壁空に消えた気球(ラジオゾン デ)

旧満州国中央観象台時代(その1)


(旧満州国全図昭和20年現在 図挿入)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Manchuria.jpg (参考)


壁空に消えた気球

はじめに

一.大陸の夢

 1.関外の地

 2.修学旅行

 3.五常開拓団

 4.公主嶺・撫順

 

二.厳冬、砂漠の気象

 1.旧満州国中央観象台

 2.惨劇。八月九日払暁

 3.シベリアへ抑留

 4.南嶺会

 

三.五〇年目の両訪

 1.大陸の土を踏む

 2.改革の先駆け

 3.長春ー新京

 4.瀋陽ー奉天

 5.ハルピンー哈尓浜.

 6.チチハルー斉々哈尓

 7.遼東の耕地

 8.大連

 

あとがき

 

原著者履歴


はじめに

 新しい世紀を迎えて、平和で、豊かで、新しい文化を創造し、情愛を持って、生きることのできる社会を望 みながら、何かを書き残したいと思う。だが、まず自分の体調を考えなければ、途中でなげだしては、いけない。
 最近年をとったせいか、若い時のように、出来ない。先ず体調を検査してもらおうと、近所の荻原医院を尋ねる。何をしても、体調が問題だろうと、いわゆる 身体検査をしていただこうと診療に訪れた。
 先生から、今の体調を聞かれました。
 「特に体調の異常な様子はありませんが、一度、内臓を含めて診断して戴いた方が、良いかと思い
 「お願いします」
 先生も、即座に
 「胃カメラ」を撮ってみるように言われ、お願いした。
 翌日、朝食抜きで通院し、胃カメラの前に立つ。撮影から三日目の二月十六日
 先生から「奥さんと一緒に来てください。」と電話があり、病状を告げられる。胃癌の手術である。
 手術は必ず成功すると信じた。それも自覚症状が無く、自分なりに言い聞かせて・・・と言っても、不安は全くない・・・と言えば嘘になる。
 荻原先生が、横浜労災病院に入院出来る日程を折衝された結果、二月二二日に入院する。
 入院中は付添は必要ありません・・・と言うより、むしろ医師の診療のため、妨げになるのだろうと、自分なりに理解し納得する。


 横浜労災病院で、私の担当医師は、木下先生と決まった。
 退院してから、当初は1ヶ月に1回、その後2ヶ月に1回と経過の追跡の診療があった。
 たまたま、何回目かの診察で木下先生が学会のご都合で、別の先生に診察をお願いされたようであった。そのとき診察された医師が、
「木下君が何時まで続けるのが、もう充分だ」と言われ、病院の三分診療より早い、1分位で帰された。病院という所は、患者さんは朝早くから家を出て、病院 で診療を受けるまで、数時間を待ち、三分診療となっていることは誰でも感じており、覚悟しておるが、何もこのような言いかたはなくてもよいのにと思った。
 担当の木下とは、そのとき代診して下さった先生とは一寸異なっておられた。といも慎重であられたようで、このような先生なり全幅の信頼を持てる・・・と 感謝している。
 手術までは、各種の検査があり、規則正しい、時間の割り振りである。起床7時30分、昼食12時、夕食18時、消灯21時30分。
 前後逆になってしまったが、木下先生は、その後、外科から、救急室の部長になられてご活躍されました。その後外のことで、労災病院に行くこともあった が、木下先生のお顔を拝見するたびに、深く感謝し、頭を下げてお礼を申しました。勿論ご多忙な身、会話を交わすことはなかった。
 また、担当してくださった看護婦さんにも、別な内科に通院したときには、院内でお会いしたとき、お礼のご挨拶し、多少の会話をしたこともあったが、多忙 な先生や看護婦さんのお時間を思うと、本当に数秒の、ご挨拶でしたが、
 「この先生に、この看護婦さんあり」と思った。その後数年たった時、木下先生は、病室や診療室を走り回っておられる、ご様子を見て、
 「この先生に、この看護婦さんありと思った。 
 1996年3月8日、午後1時半、手術室に運ばれる。胃癌と診断されて、2週間目、手術前の各種の検査を終えて俎板の鯉となる。
 何の蟠りもない、不安がないと言えば嘘になるが、すべて医師に、お任せするしかない。
 この先生あり、またこの看護婦さんあり、何がついて回っているようだ・・・・と感謝する。
 手術が行われたが、麻酔のため、夢心地たったのかとも思う。
 麻酔が切れて、目が覚める。午後四時頃、痛くて、声を出し、うめく。特別室なので、他の患者には、聞こえなすったと思うが、恐らく一晩中だったと思う。 1昼夜を過ぎてうめき声も収まったようだ。一般の病室に入れられた。驚いたことに、その日から闘病生活に入る。頑張らなければならない。
 翌日から院内を歩く。回復のためとは言え辛い。歯を食いしばって、歩行補助の台車を使って、まだ充分回復していないが。


 1日2回院内をぐるぐる歩き回った、手術から17日目の25日、退院が出来ることになり、医師をはじめ関係者に感謝する。6ヶ月位体力の回復に努 める。
 ふと、自分史を書いてみようと思い、僅か4ヶ年の旧満州時代を、忘れたと思いながら、思えば思うほど痛恨の想いは決して消え去ることはない。
 青春時代の体験を踏まえ、私なりに満州侵略らついて、子供達に伝えることが出来ればと思い書いてみました。
 手術した5年前に書いたものを、読み直し、修正したり、追加したりして、いつ完成するかわからないが書き始めました。
 中国東北部と言えば、国龍省、吉林省、遼寧省のことで、この三省に内蒙古自治区の一部を加えた「旧満州国」、この旧満州国が崩壊し地球上から永遠に消殺 されてから、すでに半世紀を過ぎた。
 今では、多くの人達には「満州国という、傀儡国家の存在したことも、歴史の大きな流れのなかに埋もれているようである。 
 敗戦時に生まれた人も、すでに50歳を過ぎている。戦後世代は70%以上を越えた。多くの人達には、遠い昔のことであり、しかも僅か15年という短い期 間であったから、忘れられても当然のことであらう。
 この「碧空に消えた気球」を書くことについて、地名をどう書こうと迷ったが、「旧満州」と書かないと理解し難い箇所も多く、おゆるし願いたい。少し無理 かもしれないが「松遼」と書いた箇所もあります。


1.青春時代「夢は大陸にある」と確信し、若い情熱を燃焼し、私なりに気象関係という、大自然の中で、黄沙、風塵と凍土、氷雪に覆われた、死の世界 を幻想する荒野で働き、軍部や侵略とは無関係な職場と信じていましたが、私の認識とは異い、敗戦前には軍部に気象情報を提供する役目をはたし、侵略行為の 一部分に参加していたのだったとの思いはある。
2.旧満州には、観象台、観象所など74ヶ所うち、国境地域16ヶ所、辺境な地域19ヶ所、砂漠地帯10ヶ所、職員数900名、うち邦人600名、敗戦時 に戦死又は自決した者62名、行方不明90名、帰国できた者は300名約半数で、約150名の消息はわからない。
3.敗戦時、在留邦人約150万人が一瞬にして、戦禍にまき込まれ、18万人とも20万人とも言われている尊い命を失い、さらに、7000人とも 10000人とも言われる残留孤児の悲運を招き、はたまた、中国人の妻となったもの約4000人、祖国を思い、生まれ故郷の土を踏むこともできず、残留婦 人として、生きのびておられます。
4.漢民族が、全人口の八十%(敗戦時)と占めていたが、満州族、回族、蒙古族、朝鮮族、日本人を始め、少数民族としてゴルト族、ホジュン族、オロチョン 族、ソロン族、タブール族、エヴエン族、ロシア系の数民族に日本人、一説には100以上の種族が居住し、独自の生活と文化を持ち、宗教も、道教、仏教、チ ベット仏教、イスラム教、ロシア正教等、それなのに、紛争など耳にしたこともなく、平和に暮らしていた。他民族の地域であった。
 この地、あの街を混沌として、振り返っても無駄ではないと思う。
5.歴史は帝国主義の侵略の地、過去の植民地であったと説く。このことを否定するつもりは毛頭ない。
 為政者と軍人が、植民地政策を強行して、日本の利権だけを追及し、利権を貪り、あるいは、住民を銃で脅し、土地の略奪。強盗、放火等枚挙にする暇がな い。
 しかし、150万人の邦人がすべて侵略の手先だったのだろうか。民間人が残したものは何だったのだろうか?
 青春時代の夢を砕かれ、まぼろしと消えてしまった、「旧満州」を回顧することが、郷愁なのか。大正生まれの野老の虚言なのだろうか。
 喜寿をすでに超えたが、まだ10年以上は生きなければと思う。
 あの碧空で、いつまでも肉眼でも思えた。測空気球(ラジオゾンデ)が、あっという間に消えてしまったような、悔しさと、虚しさは忘れられない。
 振り返ってみると、時代の大きな歴史の流れを堰き止められず、満州事変に、始まり第二次世界大戦となり、その結果、敗戦という惨状を経験した。
 敗戦をどのように見るかは、別として、如何なる宝面よりも価値のある民主主義を得たことは間違いない。
 毎年8月になると、終戦記念日として、新聞記事でも、テレビの映像でも、半世紀前の「国家の野望」と反省をこめて報道することが多くなる。
 これは事実として、認識することは当然であるが、この時代を経験した者として、当時の時代の流れに抵抗する手段もなく、「人間らしい生き方をしたい」と 苦悩した庶民も、数え切れない程の多くの人がいたことも亦事実であった。
 いま、青春時代の悪夢と、幻影が交錯して止まない。


