳してくれよ"と課長命で観象台接収の通訳をした。
今から丁度1年前、ロスケの町奈勤穰図(ナラムト)観象所から転勤して来た私で、ナラムト時代ロスケ学校教師に、ロシア語を私事していたので通訳に当てたのだと思う。
接収はロスケ将校の高官が先頭に立ち、私の両側面と背後にピストルを当て、次々と接収して行った。三米位後に神
原台長、布村業務課長、以下職員が続いた。此の間、いろいろあったが、私にはとても長い時間に感じた。接収も無事終了し、庁舎玄関先で台長を先頭に二列横
隊に並び、兵士たちを見送る。私は台長に接収の終ったことを報告し、隊列の末尾に並んだ。突然その時、ロスケの将校が私を呼んだ。この車に乗るように命じ
た瞬間、困ったなぁ−と思った。先ず台長に、その旨の指示を仰いだが、台長は無言のまま返事は帰ってこない。まごまごしているとロスケにどやされるので、
"台長それでは行って参ります。家内、子供を宜しくお願いします"と一言残して車に乗った。職員の皆さんに見送られて、つれ去られたのであります。これか
ら先どうなるのか、私は勿論、職員の誰も知る由もない。勿論私は殺されることを覚悟していたのであります。四〜五百米走って将校に"どこに行くのですか?
"と尋ねた。将校は"電報電話局を接収するので通訳をしてもらいたいのだ"と云う。私はほっとした。
然し、家内、子供どんなにか心配していただろう。台長以下皆さんに大変心配かけた事、今更ながらお詫び申し上げたい。と云う事で夕刻までには接収も終
り、観象台玄関先まで送ってくれた。こんなことで、この電報電話局は私にとっては、思い出深い戦後の一コマであります。・・・略・・・露場や官舎、機材倉
庫など取り除かれ、庁舎も半分なくなり屋上と観測服だけ、そのシンボルだけが残り、みな失いかけていた。部隊の引込線も健在で、現役で働いていた。
足の踏み場もなく雑然とした中で、・・・略・・・
私達の同輩が、ここで共に働き、共に暮し、喜びも悲しみも、皆ここに宿っているのだ"お〜い、みんな、観象台見つけたョー"
満足感で力一杯"万歳"を叫びたかった。
その喜びを皆さんに報告したい。私は複雑な思いで一杯でした。
強烈な刺激がこみ上げてくる。赤い煉瓦の庁舎に駆け寄り、力なく頬ずり、溢れる涙を止めどなく、誰が見ていようと、全く関係がない。過ぎ去った五十年つ
て、こんなに懐かしいものか、戦前前後を合わせて守ったこの柵、感激と感動が次から次へと湧き出てくる。素晴らしい。素敵だ。何時までも、何時までもこの
夢を見続けたい、・・・以下略・・・
斉斉蛤尓を立つ予定は、十九時十一分と日程表になっていたが、五時間半も早い。昔は平青線と呼んでいたが、現在は何と呼ぶのだろう。四平と斉斉蛤尓を結ぶ幹線、この列車で大連に向う。
斉斉蛤尓
一七黎明敗卒身・・・・・八月十七日あけがた、戦いに負けた兵卒の身となる
過労飢渇嘗酸幸・・・・・連日の使役で過労、一辺のパンの食事、幸い苦しい日を約二十日後シベリアに抑留されチチハルを離れる
星移遊客漱龍昼・・・・・五十年の歳月は過ぎ、旅の客(私)は漱江(ノンジロン)、龍砂公園たち感無想
哄笑花陰風色新・・・・・大声で笑い、花の下で楽しむ市民の姿、ながめも、顔つきも面目は一新している。
何故こんなに早いのか」と予定時刻の変更したことに、不思議がった者もいたが、それ以上追求することもなく、ガイドさんの指示通りに従う。
さきにも、長春から蛤尓浜に向うとき、長春発十四時四十三分の予定が、朝八時四十分発で蛤尓浜に向った。このときは、六時間もの差があった。その結果、蛤尓浜は、充分観光できたが、長春の街を、もっと廻って見たかった。残念であり、心残りがしてならんない。ガイドさんにしてみれば、長春の観光も終ったと思ったのか、私共一行にしてみれば、かつての、あの街、この街は、今どうなっているのか。行っても見たかった。蛤尓浜から斉
斉蛤尓に向うときも、予定より十五分早かった。十分位の時刻の差は問題ではない。大陸的である。日本の鉄道の時間は正確すぎるのか。日本人的なのか。わか
らない。大陸を旅するとき、こんなものだろうと、大して気にもしなかった。いつの間にか、そんな気持ちになる。或は五十年前に過した、感覚がよぎったの
か?
