いくさのあとさき


 疎開生活 3

元号が平成にかわり、80歳を過ぎた母の記憶が途切れ始めた。父は長年住み慣れた長崎での一人暮らしの方がいいというので母だけ私の許に引き取った。様々なプレッシャーから解放されたのか翌日から体の機能は奇跡的に回復したが、失語症の傾向が顕著になって、冷蔵庫とか、日常に身の周りにある物事の名前が出てこなかった。ところが私の子供の頃の話になると良く覚えていて表情が和むので、よく昔の話をして笑いあった。
疎開中の話になって、「下肥を運ぶときのジャンケンは天国と地獄の岐れ目だった」と、自分でも思い起こすたび可笑しいので笑いながら言ったとたん、母の目が見る見る涙で一杯になった。
「そんなことがあったん。おかあちゃんはあんたが皆と一緒に疎開したらお腹一杯食べられるから、長崎に残るよりどれほどええか知れんと思ったのに、そんなことしてたやなんて、夢にも思わなんだ。」と、昨日のことのような真剣なまなざしで言った。「そうよ!疎開していて良かったのよ。それまで一人だったのがたくさん妹弟が出来たようで楽しかったし、麦刈り、田植え、そのほかいろいろなことが体験できたお陰で、何が起きても何とかやっていけるような気がするし、疎開してなかったら何も出来ないままだったもの。」と私は慌てて言った。「そやなぁ、ところで・・・あの子、さっきまでここに居たのにどこに行ったのやろう?」といった。「うちらが話していると、いつもあの子がどっか行ってしまうわ。」あの子とは「子供の頃の私」である。初めのうちは気になって「じゃあ、この私は誰?」と聞いていたが、母が困ったような顔をするので、最近では「何処行かはったんやろう」と笑うしかなかった。また母の記憶がタイムスリップしてしまった。