一.大陸への夢

1.関外の地

(一)
 中国の文明は、黄河流域で発達して、戦国時代には、孔子・孟子・老子・荘子などの思想家を生み出している。
 また、長江(揚子江)流域も、紀元前から発生して、黄河、長江の二大河によって、発達した。
 松遼の地は、逍揚と流れる大河、大自然のなかで、生命の源と、なってきた松花江、スンガリーとも呼ばれ、多くの人に親しまれてきた。全長一九〇〇料にお よび、信濃川の五倍以上という大河は、今も中国東北部の大動脈となっている。その源は、長白山脈に発し、支流の嫩江は大興安嶺を源として、ハルピンの東方 で合流し、一方の支流、牡丹江は、敦化大ら鏡白湖を経て、依閑で合流して、ロシア国境の黒龍江(アムール川)に注いでいる。
 松花江は、東北地方の穀倉地帯を貫流して、何世紀もの間、多くの民族の生活を支えてきた聖なる大河である。
 また、熱河を源として、東に流れ、双遼付近で、南に流れを変え、渤海に注ぐ。遼江によって、独自の文化を創り発展した地域である。
 わが国の約三倍に相当する地域で、この両大河の恩恵によって耕地となっている。
 中国といえば、北京・上海・西安や江南地方の都市、紀元前から栄えた、古都・文化の発展してきたところ。風光明媚で幻想的な桂林を含めた、華北・華中・ 華南の地方に代表されることが多い。この地域は、歴史的な遺産も多く、三〇〇〇年の歴史は、万里の長城より、南の地方が舞台となっていることはいうまでも ありません。
 この華北・華中・華南の地方に、くらべると、松遼の地は、三〇〇〇年の歴史をもつが、語られることも少なく、ただの大草原で、冬期は、氷点下三〇度以下 になることもあり、激しい自然条件はここに住む人々に、苦汁の生活を強いられた。それだけに、より強く、遑しく、いきてきた地域なのであると思う。
 酷寒零下三〇度「赤い夕陽に、そまる廣野といわれた。」
 最初の勤務地、新京(現長春)は、北緯四四度、北海道旭川位である。一月の平均気温は、長春零下15.9度、旭川零下8.4度。敗戦時の44年ー45年 に勤務した奉天(現瀋陽)は、1月の平均気温は、零下11.4度。同軽度位の函館は、零下3.4度。北のハルピンは、零下19.2度。稚内は零下5.5 度。これだけの違いはある。
 1月のハルピンの平均最低気温は、25.9度(敗戦時の頃)。稚内の二月(1年で最低)の平均気温(平年値)は、零下8.2度。まさに厳冬の地である。
 ハルピンは松遼のほぼ中央に位置するが、さらに黒龍は岸の黒河は、1月の平均最低気温は、零下28.4度、西の輿安嶺を越えた海拉尓(現内蒙古自治区) の1月の平均最低気温は、零下34.2度となっていた。
 冬は、まるで海のように波うって凍り、さながら死の世界のようになる。
 それでも、遅い、春が来れば、新緑の野に柳紫が飛び、梨の花は白く、杏は淡紅、薄紫のライラックなど、数え切れない草木が、われさきにと咲く。
 この感激は、経験した者のみが知る。厳冬の地の春を迎えた、北国に住む者に与えられた特権ではないだろうか。

(二)
 松遼の地にも、三〇〇〇年の歴史がある。万里の長城は、遼東湾岸の山海岡から、険しい断崖と山峰を越えて果てしなく続く、李白・王昌齢などの多くの詩人 に歌われた。西域の地、陰山山脈を越え、ゴビ砂漠を越えたあの玉問関の東にある嘉峪関まで,6000料に及ぶ壮大な城壁であります。
 この城壁は、紀元前220年のころ、秦の始皇帝によって築かれたことは有名な話してあるが、実際には、それ以前の戦国時代から匈奴に対する防備のため、 国境地帯に築かれた西方に延長されて、長い間、幾多の変遷を経て明代になり、現代の長城となったが、これもモンゴルの侵入に備えてのものであった。
詳しい史跡について、書くつもりはないが中国の歴史を見る限り、この万里の長城を境にして、南の黄河と長江の流域により発展した地域であるが゜、中国の東 北部の、この松遼の地は、むしろ外敵の国であった。
 
 周代〜戦国時代のころ、遼西・遼東・燕は長城を越えた東湖の国、遼の首都は襄平(現遼陽)、中国からすればこれら北方は他国であるばかりでなく、野卑な 人種でもあった。
 前漢時代は、遼東・遼西・烏桓・鮮卑・夫余の五国からなっていた。
 南北朝の時代、400年のころ、北魏が華北を統一して、漢民族と鮮卑族の二朝廷が対立した、
 10世紀には、渤海が滅び、契円が。国号を遼と改める。
 唐末から後梁、後唐、後漢、後周の五代の乱世の時代となる。
 十二世紀に、遼国が滅亡した。遼国は仏教、儒教、道教の国とした。契円族の王朝であった。
 遼国の後は、金王朝の時代となる。金王朝は阿城に首都を置いた。阿城を上京と称したが、百二十年の金朝も滅亡して、阿城と名称も金朝前にもどった。
 金王朝は、女真族のほか、契円族、渤海族、キタイ人、漢民族の複合的、種族社会を女真文字と女真の伝統文化を育成維持していた。
 金朝の時代は、貿易も盛んになり、北宗から茶・布帛・牛・米穀が金にのり、金から北珠・人参・貂の皮・甘草および絹織物の交易が行われた。
 金は十二世紀末から十三世紀始め、蒙古・北宋に出兵して勝利したが、万里の長城を越えて華北を領有した。南宋に比べ豊かでなく国力は消耗し、経済は危機 に瀕した。
 千二百三十四年、蒙古軍が、金に進入して、金王朝は滅亡した。
 元朝となるや、蒙古軍は高麗を従属させ、日本征討の軍を起こした。いわゆる、文永の役(千二百七十四年)と弘安の役(千二百八十一年)と再度来襲したが 失敗した。
 元は、中国文化を尊重することなく、遊牧を高級として、農耕を卑み、金の治下にあった、漢人を第三級として扱った。それも、約九十年にして滅びた。
 モンゴル軍を追って、中国人による、中国の支配を復興したのが明朝である。
明朝は、永楽帝の時代には、アムール(黒龍江)まで、また、朝鮮を属領としたが、北辺のモンゴル勢力は強く、侵入が繰り返されたため、千四百九十九年万里 の長城の修理や増築を行い、多数の軍隊を駐留させた。
 明朝も、16世紀から17世紀初めになり、人民には重税を賦課して、飢饉に苦しみ、各地に農民暴動が起こった。
 16世紀から、女真族の国で統合の機運が起こり、千六百十六年、女真のヌルハチは、後金国と称して、明の遠征軍を破って、遼東に進出し、都を盛京(瀋 陽)に定めた。
 千六百三十六年、後金が国名を「清」と改め、千六百四十四年、北京に遷都した。
 清朝は、康煕帝のころ。北方に進出したロシア人を討伐し、千六百八十九年に、ロシアとの間に、ネルチンスク条約を結んで国境を定め、千八百五十八年黒龍 江をもって、ロシア・清国、両国の境を定め、黒龍江に航行権を規定する曖揮条約が結ばれた。
 また、漢民族は、服装や髪型を、女真と同じようにした。その反面、漢の文化を愛好した。
 十九世紀になり、社会の矛盾が表面化して、大多数の民家は、生活に苦しみ、白連教の乱をはじめ、次に、内乱が起き、西洋列強の進出もめざましく、内乱が 増幅し、各国の祖界地が目立ち、日清戦争の敗北で、革命運動は、年とともに盛んになり、千九百十一年辛亥革命が起こり、翌十二年、清朝は滅亡した。
 この松遼の地は、古代から「関外」とも呼ばれたように、北方民族の土地である。
 台湾の李登輝総統は「台湾の主張」の中で、中国は、最も「理想的なことといえば、台湾はアイデンティティを確立し、チベットはチベットで、新疆は新疆 で、モンゴルはモンゴルで、東北は東北で、自己の存在を確立すれば、むしろアジアは安定する。中国は広大な大中華主義の束縛から脱して、7つくらいの地域 に分かれて、互いに競争した方が良い」と書かれている。・・・・「中国、台湾、香港」中嶋嶺雄 PHP研究所・・・・

