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 スターダスト・シャワー

2001.11.18 諏訪湖

前編


第一章

そして、11月18日がやってきた。天気予報によれば、今日は典型的な冬型であり、日本海側は大荒れの天気になるらしい。チャンスがないことはないが、一晩晴れることはまず期待できない。この日、弘希はつばさの大学の近くまで電車で行くことになっていた。クルマの免許をつばさがRVを持っているということなので、彼女のクルマで現地まで行くことになった。目的地は八ヶ岳山麓、あるいは富士山である。
 ”呆れた。先輩、まだクルマ持ってなかったんですか!?”
とは、電話での打ち合わせの際につばさが言った言葉である。もっとも、彼女はその後先輩らしい、とくすくす笑っていたが。
さて、18日のお昼ごろ、弘希は上越インター近くの駅で、つばさを待っていた。彼女に会うのは98年のしし座流星群以来、3年ぶりのことだ。
しばらくたたずんでいると、見覚えのあるクルマが駐車場に入ってきた。あれか、と思う。
「お待たせしました、冴草先輩」
「やあ、久しぶり」
クルマから降りてニッコリ笑うつばさを、弘希は眩しそうに見やった。今年21歳になった彼女は、3年前よりもさらに綺麗になったようだ。
「どうしました?」
と、怪訝そうに訊ねる彼女に、弘希は照れくさそうに笑ってみせる。
「いやあ、お前さんも魅力的になったなぁ、と思ってさ…」
「そうですか? これでもわたし、化粧っ気のない方なんですよ。服のセンスだって、全然イケてないってみんなからよく言われます」
そう言いながらも、つばさはどこか嬉しそうだ。
「研究ばかりしてないで、もっと遊んだらどうだ? せっかく元がいいんだからさ」
そう言われて、つばさはくすっと笑う。
「だからこうして来てるんじゃないですか。これでも、今日着てくる服悩んだんですよ」
と言った後で、もっとも、夜になれば一緒ですけどね、とつばさはいたずらっぽく付け加えた。確かに、夜になれば防寒のため厚着をすることになる。どれほどおしゃれしたところで、着膨れするのは目に見えていた。
「じゃ、荷物入れますね」
つばさは、RVの後部トランクを開ける。ちなみに、トランクの中には、観測機材から今日明日の着替えまで、スポーツバック三個分の荷物が入っていた。その中にはキャンプ用の機材もある。
「先輩の荷物はそれだけですか?」
と、つばさは振り返った。当の弘希の荷物はと言えば、当日を楽しく過ごすための三脚着きの双眼鏡と防寒用の着替え一式、そしてモバイル用のノートPCがひとつだ。しめてスポーツバック二つ分である。荷物をトランクに入れながら、弘希はつばさを見やった。
「悪いな。観測機材の準備、お前さんに頼んじゃって…」
「いいんですよ」
と、つばさは笑って首を振る。
「先輩、ここまで電車だったから、そんなにたくさん荷物持って来れなかったでしょ。もともとわたしが誘ったんだし、そんなに気にしないで下さい」
高校時代に比べると、随分と柔らかくなった笑顔。やたらとくすぐったい気分を味わいながら、弘希はうなずいた。
「さ、じゃ行きましょうか」
そう言うつばさとともに、弘希は彼女のクルマに乗り組んだ。本人の趣味らしく、内装は女の子らしさのかけらもない実用一点張りだ。この辺りは、昔と何ら変わるところはない。
「途中のPAで何ヶ所か休憩入れますから、休みたくなったら言って下さいね。それと…」
と、つばさは妙に意味ありげな顔で弘希を見やる。
「このクルマ禁煙ですから、そこんとこよろしく♪」
「ええ〜!!」
などと大声で抗議する弘希をよそに、つばさはクルマを出発させた。第一の目的地は八ヶ岳山麓である。




