『 うたかたの日々 −(5)− 』
− ・・・ファン? そろそろお目々を覚まして・・。 ジャンはとっくに起きてますよ・・・
澄んだ声が遠くから響いてきた・・・ような気がした。
なんだか胸の奥がきゅうっとなって、でも身体中がほんのりと温まってくる・・・
いつも身近に聞いているはずなのに、なぜかとても懐かしくて涙が目じりに溜まってしまった。
・・・ ママン ・・・?
ううん・・・ちがうわ。 わたしのママンは ・・・ 亡くなったわ。
・・・ 事故 ・・・? え・・・? だってわたしは ちっちゃな時から施設にいた・・・はず・・・?
ちがう・・・? わたし。 ファンって・・・だれ。 わたし・・・ わたしは・・・みんながフランちゃんって言うわ。
ジョ−が・・・一番初めに フランって呼んでいい?って・・・ だから。 わたし・・・
「 ・・・ ち ・・・ がう ・・・わ ? 」
「 やあ。 目が覚めた? 」
「 ・・・・ ? ・・・ 」
ぼんやりと見開いた眼の前に 優しい微笑を湛えた青い瞳があった。
ひんやりしたいい匂いのする布が そっと額に当てられた。
− ああ・・・。 いい気持ち・・・
「 ・・・ わ ・・たし ・・・ 」
「 よかった・・・ 随分熱は下がったね。 もう、大丈夫だよ。 」
「 ・・・ ここ・・・? 」
「 病院だよ。 なに、風邪をちょっと拗らせてだけだって。 すぐによくなる・・・ 」
「 ・・・びょういん ・・・? ・・・ああ! 帰らなくちゃ。 晩御飯、ジョ−がもうすぐ帰って・・・ 」
「 ああ、まだ起きてはダメだ。 」
慌てて身を起こそうした少女は その青年に優しく肩を抑えられた。
そのまま、 彼は少女をそっと抱きしめた。
「 ・・・ ファン、ファンション? 僕が ・・・ わからない ? 」
「 ・・・・ ? ・・・ 」
「 可哀想に・・・ こんなに痩せて。 可哀想に・・・ 可哀想に・・・! 僕の・・・ファン! 」
「 ・・・ お ・・・ 兄ちゃ・・・ん ・・・? 」
自分の肩をしっかりと掴み自分の顔を凝視している青い目から ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「 そうだよ、ジャンだよ、・・・お兄ちゃんだ・・・! 」
「 ・・・ジャン兄さん・・・ 」
「 ファン・・・フランソワ−ズ! ああ、本当に君は生きていたんだね。
昨夜から僕はもう、夢じゃないかって・・・ほとんど寝られなかった。 」
「 ・・・ 昨夜? たいへん!今朝の御飯もお弁当も・・・作ってないわ。 わたし、帰らなくちゃ。
ジョ−が・・・ジョ−が心配してるわ。 」
「 わかった、わかったから。 まだ熱があるんだ、出歩くのは無理だ。 さあ・・・ 」
「 お兄さん。 大丈夫ですから。 わたし、このくらい平気です。 ・・・お願い、手を離して・・・ 」
「 ファン・・・・ 」
少女は しゃんと首を擡げまっすぐに兄の眼を見つめた。
そこには つい先ほどまでのおびえ・混乱した、弱弱しい影は微塵もみえなかった。
「 わかった。 彼・・・島村君、か? にはきちんと連絡をしておくから。 この場所も教える。
だから、今は。 とにかく、今は、はやく元気になってくれ。 じゃないと、島村君も心配するよ。 」
「 ・・・本当ですか。 」
「 ああ、兄さんを信じてくれ。 」
「 ・・・ハイ。 」
「 お早う! お嬢さんの具合は如何かな? 」
間延びしたノックとともに白髭を蓄えた温和な表情の老人がぶらり、と病室に入ってきた。
だらしなく前を開けた白衣をひっかけたその姿に少女は目を見張った。
「 あ・・・コズミ先生。 お早うございます。 ちょっと前に目が覚めたところですよ。
