幕末ぶらりんこ 03’ 錦秋編


 この話は「いろんな処ぶらりんこ・会津若松市内」の続きです。

 会津藩史跡巡り(1)(散策日:10月28日)

会津ぶらりんこ・第二日目午前の部を無事終了。甲賀町口郭門跡からまっすぐ鶴ヶ城へ向かって歩いてきました。歴史酒造博物館のところから一旦タクシーで旅館へ戻ったまでは「いろんな処ぶらりんこ」でお話しした通りです。

さて、この甲賀町口郭門跡。若松城・外郭十六門のうちのひとつで当時、外郭門に高石垣を配したところは熊野口、外讃岐口、それとこの甲賀町口でした。建設当初は三基あった石垣は、一基は江戸時代中、東側石垣は、明治4年に甲賀町口郭門の東枡形、郭内の東枡形が取り払われ、現在残るのは西側の石垣のみとなりました。この石垣には、城内から鐘楼が移築され、当時の若松市民に時を告げていましたが、昭和16年、元あった城内に戻されました。(参考:歴史春秋社 小島一男著『会津若松 町名歴史散歩』)

一番右側の写真、ちょうど郭門跡の左側の石垣部分に「蒲生源左衛門尉与力」という文字が、太く刻まれています。これは大正10年に旧会津藩士の町野主水と加藤長四郎が彫ったもので、『町名歴史散歩 会津若松』によると、『新編会津風土記』の文中、西方石垣部分に彫付されていた文字が上の二字落剥により、何を伝えたいのかわからなくなってしまった。どうもその銘文を町野、加藤両氏が新たに彫り付けたようですが、既に文化年間にわからなくなっていた文を、何故そのようにしたかは不明との事でした。



甲賀町口郭門跡

甲賀町口郭門跡・裏側
甲賀町口郭門石垣の刻字


さて、ここからが第二日目・午後の部の始まりです。 旅館を出たのが午後1時20分頃。遅くとも5時半には戻らなければならないので、タクシーでまず、七日町の鶴之江酒造さんまで行きました。鶴之江さんでお酒3本と、お味噌類の購入。そして、七日町通りを阿弥陀寺方面に歩いて行きました。途中、左折。まっすぐまっすぐ行くと長命寺はありました。此処には「長命寺の戦い」等の戦死者145名を埋葬した「戦死墓」があります。会津戦争、城下での戦死者を埋葬したのは、阿弥陀寺とこの長命寺です。やっと来る事ができました。土塀には弾痕が残されていました。(旧土塀は近年修理され、弾痕のあった場所のみが示されている) 本堂、そして戦死墓に合掌。



長命寺本堂

長命寺・土塀(修理後)

戦死墓
鶴之江酒造


融通寺通りをまっすぐ下り左折、しばらく行くと諏訪(諏方)神社がありました。此処は、佐川官兵衛率いる軍が布陣。新政府軍との間に激戦が繰り広げられ、鳥居には当時の弾痕が今も数多く残されています。この鳥居、かなり傷みが激しく、現在は改修工事中。弾痕をじっくり見る事はできませんでした。(下の左の写真、白い鳥居の後方、緑のシートがかぶせられているのが弾痕のある鳥居です。)



諏訪神社
諏訪神社鳥居(弾痕のある鳥居は後方)


そして、鶴ヶ城を目指して歩きます。途中、山鹿素行誕生の地を見学。(日新館天文台跡がこの近くだったようですが、見逃してしまい残念。(涙)) そしてお城の真ん前、旧内藤邸だった裁判所のところに来ました。ここは会津藩家老・内藤介右衛門邸があった場所です。北出丸大通りをはさんで前が西郷頼母邸跡。内藤邸庭園は現在「白露庭」という呼び名で残されています。駐車場で右下の写真のようなものを発見。これってもしかして、井戸の跡では?


山鹿素行誕生の地石碑 白露庭 裁判所・駐車場にあった井戸跡(?)


北出丸に入るところのお堀写真をパチリパチリ。紅葉が綺麗でした。本丸や天守閣などもゆっくり見学したかったのですが、とにかく時間がない・・。(汗) 今回の目的地、三の丸口へ急ぎます。

三の丸口からお城に入り、二の丸東門跡、そして現在は運動施設となっている二の丸伏兵郭・梨子園跡に来ました。会津戦争の際、籠城中、亡くなった人々を埋葬した場所です。あまりに多数の死者、埋葬する場所がないために、死体を城内の空井戸に投げ入れたというエピソードもあります。戦争終結後、藩主・松平容保は降伏式の後、この梨子園跡と空井戸に香華を供え、礼拝の後、謹慎先の妙国寺に入りました。既に午後3時半をまわっている時刻、そして秋の景色が合わさって、なんとも言えない空気を作り出していました。 合掌。



鶴ヶ城・三の丸口

梨子園跡

空井戸跡
鶴ヶ城・北出丸側


そして、三の丸土塁と佐川官兵衛・顕彰碑を見学。(碑の石は、佐川が戦死した熊本県長陽村の石材を使用、平成13年建立。)そして、天寧寺町土塁を見るため、またお城の前の大通りへ。千石通りに出て、天寧寺町土塁を見学、かなり、しっかりフェンスで囲われていました。 