第二章

長野自動車道を上ること二時間半、つばさの運転するクルマは中央自動車道に入っていた。諏訪湖近くのサービスエリアで休憩のため一服する。
「へえ、すごく景色のいい所ですね…」
「ああ、さすかにサービスエリアを作る場所だけのことはあるよな」
クルマを降りた二人は、眼下に広がる諏訪湖を眩しそうに見やった。まだ内陸とはいえ、ここはもはや日本海よりも太平洋に近い場所だ。澄みきった秋の空から、陽光が眩しく照りつける。こちらではまだ紅葉の季節が続いているらしく、周囲の山々はまだ赤みを残していた。
軽食コーナーで弘希と向かい合ってジュースとスナックを食べながら、つばさは地図を広げた。
「このまま行けば、3時前には現地に到着しますね。場所取りも問題なさそうだし、準備も十分な時間が取れますけど…」
と、つばさは弘希を見やる。
「どうします、先輩?」
弘希は考え込んだ。
「…まあ、初めての土地だから昼間のうちに着いた方がいいのは確かなんだけどさ…」
と、弘希は持ってきたノートPCを地図を交互に見やった。彼のPCのディスプレイには、インターネットから取り込んだ今夜の天気予報が映し出されている。
問題は、今夜の天気だった。太平洋側ならばどこでも晴れという予報が、却って観測地を決めにくくしていた。どうせどこでもいいのなら、より条件のいい場所で見たいという欲求が自然と頭をもたげてくる。
「時間の余裕があるのなら、もっと条件のいいとこ探したいしなあ…」
このとき弘希の頭にあったのは、3年前の富士山のことである。肝心のしし座流星群そのものは尻つぼみに終わったが、あのとき見た降るような星空と、夜半を過ぎた頃、みんなで凍えながら食べたカップラーメン、そして、消えていく流星群とともに眼下に広がった雄大な朝焼けは忘れることができない。できれば、それをもう一度見たかった。
弘希はロードマップをチェックした。
「ここから一時間半で富士山まで150キロほどか…。行くのに一時間半、天候をチェックして、もし悪ければ帰ってくるのに一時間半。六時までには何とかなるか…」
「でも、その頃にはすっかり暗くなっちゃいますよ。道に迷ったら、観測地までの到着が大変かもしれないです」
「まあね」
と弘希はうなずく。
「だけど、地図を見た限りじゃそんなに複雑な道ってわけでもないし、こんな内陸部にわざわざやって来ようなんて物好きは、そうたくさんいるわけがないさ」
などと、行ったことがないのをいいことに好き放題のことを言う。
「それに、いくら太平洋側っていっても、ここはまだ山間部だからね。夜になって天候がどう変わるかもしれない。俺としては、まだ太平洋に近いあっちの方が天気も安定していると思うんだ」
確かに、とつばさはうなずいた。秋よりも初冬と言った方がふさわしいこの時期ともなれば、山間部の気流はかなり不安定になる。今晴れていても一時間後はどうなるか予想もつかないことも多い。
「俺としては、どこでも大丈夫なら、富士山まで足を延ばしてみたいところだけど」
「じゃ、富士山まで行ってみますか?」
「そう願えれば。だけど…」
と、弘希はつばさを心配そうに見やった。
「お前さんの方は大丈夫かい? もし引き返すようなことになると、もう300キロほど余分に走らなきゃいけなくなるぞ。疲れてるようだったら…」
「そんなことないです」
と、つばさは笑って首を振る。
「今までずっと高速でしたし、途中で何度も休憩を摂ってたから、そんなに疲れてません。大丈夫ですよ」
「OK」
弘希は快活にうなずいた。もともと不自然な遠慮をするような仲ではない。
「じゃ、疲れたときは交代するということで」
ええ、とうなずくつばさと連れ立って、弘希は土産物コーナーに隣接した軽食コーナーを出た。