ファン? こちらはコズミ先生、この病院の院長先生だ。 」
少女は黙って ぎこちなく会釈をした。
「 おお、お早う、ジャン君。 ふぉふぉふぉ・・・廊下の長椅子の寝心地はどうだったかの?」
「 ・・・あ、いや・・・ その。 」
「 まあ、よいよい・・・・。 さ、こちらはヘレン先生。 妹さんの担当だ。 」
「 お早うございます、 ジャンさん、フランソワ−ズさん。 ヘレン・プワワ−クと言います。
そうぞよろしくね。 」
「 ・・・ ハイ ・・・ 」
院長に従ってきたショ−ト・ヘアの美人がやさしく兄妹に微笑みかけた。
「 さ・・・ お嬢さんの診察じゃて、君はちょいと席を外していておくれ。 」
「 はい、宜しくお願いします、先生 。」
ジャンは 丁寧にお辞儀をすると、妹にもう一度視線を当ててから静かに廊下へ出ていった。
「 ・・・ 失礼します、ジャン・アルヌ−ルです。 」
「 おお、どうぞ。 お入りなさい。 」
「 はい・・・ お邪魔します。 」
院長室に入り、ジャンは待ち受けていたコズミ院長とヘレン医師に頭を下げた。
「 ・・・ どうぞ、お掛けください。 」
「 ハイ。 ・・・あの、早速ですけど・・・ 妹の具合は・・・? 」
「 まあまあ、落ち着いて。 大丈夫、風邪は心配ない。 ただ・・・少々衰弱しておるから、
しばらくゆっくり休ませてやることじゃ。 」
「 ・・・ああ! よかった・・・! ありがとうございます、院長先生。」
「 それと、なあ・・・ 」
「 ・・・ はい ・・・? 」
院長は 傍らに立っていたヘレン医師を目顔で促した。
「 妹さんが見つかったとき、彼女はとても記憶が混乱していたようだ、とおっしゃいましたね。」
「 え、ええ。 なんだか・・・昔の、あの事故以前のことはよく覚えていないようでした。
自分は小さな頃から施設で育った・・・とか。 僕のこともすぐには納得できなかったようです。 」
顔をゆがめ、辛そうに話すジャンを二人の医師はやさしく見つめていた。
「 さきほど、ちょっとインタビュ−をしてみたのですが。 妹さんはお兄さんのことは
はっきりと思い出していました。 」
「 ヘレン君は 心理学が専門でな。 ここでは患者さんのカウンセリングを担当してもらっておる。 」
「 心理学、ですか・・・ 」
「 多分、その・・・ 事故以後、彼女は辛い年月を過したようですね。
なんとか新しい環境を受け入れなければならなかった。 それで・・・以前の
幸せだった少女時代を忘れようとしたのでしょう。 」
「 あの事故の後、僕自身も大怪我をして回復に相当の時間がかかりました。
幸いにもエッカ−マン博士が治療に当たって下さったので、この通りなんとか・・・。 」
ジャンは俯いて 重い重い溜息を吐いた。
「 ・・・ でも。 妹は。 僕とは別に救助されたらしく、生命は取り留めたものの、
その後は・・・ どうやら孤児院などの施設をたらいまわしにされていたらしいのです。 」
「 ええ、彼女もそう言っていました。 」
「 ・・・ 可哀想に・・・! あんな・・・あんな・・・脚になって・・・。 」
「 ジャンさん? 今、彼女は幸せなんだ、と思いますわ。
精神的に安定していて、昔のこと、子供時代のことをすこしづつ思い出しているようです。」
「 今って・・・ あのアパ−トでの貧乏暮らしが、ですか?? 」
「 ええ。 彼女自身、今の状態が<しあわせ>なのです。 」
「 ・・・・ そう・・・ですか・・・ 」
「 ま、おいおい身体も回復するじゃろうし。 そうしたら、あの脚じゃがとりあえず
傷跡だけでもなんとか目立たなくしてやりたいのう。
女の子じゃもの、短いスカ−トも水着も着たかろう・・・ 」