佐川官兵衛・顕彰碑 三の丸土塁 天寧寺町土塁 天寧寺町土塁と説明板


ここまで来て、午後4時過ぎ。あたりはだいぶ暗くなってきました。ここから西郷頼母とその一族の墓のある善龍寺へ行こうと思うのですが・・・。バスが来ません。さすがに3時間近く歩いているので、へとへとになっています。タクシーも全然来ません。(汗) しかたなく千石通りを小田橋方面へ歩いて行きました。途中バス停を見つけ、疲労からボーっと立っていると、バスが停まってくれました。「どうしたの?どこ行くの?」 善龍寺の場所を聞くと、親切にも運転手さんは場所を教えて下さいました。「もう少しだから。あと10分も歩かないよ。」運転手さんの励ましで、私は元気を取り戻しました。(感涙)

小田橋通り、小田橋を越えると、左側に小田山の史跡案内板がありました。慶応4年、8月26日、新政府軍は小田山を占領。鶴ヶ城めがけて砲撃が開始されました。この小田山砲陣地跡、行きたかったのですが諦めました。(涙) 建福寺前にあるセブンイレブンでデジカメ用の電池を買い、善龍寺へ急ぎました。

建福寺の参道の入り口に「河井継之助埋骨地」と書かれた石碑が。「あれ?河井って、確か長岡に墓があるんじゃなかったっけ?」(後日調べましたら供養碑だという事でした。) 善龍寺に近づくにつれ、まったくすれ違う人がいなくなってしまいました・・。(汗) ・・と、変わった門が見えてきました。 善龍寺の山門(唐門)です。

まず、本堂にお参り。本堂左手には墓地が広がっていましたが、どれが誰の墓なのか、まったくわかりません。それに、黄昏時に此処にいるのは私だけ。(汗) なのでご住職宅に一言、声をかける事にしました。 中から奥様が出てこられました。10月初旬に拙サイト・ご常連のずんこさんが、書き込み板までお知らせ下さった北海道・江差の稲倉石にあるもうひとつの「碧血碑」。それを揮毫した人物が旧会津藩士だという事で、その事を調べていて、つい先日、お寺まで問い合わせの電話をいたばかりでした。(この事に関しては、またレポートを書く予定です。)  奥様と、この事についてお話しした後、神保親子(内蔵助&修理)の墓がこの善龍寺にあるという話を何かで読んだ憶えがあったので、その事についてもお訊ねしてみました。奥様がおっしゃるには、「白虎隊」放映後、神保親子の墓を見ようと、多くの人々が訪ねてきたらしいのですが、残念ながら神保家の墓は善龍寺にはないとのお話でした。(修理の墓は東京・白金の興禅寺にあります。) そして、西郷頼母の墓と、「二十一人墓」へ。奥様は足に怪我をなさっていたのにも関わらず、途中まで来てくださいました。左側の段になっているところにある墓地(かなり古い)は、お隣の寺のだとの事。塀があるわけでもないので、言われなければわかりません。(汗) (善龍寺のある)山の墓地と大窪山(会津藩共同墓地)が善龍寺の管理だとおっしゃっていました。お礼を言い、一人、頼母の墓、そして少し山を登ったところにある「二十一人墓」(会津戦争の際、自刃した西郷一族の墓)に参り、合掌。 しかし・・・暗くなった墓地にたった一人・・・。(汗) やはり、気持ちが悪かったです。(汗汗・・) さあ、急いで帰ろうと、門のところまで来て・・、「あ、「奈与竹乃碑」を写真撮るの、忘れてたっ。」 引き返してみると本堂の左奥に大きな碑がありました。「ああ、あそこだ。」と近くに行き、写真を撮ろうとしていると・・・「ザザッ。」 砂利を踏むような音が聞こえ・・。(汗) 「ゲッ・・」 急ぎ写真を撮ると、全速力で善龍寺を後にしました。(汗汗) 

「奈与竹乃碑」の写真は、画像加工して明るくしてあります。



善龍寺・山門
建福寺・参道入り口にある
河井継之助埋骨地の碑
「奈与竹乃碑」


デジカメの電池を買ったセブンイレブンまで戻り、缶のお茶を購入。一服した後、「前の道路って、タクシー拾えますか?」 店員さんに訊くと、「お呼びしますよ。」 ここで午後5時過ぎ。もうあたりは真っ暗です。 今日のぶらりんこはこれにて終了。かなり疲れました。(ふぅ) でも楽しかったです。さて、明日はどこへ・・・と。(話は「会津藩史跡巡り(2))に続きます。)

参考: ・菊地明・横田淳共著『会津戊辰戦争写真集』 ・菊地明編『会津藩戊辰戦争日誌』(以上、新人物往来社) 
          ・小島一男著『会津若松 町名歴史散歩』(歴史春秋社)