第三章

中央道はさすがに車の数が多い。しばらく行くと、車間距離が一般道路並みになった。
助手席の弘希は、ノートPCに映した気象衛星の画像と、外の様子を見比べている。
「やっぱり、こっちにして正解だったかもしれないな…」
弘希はそうつぶやいた。彼の言うとおり、野辺山高原を過ぎたあたりから、雲の量がどんどん増えているのだ。南の方はまだ晴れているようなので、あるいは気流が安定しているのかもしれない。
それにしても…。
「さすがにこっちは違いますね」
「まったく…」
とは、大量の車を目の当たりにした二人の感想だ。もしここで何かあれば、玉突き衝突は免れないところである。高速道路の事故が数台以上の車を巻き込む大事故になる所以を、今さらながら思い知った気持ちであった。
ついでに言えば、こちらの高速道路は路面状態が良くない。
交通案内の看板に、甲府SAの文字が見えた。
「途中でSAあるけど、どうする? 一休みしていくかい?」
と、運転するつばさに尋ねる。つばさはかぶりを振った。
「このまま行きましょう。行きの時間を稼げれば、向こうの天気が良かったときに、明るいうちに観測地を探す時間が取れますから」
「…だな」
二人の乗ったクルマは甲府SAを過ぎる。と、とたんに渋滞に引っかかった。完全に止まっているわけではないが、速度は既に一般道路よりも遅い。
「何でこんな日に…!」
思わず悪態をつくつばさ。そんな彼女を見やって、弘希はくすっと笑った。思ったことがすぐ口に出る彼女の癖は、昔から変わらない。
「そういや、今日は休日だからな。この時間の上りはいつもこうなるのかもしれないぜ」
「そりゃそうなんでしようけど、ねえ…」
こっちは急いでいるのだ。渋滞なんぞに邪魔されたくはない。
「そうせっかちになるもんでもないさ、ほら…」
と、弘希は右側を指差す。そこには    
「わあ…!!」
つばさは思わず歓声を上げた。
彼の指し示した先には、西日を浴びて輝く富士山が見てとれた。ちょうど夕刻でもあるためか、ほんのり赤く色づいた雲が真っ白い雪を頂いた富士山に彩りを添える。
「きれい…」
「まさに、絵になる光景だよな…」
これを見られただけでもこんな遠くまでやって来た甲斐があった、そう思わせるような美しい光景だった。やはり、数ある山の中でも富士山は特別なのかもしれない。
だが、この美しい光景は、一方で不安材料でもあった。
「雲の量がかなり多いな。それに、気流が不安定みたいだ。ひょっとしたら途中で雨が降るかもしれないぞ」
弘希は不安そうに言った。彼の見るところ、甲府を過ぎたあたりから南の方にも大量の雲が発生していることがわかったのだ。富士山の間近までやって来ても、その傾向は変わっていない。いや、雲の動きが激しい分だけさらに状況が悪くなったかもしれなかった。
「とにかく高速を降りてみましょう。富士五湖のそばまで行ってからどうするか決めても、遅くはないと思いますよ」
「それしかないか…」
そう言うと、弘希はちらっと頭上にを通りすぎる電光掲示板を見やった。掲示板には、”大月トンネルで5キロの渋滞”と出ている。ちょうど、彼らが降りるICの辺りだ。
