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 スターダスト・シャワー

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後篇


第十二章

…後になって思えば、この日がこれほどドラマチックになったのは、まさしくこの瞬間からだったのかもしれない。
予想された極大のほぼ三十分前。もはやこの目で極大を確かめる術が完全に失われたと誰もが思ったであろうその時、突然休憩室の入り口から叫び声が響いたのだ。
「霧が晴れだしたぞぉ…!!」
二人は一瞬、あっけにとられた顔で顔を見合わせた。
それは、まさにこの日のクライマックスの開幕を告げるゴングだったのだ。

…霧が晴れ始めた…。

その言葉ば、電撃のように休憩室全体に響きわたった。弾かれたように休憩室を飛び出していく人、そんなわけないと首を振る人、半信半疑で隣の人とひそひそ話し始める人など、反応はさまざまだったが、おそらく、誰もがこう思ったことだろう。
…まさか、と。
もちろん、弘希もつばさも同様だった。
「本当でしょうか…?」
弘希は首を振った。あれほど濃い霧がそうそう晴れるわけはないとは思うが、外から入った情報に間違いがあるとも思えない。どっちにしても、ここにいてはどうしようもなかった。
「外へ出てみよう」
二人は立ち上がって出入り口に向かった。
外へ出てみると、そこは相変わらず濃い霧の中だった。むろん、星など見えるはずもない。
ただひとつ、先刻と違ったのは、かなり大勢の人たちが東の空を見つめていることだ。辺りにはやや騒然とした雰囲気が立ち込めている。
…これはひょっとして。
そのとき、
「あっ!!」
とつばさが声を上げた。何事かと弘希が彼女の視線を追っていくと、そこには、明るく輝く星がひとつあった。見ていると、すうっと流れるように星の数が増えていく。
五分もしないうちに、空は再び、無数の星で埋め尽くされた。霧が晴れたのだ。
そして、二人の視線の先、東の空には、昇ったばかりのしし座の姿があった。二人にとっては三年ぶりに見る、忘れることのできない姿だ。
「先輩…」
信じられない、というように、つばさがつぶやいた。弘希も呆けたような顔でこくっとうなずく。今の今まで諦めていた満天の星空が、自分の目の前に広がっているのだ。いくら目の当たりにしても、簡単に信じられるものではない。
その一方で、弘希には別の不安もあった。まだしし座流星群はここに現れてはいない。この晴れ間は一瞬のことで、またいくらもたたないうちに濃霧に覆われてしまうのではないか、と。
だが、今日のフィナーレの幕は唐突に上がった。
「ああ〜!!」
突然、周囲からいくつもの叫び声が上がった。それから、いくらもたたないうちにもう一度、そしてさらにもう一度。声のした方に目を向けても、そこには何もない。
弘希は混乱した。そんなに頻繁に流星が流れているのか? たしかに、流星群の流星とて全天どこにでも流れるものだが、しかし、自分はまだ一度も   
そこまで思ったときである。今度は同じことを自分がする羽目になった。
「あっ!!」
続いて、視野の端にもうひとつ。まったく一瞬の出来事だった。流れた流星を軌跡を逆にたどっていくと、そこにはしし座がある。
不意に弘希は、背筋にぞくっと震えが走るのを感じた。
濃霧により、おそらくは誰もが諦めいてただろうしし座流星群。それが、ついに自分たちの目の前に現れようとしている。つい三十分前の天候を思えば、それはまさに奇跡としか言いようがなかった。何しろ、極大日の当日、しし座が現実に目の前に輝いているのだ。
そして今、しし座流星群は、その極大を迎えようとしていた。

 


