無条件降伏 
大東亜戦争に負けた。「無条件降伏」という現実に泣いた暑い夏が過ぎようとしていた。疎開先から皆が一度に市内に帰ると食糧がないから、しばらく疎開先にとどまるようにと母たちから言ってきた。

9月から今までどおり授業が始まった。戦争が終わって初めての授業だった。破れ易い薄い紙がみんなに配られて「終戦について」という題の作文を書いた。「日本が降伏したのは、これ以上戦争を続けてこのうえ日本国民のぎせい者を出したくないという、天皇陛下の国民を思いやるお気持ちから決断されたのだから有難いと思います。」みたいなことを書いた。数日して返ってきた作文は、その数行に一字一字赤ペンでびっしり○がしてあった。もっと書いたのだが赤マルの所しか覚えていない。

それから数日して、国語の教科書に墨を塗ることになった。えっ?これも?どうしてこれがいけないの?と言うように教室がざわめいた。どうなるのか見当もつかなかったが、もう読めなくなると思ったら右手で丁寧に墨を磨りながら左手で急いでページをめくり読み溜めをした。みんなお互い顔を見合わせ恐る恐る一行ずつ塗りつぶしていたが、だんだん大胆になってどのページも真っ黒に塗りつぶし、ページが乾く間もなく次のページとやけくそになって塗りつぶしたので、教科書はくっついてめちゃくちゃになった。私達の大切にしてきたものへの価値観が変ったときかも知れない。

秋になって、私達はやっと疎開先の借家を離れて長崎市の自宅に戻った。祖父母や両親は日常の生活に戻っていたが、祖父母が下宿人を数人置いていたので、一日の殆どの時間が食糧調達と食事の用意に追われていた。
部屋の整理をしていたら堂本印象の白百合の短冊が出てきた。父がじかに貰ったという大事なものだった。「どうしたの?こんなにシワをつけて!」とびっくりして母に言った。母は疎開させるのを忘れたのでモンペの下の帯の間に巻いてず〜っと肌身につけていたからだといった。戦争が終わったら今度は占領軍が進駐して来るので嫁入りの時の守り刀を懐に家事をしていたらしい。母の高島田を飾った櫛や
髪飾りを見るのが好きで、京都でよく独りで留守番をしているとき取り出して見ていた。守り刀も一緒にあった。鞘を抜くとあまりにもピカピカ光っていて怖かった。母の許に早く帰りたかったのに許されなかった理由がわかったような気がした。