肩を落とし、俯いているジャンにコズミ院長は優しく語りかけた。
「 脚の機能については、あのエッカ−マン博士なら治せるとおもうがの。 」
「 ・・・ああ、そうですね! あの方なら・・・。 」
「 ・・・あのう・・・アルヌ−ルさん? 」
ヘレン医師がすこし言い出しにくそうに言葉を切り出した。
「 ・・・妹さんは、とてもお家に帰りたがっていらっしゃいますわ。 ・・・ええ、今現在
暮らしていらした<お家>です。 あの・・・ご主人、ですか、その方にご連絡してあげた方が・・・ 」
「 妹が・・・そう、言ったのですか。 その、彼に知らせてくれ、と? 」
「 ええ。 とても仲のよいご夫婦のようですね。 お幸せそうですよ? 」
「 ・・・・・・ 」
「 妹さんのこころの問題のためにも、お願いしますわ。 」
「 ・・・そうですか・・・。 判りました、彼・・・島村君に連絡しましょう。 」
「 そうなさって下さい。 気持ちが安定すれば身体の回復もずっと早いはずです。 」
「 ・・・なあ、ジャン君。 幸福ってヤツの<味付け>はの、ヒトによって違うんじゃよ。 」
言葉を濁しがちになっていたジャンは はっとして院長の顔を見上げた。
白髭に縁取られたその顔は かわらず柔和な笑みでいっぱいだった。
「 ・・・・ はい。 」
ジャン・アルヌ−ルは深く頭を下げて 院長室を辞去した。
「 あ、お兄さん! ・・・お願いがあります。」
「 ファン、ちゃんと寝ていなくちゃダメだろう? ・・・さあ。 」
ベッドに半身を起こし、半ば乗り出して自分を迎えた妹を、兄はやさしく嗜めた。
ほら・・・、とベッドサイドに畳んであったガウンを羽織らせた。
「 ・・・ありがとうございます・・・。 あの・・・ 」
「 ああ、心配しなくても大丈夫。 島村君には連絡をするよ。
今、院長先生とヘレン先生にも 言われて来たところだ・・・ 」
「 お願いします。 それと・・・あの。 」
「 ・・・うん? なんだい? 言ってごらん。 兄さんにできるコトなら何でも・・・ 」
くしゃり、と髪を撫でられ 妹はほんのりと笑みをその白い頬に浮かべた。
− ああ・・・! この笑顔・・・。 ファン・・・ オレのちっちゃな妹・・・
ジャンは知らずに滲んできた涙をそっと指先ではらった。
「 ・・・ お金 ・・・ お金を貸してください。 どんなことをしてもきっとお返ししますから。 」
「 ・・・ 金?」
「 はい。 そして、ここに・・・島村ジョ−の名義で振り込んでいただけませんか。 」
「 どういう事なのかい。 どうしてファンが? 」
「 これは・・・ ジョ−の仕事のことで・・・。彼のチャンスなんです。 わたし、どうしても、なんとしも彼の夢を
応援したいの。 借りたお金で・・・なんていけないですけど、あまり待ってもらえないんです。
わたし・・・ 一生懸命貯金してましたけど、まだ・・・ 」
「 ファン・・・。 いいよ。 ファンは・・・本当に島村君のことを想っているんだね。
この・・・ファンの眼を見ればよくわかる・・・ 」
「 お兄さん ・・・ 」
「 うんとワガママ言って・・・甘えて欲しいんだ。 今までのぶん、何でもファンの希望を叶えてあげる。
それが・・・僕の、兄さんの罪滅ぼしだ。 」
「 ・・・罪、だなんて。 わたし、幸せです、今・・・。 ・・・あ?! 」
「 どうした? 」
「 仕立物! 期日に間に合わないとおばさんに迷惑をかけるわ! お兄さん、お願い、
家へ行って・・・押入れの下の段に入っている風呂敷包みを持ってきてください。
今週の分、急がなくちゃ・・・! 」
急に声を上げた妹に、ジャンは少々面食らったがすぐに笑顔にもどった。
