悔しくて泣いた
 
 今年の春まで仕事をしていた施設(「私の楽しい職場」)の出身者から電話がかかってきました。悔しくて悲しくて泣いたとのことです。
 彼女は視覚障害があって2002年の春に大学(国立筑波技術短期大学視覚部情報処理学科)に合格し以来、寮生活をしています。毎週1〜2回はバスに乗ってジャスコに行って食料を仕入れてこの1年半の殆どを自炊しています。それはそれですごいなぁって思うのですが、彼女が悔しくて悲しくて泣いたことは自分で買い物ができないってことなのだそうです。
 ジャスコはカウンターに申し出れば彼女に付き添って買い物の援助をしてくれるとのことですから、問題はないようにも思います。
 ジャスコで買い物を手伝ってくれるのは、お姉さんであったりおじさんであったり、やさしいおばさんであったりといろいろな人がその時の都合で付き添ってくれるそうです。 ある時、優しいお姉さんが付き添ってくれたときに途中からお兄さんに代わったそうです。そのお兄さんは優しくかっこいいお兄さんだそうです。今度もそのお兄さんが来てくれればいいのにと思って行ってもなかなかそのお兄さんには当たらないようです。
 それとは別のことなのか関連しているのかよく分かりませんが、ある時自分がいつも誰かに手伝ってもらわないとお買い物ができないことが悲しくなったとのことでした。
 私は1年半も自炊を続けていることを感心していますが、彼女にとってはそれが当たり前のことで決して、「(視覚障害で全盲なのに)自炊をしている」ということが素晴らしいことじゃないようです。

 私はこういうときにごまかす言葉をたくさん知っています。

 買い物を自分で出来なくてもいいじゃないか、今夜はどんなメニューにするか? 明日は何を作ろうか? それに必要な野菜は何か? お肉はどんなお肉がいいのか? 味付けはどうか? おいしく食べるためにどんな工夫が必要か? 等々いろんなことを考えて、判断して、決心するっていう一番大事なことを貴女はしているのだから、悲しんだり悔しい思いをすることはないよ。自分で考えて判断して決心をすることが一番大事で素晴らしいことなんだよ。出来ないことは手伝ってもらえばいいんだよ。考えるのが出来なければ考えることを手伝ってもらえばいいのだよ。判断するのが出来なければ判断するのを手伝ってもらえばいいのだし、決心が出来なければ決心することを手伝ってもらえばいいのだ。
 そして行動する時にも行動することが出来なければ行動することを手伝ってもらえばいいんだよ。

 私がごまかす言葉は、とても美しい言葉で説得力があります。
 でも、自分で出来ない悔しさと悲しみを押しとどめることは一時的にできることで、本当に開き直ることができるかどうか分かりません。なにより、多感な20歳の女性が悔し涙を流している風情を思い浮かべれば、言葉の遊び以外のなにものでもなく ただ、何もできない私が私を慰める言葉にしか過ぎないのかもしれません。(2003年12月7日 この項終わり)