(三)
 松遼のこの地は、資源は豊富ながら、未開発の所が多く、、南の地帯には耕地も多く、農作物が栽培されていたが、それでも所々に未耕作地が散見された。北 の地帯に至っては、広大な未耕作地が残されていて「眠れる大地」とも言われていた。
 日本の耕地面積は15%なのに、松遼の地の場合30%に当り、農業・畜産業・林業・鉱業等第一次産業で、農業は畑作物が主で、大豆・高染・粟が三大特産 物であった。ほかに水稲・陸稲・綿花の栽培にも力を注がれていたが、また煙草・甜菜・ホップ・果実・落花生・麻類など、まさに農業王国であった。大豆は松 遼の地を象徴する輸出品であり、世界生産高の60%にもなっていた。
 畜産物は、蒙古・漢民族の牛で古くから営まれていて、牛乳・肉豚・ウールなど輸出品の別に加わった。
 雄大な地平線に家畜類を遊牧させる風景は{図挿入}{図挿入}{図挿入}ホロンバイル高原を中心にした羊毛の産地 で、水や草地を求めて、蒙古包で移動する。牧歌的ロマンを感じさせるものがありました。
 漁業は海岸線が少なく、しかも沿海・河川・湖沼が冬期には結氷する。それだけでなく、交通手段は不便で、消費地まで時間がかかり、また、夏になると高温 になるので、輸送は困難になり、消費者の需要を充たすことは出来なかった。
 それでも、淡水魚は、松花江・嫩江・牝円江・ウスリー江などで獲れ、重要な水産物となっていた、鯉・鮒・鯰・鮭・白魚などが主なものであった。冬期に は、海・河川・湖沼も結氷するので、氷を割って、赤貝やカキは冬の味覚として食卓を賑わせる。河川では、冷凍保存がきくので、漁業も活発に行われた。
 長白山の地、間島地方は、年間の雨量の大部分が、5月〜9月までに降り、高温多湿の大森林地帯がある。樅材は天を覆って薄暗く、まさに樹林の大海であ る。
{図挿入}{図挿入}{図挿入}
 しかし、旧満州時代の以前は無統制の乱伐が続き、熱河方面からの砂嵐の侵出で、樹海は後退して行ったので、康徳二年(千九百三十五 年)国有林伐採法を制定し、森林伐採を国営化して、林業の保全を計った。木材の伐採は厳冬の時期に行われることが多かった。身の氷るような、この時期にと 思われるが、落華で見通しが良く、雪橇が利用できるため搬出が楽であること、野獣に襲われることも少なく、マラリア蚊の発生もないようであった。
 伐採した木材は川辺まで運ばれ、ここで春を待ち、氷が解けると、筏に組まれて河を下る。また、興安嶺いも厳冬に生きる、伐採区労働者、いわゆる木客が民 族越えて生活しており、頭から爪先まで毛皮づくめの、ロシア祖界で働いていた。
 鉱産物の埋蔵地は世界でも屈指の一つで、鉄・石炭・石油・アルミニュームなどの鉱産物に富んでいた。なかでも石炭はトップを占め、主な炭鉱でも30数箇 所に及び、ほとんど松遼の地に分布、炭質も良いものであった。その埋蔵地は四十八億トンとされていて、特に撫順炭鉱は、天井のない露天掘り、東西の進長五 料もあり、アジア最大を誇っていた。マグネサイトの埋蔵量の推定は五十億トンと言われ、良質なものは、マグネシア含有率45%に及ぶものであった。

(四)
 唐末から、五代の争乱期に、漢民族は、長城を越えて、草原に安住の地を求め、流入してきた。
 北宋のころ、金との貿易も盛んになり、民族の交流も行われたが、金が滅亡してからは、モンゴル族の元王朝となり、民族の移動は詳らかでない。農耕を卑し たことで、希となったことと思う。
 明代になるや、松遼の地を属地としたが、蒙古軍の侵入が、しばしばあり、この侵入を阻止するため、万里の長城を修復、増強したため、南北の交流は阻隔さ れた。
 松遼地帯の明末の満州族の人口は、約十万人と推定された。ちなみに、当時の、わが国の人口は約二千万人であったから、女真族の割合は多かったと推定され る。
 清朝になるや、満州族の王朝であり、千六百四十四年、北京に遷都し、漢民族と女真の交流は盛んになった。
 松遼の地は、中国本土と、おのずから異なる変遷の歴史と文化をもっている。
 遼陽は遼河の南岸に位置し、瀋陽の南、65料位のところにある古都である。
 有名な白塔は、八角十二層で、高さ約七十八米、松遼屈指の大きさを誇る、仏塔の1つで、遼代の建設と推定され、通称「白塔」と呼ばれている。
 白塔の初層には、天人の姿の彫刻がある。(日本植民地史U満州)
 また、前漢時代の遺跡も発掘されている。清の太祖のとき、一時都としたが、三年後に瀋陽に移った。
 遼陽に居住した、人の話によると、この白塔は、遼陽の象徴として、「街のどこからでも見られる」朝、目が覚めると、白塔を眺められたと。
 錦州の古塔は、場内のほぼ中心にあり、六角錘、建てられて4千年以上も、たった{図挿入}{図挿入}{図挿入}とい われている。
 阿城は、ハルピンの南東、浜桜線にあり、ハルピンから約百料のところに、現在も阿城として現存する。
 王宮址には石の亀の上に、1本の石柱が立つのみで、あとは、一望の畑と数えるほどの集落(満州、昨日今日)がある寒村となっている。
 長城の北方の民族は、狩猟・牧畜と農業又は遊牧の世界であって、人々は集団で移動し、大興安嶺の以東・漱江や松花江で「牛魚」という、大きな「チョウガ メ」を獲り、酒宴を設け、音楽をかなで、夏には、相撲や競馬の競技を楽しんだ民族であった。
 長城を越えて、移住した、漢民族は、馬賊の襲撃などを、受けながら、この地に根を、おろし、着々と農業開発に努め、次第に前線を広げていった。それは、 驚くほどの忍耐と勤勉によるものであって、わずか三百年の間に、松遼住民の、大多数を占めるようになった。
{図挿入}
 千九百四十五年、終戦時の漢民族は、全人口の85%に達していた。
 19世紀、後半には、北からロシア人・蒙古人、南から朝鮮族、西方から漢民族が、松遼の豊かな、大草原の地を求めて移住してきた。日本人も移住するもの が多くなり、1876年(明治九年)栄口に、日本領事館が置かれた。
 千八百九十五年、日清戦争以後、日本人の進出が顕著となっていたが、どれだけの日本人がいたか、詳細は、わからない。旅順には、約二百人の娼婦がいたと か・・・
 千九百二十年代から、漢民族の移住が急増するようになった。
 千九百年、ロシアの鉄道建設隊が、ハルピンに進出、さらに旅順、大連の租借を成功して、ロシア人も多くなった。
 千九百五年、日露戦争の結果、長春以南が日本に割譲された。 
 敗戦後、漢民族以外は、国民党統治下で、{図挿入}{図挿入}{図挿入}{図挿入}{図挿入}差別、圧迫を受け、民 族を隠すため、名前まで、漢民族風に変えざるを、得なくなったり、、文化革命時代゛、独自の習慣・宗教・伝統的な生活用具・工作機械まで廃止せざるを得な かった。
 今尚、満州語を、日常会話と刷るところは、満州族、朝鮮族の居留地 黒龍江省富裕県、三家子屯愛輝県の、二ヶ所約二百人、ウルグイ自治区察布査爾錫伯、 自治県、人口は不明である。
 近頃、中国から日本に密入国する者の数も多い、報道によると福建省・広東省の人が多いようであるが、毎年、残留孤児となった人が、肉親の手かがりを求め て、訪日されるが、そのほとんどの人が、日本に住みたいと言われる。孤児の方たちにしてみれば、祖国であり、永住を希望される心情は理解できないことはな いが、中国で安住な生活を犠牲にして、住みにくい日本を何故望まれるのか。松遼の地は、人間らしく大地の中で生きられる国であると思うが、牧歌的な風景の 大自然の中で、塾もなく、試験地獄もなく、子供たちは育っている。