軟座の寝台車が予約になっていたが、乗車間もなく
「軟座席は六名にして下さい」とガイドさん、あとの九名は、普通硬座寝台の方へ移動することとなる。
「軍の幹部の人が乗車することになったので、席をゆずってほしい・・・とのことであった。
私も、硬座寝台車の方へ移ることとなった。軟座の方は個室で、二段ベット四名、女性二名と男性四名の割り当てとなる。硬座の方は連続になっており、三段
ベットが向いあい、一般中国人と一緒である。通路は狭く、通路の窓側に折りたたみ式の椅子があった。勿論仮眠も出来ない。近距離の人が利用している。車内
は、雨が降っていて、窓を閉めてあったこともあって、むし暑かった。
それでも、幸いに、近くの中国人と話をしながらの旅ができた。負け惜しみではないが、かえって楽しい旅ができた。翌日、十一時四十二分、大連着の二十二時間弱の旅も、それ程、退屈しないで、いつの間にか過した。列車は、斉斉蛤尓−白城−四平−瀋陽−大連のコースをたどる。
乗車して間もなく、中国人と、どちらからともなく話を交す。
「あなた方は朝鮮人か?」
「いいえ、日本人です」
と答える。話がすすむ。六十歳を過ぎた、老人は、日本製の時計を見せながら、自慢そうであった。中国語を片言くらい話せる者もいて、又老人も、日本語が、
何とか解せる−こともあり、窓外の風景を語りあった。この位の年令の人では、昔の満州を知っているはずだが、何も話題にならなかった。この人は、四平で降
りるという。四平は真夜中に着く予定。列車は、白城、双遼を通過する。白城、双遼の両側は、内モンゴル自治区である。最近の情報によると、次第に砂漠化が
進んでいるとのことである。夕暮であったが、白城附近地帯のように見えた。土造りの家は壊され新しい家の建設が進んでいるようであった。作物も稔る。田園
地帯なのだろうと思う。途中下車して、歩いてみたかった。砂漠化が進んでいるとは、残念でならない。昔白城にも観象所があり、その西方には、索論観象所も
設けられていた。いまは、どうなっているのだろう。
白城を過ぎると、暮れはじめた。鉄道新聞を運ぶ人が来た。新聞をもらう。三日程、前のものである。ニュースらしい記事は少ない。地方の事情と鉄道のことが書いてあった。
別の親子が乗り込んできた。一歳半か二歳位の幼児、ヨチヨチ歩きの可愛い男の子であった。大連まで行くという。私共と同じ、旅程である。十七−十八時間の乗車は、大変なことと思われたが、至って平気であったように思う。
朝の二時か三時頃と思うが、さきの老人は四平で下車した。下車するとき、丁寧に挨拶された。こちらも有難うと返礼する。おかげで、楽しい旅ができたと礼をいう。
四平を過ぎれば、大連まで、かつて「アジア号」が邁進した連京線、旧満州である。
十二時近くに、大連駅に着いた。いつの間にか、眠り、目を覚ましてすぎたのだろう。
(一)
大連は、かつて日本の領土で関東州と呼ばれ、旧満州国には属していなかった。
大連にも気象台があったが、東京の中央気象台の管轄であって、全く交流はありませんでした。勿論、南良会の名簿には一名もありません。
成田を発つとき「大連だいすき会」という、一団に逢い、同じ航空機で大連まで一緒でした。私達より多い、四十名近くの団体であったと思うこの人達も、何
十年ぶりに訪ねる旅なので、お話の中に大連での思い出の会話に花が咲き、寸刻も惜しいようであり、私達と話す機会もありませんでした。同じ思いの一団でし
た。旅行会社のツアー計画を見ると、東北部の旅は北京経由が多いのに、我々の目的に充分適ったので北京経由でなくても良かった。
かつて、大連と聞いただけで、旧満洲と同様、あこがれの街、理想の街のように感じていたからである。だから一度は訪ねてみたい都市であった。
一行の中で飯倉誠氏は、満鉄社員だった、父の勤務の関係で、彼と兄弟たちの生まれ故郷であった。昔の我が家の付近は、鉄道関係の敷地に組み入れられ、訪問困難とのことであった。ロシア風の二階屋が今も瞼の裏にある。
日本時代、絵葉書の表紙になった、大連埠頭の玄関は、六年前に取壊したが、同じようなスタイルで新装されていた。・・・略・・・「アカシヤの大連」いろ
