ある季節の終り -2-

戦後まもなく、まだ子供であった頃、「予科練帰り」とか「特攻帰り」とか「特攻くずれ」などの言葉を聴いた。知人の息子が、特攻帰りで「ぐれなはった!」と母が話しているのを聞いたことがあった。出撃が延びに延びとなり、そのまま敗戦となって帰郷して「ぐれた」、戦後の日本にはそんな若者が幾人もいたに違いない。しかし、私は「プレンテイ」のような日本映画にお目にかかたことはない。私達が成長する頃、「きけ、わだつみの声」や「雲ながるる果てに」あるいは、「真空地帯」などの映画があった。 わが祖国はかつて世界でも有数の軍事大国であったはずであり、軍国主義教育は徹底し、幼かった私達は「神の国」と教えられ、神の国は最後に勝つと思っていた。何かの雑誌に載っていた「蒙古襲来図」を真似て「神風吹く」という絵を描いたのは、私がたしか国民学校四年生の時だった。敗戦一年前、私は最後には「神風が吹く」と信じていたのだろう。 私の周りの友人達は誰一人として見ていなかった映画「プレンテイ」が、何故だか私の心に残った。

幼いながら私もまた、戦が終わってささやかな、あるいはかすかな「虚脱」を意識したように思う。幼い心にアンニュイを感じとっていたのだ。多分それは小さな傷とも呼べるものだった。不思議に私と同年であったり、その前後の小さい軍国少年や少女達の言葉は、「戦争が終わってホットした、、、」とか「8月15日の夏の空は蒼かった、私は開放感を感じた!」などというものばかりだった。ひたむきに「醜の御楯」たらんと欲した私よりかなり年上のお兄さん達の中に、戦後、スーザンと同じように徐々に心が壊れていった人はいなかったのだろうか?そのような心の崩壊過程を抉り取った文学も映画も、この国には生まれなかったのだろうか?

私は戦後十年がたって二十歳の時、いやもうすぐ二十一歳になろうとしていた季節、しばらくの間、「特攻帰り」と言う年上の人に恋をしていた。彼は私より七歳年上だった。敗戦時、私は十歳。その時彼は十七歳の少年に過ぎなかったのだ。私達はいつもお話をしていたにもかかわらず、戦時中のことを何一つ話したことはなかった。十七歳の少年が死と対峙して一体何を思っていたのだろうか?私はそのうちにその人にさよならをしていた。ー次頁へつづくー


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