つばさもそれを見たらしく、すぐに車線を変更した。しばらく行くと、東京へ向かう方面には車の行列ができ始めた。可愛そうに、とつばさは妙に嬉しそうにつぶやく。
ICを降りると、すぐに有料道路に入った。この道は山中湖まで続いているらしい。
「あちゃあ…」
不意に、弘希は失敗した、と言わんばかりにつぶやいた。既に頭上は真っ黒な雲で覆われている。この分だと一雨来るかもしれない。
弘希の予想はすぐに現実のものとなった。いきなりバケツをひっくり返したような大雨が降ってくる。2、3分して雨はやんだが、空は相変わらず厚い雲に覆われている。
辺りを見回しながら、弘希は頭を掻いた。
「この分だと、こっちは駄目だな…」
「えっ…?」
それまで運転に専念していたつばさが、ちらっと弘希を見やる。
「ほら、あっちを見てみろよ」
弘希は右手を指差した。高速道路を降りるまではあんなに綺麗に見えていた富士山が、すそ野の辺りまですっぽりと雲に隠れている。あの中の天気は押して知るべし、であった。
つばさはため息をついた。さっきまではあんなによく見えていたのに。
「仕方ないですよ、先輩。この道路降りたら、すぐに引き返しましょう」
「ああ…」
富士山で流星群観測の望みが絶たれた、とあって弘希は少しばかり落ち込み気味だ。
山中湖のそばで有料道路を降りた二人は、休憩がてら給油することにした。ちなみに、今回の交通費いっさいは(もちろん食費も)弘希持ちである。
「ふうっ…」
弘希におごってもらったジュースを飲みながら、つばさはひと息ついた。振りかえると、弘希が今夜の天気をチェックしている。
「毎度毎度すみません、先輩。」
つばさは申し訳なさそうに弘希に言った。そんな彼女に、弘希は穏やかに微笑してみせる。
「まあそう言いなさんな。俺だって、お前さんにクルマ出してもらってるんだし…」
と、妙に茶目っ気たっぷりの口調だ。内心では、別にそんなこと気にする必要ないのに…、と思っている。交通費と食費はすべて弘希持ちなのだし、それは事前に相談済みだったはずなのだが、彼女にしてみると、休憩の度に何かおごってもらうのはその範囲外、ということらしい。つばさらしいな、と弘希は思った。このあたりは、高校時代から全然変わっていないようだ。だからこそ、弘希はなるべくそれを意識させないように振舞っている。
もっとも、その一方で、些細なところで、先輩の貫禄を示したいのも事実なのだが。
給油が終わったところで、二人は再び有料道路に入った。辺りはもううす暗くなっている。観測地に着く時にはすっかり日が暮れていることだろう。
「さて、八ヶ岳に戻りましょうか」
そう言ってにっこり笑うつばさに、弘希はこくっとうなずいた。ここは曇っていても、まだチャンスを逃したわけではない。
「ああ、別にあせることはないからな。さ、行こう」
二人を乗せたクルマは、来た道を引き返し始めた。今の時刻は午後六時過ぎ。順調に行けば、八時前には観測地に到着できるはずだ。




