いくさのあとさき


 原爆が落ちた日 2 
それから私達全校生徒は近くの山中に誘導された。避難訓練で何度か来た山だった。その時は図工の時間で、太い孟宗竹を割って肥後守や刳り小刀を使って自分用の竹箸を作ったり、実用的なものをみな器用に作りあげていたものである。しかしこの日は何もする事がなかった。山中は真夏の強烈な日差しからは避けられたが、ひそひそと仲良しのグループに塊って不安げに囁き交わすだけであった。じゅくじゅくと露を含んだ腐葉土が堆肥の匂いをさせて鼻について居心地が悪かった。気が付けば辺りは夕暮れのように薄闇に包まれていた。

一人の地元の子がご注進に回ってきた。先生達の話している傍を通ったら聞こえたという。長崎市に新型爆弾が落ちたらしい。私と同様、両親と離れて一人親戚の家に疎開している子が泣きそうになった。家は造船所の近くの稲佐にあるという。「あぁ、やられたかも知れないね」。私自身も両親が気になって慰めるより不安が口をついて出てしまった。見て!誰かが指差した方を見ると頭上から少し下がった中空に血の色のような太陽が樹木の隙間から見えた。それからどれだけ森の中に居ただろうか、解散して家に帰ることになった。道を通ると敵機に見つかるというので、私達は道なき道をずるずるすべり落ちながら、裸足同然で自宅の裏山に辿り着いた。

自宅では午前中に、祖母がみんなのお醤油や貴重な配給の調味料を届けに来ていた。直ぐに帰らなきゃ心配だと帰り支度をはじめた。夕方になって風向きが変わったのか付近一帯に猛烈な灰が降り注いだ。私と一年生の従妹は庭に飛び出した。燃え残りは何もなかった。完全に灰と化した紙切れの、できるだけ大きいのをと、上空から舞い降りるのを辛抱強く待って両手に集め、灰が崩れないように庇いながら叔母に見せに行った。「まあ!これは戸籍謄本じゃなかね!市役所や県庁に落ちたとしたら長崎市は全滅やねぇ」と呟いた。白い紙切れは真っ黒な灰のまま形を留め、字だけが白い文字となってはっきり読み取れたのである。それからはみんな黙りがちになった。

夜になるとこの高台の家から見下ろす山々の向こうの西の空は、沈まぬ太陽のように茜色に染まり、時々大きな爆発を繰り返しては火の粉を高く舞い上げた。そして直ぐ下の、村へ続く乾いた田舎道には、負傷して長崎市内から逃げてきた人達の蹌踉と歩む姿が見られた。その年、私は10歳だった。