 

2.修学旅行

(一)
 六十年前、千九百四十年(昭和十五年)の夏、松任農学校の五年生(正しくは高等小学校から入学したので三年生)の修学旅行に、(旧満州)旅行があった。
 いまでは、海外に旅行する人も、大変な人数である。九十六年夏休み中に、海外に出国した人は、百六十三万人という、新聞記事をみた。
 世界各国へ旅行したり、働きに行ったり、勉学に行ったり、発展途上国へ、技術援助や救援活動に参加したり、いろいろの形で、海外に出かける機会も多い。
 反面、わが国に、入国している人も、大変な人数である。住まいから、一歩外に出れば必ず何人かの、外国人を見かける時代である。
 今から六十年も前のこととなると、海外に出かけることは、極めて珍しく、ましてや、当時の中学生が、夏休みの修学旅行に、国外に出かけることは、考えら れない程、稀な出来ごとであった。
 修学旅行が、学校の方針として、決まったのには、どんな経緯があったのか、詳しいことは解らない。
 就学旅行の話は、1年ぐらい前からあった。具体的になるまでは、それほど話題にも、気にかかったこともなかった。年が明けて早々、四年生の春から、急に 話が、につまってきたように思う。何といっても、一番の問題は参加費のことであった。
 「何としても行ってみたい」
 「未知の大陸を肌で感じたい」
その思いが、募るばかりであった。はたして父が許してくれるだろうか。
 「日本の生命線は満州にある」と
新聞の報道は連日のように、紙面を飾り、埋めていた。
 「若者よ!!行け満蒙の大地へ!!」
 「日本男子と生まれたら、この国、この骨、大陸へ!!」
と歌われた。いつの間にか、心は大陸に向かっていた。
 「実現できたら、こんな嬉しいことはない」
 毎日、そう思い、期待と、行けなかった失望が、交錯する日が続いた。
 いつ、父に話をしようかと、その機会を待っていた。

小学校に入る前、母は三十九歳の若さで他界した。三十年(昭和五年)十月七日、どんよりと薄暗かった、日のようだったと思っている。幼少のこと定か ではない。母の遺体の前に座っていたことだけは、今でも、はっきりと憶えている。
 父は四十五歳の働き盛りの時であった。母は何時から病んでいたのか、わからないが、金沢の大学病院に入院していた。田舎の家から病院まで、十二料の-十 三料の距離にあり、父は毎日、見舞ったのに苦労したことと思う。病院の近くに家を借り、私と弟の2人の面倒を見て、病院と田圃の仕事に明け暮れ、休むこと は言うに及ばず、寝る時間もない、毎日だったと思う。
 母が世を去り、学校に通うようになったが、父は幼い弟をつれて、田圃の仕事をする。生活は、母が病床にあったときと、変わらない苛酷なものであったと想 像される。
 生まれた、川北村(現川北町)は手取川の右岸に、川に添って十料余りの細長い村で、川上の三反田という、小さな集落が私の生まれた郷である。平坦な地 で、稲作だけの、水田に囲まれた寒村であった。手取川には大きな堤防があり、今では、この堤防の所まで、田圃になっているが、子供の頃は、堤防の手前が、 未開墾で湿地帯となっており、葦、茅、蒲などが生えて、底なしのようで、子供には近づけず、お盆に蒲の穂を取りに行って、叱られたものである。
 手取側の恩恵で、一面の水田地帯をなし、干ばつになったことはなかった。これも先見者が、手取側の水を取り入れ、水量を調整して水田を潤す、七ヶ用水と いう水路を、石川平野に縦横に作ってくれた。
 これ程の大事業を成し遂げた、先祖は実に立派な人達であり、集落の人達も、彼方此方で、水騒動の噂を聞こえて来ると、「七ヶ用水のお陰である」という話 を耳にした。先見者に感謝していたことは忘れない。

 年に二度、春と秋に、水路の整備や、修理のため、取水口の堰を止め、水路を干す日があった。水が少なくなり、所々に水溜りができ、鮎・ウグイ・ 鯰・鰻、場所によって鮒・鰌などがとれる。護岸の中に入っている蟹を、太い針金を工夫して撮る。或るときは茶碗や、皿の欠けらで、怪我わして、泣いて帰っ たこともあった。
 二日〜三日前から、用水路の水が止まる、予告があり、その日の来るのが、待ち遠しかった。

 南東遥かに、霊峰白山が、雪を頂いて聳之・農民を見守ってくれていた。
 石川平野と呼ばれた。石川県では広い平野地帯であったが、川北村は平野の端で、手取川の傍にあったので、水田耕作面積は、多いほうではなかった。
 私の家も、一町歩(約百アール)強の自作農であったが、働き手が、父一人では、充分な管理も行き届かず、生活は楽ではなかった。
 父から聞いた話では、不作の年には、田圃に自生する、「くわい」を主食にした、こともあったという。
 男ばかりの、六人兄弟の五番目が私である。生まれるとき、女の子を期待していたようだったが、また、「男か」と落胆していたと親戚と近所の人に聞かされ た。
 長兄は、早くから、京都に大工見習いに行き、四人の兄のうち、二人は生まれて、間もなく死亡したのだそうだ。もう一人の兄は、尾山(金沢)に、丁稚奉公 に出ており、田圃の手助けは出来なかった。
 どこの農村でも、そうであったと思うが、小学校三年くらいになると、家業の手伝いをするのが当たり前で、学校から帰ればすぐ、田圃に行く。予習や復習 は、したことがなかった。
 父は毎日、早朝三時頃(父に聞いた)に起きて田圃に行き、学校にゆくころ、一度朝食に帰って来る。それまでに、ご飯を炊いて待っているのが役目だった。
 農閑期になると、沼地を開墾し、耕作面積を少しでも多くしたいと働いていた。
 忘れもしない、三四年(昭和九年)七月十一日早朝、梅雨明けの豪雨のため、手取川の堤防が決壊して、川北村の下の集落は、未曾有の惨害を被り、多くの犠 牲者がでた。幸いに私の集落は、用水の増水で、被害も僅少に終わった。この災害の復旧に数年の年月をすごした。

