知的障害児への障害告知

 知的障害児施設の元同僚から次のような質問を受けました。 
 「今日は教えて欲しいことがあります。入所児童は自分に障害があることを理解しているのかどうかということです。
 18歳未満の彼らに「あなたは、障害児」とつきつけるのは工夫がいると思うのです。 彼ら自身、自分に障害があるということは深くはないが分かっているのではないかと思うのです。分かりにくい質問になりましたが教えて下さい。」
 ケータイへのメールだったのですが、二晩考えてみました。
 実は、この質問の趣旨を私も以前から気になっていながら避けて通っていたという自覚があります。大変、難しい問題で簡単に答えることができないのですが、この機会にそれなりの答えを、導いてみたいと思います。
 避けて通る
 昨年、知的障害児施設で働いていたときに上司から子ども達に「ノーマライゼーション思想について説明しろ」と迫られたことがあります。ノーマライゼーションとは何かということなのですが御存知のとおり次のようなことです。
ノーマライゼーション
 障害者であろうと健常者であろうと、同じ条件で生活を送ることができる成熟した社会に改善していこうという営みのすべてをノーマライゼーションといい、障害者が障害がありながらも、普通の市民と同じ生活ができるような環境づくりこそがノーマライゼーションの目的なのです。
 ノーマライゼーション思想に反論するわけではありませんが、子ども達に説明することに私は強い抵抗があり、上司に対して丁重にお断り申し上げたということがあります。
 断った理由なのですが、ノーマライゼーションを説明しようとすると「障害者とその他の人」、あるいは「社会的弱者とその他の人」に人間を二種類に分類する必要が生じてしまいます。つまり、施設で生活する子ども達に向かって「皆さんは障害児ですよ」とか「社会的弱者ですよ」と伝えなければならないのです。
 これを避けて通ろうとすると「世間ではノーマライゼーションっていうのがあって…」という実態のない説明になってしまい自分自身のこととして子ども達に説明する意義が失われてしまいます。
 ノーマライゼーションの説明を断った私というのは、障害児に対する障害の告知を避けて通ったと言うことなのです。

 話は変わりますが、昭和40年頃の知的障害児施設で年長の児童が他の子ども達を集めて、「俺たちは精神薄弱児というてな…。」と説明していたというエピソードを聞いたことがあります。説明する方も説明を受ける方もおおらかということだったのでしょう。もしかしたら、私が「考えすぎ」、「気の使いすぎ」なのかも知れませんが、こんな風に誰かが何となく説明してくれたら、どんなに気が楽だろうなとも思います。

 何故、説明できないか?
 話は戻りますが、「知的障害とは何か?」という疑問に回答があって、周囲が納得しても本人が納得できることでなければ意味を持ちません。「知的障害児とは何者か?」という疑問への回答も、どんなに理路整然とした答えであっても本人が納得できるかということが重要です。
 そんな訳で私は、知的障害児に知的障害のことをきちんと説明したことがありません。話題の中で「考えること、記憶することが苦手で時間がかかる」という説明をしたことがありますが、それを障害として説明することが出来なかったので、ずっと避けて通ってきたということなのです。

 そこで二晩かかって考えてみました。問題を難しくして第一の原因は「知的障害」が分かりにくい障害だと言うことです。
 知的障害があっても、きちんとした社会生活を営んでいる方はたくさんいらっしゃいます。汗を流して働き、家庭を持ち、子どもを育てきちんと納税している方を障害があると考えるのか。知的障害がなくても、社会に適応していない連中はたくさんいます。
 譲って、福祉の手当てが必要な知的障害者と限定してもこれが児童の場合は発達の一過程にいるのですから、どこからが知的障害児であるのかというのは知能検査で測定される程度で実践のない社会適応能力を求められているのですから、誰かが「この子は、知的障害児です。」と唱えるとその子は知的障害児になってしまうのではないでしょうか。
 知的障害っていうのがなんとなく曖昧なもので身体障害のように身体の一部分が不全であるとか 麻痺があるとかという風に明確なもので無いというと言うことだと思います。
 