第四章

給油と済ませると、二人は再び中央道へと続く有料道路に乗った。日は既に暮れており、間もなく暗くなるだろう。11月の日は落ちるのが早い。
10分ほど走って中央道に乗った時点で、ヘッドライトの必要な暗さになった。東京に向かう車線は今だに渋滞が続いているらしく、そのあおりで大月ICのこちら側にまでクルマの行列が続いていた。
「わずか30分ほどで10キロの渋滞とはねぇ。ま、こっちは下りだからいいけどさ…」
とは、”10キロ渋滞”の表示を見た弘希の弁である。
中央道に乗ると、弘希はもう真っ暗になった空を見上げた。本来ならば暗いはずの空が、ぼんやり白味ががっている。雲が低い証拠だった。
「どんな具合ですか?」
と、運転席からつばさが尋ねた。
「…ううん、この辺りはさすがに無理だろうな。晴れ間がどこにもないよ…」
弘希は首を振った。もっとも、地上の方はずっと美しい街灯りが続いている。これはこれで綺麗な夜景だが、これだけ明るい灯の下では、流星群など気にする人はいないのかもしれない。こちらでも山の方は雪が積もっているらしく、時折スキー場とおぼしき光の連なりが見てとれた。
30分ほど走った後、二人は休憩のため甲府SAにクルマを停めた。ここでも、空はかなり明るい。
「ふうっ…」
クルマから降りた弘希は、ほっと息をついた。向こう側では、やはりクルマを降りたつばさが軽く背伸びしている。今までずっと運転のし通しだったもんな、と弘希は思った。
「大丈夫か? 疲れてるようだったら運転代わるぞ?」
「いいえ、全然大丈夫です。ここまでずっと高速だったから、さして疲れることもなかったですし…」
「そっか。ならいいけど…」
弘希はうなずきつつ、つばさを伴って軽食コーナーに入った。軽い飲み物を買ってつばさと並んで座る。
「さて、どうしたものか…」
ノートPCを見やりつつ、弘希は考え込んだ。最新の気象データによれば、関東地方は予想外に雲が多いらしい。雲の写真を見る限りでは、関東平野のそこかしこに薄雲がかかっているように見える。
「西の方はさほど雲がないように見えるんだが…」
「そこまで行ってる余裕はなさそうですね。いい観測地もチェックしてなかったですし…」
さすがに、中部、関西方面まではつばさも調べてはいなかった。関東全域はどこも晴れという予報が出ていたし、そこまで行くとなると行った先で観測地を選ぶ時間の余裕がなくなるからだ。
「最初の予定どおり、八ヶ岳に行きましょう。ひょっとしたら晴れているかもしれないですし、TV中継もやってますから、曇ったら曇ったで、無駄にはならないと思いますよ」
「そうだな…よし」
弘希はうなずいた。つばさの言うとおり、山間部は天候が変わりやすい。昼間の時点ではたしかに曇が多かったが、あと9時間後には晴れているかもしれないのだ。加えて、TV中継をやっている場所ならばたとえ曇っていてもどうなったかの情報も得易い   地団駄を踏むことになるかもしれないが。
「じゃ、八ヶ岳に行こう」
了解です、とひとつうなずくと、つばさは急いでアイスティーを飲み込んだ。せわしない彼女の動作を見やりながら、弘希はひとつため息をついた。あれほどの距離を運転したのに、彼女は運転を休むつもりはないらしい…。

 

ところが、観測地まではすんなりと到着できなかった。一番の理由は、つばさの持ってきた地図が広域地図だったせいである。そこには観測地の場所が記されていなかった。
「ええっ、道が違う…!?」
諏訪ICを降りてすぐ、二人は出鼻をくじかれることになった。国道だと思っていた道が異常に狭かったり、地図に記されていない道に迷い込んだりと、二人は延々と諏訪市の中を走る回ることになる。
「とほほ…」
結果、弘希は難しい顔で地図と格闘する羽目になった。何しろ、彼女の用意した地図には市街地の細かい道までは記されていないのだ。
おまけに、この辺りの夜の道は暗い。市街地が遠望できるか八ヶ岳が見えるかすればある程度の目安はつけられるのだが、夜、星のよく見える場所でそれを期待するのは無理というものである。
「…なぁ、つばさ」
「はいっ、何ですかっ!?」
焦りまくった彼女の声からすると、そろそろ現在位置すら見失いそうになっているらしい。
「ちょっとその辺りのコンビニに寄らないか? そこで道順を聞いた方が時間の節約になると思うんだが…?」
「…そうですね」
とたんに彼女は冷静になった。ちらっと横を見ると顔がほんの少し赤いようだ。
「ついでに、そこで夜食も仕入れていこう。現地に行ってもちゃんと食えるものがあるかどうかわからないし」
「了解です…。ではあそこで」
ちょうど十字路の手前にコンビニが見える。ラッキー、と弘希は軽く口笛を吹いた。

 