真剣に兄を見つめている妹の髪に ふわり、と手を当てた。
「 わかった、わかった・・・。 何でもファンの言うとおりにするよ。 」
「 ありがとうございます・・・! あ、そうだわ、ちょっと・・・ ジョ−にメモを書きますから・・・ 」
「 ああ、ああ。 ラヴレタ−でもなんでも・・・ 持って行ってやるよ。 」
「 やだ・・・ラヴレタ−、だなんて・・・ 」
頬を淡く染めた妹に ジャンはしばし眼を奪われていた。
− なんて・・・ 綺麗なんだ・・・! ・・・ああ、ファン。 お前はもう立派なオトナなんだね。
「 ・・・失礼。 ジャン君? 入ってもいいかな? 」
大きなノックの音と一緒に りゅうとした身なりの青年紳士が現れた。
「 カ−ル君・・・! ああ、どうぞ。 」
「 ありがとう、じゃあ・・・ちょっとだけ。 お邪魔します、お嬢さん。」
「 ファン、彼を・・・ 覚えていない? 」
「 ・・・ え ・・・ ? 」
見知らぬ訪問者に 表情を強張らせ思わず自分に身体を寄せて来た妹に兄は優しく語りかけた。
「 カ−ル・エッカ−マン君だよ。 カ−ル君、妹の・・・フランソワ−ズです。 」
「 お早うございます、フランソワ−ズさん。 カ−ル・エッカ−マンといいます。 」
青年紳士は 抱えてきた濃いロ−ズ・ピンクの薔薇の花束を差し出した。
「 ・・・これ、お見舞いです。 お気に召すと嬉しいのですが。 」
「 ・・・あ・・・ ありがとうございます。 エッカ−マンさん・・・ 」
少女はぎこちなく微笑んで 花束を受け取った。
その花弁と同じく 濃く・・・少々キツイ香りがにおいたった。
「 彼を・・・ 覚えていないかい、ファン? 」
身体を固くしている妹の肩を 兄はそっと抱いた。
「 ・・・え? 」
青い大きな瞳が、なおさらきっかりと見開かれた。
「 あ・・・あなたは。 この前、骨董屋さんで兄の時計を・・・買ってくださった方? 」
「 思い出して頂けましたか。 その節は不躾にお顔を眺めて、失礼しました。」
「 ・・・ いえ ・・・ 」
「 彼がね。 」
ジャンはゆっくりと妹に語りかけた。
少女はやけに親しげに話しかける青年紳士にとまどっていたので、助けを求めて兄に視線を向けた。
「 そのお店であの時計に気がついて。 でも、うろ覚えだったから、最初はまさかと思ったそうだよ。
だけど・・・ 君を見て、確信を得たんだそうだ。 ファンが帰ったあと、すぐに兄さんに連絡をくれた。 」
「 まあ・・・ そうなんですか。 わたし・・・ 」
「 以前・・・ まだあなたがご両親の元にいらしたころ、お目にかかっているのですよ。
それは覚えていらっしゃいませんか? 」
「 ・・・ ごめんなさい、 わたし。 ・・・以前のことって・・・その事故前の・・・よくわからないんです。 」
「 すまんね。 ちょっと妹は・・・その、記憶が混乱していて。 」
俯いて言葉を濁す妹を ジャンはさり気なく庇う。
「 そうですか。 僕ははっきりと覚えていますよ。
あのパ−ティ−で。 あなたは真っ白なドレスで、そう、こんな薔薇色のサッシュと
おそろいのリボンを髪に巻いていらした・・・そう、カチュ−シャ風に・・・ 」
青年紳士は 自分の思い出を追いひとりで滔々としゃべりはじめた。
「 あの・・・船の大広間を・・・覚えていますか。
壁紙も絨毯も。 みんな薔薇の模様で・・・ ロ−ズ・ル−ム、という名だった。
その薔薇の花園で、あなたは一番美しい白い可憐な蕾でした。
僕は ・・・ あの時の貴女の微笑みが 忘れられないのです。 」
「 ・・・ わたし。 幸せ・・・ だったのですね・・・ 」
強すぎる香りが鬱陶しく、少女は抱えていた大きな花束を脇においた。
