いくさのあとさき


 雛の屏風 1
昭和20年に入ると、B29の空襲を知らせる不気味なサイレンが頻繁に繰り返された。その中でお雛様を飾った。この思い出がなかったら、あのような慌しい時に雛人形を飾った事さえ忘れていただろう。母が病弱で始終寝込んでいた。その枕元に当るところに簡単な雛壇を作り、内裏雛や官女のほか、抱き人形や市松人形、硝子のケースに入った人形まで、ありったけの人形を父が飾ってくれた。昔の雛人形は小ぶりだったから広い場所は要らなかったけど、電灯の笠を黒い布で覆い、母が寝込んでいて暗くわびしい最後の雛祭りであった。前年の秋に生まれた叔母の三男の首が据わる迄と、疎開を先延ばしにしていたのがやっと決まった。そして私一人だけ、二人の叔母とイトコ達と一緒に疎開することになった。勤務から帰ってきた父が私の身の回り品と最小限必要なものを荷造りしてくれた。学校の教科書を詰めた木のミカン箱にかなりの隙間が出来た。「どれを持っていくのや?」と父が聞いた。私は立派な表紙がついた重たい本2冊、「イタリー童話集」と「イギリス童話集」を差し出した。それを詰めると僅か5センチ程の隙間が出来たので、何か詰めるものをと辺りを見回すとお雛様の屏風の箱が目に付いた。父がその箱を詰めるとピタリと納まった。終戦後帰ってきたら無傷で残ったのは、私と一緒に疎開した八寸の屏風だけだったと言うわけである。

いま10cmにも満たない丈のお雛様一対と雪洞
(ぼんぼり)を添えて玄関の作りつけの下駄箱の上に飾っている。後ろには不似合いに大きな生き残りの雛屏風を広げて。娘は奇しくも三月三日生まれである。雛の季節にいつも甦るあの薄暗い記憶を消してしまいたい気持ちが心の隅にあったのだろうか、少しづつ貯金したお金で七段の雛飾りを買った。娘が小学校に入学する年だった。2歳年下の弟が幼稚園から帰ると、もう園ではお雛様が飾ったよ、おうちでも飾ろうよと催促をするので毎年この子と二人で飾り付けをしたものである。肝心の娘は外で遊び呆けるか、さもなくばお雛様の刀を抜いてチャンバラの真似をしたり、雛道具の箪笥や重箱に雛あられを隠したりしていた。―次頁へつづく―