「ああ、それなら…」
コンビニの店員さんは、親切に場所を教えてくれた。今日ここでしし座流星群の観測イベントがあることまでは知らなかったようだが、それでもその観測地はこの辺りではかなり有名な場所だったらしく、観光マップまで出して丁寧に道順を教えてくれる。
弘希がそれを聞く一方で、つばさは夜食を次々と買い込んでいく。前回富士山に行ったとき、真夜中過ぎに食べ物がなくなった失敗を教訓にしてか、買い物かごはあっというまに一杯になった。
会計を済ませるあいだに、二人がどこから来たかを聞いた店員さんは驚いていた。
「…それにしても、そんな遠くから大変ですね」
「いやいや、好きなだけですよ。これを逃すともういつ見られるか判らないですから」
「なるほど。これにしても、ここがそんなに有名だと聞くと、やはり嬉しいですね」
コンビニを出るときに背中で聞いた”お気をつけて”、の一言は必ずしも社交辞令ではなかったような気がする。
「さて、道順もわかったし、これで後は観測地まで一直線だ」
「ええ…!!」
クルマに乗り込む前にそう声をかけられたつばさは、こくっと微笑してうなずいた。




第五章

…そして午後九時過ぎ。弘希とつばさを乗せたクルマは、ようやく観測地に到着した。
係の人の指示に従って、駐車場にクルマを入れる。
「あらら…」
周囲を見やった弘希は唖然とした。百台以上は停められるはずの駐車場がところ狭しと車で埋め尽くされている。停めきれない車は路上にまであふれており、ここに集まった人数の多さが知れるというものだ。
さらに迷惑なことに、かなりの人達が停めた車のすぐ前に観測機材を広げている。こういった観測地では、他人の迷惑にならないように、ヘッドランプ等を消すことがマナーとなっている。おかげで、運転するつばさにとっては、それらの観測機材が危ないことおびただしい。
やっとのことで、一台分の空きを見つけたつばさは、そこにクルマを停めた。
「ふうっ…」
駐車場にクルマを入れるのにこれほど神経を使ったのは初めてだ、と言わんばかりに、つばさはため息をつく。
「お疲れさま。大変だったろう」
と、隣から弘希が微笑みかける。つばさはにこっと微笑み返した。
ジャケットを着込むと、二人は外に出てみた。ここの駐車場は三段になっているが、そのすべてが車でいっぱいになっている。そして、辺り一面に林立する観測機材。会場が騒然とした雰囲気の中にあることはひと目で見てとれた。
「何か、いいですね…」
その光景を見ながら、つばさはふとつぶやいた。それを聞きとがめた弘希はうん、と彼女を見やる。
「ほら、ここに来てる人たちって、みんなしし座流星群を見るためっていう、同じ目的でやってきているわけじゃないですか。そういう人たちの作り出す雰囲気って、わたし大好きなんですよ。わたし達も同じ目的でやって来てるわけだから。何て言うのかな…、文化祭の前夜っていう感じかな? せわしないけど、どこかワクワクしてて、何か起こるぞっていう期待でいっぱいっていうか…」
ちょっとうまく言えませんけどね、とつばさは照れくさそうに微笑んだ。
「ああ、そうだな。言いたいことはわかるよ…」
と、弘希は目を細めて辺りを見まわした。ふと、脳裏に3年前のこの日のことが甦る。あのとき、富士山の新五号目でもそうだったのだ。駐車場にところ狭しと並ぶ車、あちこちに組み立てられた観測機材と徹夜のためのテント、そして、情報交換のために、あるいはしし座が昇ってくるのを待ち切れずに動き回る人々…。
あのときと同じ光景が、たしかにここにあった。今の天候は芳しくないようだが、おそらく富士山でも今ごろ同じ光景が見受けられることだろう。そして、今晴れている、日本全国のいたるところても…。
「…今回も大型の望遠鏡、たくさんありますね?」
「ああ、今日はもう月が沈んでいるからね、せっかく空の暗い場所に来たんだし、夜半まで星空散歩としゃれこみたいんだろう。それに…」
と弘希は言葉を続ける。最近の大口径の望遠鏡には、みんな自動追尾装置が付いている。それらは、しし座流星群の写真を撮るのにも使えるのだ。現に、弘希たちも写真撮影用の自動追尾装置を持ってきている。
