いくさのあとさき


 疎開生活 1
疎開先の田舎ではほとんど自給自足の生活であった。「労働」など一度もしたことがなかったのが、一夜にして大人と同じ「労働」をすることとなった。

先ず真っ先に教えられたのは、自分がはくワラゾウリをワラから作ることであった。口に含んだ水で霧を吹いて、トントンと叩いて柔らくして、ワラゾウリの縦糸になる細い縄をなうことから始まった。できた縄を輪にして両足の親指にかけて手前の踵に当る部分から、交互に縦芯の縄に潜らせていくのだが、横糸のワラは力を込めて手前に引き寄せ密に編まなければなかなかったので、力のない私のワラゾウリは履いた後で直ぐ駄目になった。鼻緒にする縄を編むときは赤や黄の古布を小気味よく引き裂いて、二色の配色を考えながらワラと一緒にない、可愛らしい鼻緒用の縄が出来上がったときは女の子らしい喜びを味わった。
初めて作ったワラゾウリを履いて学校へ行った日は得意だったが、寒い日でも素足だったので、履いたことがない足は直ぐにマメや水ぶくれや鼻緒ずれがした。それよりも、締めかたが足りなかったのか、歩けば力が加わる部分や踵のワラが前後に分かれてしまって足がじかに地面につき、泥だらけの足で帰ってきた。学校から帰ったら玄関の上がり框に置いてある濡れ雑巾で足を拭くのが習慣になった。

毎日の家事の手伝いで一番辛かったのは下の井戸からの水汲みであった。水道がひかれていなかったこの辺りの数軒が共同で使っていた。20mほど下った井戸へ天秤棒の両端に木桶をぶら下げ、風呂や炊事用の水を汲みに行った。薄い肩に天秤棒が食い込み痛くてたまらなかったが、急勾配の細い山道は一番緊張するところだった。チャップチャップと揺れるたびに水がこぼれると、泥の斜面は滑りやすく、何度が滑って折角汲んだ水をひっくり返しているうちに、うまくバランスがとれるようになり、水面に柄杓代わりに、瓢箪を縦割りにしたものを浮かべると零れないということもわかってきた。辛かったが毎日の欠かせない日課であった。
まき割りは、これまで触ったこともない重たいマサカリが怖かったが、これも馴れて来ると1本の丸太をほぼ正確に4つに縦割り出来るようになった。節のない丸太がスパッと割れて、音を立ててまき割り台から落ちるときは、爽快な気分で面白かった。

ある日の夕方、いつものように庭でまき割りをしていたら、学校に駐屯している部隊の上官が従卒を一人従えて貰い風呂に来られた。上官がお風呂を使っている間、お付きの兵隊さんは正面の池の縁に腰を下ろして、ニコニコしながら私のまきを割る姿を見ていた。私がひと休みしたとき、おもむろに立ち上がって「ちょっと貸してごらん」とマサカリを取り上げた。そして丸太を1本選ぶとまき割り台に腰掛け、器用にマサカリ一丁を操って何かを作り始めた。私は直ぐ傍を離れたが、他の用事を済ませて戻ってきた時、小さな従妹達が声を上げて喜んでいた。なんと、可愛らしい下駄が片方出来ていたのである。

ちょうど上官がお風呂を終えて出てきたので兵隊さんは一緒に帰っていった。私達は叔母に「兵隊さんに作ってもらった!」と下駄を見せた。叔母は荒削りの下駄を手にとって見ていたが、「おうちが下駄屋さんやったんやねぇ。あんな年のひとまで・・・」とつぶやいた。故郷に私ぐらいの子供達がいるのだろうか。日に焼けて柔和な目をした丸い顔を思い浮かべた。この叔母の夫も横須賀で潜水艦に乗り、私達にワラゾウリ作りを教えてくれた若い叔母の夫もすぐ出征して教壇を離れた。
兵隊さんがまた来て、もう片方の下駄を作ってくれるだろうかと待っていたがそれきりになってしまった。