涼風に誘われて


プロローグ

青空




 「う〜ん、いい天気だな…」
放課後、珍しく部室でPCに向かっていた弘希は、ふと窓の外を見やってつぶやいた。
梅雨ももうすぐ終わろうという七月中旬。期末テストが終わった直後ということもあって、久しぶりに学校全体が開放感に包まれている。
「…久しぶりの青空、ですね」
不意に、弘希の後ろで声がした。振り返ると、一年後輩のつばさが同じように外を見ていた。
手にはカップがふたつ。目が合うと、つばさは、はい、と瞳を笑わせてその一方を弘希に渡した。
「ああ、ありがとう」
と、弘希は笑顔で受け取る。中身はホットコーヒー。アイスにするにはまだ少しばかり早いが、ホットには微妙な季節、そんな感じだ。開け放した窓からは、心地よい涼風が吹き込んでくる。
「梅雨もようやく一休み、って感じですね」
「ああ、そうだな。このところずっと雨ばかりだったから、なかなか外に出られない日が続いてたけど」
つばさはくすっと笑ってうなずくと、弘希の使っていたPCを見やる。
「あれっ、例の解析作業、まだやってるんですか?」
「ん、ああ…」
と、弘希は苦笑混じりに首を振った。つばさの言う解析作業とは、この春にやってきた大彗星の写真の解析のことである。科学部が総力を挙げた観測体制を敷いたため春休み中学校に出るはめになりはしたが、おかげで写真を含めた観測データをたっぷりと取ることができた。秋の文化祭では、科学部でも一番の展示になる予定である。
もっとも、天文は弘希の専門分野ではない。彼がこれに携わっているのは、観測器材の大半を彼が作りあげたせいである。
「画像の解析はもう終わったよ。あっちでは、展示レイアウトと内容の確認をしてる。俺の手伝いはひととおり終了、ってとこだな」
と、弘希は奥を振り返った。彼の視線の先では、数人の部員たちが一固まりになって一台のPCに向き合っている。科学部の彗星観測チームだ。
「俺が今やってるのは、いわば遊びみたいなもんだよ。あの彗星の軌道図にこれをはめ込んでアニメーションにできないか、とね…」
先輩らしいですね、とつばさは微笑んだ。弘希の科学力はつばさもよく知っている。部内で彼の話についていけるのは、それに次ぐ科学力を持っているつばさだけだ。
「もしできれば、素敵な絵になると思いますけど…、でも大変じゃないですか?」
弘希は肩をすくめた。
「まあね、だからこそやってみたいとは思ったんだが、さすがに同時観測のデータが少ないとなぁ…」
そうぼやきつつ、弘希は苦笑した。写真から解析されたデータを基に3Dの動画なんぞ作ろうとするからこうなるのだが、弘希は弘希で別の展示        というより、文化部合同の出し物を任されている。こちらが始動するのは夏休みに入ってからだから、今はこうして遊んでいられるのだ。ちなみに、つばさもこちらのチームに入っている。
「遊びに根を詰めるのもいいですけど…」
と、つばさはいたずらっぽくささやいた。
「あんまりやりすぎると、遊びどころじゃなくなっちゃいますよ。何事もほどほどが一番です」
「まあね…」
弘希は笑顔を返した。できなければそれで別にどうということはない。けれども、いったんやり始めるとそれこそ寝食を忘れて際限なくのめり込んでいくのが弘希である。だからこそ、つばさもその辺りを心配しているのだが。
弘希は再び、視線を窓の外に向ける。
「ま、今週は今日で終わりだし、週末は三連休だから、散歩がてらどこか遠くへでも行ってみるさ」
「天気もいいみたいですし、ね」
つばさも笑顔でうなずく。テスト明けで土曜日は休み、そして月曜日は海の日で休みだ。受験生である弘希にはそうも言っていられない現実があるのだろうが、それでも三連休、ましてや貴重な梅雨の晴れ間ともなれば、息抜きにどこかへ出かけてもさして影響はあるまい、とも思う。
と、不意に、弘希の隣で外を見ていたつばさが、何か思い付いたような顔をした。もちろん弘希はそれに気づかない。
「もし、どこか行くようなら、わたしもお供しますよ?」
「え…?」
弘希は驚いてつばさを見やった。当の彼女は、ポーカーフェイスめいたいたずらっぽい顔で弘希を見返している。最近、弘希の前でこんな顔をすることがすっかり多くなった彼女だった。
「だってつばさ…、お前さんにも予定ってもんがあるだろう?」
そう言う弘希に、つばさは首を振った。
「ううん。わたしもこの週末は特に予定がないから、どこか出かけようかな、って思ってたんです。でも、一人で行くのも何かつまらなそうだし、先輩と一緒なら楽しいかな、って。もっとも、先輩がそれでよければ、ですけど」
語尾に”♪”でも付きそうな、弘希が断わるとは微塵も思っていない表情だった。こんな顔をされては、さすがの弘希も、一人で行きたい、とは言えない。
「…あのなぁ」
とりあえず遠回しに反論してみるが、つばさ相手に効果があるとはとても思えなかった。
案の定、
「じゃ、どこへ行くか決まったら、今夜にでも連絡下さいね。…っていうか、今日の帰りにどこへ行くか決めちゃいましょう」
はっきりした否定の返事が返ってこなかったのをいいことに、つばさは楽しそうにどんどん話を進めていく。弘希が断わり切れないのを見越しての企みであることは、もはや明白だった。
ため息をついた弘希から空になったカップを取り上げると、つばさは、じゃ、お代わり入れてきますね、と笑顔をひとつ残して立ち去った。
後を見送った弘希は、観念したように首を振った。
どうやら、今日は一緒に帰ることになっているらしい。
そして、この週末は間違いなく彼女に付き合うことになりそうだ。



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