(二)
 いつの頃か記憶は薄れたが、小学校四年-六年頃まで、家事の手伝いの人が来ておられた。
 後日、集落の人に聞いたところによると、父に後妻の話もあったらしい。よくある話として、後妻が子供に、意地悪であったり、することが、あたりまえのよ うに思えた。又そういう後妻が多かった、ことを耳にした時代であった。
 父は幼い、二人を心配して、村の人達の薦めを断り続けたらしい。
 「あなたの父親の苦労は、見ていて忍び難かった」
 と話してくれたこともあった。
 秋になると、運動会や遠足がある。近所の庭に落ちている、栗を拾いに行った。学校の二つの行事のため、その日まで、拾い集めて、持って行くためである。 栗の木のあった家の人も、別に咎めることもなかった。同期の友達は運動会や遠足を楽しみにして、この日の来るのを待っていたが、母のいない私には辛かっ た。
 運動会になると、お父さんや、お母さんが応援に来て、弁当を広げて、楽しそうに過ごしていた。そんな光景を見るのが辛かった。いつも一人で誰にも気付か れない場所で、父の作ってくれた、おにぎりを食べた。遠足になると、リュックサックに、菓子や果物が、一ぱい入っている。私は弁当だけで、リュックサック は、ペシャンコだった。何年生のときだったかわからないが、先生が
 「日向さんのリュックは軽そうだから、先生の弁当も一緒に入れて」と言われたことがある。実に複雑な気持ちだったことを、今でも思い出す。
 小学校を卒業するころ、長兄が京都から帰ってきて、、大工をしながら、家業の農業を継ぐようになり、嫁をもらい、父もようやく、楽になった。
 それから、四年の歳月が過ぎ、いま学校の修学旅行の、具体的な計画が示された。もう時間がない。当って砕けるしかない。
 「前に話した、満州旅行に参加したい。」
と思いきって懇願した。
 「そうか、行きたいか」と、しばらくして、
 「二〜三日考えてからにしてくれ。学校には何日まで返事することに、なっているのか」
 「まだ、十日ばかりあるが、早く返事をした方が良いと思う」と答えた。
 「駄目だと言っても、言うことを聞かないだろうな」と、一人ごとを呟き、どこかに行ってしまわれた。
その時は、すでに、この旅行を、認めていたのかも知れない。
 むしろ、旅費を、どう工面しようかと、考えていたのかも知れない。
 四〜五日して、
 「参加するか、返事をしなければならない。行きたい」と詰め寄ると
 「何人くらい参加するか」
 「ほとんど、皆が参加するようだ」
 「そうか、それなら仕方がないか-」との返事だった。
 父の腹では、そんなに、大勢が、参加する筈がない・・・と思っていたのだろうと思う。
 その前に、学校から、父兄に、充分な説明会もあったようで、忙しい父も、出席していたことも考えると、すべて、知っていたことと思う。
 今日でも「○○が欲しい」「友達が皆持っている」と親に請う。その心は、昔も今も、変わらないのだろう。
 ただ、あのころは、子供に、決して甘くなかった。むしろ厳しかった。
 もし、「駄目だ」と言われたら、どうしよう。半分は諦め、また諦めきれない。日々が数日続いた。
 父は、参加することを承知してくれた。参加費や、その他の費用は、どれくらいかかったか。詳しくはわからない。
 最終的に、参加することとなった人数は、はっきり記憶がないが、三分の一位で、たしか四十名〜四十五名位だったと思う。
 中学校を卒業して、就職すると、初任給はたしか、六十円位だった。
 この旅行の費用は、初任給の二倍以上だったのではなかったろうか。
 田舎の百姓にしてみれば、それこそ大金である。父はどうして工面したのだろう。
 もちろん、当時のこと、学校に多少の援助があったのかも知れないが。
 満蒙の開拓という、大目的のため、青年達を教育するのに、こんなよい、機会は、なかったと思う。参加費用の援助は学校側にあったのか知る由もない。
 六歳で母をなくし、母の面影がわからない幼子、二人を育て、寝食を忘れて働き、貧農の苦しみを、いやほど味わい、夫婦としての生活も甘受こともなく、ひ たすら子供のために、生きて来た父であった。
 そんな父の心情も知らず、有頂天になっていた頃が恥ずかしい。
 父はすでに、満州に行ってしまうのだろうと、覚悟していたようである。
 こんなことなら、「農学校に入れるのではなかった」、と思っていたかも知れない。
 小学校を卒業するとすぐ、工場に勤めるか、奉公に出るのが当たり前のこと。成績の良かった、同級生も、家庭の事情で、次・三男は、尾山(現金沢)・京 都・大阪に出て、働く人が多かった。
 その父も、シベリア抑留中に、この世を去っていた。引揚げて来た時には、父には逢うことができなかった。
 四十七年(昭和二十二年)二月十八日没す。享年六十二歳であった。
 抑留中の或る日、父の夢を見たことがあった。何月、何日だったか、覚えていないが、冬の特に寒い夜であった。
 あの時、父が逢いに来てくれた、日だったのかもしれない。
 父が亡くなるとき、私の名前を、何回も、何回も呼んでいたと聞かされた。
   父哭霊前
  北海抑留自可憐    北海→シベリア
  飢寒苦役己三年
  家厳夢兆帰何日    家厳→自分の父をいう言葉
  辺里仙遊独槍燃    夢兆→夢が知らせてくれること
 シベリアに抑留されて自分が憐れを感ずる
 飢と厳寒・苦役もすでに三年となる
 父から早く帰って来いと、夢に見たこともある
 ようやく、故郷に帰れば、父はすでに他界し、悲しみ涙が止まらない

(三)
 いよいよ、修学旅行に出発することになった。来るときが来た。胸裏はただ、満蒙の大陸にあった。
 一行は敦賀から朝鮮の清津に向かって出向した。船出を前に、気比神宮に、旅の安全と健康を祈願して参拝した。
 参拝を終えて、気比丸に乗船する。日本海の荒波を乗り越えて北上する。
 旅行の全日程は、五常の勤労奉仕を含めて、二十日間位だった。希望に満ちていたが、反面不安でいっぱいだった。
 はじめての船の旅は、三等船室で、災害時の避難所のように、大勢の人が、一室で過ごすたびである。私達と同じ船室にも、子供を連れた家族もあり、また数 人の固まりや、単身の青年など、さまざまな人達であった。
 旅行が目的の船客は、織られなかっように見えた。大陸に新大地を求めて、希望に満ちたようであった。 
 船底を幾つかの狭い升席に区切り、そこが船室である。一枡に十人位が、一室であり、思い思いに、本を読んだり、トランプや、花札をして退屈を凌いでい た。小さな窓があったが、外を見ても、波の動きと、きらきらする光の繰り返しであった。
 いつの間にか眠る。翌朝、清津に着いた。日本海は、波が荒いと聞いていたが、冬と異なって、夏のこと、静かな旅であった。
 四年後の早春(四十四年)肺浸潤と診断されて、内地に転地療養となり、八月に治癒して、帰満することとなったときも、この旅程、敦賀ー羅津の行路をとっ ての、一人旅であった。
 北海道の人は、今も、本州を内地と呼んでいるが、字典によると、北海道、沖縄から見て、本州、四国、九州のことを「内地」となっているが、何故、独立国 と言っていた、満州の邦人が「内地」と言っていたのか、皆がそう呼んでいて、何の疑問もかんじなかったのだろうか。誰か、偉い人が、「内地」と呼んだりだ ろう。また、或る人は「植民地ではないから「内地」という言葉を使ってはいけない」という人もいたと聞く。
 四十四年の旅は、たまたま、台風の影響で、敦賀を出航して間もなく、船が大きく揺れだした。三等船室で、立っては居られず、横になったが、寝ることはで きない。船室の中で、右へ左へゴロゴロと転がり、どうなることかと思っていた。幸い船酔いも、それ程ひどくなく、いつの間にか眠ってしまった。目が醒めて みたら、、隠岐の島に停泊していた。台風も去ったが、羅津までの旅は、その余波でゆれ、荒れた道に車を乗り入れたようであった。
 この旅の丁度、1年後に、敗戦の惨状を味わうこととなった。
 いま思うと、修学旅行は、前途洋々たる旅であったが、四年後の帰満の旅は、悪い予感のする旅だった。そんなことを思うこともある。そんなことはない。単 なる偶然だったのである。
 清津の朝は靄が、たなびき、冷やかで、すがすがしい。線濃い、遠景であった。列車は、一路北に向かって走る。大陸にその第一歩を踏み出したが、車外の風 景は、特に印象に残ったものはなかった。
 図們江を渡れば、もう松遼の地である。国境が近くなったとき、税関の検査が始まった。
 朝鮮は10年(明治43年)八月、日韓併合によって、外国ではないので、清津に上陸しても税関検査はない。
 税吏が列車に乗り込んで来たので、些が緊張した。外国に入るのだ。傀儡国家「満州」といえども、他国であることは間違いない。1932年3月1日、満州 国は独立を宣言した。
 日本政府や関東軍の謀略による、傀儡国家であり、世界に承認されないまま、一応国家としての形態をなしていた。国境を通過するときは、当然、税関の検査 があるのは、あたりまえである。
 私共一行も、形どおりの検査が行われた。検査員は、日本人と中国人、朝鮮人であったと思う。
 生徒の身分であり、修学旅行者となると、特に検査することもないと思うが、形式的にも、一人一人の行タク、鞄を開けさせて調べていた。不勉強で良くわか らなかったが、出発前に、例えば、トランプは2個まで、ウィスキーは、チョコレートは何個、と言われたような気がする。それ以上は没収されると、注意され ていたように思う。
 同じ車輌に内に、朝鮮人、満州(満州在住の中国人に対する日本人の呼称・・・・以下満州人と言うこととする)が多ぜい乗車していた。家族連れの人もいた が、大多数は大人立ちであった。
 私共の検査を終えて、朝鮮人、満州人のところで検査がはじまった。
 税関検査は興味があったが、見てみぬふりをして、まるで、覗き見るように目を向けた。何となく、気のひける、気まずい思いであった。
 こんな旅愁の一時もあった。味噌でも入っていると思われる、瓶の中を箸のようなもので、攪拌したり、鞄の縫目を丁寧に調べているようであった。二人ばか り、列車から降ろされて、連行されていたようであった。
 税関検査の方法を見ていた。満州人だから、朝鮮人だから、といった差別はなかったのだろうか。人種の差別があったとは思いたくないが、当時のこと、真偽 の程は解らない。日本人と平等に検査が行われたのだろうか?
 修学旅行のとき、就職のとき、再度、渡満したとき、5年間に、3度は新満州-安東間で、二度、図們江を越すときと、5回、税関検査を受けたが、私の場 合、何れも、簡単な検査で済んだ。日本人だった、からだろうか?
 どこの国に行っても、どんな人種にしても、悪人、悪行は、いつの世でも絶えないように、日本人だから、朝鮮人だから、満州人だからということはない。
 どんな物が、両国の間で密輸されていたのだろう。検査の厳重だった、ことを見ると、麻薬のようなら物だったのだろうか。
 朝鮮の車内からの風景は、禿山が目立っていた。清津に上陸したときは、緑深い山も見えたが、全体に、山が荒れていた。どうしてだろうか。日本の山の緑の 豊かさと異なる。万が一豪雨になったとき、どうなるのだろう。禿山になったのには、どんな、いきさつが、あったのだろうか。
 列車は北へ北へと進み、五常駅に着いた。開拓団に約一週間・団員の方々にお世話になり、ハルピンに向かった。(五常開拓団は別の項)