しどけなくひろがった花弁は ますます濃い香りを撒き散らす。
「 骨董屋でお見かけしたとき、正直言って初めは・・・失礼ですが、少年かと思ったのです。
でも、次の瞬間、ぎょっとしましたよ。 そう、あなたのお兄さんの少年時代によく面差しが似ていました。
あの時計にも見覚えがありましたから。 これは、きっと、と・・・ 」
「 ・・・まあ。 ふふふ・・・あの時、ジョ−のジャンパ−を着てマフラ−で髪を巻き込んでいましたものね。
わたし、いつもスラックスですから。 オトコノコに見えました? 」
「 あなたには、最高級のものが相応しいのです。 もうこれから不自由はさせませんよ。」
「 ・・・はあ・・・ 」
「 服も靴もアクセサリ−も。 一流品だけが、フランソワ−ズ、あなたを飾る資格があるのです。」
自分自身の言葉に意気込んで興奮している紳士に、戸惑い少女はそっと兄の顔を伺った。
不安な妹の瞳に、ジャンは数回頷いてから静かに口を挟んだ。
「 申し訳ない、カ−ル君。 妹はまだ万全ってわけじゃないので・・・ 」
「 ああ、すまない、ジャン君。 つい・・・。 すみませんね、お嬢さん。 今日はこの辺で
退散いたしましょう。 」
「 ・・・ あ ・・・ お見舞い、ありがとうございます。 」
ほっとした面持ちで少女は兄の蔭であたまを下げた。
さらに勿体ぶった挨拶を残し、青年紳士は足音も高く病室を出て行った。
「 ・・・ お兄さん ・・・ 」
「 驚かせてしまったようだね。 ・・・ 彼も悪いヤツではないんだが、その、どうもね。
周りがあまり見えない、というか・・・ 」
ううん・・・と少女は、困り顔の兄に微笑んでみせた。
「 ・・・でも。 あの方のお蔭でお兄さんに会えましたもの・・・ 」
「 ファンは・・・ いつも優しいね。 さあ、島村君への手紙を書きなさい。
きっと、彼も首をながくして君のことを待っているよ。 」
兄の言葉に少女はまた頬を染めたが、その色合いは側に転がってる大仰な花束よりも
遥かに美しかった。
「 ファン、すまん、兄さんはどうしても仕事でちょっとの間、外国に行かなくてはならないんだ。
その間、ここでゆっくり養生して元気な薔薇色のほっぺのファンにもどっていておくれ。
島村くんにも、ここへ来てくれるように言っておくから。 」
「 まあ・・・。 ・・・ええ、ジョ−が居てくれるなら。 わたし、平気よ、大丈夫。
お兄さん、どうぞ・・・ 気をつけて。 」
妹の白い額にキスをひとつ、ジャンは陽気な足取りで病院を後にした。
「 ありがとう。 きみにはこころから礼を言うよ。 本当に・・・妹を支えてくれて・・ありがとう。 」
「 ・・・ アルヌ−ルさん ・・・ 」
「 ジャンって呼んでくれ。 きみは ・・・ 僕の義弟だろう? 」
「 ・・・ あ ・・・、 その・・・ はい。 ジャン ・・・さん。 」
「 改めて・・・ 妹をよろしく頼むよ、ジョ−君。 」
差し出された大きな手に 青年はおずおずと自分の手を差し出し
そして しっかりと握った。
少女の兄がアパ−トを訪ねたとき、部屋には誰もいなかった。
大家のギルモア老人によると、まんじりともせず一晩を明かした青年はともかく仕事に出た、という。
尋ねきいた青年の務め先の工場で、やっとジャンは彼に会うことが出来た。
「 そんなわけで・・・ 妹はしばらく入院させる。僕は少しの間だが出張しなければならないから、
ここ・・・この病院だ、どうぞ行ってやってくれ。 」
「 はい! 」
「 ・・・頼んだぞ。 ははは・・・ 君の顔を見ればアイツはすぐに元気になるよ。
・・・さ、これ。 妹からの ラヴレタ−だ。 」
「 や・・・どうも・・・ 」
ジャンが差し出した封筒を青年は両手にうけとり、