んな意味で、昔の大連を知る。日本人の郷愁をそそるが、ここは中国なのである。私の知っていた大連は、そっと胸の奥にしまっておけばよい・・・旅を終え
て・・・より
十二日、十一時半大連に着いた。予定では午前十一時十四分着となっていた。十五時間の旅が、六時間の差が出た。不思議な国である。誰一人として、不平を言うものもいなかった。又不思議である。
ガイドさんが迎えにきておられ、開口一番「大連は、今までの都市とぜんぜん違うでしょう。皆さん如何ですか」と胸をはって言われた。確かに中国ではな
い、違う外国の街にきたような錯覚におちいった。まず、自転車が少ないこと、どこの街でも、自転車と人間の洪水なのに、この街は違う。
1.坂が多い
2.バスが交通の重要な役割をしている
3.交通整理が行き届いている
4.タクシーを利用する人が多い
5.女性が綺麗で、自転車に乗っている人はめずらしい
とのこと。なるほど、坂の多いのは自然の地形からきていることで、他の街には、真似できないが、バスは大型で綺麗になっており、タクシーは一粁一元と安
く、六元-八元で遠くまで利用でき、しかもタクシーの運転手は年八千元-十万元の収入となるらしい。一般労働者の二倍位になる。個人所得税は、法の整備が
できていないので、高額な所得のある人でも、税金を払っていない人が多いという。万元戸と言われたのは、十年も前の話である。
大連市の市区部(以下市とする)は、人口270万人、瀋陽市の540万人に及ばないが、長春市の210万人よりも多い、沿岸経済開発都市の210万人よ
り多い。沿岸経済開発都市の1つに指定され、工業都市として一層の発展が期待される。上海に次ぐ港であり、東北部として、不凍港のため好条件にある。日本
の企業も、瀋大高速道路建設、大連大規模工業団地への進出など、商社は約三百社、2000人前後の駐在員が居住しているとのこと、客船の八十五%は日本向
けである。
大連の人達は、第二の香港を、合言葉に、市民をあげて、この目標に向って進んでいる。
大連は、十九世紀末、ロシアが清から、租借権を得てから、パリを模した、放射状の街路を持つ町を建設し始めた。1905年、日露戦争の結果、日本が租借権を得てからも、異国情緒を漂わす美しい町が造られた。
都市名は五十年前も大連であった。遼東半島の北緯39.5度線くらいと思っているが、それから以南を関東州と言った。
かつては、アカシヤの並木がつづき、初夏には白い花が競いあう街として知られ、「アカシヤの大連」と呼ばれていた。
中国の人達には、千九百五年から、四十年に及ぶ植民地支配下にあり、屈辱の地であったはずである。
五十年前は、日本人四十万人、中国人三十万人のこの街は、今も日本人にとっては、忘れられない街なのである。
大連に来られるまでは、アカシヤの街と思っていたが、いまはアカシヤの並木はなく、プラタナスの街、イチョウの街に変っていた。
特別な意味もないと思うが、アカシヤも老木になって、植えかえられて、初夏の並木を行く人々に、豊かな緑を与え、新鮮な空気を胸いっぱい、吸わせてくれているのである。
五十年の歳月は、自然の草木にも変化をもたらし、去り行く昔を偲んでみても、思い出だけが、忘れずに脳裏を行来するのみである。
南山区に日本人の住宅が残っているとのこと。ここに住んだ人には、涙が出るほど懐かしいところに違いない。さきの「大連だいすき会」の人達も、ここに立寄られたことと思う。
「私の住んでいた家だ」
「この庭で跳んだり、相撲をしたり」
「中国の子供達とも、よく遊んだものだ」と、一瞬にして、五十年前にもどり、戦争によって、すべてを失った悲しみが、こみあげてきて、泣きくずれても無理はない。
今は、中国の政府要人が住んでおられるとのこと、大連をしのぶ団体は、いくつあるかわからないが、たまたま、成田であった、「大連だいすき会」だけではないと思う。毎年何組か何十組の人達が訪れていると想像される大連である。
大連駅に着いたときは、昼に近かったので、小休止後、食事のためレストランに行く。ここでも、老婦人が入ってこられ、前に来て、ここで落ち合う予定だっ
た、中国人と、何年ぶりかでの再会だったのであろう。互いに抱きあい、喜び合っておられた光景を見る。人間として。こんな喜びは最高ではないだろうか。駅