「さてと、受け付けを済ませて来ようか?」
そうつばさを促すと、弘希は並んで受け付けのある事務所へ向かった。
事務所は、正面ゲートから入ってすぐ左手にあった。プラネタリウムから食堂、休憩所まである大きな建物で、受け付けはその玄関から入ったところに設けられている。ここは暖房が効いているためか、出入りする人でごったがえしていた。
二人は登録を済ませると、会場使用料として100円を払った。ここの係の人は、どう見てもボランティアにしか見えない。
ここは、駐車場に隣接してスキー場やゴルフ場、イベント会場などがある。受付にいた女性が言うには、今日はそこも流星群を見に来た人たちに開放しているという。
ついでに、弘希はそこでテントが使えるか尋ねてみた。すると、
「今日は、このイベントのためにここの会場を自治体から借りてるだけなんです。ですから、申し訳ありませんが、キャンプや火を使う料理などはできないんですよ…」
夏には星祭りがありますから、そのときなら大丈夫なんですけどね、と受付の女の人はすまなそうに苦笑した。さもありなん、と弘希は思う。今日は祭りではない。みんな、星を見に来ているのだ。余分に場所を占領したり灯りを漏らしたりしていいわけがなかった。
「休憩室が奥にありますから、疲れたり眠くなったりしたら、ご自由に使って下さいね。ここは夜明けまで開けておきますから」
親切にそう言ってくれた受付の人にお礼を言って、二人はその場を離れた。ついでに休憩室を見て回る。ここの休憩室はちょっとした体育館ほどの広さがあり、適度に暖房が入っていた。もちろん、今は中で休んでいる人も少ない。
「これだけの設備があれば、この前ほど寒さに凍えなくてすみますね」
つばさはそう言ってくすっと笑った。よほど、前回のことが頭に残っているのだろう。かくいう弘希も同様だ。
「ああ。3年前とは大違いだな。あンときは凍死するかと思った」
「ふふっ、まさかあんなに風が強いなんて、思ってもいませんでしたものね。暖冬だった、って聞いてましたけど」
「標高1500メートルだったからなぁ。いくら厚着しても全然効果なかったよ」
弘希は満足そうにうなずく。一通り施設を見て回った二人は、事務所を出た。明るい場所から外に出た直後は、まだ目が周囲に慣れていない。しかし、それを過ぎると、やはりここは星見のメッカである。
「…!!」
不意につばさが立ち止まった。何事かと、弘希は怪訝そうに彼女を見やると、彼女は驚いた顔で空を見上げている。つられるように、弘希も空を振り仰いだ。とたんに、彼も息を呑む。
そこに、満天の星空があった。今日は冬型の天気とあって、空気がとても澄んでいる。しかし、それを割り引いてもなお、この星空は圧巻だった。
何より驚いたのは、冬の天の川がはっきりわかることだ。夏のそれと違って、冬の天の川の銀河系の中心と反対方向にある。そのため、よほど空の澄んだ場所でないと見ることさえ難しい。
それが、ここではこんなにもはっきりと見てとれる。
「すごいですね、こんなにたくさんの星なんて…」
「ああ…」
3年前に見た富士山の空も素晴らしかったが、ここの星空はそれに勝るとも劣らない。
弘希はふと、西の空を振り仰いでみた。そこには、はくちょう座からカシオペア座に続く秋の天の川が輝いている。もう沈んでしまったが、その下には銀河中心を彩る夏の星座たちがあるはずだ。
そして、カシオペア座からいっかくじゅう座まで続く冬の天の川、それはおおいぬ座のそばを横切って地平線へと流れ落ちている。
南西に視線を転じれば、そこでは、オリオン座を始めとする冬の星座たちの輝きが眩しい。そして、東の空には、ふたご座が既に昇っていた。このあとに続く黄道の星座の中にしし座がある。
「…最高の夜空だな」
弘希は微笑してそうつぶやいた。今日これまでのいきさつを思えば、これほどの条件でしし座流星群を迎えられるなど、望外の幸運だったと言っていい。後は、事前に発表された予測が的中することを祈るだけである。
「さ、戻ろうか」
呆然とした顔のつばさをそう促すと、弘希は並んでクルマへと戻った。




