ある季節の終り -1-

戦争が終わってすでに四十幾年が過ぎ、その頃住んでいた三鷹の家にはいかず後家の私と、子連れ出戻りの妹とその二人の息子達、そして我々姉妹の母親、全部で五人の変則家族が暮らしていた。働き手である姉妹の休日の楽しみの一つは、ビデオ鑑賞会だった。私達が選んだビデオテープは、大半がアメリカ映画や、アメリカのTVミニシリーズのようなものだった。
明治生まれの母は、『洋画はどうもね、、、』と言いながら昔の西部劇のいくつかはご贔屓で、中でも「シェーン」の大フアンだった。 「シェーン」ほどの映画なら見ると言いつつ、私達が借りて来る映画はどれも気に入らず自分の部屋へ引き下がった。京王線つつじが丘駅前のビデオショップで、私がたまたま見つけて借りて来た「プレンテイ」は、全く食指が動かないと妹にも拒否されて、我が家の変則家族が寝静まった深夜、私は独り居間兼食堂で音を低くしてそのビデオを見た。

第二次大戦のさなか、ドイツ占領下のフランスの大地に真夜中イギリスの落下傘が降って来る、その緊迫した導入部。 似たような場面は他の映画にもいくつも見られたように思う。 しかしこの「プレンテイ」の主人公は、使命感に燃えた若きイギリス女性だった。 そこからいわば敵地に於いて、生か死か、一瞬一瞬の緊張を強いられる日々が始まる。土地のバルテイザンを支援する刺激的な仕事の中で、彼女は祖国を、使命を共有する若い男と激しい恋をする。そして戦争は終わった。 
祖国に帰った彼女は何をしても心が満たされることがない。戦後を「余生」と呼ぶにはあまりにも無残。いまだ若い彼女は、その後の長い長い人生を生きる意味を見出すことが出来ない。徐々に徐々に彼女は自己崩壊の道を辿る。これおしも戦争の爪跡と言うべきなのだろう。北国の、季節はずれの、多分リゾートの港町の突端にぽつんと立っていた空家に見えるホテル、それは寒々としてうら寂しく、まるで主人公達の心象風景を見事に表しているようだった。そこでメリル・ストリープ扮するスーザンは何かを求めて、戦時中異国で恋をしたサム・ニール扮する相手の男に会う。 かつて、イギリス軍の凛々しい兵士であり、その時その時、的確な判断をし彼女をしっかり抱き止めてくれ、全幅の信頼を寄せた同志であり、生死を共に生きてきたその人は、戦後初めて会うその人は今まで何をしていたのだろう、草臥れきった落魄の中年男に過ぎなかった。
スーザンには解かっていたのかもしれない。寒々とした外の風景と同じく、ホテルの部屋の二人にはもはや語るべき言葉もない。 ざらざらと虚しさだけが残る再会だった。彼女の生は、あの戦いの時、光輝を放って激しく燃焼し尽くしてしまった。いまどこにも生きる意味はないのだ。

私は、長いこと、この「プレンテイ」の原作を探していた。いつの頃かこの映画には原作がないこと、脚本家のオリジナルであることを知った。いまだにその脚本は読んでいない。ー次頁へつづくー


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