前からは、トロリーバス、路面電車が運行され、市民の足として喜ばれている。食事を終え、昔の星ヶ浦が名称も変わって、星海公園となり、バスで到着する。
もう海水浴を楽しむ人達が大勢で、賑わっていた。海星公園を通る道路はすばらしく、南側にアカシアの木が並び、海岸からの景観は、伊豆半島を旅している思
いで、眺めは最高であった。
五年前までは、ここまで入れなかったらしいが、いまは開放されて、誰でも入ることができる。海には養殖場がいっぱい広がり、アワビ−ナマコ、
アカガイなど、日本に輸出しているとのこと、一九八七年に北九州市と大連市の協力で北大橋がかけられ、便利になり、観光の一翼をになっていた。五年後に
は、ディスにーランドができることが決まっており、現在でも、海鮮料理の店があったり、ディスコやカラオケバー、パチンコもあって若い人たちで賑わってい
る。
この旅を終えて、残念に思ったことは、改革前の歴史に残ると思われる、社会的な遺産が、取り除かれ、或は取り壊されなくても、破損が目立っていることであった。
瀋陽北駅も拡張され、また、中心に東西には市府大路、崇山東路、文化路、南北にも、中心街から北陵の西側に通ずる、黄河大路、北陵正面に至る道路、大路に変り市街は一変していた。
新しい都市に変貌し、市民の生活が改善され、幸せになるのは良いとしても、残念に思うのは、中国社会特有の城門、城郭は、城楼は取り壊され、市内には見当たらなかった。
故宮に入る。大北門も、正方型の奉天城には、西南北に、大小二つの門があった。せめて、大北門でも残されてあればと思う。多くの城門等は、何時頃造られ
たものかわからないが、宋代、松遼の地では遼国の時代にさかのぼるとすれば、千年の歴史があるのではなかろうか。惜しい歴史遺産をなくしたものである。
チーハルにも敗戦前まで残っていた黒龍省城のも姿を消していた。
かつての奉天の街を思うと、たしかに、狭い道路に家が建てこみ、古く汚い印象があって、別の街かと思う、変貌に驚いた。これも社会主義の国だから達成されたものと、感慨にふける。
また文化の面では、京劇は人気がなくなり、カラオケがどこに行っても全盛となっており、中国独有の京劇が衰えることはないと思っていたが、もう少し皆で育ててもらいたいと思う。中国の人に聞くと、若い人は京劇には殆んど興味を示さないとのこと。
また、不思議に思ったのは、友誼商店では、書や画も多く売っている。その中から特に取り出して、これは、
「愛親覚羅○○氏によるもの」と声を上げて買うように推すめる。愛親覚羅は女真族(満州族)であることはすぐわかる。日本人であることを承知してのことと思うが、何故、女真族の書、画であることを強調するかわからなかった。
電力の不足は実感として受け取れた。例えば、新しい駅ができても、ホームや地下道は薄暗く、気味が悪かった。
また、誠に残念だったのは、日本人の旅行者の中に、夕食時に、少しあるこーるが入ると「満州国の歌」「軍歌」を歌い、中国人を、支那人という人が居るとのこと。
中国の人にとって、一番忌み嫌う言葉を、平気で発したりする。非常識者が居るということである、最もいまわしい、屈辱的に当たる行為である。残念でならない。あの大戦のことを反省したいばかりである。何を考えているのだろう。こんな人は、中国旅行に行くべきではない。
また、ハルピンで感じたことは、ロシア人が、商売のため相当の数が訪れていた。中国東北部は、経済面でも、ロシア人をはじめ、多くの民族が今日でも共に暮している地域である。
一九八七年、日中平和友好条約締結以来15年間、一度は訪ねたい念願を叶えられた、満足感を反省、何だったのか、過去を振り返って、未来に無定見な虚し
さが残った。ただ、新世紀に向って、新生し、躍進している姿を見て、反省時に犠牲となられた同胞が、平和で豊かな郷であって、永眠されておられる土地であ
ることは忘れられない。
郷愁旅終
短長夢現在青春・・・・・短くもあり、長くもあった。夢と現実のなかの青春であった。
秋暁迅雷幽恨新・・・・・中秋(八月十五日)のよあけに、迅雷(敗戦時)を思うと、深く秘めた恨みがあった。同僚や多くの人が人生のわかれ道となった。
過不来回渾一夢・・・・・過ぎ去った日帰ってこない。すべて黄梁一炊だった。