第六章

クルマまで戻ると、二人は車内で軽い夕食を摂った。ここに着くまでに大量の食料を仕入れてきたため、明日の朝まで食べ物に困ることはないだろう。
もっとも、その一方で、
「あ〜あ、せっかく持ってきたキャンプ道具、無駄になっちゃったなあ…」
つばさは残念そうにつぶやいた。山で一泊するというので、テントからストーブ、調理用具までキャンプ道具一式をクルマに積め込んで持ってきたのに、ここでは出番がない。彼女にしてみれば、装備の半分が無駄になった勘定だ。
「ま、そう言いなさんな。暖かい飲み物に不自由しないだけでもめっけもんさ」
と、おにぎりを頬ばりつつ、弘希が言う。よほど三年前の体験が堪えたらしい。
実際、ここの環境は富士山に比べれば天国みたいなものだった。クルマで来たためある程度の寒さには耐えられるし、それでも我慢できなければ暖房の入った休憩室で休むこともできる。何より、ここでは暖かい飲み物に不自由しなくて済むのが弘希には有難かった。事務室の付近には自動販売機や軽食の売店、そして、熱いお湯の入ったポットが常備されている。
お湯の入ったポットは本来、ここで働くスタッフのために用意されたものらしい。しかし、弘希が近くにいた(おそらく取材に来たTV局のスタッフらしい)人に尋ねたところ、
「別に自由に使ってもいいんじゃないですか。誰も気にしてませんし」
という、何とも嬉しい返事が返ってきた。聞きようによっては随分いい加減な返答だったが、たしかに今日はそんなことを気にする人などいないのかもしれない。仕事と趣味との違いはあっても、ここに集まった人たちの目的はみんな一緒なのだ。
ふと、つばさがくすっと笑った。
「うふっ、本当なら、もっとちゃんとした夕食が摂れたはずだったんですけどね」
「面目ない…」
と、弘希は苦笑しながら頭を掻く。
「確かに、俺が富士山に行きたいなんて言わなきゃ、たっぷりと時間の余裕があったはずだったんだよなぁ…」
「まあ、あのときはここの天気もどうなるかわかんなかったですもんね。実際、南へ行けば晴れる気配はたしかにありましたし」
「ああ。天気予報だと、関東平野はどこも晴れだったんだが…」
弘希は首を振った。現実はその限りではなかったのだ。ここよりも条件がいいと思われた富士山はふもとまで雲に覆われていたし、クルマから見ると晴れていた場所もそれほど多くは見えなかった。
「ここに来て正解でしたよね、ほんとに。覚悟はしてましたけど、ここが曇ってたら、今ごろ何してたことやら」
「ははは、まったくだな。ひょっとしたら、二人してどんより落ち込みつつ長野道を帰ってたかもしれない」
食事が済んだ弘希は、お茶を飲みながらからからと笑った。おにぎりとサンドイッチだけの夕食だが、外が晴れているなら、それもさして気にならない。もともと途中のSAで軽い食事は摂ってきているし、持ってきたストーブは基本的にコーヒーを作るためのものだ。
「さてと…」
弘希はそう言ってジャケットを羽織ると外へ出た。クルマの中と違って、外はもうかなり寒い。空を見上げればそこは満天の星空が広がっている。
「どうですか?」
と、つばさも外へ出てきた。彼女も防寒のためジャケットを着込んでいる。
「ああ、相変わらずこの通りさ」
二人はしばらく、降るような星空を満喫していた。これだけの星空にめぐり会うのは、前回のしし座流星群以来のことだ。つばさの住む街でも、弘希の大学のある街でも、これほどの星空は見ることができない。
「…そろそろ準備にかかりましょうか?」
「ああ、そうだな」
弘希はこくっとうなずくと、クルマのトランクに手をかけた。いよいよ、待ちに待った夜が始まる。




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