第十三章

周囲から上がる叫び声が、どんどんその間隔を縮めていく。そのうちのいくつかは自分が見たものではないが、それでもそこに流星が流れていることは間違いない。
弘希とつばさは、観測道具のあるクルマに戻ってきていた。写真のことなど、もうすっかり忘れて天を振り仰いでいる。
「ウソだろ…」
弘希は、半ば呆然としていた。たしかにこれを求めてこの八ヶ岳山麓までやってきたのではあるが、これほどのものだとは、想像もしていなかったのだ。
流星の観測ならば、弘希も高校時代にやったことはあった。それは8月のペルセウス座流星群のときで、そのときはこれほど頻繁に流れることはなかった。それでも、毎年見られる流星群としては、最大規模のものなのだ。
それが今は、秒単位、あるいは分単位で夜空のどこかに流星が流れている。中には、尾を引くようなとびきり明るいものも含まれている。
いや、と弘希は思い直した。三年前もそうだった。あのときは今よりずっと数は少なかったが、この流星群には明るいものが多いのだ。
しばらくして、場内にアナウンスが流れた。
「ただいま、午前2時24分。最初のピークを迎えました」
弘希は首を振った。これはまだ真の極大ではない。その前振りに当たるものだ。それなのに、既に数えるのを諦めざるを得ないほどの流星が全天に流れている。周りから、ささやかな歓声が上がった。
「すごい…」
傍らで、つばさがつぶやくように言った。彼女の視線はしし座に釘づけになっている。輻射点がしし座にあるため、経路の短い流星はたいがい捉えることがてきるからだ。もちろん、カウントなどという作業は、とうの昔に放棄している。
それに対して、弘希は時おり、空のあちこちを眺め回していた。全天どこにでも流れる流星をできるだけ拾えるように、というより、この夜のすべてを目に焼き付けておこうとしているかのようだ。
そして、その周囲では、ほとんど全ての人が同様に天を振り仰いでいた。何しろ、一生に一度巡り会えるかどうかわからない光景が全天で展開されているのだ。ここに集まった人たちの中には、3年前からこの流星群を追いかけてきた人もいることだろう。その人たちにとっては、まさに一瞬一瞬が夢のような時間のはずだ。余計なことに気を向けている余裕など存在しない。
もちろん、中には熱心に写真を撮っている人もいる。写真撮影そのものは、シャッターを押してしまえば、後は全自動である。この流星群を見るのに、いささかの邪魔にもなりはしないはずだ。
そして、流星の数はまだ減る兆候を見せていない。
「まさか、これほどとは…」
弘希は無意識に唸った。一度に流れる流星こそ多くて数個ではあるが、カウントすればまず間違いなく三桁の数に上るだろう。流星雨という言葉から連想されるイメージとはたしかに違うが、弘希にはこれこそが、まさしく流星雨のように思えた。
時おり、先刻の霧の余韻が空を覆い隠していくが、それも長いことではない。ちぎれ雲のような霧は、すぐに東へ流れ去っていく。まるで、人知を超えた何かが、この日この場所で起こった奇跡を寸刻で終わらせまいとしているかのようだ。
天上の絢爛たる祭典は、まだ終わる気配を見せない。

 