何為再訪在風塵・・・・・郷愁のこの旅は何だったのだろう。自分にも良くわからない。ちりと風のようなものか。
どのように書くものか、文章も書くことが不得手であり、今まで書いたこともない、幾度か心に残った事象を感懐して、何回か書いてみたが、まとまりのない断片的に書いたものがある。それを一度読みなおして、書きはじめてみる。
すでに五十年以上の歳月が過ぎている。記憶も定かでない。資料となるものは、敗戦時にすっかり消失している。入隊のとき、手帳やアルバム等を荷物と一緒
に故郷に送ったが、引揚げて来たときには、何も荷物などは着いていない。亡くなった父が入隊したのに荷物も何も来ない、生死も知らず心配していたと聞く。
故に資料となるものは何もない。思い出しながら書き始めることとする。
シベリアから帰国後は、青春時代に比べれば、今日まで五十数年間は、波瀾もなく、平穏で幸せな人生であった。妻と二人の子供に感謝すると共に、田舎の兄弟に恵まれた。古希をすぎ、今年喜寿をすぎた今、今日一日、無事で生きられた。
運命は頃張り、努力すれば変えられることができるという人もいるが、否定はしないが、人間の力をもって変えられない宿命もあると思う。
一生のうちで、或る一瞬の出来事が、ある事件が、人生の大道を狂わせることがあると思う。何故こうなったのか、自分自身も解くことはできない。「もしあのとき、こうだったら」
という、ことを考えられないし、万一あったらどうなるだろう。
(1)初めて、中央観象台に勤務した時、辞令を受けたとき、たまたま新京勤務となったが、同期生の多くは、地方に配属された。国境地帯や辺遡の地に勤務となった。 敗戦後の国乱で、帰国できなかった者は、半数以上である。地方勤務となっていたらどうなったろうか? (2)入隊が四五年三月二十日、もし、入隊が3ヶ月−4ヶ月遅れていたら、国境遅滞か、熱河方面に転勤していて、戦死、行方不明となっていたことであろう。 (3)大興安嶺に野営中、一人置いて隣の友が、機銃掃射を受けて、あっという間に戦死している。仮に一米異なっていたら。 (4)敗戦が、一日遅かったら、大興安嶺の山中に藻屑と消えていたであろう。 (5)敗戦が、一年早かったら「シベリアに抑留されることもなかった」が、その反面想像もできない、生涯を送っていたことと思う。 |
等々、いろいろのことが、浮んで来る、感慨に耽ってみても、しようがない。
生と死が紙一重だったことを懐旧することもある。
青春の記は、恨懐と追憶になったが、旧満州とシベリアで、約27万人およんだ犠牲者の霊は、よみがえることはない。安らかに眠られるとを願うのみである。
戦後五十年、僅か半世紀を過ぎたばかりなのに、戦争の残酷さ、悲惨さも、忘れかけているのではないか。源平の戦いや、戦国時代のように、幾度か繰り返されてきた、歴史は教訓として生かさなければならないと思う。「喉もとすぎれば」ということになる。
「全アジアの植民地化をめざす、欧米先進国の野望を打ち砕き、大東亜共栄圏の樹立をめざす正義の戦い」と偽満に満ちた甘言によって、中国を侵略したことは事実である。「正義の戦い」などというものがあるのだろうか。
昭和の知識人という人達が、太平洋戦争の勃発のとき、雪崩をうって戦争を華美したこともあり、私も、その一端を担って、旧満州に青山を求めたことも事実である。しかし、幻影となった、あの四年間を深く、懐い抱くとき、悶々として一生を終えることであろう。
よく、人と逢ったとき、過ぎ去った昔の話題となると
「青春時代旧満州で働いた」というと、
「さぞ、楽しく、面白くすごしたのでしょう」という人がある。こんなとき、無性に腹立たしくなる。二十歳にも満たない「若輩が」新大陸に夢を求め、下司な
がら「気象現象に国境がない」ことを職業として自任し、少しでも役に立てればと情熱を燃やしていたことを思うと悔しい。そのような風潮もあったことも事実
と思う。心ない、在満邦人の中に、軍人を含めて、誇らしげに語った者もいたと聞いたことがある。多勢の中には、中国人、朝鮮人等の現地人を、人間扱いしな
いばかりか、勝利者のように振る舞いをした者もあったことだろう。
毎年、残留孤児が、肉親を求めて、捜すために、祖国を訪ねる人をみると、避難の途次「養父母に預けられた」と訴えられている、中国の人達の寛大さに敬服