そこに記された柔らかな筆跡をじっと見つめていた。
− なんて優しい瞳なんだ・・・ ああ、ファン。 君は ・・・ いいヤツを見つけたね。
騒がしい町工場の片隅で ジャンは目の前の青年と妹の幸せをこころから祈った。
「 ・・・ ジョ−はん? さ・・・もう、いい加減に切り上げて帰りなはれ。 」
「 ・・・ 張さん ・・・ あと ・・・ 一杯だけ・・・。 」
「 仕方ないアルね〜・・・ ほんに、コレで最後やで? 」
ふとい溜息を吐き、店主は青年の前にとん、とコップを置いた。
「 ・・・ よう。 」
「 らっしゃい! ・・・あ、アルベルトはん。 ようお越し。 」
ノレンをズイと掻き分け、銀髪の頭が屋台を覗き込んだ。
「 今夜も冷えるな。 一杯、つけてくれ。 ・・・ああ、やっぱり。 おい? 」
「 ・・・・ あ ・・・・ 監督 ・・・ 」
ぎしっと椅子に腰を落とし、現場監督氏は突っ伏していた青年に声をかけた。
「 最近、お前がココでクダまいてるって噂なんでな。
どうしたんだ? いつも走って帰っていたヤツが・・・。彼女は もう退院したんだろう?」
「 ・・・ 退院? ・・・は! 確かに。 もう病院にはいません。 」
「 だったら早く帰ってやれ。 」
「 ・・・ 家には いないんです。 」
端整な顔を青澄ませ、青年はぼそりと吐き出すように言った。
「 帰ってないです。 居所はわかっているんですけど・・・ 会わせてもらえない。」
「 なんだって? 」
「 兄さんって人がわざわざ訪ねて来てくれてました。・・・すごく、あったかい、いい人でした。
フランの手紙を持ってきてくれて病院にも来て欲しいって・・・ 」
「 よかったじゃないか。 彼女の兄貴と上手くゆくなんて大変なコトだぞ?」
珍しく軽い口調の現場監督氏に 青年はちらりと視線を向けたがすぐにまた
グラスの上に俯いてしまった。
「 ぼくも・・・そう思ったんです。 でも・・・ 」
「 ・・・え? 」
青年は はじめ、その男性の言っている意味が判らなかった。
「 ですから。そのような方は当病院にはいらっしゃいません。今現在だけでなく
過去の記録にもありません。 どうぞお帰りください。」
「 ・・・そんな ・・・バカな・・・」
少女の兄から教えられた病院に勇んでやってきて、青年は信じられない面持だった。
きみがくれば妹はすぐに元気になるさ、と彼女の兄は嬉しそうに微笑んでいたではないか・・・・。
少女の手紙で頼まれた身の回りの物やら着替えやらを両手に一杯かかえて、
青年はますます訳がわからなかった。
「 彼女・・・ぼくの・・・その・・・妻・・・ですが、彼女のお兄さんからも頼まれたんです。
会わせてください!」
「 会わせるも何も・・・そのような方はいません。お引取りください。」
ばんっと音をたてて病院のスタッフらしい男性はドアを閉じた。
「 ・・・ あ! 」
「 ・・・あの・・・島村・・・さん? 」
「 ・・・? あなたは・・? 」
「 わたしはあの病院に勤務する者です。 奥様の担当をしていました。
ヘレン・プワワークといいます。」
「 え! じゃあ、やっぱり、フランはっ!」
病院を出たもの、呆然としていた青年は物陰から声をかけられ飛び上がるほど驚いてしまった。
「 はい、たしかに入院していらっしゃいました。」
「 じゃあ!今も・・?」
「 いえ、今朝、急に、本当に突然退院なさって・・・今はこちらのお邸にいられるはずですわ。 」
ヘレン、と名乗った女性は青年の手に折りたたんだメモを押し付けた。
「 ・・・どうして・・・なぜ?? 彼女が・・・望んだのですか。 この邸は誰の・・・? 」
「 わかりません、何も。 私にも何の連絡もありませんでした。 」
