悔しくて泣いた(その2) | |||
悔しくて泣いた本人が「悔しくて泣いた」を読んでメールをくれた。 「一人でお買い物できないのが、悔しいって思ってる。だって、お茶一本自分で買えないんだ」というその気持ちだけで「悔しさ」伝わってくる。「バスで帰ってくるときとかに、トイレにも自分で行けないのかって思う。」と続いている。 最初は、それが悔しいことだとは気が付かなかったようだが、慣れてくるに従って、いろいろ考え、気が付いてくるようだ。これは悔しいことなんだと。 彼女の友人達も同じように思っているそうだ。 ある友人は「見える人にそういう話をすると、手伝うからとか、そんなこと気にしなくていいよ」って言われるとのこと。 これはこれで正解である。何の間違いもない。しかし、悔しいって思っている人に「そんなこと気にしなくっていいんだよ」っていうのは慰めにはなるかも知れないけど解決にはならない。課題解決の正解を出しているのに解決に繋がらないのは、何か問題がありそうだ。 彼女の言葉を引用することを許してもらおう。 |
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「手伝ってもらわずにしたいんじゃなくて、みんなあたりまえみたいにやってることを、どうして私はできないんだろう。」「弱視の人は、売り場がわかっても、欲しいものがどこにあるかが分かりにくいみたいだし、安いものを探して買うってことも難しいみたいだ」 「私は、よくばりなのだろうか」 |
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これは、どうも見えるとか見えないとかそういう人間の機能の違いとか障害っていうことだけの問題ではなさそうだ。彼女は自分の尊厳について語っているのだ。 彼女が大学に進まず、誰かからたくさんの援助を受けることを普通の生活として自立を成り立たせていたらこんなことを考えなかったかもしれない。 1年半以上、自炊を続け友人とおしゃべりをして、見えない人や見える人、いろんな多くの人々に出会ったからこそ、自分で出来ること、手伝ってもらわないと出来ないこと、手伝ってもらっても出来ないことの区別が付いてきたのだろう。 これは確かに成長なのだろうが、成長とともに現れた苦悩でもある。成長するというのは、良いことなのだろうが、このような疑問が出されるとやはり美しい言葉でごまかしてしまうことしか私にはできない。 今、私のいる知的障害児の施設で子ども達と一緒に過ごしていると、こういう尊厳という難しい言葉の説明に窮する。 ある時、子ども達に「権利」について話す機会が与えられた。詳しい経過は省略するが、「尊厳」つまり自分を大事にするってことは、自分自身を知らなくてはならない。自分がどんな人間なのか、どんな人柄なのかなどという小難しい哲学はさておいて、自分の好み、例えば「みそ」と「しょうゆ」と「しお」のラーメンでどのタイプのラーメンが好きなのかぐらいは知っている必要がある。 「みそラーメン」が好きなのに「塩ラーメン」を選ばされるのは尊厳を脅かされるということなのだ。勿論、尊厳を脅かされるということを知っていながら「みそラーメン」に折り合いを付けると言うことも大事なのだが、出発は「自分」の好みである。 私は子ども達にこんな風に説明した。 「みなさん、一人一人にひとつずつ自分っていうのがあるでしょ。この自分って言うのは誰にもひとつずつあって、自分はみそラーメンが好きで、他の人の自分は塩ラーメンが好きかも知れない。だから一人一人が違った自分があるっていうことなんだ。」 安易に障害児の社会自立を考える人々から、私の考えは反対をされている。我が儘を奨励しているようだという批判だ。 「我が儘」と「主体性」というのはまったく違ったものである。「主体性」は社会の中で育まれ成長するものなのである。そのことが解らなければ、彼女が悔しくて泣いた訳も解らないであろう。 彼女が悔しくて泣いたのは、社会の中で主体性を発見して行く過程の中でのできごとである。 世間での障害児者の社会自立っていうのは、誰かの都合のいい社会自立であって、その人の尊厳を大事にした社会自立ではないように思う時がある。 いつか、こういうことを若い人たちにきちんと伝えたいと思う年頃になってしまった。2003年12月14日 赤穂浪士討ち入りの日 この項 終わり |