 

3.五常開拓団
(一)
 列車は図們江を渡り、図們・延吉を過ぎ、ハルピンに向かって走り出した。
 ここはもう、広軌になっている。気のせいか、揺れ方が、なめらかなように思う。荒涼とした、大草原を想像していたが、新京−図們間の京図線は暫く は、”樹林の大海”と呼ばれたように、朝鮮松や、樅などの木材の豊庫でもあった。窓外の大森林地帯や、湿地帯を過ぎると、急に開 けた、大草原の渺茫たる光景であった。
 広大な、荒野を、列車は北へ北へと進む。ハルピンの手前、南東約百余粁の五常駅が近くなって来た。
 何か俄かに、そわそわして来た。五常が近づいたからである。いろいろと想像したり、希望が、一人一人の脳裏を奔走している。
 「もうすぐ五常だ」
 「まだ少し時間がある。早すぎる」
 「早いものか、下車の準備をしなければ」
などと、会話が車内を駆ける。
間もなく、五常に着いた。正午を少し廻っていた、頃だったと記憶している。 
 下車しようと、降車口に来て驚いた。
 「駅はどこだろう」
 「ここが駅だ。もう駅についている」
 と先生から聞く。プラット・ホームはない誰かが、踏み台を持って来て、そこから降りる。
 私の知っている駅は、北陸本線と私鉄の北陸鉄道くらいのもので、他の鉄道は知らない。プラットホームのない駅に初めて遭遇した。後日、シベリアに抑留さ れたしき、クラスノヤスクに行くまで、シベリ鉄道で、プラット・ホームのない駅に、何回か停車した。また、乗降もした。ここもプラット・ホームはなかっ た。乗せられた車両は、貨物車であったからでもない。
 近頃、テレビの映像を見ると、世界の鉄道の中でも、田舎の駅で、プラット・ホームのない駅がある。あのときから、50数年を経ているのに、同じような、 駅がある。決して珍しいことでないので、こんな駅もまた、情緒があって良いものだ。改出札口はない。人数の点呼を受け、開拓団に向かうこととなった。
 松遼の小さな駅では、何処へ行っても、駅前や、駅附近には、住家がなく、五百米−六百米、離れた所に、城壁に囲まれたところに蒙落がある。
 五常は決して、小さな田舎街ではない。現在も地図には、五常と記入されている。主要駅の一つではないだろうか。
 五常の蒙落は、駅から悠に五百米はあった。蒙落の防守と、列車の防衛のためだと聞いた、かつて「阿片と馬賊は満州の花」といわれたことが、真実であるこ とを知る。
 50〜60戸位の蒙落だったか、もう少し多い住家があったのかわからない。
 中国の古代の建築図をみると、城壁や城郭があり、角楼や城門によって、都市が形成されている。ここ五常は、そんな立派な、蒙落でなかったので、城内の住 居数は少ないと想像した。
 城壁は、そこにある土を固めて積み上げてあるいわゆる土城である。高さも二米−三米位であったと思う。当時でも蒙落を守るために必要な構造であった。
 開拓団へ行く往路に、ここの前を通った。異様な悪臭にあう。土城の外は、厠になっているとのこと。人と馬、牛、豚など、家畜の糞が集められている。農民 には、唯一の肥料であった。貴重なものである。
 冬期は厳冬のため、用を足しても、数分で氷ってしまうので、臭気は漂わない。
 雪や氷が、解けると、農作業がはじまり、畑の施肥として片付けられて行く。
 城内には入れなかった。入れてもらえなかったのが真実だったのだろう。
 五常の駅に、開拓団の人が、荷馬車二台をもって迎えに来てくれていた。
 開拓団事務所まで、三粁位あったと思う。行李や鞄を積んで歩きだした。周囲は広漠とした草原であり、所々に潅木の濃い緑が、寂寥とした空間に、夏の光を 受け、浮き彫りになった光景は、俗念を忘れさせるものがあった。
 一粁位行った地点まで来たところ、小川があり、明け方の雨で、水量が増し洪水となっていた。潅木が倒れ、道路を塞いでいた。
 「珍しいことではない」
 「迎えに来るときは、これ程ではなかったのに」と開拓団の人が、つぶやいておられた。
 これから、とうなるかと心配になる。少しでも雨が降れば、洪水となり、好天が続けば干ばつになる。これが、この地帯の常識となっている。
 しかし、その期待に、はたして答えられる作業が出来るのか。なれない作業を、一生懸命にこなした。この作業は期間中続いた。また他の人達は、既往の道路 の補修や、田の畦の草取り作業などを手伝った。
 いま思うと、さぞ手足纏いになって、役に立たなかった、ことと思う。
(二)
 将来、この生徒達の中に、開拓団に来てくれる人もいるだろうという期待があったのかも知れない。或いは開拓団関係者の上部の依頼で、満蒙開拓の実態を見 てもらい、青少年に満蒙開拓の啓蒙になるとの考えがあったのかも知れない。
 困ったのは、水か飲めないことであった。出発に当たって、最も注意しなければ、ならないことは、
 「絶対に水は飲むな」と
何度も、何度も繰返し、注意を受けた。それが、いま現実に実感する。
 宿舎のすぐ前に井戸があった。日本の井戸と違い、ロープが、巻き上げ式になっている、いわゆる、満式巻上げ井戸だった。深さは、十米以上あったと思う。 汲み上げた水は、紫色で、とてもそのまま、飲めるものではない。
 「生水は絶対に飲むな」と
言われなくとも、誰も飲まない。いや、飲む気になれない。心配は要らない、濁り水であった。
 沸かして飲むわけだが、この紫色の水でも、飲まなければならない。
 日本の水の豊富さと、清流に慣れていて、自然の恵みを忘れていたことを、ここにまで来て知ることができた。
 田舎の田圃で、水が飲みたくなると、すぐ側を流れている、小川、水田の灌漑用の溝を流れている水を、手の平に汲み、飲んだものだった。
 さらに便所である。アンペラで囲った、ところに穴を掘り、板を横にした、それだけである。夏だったから、お尻を出しても寒くはないが、臭いがする。五常 の土城の外のことを思う。これも満式なんだろう。
 四十五年三月、ハイラルの工兵隊に入隊したとき、軍隊の厠は、ここと同じように作られていた。
 ホロンバイル高原にある、ハイラルの三月は、未だ厳冬である。用を足すのに閉口した、大・小便が数分で氷り、だんだん、渦高くなる。悪臭はないが、次第 に盛り上がり、お尻まで届く、この糞の山を砕かなければ、ならない。当然、初年兵の仕事である。鶴嘴で砕く。破片が顔に飛んできた。この開拓団でも、同じ 現象だったと思う。これが満州の実情である。
   五常の主要な作物は稲作であった。直か播式で、訪れた時は、水稲の花が咲き終わった頃であった。
 厳寒の地で、よく水稲栽培ができたものだと、稲作技術の進歩に感激した。
