いくさのあとさき


 防空壕 
親子3人の京都の暮らしは、近くに黒谷さんや、真如堂、吉田神社、いつも高く閉ざされた門扉の宮家の別荘があり、ひっそりと静かに過ぎていった。が、長崎に引っ越してからはすべてが激変してしまった。

警戒警報のサイレンはともかく、空襲警報は子供心にも不気味で緊張感を覚えた。深夜このサイレンで起こされると真っ暗闇の中を手探りで着替えるので、モンペを後ろ前にはいてしまったことがあってとても気持ちが悪かった。解除のサイレンが鳴ってまだ温(ぬく)もりの残っている寝床に戻るときのホッとした気持ちは、時として幸せに感じることさえあった。しかしこんな緊迫した夜になぜ私達は寝巻きに着替えて寝ていたのだろうか。枕元には脱いだ順にきちんと畳んだモンペや上着、防空頭巾を揃えて…。

空襲のサイレンが鳴ると、二階へ上がる階段の下の廊下の隅の床板を母が開けてくれるので、私も隣の家に住む叔母の子供達と四、五人一緒に、小さな梯子を伝って地下室と呼んでいたこの場所に入るのだった。母達は大急ぎで当座のみんなの食糧を用意し、水筒にお茶をいれて渡してくれるのを左右の肩から斜めにかけた。

古い先祖は大地主だったという祖父の家は、その頃も数人になったとはいえ、小作人が収穫の時期になると穀物や野菜を運び込んでいたので、それを貯蔵する地下の貯蔵庫があった。そこが空にされて私達が入る防空壕の代わりになっていたのである。コンクリートで固めた床と四方の壁は湿り気をおびてひんやりと冷たく、壁に凭れるのがはばかられた。
そこはまだ子供のこと、暗く狭い処に押し込まれた私達は、何か楽しい秘密の遊びのように声を潜めて話していたのが、いつの間にかおしゃべり好きの従妹の話に笑い興じたりして、頭上から時々「敵の飛行機に聞こえるえ」と大人の声が落ちてきたりした。

その頃の生活といえば、焼夷弾が天井裏で止まると消火に手間取るというので、天井板は殆ど外して僅かに残した端っこに寄せて積み重ね、逃げ場を失った鼠が箪笥の裏側から毎夜ガリガリと音を立てるのを聞きながら疲れ果てて眠りについた。寝室の畳は寝床を敷く広さだけ、食事をする部屋はちゃぶ台を置く広さだけ残して畳も上げて片隅に積み上げられていたので、一番端っこにあるトイレに行くのに、家の端から端まで床板をガタガタ跳ねながら歩いた。

祖父母に両親、若い叔母達・・・大勢の大人がいて、なぜここが防空壕代わりにちょうどいいと決めたのだろう?湿ったコンクリートの床に腰を下ろし、両膝を抱えて時々頭上を見て思った。本当に爆弾が落ちてきたら私達子供はみんな蒸し焼きになる…と。

私が長崎市内に居る間は無事だったが、例えどんな立派な防空壕があったとしても、原爆が落ちたとき、人々は防空壕に入っていなかったのだ。庶民の考える戦争と全く別の戦争が始まろうとしていた。