第十四章

八ヶ岳山麓に、予想された真の極大の時刻が迫っていたとき、それまで食い入るように夜空を眺めていた弘希は、不意に弘希は重大なことを思い出した。
「そうだ、写真!!」
「えっ!?」
何事が起こったのかと、つばさが怪訝そうな顔で弘希を見やる。弘希は勢い込んでつばさに向き直った。
「写真を撮ろう。 この光景を、ぜひとも記録に残さなきゃ」
「でも、先輩、カメラはもう…」
つばさは首を振った。本来この時のために用意されたカメラは、既に夜半前に壊れていた。そのとき同時に、フィルムも一本無駄になっている。
「いや、まだ予備のカメラがあるだろ。それに、フィルムもあと一本。それだけあれば、十分流星を撮れるさ」
「だけど、あのカメラは    
標準レンズしか付いていない。メーカーが違うため、二台のカメラに広角レンズを用意できなかったのだ。一眼レフの交換レンズは、大学生の経済力では揃えるのがいささか厳しいうえに、そもそも二人とも写真にそれほど入れ込むたちではなかった。
弘希は微笑した。
「構わないさ。これだけの流星が流れているんだ。標準レンズの視野でも、十分写ってくれるよ」
ちょっと考えた後で、つばさは大きくうなずいた。画角はどうにもならないが、ともかく写真を撮れるカメラがあるのだ。それに、二十四枚撮りのフィルムが一本。そのチャンスを逃す手はない。
二人は大急ぎで準備を整えた。新たに用意された二台目のカメラは、天体を撮るときはバッテリーの必要がないため、寒さにも強い。天体写真用である所以だ。
その間にも、流星は間断なく流れている。
「じゃ、いくぞ…」
弘希はちらっとつばさを見やる。時計に目を向けつつ、つばさはうなずいた。もちろん、最初の一枚は輻射点のあるしし座だ。全景は入らないが、輻射点のある頭部はぴったり中心に捉えている。
カシャ。
カメラのシャッターが開いた。B(バルブ)モードでストッパー付きのレリーズを付けているため、あとはこのままじっとしていればよい。そっと立ちあがると、弘希は再び空に目を向けた。
この時間、しし座はすでに中天にまで昇っている。夜半前まで夜空を彩っていた冬の星座は、その多くが西の空に傾いていた。そのためか、少しばかり星の数が減ったようにも見える。
だが、流星の数は減るどころか時間を追ってさらに少しずつ増えているようだ。
つい三十分ほど前まで辺りを支配していた混乱は収まり、代わって、静かな興奮が辺りに満ちていた。誰もが、この流星雨を心から楽しんでいる。
一枚撮り終わると、弘希はカメラの向きを変えて続けざまに写真を撮っていく。フィルム一枚あたり三分から五分の露出だ。
これが普通の日であれば、弘希はここまでしなかっただろう。たとえ、ペルセウス座流星群の極大日であっても、標準レンズの視野内に入る流星などないに等しく、フィルム一本あたり一枚流星が写っていれば上出来、というあたりが関の山だからだ。
だが、今日は違う。全天にこれだけの流星が流れていれば、標準レンズであっても必ずそこに流星が写ってくれる。それが期待できるほど、今日のしし座流星群はすさまじい規模なのだ。
場内に、再びアナウンスが流れる。
「ただ今午前3時13分。予想されたピークの時間です」
今度こそ、場内のあちこちからはっきりとした歓声が響いた。予想されたピークの時間をこの満天の星空のもとで迎えることができ、しかも予想に違わぬ大流星雨を見ることができたのだ。これが喜ばずにいられるか、と、ここにいた全ての人々が思ったことだろう。むろん、弘希もその顔は喜びに輝いている。
そして、それはここに限った話ではなかった。電話を終えたつばさが、笑顔で弘希を振り返る。ついさっきまで、関東方面で観測している仲間たちと連絡を取っていたのだ。
「あちらでも、たくさんの流星が見えているそうです。晴れたり曇ったりの天候だそうですが、二桁は確実だ、と」
ヒュー、と弘希は口笛を吹いた。関東方面はどこも街灯りがあるため、ここほど星はよく見えないはずである。それが二桁とは…。
「まさに、これこそ一生に一度の光景、だな…」
弘希は、抑え切れない感慨を込めて、空を見上げた。もはや一度にひとつ、ふたつというレベルではない。空のあちこちでひっきりなしに確実にひとつ、時おり、一度に5、6個の流星が弾けるように飛び散っていく。中には、数分にわたる流星痕を残す火球さえ混じっている。
しし座だけを見ている必要など、もうどこにもなかった。どこでもいいから、一分も空を見上げていれば、そこにいくつもの流星が流れていく。もし180度すべてを見られる目があったなら、まさに星の降るさまが見られるはずだ。
ひょっとしたら、今日の出現数は四桁の数にさえ上るかもしれない。もしそう言われたとしても、ここにいる誰もがそれを疑うことなくうなずくことだろう。まさに、歴史的な大出現だった。
天上の祭典は、ついにそのクライマックスを迎えた。

 

 