する。幼く、生後間もない、孤児を見捨てることのできない、人間として心情もあったと思うが、養父母の中に、預けた人、預かった人が、当時、同じ場で、ま
た、同じ職業であったなど、何等かの関係のあった方も多い。個々によるが、日本人と中国人をはじめ、他民族の人達と、仲良く過したことを証明するものでは
ないだろうか。こうした邦人は、侵略の一翼を荷ったかも知れないが、侵略者の一人だったのか。
移民のため、ただ同然で、中国農民の土地を取り上げ、生産手段のなくなった農民は、餓死するものもあり、没収された土地と家畜の代金の支払いを求めて決起すると、この農民を「匪賊」と呼んで弾圧した。これこそ正に侵略である。
満洲民族百万戸送出計画に、小学校から中学校、青年学校で移民教育をした、政治家や軍人は侵略の犯罪者である。
これに乗ぜられて、新大陸に夢をはせ、風土病のアミーバ赤痢で倒れたもの、欺されたという不満が拡がり(弥栄村史)、「屯墾病」という、ノイローゼになる者が続出した。
満洲開拓には、成功する条件がないと、反対した人もいたが、軍部が、前線基地にする目的で、無理に敢行した結果が、侵略となる。「侵略」という、二文字を見たり、聞いたりすると複雑な思いがはしる。
一世紀前、アメリカ、カナダ、南米の各地を、移住地として最適、広く豊かな大地へと移住政策に便乗したが、現実は密林を伐採して開拓し、熱病に罹った者
も多かったが、アメリカの移民は、労働力不足と低賃金で進められ、旧満州の場合と、おのずから異なっていたと思う。現在は、これらの土地で、二世、三世の
人が、各地で活躍している。
旧満州に移住した者は、日本よりさらに、移住地を愛すべきである。「かつて在米、英国人が、祖国英国と戦い、独立を獲得した如く」(馬賊社会誌)。このような政策であったなら、敗戦時のような、無惨な結果を招いただろうか。
いま、松遼の地を訪れて、各地で暖かく迎えてくれた、中国の人々に接することができて、民族が異い、言葉も異なるが、顔の色は同じく、文字も宗教も同
じ、民族だかろうか。松遼の大地を、人間が勝手に線を引き、国境を定めても、牛・羊・馬を追って、自由に生きてきた。大地にこだわらない、人たちが住んで
いる。
いま、日本に多くの外国人が働きに来ている。中国人も来往して活動しているが、新聞などの報道によると、各地で民族紛争が起きている。長い間のこと、民族の対立が、二十一世紀を迎えようとしているのに、対立はとけていない。
中国が対日賠償請求権を、将来の日中友好のため放棄した、中国の寛容を思う。
中国・ロシア・朝鮮の三国地帯の開発に、我が国も参加し、又三江平原農地開発事業を日中共同で推進しているなど、新しい親善による、東北部の発展の姿を新聞で知り、「北貧南富」という言葉もなくなることと念じ、心の踊る思いがする。
一九九六年八月、ロシア大統領、エリッイン氏の就任式に、橋本首相は、「この日は、ソ連が旧満州に侵攻した日であり、出席をひかえる」と、半世紀も前の
ソ連の攻撃による、犠牲者の大きかったことに思いをはせ、参加を止められたこともうなずける・・・と新聞報道された。ソ連が崩壊して、ロシアこととなって
いるが、過去の苦々しい思いの心情には変わらない。一九九二年三月「日本は、二十一世紀初め、あるいは二〇一〇年までに、軍事大国になる可能性が大きく、
中国にとって日本の脅威は今後もますます大きくなる・・・と結論付けた、研究論文が発行された。湾岸戦争や、ソ連の崩壊などの国際情勢の変化や、日本の国
連平和維持活動(PKO)法案などの動きを踏まえて論じたもの・・・(三月三日朝日新聞抜粋)。こんな論文が出ることは残念である。
青春時代に、戦争を経験したものとして、半世紀前の軍部の行為を今さら責めるつもりはない。過ぎ去ったことである。
敗戦の苦難を乗り越え、神武・岩戸景気という言葉が生まれ、経済大国と自画自賛し、金を出すことを国際協力と誤認していた、「おごるもの久しからず」の格言のとおり、バブルの崩壊を招いた。
半世紀をすぎて、侵略、敗戦という、若く得がたい教訓を経ながら「忘却の彼方に消える」ことのないよう、野翁が老婆心ながら願うものである。