 障害を受け止める
 他人に分かりにくいと言うことは自覚も難しいと言うことなのでしょう。分かりにくいことは分かりやすいことに置き換えて考えてみましょう。これが知的障害では身体障害であって、子どもではなく大人だったらどうでしょう。
 告知を受けるというのは、交通事故に遭遇して走れなくなったマラソンランナーが医者から受ける告知と同じようにこれからの生き方を問われてしまうということなのだと思います。
 こういうことは、誰にでも起こりうる出来事ですが、知的障害児はこの告知をもっと曖昧ですが切実なスタイルで受け止めなければなりません。それは、子ども達は成長するに従って、自分と周囲の違いに気がついてくるということなのです。

 障害児も普通の子どもと同じ成長をたどるという前提が必要ですが、獲得する自分の世界観と周囲との世界観の違いが個性とか思想、心情を超えて成長するに従って明確になってきます。知的障害の場合はこれが明確になりにくいということなのだと思います。
 視覚障害のある私の知人は、大学に進んで2年以上自炊生活を続けて、自分と周囲の重大な違いに気がついています。(参照…悔しくて泣いた 悔しくて泣いた その2

 障害の告知
障害の告知というのが話題になるのは多くは障害児の親御さんです。現在、私が働いている肢体不自由児通園施設では、ごく最近「障害の告知」を受けたという親御さんばかりです。親に対する告知についてはいろいろと議論されていますし、心理的に支えるという方法論も工夫されていますが障害児本人に対する告知を同じように考えてはいけないと思います。我々の目の前にいる障害児のほとんどは告知を受けていません。先に述べたように何となく自分の障害に気がついてくるのです。
 特に知的障害児できちんと説明を受けている子どもはいないと言ってもいいのではないでしょうか。何故説明をきちんと受けていないかというと我々は思い付きで、「知的障害児(者でもいいのですが)は、障害が重いと障害が自覚できない、障害が軽いと障害を自覚したくないであろう」と予測しているのです。
 この仮説が正しいかどうかを確かめようとする人は今まで現れていません。
 正論に従うなら、我々は「障害は人格を代表するものでない」ということと同じように「知能は人格の一部であっても、人格の主体ではない」ということを忘れてはいけません。 そして主体である人格に対して、必要な障害の告知を行うべきだということなのです。
 「車椅子が無ければ普通に生活できない」ではなく「車椅子があれば普通に生活できる」と考えるように「知恵が足りなきゃ借りてくることで普通の生活ができる」という視点で障害の告知をするということです

 質問者へ
 質問の通り、私も含めて知的障害児に対してきちんと障害を説明できる人が少ないのは事実です。必要な説明を受けずに何となく障害を自覚してゆく知的障害児はそういう点で不利な立場にあるといえます。
 かといって、知的障害児に障害を告知するということがそれほど簡単なことだとは思いません。これは知的障害児というより、個別の子どもの問題として考える必要があります。障害の告知を受けて意味を見いだせるのならば、告知するべきでしょう。曖昧な説明しかできない、あるいは分かってもらえそうにないのならば避けて通るのも仕方ないことだと思います。
 告知を受けて「ああ 私には障害があったのだ」と。それを「どうやって納得するか」、「どうやって理解するか」という時に告知が意味あるものになるのだと思います。
 そのように考えれば、やはり障害の説明はきちんとするべきだし、言いっぱなしではなく告知を受けた本人を支えてゆくというフォローも重要な課題です。

 結 語
 結局、議論としては「できるものならやってみろ」と言っているのですが、今まで避けて通ってきた私としてはなかなか踏み込めない難しい問題だということです。
 やはり、我々はきちんと説明してその後の彼らを受け止めることのできる能力を備えなければならないということにうすうす感づいているような気もします。
2004年8月1日