 日本でも、東北地方では、常に冷害に苦しんでいた当時、北満で稲作が、主流となっている。開拓団があるとは、夢にも思わなかった。
 朝六時頃起床、宿舎の広場に出て体操をする。広場といっても、20平方米位しかない狭い場所である。
 七月とはいえ、朝は寒い。大陸の1日の気温差は相当なものである。そんな朝の寒さに負けてはならないと体操がはじまる。
 体操が終わると洗面、例の紫色の水であるから、気持ちの良いものではないが、やむをえない。朝食を終えて、八時頃から作業となった。食事は粗末なもので も、開拓団の人達と同じ物を食べるので、不満を言う者は一人もなかった。
 開拓団の生活は、軍隊と同じ訓練をすることからはじまる。秦漢時代から清代まで、存在した制度で、平時は耕作に従事して、戦時には、軍隊となる土着兵、 明治時代に、北海道に置かれた、移民を思い出す。
 自給自足の生活で、手作りのウール製品、ホームスパンと呼ばれた、衣服を着る。住居の囲いに、家鴨を飼う。馬鈴薯は無肥料でも良く獲れた。大型機械を導 入すれば、生産もあがるが、まだそれだけの資金はない。風呂は高射砲風呂といって、桶に煙突を立てる、いかにも、高射砲に見えた。
 開拓団の冬は厳しい、長い冬に備えて、食べられるものはすべて漬物として備える。「走獣飛离の地」と言われ、猛獣が走り、猛禽が舞う。人跡未踏の地とな る。四海は氷雪が、波打って凍りつき、「死の世界」のようになる。
 開拓団でも「城壁」を作り、防風と匪賊の来襲に備えた、まだまだ、想像も出来ない。数え切れない、移民の生活は、苦難の連続であった。団員の人達は、共 に力をあわせ、春の来るのを待っていた。
(三)
 五常開拓団は当時の浜江省五常県(現黒龍江省)。ハルピンから南東に約百粁位の所にある。ハルピン−延吉間の主要駅の1つで、この駅から東へ約二粁位の 所にあった開拓団である。
 開拓団名は残念ながら不明である。満州年鑑、昭和17年(1943年)開拓史(遥かなる大地「満州再見」原明諸人編によると・・・)五常県には八集団が あった。これ程多くの開拓団があったとは思いもよらなかった、五常県山河屯南門街第七次朝陽川開拓団たったのではないかと推測される。ここの入植者の出身 県は、中部地方七県となっており、石川県の人達が何世帯か入植して折られた。入植年次が、昭和十三年で二百二十五戸とある。入植から満二年を過ぎた頃だっ たと、田畑や道路の現況から推測できた。何時入植されたか、戸数は何戸だったか、石川県の方は何世帯か、お聞きすることもなかったことを、今から思うと残 念でならない。
 開拓団と言えば、三江省の弥栄村、千振郷は、昭和七・八年入植年次で、満蒙開拓団の先遣隊として入植され、私の小学校四年生。五年生位の時である。
 基点となった、住不斯から南へ、約120粁、第一次四百九十名、第二次四百六十名が入植した。
 その頃、日本移民団が「佳木斯に来たら襲撃して一気に潰す」という、抗日隊に襲われたり、入植した時の食費が、一ヶ月五円くらいで空腹に堪えられなく、 中国人が飼っている豚や鶏を盗んで食べたりの生活であった。
 「俺たちは騙された」と不満があちこちからあがった。軍は中国人の土地を取り上げて、移住を強行したため、中国人の武装団が襲撃して来た。当然のことと 思う。このようにして武装移民団として入植を強行した。そのような経過を繰返しながら、昭和一〇年(1935年)代には、理想的な殖民村とたたえられて、 村には小学校も開校され、次代を担う子供達として育てられるようになった。
 五常の開拓団の入植は、第一次から六年位たった、昭和十三年(1937年)頃から始まったので、治安も或る程度安定はしていた。それでも夜半には、しば しば銃声が聞こえたと団員の方が教えてくれた。この頃になると、関東軍の力も増大したが、それは日本の利益だけのものであって、軍人・軍属は肩で風を切り 闊歩していた。
 開拓団は入植も、終戦時には234ヶ所、多い所は北満の三江省・東安省・中央部の浜江省・吉林省で、少ない所は南満、熱河で通北省・安東省・奉天省・四 平省・錦州省・興安北省と黒河省であった。
 南満の耕地は現地の人達で耕作された所が多く、その地域へ、権力を持って、進出しなかったことが、せめてもの罪滅ぼしだったかとも思う。興安北省、黒河 省は入植するには、あまりにも厳しい条件があったからだったのだろう。
 入植年次も、昭和十三年三十団地、十四年50団地、十五年70団地と急増したが、十五年に入植した人達は僅か5年間で悲惨な状況となったのです。
 歴史について専門的なことは別として、移民について調べてみると、16世紀に新大陸の発見されて、ポルトガル、スペインから10万人以上が移民して、 19世紀には、フランス、イギリスからアメリカ大陸に移住した移民は、他国の領土に、長期にわたって居住する目的で、平和的に移住することだったと思う。
 我が国では、明治初めハワイに移民したことはじまり、19世紀末に移民保護法が制定されて、各県から、アメリカ、オーストラリアに移住が盛んになった が、1924年(大正十三年)アメリカが排日移民法で事実上禁止された。
 大正12年関東大震災もあり、大正から昭和にかけて、深刻な状況となり「世界大恐慌」におそわれ、労働者の生活を直撃することとなった。
 学校に弁当をもって行けない児童も多く、少年、少女が職を求めて迷った。農村から都市に行っても職はなく、田舎に帰っても邪魔者扱いとなり、再び都会に 出て、ルンペンとなる。
 昭和はじめ移民先が、南米に変わり、ブラジル移民が始まった。所が、昭和六年(1931年)ブラジルも「移民入国制限令」を実施して移民数が制限され た。
 移民した人達には、厳しい現実に直面して人々の間には、いわゆる、移民を棄民と言われるような困難なものであった。国家間のトラブルはそれ程なかった。 いわゆる純然たる移民であった。
 満州移民は、ソ連に対して、国防ということで生まれたものである。当時は報道でも、「赤い夕陽の満州」「王道楽土」と囃された。
 満州事変を勃発、傀儡政権満州国を宣言、移民団は植民地の機能を果たすようになる。もはや純然たる移民ではなく、日本の植民地政策のためのものであっ た。

五常開拓団
匪徒獣禽吾故郷
医剤泥飲也尋常
何堪冷害秋成悦
田懇六年如熄霜

暴動な匪賊、猛獣や野鳥こそ我がふるさと
医療も薬剤も少なく蕎麦のような泥水で炊いたご飯 まだ尋常である
冷害に技術と努力で堪えしのんで、秋の穀物が実った喜びがあった
開墾してからわずか六年 霜が消えるように瞬時に消えてしまった移民は何だったのだろう


