いくさのあとさき


 疎開生活 2
国民学校では様々な「勤労奉仕」に駆り出された。「田植え」では裸足で泥田に入るので、ヒルが張り付いて血を吸った。話では知っていたが、この時まで実物を見たことがなかったので、さすがに身震いがするほど気持ち悪かった。「麦刈り」はすぐ鎌を上手に使えるようになって、落穂を出さないように手際よく刈った。或る時は桑畑の枝を伐採して、身の丈に余る長い枝を学校まで引きずって帰った。樹皮が兵隊さんの服になるということだったのだが、今に至るまで見たことも聞いたこともない。
桑の実が熟れる頃の山の畑の作業では、先生の目を盗んで交代で一人ずつ隣りの桑畑に入って、黒く甘い実を急いで口に頬ばった。食べ始めると美味しくて中々やめられなかった。唇や舌が紫色に染まるので、他の級友に直ぐバレてしまったが。

勤労奉仕で一番嫌だったのは山の上に開墾したサツマイモ畑に下肥を運ぶことだった。校庭の便所の裏に並んでいる汲み取り口の蓋を開けて、大きな柄杓を突っ込んで桶に汲み取ったら、天秤棒の真中に吊るして急坂の山道を二人で担ぎ上げるのである。

いつも整列するときの身長順にパートナーが決められて、私が仲良しの子と組むことが出来たのは本当に幸運だった。どちらが前になるかはジャンケンで決めた。
神に祈るような気持ちだったが、子供の時から勝負に弱かったらしい、私は負けて後ろを担ぐことになり、下肥を見ながら歩かなければならなかった。

その頃の食事は殆どが芋や葉っぱばかりだったので、下肥は二人のぎこちない歩調に乱されて、波打った飛沫が唇に迄かかってしまった。前を担ぐ子は一刻も早く、この苦役から開放されたくて歩調を速めるので、「もう少しゆっくり歩いて」と言いたくても、神経質だった私は下肥がかかった口を開くことが出来なかった。例え石に躓いて生爪を剥がそうとも、急坂では一休みするところもなかったので、顔を拭うひまもなく歯を食いしばって、必死の形相で付いていった。

「オクチョウココロヲイツニシテ(億兆心を一にして)」は教育勅語の言葉だったが、これこそ二人の心が一つにならなければ無事に山の上まで運べなかった。先に出た組が途中の坂でひっくり返していた。泣いていたのはやっぱり「疎開の子」だった。私達はただ黙々と傍を通り過ぎるだけであった。