松根油採取の頃

8月15日、敗戦の日、私達は朝から松根油採取へ出かけていた。 私は国民学校五年生だった。

「松根油」と私達は呼んでいたけれども、実際は、松脂、松の樹液のことだった。 南洋のゴム園では、私達と同じような遣り方でゴムの樹液を集めているのだと聞かされた。松の幹にY字型の傷をつけ、その下にワイヤーで缶を括りつけておくと、缶の中に樹液が落ちて溜まっていく。私達はそれぞれに自分の松の木を与えられていた。 数日後、集めに行くと缶の底には飴色の松脂が溜まっていた。  幹の傷から滲みでて、乾いた松脂は白濁して固まっていたりした。私達は缶を取り外して、高等科のお姉さんが用意していた大きな缶に箆を使ってそれぞれの樹液を移しかえ、空になった缶をまた元通りに自分の松の木に括りつけた。辺り一面に松脂独特の匂いがしていた。 私はその匂いが嫌いではなかった。場所は「元玉名」のはずれ、母が長年通勤した「月瀬小学校」の方角へ向かう山の中の松林だった。
 
その頃、もう学校にはほとんど通学していなかった。 すべての子供達の勤労活動は、居住地区ごとに男性班と女性班に分かれていた。 私の住んでいた「島」地区の班長は高等科2年のお姉さんで、私達は班長の下で目的地へ向かう時は隊伍を組み、時には軍歌を歌ったりして、まるで小さな軍隊のように行進しながら進んだ。 松根油採取に参加していたのは、4年生以上で10名ほどだったと思う。それ以下の小さい子供達は何をしていたのだろう?連絡事項、明日の予定などは班長から指示されていた。班長と高等科のお姉さん達は、学校や親達との連絡、作業目的地の確認など、今から思うと驚くほどのリーダーシップを発揮していた。今の中学1年や中学2年の少女達に過ぎなかったのに、彼女達は何と健気に頑張っていたことか、率先して作業をし私達を守ってくれた素晴らしい指導者だったのだ。  
私の年上の従姉は女学校に行っていて、その頃は勤労動員で街の工場で働いていると聴いていた。私の班長など高等科のお姉さん達は、もしかしたら女学校の試験を落ちた人達かもしれない、勉強出来ないのだと、傲慢な私は密かに軽く見ていた。そのうちに年下の子供達の作業の手伝いをしてくれる、一生懸命な責任感の強いお姉さん達を、だんだん尊敬するようになっていった。
 
松根油採取の前は桑の皮剥きをした。農家の庭に同じ長さに切られた、同じぐらいの太さの桑の木が積まれていた。その桑の皮を剥く作業だった。指に傷を作ったり、指や手のひらが桑の渋のせいだったのか、茶色に染まって洗ってもいつまでも色が取れないでいた。手袋もしないで皮剥きをしたのだろうか?剥いた皮は農家の小父さんが束ねて紐をかけ大きな束に作ってくれた。その束の個数をなるべく多く作ることが各班の競争だった。私の班の成績は優秀だった。作業はいつも大変だったけれども農家の手伝いは大好きだった。大戦末期、もう田舎でも各家庭の食糧事情は悪くなっていた。農家でご馳走になる昼食は、きまって真っ白い御飯に香り高い味噌汁や漬物が添えられていた。作業の「きつさ」など吹っ飛んでしまった。
 
勤労作業の帰りは自由解散で、私は同学年で隣りの正子さんと一緒に、よく笑いながら帰宅していた。 何がそんなに楽しかったのだろうか。私達は各自古い着物から家で作って貰ったもんぺをはき上着は白のシャツを着ていた。布地にそれぞれの名前、学年、血液型を書いた名札を上着の胸に縫い付けていた。一方の肩から斜めに防空頭巾を下げ、もう一方の肩から水筒を提げていた。
 
8月15日、作業を終わって私達は元玉名の往還を歩いて帰宅中だった。何軒かの家の前に兵隊さん達がたたずんで、頭を垂れていたのを見た。
 
あの九州の田舎に、その年になると兵隊さんの姿を多く見るようになった。彼等は何処に寝泊りしていたのだろう?本土決戦に備えて軍人達がどんどんやって来ているのだと聴いていた。しかし思いかえしてみても、彼等は飯盒をさげ三々五々歩いていてどこへ行っていたのだろうか。私の目にも彼等はちっとも勇ましくも元気よくも見えなかった。歌も歌わず行進もしていなかった。
 
家に帰ると土間のすぐ前の8帖に、祖母と下の妹を膝に乗せて母が座っていた。親戚の叔母も来ていたと思う。私の顔を見ると、「美也ちゃん、戦争に負けた!」祖母は号泣した。それまで泣いていたのだと思う。めったに涙を見せない母も泣いた顔だった。



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