第十五章

予想されたピークの時間から一時間が過ぎた。最初に流星を見てから、一体いくつもの流星が流れたことだろう。ピークの時間はそう長く続かないというのが事前の噂だったはずなのに、未だ大出現は終わっていない。
残りあと5、6枚という時点で、弘希はついに写真撮影を断念した。これ以上は、何枚撮っても同じような写真が出来あがるだけだろう。それに、夜明けまでもう二時間もない。少しでも長く、この夜の光景を目に焼き付けておきたかった。
それに…。
「バッテリーがもう持たないようだ。もう追尾撮影はできない」
「そんな…。だってそれ、新品の電池のはずですよ…!?」
つばさは驚いたように声を上げた。カタログデータ上は、一晩連続で稼動させていても大丈夫なはずである。それほど、今日の寒さは電池を消耗させるのだ。もちろん、予備の電池は用意したあったが…。
だが、弘希は笑顔で首を振った。
「いいさ。電池交換はせずに、最後の一枚は固定撮影でいこう。流星が写れば、それもいい思い出になるよ」
そう言うと、弘希は追尾装置のスイッチを切った。そして、この夜最後の写真撮影に入る。
…三分後。弘希はシャッターを閉じた。既にレンズには、露がつき始めていた。弘希は丁寧に夜露を拭き取ると、カメラをしまった。トラブルはあったが、この劣悪な環境の中で、今までよく持ち堪えてくれたものである。弘希たちのカメラと追尾装置は、立派に役目を果たしたのだ。
撮影を終えると、弘希は立ち上がった。大出現のピーク予想の時間から、既に一時間以上が経っている。流れる流星の数は若干減ってきたようだが、それでもまだ出現は続いている。
と、弘希は、八ヶ岳の稜線の背後ががうっすらと明るくなってきたのに気づいた。天上の祭典は、間もなく終わりを迎えようとしている。
「はい、先輩」
ふと気づくと、つばさが缶コーヒーを差し出していた。
「最後の一本です。ゆっくりと味わって下さいね」
感謝を込めてうなずくと、弘希は缶コーヒーを受け取った。やるべきことは、すべてやり終えた。後は、夜明けまでこの光景をゆっくり楽しんでいればいい。既に出現数は1、2分に一個というレベルまで落ちてはいるが、決してその素晴らしさが色褪せることはない。
このときのためにと、弘希は持ってきたポータブルCDをクルマから取り出した。中のCDには、弘希お気に入りのBGMが入っている。
その中から、弘希は最後に収められた曲を選んだ。別れと旅立ちを主題とする、穏やかだが素敵な曲だ。このタイミングには、まさにぴったりだろう。
別れと旅立ちの唄を耳に、弘希は、しし座流星群の大出現、その終焉を眺めながら、ふと思った。
そう、今日のような大出現を、自分たちはもう二度と見ることはできないのだ。この時間は、もう二度と戻っては来ない。今日このときという時間がどれほど貴重なものだったかを、弘希は改めて痛切に感じていた。
あの日、つばさから誘いがなければ、そして自分がその誘いに乗らなければ、これほど素晴らしい時を過ごすことはできなかったはずだ。そして、濃霧という突然のアクシデントを乗り越えて自分たちの眼前に姿を現したしし座流星群。大出現を目の当たりにして、混乱と興奮に包まれた駐車場、そこに集った数多くの人たち。そのすべてが、留まることなく流れ去っていく。
それを思うと、惜しいな、と感じずにはいられなかった。
「あ…」
ふと、つばさがつぶやいた。夜明けを前にして、再び霧がやってきたようだ。さして濃くはないようだが、それでも暗い星が次々と消えていく。夜明けはもう間近だ。
「終わったな…」
弘希は満足そうにつぶやいた。全身が心地よい疲労に包まれている。天文には興味がないと言いつつも、弘希も(ここに集まった何人かの人たちと同じように)、3年前からしし座流星群を追いかけてきたのだ。ここまで十分にそのクライマックスを見ることができれば、もう何も言うことはなかった。
「さ、もう寝ようか…」
そう促す弘希にうなずきつつも、つばさはなかなかその場を離れようとしない。最後の星のひとつが霧の向こうに消えるまで、空を見上げていたいらしい。その気持ちは弘希にもよくわかる。
事務所を方を見やると、既にライトが灯されていた。どうやら、観測の成功を伝えるインタビューが行われているらしい。おそらく、そのニュースは、今朝一番に流されることだろう。
弘希は、万感の思いを込めて東の空を振り返った。霧と朝焼けの中に、しし座が消えていく。本当に素晴らしい、一生忘れ得ぬ夜だった。人生で最高の時、そう形容してもおかしくはないだろう。
最後に弘希が見た流星は、しし座に流れたものだった。


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