4.公主領・撫順
(一)
 五常の開拓団に一週間、名目は勤労奉仕であったが、実態は何も判らず、何の手伝いもできず、邪魔になったこと位であった。多少はと考えると、田の草を 取ったり、水田から団地内の住宅までの道路を作るのに、その一部分を手伝った程度で、かえって手足纏になったはずである。それでも団員の人達は親切にくれ ました。
 いよいよ、別れとなり多数の人達に見送られて団地を後にした。幹部の方二名が駅まで馬車を出してくれました。
 ハルピンはキタイスカヤ街、新京は市内を観光バスで周り、南嶺の古戦場、奉天は北陵と古宮を観光、見学して、公主嶺、撫順に向かった。
 ハルピン、新京(長春)、奉天(瀋陽)は「五十年目の再訪」の項で、旅行時、就職時、今回の訪中を中国の改革と過ぎ去ったことを重ねながら書いてみたい とと思う。



新京から列車に乗ってまもなく、公主嶺についた。新京から約六十粁のところで、現在治す背はには、公主嶺という所にはなく、懐徳となっていて、当時の農事 試験場は廃止になっているようである。
 公主嶺駅を降りると、すぐ農事試験場に案内された。駅から歩いて行ける近い所にあった。
 学校では、教室から、実習する農場まで、三百米位の距離はあったが、ここの試験場を見て、その広大さに肝を抜かれた。石川県にも農事試験場があったが、 とても比較にはならない。
 正面から、事務所までの通路には、両側に並木が整然と植えられ、緑のトンネルを二百米−三百米進んだところに、事務所があった。「こんなところで、仕事 ができれば良いなあ−」と思った。
 満鉄の経営である、公主嶺は大連から新京までの主要駅の一つで、南満と北満の境界に位置し、農産物の集散地でもある。地理的にも、条件の良い地点に、試 験場を作ったものである。勿論、当時は、満鉄と云えば、一国を成すくらいの力があり、満鉄王国だった。
 農事試験場では、水稲栽培の試験の他、大豆や他の穀物の栽培、畜産業の試験などが、主であったと思う。特に水稲の栽培は、日本の宮城県から、北の地方で は、毎年冷害によって、農村の苦闘が続いた。寒冷地での、米の収穫が、最大の目的であった。それなのに気候的には、比較にならない。松寮の地での栽培、稲 作の北限を、どこまで上げられるか、今では、技術も進歩して、緯度も北に上がっているが、50余年の歳月を経ている。
 遥か、彼方に、家畜の青葉を食む姿が、如何にも、大陸の試験場だと感じた。
 中国人の街、公主嶺は、当時、人口一万人位の商業の盛んな、街であった。大商人も少なからずいた街で、近郊の農民が集まって、来る街であったと、或る本で読んだことがある。

(二)
 石炭の街、撫順、炭都と呼ばれて繁栄した、古くからの街で、松遼全土に、みられる、古搭も、この撫順にもある。
 古搭は、仏塔で、遼(唐)代、金(宋)代に、造られた、ものが多いという。古都らしく、郊外に城門もあり、往事の繁栄を、しのばせるものがある。
 撫順は、露天掘りで、案内されたとき、その広大さに、わが目を疑った。学校で修った炭鉱とは、坑内に深くもぐって、掘るものと思っていた。露天掘りにつ いて、聞いていたが、想像を絶するものであった。坑の外輪より、坑内を見ると、田舎で、白山に登って、御前岳に立って、地獄谷方面を眺めた、ときのことを 思い出す。雄大なものであった。
 坑内に働いている人は、小さく幽かに見える程度である。石炭を運ぶ貨車も、模型では内科と、疑いたくなるほどに見えた。
 どう表現してよいのか、表現のしようがない。露天掘りの光景であった。
 撫順から奉天まで、汽車で一時間という距離にある。炭鉱の街に、日本人も多い。炭鉱で働いていた、日本人従業員は、3000余名(1940年 頃)、中国人30,000人のほか、数万人の臨時労務者が働いていたという。街の夜景も見事で、洋風文化都市と、いわれていた。
 先年は、友人の家に、遊びに行ったとき、彼の奥さんが、撫順の小学校、女学校を卒業されたとのことで、当時の写真帳を出して来られ、懐かしそうに、思い出話を語られた。
 日本人の中には、忘れられない街が、各地にあり、或る時代を生きた証人でもある。

(三)
 奉天を後にして、帰途についた。修学旅行のコースとして、旅順-大連という、道順を選ぶことも多いようであるが、われわれの一行は、奉天から安東(現円東)経由の安奉線の旅となった。
 旅順は、日露戦争の最大の激戦地、203高地を、将軍乃木希典は、爾霊山と命名した戦跡である。在満の旧奉天省、錦州省と租借地だった。遼東半島所在の、小学生、中学生の修学旅行や、遠足で、必ず訪れる地であった。
 この旅順に、立ち寄らなかったのは何故か、もし、立ち寄っていたら、生々しい、戦争の爪跡を見て、虚無感に、襲われていたかも、知れない。
 尋常小学校だったころ、
「遼陽城頭夜はたけて、有明月の影すごく」
 とか、
「旅順開城約なり手、敵の将軍ステッセル」
 と歌った。「橘大佐」「水師営の会見」の歌を、よく歌わされ、歌ったものである。
 日露戦争の歌を口すさんだ、軍国主義による、第二次大戦へと進んだ、時代背景によるものであった。
 子供心にも、戦争を凌駕し軍人を英雄として、尊敬するようになったことは事実である。
 旧満州国の地を、めぐる戦いが原因である千八百九十四年(明治三七年)日露戦争を勃発となる十年前の日清戦争に敗れた清国は、弱体となり、この弱体に乗じて、ロシアは旅順、大連を租借した。
 以前から、シベリア鉄道を建設して、極東地域に進出し、北満通過の鉄道敷設権を獲得し、遼東半島を植民地化していた。
 そのころ、ロシアを警戒する、英国と日英同盟を結び、満州・韓国問題をめぐり、ロシアと対立して-ついに日露戦争となった。
 その後、ロシア軍を破り、満州に侵入して、遼東半島を占領、この戦いで、わが軍は、六万人に近い、死傷者を出している。
 さらに、奉天開戦となり、全満の原野を戦場とした。7万人に及ぶ、死傷者を出して、奉天を占領、全満各地で、死傷者84.400人の犠牲者を払った。両方の利害によって、日本とロシアの間に講和が結ばれた。いわゆる、ポーツダマス条約である。
 この日露戦争による、死傷者合わせて、20万人という、尊い命を失い、死傷者を出している。
 一方、この戦いによって、国民の生活は悪化して、不満が民衆の間に広まった。
 将軍乃木希典は、全州で、戦没者の霊を弔った。その日は、赤い夕陽が、南山の一帯を染めた、満州の光景であった。

山川草木転荒涼・・・陽
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
全州城外立斜陽

という、わが国の戦争を詠じた。傑作は、あまりにも有名である。
 旅順攻略の要地で、大激戦が行われた全州で、馬を止め瞑想する、将軍の姿であった。
 司馬遼太郎の跫音(中央公論)に、「台湾総統として、無能の烙印を押された乃木希典は、おびただしい島民を虐殺する命令者の任務に耐えられなかったという意味の無能と云えた」
 そして、「さらに太宰治は次のように記している」「凱旋の折、陛下の御前に立ち、(なんの!!これが、凱旋て゜こ゜さ゜いいませうや。御処刑をこそ、おねがい申します)と言ひ、男泣きに泣いた。」と。
 この日露戦争で、長男勝典、次男保典を戦場で喪っているのである。
 安奉線で国境の、鴨緑江を渡り新義州に入る。又あの、見たくも無い、税関の検査を車内で受けなければならない。
 この修学旅行は、何であったのか。国策として、一人でも多くの青年を、満蒙の地に送り込むための一貫だったのだろう。
 旅行後、満州への憶は一戸強くなり、卒業時には、満鉄や、満拓への就職が勧められて、同級生の三割近い友が、満蒙をはじめ、北支、中支に、朝鮮の地に就職することとなった。

(次章へ)