我が青春10年の軍隊史  

角田利信


其の二十五 トーマ集団と劇場
我々は終戦後、各部隊毎に居住する場所を10集団に分散して、我々はトーマ集団と呼称した。家屋や道路などを整備し、道路を固めるため海水を煮詰めて製塩し、これを散布してコンクリート道路のように固めた。家屋の屋根は椰子の葉を編んで段々にして貼り付け、壁の代わりにも使った。床は竹を二つ割にして下向きに貼り付け、自らの手で集団を編成した。
当集団では劇場も作り、演芸に経験のある者を集め、歌謡曲、落語、漫才、踊りなどで楽しんだ。楽器は椰子の実を利用しマンドリン等を作り、ドレスは宣舞用のラプラプ−現地のカナカ族は皆腰巻として使用している−のあまりで洋服に仕立て、模様は赤、青のラプラプを切り抜いて貼り付け、立派な舞台衣装に仕立てた。

          トーマ音頭


       トーマ日和に稲の花ざかり
      娘踊れや豊年祭り ヨイヤサー


我々は週一回、トーマ集団演芸場で夕方6時頃より9時頃まで演芸を楽しんだものである。


其の二十六 復員準備
各人、古い天幕を利用してリュックサック作りに余念がない。時間を作ってはリュックつくりに一生懸命である。昭和21年2月に入ると復員の話しが毎日続く。我々下士官は「断種」されてシドニーに送られるという流言飛語がとんだ。さぁどうなることか、来るなら来い、へこたれるものか。
電報班の情報によれば、各部隊の復員状況は昭和25年以降で、復員船の都合がつかず、帰れるのは26年以降になるということである。まず、マレー、シベリヤ、フィリピン、スマトラ、支那方面、シベリヤ方面を引き揚げさせ、次いでラバウルの将兵はアメリカの上陸用舟艇がこれに当る。奥地より順次復員させ、我々の入っている集団の整地や椰子の木を植林するなど元通りにする後片付けをして豪州軍に引き継ぐことになる。愈々復員話も現実味を帯びてきた。
21年6月赤根岬より出航の予定。皆それぞれ準備に取りかかる。