我が青春10年の軍隊史  

角田利信


其の五 ノモンハン出兵
昭和14年6月2日非常呼集、一装用軍装にて営庭に集合の号令がかかる。いつもとは違った号令だ。スワ応急派兵か。本日ロシア軍が北満のノモンハン附近数ケ所を急襲。電信第三聯隊は、関東軍通信隊としてノモンハンに出兵する。直ちに兵器梱包、出動準備、中隊小隊編成。この命令が出れば24時間以内に戦闘に参加だ。通信第一小隊、第二小隊、第三小隊、第一通信所、第二通信所、編成人名の発表あり。各人は自分の氏名を記入し、認識票を身につける。陸軍二等兵二八八「電三角田利信」内務班にて別命あるまで待機せよとの命令である。。6月2日午後4時営庭集合、まだ薄暗い新京駅へ貨物車は直行して、各小隊毎に軍用列車に乗り込む。電燈を消してホームは薄暗く、軍用列車は午後6時新京駅を発って、ハルピン、オウヤビョウ、ノモンハン駅に着くと、もうドンドンと大砲の音が耳をつんざく。愈々戦場にやってきたのだ。

ノモンハンの駅は、各地からきた歩兵部隊でいっぱいだ。電信隊は貨車にある電柱,電線、被覆線、絡車を下ろす。駅頭はすでにラクダ隊が到着していてラクダが溢れている。我々は建築第一小隊に所属し、主として被覆線一条架設を命ぜられる。絡車二人に被覆線50米を装着し、綱を10米ぐらいに2ケ所取り付け、7名から10名両側に位置し綱を引っ張る。ノモンハンの砂漠を一日中駆け回る。走れ、走れ、毎日絡車を担いで走る走る。「6月4日軍通信隊はノモンハンと軍司令部と歩兵兵団との被覆線一条の架設を命ず。完成日時、6月5日13時、第一小隊、第二小隊、20粁の距離を計り完成時刻6日の13時までとする。余はノモンハン軍司令部に在り。電信第三聯隊長 志甫勤一郎。」

ノモンハンは戦略的要所に非ず、ただハルハ川があり、水も比較的きれいでこの場所を日本軍とロシヤ軍が互いに取りあっているようである。ノモンハンの砂漠の地平線の彼方に、豆粒の様に黒い線が並んだと思う間もなく、戦車の轟音が砂煙をあげて進撃してくる。我々電信隊は後方に待機する。第一戦は歩兵で、各部隊は小銃でアンパンと称する爆雷を各人携行し、戦車のキャタピラをめざして放り込み、紐を引っぱってキャタピラにかます。ピャタピラが爆雷の信管を踏んで炸裂する。歩兵一個聯隊は全滅、戦死者続出、また一箇聯隊前進する。戦車より打ち出す機銃でバタバタと倒れ、其の上を戦車が踏みつけて行く。電信隊の待機しているところに戦車が進撃してくる。我々は持っている電柱を振り回すだけだ。その時、ロシヤ軍の戦車は慌てて方向を変えた。戦車同士が衝突して動けなくなる。早速手留弾を持って戦車の上に攀じ登り、信管をぬいて放り込み炸裂させる。通信第一小隊戦車一輌擱座(かくざ)。ノモンハンの砂漠地帯は7月となると朝は零下10度ぐらいの寒さで、昼間は30度ほどの暑さとなる。戦場に出て以来、汗だくだくで下着を着替えることもなく、20日もするとシラミがウヨウヨと肌着に蠢く。これはと堪らんと、ドラム缶に湯を沸かして肌着をほうりこむ。白いシラミが湯の中で蠢く。シラミ退治はこの方法よりない。