「 ・・・なら、どうして・・・? 」
「 わたしの妹がここのレセプションにおります。 妹が・・・奥様を連れて行った人々の
ハナシを耳に挟んだのです。 」
「 ・・・ そうですか。 」
「 島村さん。 どうか・・・奥様の所へ行ってあげて下さい。 今、奥様に何よりも必要なのは
・・・あなた、です。 」
「 ヘレンさん ・・・ 」
どうかこの事は内密に、と小声で付け加えるとその女性は小走りに病院の裏手へ消えて行った。
「 ふん? ・・・これが、その、所書きか。 」
「 ・・・・・ 」
現場監督氏と屋台の主人は額を寄せて、青年が示した紙片を覗き込んだ。
「 ・・・ アイヤ〜 ・・・ こりゃ・・・ 」
「 ・・・ う〜ん・・・ 」
二人はほぼ同時に 唸り声を上げた。
「 ・・・ 監督も、張さんも・・・ 知っているんですか? この・・・? 」
「 知ってるもなにも、お前。 」
「 このお人がやってはる会社はなぁ・・・ 有名アルね。 その・・・えげつのうてなぁ・・・ 」
「 え?!」
「 まあ、そういうことだ。 エッカ−マン海運ってとこは・・・
目的の為には手段を選ばない。 評判は・・・あまりよくない。 」
「 ・・・どうして! どうしてそんなヒトの家に? 」
「 それで。 お前、ココに行ったんだろう? 」
「 ・・・は! 門前払いですよ。 門のとこでマイクみたいな機械で返答があっただけです。
それも<そのような方はいません> の一点張りで ヒトの影さえ見えませんでした。 」
ぐい、と青年はコップ酒の残りを一気に呷った。
「 もうすぐ、彼女の誕生日・・・。届を出そう,ちゃんと・・・夫婦になろうって約束していたのに。
カレンダーにしるしをつけて二人で楽しみにしていた・・・のに・・・ 」
「 おい。 島村。 たいがいにしろよ。 」
「 ・・・・ ? 」
突然、厳しい声が青年に降ってきた。
「 事情はわかった。 お前に今、出来ることは何なんだ? よく考えろ。
その兄貴の連絡先を調べるとか・・・ なにか手立てを捜せ。
少なくとも酒浸りで愚痴ってる場合じゃないはずだ。 」
「 ・・・ 監督 ・・・ 」
「 ・・・惚れてるんだろ。 」
「 はいっ。 」
「 彼女も お前を信じて待っているよ、きっと。 ・・・ 離すなよ ・・・ 」
「 ・・・ 信じて ・・・ 」
青年はそっと内ポケットの上に手を当てた。
そこには。
少女の手紙と 使い古しのハンカチが大切に収められている。
<待っていてね>
少女の字が青年に語りかける。
− フラン、フランソワ−ズ・・・! ぼくは・・・・!
「 ・・・ ありがとうございました。 ぼくはこれで失礼します。 」
青年はぱっと立ち上がると監督氏と店主に深く頭を下げた。
「 ・・・ 明日も。 現場で待ってるぞ。 」
「 ジョ−はん。 またお越しなはれ。 今度こそ二人で・・・ 」
「 ・・・・・・ 」
こっくりと頷くと、青年はばっと踵を返した。
青年はなにも<持っていない>自分が歯がゆかった。
絶対に護る・・・なんて口先だけだった・・・。
− 強くなりたい。
この手に生きてゆく為のチカラをつけたい。 そして彼女を取り戻すのだ。
そのために、自分はどうしたらよいのだろう。
屋台の屋根をふるわせ木枯らしが吹き抜けてゆく。
まだ 春の気配など微塵も感じられない厳冬の夜、
青年はしんしんと冷え込む大気にその身体もこころも晒していた。
Last
updated: 08,30,2005.
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**** なんか・・・青春歌謡曲みたいになって来てしまった〜〜〜(泣)